時は世界暦五二八年、初夏。
近々五ヶ国会議を開催しようと、五大国各々の首脳が打ち合わせをしていた。
それはいわば前哨戦である。ここで議論する内容を決めてしまい、中身は本番で。
しかしそこにはすでに重い空気が漂っていた。
「…もう限界なのではないですか?」
西国ウィスタリアの席から、中央国エルニーニャの席へ向けて、その言葉は放たれた。
「エルニーニャは前大総統…インフェリア氏の統治時から、その国政が危ぶまれてきた。
軍に反逆するものは後を絶たず、軍が扱った事件の数は増え続けている。
軍が頂点となり国一つをまとめるなど、やはり無理があったのですよ」
エルニーニャの首脳――王国軍大総統ハル・スティーナはその言葉を、唇を噛んで聞いていた。
前大総統の時から犯罪や軍に対する反逆が増加したのは事実だ。何も反論できない。
しかしそれを抑え、その度に対策を講じてきたのもまた事実。
それでも絶えないというならば、軍は国家の統治から手を引くべきだ――ウィスタリア首脳はそう言っている。
だがここでハルが言われたとおりにしてしまえば、危険に晒されるかもしれない人間がいる。
軍に留めておかなければ他のところに利用されてしまうかもしれない者を抱えている。
そんな状況で、この立場をおりるわけにはいかなかった。
「まだ…、まだ対策はできます。それとも、あなた方が知恵を貸してくれるわけにはいきませんか?」
首脳達がざわめいた。
逆に協力を求めるなど、エルニーニャが他国よりも力が弱いことを認めたようなものだ、と。
ハルはもちろんそれを承知だった。
五大国で最も力が大きなエルニーニャという立場を捨ててでも、守らなければならないものが彼にはあったのだ。
「あぁ、貸してやろうじゃないか」
最初にそう言ったのは北国ノーザリアの首脳――王宮直属の外務大臣だった。
しかしその表情は、快いものではない。それでもハルは訊ねた。
「本当に?」
「簡単なことだ。国を解体し、東西南北にその領地を分配してくれれば良い。あとはこちらでなんとかしてやろう」
あぁ、やはりか。ハルはそう思い、拳を強く握り締めた。
元々この会議は、ノーザリア王の代替わりをきっかけにして開かれたものだ。
それをこのように、エルニーニャの情勢へ話をすりかえたのもまた、ノーザリアだった。
一度罪を犯し投獄されていた者を王座に就けた北国への追及が目的だった会議は、いつのまにかエルニーニャ軍を責める場になってしまった。
そこまでならハルも許せた。再び話を元に戻せばいいだけのことだったのだから。
だがここまで侮辱されては、言い返さないわけにはいかなかった。
「そうならないための対策です!エルニーニャが国としていられる方法を、平和な国になるための道を模索しているんです!
それを、解体して分配しろだなんて…なんて暴言を!」
「しかし、今エルニーニャを治めているのは軍だ。軍が反逆によって崩壊したなら、国もおしまいだろう。そうなった時、どう対処するんだね?」
ノーザリア側の魂胆は解っている。彼らは最終的に、エルニーニャへ侵攻するつもりなのだ。
エルニーニャを手中にし、ノーザリアが最大国となれば、周囲の小国もついてくる。支配領域はどんどん広がる。
そのために、かつて第二次ノーザリア危機を起こしかけたイース・イルセンティア・ダウトガーディアムを王にしたのだ。
前王を崩御させてまで――これは推測でしかないが、一部の人々は、前王は病死ではなく殺されたのだと噂していた――。
「崩壊なんて、そんなことにはさせません。必ず…」
「ではエルニーニャは、その対策を。それからノーザリア、あなた方の王についても、もう少し議論が必要なようですね」
結局、話を修正してくれたのはサーリシェリアだった。その後イリアがノーザリアの追及を再び始め、会議は振り出しに戻る。
五ヶ国会議開催の決議は、まだ少し先になるだろう。
それまでに何度、こんな会議を重ねれば良いのか。
休憩を挟みながらであったが、その日の会議は長い時間をかけて解散にたどり着いた。
後日、再び話し合おうと締めくくって。
