王宮の応接間に、二つの影があった。

美しい装飾の施されたティーカップに、白く細い指をかけるのはこの国の女王。

出された紅茶には手を出さず、腕組みをしたまま女王を見据える、赤毛の男。

護衛の一人もつけず、二人は対峙していた。

「オレの聞き違いかな。ご大層なお言葉をいただいた気がしたんだけど」

とても尊敬の感じられない男の台詞に、女王はくすりと笑う。

そして、カップに触れる前に口にした言葉をもう一度告げた。

「聞き違いじゃないわ。……貴方を大総統に推薦して差し上げると申し上げたの」

「して差し上げる、ねぇ……」

男は口角を上げたが、そこに愉快さや嬉しさは微塵もない。

女王もそれを承知で続けた。

「私が推薦すれば、貴方は間違いなくその座に就ける。大総統になりたかったんでしょう? 夢が叶うじゃない」

「こんな形で叶えたくないね。……そっちの要求をさっさと言ったらどう?」

「まぁ、お見通しなのね」

こんなやりとりは茶番だと、互いに思っている。ならばはっきり言ってしまった方がいい。

どうせ彼は断らない。

「大総統になったら、ゼウスァート姓を名乗って欲しいの」

「目的は?」

「わざわざ説明するまでもないでしょう?」

にっこりと、しかしけっして人が良くは見えない笑みを浮かべ、オリビア・アトラ・エルニーニャは迫る。

ならばと、男はニヤリと笑って返す。

「初代大総統の末裔を王宮が推薦することで、いかにも軍と王宮が仲直りしたように見える。

けれども、王宮が軍の頂点を従えているという構図を作りたいっていうのがアンタ方の本音だろ?」

オリビアは何も答えない。これ以上何を言っても、話は進まないだろう。

ちょうどいい。確かに男は夢を持っていた。それからどうするかは、叶ってから考えても遅くは無いだろう。

ビジョンが無いわけではない。やる気も充分だ。それなら選んでやろう、茨の道を。

「やってやるよ。レヴィアンス・ゼウスァート、その命受けてやろうじゃないか!」

礼ではない。宣戦布告だ。

全てを思惑通りにはさせない。

 

ハル・スティーナが大総統を引退した後で、その座に就いた人間が役目を放り出して逃亡し、大総統に対する不信が国民の間に広がった。

大総統と共に国政を司る王宮と文派は、それを鎮める為という建前で新しい大総統を選出した。

トップの本音はさておき、初代大総統の姓を名乗る人間が軍の頂点に立つことは、それだけで多くの人々に希望を与えた。

もちろん彼の人柄を知った上で期待する人々も存在する。そしてその逆も然り、だ。

たくさんの味方を得ると同時に、たくさんの敵を作る。大総統の地位に就くということは、それが誰であれそういうものだ。

かつてその地位にいた自らの母を見てきたレヴィアンスには、その覚悟が充分にあった。

 

 

 

 

