昔からわからなかったことがいくつかある。
だけど訊けなかった。
訊けば、壊れてしまうような気がした。
誘拐未遂なんて日常的なものだった。
殺されかけたことだってある。
そのたびにアタシを守ってくれたのは父さんだった。
だけど、どうしてそんなことが度々あるのか。
それはわからなかったし、どこかで考えてはいけないことだと思ってた。
妻は入院中だ。先日病状が悪化したが、今は落ち着いている。
四つになる娘を連れ、ブラックは兄夫婦を訪れていた。
自宅であるマンションから兄の実家は近いので、徒歩で行ける。
行く間は娘の手と刀を絶対に放さない。何が起こるかわからないからだ。
全ては自身がこれまでしてきた所業の所為だとわかっている。
だからこそ守る。虫が良すぎるのはわかっている。
「いらっしゃい、ブラック君」
一つ年下の義姉リアは笑顔で迎えてくれる。生まれて四ヶ月ほどの赤ん坊を抱いている。
「体調は?」
「元気よ。私もこの子も…アーシェもお父さんも。お義母さんが子供の面倒見てくれるから助かってるわ」
心配してくれてありがとう、と彼女は笑う。
そして、ブラックの横にいた小さな影に手を伸ばす。
「グレイヴちゃん、アーシェが待ってるよ。行きましょうか」
父によく似た小さな少女は、小さく頷いた。
アタシはよく父さんに連れられて従妹のアーシェの家に行った。
アーシェは私より一つ年下で、とても可愛らしい子。
生まれたばかりのアーシェの弟リヒトを二人であやしたり、一緒に本を読んだりした。
時間があれば伯母さんと一緒にお菓子作りもした。
アタシとアーシェは姉妹同然に育った。だけど、そんな風にしていたのは理由があった。
父さんはよく伯父さん、つまり父さんのお兄さんと話をしていた。
アルベルト伯父さんは父さんと話すとき、大抵書斎に行ってしまう。だから何を話しているのかはわからなかった。
アタシとアーシェが一緒に遊んでいれば書斎の方へ行くことはない。話を聞かれずに済む。
アタシがそのことに気づいたのは、軍に入る少し前だった。
明窓浄机がぴったり当てはまる空間で、アルベルトとブラックは話していた。
話題は決まっている。父親のことだ。
我が子に打ち明けるべきか、否か。
「そのうちわかることだろうけど…でも、やっぱりショックだよね」
「当然だろ」
「打ち明けるとしたらいつ?」
「今はまだ駄目だ。十歳を越すまで待つ」
十歳を過ぎたら打ち明けられるという保証もない。
子供がどうということよりも、自分達が話せない。
口にするのも忌まわしく、辛い。
「リアの父親のことは?」
「リアさんが話すって。…強いよね、彼女」
真実を伝えるのは怖い。
かつて上司に知られたときよりも恐ろしく感じる。
父さんが呼ぶ声で、アタシは時間を見た。
来てから三時間ほどが経っていた。子供は就寝の時間。
「帰るぞ」
「うん」
父さんの手をとって、もう片方でアーシェに別れの合図をする。
大きく手を振ってくれるアーシェは本当に可愛い。
アーシェを守りたいと思い始めたのはこの頃から。
アタシの大事な従妹。
何があっても守る。
父さんがアタシを悪い人から守ってくれているみたいに。
父さんが連れて行ってくれるのはアーシェのところだけじゃない。
病院に入院している母さんの所にも、毎日行く。
「遅い!今日は十時に来てって言ったじゃない」
「…悪かった」
どう考えても父さんは母さんに負けているような気がする。
これからも絶対勝てないような気がする。
「グレイヴ、おいで。ブラックは紅茶買って来て」
「何だよそれ」
「いいから早く!」
父さんを使ってる時の母さんは楽しそうだ。
だけど、それ以上に嬉しそうなのはやっぱり父さんが病室に入った瞬間。
「砂糖大量に入れてきてやった」
「ありがとう。グレイヴも飲む?」
「甘いのヤ」
「お父さんと同じ味覚なの?」
家族で唯一の極端な甘党である母さんは呆れたように笑う。
父さんと正反対なのに、父さんが大好きだという。
何だか不思議。
アタシはそんな風に毎日を過ごしていた。
