ニアがレヴィアンスを連れて司令部を離れた頃、残った者は医務室に集まっていた。
イリスが攫われたこと、ニアに裏が接触してきたことはアーレイドから明かされた。
もっと早く言ってくれればと思ったが、過ぎたことを議論しても仕方がない。
行ってしまったニアとレヴィアンスのサポートを考えなければならないが、果たして遠くから何ができるのか。
ホリィが運転手として二人に付き添って行ったので、ここにはアーシェとグレイヴ、そしてルーファしかいない。
しかしその中で最も階級の高い、本来であればこの場をまとめなければならないはずのルーファは。
「……駄目ね」
グレイヴがそう言い捨てたように、落胆から動けずにいた。
ニアの力になれなかった、それどころか拒絶されたことが、彼から気力を完全に奪っていた。
「ルーファ君がこれじゃ、私たちだけでどうにかするしかないよね」
「とはいえ、アタシたちだけで追いかけたところで、何ができるか……」
今の自分たちには情報も力も足りない。
そこで選んだ作戦会議場が、医務室だった。ここには心強い協力者がいる。
ただし、今は部屋を空けている。彼は彼の第一の役割を果たしに行ったのだ。
「まずは、戻ってくる前に整理できるところをしておきましょう」
「そうだね」
裏組織の者と思われる人物から、ニアの身柄を要求するビデオが届いた。
大総統宛てであったそれは、現在代理を務めている補佐アーレイドが確認することとなる。
ニア本人もそれを見て、一度は要求を拒否している。
しかし向こうは引かなかった。今度は妹であるイリスに目をつけ、彼女を攫うことでニアをおびき寄せた。
「ニア君が元気なかったのは、きっと裏からのビデオを見た所為だったのね」
アーシェとグレイヴは、悩み落ち込むニアと話をしている。
そこへ追い討ちをかけるように起こった事件だ。ニアの心は酷く傷ついているだろう。
「ニアが」
ルーファが漸く口を開いた。アーシェとグレイヴが注目しても、顔を上げることはなかったが。
「ニアが狙われていることを、あの人は知ってた。だから俺は、全部あの人が仕組んだんじゃないかと思ったんだ」
「あの人?」
アーシェは首を傾げるが、グレイヴはそこに触れずに促した。
「今もそう思うの?」
「……だって、あの人はもう敵なんだ。何をしてもおかしくはないだろ」
「そうね、元々何をしでかすかわからない奴だし」
呆れたように息を吐くグレイヴを見て、アーシェも覚る。
グレイヴが医務室に行くことを選んだのも、このことに関してはっきりさせるためなのだろう。
「……グレイヴは、割り切れてるのか?」
ルーファの問いに、グレイヴは答えなかった。
言葉に詰まっているのか、それとも言わずともわかるだろうということなのか、ルーファにはわからなかったが。
そしてアーシェにもわからないことがある。
ルーファが、ニアが狙われていることを知ったのはそれを聞いたからだ。
何故ルーファにはそのことが告げられたのか。
情報を渡した本人に直接問いただし、真意を確かめるしかない。
「来たわね」
グレイヴが呟く。廊下から聞こえる足音は二つあった。
医務室のドアを開け、入ってきたのは金髪を束ねた青年。
「待たせてごめん」
「おかえりなさい、ユロウさん」
「連れてきてくれたみたいね」
そして彼がしっかりと握っていたのは、傍らにいるもう一人の腕。
逃げることを諦めたのか、抵抗はしないが、こちらを見ようともしない。
「全て話してもらうわ、ダイ」
「……」
ルーファは部屋に連れてこられた人物を一瞥し、またすぐに俯いた。
ユロウは早い段階で、グレイヴから依頼を受けていた。
「ダイが何を考えているのか、本当のことを知りたいの」
「本当の、こと……」
ダイが帰ってきた日、ユロウは家での不穏な会話を聞いた。そして、忘れることにした。
兄を慕う人々――それは自分も含めて――を心配させまいと思ったからだ。
しかし、ユロウが動かずとも事態は進行し、結局国政は混乱した。ニアたちもそのあおりを受け、ばらばらになってしまった。
「ごめん、グレイヴちゃん。僕が話せることはとても少ない。だから、本人に語らせる」
「そんなことできるの?」
「させる。僕だって、兄さんに一度くらいは勝ってみたいんだ」