三国が先に退場し、残った二国――エルニーニャとノーザリアは、再び睨みあう。
もちろん表面上は、穏便に話を進めていた。
「先日お話した、友好大使の件だが」
ノーザリアは、実はすでに先手を打ってきていた。
友好大使をエルニーニャに送るという名目で、堂々と国内へスパイを潜り込ませようとしている。
しかし、ハルはそれを受けた。
「えぇ、是非いらっしゃってください。こちらからも派遣いたします」
「そちらから?いやいや、それは必要ないでしょう」
「…そうですね。彼はこちら出身ですし、両者を結ぶ適切な人間でしょうね」
そして、こちらからは人を送らないことにもホッとしていた。
こちらの人間が今北へ行けば、何をされるかわからない。軍人である前に国民である者を、危険にさらすわけにはいかない。
それが不平等で、こちらに不利な契約であるとわかっていても。
ただ、完全にこちらに分がないというわけでもない。友好大使を名乗り出たのは、ノーザリア軍に属しながらエルニーニャ出身である人間なのだから。
それに、彼とは縁が深い。今は彼を信じるしか、エルニーニャを他国の脅威から、そして国内の反逆者から守る手立てはない。
「それでは約束通り、ひと月の後にお願いします」
核兵器の公表も人間兵器の利用も、選択してはいけない選択肢。
ならばここに、もう一つの可能性を加えるしか術はない。
夏とはいえ、暑すぎず風も吹いている。そんな爽やかな日。
少女は父に連れられ、エルニーニャ王国軍中央司令部を訪れていた。
そこは彼女にとって憧れの場所だった。
かつては父が、そして今は兄がそこに、軍人として勤めている。
そうして国の安全のために日夜戦っている、と少女は考え、いつか自分もそうなりたいと思っていた。
「お父さんは大総統閣下とお話してくるから、できるだけ大人しく待ってるんだぞ」
「うん!」
父が大総統室へ向かう。その間、彼女は自分ができる限り「大人しく」待っていなければならなかった。
しかし彼女は生まれてこの方、いや産まれる前から、大人しいと言われたことは一度もない。
父から離れてすぐに兄を探しに行くのは、彼女にとってまだ「大人しい」の範疇だった。
おかげで司令部の人間は、彼女の顔を覚えている。彼女がよほど危ないことをしない限りは止めない。
彼女の兄がいくら頼んでも、行動はほとんど黙認されるまでになっていた。
だから突然襟首を掴まれた時、すぐにその人が初対面であると解った。
「…わっ?!だれ?」
「君こそ」
少女の襟首を掴んだ人物は、見慣れない服を着ていた。
この国ではテレビのニュースくらいでしか、その服を見ない。
グレーの布地に、金の肩章、そしておせじにも似合うとはいえない帽子。
彼女は変だと思いながらもそれを口にせず、代わりに自分の名前を告げた。
「わたし、イリス。イリス・インフェリア!」
第三休憩室は、現在尉官の溜まり場になっている。
尉官といってもその中のごく一部。この軍ではよくレガート班と呼ばれる小グループに属する者たちだ。
彼らは休憩時間になるとここに集まり、チェスを楽しんでいた。
「…うそ、負けた」
絶望的な一言を発したのは、レヴィアンス・ハイル少尉。チェスでは負けることなどなかった…はずだった。
「レヴィ君が?!」
「本当だ…こんなことってあるんだな」
傍らで試合を見ていたアーシェ・リーガル准尉と、ルーファ・シーケンス中尉もその状況に驚愕する。
どう見ても、レヴィアンスのキングには逃げ場がなかった。完全な敗北だ。
「これ、嵐でも起こるんじゃないか?」
「酷いなぁ、ルーも皆も…僕が勝っちゃいけないの?」
彼らの反応に少し膨れて抗議する勝者、ニア・インフェリア中尉。
五年もレヴィアンスとゲーム盤を挟んで向かい合ってきて、初めて勝ったのに、誰も祝福してくれないなんて。
「あまりにも珍しかったから…ごめんな、ニア」
「仕方ないからボクも認めるよ。ニア、ごめん」
「おめでとうじゃなくてごめんだなんて…」
「びっくりしちゃって言葉が出てこなかったのよ。私も謝る…じゃなくて、おめでとう」
