僕が生まれた日に、お父さんは大総統になった。

軍で一番偉い人で、この国エルニーニャの実質的なトップ。

だけどお父さんは、僕が八歳の時に軍を辞めた。

歴史の上でも、八年という期間は短かった。

 

その頃の僕の夢は、「絵描きさん」だった。

絵を描くのは好きだし、お父さんもお母さんも上手だねって褒めてくれたから。

だけど僕は、本当は別のものになりたかったんだ。

 

「いいかげん稽古をつけないと、軍人にすることはできんぞ」

「だから何度も言ってるだろ!ニアは軍人にはしない!」

父アーサーの相変わらずの態度に、カスケードは怒声で返す。

父は昔からちっとも変わっていない。カスケードとサクラを軍人にしようとしていたあの頃から。

「カスケード、うちがどういう家系か、お前も解っている筈だ」

「だからってニアを縛り付けることはないだろ!」

「インフェリア家は代々軍人でなければならない。結婚相手も無論軍人。

お前もそれに従ってきただろう」

「従ったわけじゃない!偶然そうなっただけで…」

「重要なのは結果だ。…全く、家に逆らおうとしたり大総統職を放棄したり…」

父がブツブツ言うのを聞きながら、カスケードは心の中で深い溜息をつく。

もう何度目だろう、こうして父と衝突するのは。

昔は妹サクラの将来、今は自分の息子の将来。

ついでに先日大総統を降りた事も叩かれる。

どうせこうなるだろうと思っていて、結婚した時に親とは家を別にしたのに。

「毎日毎日通うこっちの身にもなってみろ」

だったら来なければ良いだろ。そう思いつつも口にできないのは、父の背中が妙に小さく見えるからだ。

二十三歳の時に十三年ぶりに会った父は、すでに小さく見えていた。

しかし今はそれ以上だ。言葉は命令口調だが、姿は幼い頃に見た「恐ろしい父」とはかけ離れている。

「…とにかく、ニアは軍人にしない。危険な目にあわせたくないんだ」

「臆病者め」

いつもこの言葉で口論は終わる。そして父は帰っていくのだ。

実家とカスケードの家は一ブロックしか離れていない。また明日も来るだろう。

疲労感を表情に出したまま、別の部屋にいた妻と子を呼ぶ。

「シィ、ニア、もう良いぞ」

笑って見せても、隠せない。

 

結婚してから九年、その間ずっと問題になってきたのが、「インフェリア家の血筋」。

シィレーネはそのことを承知した上で、将来のことは子供の意思を尊重すると言っている。

カスケードにとってはありがたかった。

息子のニアが「軍人になりたい」と言わなければ、軍人にしなくて済む。

親友のニア・ジューンリーと同じ道を歩むことはなくなる。

「ニア、将来何になりたい?」

何気なく訊いてみる。怖れている答えが返ってこないよう祈りながら。

「ぼくね、えかきさんになる!はい、これおとーさん!」

無邪気な笑顔にホッとしながら、差し出されたスケッチブックを見る。

「絵描きさんか。ニアは絵が上手だもんな」

失いたくない小さな頭を、大きな手で優しく撫でる。

スケッチブックには、軍服を着たカスケードがいた。

 

「聞こえてるよ、お義父さんとあなたの会話」

ニアが寝たあとにシィレーネがそう言った。

アップルティーの香りがダイニングルームに広がる。

「ニアは聞いてるの。…だから軍人になるって言わないんじゃないかな」

「その方が良い。ニアは危険な目にあわせたくない」

「でもなりたくないとは言ってないよ。

…あの子だって、あなたが活躍するところ見てきてる。憧れないはずないよ」

シィレーネの言うとおり、ニアは生まれてからずっと大総統としてのカスケードを見てきている。

たまに軍人時代の友人達が家を訪れれば、昔のことをニアに話す。

話を聞いているときのニアの目が輝いているのも知っている。

「でもさ…俺、やっぱリニアは軍人にしたくないんだ」

「私には軍に入ること勧めておいて…」

「シィの時と状況が違うだろ」

ニアと軍人を結びつける時、必ず親友のことが思い出される。

気づかず失い、自らの手で命を絶ち、結局救えなかった親友。

息子が生まれた時、親友が生まれ変わったような気がしてニアと名づけた。

しかしそれは現在、自分の中で重りになっている。

またニアを失うのではないかという不安が、常にカスケードに付きまとう。

「今日はもう寝よう。どうせ明日も客が来る」

妻の言葉さえ避けて、不安から逃げようとする。

 

