目覚めた時、全てが夢だったのではないかと疑った。

それくらい、いつもと同じ朝だった。

窓からは朝日が差し込んで、隣には大好きな人がいて、カーテンを開けると青空が広がっていて。

今日も暑くなるかな、なんて思いながら、顔を洗いに行こうとする。

手を掴まれて振り返ると、「おはよう」と言う笑顔があって、自分はこう返す。

「おはよう、ルー」

何度も繰り返されてきた朝から、今日が始まる。

 

 

寮に着いたのは夜中だった。

ぐっすり寝ていたイリスを軍の病院に預け、司令部で待っていた人たちに簡単な報告をして、漸く一日が終わった。

随分と疲れていたはずなのに、案外動けるなとニアは思う。いつも通りに起きて、仕度をすることができるのだ。

「休まないのか?」

ルーファは心配そうだが、大丈夫、と答える。

「色々やることがあるし。報告とか、聴取とか、イリスとレヴィのお見舞いだって行かなくちゃ。今日も忙しいよ!」

「そうだな。でも無理はするなよ」

身支度を整えたら、食堂へ。毎朝のごとく寮生でごったがえしているが、レヴィアンスがいないために少し寂しい。

だから知り合いの姿を見つけたときは、とても嬉しかった。

「ゲティスさんたち、いつ戻ったんですか?!」

挨拶より先に質問が出て、ニアは慌てて謝る。それを笑いながら、ゲティスとパロットは答えた。

「お前たちよりずっと先に帰ってきてたよ。それでも夜だったけど」

「そっち、大変だったって聞いた。お疲れ様」

二人が無事だったことに、ニアとルーファはホッとする。

そこへホリィが、さらに女子寮からアーシェも加わり、いつもより少し寂しい朝食が始まった。

「先に話しておく」

コーヒーカップを置き、ゲティスが世間話でもするかのように言う。

「オレたちの方は無事に片付いた。ちょっと身内で揉めたけどな」

セパル村での一件は、穏便にとはいかなかったが、解決を見た。

年長者を抑え、危険薬物のことを軍に報告し、村には交代で監視をつけている。

ゲティスらも残るつもりだったのだが、村出身の軍人に監視役を任せるわけにはいかないと帰らされた。

元々セパル村出身軍人は、他の者から信用を得られにくいのだ。

「最も重要なのは、村で危険薬物の栽培が行われていたことだ。

あれが村に入ってきた経緯と、収穫されたものがどこへ運ばれていたか……これを今日以降調査することになる」

「でも、パロたちはあまり関われないこと、なってる。……表向き」

パロットの口ぶりからすると、完全に捜査から外されてしまうわけではないようだ。

関係者ということには変わりないのだから、当然といえば当然だが。

「オレたちじゃないと聞き出せないこともあると思うし。んで、そっちは?」

「こっちも今日から調査っすよ」

ゲティスに話を振られ、ホリィが先に口を開く。

イリスが誘拐されたこと、誘拐犯が危険薬物の運び屋であったことを簡単に説明し、多分、と続ける。

「ゲティスさんたちの方もオレらの方も、危険薬物が関わってる。でもって、ダイさんがエルニーニャにいる。

オレらがまとめて報告することを、あの人は望んでるんじゃないかと」

元エルニーニャ軍人で、今回は情報提供者であったダイだが、公式には部外者だ。

今度はこちらが提供する側にならなければ、彼の目的は達成できない。

「あの人には世話になっちゃったし、仕方ない。恩を返そう」

「ルーファ君、偉い!」

「喧嘩してたみたいなのに、世話になったって……何があったの?」

「まぁ、色々と」

ルーファが目を逸らしつつごまかすことに、ニアは首を傾げる。

あのちょっとしたすれ違いが、ニアに始まりニアに終わったことは、彼にはまだ当分わからないままだ。

 