試合の結果は見たこともないものになったが、いつもと同じようにわいわいと騒ぐ四人。
五人だったり、もっと多かったりするときもあるのだが、今日は仕事で外に出ている者も多い。
司令部に置いていかれ、退屈なデスクワークに興じさせられていた彼らには、これがいいストレス解消になっていた。
そこへ聞こえてきた、扉の向こうの声。
「ここ!ここにおにいちゃんたちいるの!」
ニアには聞きなれた、子どもの高い声。深く溜息をつきながら立ち上がる。
ここに来たら父親を大人しく待っていろと、何度言ったことか。
ドアを開け、用意していたいつもの台詞を言う。
「こら、イリス!また父さんから離れて…」
しかし、最後までは言えなかった。
妹のイリスだけが、もしくは付き添っていたのが司令部の人間なら、このまま言葉を続けることができた。
しかしそこには、実際に見ることはそうそうない軍服を着た男性がいた。
ただの客なら、すぐに謝罪を述べて応接室へ案内することもできただろう。
だがニアはそれすらもできなかった。ニアだけではない。そこにいた誰もが、そこにいた人物を見て何も言えなくなっていた。
「…元気そうだな」
彼がそう言って、漸くニアがその名前を口にする。
「ダイ…さん?」
「久しぶりだな、ニア。背がかなり伸びたじゃないか」
頭をくしゃっと撫でられる。いや、表現としては押さえつけるといった方が正しいか。
それでもニアは、笑顔だった。
「ダイさん、お久しぶりです!」
四年も見ていなかった元上司ダイ・ヴィオラセントの姿に、ただただ感動していた。
ニアの後ろで小さく、ルーファとレヴィアンスの言葉が重なった。
「嵐だ」
突然のことに、どう反応したらいいのか分からない。
アーシェも含め、そこから動けなかった。
見回りから戻ったグレイヴ・ダスクタイト少尉が彼に発した第一声はこれだった。
「…どういうこと?」
そこにいたダイ以外の人々(事情を知らないイリスは除く)は、彼女の言葉が「おかえり」であることを期待していた。
しかしこれで、ダイの恋人という立場にいるはずの彼女すらも、彼の来訪を知らなかったことが判明した。
「グレイヴ、それ今俺たちが一番訊きたい」
「グレイヴちゃんまで何も聞いてないなんて…」
「聞いてないし、今は来られる状態じゃないはずよ!」
声を荒げたグレイヴに、イリスが怯えた表情を見せる。ニアは妹を膝に乗せ、申し訳なさそうにグレイヴを見た。
「…あ、ごめん。イリスもいたのね」
「ううん、グレイヴちゃんの言うことは正しいから…」
つい先日、ニアが誕生日を迎えた日に、話したばかりだった。
ノーザリアの情勢が不穏で、エルニーニャとの国交にも不安があると。
それなのに前ノーザリア軍大将の片腕であったはずのダイが、こんなところに来られるわけがない。
グレイヴが来るまでに発せられた「どうして」は全てごまかされていた。
知っているのは、知らなくても問い詰められるのは、グレイヴだけだと思っていたのに。
彼女にダイが返した言葉は、こうだった。
「グレイヴ、また美人になったんじゃないか?」
再び話をはぐらかし、グレイヴの怒りまで誘う。
ニアはイリスを連れてそこから離れ、レヴィアンスもその後に続いた。
直後、
「ふざけてんじゃないわよ、バカ!!」
「グレイヴちゃん、落ち着いて!」
「ダイさん、真面目に答えてください!」
「俺は真面目に褒めたつもりなんだけど」
「そこじゃない!もっと重要なとこ!」
と、第三休憩室は一気に戦場と化した。
「やっぱり嵐だ…」
「そうだね…」
溜息をつくニアとレヴィアンスが再びその場所に戻れたのは、それから二分後のことだった。
休憩時間はもうすぐ終了してしまうので、ダイから一言引き出せるかどうか。
「どうしてここにいるの?」
この質問に答えてもらえなければ、彼らは悶々としながら仕事に戻らなければならない。
それを解っているのか、ダイは漸く簡単に事情を話してくれた。
「発表は明日になるが、ノーザリアからエルニーニャに友好大使を送ることになっていたんだ。