しかし、いつまでも逃げられる訳がない。

大総統職を部下であったハルに譲ったのは、ハルを認めていたというだけではない。

勿論それもあったが、最も大きな理由はこれ以上軍人の自分を息子に見せたくなかったからだ。

だからといってこれまでの自分をニアの記憶から消せるはずもなく、自分が軍人だったという事実は消えることはない。

 

「お父さん、話があるんだ」

僕がこの言葉を言うのには、相当の勇気が必要だった。

きっと怒られると思ってた。だけど、僅かな希望もあった。

お父さんが軍人だったことを誇りに思っていることも、僕は知っていたから。

正確には、軍人だったことじゃなくて色々な人と出会えたことだけど。

それでも軍がきっかけだったことには変わりない。

「どうした?ニア」

お父さんは優しく笑う。昨日と同じ笑顔だ。

昨日、僕は九歳の誕生日を迎えた。来年は十歳だ。時間がない。

今しかチャンスはない。

「あの…僕…」

「ん?」

外は雨が降っている。昨日の夜から降り始めて、激しい音をたて続けている。

さっき雷が鳴って、怖い思いをしたばかりだ。

「僕、軍人になりたいんだ」

だけど、言わなきゃならなかった。

「…軍人?」

お父さんの顔から笑顔が消える。

「どうして軍人なんだ?」

「僕…お父さんみたいになりたいから」

僕の前では滅多にしない顔をしている。

「本気で言ってるのか?」

ここでごまかすこともできた。

だけど、逃げちゃいけない気がした。

僕の中で何かが「逃げちゃだめだ」と言っていた。

その声に後押しされて、僕はゆっくり頷いた。

顔を上げて見た海色は、荒れていた。

「軍人がどんなものだかわかって言ってるのか?!

俺みたいになりたいなんて、本気で思ってるのか?!」

おじいちゃんと話している時のお父さんだった。

怒鳴られたことがあまりなかった僕は、目に水が溜まるのを感じた。

「でも…僕…」

「軍人なんて駄目だ!俺みたいになっちゃ駄目だ!」

言葉が痛いなんて、初めてだった。

「………っ」

涙が零れるのがわかった。

足が玄関へ向かうのもわかった。

お父さんが僕を呼ぶのも聞こえた。

だけど、僕は雨の中に飛び出した。

 

空も僕も、一向に泣き止まなかった。

びしょびしょになりながら、僕はひたすら歩いていた。

「…ひく…っ…ひっく…」

しゃくりあげるたびに苦しい。

いつのまにか川の方まで来ていた。

天気がいい日はお父さんと水遊びをする川も、増水してごうごうと流れていた。

増水してる時は危ないから近寄っちゃ駄目だって言われたのを覚えている。

だけど、

「…あれ?」

雨音に混じって、別の音が聞こえた。

声はか細くて、でも確かに言っていた。

「助けてぇーっ!」

「あ…っ!」

流れにさらわれそうになりながら、必死で草を掴む手。

僕よりも小さい。

「助けてーっ!誰かぁーっ!」

何でこんな日に川に近寄ったんだろう。

ううん、そんな事考えてる場合じゃない。

助けなきゃ。今ここに居るのは僕だけなんだから。

「今行くよ!」

その子の近くまで行って、手を伸ばす。

手足が濡れたけど、もともと雨で濡れていたから気にならなかった。

だけど、気にするべきだったのかもしれない。

足元がずるっと、大きく崩れた。

「わあぁぁっ!」

僕の体は水の流れに落ちる。

なんとか木の枝を掴んで、溺れている子を抱きかかえた。

だけど、いつまでもつかはわからない。

僕の力じゃ助けられない。

たった一人の人も救えない。

悔しい。

すごく悔しいよ。

手が木の枝からすべる。

終わっちゃうのかな。

「…お父さぁん…」

何もできないのに軍人になりたいなんて言って、ごめんなさい。

 

「ニアぁーっ!」

 

…あれ?