ニアたちを元に戻すために、ユロウができることはこれくらいだった。
タイミングを計っていたが、今日になってニアやルーファの様子がおかしくなり、事態が急転した。これ以上先延ばしにはできない。
外へ出ていたダイが戻ってきたところを捕まえた。眉を顰める兄に、ユロウは臆することなく告げた。
「兄さん、エルニーニャに何をしに来たのか、グレイヴちゃんたちにだけでも本当のことを話して」
「今はそれどころじゃない。大体話すこともない」
再び外へ出ようとする兄を、ユロウは追いかけた。
今は夏。日光に当たれば病気が悪化するはずのユロウが日傘も持たず追ってきたことに、ダイは焦った。
「馬鹿、お前は来るな!」
「じゃあ僕と一緒に来てよ!」
ここに居続けるとユロウの体に悪い。ダイは渋々従い、医務室へ向かう途中でイリスの話をした。
ダイはイリスを捜す為に外に出ていて、ユロウはダイを捜す途中でイリスが誘拐されたことを聞いた。
「ユロウは見てないのか?」
「見てない。さっき聞いた話によると、イリスちゃんは誘拐されたかもって」
「……誘拐か」
ダイの表情は、苦かった。
「単刀直入に訊く」
医務室が閉ざされた直後、グレイヴが口を開いた。
今すぐに確かめなくてはならないことが、一つある。
「ダイ、アンタはイリスの誘拐に関わってるの?」
ルーファの肩がぴくりと動く。
彼がダイを睨むのを、アーシェは見ていた。
問いに対し、無表情のまま答えるダイのことも。
「どっちだと思う?」
「まだごまかす気か!? イリスは、ニアは、お前の所為で……!」
「ルーファ!」
怒鳴り、ダイに掴みかかろうとしたルーファをグレイヴが制した。
動きを止めたルーファの背に、アーシェがそっと触れる。
「ルーファ君、冷静になって。ダイさんは、お願いですから正直に答えてください」
戸口にはユロウが立っている。ダイが逃げることはない。
しかし、長く時間を取ることはできない。こうしている間にも、イリスは危険に晒されているのだ。
口を閉ざすダイの代わりに、ユロウが言う。
「ルーファ君、兄さんはついさっきまでイリスちゃんを捜していたよ」
「え?」
ルーファにとって、それはあり得ない。
ダイがイリス誘拐にも関わっているのなら、彼がそこまで捜す必要はないのだ。
「アンタ、イリスが誘拐されたこと……ユロウから聞いて知ったのね」
ダイからの反応はない。
ルーファがさらに問いをぶつける。
「ニアが狙われていることを知っていたのはどうしてだ? お前が関係していないなら、どうやってその情報を手に入れられた?!」
なおもダイは答えない。少しの間があって、今度はアーシェが言った。
「裏からの接触って、ビデオが送られてきたんだよね。ビデオなら、音声だけでもある程度の内容はわかるはず。
ダイさんがそれを聞いていたとしたら、ニア君のことについては知ることができたんじゃないかな」
「……鋭いじゃないか、アーシェ」
アーシェの推理に、漸く返答があった。
全員がダイを見る。彼は微かに笑みを浮かべていた。
「ご名答。俺はこっちに来てすぐ、大総統室に盗聴器を仕掛けたんだ。それだけのことなのに、ルーファはまんまとひっかかってくれた」
「……っ!」
拳を強く握り締めたルーファの手を、アーシェが包んで抑える。
「ルーファ君を惑わせたのはどうしてですか?」
「どうでもいいだろう」
「真面目に答えなさい!」
またもごまかそうとするダイに、グレイヴが詰め寄る。
このことだけではない。彼女には彼に訊きたいことが山ほどあるのだ。
「答えなさいよ」
もう一度、今度は静かに。
するとゆっくり息を吐いたダイの表情から、笑みが消えた。
「……五年前、血脈がどうとかって面倒な事件に関わっただろう」
「それがどうかしたの」
「もう、嫌だろ? あんな面倒くさいことに関わるのは。知りたくもない出自を聞かされて、それに翻弄されるのは」
一体何の関係があるのかと、グレイヴが問いを重ねる前に、ルーファが口を開いた。
「それは、俺たちが決めることだ。勝手に判断するな」
アーシェはルーファの目を見て、彼の手から自分の手をそっと離した。
ルーファはただただ、ダイを見据える。その場から動かずに、相手の返答を待つ。
ダイの唇が、僅かに動いた。「それもそうだな」という形に見えた。