午前中は現場報告書を作成し、午後から聴取に入る。これが本日のスケジュールだ。

今朝のメンバーにグレイヴが加わり、忙しい仕事の時間が始まる。

「ダグラス・アストラについての情報をもらってきたわ。以前から上層部はマークしていたみたい」

グレイヴが広げた資料には、彼の経歴や、関与したと思われる事件について書かれていた。

その中には五年前の中央司令部襲撃もあり、ニアはふと考える。

「もしかして、会ったの初めてじゃなかったのかな……なんか、この人見覚えある気がするんだ」

ダグラスという男を見たときから、ずっと思っていた。どこかでこの顔を見たことがあると。

中央司令部襲撃に関わっていたのなら、納得できる。

しかし、答えはもっと身近なところにあった。

「ルーファに似てるからじゃないの?」

「え?」

グレイヴに言われ、ニアはルーファの顔を見つめる。

そういえば、目元などが似ている気がする。

「だろうな。どうやら親戚らしいから」

あまり長く見つめられると仕事にならないため、ルーファはそう言って切り上げさせる。

「オレの本当の親がアストラっていうのは、ニアも知ってるはずだ。この男はその兄弟にあたるらしい」

「そうなんだ……」

では自分はルーファのおじを斬りつけたのか。そう思うと、胸が痛くなる。

ニアのそんな様子にルーファはすぐ気付いた。

「でも、今は関係ない。それにあの場は仕方なかったよ」

「そうかな……関係なくても、僕は」

「その話は後。今は報告書を作らなきゃ!」

アーシェに遮られ、二人は慌てて書類に視線を戻す。

ダグラスについて確認した後は、その仲間たちの経歴に目を通す。

これで最後というときに、ニアが怪訝な表情をした。

「……あの女の子のは、ないの?」

ダグラスと共にいた、栗色の髪の少女。

これだけ資料が揃っているのに、彼女に関するものは一つもない。

「あの子、クローンだって言ってたでしょう」

グレイヴがもう一つ、他のものとは別にしていた書類を差し出す。

他のものよりもずっと色あせた紙束を受け取り、ニアはめくってみる。

「サイネ……? あの子、ラヴェンダって名前じゃなかった? それにこの資料、古いみたいだけど……」

そこには、今と姿形の何一つ変わっていない少女の写真があった。

しかし名前が違う。さらには、資料の作成日が二十年も前だ。

それらを記した字の形を、ニアはよく知っていた。

「グレイヴちゃん、これは誰が書いた報告書?」

「アンタの父親。……ダイはそう言ってた」

この資料は、今朝早くに、ダイがグレイヴに持っていくよう渡したものだった。

二十年前の冬に起きた、公にはなっていない事件の報告書。公表できなかったのにももちろんわけがあり、この報告書自体も虚実織り交ぜて書かれていた。

当時大佐だったカスケード・インフェリアが報告し、准将だったメリテェア・リルリアが処理した、内々の事件。

詳細と真実は、本人にしかわからない。

「あの子……ラヴェンダは、このサイネのクローンなのか?」

ルーファが訊ねるが、グレイヴは首を横に振る。

「アタシも詳しくは知らない。ダイがこれをわざわざ持たせたのは、ニアが自分で真実を知りなさいってことだと思う」

「僕が、自分で……」

ラヴェンダは運び屋としてのダグラスとはあまり関係がない。彼らのやりとりを思い返すと、おそらく間違いない。

また、人間兵器としてのニアが欲しかったわけでもない。それはニアとイリスを殺そうとしたことからわかる。

真相はもっと深いところにあるのだ。そしてニアは、それを知る必要がある。

「ダグラスの聴取には俺が行く。ニアはそれを確かめてくるといい」

「そうする。お願いね、ルー」

ニアは資料を抱きかかえ、あの少女の言葉を思い出す。

解らなかった言葉の意味も、真実を知れば解るのだろうか。

 

 

昼休みが終われば、すぐに聴取が始まる。

それまでの短い時間、ニアとルーファは軍病院にいた。

「もー、参ったよね。左手使えないから、暫くはデスクワークだってさ」

左腕を骨折したレヴィアンスは、当分外での任務に参加できないことが不満なようだ。

脱臼した右肩はすぐに戻ったが、今後も無理はできないという。

「ごめんね、レヴィ」

「ニアが謝ることないって。それに何言われたってボクは動きまくるからね!」

「今は動くなよ」

満面の笑みで親指を立ててみせるレヴィアンスを、ルーファが小突く。

兄たちの談笑を、イリスが隣のベッドから見ていた。

ニアの服の袖を引っ張り、あのね、と言う。

「レヴィにぃ、もういっぱい動いてるよ。さっきわたしと遊んでくれた」

「そうなんだ。何して遊んだの?」

「おえかき」

イリスが取り出した使用済みカレンダーの裏は、クレヨンで描かれた絵でとても賑やかになっていた。

表情を綻ばせたニアの後ろから、ルーファが覗いて笑う。

「レヴィ、絵下手だな」

「ボクはニアじゃないから、上手くなんて描けないんだよ! そういうルーファはどうなのさ」

「俺もニアじゃないから無理」

「おにいちゃん、上手だもんね」

イリスの楽しそうな笑顔に、ニアはホッとする。

体の傷も、心の痛みも、少しずつ癒していきたい。

彼女を巻き込んでしまった責任と、兄として支えになりたいという思いがある。

「イリス、またお見舞いに来るから、いい子にしてるんだよ。レヴィ、イリスをよろしくね」

「任せといて!」

時間が迫り、名残惜しそうに病室を出て行くニアたちを、レヴィアンスとイリスは扉が閉まるまで見送った。

兄たちの姿が見えなくなると、イリスは寂しそうに俯いてしまう。

午前中も、遊んではいたものの、いつもの元気がなかった。レヴィアンスはそんな彼女の傍に座って、頭を撫でてやる。

「またすぐ来るよ。今はボクがいるじゃん」

「……うん。ニアおにいちゃんも、ルーにいちゃんも、レヴィにぃも……みんなわたしのおにいちゃんだもん。わたしを助けてくれたもん」

イリスはレヴィアンスに抱きついて、小さな声で言う。

「いつかはわたしが、みんなを助けてあげるね」

頼もしい、小さな背中を優しく叩きながら、レヴィアンスは返す。

「期待してるよ」

だから今は、少し休んでいいんだよ。

 

 