あったかい。

冷たい水の中にいたのに。

ここ、どこかな。

「ニア君」

誰?今呼んだの。

「ニア君、こっち」

え、誰?

後ろを振り返ると、僕の知らない人が立っていた。

緑色がキラキラしてる綺麗な髪と、澄んだ瞳。

優しそうに笑って、僕の目線までしゃがみ込んだ。

「こんにちは。…こうして夢で会うのは二度目かな」

「二度目?」

「うん。君が四歳くらいの時に一回。…覚えてないかな」

僕は記憶をずっと辿ってみた。

緑色の綺麗な人…知らない人。

だけど、記憶は甦ってきた。

四歳の時に、夢に知らない人が出てきた。

その人はお父さんのお友達だと言って、お父さんをよろしくねって言った。

その夢のことをお父さんに話したら、お父さんは…

「あ、お父さん泣かした人だ!」

「…泣かしたって…」

緑色の人は困ったように笑って、だけどすぐに元の優しい顔に戻った。

「あの時は自己紹介してなかったよね。僕はニアっていうんだ」

そう言って、僕の頭を撫でた。

「僕とおんなじ名前…?」

「そう。僕はニア・ジューンリー。君のお父さんのお友達。

そして君は…ニア・インフェリア」

そういえばお母さんが言っていた。

僕の名前は、お父さんの大切な人から貰ったんだって。

「あなたが僕の名前の元の人?」

「そうだね…カスケードはそう考えたみたい。

でも、君は僕じゃないよね」

「どういうこと?」

この人の言っていることは、ちょっとややこしい。

だけど綺麗な声で語るから、全然嫌じゃない。

「つまり、僕はニア・ジューンリーだけど君はニア・インフェリアで、全く別の人間だって事。

髪の色も、眼の色も、全然違う」

「うん」

それならわかる。

だって、鏡で見る僕とこのニアさんは全然違う。

「それなのにカスケード…君のお父さんはそういう風に思えないみたいだね。

ちょっと僕とニア君を混ぜちゃってるみたい」

「混ぜてる…?」

「そう。…でも、きっと違うってわかってくれる。

もうわかってるかもしれないな」

ニアさんはすっと立ち上がって、向こうの方へ歩き出した。

「どこ行くの?」

「僕のいるべき所…君の中に帰るんだ。

何かあったらきっと助けるよ。大好きな人の子供だからね」

暖かい光のような笑顔が、頭の中に焼きついた。

 

起きたら頭がボーっとしてた。

どのくらい寝てたんだろう。

「ニア、起きたの?」

「…お母さん…」

夢で見た笑顔とどこか似ている、お母さんの笑顔。

僕のおでこにそっと手をあてて、んー、と言った。

「まだ熱はあるかな。びしょ濡れになったから風邪引いちゃったのよ」

「びしょ濡れ…」

どうしてそうなったんだっけ。

確か、お父さんと喧嘩して、家を出て、

川で溺れてる子がいて…

「そうだ!あの子…溺れてた子は?!」

あの子は大丈夫かな。

僕だけ助かるなんて駄目だ。

「大丈夫。あの子もちゃんとお父さんが助けてくれたから」

「…お父さん?」

「うん、びっくりしちゃった。ニアが溺れてたって言うんだもの。

お父さんの考えどおり、あの子を助けようとして溺れたみたいね」

良かった。

あの子、助かったんだ。

お父さんが助けてくれたんだ。

やっぱりお父さんはすごいな。

だけど、僕は何にもできなかった。

もっと強くなりたい。

僕もお父さんみたいに、人を助けられるようになりたい。

「ニア!」

「お父さん…」

ドアを開けて入ってきたお父さんは、怒ってなかった。

僕をぎゅっと抱きしめて、言った。

「よく頑張ったな。偉いぞ」

言葉が嬉しくて、体温に安心して、

また涙が出てきた。

「お父さん…ありがとう」

だけど、やっぱり僕は親不孝します。

もう、決めたから。

 

