毎日が楽しかった。
何も悩まなくていい幸せな日々だった。
突然壊れるなんて、思わなかった。
ううん、違う。
壊したのは、私。
私はリーガル家の長女として生まれた。
アーシェという名前はお父さんが付けてくれたらしい。
私の外見はお母さんに似ているとよく言われる。
弟のリヒトは小さいけれど結構しっかりしている。
少し裕福な、でもごく普通の家族。
全てが変わってしまったのは、私が八歳の時。
「アーシェ、リヒト、大事なお話があるの」
お母さんは真剣な眼差しで私たちに言った。
十三年はあまりにも長すぎる。
昔の面影が僅かしか残らない父の前で、リアは微笑みを作る。
「お父さん、元気?」
「元気だ。もうすぐ出られるかもしれないとモンテスキューさんが言ってくれた」
「…そう」
エルニーニャ中央刑務所に、レスター・マクラミーは収容されている。
無期懲役を言い渡され、ずっとここにいる。
「孫の顔を一日でも早く見られるように頑張るよ」
「えぇ。アーシェとリヒトに早く会わせてあげたいわ」
「アルベルト君は忙しいのかい?」
「えぇ、少し。今日の仕事が終われば山は越えるけど…」
「そうか」
リアがレスターに会えるようになったのは、軍を退役してからだ。
それまで彼に会えたのは、カスケード・インフェリアくらいだった。
それも表向きは事件責任者としてだ。
実は現在所長を務めるケイアルス・モンテスキューと深い交流があったためでもある。
一度だけ、アルベルト・リーガル――つまり現在のリアの夫が、レスターを訪ねた。
それもリアとの結婚について話すためであり、カスケードの協力が必要だった。
もともと終身刑も免れない極悪人として扱われていたかもしれなかったのだ。
それをカスケードとモンテスキューが何とか減刑させ、今に至る。
本来は軍人が司法に関わるべきではない。特定の人物の減刑を求めるなど、もってのほかだ。
しかし、カスケードは実行した。リアはそれに感謝している。
だからこそ、彼女は刑務所へ行っての面会を許されなかった。
定められた刑を執行中、あるいは待っている人々の声を聴けば、現実を知ってしまうことになるから。
リアは少しずつ事実を伝えられ、そろそろ良いだろうという頃に漸く面会が許可された。
「お父さん、また来るね」
短い面会時間。別れなどすぐに来てしまう。
ひたすら笑顔を向け、面会室を出る。
初めの頃、ドアの閉まる音とほぼ同時に涙が溢れていた。
今は落ち着いたほうだ。笑顔が少し陰るだけ。
「…父は、本当はまだ出られないんですよね…」
呟く言葉に、モンテスキューは静かに肯定を返す。
「残念ですが…彼は外に出れば真っ先に狙われます。
彼の安全のためにも、暫くは出られません」
「そうですよね…」
未だ絶えない裏組織の残党は、過去を清算しようとしている。
以前カスケードがそう言っていた。
先日ハルもそんなことを言っていたような気がする。
大総統が交代して、時代が変わっても、過去の事実が消えることはない。
「ありがとうございました。失礼します」
「えぇ、何か相談があればいつでもどうぞ」
清算なんて、できるものではない。
元のまっさらな状態になんて、戻れない。
全ては過去なのだから。
だから、いつかは事実を伝えて納得してもらわなければならなかった。
娘のアーシェは八歳、息子のリヒトは六歳。
今伝えることは酷かもしれない。しかし、今だからこそ受け止めて欲しかった。
リア自身、タイムリミットは自分の家族が崩壊した九歳にアーシェがなるときだと思っていた。
「苦しむと思う。とても辛い思いをすると思う。
任せてしまうようで申し訳ないけれど、そのときはあなたが支えてあげて欲しいの」
リアの気持ちを、アルベルトも解っていた。
親族が罪を犯し、今どうなっているのか。それを我が子に伝える苦悩。
我が子がそれを受け止めがたい時の苦悩。
アルベルトはそれを知っている。同じだから。
「わかってますよ、リアさん。…でも、伝えるからにはリアさんにも責任があるんです」
「…そうね…」
まだ迷っていた。話すべきか、黙っておくか。
しかし、いずれは知ることだ。
今まで何度も尋ねられたじゃないか。「おじいちゃんはいないの?」って。
「アーシェとリヒトには…重いものを背負わせてしまうわね」
「僕が支えます。だから、リアさんは荷を配分してください」
