いつもは楽しいはずの昼休みも、今日は空気が重い。
時折、アーシェやレヴィアンスが雰囲気を変えようと話をするのだが、続かずに途切れてしまう。
それも全て、ルーファから伝えられたダイの言葉の所為。
王派、文派、軍派に分裂しての内乱を起こす。それがノーザリアの為になる。
彼は生まれた国を――エルニーニャを捨てたのだろうか。
このまま本当に、この国はバラバラになってしまうのだろうか。
どれだけ不安を抱えても、今の自分達にできることは何も思いつかなかった。
「内乱か……」
溜息をつくゲティスは、普段は滅多に見られない渋い顔をしていた。
「あの人の考えることは、オレには今でもさっぱりわかんねぇや」
お前はどうだ?と口にせず訊ねる彼に、ルーファは首を横に振って答える。
「向こうで何があったのかは、俺達も知りません。
前ノーザリア王が死んで、投獄されていた人間が新王になって…そんな上辺のことしか分からない」
「なら、余計にわかんねぇな」
国の情勢については、いくらでもうかがい知る手段があった。
しかしダイ個人に何かが起こったとすれば、それは本人の口から語られなければ判るはずもない。
「でも、何か考え、ある。だから、言わない」
「そうね。だけどアイツのそういうところ、アタシは嫌い」
パロットのフォローはグレイヴに斬り捨てられ、また沈黙が訪れる。
四年の空白は思っていたよりもずっと大きく、この国全体を巻き込もうとしている。
国だけではない。小さなレベルにおいても亀裂が生じ始める。
王派か、文派か、それとも軍派か。軍に所属していても、この選択を迫られる。
特にゲティスのまとめるレガート班においては、それが重要な意味を持っていた。
ニア、ドミナリオ、そしてレヴィアンスは、軍家の血をひいている者。
アーシェは文派のリーダーである大文卿家の人間と親しい。
オリビアは王家と関わりの深い貴族の娘。
国の前に、自分達が分裂する可能性は大きかった。いや、おそらくは確実に分かれさせられる。
文派はともかくとして、軍派と王派という壁ができることは間違いなかった。
「オリビアさん、大丈夫でしょうか」
「心配しないで、アーシェちゃん。これは逆に言えば、内部から説得が可能かもしれないってことよ。
私は次期王妃候補だもの、これほど有利な立場はないわ」
そう微笑むオリビアだが、説得は容易なことではないだろう。
大総統が王に代わり政を行うようになってから、この二者間にはずっとわだかまりがあったのだ。
このことが原因で、かつて軍御三家の一つだったゼウスァートは歴史の表舞台から消えた。
「失敗したら、パラミクスも消えるかもよ」
レヴィアンスの言葉に悪意はない。昔自分の祖先が辿った道を、可能性として言っているだけ。
もちろんオリビアもそれは理解していた。
「そうなったら一般市民として意見を述べるだけのこと。私は私にできることを、精一杯やりたいの」
王家と軍の関係が悪化し爆発すれば、国内だけでは片付けられない大問題になる。おそらく諸外国の手を借りなければ解決は不可能だ。
ノーザリアの狙いはきっとそこにある。阻止しなければ、エルニーニャは無くなってしまうかもしれない。
「……オリビアさんがそう言うなら、私もできることがあるよね」
王派にも軍派にも属さない文派もまた、内乱をくい止めるための大きな鍵だ。
アーシェも決心を固めていた。この混乱を沈静させるためならば、いくらでも動こうと。
「ウェイさんと相談してみる。上手くいけば、大文卿と直接話すことができると思う」
「文派になら俺からも訴えられるかもしれない。商家は研究費とか結構出してるんだ」
繋がりとしては弱いけどな、とルーファ。だが、少しでも内乱を回避できるような道を選びたい。
「それじゃ、ボク達は軍で頑張るしかないね!」