それが俺だ。これから暫くはこっちで生活することになる」
最初からそう言ってくれれば、あんな騒ぎにはならなかったのに。
理由が判って漸く、ニアとアーシェ、グレイヴは安堵した表情を見せる。
同時に、ダイがエルニーニャへ戻ってきたことを素直に喜ぶことができた。
「どうして一言連絡してくれなかったのよ」
「守秘義務ってやつだ。電話の時はお互い一般人として話してるだろ」
「…そうね。それなら仕方ないわ」
「いつまでいるんですか?」
「さぁな。その辺明確じゃないんだ」
その和やかな会話から一歩引いて、レヴィアンスは眉を顰めていた。
それに気付いたルーファも、笑顔を作ることはできなかった。
ニアたちが仕事に戻った後、ダイは本来行くべきだった場所へ足を運んだ。
四年も離れていたのに、迷うことはなかった。まるでこここそが自分のいるべき場所であるように、真っ直ぐにたどり着く。
しかし大きく頑丈な扉の前で告げなければならないのは、自分が他国の軍人であるという事実だ。
「ノーザリア王国軍准将ダイ・ヴィオラセントです」
それを肯定するように扉は開き、彼を迎える。
室内にはエルニーニャ王国軍大総統ハル・スティーナと、その補佐であるアーレイド・ハイル大将。
そして特別顧問として呼び出された、カスケード・インフェリア前大総統がいた。
「…久しぶりに見た中央司令部はどうだった?」
ハルは一度ダイを迎えに行ったのだが、彼に配慮し先に大総統室へ戻っていた。
かつての仲間にも会うかもしれないと、良かれと思ってやったことだった。
「…どうかしていますよ。これから敵になるかもしれない人間に、司令部内を自由に歩かせるなんて」
だが返ってきた言葉は、元エルニーニャ王国軍としての言葉ではなかった。
ノーザリアの准将として、ダイは返答した。
ならばハルもそれに応える義務がある。迎えに出た時の他人行儀な表情と言葉で、彼に言った。
「客人を蔑ろにしてしまい、大変失礼なことをした。…改めて、ようこそエルニーニャ軍へ」
その握手は、友好の印なんてものではない。開戦の合図だ。
友好大使発表は明日の朝九時。その時から中央と北は互いに相手へ向かって進み始める。
できれば砲撃開始前に、武器を使わず決着をつけたいところだ。
「何故、友好大使なんかになった」
前大総統が問う。
「ノーザリアとエルニーニャの両方に顔が利くのは、俺しかいません」
北の准将は当然の答えを返す。
「それが結果的に、自分の家族を裏切ることになってもか」
「友好のために来ているんです。どう裏切れと?」
あくまでもしらをきる。表面上は「友好大使」でい続けなければならない。
両者ともその立場をスパイと認識していてなお、「友好大使」という仮面を取り繕い、それを維持する。
暫くはこうして、偽りの付き合いをしていかなければならない。
「今日はもう帰ります。明日の発表まで軍には来ません」
「滞在は、実家に?」
「…そうですね、今となっては実家だ。そのつもりですよ」
断定しない言い方に、前大総統、いや、カスケードはまさかと思った。
「連絡していないのか?」
「エルニーニャでこのことを知っていたのは大総統閣下と、父だけです」
「ディアは、何て?」
「戦争なんかしに来るんなら、帰ってくるな…と」
カスケードも、ダイの来訪は先ほど聞かされたばかりだった。
道理でディアから連絡がなかったはずだと、これで漸くわかった。
こんなに真実を隠さなければならないほど、事態は深刻なのか。
「頼みがある」
「何ですか?」
「アーシャルコーポレーションの遺産についての公表と、ニアの持つ力についての報告は、ノーザリアにはしないで欲しい」
「…前者は、大国のトップならすでに全員知っていることですけれど。後者は俺も言うつもりはないです」
この言葉で、カスケードはダイが変わっていないことを知った。
ノーザリア軍の准将としてではなく、ダイ・ヴィオラセントとして、かつての部下を守ろうとしてくれている。
それはハルとアーレイドにも伝わっていて、彼らはやっと硬くしていた表情を崩した。