楽しい日々は常に危険と隣り合わせだった。
だけどどうしてそうなのかを知らなかった。知ろうともしなかった。
アタシは甘かったんだ。
「アーシェ、本気で言ってるの?」
アタシは十歳、アーシェは九歳。まだ子供。
なのにアーシェは、もう「これから」を考えていた。
「本気だよ。私、軍人になる」
「どうして?!危ないよ!」
アーシェの誕生日のすぐ後だった。
いつものように遊びに行ったアタシに、アーシェは真剣な眼差しで言った。
「わかってる。でも、お父さんもお母さんも通ってきた道だから…」
「だからってアーシェまで…」
伯父さんも伯母さんも、アーシェにその道を強要するような人じゃない。
これは、アーシェが自分で決めた事。
「ホント言うとね、私、知りたいの」
「…何を?」
「お父さんの事。どうして手を怪我したのかとか、どうして父方のお祖父ちゃんがいないのかとか。
母方のお祖父ちゃんの事は聞いたけど、お父さんは何も言わないから…」
軍人時代に何かあったらしいけど、それが何かは知らない。
アタシの父さんにも関係することだから、アタシも考えなきゃいけなかったのに。
「お父さんとお母さんには内緒よ」
アーシェだけを立ち向かわせて、アタシは何をやってるんだろう。
「…アタシは反対」
「うん、そう言うと思った。グレイヴちゃんはいつも私を守ってくれてたから」
アタシはこれ以上何も言えなかった。
アタシに言える筈がなかった。
アーシェは伯父さんと伯母さんを説得して、勉強を始めた。
その間、遊びに行くとアーシェが弓を持っている姿をよく見た。
受かっちゃうな、と思った。
アーシェだったら、絶対受かってしまう。
止めることができないなら、アタシが行けば良い。
アタシがアーシェを守り続ければ良い。
「父さん」
食器を片付け終えて、アタシは切り出した。
反対されると思う。父さんは軍人がどれほど危険な職業かわかってるから。
「父さん…アタシ、軍人になる」
わかってて言うアタシは、やっぱり親不孝だ。
母さんは病気、アタシは危険に身をおくとなったら、父さんはきっと辛い。
だけど、
「そうか」
父さんは、それしか言わなかった。
「…止めないの?」
「お前は言っても無駄だろ。…オレに似ちまったんだから」
父さんは息をついて、アタシと同じライトグリーンの瞳を真っ直ぐこちらへ向けた。
「オレは止めねーよ。だけど、母さんを心配させるなよ。お前に何かあったら絶対病気悪化するから」
父さんはそう言いながら、自分もかなり心配していたと思う。
コーヒーカップを持つ手に力が入りすぎていた。
「…大丈夫。母さんを心配させないし、父さんを独りにもしないよ。
自分の身は自分で守る」
もう守られない。
守るのは、アタシ。
娘がこの道を歩もうとすることは、心のどこかでわかっていたような気がする。
だからせめて、スタート地点までは導いてやりたかった。
「ハル、頼みがある」
大総統ハル・スティーナは、普段頼み事なんて滅多にしない知り合いの言葉に眼を丸くした。
「訪ねてくるのも珍しいのに、どうしたんですか?」
「来月の入隊試験、娘が受けるんだ」
「そうなの?!」
「それで、お前の祖父さんに刀を作って欲しい」
ハルの祖父は現役の刀鍛冶で、多くの名刀を作ってきている。
頼みにくることは納得できるが、一つ疑問があった。
「でもブラックさん、自分のは?あげないの?」
刀なら、受け継げばいいのではないか。
軍人養成学校で講師をしているとはいえ、実技を教えることは比較的少ない。
それならば、と思ったのだが。
「オレの刀なんかアイツに握らせたくねーんだよ。
あの刀は…人の血を吸いすぎた」
「…そう…ですか」
ハルはブラックの過去をよく知らない。
しかし、ブラックの気持ちはわかった。
「わかりました。お祖父ちゃんに頼んでみます。
きっと良いの作ってくれますよ」
十五年前、初めて会った時はあんなに怖い人だったのに。
今では互いに人の親だ。
子を思う気持ちは同じ。
「おかあさーん」
「どしたの、レヴィ…今お客さん来てるから待って」