ダグラス・アストラは、大人しく聴取に応じた。

その表情には諦めではなく、全て終わって安心したような穏やかさがあった。

「まだ痛みますか」

ルーファが傷の具合を尋ねると、彼は首を横に振る。

「治癒能力者が、まだ働いているんだな。すでに痛みはない」

「あぁ……たまに協力してくれるんです」

今回もラディアが傷を治しに来てくれたらしい。

協力に感謝しつつ、ルーファは聴取を始めた。

質問の一つ一つに、ダグラスは落ち着いて答えた。

その声がどこか懐かしくて、この人とは同じ血が流れているんだ、と意識してしまう。

「危険薬物の運搬をしていたそうですね」

「そうだ。どこへでも運んだ。ここ数年は国外へ運ぶことも多かった」

「国外?」

ルーファが聞き返すと、ダグラスは数秒沈黙する。

こちらを窺った後、その国の名を口にした。

「ノーザリアだ。向こうの軍人が一緒に来ていただろう、話は聞いていないのか」

「……念のため、確認させてもらいました」

その話を掘り下げなければ、ダイに実のある報告をすることができない。

危険薬物は、ノーザリアのどこへ運ばれたのか。この問いに、ダグラスは再び口を閉ざす。

言わなくてもわかるだろう、ということなのか。だが、彼の口からはっきりさせなければいけない。

「どこへ、運んだんですか?」

もう一度訊ねる。

「……ノーザリア王宮政府。大臣らが危険薬物を買取り、売りさばいて儲けている」

「証拠はありますか」

「残さないようにしている」

証言が得られただけでも大きい。隣国での汚職は真実だったのだ。

それからもダグラスは証言を続け、ルーファはそれらを記録していく。

もしも、こんな出会いじゃなかったら。おじと甥として、普通の会話ができただろうか。

そんな考えが頭を過ぎる度、振り払う。

「ラヴェンダさんとは、どういう関係ですか」

「出会ったのは五年前だ。中央司令部襲撃後、あの場所に逃れ……あの地下部屋で、初めてあの子を見た」

少女が入っていたカプセルがクローン用のものだと、ダグラスが理解するのにさほど時間はかからなかったという。

目覚めた彼女自らがクローンであると言い、身元を明かした。

「あの子は、本名をマカ・ブラディアナという。随分昔に、裏で活躍した天才だった。

元の体はすでに死んでいるが、あの子はマカの記憶を引継いでいる」

一息おいて、ダグラスは告げる。

「マカはインフェリアを恨んでいた。その記憶を引き継ぐラヴェンダは、インフェリア家を絶やそうとしていた」

 

応接室で、ニアは父と向かい合う。

間にある机の上には、古い書類が鎮座している。

「俺も、あの子を見てびっくりしたんだ」

カスケードが語りだす。

ラヴェンダ――本名マカ・ブラディアナと、インフェリア家の因縁が始まった時から、順番に。

「最初にマカと関わったのは、俺の祖父さんだった。ニアにとっては曾祖父さんだな。俺と同じカスケードという名で、大総統にもなったことのある人だ」

若かりし曾祖父カスケードは、ある殺人事件を担当した。その犯人が、マカ・ブラディアナという当時十七歳の少女だった。

彼女は刑務所へ送られたが、出所後の生活についてはわかっていない。

だがその間も自分を捕まえたインフェリアを恨んでいたのだろう。

そのことが、まだカスケードが我が子には話していなかった、二十年前の冬の事件へと繋がる。

「あの時、彼女はサイネと名乗った。その時はあの子が全てを仕組んでいたなんて、夢にも思っていなかった」

マカのクローンであるサイネは、十七歳の少女の姿でカスケードに接触してきた。

彼女は自らと同じ記憶を継承するクローンを使い、カスケードらを翻弄させた。

「親友のニアのことは、以前にも話したと思う。……この事件で、サイネはニアをクローンとして蘇らせ、俺と戦わせたんだ」

最終的にはクローンのニアの助けもあり、サイネを捕まえることができた。

だがカスケードが親友を再び失うことになったこの事件は、他にも多くの者の名誉に関わってしまったために、偽の報告書でまとめられた。

「だけど、サイネはすぐに逃げ、それからの足取りは掴めなかった。

クローンは保管用の設備がなければ、すぐに死んでしまうらしい。だから俺たちは、サイネは死んだものと思っていた」

「でも、生きていた……その時と同じ、十七歳の姿で」

「あるいは、あの子が三人目のマカなのかもしれない。まだインフェリア家への恨みを捨てずに、今度はニアとイリスを狙ってきたんだな」

始まりは、とても昔。そしてここまで続いてきてしまった。

ラヴェンダが口走った言葉の意味を、ニアは漸く理解する。

――あんた、もう死んだじゃない!

