あの日の声は、紛れもなく真実だ。

だからボクは…

 

エルニーニャの冬は暖かい。

雪は多く降るが、気温はそう低くない。

薄い上着を羽織り、ハルは家を出る。

アーレイドと相談して、今は寮ではなく祖父宅で暮らしている。

鍛冶屋の手伝いをしつつ、軍人を続けている。

もう二十二歳。今の職に就いていられるのも、残り十年もないだろう。

アーレイドは一つ年上なので二十三歳だ。彼もまた時間が無い。

これからどうしようか、という話になると、先が見えず不安だ。

その中で口にした言葉だったから、真剣に考えるのには少し時間がかかった。

聞いた方も、言ってしまった本人も。

「アーレイド、準備できた?」

長く伸びた髪を束ねたハルは、七年前と比べると大分落ち着いた雰囲気をもっていた。

「今行く。ハル、手袋」

昔切られて短くなった髪を再び伸ばしてポニーテールにしたアーレイドは、さらに大人びていた。

放った手袋はハルの手に巧く収まり、色の白い手を温める。

「ありがとう。…じゃあ、行こうか」

雪を踏む音。向かう先には一台の車。

エンジンのかかる音は、白い道に吸収される。

「…で?どこにあるんだよ、孤児院」

「地図はこれ。ボク方向音痴だから、アーレイドに任せるよ」

美しく微笑む相方に、アーレイドは相変わらず勝てない。

地図を受け取り、目的地へと車を走らせた。

 

ボクは生まれてすぐに孤児院に預けられたらしい。

理由はわからないけれど、産みの親にとっていてはいけない存在だったことは確か。

孤児院のことは全然覚えていない。ほんの数週間しかいなかったから。

 

生まれたばかりの赤ん坊が、何人か寝かされていた。

親のいない子達は、自分の境遇がわからずすやすや眠っている。

いや、もしかしたらわかっているのかもしれない。

「本当に、こんなに小さな子を引き取るというのですか?」

院長の問いに、ハルは首を縦に振って即答する。

あんなに考えた。だからここに来たんじゃないか。

ハルが「子供が欲しい」と言ってから、随分と時間が経っていた。

アーレイドや祖父、さらには他のすでに子を持っている知り合いとも相談した。

「どれほど大変か、わかっていますか?」

「わかりません。知り合いにもいろいろ聞きましたが…」

正直に答える。経験してみないとわからないことのほうが多い。

しかし、覚悟ならできていた。

それを告げると、院長は微かに笑った。

「あなた方に引き取って欲しい子がいます」

そう言って、彼は扉を開けた。

 

そうだ、一つだけ、ほんの少し覚えてることがある。

とても温かかったこと。

今になってわかったけれど、あれはお母さんの温かさだった。

 

名前は孤児院の院長が付けたらしい。

自分達でつけたのではなくとも、声に出すと幸せな気持ちになれた。

「レヴィアンス…か。綺麗な響きだね」

ハルが赤ん坊を抱く姿が、アーレイドには神々しく見えた。

血の繋がりは無くとも、彼らはすでに親子だった。

「ハル、戸籍はどうするんだ?」

「アーレイドの方にしたよ。レヴィアンス・ハイル」

「そうか」

戸籍がどうであるかは、ハルにとってさほど重要なことではないらしい。

随分とあっさりした答えだが、それもハルらしいので良い。

「あとでカスケードさんの家に行って、報告しようね。

いろいろ教えてもらうこともあるし…」

「大総統は忙しくないか?」

「カスケードさんなら、きっと仕事なんてディアさんにでも押し付けてるよ」

さりげなく痛い事実を言うのは、一体誰に似たのだろう。

 

ボクの名前がレヴィアンス・ハイルになった日。

そのときのことは覚えていないけれど、きっとボクは幸せだった。

お父さんとお母さん、それからおじいちゃんとの暮らしは、ボクが育っていくのにとても良い環境だった。

何も知らないボクは、血の繋がりなんて全く意識しなかった。

だから、初めて事実を知ったときは…ちょっぴり痛かった。

 