お父さん、僕助けてもらってすごく嬉しい。

だけど、僕の力じゃ何にもできないのが悔しい。

もっと強くなりたいんだ。

だから、軍人になりたいです。

人を助ける軍人になりたいです。

 

僕の言葉に、お父さんは頷いた。

「どうしても軍人を目指すなら、言っておかなきゃならないことがある。

…よく聞いて、考えて、もう一度答えを聞かせてくれ」

お父さんはそう言って、昔のことを語り始めた。

今まで一度も聞いたことがなかった、親友のニアさんの話。

一緒に志を持って、一緒に過ごして、

それなのに気づけなくて、守れなくて、失った事。

その後は話そうとしてやめてしまった。

「…ニア、軍人ってのはそういう辛い場面にも立ち向かわなきゃいけないんだ。

誰かを失ったり、自分が死ぬことで誰かが悲しんだりする。

それでも軍人になりたいか」

お父さんは辛い思いをした。

それがどのくらい痛いのか、僕にはまだわからない。

痛みはお父さんにしかわからない。

僕はこれから痛みを負うかもしれない。

だけど、なりたいんだ。

ニアさんとお父さんも目指した、「人を助ける軍人」に。

 

それから十歳の誕生日まで、僕は頑張って勉強した。

おじいちゃんの厳しい稽古もあった。

お父さんは銃の扱い方を教えてくれた。

だけど、いつか剣の使い方も教えてやるって言った。

時々僕と同い年の子が今どのくらいの実力なのかを聞いた。

お父さんとお母さんの知り合いにも子供がいて、その子がちょうど僕と同時期に試験を受けることになっているらしい。

会えると良いな、と思いながら、僕は頑張る。

 

ニアが軍人を志していることがわかってから、父アーサーの態度はますます大きくなった。

「ほら見ろ。インフェリア家はそういう血なんだ。

結果的に縛り付けていたのはお前じゃないか」

カスケードには何の反論もできなかった。

「これからニアを一流の軍人に育て上げる」

「あんまり無理させないでくれよ。…いや、むしろその老体で無理するなよ、親父」

「親をなめるんじゃない。…全く、嫌な息子だ…」

父は前より生き生きしているように見えた。

稽古とはいえ、孫にほとんど毎日会っている所為もある。

稽古中は厳しいが、終われば僅かに祖父としての顔を見せる。

「あんな顔もするんだな、親父」

「カスケードが生まれた時、何だかんだ言って大喜びしてたのよ。

ニアが生まれた時だって平静を装ってたけど、陰で泣いてたんだから」

そういうところが好きなのよね、と母ガーネットは言う。

感情の表し方は違えども、やはり父と自分は親子なのだ。

自分とニアが親子であるように。

「お父さん、初めておじいちゃんに褒められたよ!」

「初めてで喜ぶんじゃない」

「へぇ、親父でも人褒めるんだな」

血は繋がる。意志も繋がり、受け継がれる。

 

「…ニアって、私たちの子だよね?」

「あぁ」

「実技がいいのはあなたの子だし、お義父さんのお稽古もあったからわかるけど…」

「そうだな。」

ニアが入隊試験に合格した。

大総統に頼んで得点や評価も教えてもらったのだが、カスケードとシィレーネにとっては驚くべき結果。

「筆記…一位って書いてあるけど」

「俺だって信じがたい。俺筆記最悪だったよな、確か…」

「私だって勉強嫌いだったから筆記最悪だったよ」

入隊試験、実技四位筆記一位。総合二位。

実技は納得の結果だ。しかし、筆記はどうやってクリアしたのだろうか。

「ハルの奴、甘くしてないか?」

「それはないんじゃない?…でもすごいのね、ニアって」

「まぁ、名前がニアだしな…」

ニア・インフェリア、エルニーニャ王国軍中央司令部伍長に任命。

新しい歴史が始まった。

 

お父さん、お母さん、ただいま!

今日ね、友達二人もできたんだ!男の子と女の子!

名前はね…

 

 

fin