「……あれは僕じゃなく、ニアさんのことだったんだ」

受け継がれた記憶が、目の前に現れた同じ名前の人間と重なる。

カスケードのときもそうだったのかもしれない。

記憶がラヴェンダを凶行に駆り立てたのだ。

「俺がちゃんと決着をつけられなかったせいで、お前たちが危険な目にあった。……本当に、申し訳ない」

「過ぎたことだもの、仕方ないよ」

頭を下げる父に、ニアは言う。

「これで終わりにすればいいんだ。イリスも助かったし、父さんはもう何も悩まなくていい」

優しく、強い子に育ってくれた。これから、もっと成長する。

ニアが行く道を思いながら、カスケードは顔を上げた。

我が子の微笑みは、いつかの親友を思わせる。いつだって力になってくれた、あの笑顔だ。

「大きくなったな、ニア」

頼もしい仲間だって、たくさんいる。どんなことがあっても、ニアは乗り越えて、もっと遠くに行くのだろう。

そう思ったとき、カスケードの中に一つの考えが浮かんだ。

自分の信条に遵って、まだできることがある。

 

ゲティスとパロットにその報告が届いたのは、午後の仕事が始まって間もなくのことだった。

もっと時間がかかるものと思っていたのだが、意外にもあっさりと証言が得られたらしい。

「アストラがトップか、それに限りなく近い位置にいたためだろうな。頭がいなくなれば、あとはなし崩しだ」

セパル村の年長者たちの話と、誘拐事件に関わった者たちの話。

それらを総合してわかったことは、セパル村で栽培されていた原料をダグラスが運んでいたということだった。

そのダグラスの最大手の客についても、つい先ほど報告があった。

「セパルの他にも、同じようなことをしている土地があるみたいだな。それを潰していくのがエルニーニャの仕事で……」

ゲティスがニヤっと笑い、パロットが報告書を記す手を止める。

この報告書は、この情報を最も必要としている人物に渡すものだ。

「お客を捕まえるの、ノーザリアの仕事」

「だな!」

二人は手を叩き合う。

報告書が完成したら、すぐに渡しに行こう。

 

 