「たまの休みだからって、グレンさんってば俺置いて出かけちゃってさ。

ルーファも連れてったから一人で退屈だったんだよ」

カイは昔と変わらない笑顔をアーレイドに向ける。

出会った頃から良い先輩だった。多々ある問題はこの際おいておく。

「ルーファ君、元気ですか?」

「かなり元気だよ。この前なんかグレンさんと一緒に木に登っちゃって…」

カイとグレンも、アーレイド達に二年ほど遅れて養子をとった。

一つ違うのは、引き取った子供が当時すでに四歳で、状況をよくわかっていたということ。

「アーレイドのとこは?レヴィアンス…だっけ?」

「はい。実は今日はそのことで相談にのってもらいたくて来たんです」

アーレイドが言わんとしている事は、カイにはすぐにわかった。

それはカイがよく知っている悩みで、自分自身は大して重く感じなかったもの。

「いつ打ち明けるか…か?」

「…はい」

カイはかつて捨て子だった。育て親に拾われ、その人の事を本当の親だと思っていた時期があった。

育て親はカイに本当の事を打ち明けたが、カイ自身はあまり気にしなかった。

今、アーレイドはカイの育て親と同じ悩みに直面しているのだ。

自分とハルを本当の親だと思ってくれているであろうレヴィアンスに、いつ真実を打ち明けるか。

打ち明けた時、レヴィアンスが自分やハルから離れていってしまうのを怖れているのだ。

「俺が師匠から話を聞いたのは、確か六歳の時だったな。レヴィアンスは今四歳?」

「そうです。…もう少し待った方が良いでしょうか」

「いや、俺は今が時期だと思う」

思ったよりもあっさりと出された意見。

アーレイドは不安げな表情になるが、カイは落ち着いて続けた。

「ハルの昇進話が出てるだろ?次は大将…だよな。」

「はい」

「忙しくなる前に、一緒にいられる時間が長いうちに、話しておいた方が良いと思う。

じゃないときっと不安がるから」

カイの言うことは尤もで、アーレイドは再度ハルと相談してみる必要があると判断した。

今の時点で、すでにレヴィアンスの世話はハルの祖父に任せっきりになっているところがある。

これ以上忙しくなれば、きっと時期を逃す。

 

その日、ボクは寝付けなかった。

喉が渇いたような気がして、水を飲みに台所に向かった。

「…?」

ボクは夜には皆寝るものだと思っていた。

だから、お父さんの部屋から灯りが漏れていることを不思議に思った。

見つかったら「早く寝なさい」って怒られるかもしれない。

こっそりドアに近付いて、向こう側の音を聞いた。

お父さんとお母さんの声。何を話してるんだろう。

言葉の一つ一つを拾う。

ボクには難しすぎる単語もいくつか出てきた。

「…で、カイさんはなんて?」

「ハルがこれ以上忙しくなる前にってさ。

今が時期なんじゃないかって言われた」

「そっか…」

知ってる人の名前が出た。カイおじさんはお父さんとお母さんの知り合いだ。

何の話だろう。

ボクはドアに耳をくっつけて、小さな言葉も聞き漏らさないようにする。

「でも…レヴィになんて言えばいいの?」

え、ボク?

何でボクの名前が出てくるの?

「ボクたちは本当の親じゃないって…レヴィが知ったらどうなるかな…」

…あれ?

いま、おかあさんなんていった?

ホントウノオヤジャナイッテ、ドウイウコト?

「ショックを受けるかもしれないけど…それからオレたちがちゃんとするべきだろ」

「そうだね…」

真っ白になった。

何も考えたくなくなった。

ボクはお父さんとお母さんの子供じゃない。

今までずっと一緒にいたのに、ボクはこの家の子供じゃない。

ボク、何でここにいるの?