「それでは失礼します」
「また明日から、よろしく」
これから国がどうなっていくのか――ダイが二国の架け橋となってくれたことは、プラスに働くかもしれない。
彼がダイである以上、そうだと信じたい。
画用紙の上を動き続ける手は軽快で、ニアが上機嫌であることは誰にでもわかった。
この五年、最もニアの近くにいたルーファなら、なおさらのこと。
久方ぶりの元上司との再会が、とても嬉しかったらしい。
しかしルーファはそんなニアを見てもなお、ダイのエルニーニャ来訪を喜べずにいた。
「ニア、ダイさんのことだけど」
「うん?」
ニアは手を止め、画板と鉛筆を傍らに置いた。
それを待って、ルーファは言葉を続ける。
「やっぱり戻ってきたこと…ニアは嬉しいのか?」
「嬉しいよ。だって、ずっと心配だったし…元気そうで良かった」
「そうか…そうだよな…」
「もしかして、ルーってば妬いてる?」
「そりゃ、ちょっとは…って、そういうことじゃなくて」
じゃあ何?と、ニアが笑う。
この笑顔を消してしまうことになるかもしれないのが心苦しい。
けれども今話さなければいけない。明日ではもう遅い。
「ダイさん、どうして戻ってきたんだろうな」
「言ってたじゃない、友好大使って」
「それは今必要なことなのか?これから五ヶ国会議もあるし、第一ノーザリアは今そんなことをしている場合なのか?」
昼間、ダイと別れた後に、レヴィアンスが疑念を打ち明けた。
場の雰囲気が壊れるのを恐れ、ルーファにだけこっそりと。
本当に友好大使ならば、何故こちらからはそのような話が一切出ていなかったのか。
五ヶ国会議を事前に控え、二国が協力するつもりならば、互いに使者を送るべきだ。
この話がこれまで表面化しなかったのもおかしい。
何より王が代わり、国が混乱しているこの最中で、友好大使の派遣などという悠長なことをしていていいのか。
現ノーザリア王は第二次ノーザリア危機の中心にいた人物だ。そこから考えられる、今回の派遣の理由は二つ。
「可能性として、ダイさんが大使なんかじゃなくエルニーニャに追放されたことが挙げられる」
「そんなはず…あ、でもダイさんをノーザリアに呼んだのは、スターリンズ前大将だったっけ…」
カイゼラ・スターリンズは大将の地位を剥奪された。王命に逆らったからと言われている。
ならば同様に、これもダイに対する処分なのではないか。
「そしてもう一つ、…これはあまり考えたくないけど、ダイさんが現王派についたこと」
現王が再び周囲の小国の支配を企んでいたら。そのために邪魔なエルニーニャの調査に来ていたとしたら。
ダイはエルニーニャの敵になる。
「ダイさんがそんなことするはずないよ!」
「俺もそう思いたい。だけど…」
どちらも現時点では単なる想像でしかない。
しかしどちらかが真実であったとするならば、いずれにしてもこの後訪れるのは、ノーザリアとの戦いだった。
「僕はダイさんを信じてる。…その二つの可能性のどちらかが本当だったら、前者の方がまだマシだよ」
「確かめようにも、ダイさんは話してくれないだろうな。今日だって散々はぐらかされたし」
「そんなの分かんないよ」
何とかしてこの疑惑を晴らしたい。
たとえ他国にいても、ダイはニアにとって仲間だったのだから。
明日、もう一度訊ねてみよう。そして彼の口から裏切りの可能性を、そして戦争の可能性を否定してもらわなければ。
出された食事を黙って口に運ぶ。懐かしく、自分の舌に合う味だ。
しかしそれらの感想は言葉にしない。母と目を合わせることすらない。
「…ごちそうさま」
それだけを言って、食器を片付ける。
すぐに部屋へ行こうとしたが、それを弟が止めた。
「兄さん、何か言うことないの?」
ユロウも、ダイが来ることは全く知らされていなかった一人だ。
ダイがこの家に帰ってきたとき、迎えたのは彼だった。
四年も他国にいた兄が何の連絡もなしに突然来て、暫く世話になるとだけ告げた。
その勝手すぎる行動に、ユロウは初めて兄へ直接怒りをぶつけた。
「僕たちがどれだけ兄さんを心配していたか、解らないの?!