枕もとの時計を見やると、短針が二と三の間を指していた。

自室の窓からは昼間の空が見える。どうやら頭痛は寝すぎたためだと結論付け、ゆっくりと体を起こす。

ベッドから抜け出そうとしたとき、ちょうどドアが開いた。ココアの甘い香りが鼻をくすぐる。

「起きたのか」

「……おはよう、兄さん」

「早くはないだろ」

ダイが差し出したカップを、ユロウは受け取る。

冷えた指に、カップの温もりが広がっていく。それだけで気分が落ち着く。

「具合は」

「頭が痛い」

「不養生な医者だな」

「まだタマゴだよ」

目が合うと、自然に笑みがこぼれた。こんなことはいつ以来だろう。

昔はいつだって、こんな風に笑い合っていたのに。

ダイもユロウも、離れてしまってからの互いを知らないままだ。

互いに変わってしまったと思っていた。けれども、今やっと、変わらないなと思えた。

「随分と無茶な要求をしたんだって?」

「ホリィ君から聞いたんだね」

ユロウはくすっと笑う。

アーレイドの真似をして要求を呑む旨の返事をするようにと、ホリィに指示したのは彼だった。

ニアの相談にのり、走り回ってダイを捜し、大総統補佐に渡りをつけて作戦に参加し。ユロウは動きすぎていた。

ホリィからモノマネ成功の連絡を受けた直後からさっきまで、ずっと倒れていたのだ。

「上手くいったみたいで良かった。みんなはどうしてる?」

「レヴィが左腕折って、ニアの妹が擦り傷と打撲だらけ。それ以外は元気なもんだ」

「そっか、怪我しちゃってたか……」

でも、戻ってこられた。それを確認できただけでも楽になる。

少しばかり安堵したところで、ユロウは兄に重ねて質問した。

「兄さんは、目的達成できた?」

「ほぼ達成だ。あとはダグラス・アストラをノーザリアに移送させてもらえるよう、交渉する」

「交渉じゃなくて脅すんじゃないの? 兄さんの場合」

冗談を言いながら、ユロウは思う。

おそらく、ダイはすぐにノーザリアへ戻ってしまうだろう。一刻も早くノーザリア王宮政府の汚職を暴くことが、彼の仕事なのだから。

しかしその前に、伝えておかなければいけないことがある。

ユロウが帰ってきたダイに苛立っていた、一番の理由を。

「もう一つ、訊いていい?」

「何だ」

ここからは、軽口は無しだ。ごまかしには騙されない、下手な言い訳は聞き入れない。

すう、と息を吸い込んで、どうして、と吐き出す。

「どうして父さんが死んだとき、帰ってきてくれなかったの?」

ダイとユロウの実父であるホワイトナイト氏は、二年前の冬に逝去していた。

それはちょうど、ダイがノーザリア王宮政府の汚職について調査中のことだった。真実を知って間もない、他の事が全く見えない頃だった。

「電話、出てくれなかったよね。自分はグレイヴちゃんに連絡とってたのに。手紙も送ったのに、兄さんからは何一つ返ってこなかった」

ユロウはそのことを知らない。時折グレイヴから、忙しいみたい、とだけ聞いていた。

家族には何も言わず、その死にすら関心を持たないのかと思った。もう兄は兄ではなく、異国の他人になってしまったのかと。

それがどうしようもなく、悔しくて、悲しかった。

「兄さんは言ったよね、いつまでも兄だって! でも、結局父さんの墓すら見に来ない、僕には何も言わない! それがどれだけ……」

どれだけ、辛かったか。それ以上はもう、言葉にならなかった。

カップを持つ手が震える。取り落としそうになるのを必死で堪える。

瞳に映るダイが、歪んで見えた。

「……資格がないと、思ってた」

ダイの口が動く。

「俺は向こうで、酷い失敗をして。それを何とかするのに必死で、他の事に目を向けなかった。

父さんが死んだのを知っても、今の俺じゃ合わせる顔がないって思って、それっきり。

そのままずっと先延ばしにして、そういう自分がもっと嫌いになって、お前の兄を名乗る資格もとうに失ったものだと思っていた」

初めの頃は、言わなくても大丈夫だろうと甘えていた。

時が経つにつれて、何も言う資格はないと言い訳して離れた。

どちらもダイ自身の弱さが生む、家族への甘えだった。

「でも、いざ帰ってきたら……お前は俺を兄さんと呼んでくれた。それなのに俺は、それを受け入れてはいけないと思い込んだ。

弱かったのは俺で、俺が弟に甘えていたんだ」

告白の中で、ダイはユロウを弟と言ってくれた。

他の理由や言い訳なんか、その瞬間にどうでもよくなった。

ただ、ダイが家族を忘れていなかったことが確かめられれば。

「僕は、兄さんの弟でいいの?」

「俺なんかの弟でいてくれるのはユロウだけだろ」

ただ、自分たちが今でも兄弟であると言ってくれれば。

「父さんの墓参り、行くよ。ごたごたを先に片付けなきゃいけないのは申し訳ないけど」

「うん、一緒に行こう。僕、待ってるから。その代わり、すぐに帰ってきてよ」

「秋にまた戻る。約束する」

「絶対だからね」

暫く離れてしまっていた兄弟を、もう一度始めよう。

今度はその絆に不安にならない。不安を持たせない。もっと強く結ばれたと、信じよう。

 

 

アーレイドのもとに三派会閉幕の報せが届いたのは、午後三時を回った頃だった。

「まだ、全部が片付いたわけじゃないんだ。だから三派会を定例化して、少しずつ解決していこうってことになったよ」

電話の向こうで、ハルが言う。

その言葉から、丸一日以上に亘る会議の末に三派が出した結論がわかった。

ハルとダイが目論んだのは、エルニーニャ内政の強化。それはおそらく、成功への道を歩み出すことができた。

「……お疲れ様です、大総統閣下」

アーレイドは心からそう告げた。

ハルがずっと悩み続けてきた国家運営のあり方に、光が見えてきたのだから。

軍、王宮、そして文の、三派が協力すること。

軍は国防、王宮は外交、文は教育と生活にそれぞれ重点を置き、共に国をつくっていくのだということを明確にした。

全てを大総統一人が背負うことなく、また他の柱が国家運営から弾かれることなく、事を運ぶ。

そうして弱い部分をなくしていこうというのが、今回の三派会での決定だった。

「ボク、いつか言ったよね。将来、軍がなくなるかもしれないって。……でも、別の形で残るのかもしれない。

いつだって、ボクらは脅威から大切なものを助ける為にあるんだから」

表情は見えないけれど、アーレイドにはわかる。

ハルは今、久しぶりに、晴々とした笑顔を浮かべているのだ。

やるべきことは何か、担うべき役割は何かが明らかになった。

そして、頼れるものができた。

「まずは、目標五年以内」

「五年?」

「そう。そのうちに、新体制の基礎をしっかりと固める。それから後は、新しい世代に託したい」

まだ始まったばかりだ。これから一つ一つ、問題を解決していこう。

そうして、次世代につなげていく。それがエルニーニャ新政府の仕事だ。

 