座り込んで放心していたボクは、ドアが開いてもそこを動けなかった。

お父さんとお母さんが何か言っていたと思うけど、よく覚えていない。

 

ドアの向こうの気配に気づいた時は、もう遅かった。

「レヴィ、お前…」

レヴィアンスはきっと全部聞いてしまった。

「レヴィ」

ハルが手を伸ばすと、小さな体が震えた。

こんな時、どうしてやればいいんだろう。

迷うハルの横から、すっと手が伸びた。

その手は震えるレヴィアンスの頭に伸び、緋色の髪をそっと撫でた。

「レヴィ、ごめんな」

アーレイドの声がちゃんと届いたのか、わからない。

レヴィアンスは何の反応も示さなかった。

それでも優しい声は語る。

「ちゃんと話さなきゃいけなかったんだよな。

こんな形で知ってしまったから、余計にショックを受けたんだ。

本当に…本当にごめん」

俯いたままのレヴィアンスを、ハルはそっと抱きしめた。

拒絶はされなかった。しかし、いつものように抱き返すことも無かった。

このまま向かう先は、和解か、それとも崩壊か。

今の状況からは何も読み取ることはできなかった。

 

夜中、ボクは目が覚めた。

お父さんとお母さんの間で、とても温かかった。

でもその温かさが示すのは、さっきのできごとが本当であるということ。

お父さんも、お母さんも、ボクの本当の親じゃない。

ボクには家族がいないの?

ボクは…本当は独りぼっちなの?

涙が出そうになった。

でも、泣いてるのがばれちゃいけないと思って我慢した。

これからどうしよう。

どうしたらいいんだろう。

このときのボクに「何もなかったように振舞う」なんて選択肢はなかった。

そんなこと思いつけるようになったの、もっと大きくなってからだもの。

眠れない夜が明けて、光が射しこんでくる。

まだ、答えが出てないのに。

 

「レヴィ、おいで」

お母さんがボクを呼んだ。

本当はあんまり行きたくなかったけど、言うことをきかないと独りぼっちになるような気がした。

「…なに?」

「お父さんとお母さんから、大事なお話があるんだ」

聞きたくないな。すぐにそう思った。

でもやっぱり聞かなきゃいけないと思って、ボクはいつもご飯を食べる時に座る場所についた。

ここはボクの場所だと思っていた。昨日、あの話を聞くまでは。

本当はボクの席なんてない。

「レヴィ、昨夜はごめんね」

「今日はちゃんと話すからな」

聞きたくないよ。

聞きたくなかったんだけど、聞いてしまう。

ボクが産まれてすぐ孤児院に預けられたこと、

お父さんとお母さんがボクを引き取ったこと、

今までずっとそのことを内緒にして育ててきたこと、

他にも、色々。

辛いことなんてなかった。

一緒に過ごしてきたってことは、変わらない事実。

「ボクたちは本当にレヴィのことが大好きだよ。…レヴィは、どうかな」

どう、って。

ねぇ、お母さん、今の話は本当のことなんでしょう?

だったら、好きじゃないなんて言えるはずないよ。

「レヴィ、オレ達はお前のことを本当の子供だと思ってる。レヴィはどうだ?」

ねぇ、お父さん、ボクひねくれてたりしないよ?

だから、素直に受け止めてるんだよ。

二人がそういう風に仕組んだんじゃないかってくらい、ボクは、

「ボク、お父さんとお母さんの子供でいいんだよね?大好きでいていいんだよね?」

ボクは、嬉しかったんだよ。

独りぼっちなんかじゃないってわかって、すごく嬉しかったんだよ。

 

僕はこのとき、ほんの少し大人になったんだ。

それから、夢ができた。

お父さんやお母さんみたいな、立派な人になりたい。

軍人になりたいって、思ったんだ。

 

