憶えているのは、父の涙。

決して短くない時間を共にした人を失って、悲しくて、悔しかった。そんな涙。

幼い自分にも、これがどれほど辛いことなのかわかった。

隣に立つ、黒い服を着た兄の手を握って、小さな声で訊ねた。

「人は、死んだらどうなるの?」

兄はこちらを見て、言いよどむ。今にして思うと、言葉を選んでいたのではないか。

「天国に、行くんじゃないかな」

それはとても綺麗なところだと、絵本には書いてあった。

けれども、それならどうしてこんなにも、残された人達は悲しむのだろう。

これが、八年前のとある葬儀の話。

 

 

 

 

イリスとメイベルは、寮の同室である。

そもそもそれが縁で知り合った。

第一印象で、イリスはメイベルを、ぶっきらぼうで少し怖い子だと思っていた。

一方メイベルはイリスを、頭の悪そうな女だと思っていた。

そしてお互いそれをストレートに口にした。そうしたら一気に仲良くなった。

二人ともが、正直でさっぱりした人間を好んでいたからだ。

以来五年、二人は仲睦まじく寮生活を送っている。

「イリス、私はあの盗人の抹殺計画を立てた」

メイベルが愛用の銃たちをずらりと並べ、一つ一つ丁寧に点検しながら言う。

「盗人って、貴族家の?」

「そうだ。私のイリスの腕を掴み、腰に触り、……実に赦しがたい」

「……あはは、そうだね……」

メイベル・ブロッケンには最も愛するものが二つある。銃火器の類と、イリスだ。

第一印象から考えると、あれから随分と気に入られたものである。

今ではスキンシップと称してイリスの服に手を突っ込む、風呂では胸やら太腿やらに触りまくるなど、クールな表情でセクハラし放題。

メイベルとは、実はそういう人物なのであった。

「ベル。あれ抹殺しちゃったら、盗み働いてた理由がわからなくなっちゃうからね」

「では事情聴取後に遂行できる抹殺計画に変更しよう」

「だめだめ」

いつもどおりに冗談を交わしながら、イリスは話題となった盗人を思う。

あまり逢いたくはないが、訊きたいことがある。向こうはイリスに興味を持ったようだから、いずれ再会してしまうだろう。

そういえば名前を聞いていなかった。だから彼の呼称は、盗人か窃盗犯のままだ。

「そうだ、大総統閣下も一発撃とう」

「え、なんで」

「イリスを“オレの”と言った。誰が譲るか、私のだ」

メイベルの発言に苦笑しながら、今度はレヴィアンスのことを思う。

軍の御三家インフェリアの娘であるイリスを、大総統補佐見習いに任命した彼。

体裁やら立場やら、面倒なものを背負ってしまった彼は、大総統であると同時に兄だ。

実の兄ではないが、昔から面倒を見てくれた人を支えないわけにはいかない。

自分に何ができるのか、何をしなければならないのか。イリスはずっと考えていた。

しかし、考えるだけでは何にもならない。第一、イリスは頭を使うことが苦手だ。入隊試験のときも兄らのスパルタ教育で、何とか伍長入隊枠に滑り込んだのだ。

自分が確実に役に立てることといったら、闘うこと。けれどもレヴィアンスはそれを良しとしない。

正確には、イリスの実兄であるニアが良しとしない為に、レヴィアンスも勧めない。

「イリス、何を考えている?」

「……ん、まぁ……色々と」

「答えになっていないぞ」

イリスはニアが好きだ。だから、ニアの考えが自分を思ってのことだと受け止められる。

受け止めた上で、闘っている。いつかは認めてくれると信じて。

「ベル」

「何だ」

「わたし、明日お兄ちゃんのとこに行ってくるね」

兄のことを考えていたら、会いたくなった。多分、考えてなくても会いたかった。

盗人の件やレヴィアンスのことを、最も信頼を寄せる兄に話したかった。

 

 