「うん。……って言っても、僕達ができることは限られてる。軍御三家は下手なことできないし…」
ニアは軍御三家が動き方を誤ることで、最悪の事態へ導かれることを怖れていた。
しかしそのために一歩も進まないというわけにはいかない。
「ダイさんを問いただしたいけど、僕とレヴィ、それからドミノさんは控えた方が良いね。
僕達ができそうなのは情報収集かな」
持てる力を最大限に発揮しての作戦。
力強い言葉にゲティスは頷く。
「よし、じゃあやってやるか!オレ達でエルニーニャを護るぞ!」
そして最後には、また皆で笑い合おう。
これまで何度も苦難を乗り越えてきたじゃないか。
ニアは心の中でそう唱え、ずっと消えない胸騒ぎを収めようとしていた。
時計の針が就寝時間を示そうとする頃、部屋の電話が鳴った。
すでにうとうとしかけているニアの代わりに、ルーファが受話器をとる。
眠そうな声でごめんねと言うニアに笑顔を返しながら、電話の相手に意識を向けた。
「もしもし?」
「あぁ、ルーファか?ゲティスだ」
「どうしたんですか、こんな遅くに」
「ん……まぁ、ちょっと厄介なことになりつつあるんで、連絡をな」
ルーファが出たのはちょうど良かった、とゲティスは言う。
ニアに直接言うことが憚られるような内容なのだろうかと、ルーファは息を呑んで耳を傾けた。
「昼間言ってた作戦、あれ実行できないかも」
「どういうことですか?」
「予想以上に早く事が進んでる。オレとパロットはレジーナを離れることになりそうだ」
王宮、文派、そして軍はいずれも首都を中心としている。この三派が争うとなれば、その動きは当然首都から始まる。
そして首都がその機能を充分に果たせなくなった時を好機と見る者達が存在する。
裏社会で悪事を企む輩や、エルニーニャに統合されたことを納得していない旧小国の人々だ。
ゲティスとパロットの故郷は、首都に反発する旧小国だった。
「もう首都がやばいって話が向こうに届いているらしい。オレたちは様子を見に行ってくるから、少しの間軍を離れる。
それで後のことをドミノに頼もうとしたんだけど…」
ゲティスとパロットがいなければ、レガート班のトップはドミナリオになる。
しかし彼をあてにすることは、どうやらできなくなってしまったようだ。
元々ドミナリオは好んで軍人になったわけではない。家の方針だったから、これまで軍にいたのだ。
今回の事態で、ドミナリオの父が「軍派としてしっかり行動するように」と念を押してきたのだという。
だが彼はそれを拒否した。
「ホリィの話によると、ドミノは大文卿側につこうと考えているらしい。多分軍を辞めることになるだろうな」
「そんな…」
「そしてオリビアちゃんは言わずもがな。王宮側も動き出したみたいで、明日からあの子は王派の人間だ」
皆バラバラになってしまう。作戦上役割を分散する手筈ではあったが、これほど早いとは思っていなかった。
返す言葉の見つからないルーファに、ゲティスは続ける。
「ホリィは軍に残るから、班のトップはアイツになる。そして二番目は……解るな?」
「階級からいって、俺とニア、ですね」
「ニアは中尉になったばかりだ。だからお前がホリィを補佐することになる。
もっと言うと、ヴィオラセント准将を敵だと割り切れるお前が、班を引っ張っていかなきゃならない」
ゲティスは、そしておそらくパロットも、ダイは敵方の人間であるという見方で行動するようだ。
きっとダイ本人がそれを望んでいるから、ここはそうせざるをえないのだろう。
それでも彼を信じようとするニアや、お人好しのホリィでは、それができないかもしれない。
今自分達は、エルニーニャの為に動かなければならない。ダイが内乱を起こそうとしているのなら、それを阻止しなければならない。
「ダイさんの望みどおりにって……結局のところ、ゲティスさんたちも信じてるんじゃないですか」