ここに来た理由くらい話してくれてもいいと思わない?
それとも説明する口は向こうに置いてきたわけ?」
いつのまにか産みの母にそっくりになった瞳で睨む。
それを見たくなくて、ダイは弟の手を振り払った。
「お前、うるさくなったな」
「兄さん!…ふざけんなよ、馬鹿兄貴!!」
背中に拳をぶつけようとしたユロウの手を、ダイは即座に振り返って受け止めた。
その顔に表情はない。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
ただ瞳が、目の前にあるものを捉えているだけ。
「ユロウ、暴力は俺の仕事だ。お前のじゃない」
初めての兄弟喧嘩は、ユロウの空振りに終わった。
何も語らない兄の背中を、弟は離れて見ている事しかできなかった。
今はそれしか、できない。
それしか、させられない。
部屋に戻って漸く、ダイは笑みを浮かべた。
弟を受け止めた手を見て、思い出の中の小さな少年がもういないことを実感していた。
「大きくなったな、ユロウ…」
俺や父さんの真似なんか、するもんじゃない。
そのための手じゃないだろう。
両親と離れ、兄も遠くへ行き、彼は独りで四年を過ごした。
養父母がいたとはいえ、ダイがユロウを残して行ってしまった事実は変わらない。
寂しい思いをさせたのだろう。だから本気で怒ってくれた。
でも、ごめん。これからも、独りにしてしまうかもしれない。
自分はエルニーニャにいながら、ノーザリアの軍人として振舞わなければならない。
ユロウ・ホワイトナイトの兄という立場は、四年前にもう捨ててしまった。
訊ねても無駄だ。それを解った上で、レヴィアンスはハルを問い詰めた。
しかし彼は母としても大総統としても、答えることはなかった。
「ダイさんが来ることがいつ決まったのか、それくらいは教えてくれても良いんじゃないの?」
「駄目。大体、それを訊ねることは立場の乱用だよ、レヴィ」
公私混同は厳禁。上司と部下として、親子として、守らなければならない約束。
互いの立場を守るために必要なことだったが、それを無視してでも知りたかった。
「ボクたちにだって、心の準備は必要だよ…」
これから起こるかもしれないことに、できるだけ冷静に向き合いたい。
そのためにはたった一言でも、真実だと信じられる言葉が欲しかった。
だが、ハルは何も答えない。
「早く寝なさい。明日は早いよ」
大総統として、母として、その両方の立場を全うする。
「…わかった、諦めるよ。おやすみなさい」
どうすれば真実を知ることができるのか。
事態が悪化してからなんて、遅すぎるというのに。
腫れた頬を冷やすための氷嚢が二つ。
一つは父に、もう一つは兄に。
顔を合わせるなり殴り合いを始めた親子に、ユロウは何も言えなかった。
母ですらも、それを止めようとする時以外は一言も喋らなかった。
やっとユロウができたことは、打撲傷の処置くらい。
「戦争するなら帰ってくるなっつったよな」
先に手を出したのも、この沈黙を破ったのも父。
「誰が戦争なんかするっつったよ、クソオヤジ」
やり返し言い返すのは、子。
ダイはここに来る前に、父とだけは連絡を取っていた。それはこの会話からして間違いない。
では何のために帰ってきたのか。――物騒な言葉がユロウの耳に入るが、それは兄がおそらく否定した。
「友好大使なんだから、戦争なんかするわけないだろ」
「何が友好だ。国をぶっ壊しに来たくせに」
「それは否定しないけど」
戦争はしない。でも、国を壊すつもり。
二人が何の話をしているのか、ユロウには解らない。だが、他言してはいけないことは確かだ。
こんなことが誰かの耳に入れば、確実に混乱を招く。