エルニーニャ王国軍中央司令部には、国内で最も広い練兵場が備わっている。

中央が最も人員を有するからというだけではなく、地方司令部からの出張訓練を引き受けることもあるために、この広さが必要なのだ。

今日も練兵場は基礎訓練に励む新人や、デスクワークに飽きて身体をほぐしに来たベテランなど、様々な階級の軍人達で賑わっている。

その一角に、人だかりができていた。見物客が作る輪の中心では、黒髪の美しい少女が、自分よりも上位の階級バッジをつけた男どもを踏みつけていた。

「さぁ、次の挑戦者は誰? いつでもかかっておいで!」

少女はよく通る声で吼える。見物客は顔を見合わせ、誰か彼女に立ち向かう勇敢な人間はいないかと探す。

だが一向に出てくる気配がなく、少女は呆れたような溜息をついた。

「今日も全勝か。たまには敗北を知りたいわね」

挑発に乗ろうとする者もいない。先ほど圧倒的な強さを見せ付けた少女に、わざわざ無様な姿を晒しに行こうとは思えなかった。

ここのところ毎日この調子だった。我こそは、今日こそは、と少女に勝負を挑み、あっけなく散っていく軍人たち。

情けない、悔しい、という感情も、すっかり仕方ない、もういいや、といった諦めに変わってしまった。

少女もそれを察し、今日はもうやめよう、明日以降もやめておこうかな、と考えながら敗者を踏んでいた足を退ける。

「あ、今日はもう終わり?」

見物客もその場を離れようとした、その時。唐突に響いた声は、この国の者なら誰でも知るものだった。

群衆はざわめきながら道を開け、そのど真ん中を声の主が悠々と歩いてくる。

少女はその姿を見て、頬を引き攣らせた。

「先日、こういう真似は感心しないって怒られてなかったっけ? イリス」

にっこりと笑う声の主。見事な赤毛を風になびかせ、少女の正面で立ち止まる。

「……レヴィ兄」

彼にイリスと呼ばれた黒髪の少女は、思わず逃げの体勢をとった。

「どこから見てたの?」

「だいたい全部。見晴らしのいい絶好のスポットがあるんだよ、知らないだろ?」

「あっそう。じゃあ今度教えてもらおうかな。それじゃわたしは急に用事を思い出したので」

「何だよ、冷たいな」

イリスの腕を、赤毛の男ががっしり掴む。

性質の悪い微笑みで、

「いつでもかかっておいでって、さっき言ってたじゃん」

額がぶつかりそうな距離まで、顔を近づける。

「敗北知りたいんだよね? オレが教えてあげるから、その後ちょっと付き合ってよ」

額を冷や汗が滑るのを感じて、イリスは後悔する。

あんなこと、言うんじゃなかった。

 

イリス・インフェリアは、エルニーニャ王国軍中央司令部に属する少尉である。先日昇級したばかりだが、身体能力はそこらの尉官など軽く凌駕している。

そんな彼女も大将級には流石に敵わない。体格も経験も、彼女とは圧倒的に差がある。

かくして大総統に就任するほどの実力者であるレヴィアンスに、久しかった敗北を味わわされたのだった。

「レヴィ兄、ちょっとは手加減してよね……」

「え、今の本気だと思った? それはちょっとイリスが弱すぎるんじゃないかな」

「あーもうっ! ホントむかつく!」

敵わない相手だと解ってはいたが、やはり負けると悔しい。けれども少しだけ清々しい。

だからレヴィアンスの頼みも、きちんと引き受けてやろうという気になっていた。

「で、付き合ってあげるけど……何か用?」

「生意気だなー。そこが良いんだけど。用件はオレの部屋でね」

「オレの部屋って、大総統室でしょ。私物化しないでよ」

「そうそう、その口調。ニアにそっくりでホント可愛い」

くっくっ、と笑いながら大総統執務室へ向かうレヴィアンスの後ろを、頬を染めるイリスがついていく。

この二人は、イリスが軍に入隊した頃からこんな調子だった。

 

