幼い少女が二人、公園のベンチに座っていた。

一人は大きく、一人は小さい。年齢も離れているが、仲はよかった。

地面に届かない足を宙でぶらつかせながら、小さい少女が言う。

「昨日、おじさん帰っちゃった」

大きい少女が相槌を打つ。すると小さい少女は俯きながら続けた。

「ずっと一緒にいてくれたら良いのに。いつもすぐ帰っちゃうの」

仕事だから仕方ない、と言われているから、我侭は言えない。

けれども、年に数回しか会えないその人が大好きだから、少女はいつも思うのだ。

大きい少女は小さい少女の気持ちをわかっていて、しかし、何も言ってあげられない。

本当のことを知っているのに、教えてあげられない。そういう約束だから。

だけど、時々思う。本当は、小さい少女は何もかも知っているのではないかと。

だって、彼女は言うのだ。

「おじさんが、お父さんだったら良いのに」

希望として口にするその言葉は、紛れもなく真実なのだ。

 

 

 

 

イリスとルイゼンは幼馴染である。イリスが六歳の頃に出会い、一緒に過ごしてきた。

二人でいたずらをしては大人に叱られ、もう一人の幼馴染に心配された。

そうした長い付き合いの中で、二人は互いの考えがわかるようになっていた。

今、イリスが思い悩むことも、ルイゼンには手に取るようにわかるのだ。

「そう落ち込むなよ。あのバンリって奴はすぐに来るだろ。その時に捕まえれば良いさ」

「……うん」

窃盗犯――彼はバンリと名乗っていた――を二回取り逃がし、問いただすこともできなかった。

イリスにとって大事な真実に、近づくことができなかった。

そのことが彼女を悩ませ、机に突っ伏して動かないという状況に陥らせている。

「ごめんな、俺が不甲斐ないばっかりに」

「ゼンの所為じゃない」

「ありがとな、そう言ってくれて。……しかし、“赤い杯”が戻ってきたってどういうことなんだろうな」

話題をそう遠くない位置のものに変える。

博物館に展示されていた“赤い杯”のレプリカ。バンリは確かにそれを盗み、退散した。

しかし、“赤い杯”は元の場所にあった。これだけでも困惑するのに、さらに問題が重なる。

戻ってきた“赤い杯”は、八年前に盗まれた方。つまり、本物だった。

慎重な鑑定の結果だ、間違いない。それが大文卿の下した結論。

もしもバンリが偽者を回収して本物を置いていったのなら、彼はどのような形かは不明だが、確実に八年前の事件に関わっている。

そこを問い質したいのだが、今は向こうからのアクセスがなければ手を出せない。出しようがない。

「八年……それくらい時間が経って、わざわざ返す理由は何なんだろう。早くバンリを捕まえて、白状させなきゃ」

「そう思うなら、伏せてないで動こうぜ。あいつ強かったし、こっちもトレーニングくらいしておかないと」

「ゼンを相手に戦えるなんて、結構な腕前だよね……。よっし、ちょっと体動かすか」

漸く顔を上げたイリスを見て、ルイゼンはホッとする。元気はないが、ストレス解消に動き出しただけでも一歩前進だ。

「ゼン、相手して」

「承知!」

悩んでいても始まらない。動いてこその軍人だ。

 

 

大総統執務室には、書類を見ながら受話器を握るレヴィアンスの姿があった。

「どういうつもりか知らないけど。でも進展がありそうなのは確かだよ」

電話の向こうで、そうか、とだけ返答があった。

相手が考えに耽って黙り込んでしまう前に、話を続ける。

「良かったら一度来なよ。実物も見せたいし、気分転換にもなるんじゃない?」

わかった、と返事。その場で日程を決めてしまい、受話器を置く。

電話を終えたレヴィアンスは、机の上に置かれた小さなビニールパックを見る。

中身は弾丸。先ほど科学部の鑑定が終わったばかりだった。

「解決、するといいなぁ……」

独り言と同時に立ち上がる。

「違うな、させるんだ。オレが……オレたちが」

背負ったものを、確認しながら。

 

 