「そうだな。だって、あの人は自分の得にならないことは絶対しないだろ。
この国にはあの人の家族がいて、恋人がいて、あんなに可愛がってた後輩がいるんだ。それを壊して何のメリットが?」
全部パロットが言ってたんだけどな、と笑うゲティスに、ルーファも同じく返す。
「わかりました。ダイさんは敵だという設定で行動します」
「頼んだ」
受話器を置き、振り返ったルーファの目に映るのは、枕を抱えて寝息を立てるニアの姿。
ダイを敵とみなすと伝えたら、ニアはどんな顔をするだろう。
そういうことにするだけだと説明しても、きっと他に方法は無いのかと言う。
形の上だけだとしても、慕う先輩と対立することは避けたいだろうから。
暗い青色の髪を撫でながら、ルーファは小さく謝罪を述べる。
これから強いることによって、辛い思いをさせることに。
翌朝、ホリィから改めて説明があり、レガート班の全員が状況を把握することとなった。
初めて現状を知った者は困惑し、事前に連絡を受けていた者は今後の動きを考える。
「ルーファにも電話あったでしょ?」
「レヴィにもか」
「ボクの場合ちょっとややこしくなるんだけどね。一応ダイさんは軍に友好大使として来てることになってるから。
ボクが大総統の身内である限り、今は表面上ダイさんを敵にしちゃいけないんだ。
そして最終的に全責任をダイさんに被せることにもなるんじゃないかな」
大総統閣下がそんなことするとは思えないけど、とレヴィアンスは腕を組む。
ダイが何を考えていて、大総統が何故それを受け入れているのか。あるいはその逆なのか。
大総統の子であるはずのレヴィアンスがいくら考えても、答えは与えられないし、見つからない。
「レヴィに比べたら、俺の役割は単純だな」
「ううん、ルーファのも難しいよ。やりようによってはボクよりも先にニアに嫌われる役だからさ」
そもそも比べようがないでしょ。そうレヴィアンスが苦笑いを浮かべたところへ、ニアが駆け寄ってくる。
状況の整理がついたようだ。
「ルーが上から数えて二番目になるんだよね?大丈夫なの?」
「あぁ、そうだな……なんとか頑張ってみるさ」
「僕も頑張るから、何かあったら言ってよ」
ニアの言葉に、即座に頷くことができなかった。
ルーファは今まさに、「何か」を抱えていて、それを言えないでいる。
言えばきっと衝突する。これ以上の分裂は避けるべきだ。
「それより、ニアはまず自分の立ち位置をはっきりさせておくべきだと思う」
ニアがルーファの態度を読み取る前に、レヴィアンスが口を開いた。
「元々御三家は動かないほうが良いって話だったけどさ。
ドミノさんが離脱した今、御三家の名前で軍にいるのはニアだけなんだよ」
「うん、わかってる」
「じゃあ確認。ニアは軍人なんだよね?」
鳶色の瞳が、真っ直ぐニアを射抜く。
彼が問うのは所属する派閥のことだけではない。
軍の人間として行動するのか否か。
「……もちろん、僕は軍人だよ」
「うん、それならいいや」
レヴィアンスは頷いて、いつものような笑顔を見せた。
彼が改めて問うた意味を掴みかね、ニアが訊ね返そうとした時。
「レガート班……いや、今はグライド班か」
その声に、全員が一斉に振り向く。
そこにいたのは紛れもなく、大総統補佐官アーレイド・ハイル大将だった。
「少し話をさせてもらう」
「どうぞ」
ホリィの返事に頷き、アーレイドは切り出す。
「三派で揉めてるのは、もうすでに承知のことだろう。だがこれに関してお前達が動いても、何も影響は与えられない。
お前達はこの件に関わる必要はない」
「そんなこと……っ」
もう自分達は巻き込まれているのだから、今更関わる必要はないと言われても。
レヴィアンスが真っ先にそう言い返そうとして、ホリィに止められた。