ハルの息子レヴィアンスが部屋に入ってくる。
ブラックを見て、首を傾げた。
「…誰ですか?」
「ブラックさんだよ、レヴィ。レヴィがとっても小さい時に会ったことあるんだけど、覚えてないかな…」
「ブラックさん?」
ハルともアーレイドとも似ていない緋色の髪が揺れる。
まだ八歳だったはずだが、明日の入隊試験を受けるのだという。
「これで実力者か。さすがは大総統子息だな」
「レヴィは自分で頑張ってるんです。ボクはほとんど何にもしてないんですよ」
ハルは嬉しそうに笑った。
「ねぇ、どうしてブラックっていうの?」
レヴィアンスは人見知りをあまりしないらしい。
ブラックは自分の娘を思い、正反対だな、と思う。
「何にも染まらないように、ブラックっていうんだ。
オレのお袋がつけてくれた」
「おふくろ?」
「母さんのことだ。…お前は母さん好きか?」
ハルはこのとき初めて、
「ボク、お母さん大好き!お父さんも大好きだよ!」
「そうか」
ブラックの優しげな笑顔を見た。
本当に、一瞬だったけれど。
入隊試験までの一ヶ月、父さんは空いた時間で居合の稽古をつけてくれた。
とはいっても父さんのはほぼ自己流で、正統なものじゃない。
それでも良かった。自分を守れるなら。
アーシェを守り抜けるなら。
筆記は一般常識と語学、計算、大総統史。父さんが教師だから何とかなった。
ほんの一ヶ月やっただけで受かるとは思えない。
だけど、やれるだけのことはやった。
そうしている間に、アーシェは入隊試験に合格した。
逃れられない危険に入り込んでしまった。
アタシも早くしないと。守りに行かないと。
父さんが練習用に貸してくれた摸造刀は重くて、アタシをさらに焦らせた。
そして、試験前日はあっという間にきてしまった。
「今日は摸造刀は使わねーぞ」
父さんはそう言って、アタシに箱を渡した。
促されて蓋をスライドさせると、
「…これ…」
鞘の光沢が美しい、一本の刀。
手にとって抜いてみると、自分の姿が映る刃。
「お前のだ」
アタシの、刀。
「それを使え。模造刀より軽いはずだ」
そう、軽かった。
だけど、重かった。
これを握ってしまったら、もう後戻りはできない。
解答用紙を埋め終わり、時間がたっぷり残っていることを確認する。
結構簡単な問題だった。
ペンを置いてふと前を見ると、試験監督がこっちの方を見ていた。
まだ若い。十代後半だろうか。
赤茶色の髪と眼。どこかで見たような感じ。
アタシは目をそらして、この後の実技試験のことを考えた。
大丈夫だ。アタシには父さんがついてる。
ハルは実技試験をずっと見ていた。
先月の入隊試験では元上司の子三人と我が子が合格している。
しかし、彼等は少なくとも一年を準備に費やした。
一ヶ月、ブラックは娘に何をしたのだろうか。
あの動きはとても一ヶ月で身に付けたとは思えない。
「ブラックさんの子だろ?」
「アーレイド…うん、そうだよ」
仕事を終えて顔を出した大総統補佐に、ハルは頷いた。
「女の子では一番かもしれない」
「まだ粗いけど、一ヶ月にしては上出来だな」
何を思い、あそこまで。
振るう刀はよく知っている輝きだが、やはり違う。
「アーレイド、行こう。…お祖父ちゃんに報告しなきゃ」
今度の使い手は良い素質を持っている、と。
合格通知が届いた。
一ヶ月遅れてアーシェと同じ所に立てた。
通知を父さんに見せると、少し考えていたようだった。
「寮の手続きするか?」
漸く発した言葉は、それ。
「何で?」
「ここからだと遠いだろ。アーシェも寮に入る予定だそうだ」
「アタシ寮入らないよ」
即答した。決めていたから。
アタシはずっとここにいる。
父さんを独りにしたくない。
だから…
「これからもよろしく、父さん」
アタシをここから始めさせてください。
軍に入ってから色々な人と会ったりした。
今まで周りにいなかったタイプの人間もいる。
でも多分、何とかなる。
「しつこいっ!」
「ぐはっ…グレイヴ、もうちょっと俺に優しくしてくれない?」
「つきまとわないならね」
何とかなる…といいなぁ。
Fin