イリスの身体能力は、そこらの尉官を軽く凌駕する。

これには大尉であるルイゼンも含まれている。幼少の頃から、彼がイリスに勝った例はほとんどなかった。

初めて会ったときもそうだ。イリスはルイゼンに勝負を挑み、勝ってみせた。

だからガキ大将であったルイゼンはイリスを認め、イリスは不屈の精神を持つルイゼンを認めたのだ。

その関係は今でも変わらない。

「なんだ、また負けたのか。ルイゼン」

イリスとルイゼンの手合わせを見物しに来たフィネーロが言う。

「うるせぇ……何ならお前がイリスの相手してみろよ」

「遠慮しておく」

あれだけ打ち合って息を乱さない女の相手なんかごめんだ、とフィネーロは思う。

彼は剣を使うイリスやルイゼンと違い、大きなアクションは苦手だ。

そのかわり、鞭やロープといった紐状のものを扱う変わった戦法で敵を翻弄する。

二人とは相性が良くないが、彼には彼の役割がある。

そして、彼女にも。

「なんだ、ここにいたのか。捜してしまったぞ」

「ベル、お疲れ。射撃場にいたの?」

「あぁ。今日も好調だった」

メイベルが汗を拭きながら現れる。彼女は銃全般を扱うことができるため、中・遠距離専門だ。

担当をうまく分けて、それぞれの役割をしっかり果たす。それが彼らの強さだ。

この四人でバンリを捕まえることを考える。先日はなかなか上手くやったと思う。

だが、まだ足りない。このままではまた逃げられる。

「そうだ、私はルイゼンに質問があるんだ」

「どうした、メイベル」

「君は実際にバンリとかいう変態盗人と打ち合ったのだろう? 気づいたことはないのか」

「気づいたこと……奴が左手で棍を扱っていたこと、それがやたら強かったことくらいで……」

「型などはなかったのか? わからなくても、動作を憶えていれば専門の者に訊ねられる」

なるほど、とルイゼンが頷く。同時に、イリスが棍を使える人物に思い当たる。

「訊きにいこうか。専門って言っていいのかは微妙なところだけど、話はしやすいはず」

「誰に訊きに行く気だ」

「それはだね、」

言いかけたところで、襟首を掴まれる。

ぎょっとして振り返ると、おなじみの赤毛があった。

「訓練、考察。大変結構だけど、ちょっとこっちの用事に付き合ってもらおうか」

「レヴィ兄……」

レヴィアンスがにかっと笑う。イリスたちは苦笑した。

 