「レヴィ、大将の言う通りだ。昨日はああしてできることはないかとか話したけれど、これだけ規模が大きい話を下っ端がどう対処できる?」
「でもドミノさんは文派についたし、オリビアさんは王派についたよ?!」
「個人レベルの動きに過ぎない。ドミノが文派についたところで事態が大きく変わるわけじゃないし、オリビアなんか単なる家庭の事情だ。
軍の御三家だって、現役の人間が今トップにいるわけじゃない。オレたちは巻き込まれこそしたけれど、これ以上関わっても何かが覆ることはないと思う」
特殊な立場の人間が集まってはいるが、ここにいるのは全員一介の軍人。国を動かせるほどの力は持っていない。
そんなことができるのは、軍では大総統ただ一人だ。自分達に何もできないのは、当然のことだった。
「……グライド少佐の言うように、お前達が個人で行動したところで何も変わらないのが現状だ。
それよりも、今はこの国の治安が乱れかけていることに目を向けてほしい」
アーレイドの言葉こそが、今本当にやるべきことだ。自分達は軍人なのだから、その役目を全うしなければならない。
軍人として、国の治安を守ること。それが最も重要な仕事であり、今必要なことだった。
「実際にレガート大佐とバース中佐は動いている。ここに残ったお前達の仕事は、混乱に乗じて動き始めた裏社会を取り締まることだ。
大きなものの方が気になるのはわかるが、それで足元に目を向けられないようでは駄目だろう」
忘れかけていたことを思い出させる、柔らかい口調の厳しい言葉。それがじわりと胸にしみていくのを感じる。
踵を返して部屋を出て行こうとするアーレイドを、レヴィアンスが呼び止めた。
「大将、すみませんでした!ボク、大事なことを忘れてました!」
「……わかったなら良い。頑張れよ」
アーレイドは上司として、父として、レヴィアンスたちを励ますような笑顔を浮かべていた。
しかし扉を閉める直前、再び真剣な表情で彼の名を呼んだ。
「インフェリア中尉、ついて来てくれ」
「え……はい!」
突然の指名に慌てて、ニアは躓きながらアーレイドの後を追った。
ルーファは怪訝な表情でレヴィアンスに目配せするが、彼は首を横に振る。
内容は不明だが、ニアだけに何か特別な事情があるということは確かだった。
大総統執務室に、主の姿はなかった。
来客用のソファを勧められ、ニアは静かに腰掛ける。
「僕に、何か?」
「これを見てほしい。昨夜、大総統宛に届いたものだ」
アーレイドはそう言って、ビデオテープをデッキに挿入した。
モニターに荒れた画像が映し出され、少女らしき声が響く。
「大総統閣下、ご機嫌はいかがでしょうか」
鈴のような、高い声だった。可愛らしくもあるそれが紡ぐのは、不穏な言葉だが。
「良いはずはないですわね。国家分裂の危機に瀕しているのですもの。さぞ大変なことでしょう」
椅子だけが置いてある画面の中の風景に、声の主が入ってくる。
栗色の髪をゆるりと巻いた美少女が、笑みを湛えてこちらを見ていた。
「この状況から貴方が解放されるための方法を教えて差し上げましょう。
貴方が大総統職を降り、他の者にその椅子を譲ることです。
ですが、貴方はそれを拒んでいるようですわね。私達はその理由を存じ上げております」
果たしてこのビデオがニアに関係あるのだろうか。
怪しくはあるが、仮にも大総統へのメッセージを、何故ニアが見せられるのか。
ニアはアーレイドを見やる。表情を変えず画面を見つめる彼を確認した時、その言葉は耳に入ってきた。
「貴方が職を辞さないのは、人間兵器であるニア・インフェリアを抱えているから。ですわね?」
その言葉を聞くのは久方ぶりだった。
かつて司令部を壊滅寸前に追い込んだ強大な力を管理する、という建前でニアは軍に所属することを許されている。