大総統執務室の、実に丁度良い塩梅のソファをイリスは気に入った。軍の最高司令官に用意された部屋だというのに、思い切りくつろいでいる。

そして当の最高司令官は、彼女にさらりと告げた。

「イリスさ、大総統補佐やってよ」

「はぁ?!」

いくらくつろいでいても、大事なことを言われたのはすぐにわかった。そしてそれがあり得ない話であることも理解した。

「レヴィ兄、何言ってんの?! 大総統補佐って、普通大将から選ぶんじゃないの?!」

思わず背筋を伸ばして座りなおしたイリスを、レヴィアンスはまたあの性質の悪い笑みで見る。

そして、軽いままの口調でとんでもないことを喋り始めた。

「いやさ、オレの立場って女王から押し付けられたようなものなんだよ。

だからこっちからも、補佐を大将に限らなくて良いならって条件を出したんだ。これが意外にあっさり承諾してくれてさ」

「それで何でわたし?! もっと良い人いるじゃん、ほら、将官とか佐官とかにさぁ!」

「最初からイリスにしようと思って提案したんだ。他に選択肢は無いよ」

あっけらかんと言うレヴィアンスに、イリスは青くなったり赤くなったり震えたりと忙しい。

それが余計にレヴィアンスを喜ばせると思うと、悔しくて仕方ない。

「……何で」

搾り出した言葉は、いつもの彼女からは考えられないほどはっきりしない音。

「何でわたしなの? わたしじゃなきゃダメな理由は?」

それでも正確に聞き取り、レヴィアンスは答える。

「実力があるから、早いうちから補佐として育てておきたいっていうのが一つ。

それともう一つは、オレがゼウスァートとして推薦されたからっていうこと。

エストはとっくに辞めちゃってるし、インフェリアの長男は先月さっさと絵描きに転職しちゃったし、残るのはイリスだけだろ」

「……偉い人って体裁ばっかり気にするんだね」

「偉いふりをしなきゃいけないからね、仕方ないんだよ」

正直な話を聞かされて、イリスは俯く。実力を認めてくれるのは嬉しいが、実際はそれよりも家柄の方が大切なのだ。

インフェリアの娘だから、御三家の一族だから、特例で補佐の地位を得られる。

「なんか、ずるいよ。わたし、ただの少尉だよ? ちゃんと大将から選びなよ、レヴィ兄。こんな理由で補佐になるなんて、わたしは嫌だからね」

納得できないことには断固として抗う。この頑固さは誰に似たのだろう。

多分兄譲りだな、と思い、レヴィアンスは笑う。先ほどまでの悪徳ぶりからは考えられないほど優しい笑みだったので、イリスは目を丸くした。

「そう言うだろうと思って、ちゃんと大将から正式な補佐を選んである。でもイリスにも手伝って欲しい」

「わたしに何ができるの?」

「色々。だから、補佐見習いって形ではどう?」

「……それはそれで、ちょっとむかつく」

「引き受けてくれたら、練兵場でのことはニアに黙っててあげるよ」

「……その取引はずるい」

イリスは先日、練兵場での大立ち回りを控えるようにと兄に叱られたばかりだった。実兄であるニアは、普段は穏やかな青年だが、怒るとそれはそれは怖いのだ。

この一押しで、イリスは大総統補佐見習いとして、レヴィアンスの直近の部下となったのだった。

 

 