四人全員が大総統執務室へ呼ばれ、それを見せ付けられた。

「これ、なーんだ」

「なーんだって……弾丸でしょ」

小さなビニールパックに入れられた弾丸。一見どこにでもある普通のもの。

だがレヴィアンスがわざわざ見せるのだから、特別な事情があるのだろう。

案の定、彼は急に表情を真剣なものに変え、その弾丸の出所を告げた。

「これは戻された“赤い杯”に入っていたものだ。さっき科学部に鑑定してもらって、こいつの正体がわかった」

「“赤い杯”に?!」

博物館に戻ってきた、本物の“赤い杯”。その中に弾丸などが入っていたのを、アーシェが軍へ提出したらしい。

それらは即鑑定にかけられ、結果、とんでもないことが判明した。

「この弾丸には、八年前に亡くなった警備員に撃ち込まれたものと同じ線状痕があった。つまりは同じ銃から出たものってわけだ」

「なんでそんなものが?!」

「さぁな。けれども、こんなものまで用意できるってことは、バンリって奴は確実にオレたちよりも事件の真実に近いんだ」

それだけははっきりしている。彼の知っている真実を、自分たちも知りたい。

イリスは眉を寄せる。あの時逃がさなければ、すぐにわかったのに。

「自分を責めるなよ、イリス」

彼女の様子に気付き、レヴィアンスが言う。

「あの場は逃がして良かった。バンリを泳がせておけば、オレたちは極力リスクを冒さず真相に近づけるかもしれない」

「でも、そんなの……!」

「軍が動くことで証拠を隠滅されたりしたら、それこそ解決できなくなるかもしれない。ここは堪えろ」

一刻も早く解決したい。しかし、焦ることで事態が悪化するのは避けたい。

軍とは関係のない人間が動き、こちらに手がかりをくれるのなら、その方がいい。

それがレヴィアンスの判断だった。

「じゃあ、今わたしたちは何をすればいいの?」

「よくぞ訊いてくれました。これこそが君たちを呼び出した本題だ」

レヴィアンスは、今度は紙片を一枚取り出した。びっしりと文字が並んでいる。

とても読みにくいが、どうやらそれが名前らしいことはわかった。

「これは弾丸と一緒に“赤い杯”に入っていたメモ。何のつもりかどういう意味か……それをはっきりさせる為に、まずはこれを調べてみよう」

ずらりと並ぶ名前を全て検索し、共通項があればその意味を探る。地道な作業になるが、これが必要ならばやらなければならない。

できることから片付けて、それを事件解決につなげることができれば。

イリスは紙片を受け取り、頷く。

「やってみる。ありがとう、レヴィ兄」

「うん、がんばれ。優先すべきは現在入ってきている仕事だから、これは手が空いたときにこっそりやること」

「了解!」

敬礼を返し出て行こうとするイリスたち。

戸を開けようとしたところで、レヴィアンスは思い出したように呼び止めた。

「あぁ、そうだ。明日なんだけど、ちょっと要人警護頼む。イリスと……ルイゼンもついてって」

「要人警護? 佐官に頼んだほうが良いんじゃない?」

「いや、知ってる人の方が良いと思って。空港に午後二時な」

まるで友人をちょっと迎えにいくような、軽い口ぶりだ。そう考えて、イリスは思い当たる。

知ってる人を空港へ――実は、前にもこんなことがあった。

案外、友人を迎えに行くというのは間違っていないかもしれない。

 

現在抱えている仕事はけっして少なくないので、名前調査は業務終了後に行うことになった。

完全に残業である。

「ごめんね、付き合わせて」

「関わった時点で僕たちの仕事だ。気にするな」

「夜のオフィスなんて胸が高鳴るじゃないか」

「メイベルの発言が若干怪しいけど、真面目にやるから安心しろ」

紙片はコピーして、四等分した。それでもすぐには終わりそうにない。

数日に分けてやることにして、イリスたちは机に向かった。

コンピュータに名前を入力し、個人データと照会する。同名が複数いた場合、全てを押さえておく。

エルニーニャ国民のほとんどがこうしてまとめられているが、時折該当情報が存在しないケースもある。

思ったよりも作業を進めることは難しく、元々集中力が長く続かないイリスとルイゼンには辛いものがあった。

一方メイベルとフィネーロは二人に比べると順調で、まとめ方の指南すらしてくれた。

キリの良いところで今日は終了し、寮へ戻って夕食をとる。その間もここまでで気付いたことなどを言い合う。

不謹慎だとも思ったが、イリスは少し楽しかった。

 

 