本来なら軍人を辞めなければならないはずのことをしでかしたニアを、大総統ハル・スティーナはそうすることで守った。
エルニーニャ軍のトップと、事件に関わるも逃れた裏の人間は、それを知っている。
ニアとそう年が違わないように見えるこの少女が、それをいかにして知ることになったのかはわからないが、彼女はこの事実を提示した。
「荷物は預けて、楽になりたいと思いません?インフェリアをこちらに引渡し、辞職しさえすれば、貴方は楽になれる。
私達裏の者も、インフェリアが手に入れば、暫くは大人しくして差し上げましょう。
返事がなければこちらから迎えに参りますわ。良い決断を期待しております」
ビデオはそこで終わった。アーレイドがデッキからテープを取り出し、もちろん、と切り出す。
「こんな馬鹿げた話は呑めない。ハルが大総統を辞めることはできないし、お前を引き渡すなんてもっての外だ」
テープの中身を引っ張り出し、二度と視聴ができないようにしてから捨てた。
「だが、こいつらが何をしてくるかわからない。用心しろ」
「……はい」
国家が混乱しているこの機を狙い、裏は再びニアを狙ってきた。彼らはニア本人ですら制御しきれるかわからない力を欲している。
治安を守ることを考えろとアーレイドは言ったが、ニアは自分自身を守ることを最優先にしなければならない。
もうあんな思いはごめんだ。
「一人での行動は避けろ。何かあったらすぐに報告すること」
「わかりました」
敬礼を返しながら、ビデオの少女の言葉を思い出す。
荷物は預けて、楽に。自分はずっと、ハルにとって荷物だったのか。
自分がいる為に、大きな責任を負い続けていたのか。
もしも僕が、あの時軍を辞めていたら。
そんな考えがニアの胸を締め付けていた。
戻ってこないニアが気になり、ルーファは何度もドアに目をやる。
ニアだけが呼ばれるような事情など、彼の父か、彼の持つ力に関係するものくらいしか思い当たらない。
――ニアが傷つくような内容でなければ良いんだけど。
巡る不安がルーファの足をドアに向かわせ、手に開けさせる。
行き先は多分大総統執務室だ。中に入れなくとも、扉の前で待つくらいはできるだろう。
目的地へ向いたルーファの爪先を、しかし後方からの声が止めた。
「ニアのことが心配なのか?」
振り向くと、そこにはノーザリア軍の制服に身を包んだ青年。ルーファは眉を寄せて、ダイを見た。
「ダイさんには関係のないことです」
「そう言うなよ。せっかくニアのことを教えてやろうと思ったのに」
口角を上げて笑うダイだが、その目には悪意が宿っているように感じる。
身構えるルーファに、ダイは遠慮無しに近付き、口を開いた。
「裏の奴らがニアを引き渡せと言ってきている」
「どうして……」
「あいつは五年前の司令部襲撃以来、軍のトップと裏の奴らに人間兵器として認識されている。
有事の際の切り札だ。軍は手放したくないし、裏は喉から手が出るほど欲しい。
裏の奴らはビデオテープを使って、大総統に交渉メッセージを送りつけた」
ニアが兵器と呼ばれていることも、裏に狙われていることも衝撃だ。
だが、それよりもルーファが気になっているのは。
「そうじゃなく、どうしてダイさんがそれを知っているんですか?!裏が接触してきてることなんて、俺たちも知らないのに!」
今はノーザリアの軍人であるダイに、この情報が与えられるはずは無い。
たとえ彼が裏に執着していたとしても、エルニーニャ国内の、しかも軍のトップしか知らないような話に関係する事柄を知らされるなどありえない。
「ダイさんはどうやって、その話を知ったんですか?」
「お前はどうやったと思う?大総統を脅したか、それとも……」
ルーファの耳元で、他の誰にも聞こえないように、囁く。
「首謀者だから知っていて当たり前なのか」