カスケード・インフェリアが大総統を退任した。

大総統史上ではとても短い任期だった。

「ハル、お前なら大丈夫だって信じてるからな」

「はい!ボク、頑張ります」

カスケードが後継者として選んだのはハルだった。

引き継がれるのはその地位だけではない。カスケードが直面してきた問題の処理も、これからはハルが負うことになる。

「もちろん俺もなんとかする。だから何かあったらいつでも連絡してくれ」

「わかりました」

大総統にハル、その補佐にアーレイド。

ますます忙しくなった二人と、祖父宅で留守番をするレヴィアンス。

まだ六歳の少年が、親を恋しがらないはずはなかった。

 

「おじいちゃん、お父さんとお母さんは今日も帰ってこないの?」

ずっと我慢して飲み込んできた言葉が、今日は出てしまった。

おじいちゃんは当然困った顔をする。

「ハルもアーレイドも、最近は忙しいみたいじゃからの。でももうすぐ落ち着くと言っておったぞ」

「もうすぐっていつ?」

もう何日も、お父さんやお母さんとまともに話をしていない。

ボクは寂しかった。

お母さんが大総統で、お父さんが大将で、とても誇らしい。

だけどやっぱり…寂しかった。

「ボク…早く軍人になりたい」

少しでも近くにいたい。寂しいのはいやだ。

おじいちゃんが一緒だから大丈夫だけど、もし誰もいなくなったら。

ボクはやっぱり「独りぼっち」に怯えていた。

だからお父さんとお母さんがいる時間が僅かでもあれば、ボクは思いっきり甘えた。

軍で何が起こってるかなんて、全く知らずに。

 

先代から引き継がれた問題は、裏組織によるものが多くを占めていた。

もともと先代は裏との因縁があった。仕方がないことではあるが、やはり面倒だ。

「アーレイド、ボク思うんだけどね」

ハルが書類に判を捺しながら言う。

「ボクたちがトップでいるってことは、おじいちゃんやレヴィにもいろいろ関わってくるよね」

「そうだな。カスケードさんの時も家族への接触が何度かあったみたいだし…」

カスケードの場合は家柄が軍人家系であるために、最悪の事態は免れている。

しかし自分たちは違う。祖父一人に任せておくわけにも行かない。

それにしてもハルの台詞は唐突で、にわかには信じがたいものだった。

「だから…十歳になる前にレヴィを入隊させようと思う」

床と重い束がぶつかった。処理済書類は散乱するが、そんなことはどうでもいい。

大総統自らが規定を破ろうとしていることに比べれば。

「ハル、お前何言って」

「レヴィを守るにはこれしか方法がない。ボクたちは傍にいられないんだから、レヴィが自分で身を守るしかない」

「それにしたって危険すぎる!」

「四年も無防備にしてるよりマシだよ」

ハルの中ではすでに計画ができていた。

遅くても二年後には入隊させ、信頼のおける人の下に配置する。

できれば昔の上司との係わりを強くしておきたい。

「グレンさんたちのところの…ルーファ君だっけ?軍人を目指してるんだって。

同じ時期を目指せば、守りはさらに堅くなる」

「ハル…」

アーレイドが知る限り、ハルの考えはカスケードの逆だった。

カスケードの場合は自分の息子を軍に近づけないようにすることで守ろうとしていた。

方法は異なるが、目的は同じ。

「レヴィにはボクから話す。アーレイドは稽古をつけてあげてくれる?」

ハルの考えは曲がらないだろう。それは長年パートナーをやってきたアーレイドが一番よく知っている。

 

「レヴィ、軍人になりたいんだったら、二年である程度の実力を付けること」

お母さんはボクを八歳で入隊させるつもりだった。

そんなことしていいのかなって思った。

ボクがわがまま言ったから、お母さんは無理したんじゃないかって。

だけど、そんなことを考えている余裕はなかった。

お父さんの稽古がすぐに始まって、ボクは急に忙しくなったから。

期限は二年。自信はあった。

だってボクは、お父さんとお母さんの子供だから。

 

そうしてまた一つ、ボクは大人になる。

 

「レヴィアンス・ハイル、君を中央司令部伍長に任命します」

大総統はそう言って、微笑んだ。

「がんばってね、レヴィ」