イリスの報告を聞いて、ルイゼン・リーゼッタ大尉は思わず吹き出した。

笑い事じゃないとイリスは睨むが、彼は悪いと言いながらも肩を震わせ続けている。

「いや、あの人らしいと思って。本当にイリスのこと気に入ってるんだな」

「公私混同は不味いと思わない? レヴィ兄はテキトーすぎ!」

「告げ口をしない条件で引き受けるイリスもイリスだろ」

「う……」

閉口したイリスをもう一度笑って、ルイゼンは傍らの書類に手を伸ばす。

普段から仕事を共にしている彼らは、今回も共通の任務を持っていた。

「続きはこっちが終わってから。下っ端にはかわりないんだからさ」

「だね。で、どんな任務よ、ゼン?」

イリスとルイゼンは、幼少の頃からの付き合い、つまりは幼馴染である。

ルイゼンの方が一つ年上で、イリスよりも早く軍に入隊した。そのために階級上は彼が上司ということになっている。

しかしそのやりとりはいつも対等だ。付き合いの長い親友同士、互いに助け合っている。

そんな彼らだが、もちろん任務まで二人きりで引き受けているわけではない。普段は尉官四人のグループで動いている。

入隊時から互いを知り、高めあってきた仲間。息はぴったり、仕事は確実。誰もが認める精鋭班だ。

その残り二人が、ちょうどこの第三会議室に現れる。

「待たせたな」

琥珀色のロングヘアと、細いフレームの眼鏡が特徴的な少女が言った。

「いや、今から説明しようと思ってたから。タイミングはいい」

「それは我々がいないのに説明を始めようとしていたということか」

ルイゼンの言葉にすかさずつっこむのは、黒縁眼鏡の少年。

ごまかすように笑って、ルイゼンは二人を席に着かせた。

「メイベルとフィネーロも来たし、さっそく任務の説明を始めようか」

準備した資料のタイトルは「貴族家連続窃盗事件」。先日発覚したばかりの案件だ。

連続して起きた事件であるにもかかわらず、発覚が遅かったのは、軍への通報がそれまでなかったためだ。

貴族家のみを狙ったこの窃盗事件だが、標的となった家はいずれも軍と関わりたくない事情を抱えていた。

「最初の標的となった家は、貴族家に課される税金をごまかしていた。二件目、三件目も同様。四件目は不正取引に関与……。

これ以上は読み上げないけど、被害にあったのはどれも貴族条項に違反している家だ」

エルニーニャ王国では貴族階級が存在している。これに該当するのは、遺産を一定以上有しており、なおかつ社会に貢献する活動をしている家だ。

社会貢献活動や、遺産に応じた税金を国に支払うことなどが義務付けられた貴族条項に違反すると、貴族階級は剥奪される。

つまり貴族の持つ、国政や国内経済にある程度関与できるという特権を失うことになるのだ。

せいぜい王宮や文派、そして大会社と関わる機会が他に比べて多いというだけなのだが、彼らにとってはそれが重要らしい。

自分たちのしていることが明るみに出ることで、階級を失いたくないと思うあまり、彼らは盗人が現れたことを報告できずにいた。

事件が発覚したのは、まさか自分の家が貴族条項に違反しているとは知らなかった貴族家子息の通報があったためだ。

それをきっかけに調査を始めると、事件と各家の違反がわんさか出てきたのだった。

貴族条項違反については佐官以上の仕事になる。従って尉官が担当するのは、窃盗の方。

手口や被害者に共通点があることなどから、同一犯であると考えて良さそうだ。

「違反者ばかり狙うとは、窃盗犯は義賊のつもりなのか?」

琥珀色の髪の少女――メイベル・ブロッケン少尉は、涼しげな表情のまま呟く。

「ぎぞく?」

「単なる悪事ではなく、世の為人の為と思って盗みを働いているってことさ」

首を傾げたイリスに、メイベルは簡単な説明をする。

イリスは納得したように頷き、

「でも盗みは盗みだよねぇ……」

と息を吐いた。

「そうだ、これは犯罪行為。取り締まるのが軍の役目だ」

同意するのは黒縁眼鏡をかけた、フィネーロ・リッツェ中尉。

全員が窃盗犯を捕まえる必要があると判断したことを確認し、ルイゼンは切り出す。

「さて、この仕事が俺たちに来たということは、奴の次のターゲットが判明したってことだ」

被害者たちは隠していたが、窃盗犯は標的に対し必ず予告状を送っていた。

これを見て貴族家の人々はこっそりと警備を増やしたりなどしていたのだが、犯人にとってそれは無意味だったようだ。

どんなセキュリティも潜り抜け、狙った獲物は確実に手に入れる。どうやら相当なやり手のようだ。

現れることがわかっているなら、軍も犯人を仕留められるような実力者を用意する。

「予告通りなら、奴は今夜現れる。しっかり準備しておこう」

「今夜とはまた急な」

「予告状の提出が、今日の午前中だからな。どいつもこいつも、そんなに立場が大事かね」

ルイゼンは呆れるが、イリスは思う。

立場によって自分の行動範囲が決まるのなら、やはりそれは大事なのだ。

女王がレヴィアンスに大総統の地位を与えたこと。レヴィアンスがそれを引き受けたこと。

立場を巡って物事は大きく動くのだということを、イリスは知っている。

逆にどんな立場にいても、どうしようもないことが存在するということも。

 