「お疲れ様でした」

閉会宣言の後、リヒトがドミナリオに声をかけた。

「上手く事を運べました。ご協力感謝します」

三派会はリヒトらの思惑通りの結末になった。

最も手ごわいと思われていた大文卿は、賢なるものとしての姿勢を保つ為に、また今後の立場の為に妥協せざるを得なかった。

王は他派と同じ位置に立つことをすんなりと受け入れたが、未だにその裏では何を考えているのかわからない。

とにかく、この場は「協力体制」に落ち着いたのだ。そのことにはひとまず安心していい。

「良かったね、望んだとおりになって」

「えぇ、一応は。……でも、これはあなたの望んだ結末ではないのでしょう」

リヒトの言うとおり、ドミナリオは大文卿の「文こそ頂点であるべき」という考えに賛同して、文派についたのだ。

軍の立場を維持したままの協力体制を彼が納得しているかどうかは、リヒトの気がかりでもあった。

「最初は、こんなの望んじゃいなかった」

「そうですよね」

「でも、今は少しホッとしている」

「これで、良かったと?」

「良かったとは違う気がする」

リヒトは首を傾げるが、それがドミナリオの結論だった。

文派についたのは、自分の考えがそれに近いと思ったから……というのは、嘘でもないが完全でもない。

ただ、「軍家としての誇り」を押し付けてくる父に反発したかった。

ところがいざ軍を離れるとき、それが友と道を分かつことだと気付いた。

後戻りできないと思ったとき、友のことが気になった。

この安堵は、きっとそのためだ。

軍に残ったホリィと、王宮に入るオリビア。自分が文派についていても、彼らとの間に上下関係ができるわけじゃないことに、安心したのだ。

「ドミノ君」

いつの間に来たのか、背後にはオリビアが立っていた。

「お疲れ様。気分はどう?」

「悪くない。オリビアは?」

「私もよ。これから三派の関係をよりよくしていけるのだもの」

にこりと笑うオリビアは、王宮の人間としてではなく、普通の少女の顔をしていた。

彼女は右手を伸ばし、さぁ、と言う。

「ドミノ君、帰ろう」

「え?」

「三派会は三派協力という結論を得た。それなら私たちは、積極的にそれに加わるべきだと思わない?」

自分達は三派の繋がりそのものだ。軍と王宮と文を繋ぐ、鎹の一つ。

その役割を果たそうと、オリビアは言う。

「どちらにしろ、私には王家の人間になるという未来が待っている。だから残された少ない時間を、私の思うように生きたいの。

ドミノ君が一緒に軍に戻ってくれたら、私はとても楽しい時間を過ごせると確信してるわ」

国の為に。自分自身の為に。それが一致したとき、迷う理由はどこにもない。

「……君も、大概我侭だな」

ドミナリオはオリビアの手をとった。

「早く、ホリィのところへ行ってやろう」

「そうね! きっと待っててくれているわ!」

リヒトはそんな二人に、もう一度「お疲れ様でした」を告げた。

軍へ戻った二人が、ホリィに「おかえり」をもらうまで、あと少し。

 

 