ノーザリア政府が荒れているのは、エルニーニャにも入ってきている真実の情報だ。
大臣らが新しい王を擁立し、好き勝手にやっていることを、ダイも当然よく知っている。
しかしノーザリア軍は王に統帥権を委ねている為、これに反すると国家反逆の罪を負うことになる。
現政府に疑念を抱いたカイゼラ・スターリンズ大将がその地位を剥奪されたことをきっかけに、ダイは賭けに出ることとなった。
まずは同時期、エルニーニャが国家運営に悩んでいたことを把握した上で、大総統ハル・スティーナに交渉を持ちかけた。
「国を壊すこと」――国の体制を変え、新しい形での運営を目指すこと。
それはエルニーニャにとって必要なこと。その過程を、ノーザリアにはいかにも相手を弱体化させるかのように見せる。
エルニーニャに強くなってもらい、ノーザリア政府の企みを阻止すること。これがエルニーニャの「内乱」の真相だった。
「こっちはなんとか三派会までこぎつけられた。あとは大総統閣下の手腕に任せるしかない。
その間に、俺はもう一つの目的を果たすつもりだった」
「もう一つ?」
「どうしても俺の手で片付けなければいけない案件だ。そもそも俺がノーザリアに移籍したのは、危険薬物関連事件の為。今回にも大きく関わっている」
ノーザリア王宮の大臣らの一部が、危険薬物の製造、流通に関わり、私腹を肥やしている。
その事実を知って一度は絶望したダイだったが、間もなく立ち直り、さらに詳細を調査していった。
汚職を暴こうと必死になり、しかしながら確たる証拠を突きつけることはかなわない。
ノーザリア国内だけで動いても、前に進めなかった。エルニーニャの協力が必要不可欠だったのだ。
「ノーザリアに運ばれてくる危険薬物の原料は、エルニーニャで作られているものが多い。だからこそエルニーニャ軍は、ノーザリアに対し引け目を感じていた。
それならエルニーニャでの案件を解決し、ノーザリア政府が関係者であるという証言と証拠を得ることができれば事態は動く」
しかしノーザリア軍に移籍したダイがエルニーニャの捜査状況を知ることは容易くない。まして自分の手で軍を混乱させている。
そこで大総統執務室を盗聴するという行動に出たのだが、それが思わぬ収穫を得ることとなった。
「ニアの身柄を要求してきた奴らは、危険薬物の運び屋だ。奴らのことを調べていたら、あっちからニアに接触しようとしてきて驚いたよ。
もっとも補佐殿はビデオの一部だけしかニアに見せなかったから、あいつがこのことを知る由はない」
盗聴器はニアがビデオを見せられる以前、アーレイドがその内容を確認していたことも捉えていた。その中で、相手は名乗りさえしていたのだ。
「知らないうちに、無理やりにでもルーファに引き止めてもらうつもりだった。ニアにも、そしてルーファにも、この件には関わらせたくなかった」
「自分の事件だからか」
「それももちろんある。加えて、相手の身元だ。運び屋のリーダーである男の名は、ダグラス・アストラという」
それは知らない名前のはずだった。アーシェとグレイヴは、たった今初めて聞いた。
しかしルーファは一人、息を呑む。五年前、その名に翻弄され、――あの時もニアを傷つけた。
「それって」
「お前のおじにあたる人間だ」
ダイは即答する。そこまで調べがついていたから、ルーファを接触させたくなかった。
室内が静寂に包まれる中、ぽつりと落とされたのは。
「だから、突き放そうとしたの?」
「グレイヴ」
「アンタはまた、そうやって……自分だけ悪者になればいいと思って!」
この人はいつもそうだ。そうして置いていこうとする。
それが何よりも許せなくて、何よりも悔しくて。
声を震わせるグレイヴの傍らにユロウが来て、そっと肩に触れる。
「お説教は後で。兄さんが我侭で素直じゃなくて、面倒な人間なのは前からでしょう?」
「ユロウ、お前な……」
「だからさ」
今やるべきことがあるでしょう?
ここまでわかっているのなら、すぐに行動できるはず。
「ダイさん、ニア君たちがどこに行ったかわかりますか?」
「当然」
「だったら、行きましょう!」
アーシェが力強く言う。ユロウ以外の全員が目を丸くしても、構わず続けた。
「裏の動きを抑えるのが私たちの仕事でしょう? 確かな情報を持っている案内役もいるし、ここで動かなきゃ!