出動前、レヴィアンスが再びイリスを呼び出した。

「この任務がどういうものか、わかってるな?」

「窃盗犯を捕まえるのが目的でしょ?」

「んー、それはそうなんだけどさ」

歯切れの悪いレヴィアンスに、イリスは怪訝な表情を向ける。これ以上何があるというのだろう。

「目的はそれなんだけど、今回のは依頼任務じゃなくオレが命令したものだ。標的となっている貴族家は、軍が来ることを望んじゃいない」

「つまり?」

「家の人間から冷たくされる可能性がある。いや、確実にそうなると思う」

軍は市民を守る為に存在する。

守るべき市民から冷遇されることで、自らの存在意義に迷いを生じさせることがある。

だがそんなレヴィアンスの心配を、イリスは強気の笑顔で受け止める。

「冷たかろうと温かかろうと、仕事は仕事。わたしたちは任務をこなすだけ。……でしょ?」

真面目な兄を持つ彼女は、その精神をしっかりと受け継いでいるようだ。心配する必要はなかった。

「よし、じゃあ行ってこい!」

「任せて!」

元気よく駆けていく少女を見送りながら、レヴィアンスはぽつりと呟く。

「仕事は仕事、任務をこなすだけ……か」

どんないきさつがあったにせよ、今の自分の立場は大総統。果たさなければならない役割がある。

期待通りに、いやそれ以上に働かなければ。

大総統という立場の自分は、レヴィアンス・ハイルではない。建国の英雄の末裔、レヴィアンス・ゼウスァートなのだから。

 