重なる温かさ。
力が入らないはずの手も、リアにとっては大きな支えだ。
「ありがとう、アルベルトさん。明日話してみます」
「僕も一緒にいますよ。…きっと大丈夫ですから」
きっと大丈夫。自分にもあの子達にも、支えがある。
私は「大事なお話」のことを、真剣には考えていなかった。
またお父さんの仕事が大変になるとか、その程度のことだと思っていた。
「大事なお話って何だろうね?」
弟のリヒトに尋ねると、彼は首をかしげていた。
彼もまた、そのときは何の覚悟もできていなかったのだろう。
だから私は母の一言を聞いたとき、耳を疑った。
「お祖父ちゃん…お母さんのお父さんのことを、あなた達に話しておこうと思うの」
耳だけじゃない。頭も疑った。
私の記憶には、おじいちゃんは一度も出てこない。
周りの子達にはおじいちゃんがいる子も何人かいるから、不思議に思ったことはある。
「うちにおじいちゃんはいないの?」と訊いたこともある。
その度にお父さんとお母さんは、曖昧な表情をしていた。
多分あれを「哀しそうに笑う」っていうんだろうなと今は思う。
今までごまかされてきた存在をいきなり改められて、私は正直混乱していた。
「あのね、お祖父ちゃんは…今刑務所にいるの」
「けいむしょ…」
その単語を聞いた事が無い訳ではない。
信じられなかったから、オウム返しに呟くことしかできなかった。
お母さん、刑務所って、どういうこと?
なんでおじいちゃんがそこにいるの?
声に出さなくても、答えはすぐに帰ってきた。
おじいちゃんはアーシャルコーポレーションという会社の社長さんだった。
国が壊れてしまうほど危険なものを作ろうとして、悪いことを重ねた。
その結果、刑務所に入れられた。
お母さんは時々考え込むように話を切って、ゆっくり解り易く話した。
八歳の私にも、六歳のリヒトにも、恐ろしいほど理解できた。
おじいちゃんは悪い人。
お母さんは悪い人の子供。
私は…悪い人の孫。
私にも悪い人の血が流れてる。
お母さんの前では泣かなかった。
その代わり、おじいちゃんが刑務所に入ったところより先は聞こえていなかった。
リヒトが席をたって、漸く話が終わったことに気付いた。
私は部屋に戻ってからもう一度考えて、
思い切り泣いた。
「アーシェ」
あまり抑揚はないけれど、私には弾んで聴こえる。
そんな声に、私は笑って応える。
「グレイヴちゃん」
従姉のグレイヴ・ダスクタイトちゃんは、小さい頃から私たち姉弟のお姉さんだった。
彼女はお父さんの弟の子供だけど、私たちは本当の姉妹みたいで、本当の姉弟みたいだった。
ずっと一緒にいたから、お互いのことはよく解っていた。
「アーシェ、元気ないね」
隠していても、グレイヴちゃんにはすぐにばれてしまう。
私はごまかそうとして笑う。
「そんなこと無いよ。それより何して遊ぼうか?」
「…本当に、そんなこと無いの?」
グレイヴちゃんの眼は、叔父さんによく似ていた。
ちょっと怖そうだけど、とても優しい光を持った眼。
その眼を見て、私は隠し事を辞めた。
グレイヴちゃんなら全部話しても良い。彼女なら信じられる。
「…あのね、…」
私の震えた声を、グレイヴちゃんは何も言わずに受け止めてくれた。
全部聞き取って、私を包んでくれた。
「アーシェ、それで悩んでたんだ」
頭を撫でてくれる。隠してた涙が一気に溢れて、グレイヴちゃんの胸元を濡らした。
「私…わたし…っ…せっかくほんとのこと聞いたのに…」
自分が情けなかった。
今まで知りたかったことを、真実が判った途端に怖れている。
事実を受け止められない自分が、腹立たしかった。
グレイヴちゃんは私が落ち着くまで、ずっと抱きしめてくれていた。
温かくて、優しかった。
それから長い時間をかけて、私は自分の心を整理した。
お母さんの言っていたことを一つ一つ思い返して、リヒトとも話した。
「母さんは、本当に悪い人なんていないって言ってる。
お祖父さんも、今はもう罪を償ってるんだから…」
「悪い人じゃない、よね。リヒトの言う通りだよ」
お母さんもきっと辛かった。
大切な人と離れてしまったんだもの。
さらにそれを、私たちに頑張って伝えた。
私は、お母さんが好き。
おじいちゃんも好き。
お父さんも、リヒトも、みんな大好き。
そういえば、お父さんの方のおじいちゃんはどうしたんだろう。