……そうよね、ルーファ君?」
「ん……まぁ、そうだろうけど……」
言い返せないルーファから、グレイヴ、ユロウと次々に目線を移して、もう一度ダイに微笑みながら。
「行きましょう」
「……敵わないな」
折れたダイや、まだ複雑な表情のルーファらを横目に、ユロウは電話を内線に繋ぐ。
その先は大総統執務室。
「大総統代理。シーケンス中尉らの出動と、情報提供者としてダイ・ヴィオラセント氏が同行することについて許可をお願いします」
出動準備の為に、寮生は一度自分の部屋へ戻ることになった。
手早く仕度を済ませて、外に集合すること。アーシェはそう口早に言って、医務室を飛び出していった。
それに続いて、グレイヴとダイもその場を後にする。
そうして押し切られたが、ルーファは未だに迷っていた。
一人の部屋で、行動を、言葉を、反芻する。
ダイのことを信じきれない。
ニアには「いなくていい」と言われた。
そんな自分が行って、何ができるというのだろう。
すでにレヴィアンスが同行しているし、アーシェやグレイヴがいれば、イリスを助けることも難しくはないと思う。
相手がアストラ姓の人間であっても、五年も前に決別したことだ。
ルーファに役割はない。行ったところで、きっといらない。
――俺なんかいなくても、解決する。ニアを傷つけた俺なんか。
やっぱり行かずにいようか。いっそ何もかもやめてしまって、ニアから離れようか。
いなくていいなら、その方が。
「随分と仕度に時間がかかるんだな」
思い沈む頭に響く、聞きたくない声。
振り向かずに、言葉だけを返す。
「勝手に入ってこないで下さい」
「下さい、ね。……さっきまで人のことお前とか言ってたくせに」
ダイはそのまま部屋に入ってくる。変わってないな、なんて呟きながら。
部屋の主に断りなく、ニアのベッドに腰掛ける。
「行かないつもりか」
「……あなたには関係ないでしょう」
「ある。何故ならお前が拗ねているのは、俺に原因があるからだ」
「何を堂々と言ってるんですか」
即座に返してしまって、ルーファは「あっ」と思う。
見えてしまったダイの意地悪い笑みから、目を逸らした。
「相手がアストラの人間だから尻込みしたか?」
継がれる問いに、思いを答える。
「俺はルーファ・シーケンスです。もうアストラは関係ありません」
「じゃあ俺と一緒には行きたくない、とか」
「それはあります。あなたのことは敵だと思っていますから」
「何の敵だよ。国のか? それとも、ニアをとられそうになって嫉妬してるのか」
「馬鹿を言わないで下さい!」
思わず振り向いて、目が合った。
もう意地悪い笑みはなかった。そこにあったのは、真剣な瞳。
共にいた頃から、本人には絶対に言わないけれど、ほんの少し憧れていたその目。
「お前が一番怖いのは、ニアに拒絶されることだ」
見透かしたようなその目は、苦手だけれど、いつかこうなりたいとも思っていた。
「俺が余計なことを言って、お前はそれに惑わされた。その結果、ニアはお前から離れていった」
「……そうですよ。だから」
「怖いから行かないのか? お前はそんなに情けない奴だったのか」
返す言葉がない。黙り込むルーファから、ダイは目を逸らさず言う。
「アーシェが言った通り、これはお前達たちの軍人としての仕事だ。遂行しなければならない任務だ。逃げることは許されない」
この道を選んだからには、やらなければならないこと。
そして。
「それから……ニアが好きなのはお前なんだから、お前がいなきゃ意味ないだろ」
ルーファにしか果たせない役割を。
「でも、ニアは」
「あいつ、俺が電話するといつも嬉しそうに言うんだ。ルーが、ルーは、って。
ニアがお前をどれだけ好きか……それを考えたら、お前が行かないなんて選択肢は最初からないんだよ」
行くぞ、と手を引かれる。
振り払う理由なんかない。
「はい!」
過ちを犯したなら、償いをしなければならない。
逃げたりしない。守ると、共に戦うと、決めたのだから。
「でも、ダイさんに説教される筋合いはないです」
「はいはい、そうでした。相変わらず可愛くないガキだな」
集合場所に最も早く来たのはアーシェだった。最初からそこにいたグレイヴを除いては、だが。
「あれ、ダイさんは?」
「ルーファを迎えに行った。張り切ってるわね、アーシェ」