夕方に仕事が終わると、イリスは駆け足でバス停へ向かった。

ニアは今、アパートに部屋を借りて暮らしている。イリスは暇があればそこに遊びに行くので、バスの料金や時間などはすっかり覚えてしまった。

アパートに一番近い停留所で降り、目的地まで歩く。まだ新築と言って差し支えない、小奇麗な建物の二階に、その部屋はある。

呼び鈴を鳴らせば、室内から聞こえてくる足音。いつもこの瞬間にわくわくする。

「はい……って、イリスか」

ドアを開けた、陽だまりのような笑顔を浮かべたその人。

優しい海色の瞳に、自分が映ることがたまらなく嬉しい。

「お兄ちゃん、ただいま!」

元気よくそう言えば、おかえり、と返してくれる。

これがイリスの大好きな兄、ニア・インフェリアだ。

あがりこんで、居間のソファでくつろいでいると、台所からいいにおいがしてくる。夕食の準備をしていたらしい。

「お兄ちゃん、今日のご飯何?」

「んーと……鶏肉のバジル風味だって。アーシェちゃんからのおすそ分け」

あとは焼くだけの状態で持ってきてくれるんだ、と言う兄は、料理はあまり得意ではない。

ニアの料理は、彩りは良いので、目では充分楽しめる。しかし肝心の味はいつもいまひとつだ。

それを見かねてか、時折料理の得意な友人らが、こうしておすそ分けしてくれるのだという。

ちなみにこの部屋にはもう一人住人がいるのだが、そちらは、味は普通だが見た目が壊滅的という謎の料理スキルの持ち主である。

「おすそ分けってことは、わたしの分なかったりする?」

「ううん、数日分貰ったから大丈夫」

香草の匂いで、腹の虫がなきだす。少し手伝いながら、イリスは晩御飯を楽しみに待っていた。

ちょうど料理がテーブルに出揃った頃、この部屋のもう一人の住人が帰ってくる。

「ただいま」

「おじゃましまーす」

どうやら客も一緒のようだ。しかも、聞き覚えがあるどころかおなじみの声。

イリスは玄関へ走っていき、片手を挙げてにっこり笑った。

「おかえり、ルー兄ちゃん。いらっしゃい、レヴィ兄」

「なんだ、イリス来てたのか」

「よし、イリスも一緒に飲もう!」

「だめだよ、未成年だから。おかえり、ルー。レヴィはいらっしゃいませ」

このような賑やかな食卓になることは、珍しくない。寧ろ機会がありすぎなくらいだ。

酒好きなレヴィアンスは、一人で飲むのを好まない為によくここへ通っている。

イリスはもちろんニアに会いに来ている。

ルーファはこの部屋の住人である。正確には、この部屋は彼の名義で借りているものだ。

軍を引退し、母方の持つ会社を継ぐため、今はそこに勤めている。

ニアがそんな彼の「一緒に住もう」という提案に応え、二人は同居することになったのだが、こんな状態なので二人きりでいることは滅多にない。

「あ、今日豪華」

「アーシェちゃんが持ってきてくれたの焼いただけだよ」

「やった、アーシェの料理だ!」

「レヴィ兄、お兄ちゃんがご飯作ったときとテンション違うね」

美味しい夕食に舌鼓を打ちつつ、レヴィアンス持参の酒を楽しむ。イリスはオレンジジュースを飲みながら、大人たちが子どものようにはしゃぐのを見る。

この三人も、もう十六年の付き合いになる。イリスが産まれる前に出会い、それから苦楽を共にしてきたのだ。

「そうだ、お兄ちゃんに話したいことあったんだ」

「何?」

ルーファとレヴィアンスが世間話を始めたところで、イリスはニアに話しかける。

「レヴィ兄が、わたしを大総統補佐見習いにするって」

「本人から聞いたよ。僕も一度、そのことで話さないとなって思ってた」