保管カプセルの中でまどろむラヴェンダを起こしたのは、会った記憶のある刑務所職員だった。

二十年も経てば相応に老けている。しかし、その優しげな表情は変わらない。

「君に面会だ。大切な話があると言っているよ」

今更誰が会いに来るのか。大切な話なんて存在したのか。

面倒だったが、行ってやるという意思表示をし、ラヴェンダはカプセルから出る。

仕度をして、刑務所職員と共に、面会人が待つ部屋へ向かう。薄暗い廊下の先に、オレンジ色の光が見えた。

「お祖父ちゃん、ありがとう」

刑務所職員にそう言ったのは、ダークブルーの髪と海色の瞳を持つ少年。

彼を見たラヴェンダは眉を顰めた。文句でも言いに来たのかと思った。

彼の横に、もう一人背の高い少年がいた。淡いブラウンの髪と瞳は、どこか見知った人に似ていた。

「座りなさい」

刑務所職員に促され、ラヴェンダは傍にあったパイプ椅子に腰掛ける。向かい合った少年らとは、目を合わせないようにして。

「ラヴェンダさん、て呼んで良いのかな」

青の少年が口を開く。

「改めて名乗るね。僕はニア・インフェリア。カスケード・インフェリアの子だ」

「知ってるわ」

「それから、隣の彼はルーファ・シーケンス。僕らは君に大事な話があって、ここに来た」

「罵りにでも来たの?」

ラヴェンダの吐き捨てる言葉を流して、今度はルーファが告げる。

耳に入ったのは、よく知った名だった。

「ダグラス・アストラから、君への伝言を預かっている」

「ダグラス……?」

その男は、ラヴェンダを深い眠りから目覚めさせた人間だ。

ラヴェンダの望みに協力し、自らの取り巻きを動かしさえした。

さらには、自分の腕で刃を受け止め、ラヴェンダの身を守りさえした。

これまで多くの人間を操ってきた彼女だったが、ああして自分を守ろうとし、生かそうとした者は初めてだった。

何故あんなことをするのか、理解できなかった。

「ダグラスは、君を自分の娘のように思っていると言っていた」

これがその答えなのだろうか。このわけのわからない言葉が。

「一緒に過ごすうちに、情が湧いたんだそうだ。……ダグラスには甥がいたが、その子は赤ん坊の頃に孤児院へ預けられた。

君がその赤ん坊と重なって、今度は手放さずに守ろうと思ったらしい」

ラヴェンダがマカと呼ばれていた頃、両親は彼女に冷たかった。

だから彼女には理解できない。娘のように思って、どうして守ろうと思うのか。

しかし、与えられたことがないからといって、求めなかったことはないのだ。

「ダグラスは、君を家族として愛しているんだ。罪を償ったら、君と一緒に暮らしたいと……そう伝えて欲しいと言っていたよ」

たった一言、「愛している」と言って欲しかった。マカだった頃から、ずっと。

どんなに求めても手に入らなかった。それが今、漸く、告げられた。

「今更……」

ラヴェンダの頬を、雫が伝う。

もっと早く、マカとして過ごした少女時代に、誰かがそれを言ってくれたら。

そうしたら、歪んでしまうことはなかったかもしれないのに。

「ダグラスは、近々ノーザリアへ移送されるだろう。そういう要求がきている。彼の償いの期間は、君よりずっと長くなると思う。

君が問われるのは今回の誘拐と傷害だけだから、刑期よりもダグラスを待つ時間の方がきっと長い」

それでも待つ気はあるかという問いに、ラヴェンダは静かに頷いた。

これが自分に与えられる、最初で最後の愛だと思った。

「もう一つ、話があるよ」

ニアの声に、ラヴェンダは顔を上げる。

ずっと恨んできた人と同じ色を持つ少年は告げる。

「ダグラスさんを待つ間、君の身柄をインフェリア家で預かろうと思う」

「え?」

この言葉に、驚愕というだけでは表せないほどの感情が湧く。

憎んで、殺そうとしたのに、何故こんなことを言うのか。

「私に復讐するため?」

初めに辿り着いた答えは、これだった。

預かっている間に、これまでの仕返しをするつもりなのではないか。

「違うよ」

だがそれは否定される。

「正直に言うと、僕は君を赦していないし、これからも赦せるかどうかわからない。

でも、少なくとも父さん……カスケード・インフェリアだけは、そうは考えていない。君に対して責任を持ちたいと思っている」

「責任?」

「自分の関わったものには責任を持ちたい。それが父さんの、軍人としての信条だった」

サイネに対し果たせなかった責任を、ラヴェンダに対して果たしたい。

もちろんラヴェンダ次第ではある。実際彼女は、恨みを持っていた者の世話になることに我慢できないと思っている。

しかし、出てきた言葉は拒否ではなかった。

「……考えておくわ」

答えは今すぐに出さなくてもいい。いつか来るその日までに、気が変わるかもしれない。

そのときの自分が、拒否するか受け入れるか。

世話になろうと思うか、入り込んで壊してしまおうと思うか。

今は少し混乱していて、考えることができない。

わかるのは、それらの話が、その時までラヴェンダが生きていることを前提にされているということ。

 

拘置所からの帰り道、ルーファがぽつりと呟いた。

「本当の両親の話、ダグラスから聞いたんだ」

ニアは黙って頷いた。それを確かめて、ルーファは続ける。

「子どもができて、とても喜んでいたって。けれど、裏の人間として育てたくなかったって。

日のあたる場所で堂々と生きて欲しいと思って、俺を孤児院に置いていったらしい」

ルーファの父であった人は、ダグラスの弟だった。愛する人と結ばれ、子どもを授かった、ごく普通の男だった。

しかし彼が裏に生きるアストラの人間だったことだけが、重い枷になっていた。

この枷を子には科したくない。その思いで、泣きながら息子を手放した。

「軍人になって、自分たちを捕まえてくれたらいいなんて……そんな冗談まで言ってたって。

それなら最初から、裏なんか抜けて、日の下で生きればよかったのに……」

捨てられたんだと思っていた。そうでなくても、手放したことにはかわりないと、そんな人たちを親とは呼べないと思っていた。

自分の親は育ててくれたグレンとカイだけだと、ルーファはずっと思っていた。

「ルー、良かったね」

だが、このニアの言葉が全て。

「お父さんとお母さんが、ルーを愛してくれていたことがわかって、良かったね」

その形はルーファの望むものではなかったが、確かに彼らは、ひとり息子を愛していた。

その愛があったからこそ、今のルーファがある。

「……そうだな」

「それとね」

ルーファの指に、ニアのそれが絡む。

きゅっと手が握られて、軽く引かれた。

「僕も、ルーのこと愛してるよ!」

夏の夕暮れに、ニアの笑顔が輝いている。

目を丸くしてから、微笑み返して、

「俺もニアを愛してるよ」

そう返事をした。

 

 

昨日は大立ち回り、今日は報告書の山。

忙しい日々の疲れをシャワーで流し、一息つく。

アーシェが髪を拭きながら部屋に戻ると、ちょうどグレイヴが受話器を置いたところだった。

「グレイヴちゃん、シャワーいいよ」

「あぁ、ありがとう」

オリビアから明日には戻ると連絡があった。

それを早く報告したくて、アーシェはグレイヴを泊まりに来るよう誘ったのだ。

「電話、ダイさんに?」

「……察しがいいのね」

勝手に電話借りてごめんね、と言いながら、グレイヴは着替えを用意する。

その様子を、アーシェはにこにこしながら見ていた。

「良かったね、ちゃんとお話できて」

「まぁね。電話したら酔っ払ってたけど。おじ様と飲んでたみたい」

「でもグレイヴちゃん、嬉しそう」

「うん。機嫌が良いときのアイツと話すの、楽しいから。……またいつ会えるかわからないし」

グレイヴはいつも待っている。ダイが遠くで頑張っているからと。

しかし、アーシェもまた思う。昨日のように、時々は本人に思いの丈を吐き出しぶつけてもいいのではと。

「グレイヴちゃん、今度はちゃんと見送りに行ったら?」

ダイがエルニーニャを離れた日、グレイヴは見送りに行かなかった。

すぐにまた、彼は発つだろう。そのときは、きちんと会った方がいい。

再び待つ日々が始まるのなら、その前に思い切り気持ちをぶちまけた方がいい。

「……でも」

「グレイヴちゃんが迷うなら、私が今決める。行きなさい。そして、たくさんお話してきなさい」

少し強引に背中を押されて、グレイヴは頷いた。

 

 