飛び退いたルーファの目に映るのは、笑みを湛えたかつての上司。
敵だとみなすなどと言いながらも、ルーファは彼に対する信頼を捨て切れなかった。
しかし、今、再び思考する。
エルニーニャを壊すことは、ダイにとってデメリットしかない――それは本当だろうか。
自分で導いた可能性に、それを覆すものがあった。
ダイがノーザリア現王派となっていたならば、メリットが生まれる。
ノーザリアにいながらにして、エルニーニャに存在するものを管理できること。
それを目的として動くならば、エルニーニャが崩壊してもかまわないのではないか。
すぐに全てを自らの手中に収めることができるのだから。
「どう思おうと自由だ。せいぜい想像力を働かせてみてくれ」
脇を通り過ぎていく彼に対する疑念が渦を巻く。
廊下に立ち尽くしたまま、ルーファは可能性を組み上げていく。
一つの答えに辿り着くように。
大総統執務室を後にし、ニアは事務室に戻ろうと歩き出す。
その間にも頭の中には、唯一つの問い。
――僕の選んだ道は、これで良かったんだろうか。
目指すものがあるから、ルーファとの約束があったから、軍人を続けることを選んできた。
そこに自分の「力」は関係なく、ただ自分の頑張りにかかっていると思っていた。
けれども、それを支える側にはどれだけの負担があっただろう。
実際には、自分には常に危険が付きまとっている。ハルが守ってきてくれたから、これまで自分は無事でいられた。
自分がずっと枷になっていたことで、ハルはどれだけの苦労をしてきたのだろう。
――これが、僕の求めていた未来なの?
――「人を助ける」なんて言って、結局は迷惑をかけているだけじゃないか。
あの時、どうすれば良かったのだろう。
足を止めて、過去を巡らせる。何が最善だったのかを探す。
考えても考えても、その先は見えない。
「ニア君?」
不意に呼ばれた自分の名に、俯いた顔を上げると、アーシェとグレイヴがいた。
「大丈夫?具合悪いの?」
「そうじゃないよ。なんでもない」
心配そうに肩を支えようとするアーシェに笑って見せるが、彼女を安心させるには至らない。
寧ろ余計不安にさせてしまう。
「なんでもないのに、そんな辛そうな顔しないよ。具合悪いなら医務室行こう?」
「本当に大丈夫。ごめんね、アーシェちゃん」
そっとアーシェの手を退け、その場を去ろうと足を動かす。
けれどもそれは震えて、よろけて、今度はグレイヴに支えられる。
「無理しちゃ駄目よ。具合が悪いんじゃなきゃ、何か悩みでもあるわけ?」
また迷惑をかけているな、と思うと、頭が痛くなる。
動けず、言葉も出ないままでいると、アーシェがそっと背中をさすってくれた。
「ニア君、私たちの判断で医務室に連れて行くからね。私たちが勝手にすることだから、気にしないで」
「……ごめん」
「謝らないの。歩ける?おんぶしてあげても良いわよ」
「それは無理があるんじゃないかな、グレイヴちゃん…」
ゆっくりと医務室へ歩みを進める。幸い、ここからそう離れていない。
アーシェがドアを軽くノックすると、開くとともにふわっとした声が返ってきた。
「どうしたの?気分悪い?」
医務室を手伝いに来ていたらしい。ユロウが顔を覗かせ、ニアの姿を見るなりうろたえた。
室内に訪ねてきた全員を招きいれて、処置用のベッドに座らせる。
「貧血ですか?」
クリスが顔を覗き込むと、ニアは首を横に振る。
「ちょっと、混乱しただけです」
「気分が悪くなるほど混乱するようなことがあったんですか」
「……えぇと、」
言ってしまっても良いものだろうか。
自分が悩んでいたことなら、少しだけ話してみようか。
「あの、」
ゆっくりと、言葉を探しながら、ニアは言った。
「僕は、間違っていたのかな」
これまで歩んできた道は、ただ周囲を苦労や不幸に巻き込むだけのものだったのではないか。