ニアが世間話を中断させ、にこやかにレヴィアンスの耳を引っ張りながら言う。

「改めてお話しようか、レヴィ。イリスをわざわざ直近においた理由を明確にお願い」

「いたたたた! 話すから放して!」

できるだけイリスを危険な目に合わせたくないニアが、このことを聞いたらどうなるかは予想していた。

そして案の定、少し怒っている。様子を窺いながら、レヴィアンスは話し始めた。

「先々代大総統のときに未解決だった事件とか、取り組んでみようと思って。当時のことをある程度知っていて、実力もある人間を傍におきたかったんだよ」

「それは大総統になることが決まった時から考えてたの?」

「そう。それがイリスにしか務まらないって、最初から思ってた」

単純に御三家の人間だから選出した、というわけではないらしい。

先々代の大総統といえば、ハル・スティーナである。つまりは、レヴィアンスの母だ。

親の残してしまった仕事を片付けるのは子の役目だと、それ以上に、大総統という地位を継いだものとしてやらなければならないと、レヴィアンスは考えていた。

「八年前のあれとか、ね」

「あぁ……あれな」

ルーファが相槌を打つ。イリスにも、“あれ”で通じていた。

「手がかりはまだ何もない。でももう一度洗い直したら、何か出てこないかなって期待はある」

「確かにイリスなら知ってるだろうけど、あれに関わらせるのは、僕はちょっと……」

「もちろんあれだけじゃないよ。先代も色々やらかしてくれたし。何をするにしてもイリスはよく働いてくれると思ってのことだ」

重大な事件から、単純な後片付けまで。イリスには随分期待がかかっているようだ。

そして、それに応えられるような実力を有していると信じられている。

そうなると俄然やる気が湧いてくるのがイリスだ。

「もしあれの進展に関われるなら、わたしは一生懸命やるよ。最初からそう言ってくれれば、わたしもすぐ納得できたのに」

「いきなり言うには重過ぎるだろ。それに、オレはイリスの困ってるカオが好きなんだ」

そう言ったレヴィアンスの耳は、再びニアの手によって引きちぎられんばかりになる。

その光景に呆れながら、ルーファがイリスの頭を撫でる。

「無理はするなよ。ただでさえ人が亡くなってる事件だから……」

「うん、危ないことはしない」

自分を思ってくれる兄たちに、余計な心配をかけるわけにはいかない。それはイリスも理解している。

ともあれ、できることが見つかった。しかもこれは、おそらく自分じゃないとできない。

「あ、それともう一つ話が」

「どうしたの?」

「任務でね、君が欲しいって言われた」

「いたたたた、違う! それ言ったのオレじゃなく窃盗犯! だから耳放して、ニア!」

 

 

楽しい夜が終わり、翌朝はレヴィアンスと共にアパートから出勤。

昨夜の余韻が残っているイリスは、絶好調で仕事をこなしていた。

「お兄さんのところに行ってたんだって?」

「うん。次はゼンも一緒に行かない?」

「都合次第。俺よりメイベル連れてってくれた方がありがたいかな」

メイベルはどうやら、イリスがいないことに耐えかねて、男子寮のルイゼンとフィネーロの部屋へ乗り込んでいたらしい。

散々絡まれた二人は、本日は少々お疲れ気味だ。メイベルはイリスがレヴィアンスと一緒だったことに対し、少し拗ねている。

「昼食は君とメイベルの二人でとることを勧めるよ」

「うん……お疲れ様、フィン」

そんなやりとりをしていたところに、内線が入る。

イリス宛、大総統より。用件はあとで、とにかくすぐに来いと、昨日の様子からは考えられないような真剣な声が耳に届いた。

 