翌日、報告書とダグラス・アストラの移送に関する書類がダイに手渡された。

大きな仕事を終えた大総統から、直接。

「今回はありがとう。戻ったら、今度は君の大仕事だね」

ハルはふわりと微笑むが、その表情はダイがここへ来たときよりも自信に満ちている。

「エルニーニャを壊せましたから。今度はノーザリアを、力の限りぶっ壊します」

「相変わらず物騒だな」

苦笑するアーレイドに笑みで返した後、ダイは盗聴器を仕掛けた場所をちらりと見やる。

謝罪して回収しようと思い、口を開きかけたが。

「あぁ、それとこれも。忘れものしないようにね」

その前に、ハルが小さな機械を握らせた。

「……気付いてたんですか」

「仕掛けたときにね。アーレイドに、そのままにしておくように頼んでおいたんだ」

「うちの大総統閣下を嘗めるなよ、若造」

やはり元上司で、人生の先輩だ。侮れない。

謝罪よりも、尊敬と感謝の方が必要なようだ。

「こちらこそ、ありがとうございました。閣下やエルニーニャの皆様のご協力、無駄にはいたしません」

彼が再び旅立ったのは、その日の夕方。

見送りはグレイヴとユロウに任せ、ニアたちは飛行機が空を行くのを眺めていた。

「行っちゃったね」

「嵐のような数日だった……」

飛行機雲を目で追いながら言うニアの横で、ルーファが深い溜息をついた。

「ダイさん、秋頃にまた来るってさ。ユロウさんが言ってた」

「じゃあ、秋はまた大変だね」

腕を吊ったまま、レヴィアンスは元気に歩き回る。

アーシェは、今度は事件がなきゃ良いね、と笑う。

この先、何があるかわからないけれど。

今回のような危機も乗り越えられたのだから、きっと大丈夫だ。

「もしまた何か起こっちゃったら、そのときはダイさんに見せてあげよう。僕たちがもっと強くなったところを!」

「当然じゃん。今度は骨折なんかしないからね!」

「レヴィ、牛乳飲めよ。背も伸びるかもしれないぞ」

「あれ? それあんまり効かないって言ってたのルーファ君じゃなかった?」

他愛もない話をしながら、それでも確実に、彼らは未来に向かって進んでいるのだ。

今日も、明日も、ずっと。

 

 

世界暦五二八年、エルニーニャ王国政府が新体制を発表。

それから間もなくして、ノーザリア王国政府の汚職が明らかになる。

ノーザリア王は自らその地位を降り、国民によって新しい王、イルナコフ・ジェンガーディアム一世が選ばれた。

それに伴い、一時軍大将を罷免されていたカイゼラ・スターリンズも、その地位に戻る。

エルニーニャ政府はノーザリア新王と和平を誓い、両国の関係は回復する。ノーザリアがエルニーニャに侵攻するのではという噂も、嘘のように消えた。

そしてその頃、ニアたちのもとには、ダイが特進し中将になったという報告が届く。

 

それからさらに時は巡り、六年後の世界暦五三四年。

エルニーニャ王国軍第二十九代目大総統ハル・スティーナが、堂々の退役を迎える。

 

 

大総統の代がわりには、やや質素ではあるが、国内及び他国の首脳が集まる式典が開かれる。

エルニーニャ王国軍は、新兵から将官にいたるまで、全ての人間がその準備に勤しんでいた。

先日入隊したばかりの少女も例外ではない。式典当日、彼女は廊下を走っていた。

新兵を代表して挨拶をするようにと突然申し付けられたのだが、よりによって挨拶原稿を寮の部屋に忘れてきたのだった。

急ぐ彼女には、周りが見えていない。曲がり角から出てきた人にも、反応が遅れてしまった。

「きゃっ?!」

「おっと……大丈夫か?」

「ごめんなさい、ぶつかっちゃって……」

少女の目に映ったのは、北の大国の軍服。おそらく式典の来賓だろう。

顔を上げて、そのことがはっきりした。相手は、ノーザリア軍の大将だ。

「あ!」

「……君は」

少女と北の大将が互いに驚いていると、走る足音がもう一つ。

「イリス、原稿見つかった?!」

焦った声をあげながら、ダークブルーの髪に海色の瞳の青年が近づく。

黒髪赤眼の少女は、そちらを振り向き、手に持った原稿用紙を振った。

「あったよ、お兄ちゃん!」

「もう……ちゃんと大事に持っておきなさい。ほら、早く行く!」

「ごめんなさい、いってきます!」

少女が走り去った後で、北の大将は青年に微笑んだ。

「相変わらず元気だな、イリスは」

「本当に。慌て者で困ります。……ダイさんも、元気そうで」

「ニアも、な。……いや、インフェリア大佐と呼んだ方が?」

「そう呼ばれるのは慣れてないので照れます、ヴィオラセント大将」

僕たちも急ぎましょうか、とニアが先に立つ。

そうだな、とダイが続く。

立場もあり、滅多に会えなくなってしまったが、今でも彼らの絆は健在だ。

「そうだ、数日こっちにいるなら、食事でもどうですか? ルーたちも一緒に」

「じゃあなんとか時間作るよ。何しろ俺も忙しいんだ。お偉いさん方との会談はともかく、親父の墓参りとか、娘の顔も見たいし……」

「娘さんは大事ですね。会わないと忘れられちゃいますよ」

「それは困る」

この六年で、色々なことが変わってしまったけれど。

それでもこうして話ができるということだけは、変わらない。

出会った日から共に歩んできて、今日がある。

ゼロから始まり、未来へ続く。

「ニア、式典始まるぞ! ……って、なんでダイさんまで一緒なんだよ」

「俺がいちゃ悪いか、ルーファ」

「ルー、妬いちゃダメだよ」

「妬いてない!」

この先も、道は長い。まだまだ物語は続く。

新しい世代へと繋がりながら。