自分はたくさんの人に迷惑をかけてまで、軍にい続けてよかったのだろうか。
上手く話せなくて、ぽつりぽつりと、断片的な言葉を繋いでいく。
それを、そこにいた誰もが口出しせずに聞いている。
「あ、……解り難いよね。ごめんね、変なこと言って」
「ううん、解るよ」
誰よりも先に応えたのは、ユロウだった。
「僕、小さい頃から病弱だったから。いつも兄さんや両親に迷惑かけて、情けないなって思ってた。
だけど、案外そう思ってるのは本人だけなんだよね」
遠慮しないで、世話をかけさせて。そう言ったのは養父母だった。
少しは兄らしいことさせろよ。そう言われたこともあった。
迷惑だなんて思ってないよ。その言葉が、不安な時に嬉しかった。
ニアだってそうだ。
「ニア君が軍にい続けてくれたことで、私たちはすごく助けられてるんだよ。だから、間違いなんかじゃないよ」
「ニアが良い子だから、こっちだって世話やいてるの。何があったか知らないけど、そんな後ろ向きに考えるんじゃないわよ」
それにね、とグレイヴが続ける。
一呼吸置いて、いつかの記憶を思い出すように。
「生きてきた道に間違いも何も、ないわ。進んだ瞬間に、他の道はなくなるんだから。
自分で道を選んでいるようで、実はそうじゃないんじゃないかって、アタシは思う」
後悔しても、過去は変えられないんだもの。仕方がないじゃない。
だから大事なのは、今以降でしょう。
そう語るグレイヴも、アーシェも、ユロウも。誰一人として、悩まなかったことなどない。
悩みながら、唯一つの道を来て、ここにいる。
その過程で誰かが苦労したり、傷ついたりしたとしても、それをなかったことにはできない。
「大事なのは、後悔した先。それ以上の後悔がないように、その後の道を行くことじゃないかな」
もしもこれまでの自分の道を後悔するならば、この先のことを考えよう。
次に選んだ道のその先は、きっと最善のものにしよう。
ニアから不安な表情が消える。うじうじ悩んでいても仕方がない。
「ありがとう。……早く自立しなきゃね、僕」
「自立も良いけど、たまには頼りなさいよ」
「頼られると嬉しいもんね」
笑い合うニアたちを、ユロウは兄に思いを馳せながら見る。
――兄さんも、頼ってくれれば良いのに。
その勝手さが悔しいのは、いつだって頼って欲しいのにそうされなかったからだ。
自分がもらったものを返せないことが、辛いからだ。
ダイはイヤホンを外し、ポケットにしまう。
大総統は暫く会議に追われるだろうから、執務室にはほとんど戻らないだろう。
補佐も同様、司令部内を駆け回って、部下に指示を出し続ける多忙な日々が待っている。
大総統執務室に仕掛けた盗聴器は、そろそろ回収してもいいかもしれない。
「……しかし、本当に」
ふ、と笑みがこみ上げる。
ニアのことになると冷静さを欠くルーファに、自分が重なる。
状況を考察し、整理して行動しているように見えて、実はたった一つのことに囚われている。
本人はそれに気付かないのだ。誰かに指摘されても、それを受け入れず突っぱねる。
そういえば、手紙や電話で「ルーがダイさんみたくなってきましたよ」と言ってニアが笑っていた。
「そんなところまで似なくていいっての」
あんまり俺に似るなよ。でなきゃ、取り返しのつかないことになるぞ。
今なら「あなたとは違う」って言い張るんだろうけれど。
せいぜい、お前の選んだその道を、あとで悔やむことのないようにな。
次期王妃候補が実家で最初に確認されたのは、今後王宮の為に尽くすかということだった。
「オリビア、お前は王妃として王を支え、王宮兵として王を護る人間だ。お前の全ては王に捧げられなければならない」
「承知しております。私の全ては……」
しかしオリビアには、王の為に、と言い切れなかった。