「失礼しまー……、あ!」

大総統執務室に入ったイリスが見たのは、二人の人物。

一人はもちろんこの部屋の主、大総統レヴィアンス・ゼウスァート。

もう一人は、長い金髪が美しい婦人。昨日、美味しい料理を食べさせてくれた人物だった。

「イリスちゃん、こんにちは」

「アーシェお姉ちゃん!」

思わず駆け寄るイリスに、レヴィアンスが咳払いを一つして言う。

「今は仕事中。だから彼女はアーシェお姉ちゃんではなく」

「あ、そうか。ハルトライム夫人だ」

「ふふっ、別にいいのに」

上品に微笑む、アーシェ・ハルトライム。

大文卿となったウェイブロード・ハルトライムと結婚した今、彼女は大文卿夫人として表に出るようになった。

王宮や文派と軍が協力体制をとっている現在、アーシェは度々大総統のもとを訪れている。

「インフェリア少尉、大文卿夫人から依頼だ」

仕事モードのレヴィアンスに、イリスも背筋を伸ばす。

「大文卿管理下にある、国立博物館だが……そこにこんなものが届いたらしい」

差し出されたのは、保存用の袋に入れられたカード。

その装丁には見覚えがある。イリスは受け取り、息を呑んだ。

「あいつ……!」

貴族家を狙った窃盗事件の、被害者宅に送られてきたものと同じカード。

あの窃盗犯が、今度は博物館を狙っている。

「でも、なんで博物館を?」

「この予告状で重要な点は、狙われている物なの。イリスちゃんは“赤い杯”って知ってる?」

「……ごめんなさい、教えてください」

アーシェによると、“赤い杯”という展示物があるらしい。

南の大国サーリシェリアでしか採れない、赤い鉱物で作られた杯。昔、エルニーニャとの交流の記念に贈られたものだという。

「でもね、今展示してあるのはレプリカなの」

「レプリカを盗もうとしてるんですか?」

「そう。レプリカだってことは公表してるから、知らないはずはないと思うのだけれど……」

あのやり手窃盗犯が、わざわざ価値の無いレプリカを盗みに来るのはおかしい。

イリスが思ったとおり、問題は別のところにあった。

「“赤い杯”がレプリカ展示になった経緯を知ってるか」

「ううん、“赤い杯”が何なのかも知らなかったし。元は本物を展示してたの?」

「そう。八年前までは、博物館に本物があったの」

八年前。そのキーワードで、イリスは漸く自分が呼ばれた意味に気付いた。

国立博物館では、八年前に盗難事件が発生していた。盗まれたものが何であったかは知らなかったが、イリスは確かにその事件を憶えている。

事件は突如として起こったもので、博物館警備には通常通り、一般の警備員が配置されていた。

盗みに入ったのは数人。拳銃を所持しており、警備員の一人が銃弾の犠牲となった。

本物の“赤い杯”は盗まれ、警備員は病院に搬送されたが間もなく死亡した。

それはイリスの中で、最も鮮明な葬儀の記憶。父の涙を見た、辛い思い出。

「オレたちにとっては“赤い杯”が盗まれたことよりも、犯人グループに殺された警備員のことの方が重要だった。イリスが憶えてないのも無理はない」

「あいつがレプリカを盗みに入るのと、八年前のあの事件は関係あるの?」

「わからない。でも、もし関係あったなら……」

あの盗人に訊きたいことが増えた。昨日の今日で、こんな機会が巡ってくるとは。

「ディアおじさんの仇に、近づけるかもしれないね」

 

 

閉館後の博物館は展示物用の照明すらも消えており、不気味な様相を見せている。

そこに普段の警備員と、イリスたち四人。先日のことも踏まえ、警備員はあらかじめ本人であることを確認してある。

「今日こそ捕まえてやる……そして事情聴取後に撃つ」

メイベルがリボルバーを構える。が、展示物を壊してしまわぬように弾は込められていない。ただ、彼女自身が銃を持っていないと落ち着かないというだけだ。

「撃つなよ。まったく、どうしようもない奴だな」

呆れつつ、周囲の様子を窺うフィネーロ。今のところ、異常は感じられない。

敢えていうなら、イリスがいつもより神経質になっている。

「焦るなよ」

「焦ってなんか……」

ルイゼンに声をかけられ、イリスは眉を顰めた。

「ただ、絶対あいつを捕まえたいだけ」

八年前の窃盗事件については、犯人グループの情報がほとんど無い。

事件から暫くの後、一人だけ身柄を確保することができたのだが、その人物も自ら命を絶った。

得られた証言は唯一つ。「これは復讐だ」というもの。

事件で一人の命を奪っただけではなく、この一言が一組の家族を壊した。

イリスがどうしてもこの事件を解決したい理由の一つは、そこにある。

あの窃盗犯が何かを知っていて、その上で博物館に来るのなら、絶対に逃がしてはならない。

「捕まえたいのは皆一緒だ、イリス。一人で突っ走るな」

「……わかった」

ルイゼンはそう念押しするが、自分の手で解決したいというイリスの思いは強い。

あの男が現れたら、真っ先に飛び掛るくらいのつもりでいた。

 