「当然だよ! 何もしないで待ってるだけなんて、私は嫌だもの」
道は分かれたが、自らの意思で動く者がいる。
長年の意志を今こそ貫こうとする者がいる。
軍人としてここに残った自分たちにも、果たすべき義務がある。
「それにね、イリスちゃんはニア君の妹だけど、私たちの妹でもあると思う。
可愛い妹を助けに行かないなんて、そんな選択はないよ!」
何よりも、いつだって無邪気な笑顔を見せてくれた、かけがえのない仲間の為に行動したい。
「アタシもアーシェと同じ気持ち。みんなの妹を絶対に助けるわよ!」
「うん!」
手を叩き合う二人に、足音が二つ近付いてくる。
ここからが、自分たちの戦いだ。
ダグラス・アストラはマカ・ブラディアナについてよく知っていた。
十七歳にして姉を殺害し、その罪を叔父に被せた女。
その類稀なる頭脳が刑務所を出た後に発揮され、裏の技術の中でも最高のものの一つである生物兵器生成に大きく貢献したこと。
彼女が生前、最後に作り上げたクローンが、自分自身だったということ。
しかし、まさか自分がそのクローンと関わりを持つことになろうとは思ってもみなかった。
正確には、マカのクローンがさらに作ったもの――「三人目」のマカだ。
その姿は十七歳の少女でありながら、「一人目」と「二人目」の長い人生の記憶を持っている。
初めに人を殺し、捕まったことも。
あり得ないとされてきた「記憶を受け継ぐクローン」を誕生させ、それを使って軍を混乱させたことも。
彼女が犯罪を起こす原因となり、今に至っても強く想う男のことも。
全て憶えているのだ。
「あぁ、忌々しい」
だから彼女が吐くこの台詞は、「一人目」あるいは「二人目」の記憶によるものなのだろうと、ダグラスは察す。
四肢の自由を奪われて床に倒れる黒髪の少女を、爪先で突きながら、マカ、いや、今はラヴェンダと名乗る彼女は、何度もそう呟いていた。
「この髪、この表情! あの女によく似ている。私からあの人を奪ったあの女に。あの人に私を陥れるよう吹き込んだ、あの女に!」
ラヴェンダが足に力を込める度、黒髪の少女の貌は怯えと苦痛に歪む。
しかし、決して悲鳴を上げることはなかった。
そのことがラヴェンダには不満らしく、先ほどから苛立っている。ダグラスら組織の人間も、何度か八つ当たりを受けていた。
「何とか言いなさいよね。いたぶっても面白くないじゃない。せっかくアヤネの代わりになるかと思ったのに。
やっぱりニア・インフェリアが来るまで、遊びはお預けかしらね」
何を言われても、傷つけられても、口を閉ざしていた少女が反応したのは、その言葉を聞いたときだった。
「……おにい、ちゃん」
それはとても小さな呟きだったが、退屈しているラヴェンダを喜ばせるには充分だった。
「そう、あんたのお兄ちゃん! 軍を滅ぼす人間兵器! ダグラスの話ではかなりの力を持っているようだけど、実際に見てみなくちゃわからないわよね」
「ちがう」
一瞬でも機嫌を良くしたラヴェンダだったが、否定の言葉に眉を顰めた。
黒髪の少女は赤い瞳で、ラヴェンダを睨みつけている。
「ニンゲンヘイキなんかじゃ、ない。おにいちゃんは、おにいちゃんだもん」
「そのお兄ちゃんが一度は中央司令部を壊滅寸前に追い込んだの、知らないの? 人間兵器以外の何者でもないじゃない」
「ちがうもん! おにいちゃんはそんなことしないもん!」
「煩いわね、このガキ! その気持ち悪い眼で見るんじゃないわよ!」
激昂したラヴェンダが、少女の腹へ蹴りを入れる。
呻き、嘔吐する少女をなおも踏みつけようとするラヴェンダを、ダグラスは素早く抑えた。
「ラヴェンダ、やめておけ。ここで殺してしまったら、交渉材料にならない」
「……面倒ね」
舌打ちしながらダグラスの腕を引き剥がし、ラヴェンダはしゃがみこむ。
苦しそうな少女の髪を掴み、静かに語りかけた。
「せいぜい生き延びてね。そうしたら、あんたの大好きなお兄ちゃんと一緒に殺してあげるわ」
首をちょこりと横に曲げ、可愛らしく微笑んで。
さぁ、早くおいで、ニア・インフェリア。
妹と死体を並べて、あんたの親に見せ付けてあげる。
親友だけじゃ足りなかった。もっともっと大切なものを失ってもらわなくちゃ。
「インフェリアの私に対する過ちに、救いなんてあげないんだから」