「エルニーニャを裏切るのか」
「もうエルニーニャの人間じゃないよ。かといって今のノーザリアに従う気もない」
「どうするつもりだ」
「こればっかりは、父さんにも言えない」
兄が何を考えているのか、これからエルニーニャがどうなるのか、ユロウには何も分からない。
わからないふりをするしかない。
「父さん、兄さん、痛むようならすぐ言って」
「「痛む」」
「…うん、同時には無理だから、順番で」
自分は何も知らない。何も聞いていない。
だからこれからこの国に起こることが誰の手によるものなのか、言うことはできない。
翌朝、国中にそれが報せられた。
ノーザリアからの友好大使を迎え、国交をより良いものにするという発表。
しかし多くの人がそれに疑念を抱き、軍の突然の決定を批判した。
事前に何も知らされることなく、問題の発生している北国の人間が入り込んでくる。
真っ先に異を唱えたのは王側の人間たちだった。何の相談もない決定、実行を非難した。
次に反対を叫んだのはエルニーニャの文を司る人々――大文卿をはじめとする、軍にも王宮にも属さない権威者たち。
後者は常々、軍の台頭を非難していた。ここぞとばかりに権力交代を声高にし始める。
このような事態になると、ハルもわかっていた。
ここからの動きは慎重にしなければ、北の思惑通り国家は分裂する。
「これからどうするつもりだ、ヴィオラセント准将」
アーレイドの問いにダイは首を振る。
「どうにかするのはエルニーニャですから。俺は何もしませんよ」
今日まで友好大使の来訪を発表しないようにとは、ノーザリア側の提案だ。
ハルは一度それを断ったが、最終的に了承したのは、それがもとはといえばダイの提案であったからだ。
「お前の目的は何だ」
「何でしょうね。でもこれだけは言えますよ」
睨むアーレイドに臆することなく、ダイは不敵に笑んだ。
「俺は常に最善の未来を作ることしか考えていない。
その為に利用できるものは利用するし、必要なら暴動だって起こす」
それらは全て、目的を達成するための過程。
途中で何が犠牲になろうと、結果のためなら厭わない。
「…これでノーザリア王は油断するんじゃないですか?少しは時間に猶予をくれると思いますよ」
彼の言う最善の未来が何なのか、アーレイドには計りかねる。
ハルは解っているんだろうか。解っているから、彼を信じたのだろうか。
「その猶予を最大限に活用するのがボクの仕事。そしてこの騒ぎに乗じて動くかもしれない裏を抑えるのが、アーレイドたちの仕事だよ」
「ハル…お前は何を考えてるんだ?」
「この国が国であり続けるために、ボクは国の頂点でいなければならない。今から軍全体の指揮権はアーレイドに譲る」
問いの答えはもらえないまま。
頼んだよという言葉が、アーレイドの肩にいつもより重くのしかかった。
現実は想像をはるかに超えていた。
追放されたのでも、スパイでもなく。彼の来訪が国全体を揺るがしている。
「ルー、これって…」
「俺も状況が呑み込めない。…レヴィは?」
「分からないから何もできないんじゃないか!」
窓の外は、いつもと変わらない風景。夏の爽やかな天気。
しかしその上空では、暗雲が立ちこめ稲妻が光る。
「グレイヴちゃん、ダイさんは…」
「アタシは何も知らないわ。…アイツはいつも独りで勝手に決めて、アタシたちを置いていくのね」
嵐の中に立たされた彼らは、これから行く道を選ぶことになる。
それがどんなに辛い道でも、振り返ることはできない。
「僕、やっぱりダイさんのところに行ってくる!」
「待て、ニア!俺も行く!」
誰が敵で、誰が味方か。
それを決めるのは、彼ら自身。