時計の針が十一時を告げる。ここまでは何の異常も無く、誰かが“赤い杯”に近づくこともない。

「……本当に来るのか?」

警備員の一人が疑問を口にする。

「誰かのいたずらということは?」

「単なるいたずらならそれでいいよ。何もない方が良いんだ」

別の警備員が言い切る。そう、何もないならそれに越したことはない。

まして人の命が奪われるなんてことは、あってはならなかった。

イリスは幼い頃の記憶を頭の中で再生する。

父の友人であったその人が、時々遊びに来てはイリスの相手をしてくれたこと。

その人が突然この世を去ってしまって、多くの人が悲しんだこと。

しかし思い出の映像は、激しい破裂音によって停止させられた。

音源は“赤い杯”を覆っていたガラスケース。それが何の前触れも無く割れた。

いや、誰かが割ったのだから、前兆に気づくことができなかったというだけのこと。

舌打ちしながら、イリスは、他の三人と警備員も、いっせいに“赤い杯”の方へ駆け寄ろうとした。

だが、立ち込める煙幕が邪魔をする。破裂音と同時に投げ込まれたのか、とイリスは即座に判断した。

厚く、しかし形のないカーテンを必死で潜り抜けた先には、“赤い杯”の展示台。その上にはガラスの破片。

座していたはずの“赤い杯”は――

「やられた……!」

すでに姿を消した後だった。

「イリス、上だ!」

幕の向こうからルイゼンの声がする。その調子から、彼自身も移動していることがわかる。

何とか煙幕を抜け、二階への螺旋階段に辿り着く。足元に気をつけながら、できるだけ急いで駆け上がる。

二回の廊下の突き当りでは、ルイゼンがはしごを上っていた。事前の説明では、あれは屋根の点検用に設置されたはしごのはずだ。

「また屋根の上か……」

先日、初めて窃盗犯に会ったときのことが思い出される。今度は確実に動きを止めたい。

はしごを上りきると、ルイゼンと、その向こうに人影が見えた。

月明かりが逆光になっていないので、向こう側もよく見える。間違いなく、あの男だ。

「あぁ、やっと来た」

“赤い杯”を手にして、男は微笑む。それがとても嬉しそうで、イリスを余計に苛立たせる。

「わざわざ待ってたわけ?」

「ごめんな、イリス。さっき捕まえようとしたらかわされた。あいつ結構素早いのな」

「暢気にしてる場合じゃないでしょ、ゼン! まぁいいか、向こうはわたしに用があるみたいだし」

ルイゼンの横を通り過ぎ、イリスは男を見据えたまま近付いていく。

相手の動きを縛るよう意識して、視線を逸らさない。

「やっぱり綺麗だ」

男はイリスの瞳を見て呟く。

「ふざけないで」

イリスが睨み返す。

距離は縮まるが、男は逃げる気配を見せない。

「あんたに訊きたいことがある」

あと一歩というところで、男は後ずさる。その表情は余裕を保ったまま。

「何かな」

「まずは、“赤い杯”を盗んだ理由」

「複数あるってことだね。……答えるの面倒だなぁ」

「じゃあゆっくり聞いてあげる。司令部でね!」

イリスの足が地を、いや、屋根を蹴る。手を伸ばし、男に掴みかかろうとする。

が、手は宙を掻き、足は浮いた。

男が立っていたのは、まさに屋根の際だった。彼は空中に体を投げ出し、暗闇へ姿を消す。

「イリスっ!!」

ルイゼンの声がした。走ってくる音も聞こえた。

けれど瞳に映るのは、足元の闇。地面はその奥底。

――落ちる。

そう思ったときには、闇の底がどんどん近付いて。

男の姿がどこにも見えないことに気付いたとき、体に衝撃が走った。

 

それはフィネーロのとっさの判断だった。

上、という台詞や、階段を上る音が耳に届き。二階に屋根へ続くはしごがあることを思い出し。

警備員らに、屋根の下にマットを用意するよう指示を出した。

煙幕の中でよくもそんなことができたものだと思ったが、この国で民間の警備会社に勤めている人間の半数以上が退役軍人であったことを思い出して納得した。

彼らはどんな状況にあっても動けるよう、幼い頃から訓練を積み、現在もそれを生かしている人たちなのだ。

かくしてイリスは、地面に激突せずに済んだのである。

「フィン、ありがと……」

「無茶するな、馬鹿」

「……あの盗人、落ちてきた?」

「隣の建物に飛び移った。今メイベルが追ってる」

結局、自分の手では捕まえられなかった。

悔しさを拳に込めたところで、その手がとられる。

「一人で突っ走るなって、ルイゼンに言われただろう」

フィネーロがイリスの手を優しく握りながら、しかし少し厳しい口調で言う。

「僕らは君より、身体能力では劣るかもしれない。事件への執着も君より強くはない。けれど、そんなに頼りないつもりでもない」

眼鏡の奥の瞳が、信用しろと告げていた。

イリスは頷いて、小さな声で返す。

「ごめん」

「宜しい。……さて、あのトリガーハッピー馬鹿を援護に行こう」

フィネーロに手を引かれ、イリスは立ち上がる。体は少し痛むが、動く分には問題ない。

屋根から下りてきたルイゼンを加え、三人でメイベルの後を追った。

 