何も聞いた事がない。
同居してるおばあちゃんにこっそり聞いてみたら、
「アーシェがもう少し大人になったら判るわ」
って言った。
だけど…待っているだけなら、私はまた受け入れられずに泣いてしまうかもしれない。
だったら、いっそのこと。
私は自分の家のことを調べはじめた。
色々な所から手掛かりを探そうとした。
だけど、一向に前に進まなかった。
考えれば考えるほど、私は迷子になった。
「姉さん」
「…どうしたの?リヒト」
迷っていないフリをして、私はいつも通りの生活を送る。
家族にも普通に接する。
だけどやっぱり、私はごまかすのが下手みたい。
「家の事を調べたいなら、軍のほうが良いよ」
「え?」
リヒトにはわかっていたみたい。
私がどんなことを考えているのか。
「父さんも母さんも、元は軍人だった。
お祖父さんは母さんが軍人だった頃に刑務所に入った。
父さんの手が不自由になったのも、軍人時代だ」
私たちのお父さんの右手は、力が入らないそうだ。
軍人だった頃に怪我をして、その影響が今も残っているって聞いたことがある。
「…軍に、手掛かりがあるの?」
「あると思うよ」
私はもうすぐ九歳になる。
あと一年で、軍の入隊試験を受けられる。
そしたら、きっと何かがわかる。
それまでに全部知る事ができたなら、それはそれで良い。
「私、軍人になろうと思うの」
そう告げると、グレイヴちゃんは予想通りの反応を返した。
「…アーシェ、本気で言ってるの?」
「本気だよ。私、軍人になる」
「どうして?!危ないよ!」
九歳になったばかりの私を、グレイヴちゃんは本当に心配してくれていた。
「わかってる。でも、お父さんもお母さんも通ってきた道だから…」
「だからってアーシェまで…」
グレイヴちゃんの言うことは尤も。
私だって、レールの上を歩くだけはイヤ。
だから、話した。
「ホント言うとね、私、知りたいの」
「…何を?」
「お父さんの事。どうして手を怪我したのかとか、どうして父方のお祖父ちゃんがいないのかとか。
母方のお祖父ちゃんの事は聞いたけど、お父さんは何も言わないから…」
軍に理由があるのなら、私は行くつもり。
でもそんなこと本人に言えないから、お父さんとお母さんには内緒よ、と付け加えた。
「…アタシは反対」
「うん、そう言うと思った。グレイヴちゃんはいつも私を守ってくれてたから」
そう、グレイヴちゃんは私を守ってくれた。
だから今度は、私が自分で自分を強くする。
これだけは、何が何でも曲げないつもり。
「大丈夫。私、負けないよ」
私のために強くなる。
それが誰かのためになれば、私は望みの全てを叶える事になる。
お父さんとお母さんには「強くなりたいから」と言った。
軍の危険を誰よりも知っているからこそ、初めは反対された。
だけど、軍で得たものが何よりも大きかったからこそ、許してくれた。
実技試験対策に弓矢も用意してもらった。練習用だから、実際には使えない。
心配そうな眼はいつしか応援に変わり、
私は十歳の夏、軍人になった。
リヒトはアーシェの姿を見て、ひたすらジレンマを感じていた。
軍に入隊するように勧めてしまったが、リヒト自身はアーシェを危険な目にあわせたくない。
アーシェは一生懸命だから、今更反対もできない。
「あんなこと、言わなきゃよかった…」
アーシェが迷っているのを見たくなかった。
だから言ってしまった。
リヒトが全てを知ったのは、アーシェが気持ちの整理をつけ始めた頃だった。
叔父が従姉を連れて家を訪れた時、偶然聞いてしまったのだ。
書斎で語られていた、過去の話を。
父と叔父が持っている、真実の全てを。
叔父の母は殺された。殺したのは祖父だった。
祖父は殺された。殺したのは叔父だった。
父の手は満足に動かない。そうしたのは叔父だった。
――それなら真実を言えないのも当然、か…
自分達には確かに「犯罪者の血」が流れているのだ。
それは紛れも無い事実。
「姉さんは充分苦しんだ…今度は僕が姉さんを…」
守りたい。守りたかった。
だけど姉はもう、遠くを見ていた。
リヒトにできることは、今は無かった。
私は今、家族から離れて過ごしている。
真実はまだほんの僅かしか見えないけれど、前よりずっと近づいた。
もう辛くても大丈夫。
支えてくれる人は、たくさんいる。
私はきっと、負けずに進む。
Fin