レヴィアンスが言うとおり、貴族家の人々は軍を快く思っていなかった。

窃盗犯が捕まったところで、貴族階級を剥奪されることは決まっているのだ――彼らも例に漏れず、貴族条項違反をしていた。

「軍というやつは、自分の手柄しか考えないのかね」

そんな家主の呟きは聞こえないふりをして、イリスたちは配置についた。

犯人の狙いは家宝である宝石。しかし実物は見せてもらえなかった。

自分たちで持っていた方が安全だ、と家主が言うので、そうさせておくことにした。家主の身辺に注意していれば、問題はないだろう。

……というのはルイゼンとメイベルの判断であり、イリスとフィネーロは納得していなかった。

「人に危険が及ぶかもしれない状況は避けるべきではないか?」

フィネーロがそう言ったが、メイベルは忌々しそうに返事を吐き捨てた。

「そう言っても聞き入れないんだ、仕方ないだろう。私としては、寧ろ怪我でもしてくれた方が清々する」

「ベル、その発言もやばいって……」

「む、すまないイリス。これは心の内に秘めておくべきだったな」

結局、「配置」はルイゼンを家主の傍に、他三人を外にということになった。家主が軍人に囲まれることを好まない為である。

よほど家宝を人に譲りたいようだな、と言うメイベルに、これで犯人捕まえられたら大手柄じゃん、と笑ってみせるイリス。

納得はせずとも、こうなってしまったものは仕方がない。与えられた条件でなんとかするしかない。そんなイリスの潔さもまた、兄らから学んだものだ。

夕闇の中、様々な思いを抱えながら窃盗犯の出現を待つ。

屋敷を照らす月明かりが、雲に遮られて届かなくなる。

「あなた、ちゃんと宝石はお持ちでしょうね」

家主の奥方が確認する。

「このとおり、ちゃんと持っている」

奥方に見せるように、家主は宝石を取り出す。

家宝というだけあり、その大きさと輝きはルイゼンも見たことのないような立派なものだった。

それを奥方はそっと手で包み込み、家主から離した。

「それじゃ、いただきますよ」

「あぁ……、え?」

奥方はにやりと口角を上げ、素早く玄関へ。

ルイゼンは慌ててその後を追いながら、無線で三人に告げる。

「犯人は奥さんだ! 玄関から出るぞ!」

完全に油断していた。なにしろ彼女は最初から今までずっとここにいたのだから。

つまり、ルイゼンたちがここに来たとき、犯人はとうに侵入に成功していたのだ。

初対面じゃなければ何らかの違和感に気付けたかもしれない。いや、家族も気付けなかったのだから、自分たちがわかるはずはなかった。

そんな言い訳に意味はない。とにかく奴を捕まえなければ。

犯人が玄関を出る。そこには連絡を受けたメイベルとフィネーロが待ち構えていた。

「生憎、今の私は機嫌が悪い」

メイベルが銃を構える。両手に一丁ずつ、銃口はどちらも犯人へ真っ直ぐ向けられている。

容赦なく撃ち出された銃弾は、しかし、屋敷内の壁に叩き込まれた。

「上だ!」

フィネーロが見上げ、叫ぶ。犯人はすばやく屋根にロープを伸ばし、空へと跳ね上がっていた。

逃亡用に準備していた仕掛けだろう。瞬く間に犯人は屋敷の屋根の上へ到達した。

だが、そこには残る一人が立っていた。

月光を背に、黒い髪をはためかせ。その左耳にはカフスが光る。

彼女の赤い瞳に見据えられれば、大抵の者はその場から動けなくなる。

「逃亡犯ってのは何故か上に来ちゃうんだよね」

不敵な笑みを浮かべる少女に、犯人は両手を上げてみせる。

「君が仕向けたんじゃないのかい? あの女の子に撃たせて、さ」

奥方の姿をしているが、その声は男。随分と変装が上手だ。

「仕向けてはいないよ。ベルはイライラすると撃つし、楽しくても撃つ。いつものことってだけだよ」

「なるほどね」

男はあげていた手を頭にかけ、髪の毛と顔をずるりと引き剥がした。

マスクの下は穏やかそうな好青年。とても盗みを働くようには見えない。

「宝石は返すよ」

「正直なところ、そっちには興味ないんだよね。わたしはあんたを捕まえにきたの」

イリスは男に近付く。目を逸らさぬまま、歩み寄る。

「……なるほど、君の目は特別なんだね」

男が言う。笑みを浮かべて。

「綺麗な赤い瞳だ。こんなに美しい魔眼に出会えるとは、光栄だね」

「無駄口叩かないで。ほら、行くよ」

「いや」

男の腕を掴もうとしたイリスの手を、逆に男が掴む。

「何を……」

「もっとよく見せて欲しい。こんな石なんかより、君の眼が欲しくなった」

「何それ、口説いてるの? 生憎だけど、わたしには通用しないよ」

イリスは手に力を込めるが、男の手を振り払えない。

軍でもほとんど負けなしなのに、こんなひょろひょろした奴を振り解けない。

困惑しているうちに、男のもう片方の手が腰に伸び、抱き寄せられる。

「僕のものになる気はない?」

「ない!」

即答できるのに、体はついていかない。蹴りの一つでも浴びせられればすぐに抜けられるのに、身動きが取れない。

このまま屋根から転げ落ちてやろうかと思ったとき、後ろから声が聞こえた。

「その子放してくれるかな。オレのなんだ」

恥ずかしげもなくそんな台詞を吐く、赤毛の男。

逆光で表情はよく見えないが、多分、彼は笑っていた。

「……レヴィ兄、なんで……」

「やっぱ心配だから見に来た。そしたら犯人に口説かれてるし、来て良かったよ」

言い終わらないうちに、つかつかと歩いてきて、イリスを男から引き離す。

ついでに男を捕まえようとしたが、残念ながらかわされた。やはりかなりのやり手なのだ。

軽いステップで後ずさり、男はイリスに微笑みかける。

「また逢おう、魔眼のお嬢さん」

宝石を屋根の下へ放り投げて、男は去っていった。屋根から屋根へ飛び移り、闇夜へ溶け込んでいく後姿。

「逃がしちゃった……」

「向こうが逢おうって言ってるんだ、また来るだろ」

「あんまり逢いたくない。眼もあんまり効かなかったし」

レヴィアンスが、眉を寄せるイリスの頭を撫でる。

それが「落ち込むなよ」なのか、「無事でよかった」なのか、よくわからなかったけれど。

もし後者なら、「自分がニアに怒られなくて済む」という安堵も含まれているんだろうなと、イリスは思った。

 

窃盗犯は逃がしたが、宝石は戻ってきた。

それでも家主はぶつぶつと文句を言っていた。どうなろうと、彼は貴族階級を失うのだ。

そんなことだからレヴィアンスとルイゼンは始終苦笑いを浮かべていたし、メイベルの機嫌は最悪で、フィネーロはそれを宥めるのに苦労していた。

イリスは、あの男のことを考えていた。

生まれ持ったこの赤い瞳について、彼は何か知っているのだろうか。

人を見つめれば気味悪がられ、少し目が合っただけで気分が悪いだのなんだのと罵られることもあるこの瞳。

軍に入ってからこれを武器として利用することを覚えたが、ほとんどデメリットしかない。

それをあの男は、「欲しい」と言った。

「……一体、なんなの」

掴まれた腕が、じわりと熱くなるような気がした。