メイベルは普段から銃を二丁以上携帯している。今日の一丁は弾が入っていなかったが、もう一丁はというと。

「待て、盗人が! 心臓を撃ち抜くぞ!」

しっかり装填済み、中身は盛大に射出されていた。

屋根を走る窃盗犯に向け、地面を走りながら弾丸を放つ。心なしか愉しそうなメイベルに、男も苦笑する。

「心臓撃ち抜いたら、聴取できなくなるんじゃないかな」

「ならば大負けに負けて、足にしてやろう!」

男にとっての救いは、屋根の上という不安定な場所を走っているおかげで足元がふらつき、結果メイベルも動きを正確に読めないということだった。

リボルバーに装填されていた最後の一発が宙へ撃ち出され、メイベルは舌打ちする。

「あ、弾切れ? 助かった……」

「それはどうかな」

男の正面、屋根の下から這い上がってきたのは、赤い瞳の少女。

いつの間に先回りしていたのかと、男は笑う。

「壁を登ってきたの?」

「仲間にかぎ爪ついたロープを借りてね。便利でしょ?」

イリスも笑い返す。

ロープはフィネーロの所有するものだ。彼はひも状のものの扱いならお手の物なのだ。

「さて、仲間に手を貸してもらってまで、あんたを逃がすわけにはいかないんだよね」

とん、と屋根を蹴る。イリスは男に一歩で迫り、上段蹴りを繰り出した。

それをしゃがんでかわし、男は横へ逃げる。

伸縮性のロープを伸ばして、路地の向こうの建物へかけ、そのまま屋根から足を離す。

向こう側へ着地した瞬間、足元を弾丸が掠めた。

イリスと対峙している間に、メイベルが銃への再装填を終えていたのだ。

「今度こそ足だ」

にやりと笑う、琥珀色の髪の少女。

再び放たれた弾丸をぎりぎりのところで外し、男は屋根から飛び降りた。

だがそこには、もう一人。

「さっきは逃げてくれてどうも」

剣を構えたルイゼンが、目の前に立っている。

男は頭を掻いて、まいったな、と呟いた。

それから笑みを浮かべたまま、左手をコートの懐に突っ込み、一気に振り払った。

ルイゼンは払われた何かを剣でとっさに受け止める。

――棍か?!

隠し持っていられるような長さではない。振ることで伸長する仕組みになっているのだろう。

男の左手は巧みに棍を操り、ルイゼンの剣へぶつけていく。

その身のこなしはただの泥棒とは思えない。いや、元々彼はただの泥棒などではなかった。

「お前、一体何者なんだ?!」

「知りたい?」

男は笑みを崩さない。棍を防ぐだけで精一杯のルイゼンは、その余裕が悔しい。

「ゼン、そこ退いて!」

近付いてくる声にはっとし、素早く退く。

背後から迫り来るのは、細身の剣を手にした少女。

イリスが飛び上がり、男の棍へ斬りかかる。

だが男は、左手の裾から何かを零し、口を動かす。

「一つ教えてあげよう」

零れた円柱型のそれは、イリスたちも見慣れたもの。

閃光弾が地面に落ち、視界が真っ白に染まる。眩しさに阻まれて着地しそこなったイリスを、ルイゼンが抱きとめた。

愉しそうな声が耳に届く。

「僕の名前はバンリ。……また逢いに来るよ、イリス・インフェリア」

その響きが、イリスを苛立たせる。

また逃がしてしまったことに、そして真実に近づけなかったことに対する、苛立ち。

剣の柄を握り締める手は、力を込めすぎて震える。

「バンリ……」

その名を持つ窃盗犯は、どうやら再び機会を与えてくれるつもりらしい。

「逃がすもんか、絶対に……!」

光が消え、笑顔も消えた路地で、イリスは奥歯を噛み締めた。

 

博物館に戻ると、警備員らと、アーシェまでもが集まっていた。

“赤い杯”の展示されていた台の周りは騒然としている。

「ハルトライム夫人」

ルイゼンが声をかけると、アーシェは振り向く。その表情が困惑しているようで、イリスがとっさに謝ろうと口を開いた。

「アーシェお姉ちゃん、ごめ……」

「あるの」

謝罪を遮ったのは、意味の掴めない言葉。

アーシェの困惑は、“赤い杯”が盗まれたことに対してのものではない。

群がる警備員たちの隙間から、イリスたちにも見えた。

「“赤い杯”が、あるの」

まごう事なき赤い輝き。それは先ほどバンリが右手に持っていた、“赤い杯”。

彼は確かに盗んだ。しかし、ここにもそれがある。

「どういうこと……」

惑いの夜が更けゆく。

時計は、日付の変更を告げようとしていた。