自分が護りたいのは、王ではない。大切な人全てを含む、この国。
「どうした、オリビア」
「……いいえ」
王妃として王を支える?いや、それでは足りない。
どうせなら、王と共に国を支える存在になりたい。
これはそのための布石。軍を裏切るわけじゃない。国を一つにするための立場だ。
目指すのは女王。王と同等の力を持ち、単なる象徴としての存在ではなく国を差配できるようになること。
王宮の為に尽くすのではない。自分は――オリビア・パラミクスは、国の為に尽くすのだ。
「私の全ては、エルニーニャの為に」
大文卿は軍を快く思っていなかったが、エスト家を嫌いではなかった。
そもそもこの国の法律の基礎を作ったのはエスト家初代当主であり、現在も過去の貴重な資料を有している家だ。
研究の為にそれらを活用させてもらっているため、大文卿にとってエスト家は軍家といえども大切な協力者だった。
その次代当主が、軍ではなく文派につきたいと直接訪ねてきた。大文卿にとっては望ましい味方だ。
「軍を裏切っても良いのか?」
「元々僕はこちら側の考えを持っていましたから」
淡々と、ドミナリオ・エストは大文卿の問いに答える。
その脳裏には、昨夜の出来事が何度も思い返されていた。
自分が大文卿側につくと言った時、ホリィは止めなかった。
君はどうするの?という問いに、彼は即答した。
オレは軍人やる為にここにいる、と。
ドミナリオ自身が決めたことなのに、ホリィも自分も、自らの意思に従っただけなのに、何故か胸が痛かった。
それを振り切るように、ドミナリオは告げる。
「よろしくお願いします、大文卿」
もう道は分かれたのだ。今更どうすることもできない。
セパル村は視察報告がほとんどあてにならない。
村出身以外の者が行くと、たちまちに追い返される。
村出身の者ならば、身内に甘くなる。
だから現状がどうなっているのか、十年以上村を離れていたゲティスとパロットにはわからない。
ただ、混乱しているのなら収めなければならない。
彼らが首都に反発して暴動を起こさないよう、穏便に。
「パロ、怖くないか?」
「平気。ゲティス、一緒だから」
「……そうか」
自分達がやらねばならない。村を変えるという、その目的の為に軍人になったのだから。
ゲティスとパロットにとって、これはやっと訪れた機会だった。
「対応が遅いわね。ちゃんとビデオを見てくれたのかしら」
栗色の巻き髪を揺らしながら、少女は憮然として言う。
傍にいた中年の男が、無表情で応える。
「大総統は今頃、文派や王派と揉めて忙しいだろう。ビデオの存在すら知らないかもな」
「だったら補佐官がいるでしょう?こうなったら先手を打ってやろうかしら」
少女は中年男の後ろから、その首に抱きつく。そして彼の耳に、そっと囁いた。
「ね、カスケード・インフェリアにはもう一人子供がいるんでしょう?」
「あぁ、まだ小さい娘がいるはずだ」
「その子を使ってニアを釣れない?」
少女の口元が歪んだ笑みを作る。
中年男は溜息を吐いて、部屋の奥に控えていた部下を呼び寄せた。
簡単に指示を出すと、部下はそれを受けて再び奥へ消えていく。
それを見送って、中年男は少女に問いかけた。
「そうまでしてニア・インフェリアが欲しいか」
「そういうわけじゃないの。私にとっては人間兵器とか、正直どうでもいいのよ。ただ……」
ぎ、と下唇を噛み、少女は憎々しげな貌をする。
「インフェリアが幸せになるのだけは、絶対に許せないの」
幾年にも渡る恨みつらみを、今度こそ晴らすために。その為に再びよみがえったのだ。
「あとはこちらで何とかしよう。今日はもう休め、マカ」
「その名前はもう使わないの。今はラヴェンダよ」
部屋の壁際には、クローン保管容器。
かつての悲劇が残した、最後の道。
To
Be Continued...