翌日の午後、イリスとルイゼンは空港にいた。

「要人」が誰を指すのか、説明はない。しかし、イリスには察しがついていた。

「午後二時着って、二つあるみたいだな。どっちかわかんねぇよ」

ルイゼンは腕組みをして呻るが、イリスは即座に判断する。

「北からの便だよ。だからこっち」

「大総統閣下がそう言ってたのか?」

「ううん。言わなくてもわかるから、レヴィ兄はわたしに任せたんだよ」

首を傾げるルイゼンを引っ張って、人を待つ。

まもなくして、その人物は現れた。とはいえ、イリスが手を振るまで、ルイゼンにはわからなかったのだが。

「ダイさーん、お久しぶりー!」

元気な出迎えに、片手を挙げて返すその人。姿を見て、漸くルイゼンにも彼の正体がわかった。

「要人も要人だろ……本来なら将官が迎えにこなきゃならないんじゃないか?」

「いやぁ、多分知らない将官なんかが来たら、あの人すっごい機嫌悪くなるよ」

イリスが以前彼を迎えに来たときは、まだ兄が軍に在籍していて、二人でこの役目を果たした。

一国の軍を預かる人間を、たった二人で、しかも尉官である自分たちが迎えるなど、ルイゼンにとっては初めての経験だった。

「イリス、元気だったか?」

微笑む男は、北の大国ノーザリアの大将。ダイ・ヴィオラセントその人だ。

ルイゼンが戸惑っている間に、イリスはダイに跳びついてはしゃいでいる。

「元気元気! ダイさんもなんとか無事みたいだね!」

国の偉い人に、敬語を遣うどころか友人のように接するイリス。

ルイゼンは幼馴染という立場上、彼らが知り合いであることは知っていたが。

これは本当に、許していいのだろうか。一応は仕事という名目で来ているのだし、自分はイリスの上司だし。

どうすればいいのかわからず途方にくれたルイゼンを、イリスはいつもと変わらぬ調子でダイに紹介する。

「ダイさん、知ってるでしょ? わたしの幼馴染のルイゼン・リーゼッタ」

「よくイリスの話に出てくる奴だな。俺が偉くてかっこいいからって、そんなに緊張しなくていいぞ」

「もー、ダイさんったら。お兄ちゃんの方がかっこいいってば」

「君は相変わらずブラコン全開だな」

ろくに挨拶もできないうちに、勝手に話が進んでいく。親しすぎだろう、この人たち。

司令部へ移動する車内で、やっとルイゼンも会話に加わることができた。

「私用って、……本当に?」

ハンドルを握ったまま、後部座席の「要人」に問う。

「本当。一応はこっちのトップに挨拶しに行くけど、用事はほとんど私事だよ」

会ってから、ダイはずっとにこにこしていた。「北の狂犬大将」とも呼ばれるその人のはずだが、これまでルイゼンが抱いていたイメージとはまるで違う。

イリスも随分懐いていて、優しい人に見える。

「例えばどんな用事ですか?」

だからつい訊ねてしまった。そして後悔した。

「養父殺した奴をぶっ潰すとか」

柔らかな雰囲気を纏っていたその人の眼が、一瞬にして冷たいものに変わる。

ルイゼンは、そしてイリスも、息を呑んだ。

「……なんてね」

再び笑みを見せるも、それがつくりものであると解ってしまう。これ以上は立ち入らない方がいいと判断して、ルイゼンは乾いた笑いでごまかした。

イリスは別の話題をふって、空気を変えようとする。だが一度急激に沈んだものを浮上させることは難しかった。

 

他国からの要人を迎える際には、臨時の三派会が開かれる。

司令部に到着してすぐに、ダイはレヴィアンスと合流し、会議場へ向かった。

「イリスはともかく、ルイゼンは事情よく知らないんだからさ。オレが説明するまで本心は隠し通そうよ、怖がるじゃん」

車内でのできごとを聞いたレヴィアンスは、呆れていた。

「悪い、つい出ちゃったんだ。お前から連絡受けて、それからずっとこのことばかり考えてた」

「……六年ぶりの進展だし、わからなくもないけど」

八年前の事件で、最も深い悲しみを負った一人。姓を受け継ぎ、子を名乗る者。

家族を思う気持ちから事件に執着するダイの姿勢は、昔から変わっていない。

「でも、どうせならもっとこう……平和なことを言えなかったかな。家族に会いに来たとか」

「あぁ、それがあったな。母さんとユロウのところに顔出して……」

「グレイヴとエイマルちゃんにもね」

「……そっか、そっちも家族……か」

声のトーンが下がる。レヴィアンスは小さく溜息を吐いた。

どうにもダイという人物は、昔から大切なものほど自ら遠ざけようとするところがある。

それが一人の少女の「戦う理由」へつながっていることを、彼は理解しているのだろうか。

「ちゃんと会いに行きなよ。気まずかったらイリス連れてっていいから」

「……そうだな」

面倒な三派会に、個人としてやるべきこと。

思うほどに足取りは重くなる。

 

 

本日もイリスたちは残業だ。だが昨日よりずっと手際はよくなっている。

フィネーロなどは自分の担当分を終えようとしていた。

「フィン、早いね」

「あぁ、少し手伝おう」

「ありがと」

イリスの分を少し引き取り、フィネーロは作業を続けようとする。

メイベルが手を動かしつつ、舌打ちした。

「そうやってイリスの好感度をあげようとするとは……」

「ば、馬鹿! そんなつもりは一切ない! これは全体の進捗の為で……」

二人のいつものやりとりに、イリスとルイゼンは苦笑する。

なんでも軍人学校にいた頃から、彼らはこんな感じだったらしい。今更止めることもない。

「お兄さんたちもこんなふうに騒いだりしてたのか?」

ルイゼンの問いに、イリスは頷く。

「そうだね、いつも賑やかだったみたい。レヴィ兄がお兄ちゃんに絡んで、それをルー兄ちゃんが止めようとして」

「あの……ノーザリアの大将もか?」

「うん。ルー兄ちゃんとレヴィ兄はいっつもダイさんに弄られてたんだって。……ダイさん、本当は怖い人じゃないんだよ」

昼間のことを思い出す。

ダイが見せた冷たい目と、本音。だけど、イリスは優しいダイも本当の彼だと知っている。

彼のことを好きで、よく知っている人が、そう教えてくれる。

「イリスがこの事件を解決しようとしてるのは、あの人のためなのか?」

「うーん……それだけじゃない、かな。わたしは一人の女の子の願いを叶えたいの」

「願い?」

ルイゼンが首を傾げる。イリスが返事をする前に、廊下から足音と話し声が聞こえてきた。

二人分のそれはこの部屋の前で止まり、ドアが勢いよく開かれる。

「やっほう、諸君! 頑張ってるかい?!」

「レヴィ兄?! ちょっと、顔赤い! お酒臭い!」

ハイテンションで乗り込んできたレヴィアンスは、明らかに酔っ払っていた。

その後ろには、こちらも飲んでいる様子のダイがいる。

「遅くまでご苦労様」

「ダイさんまで……どうしたの?」

イリスはただ呆れるだけだが、他の三人は驚きすぎてどう反応すればいいのか分からない。

なんか偉い人が二人、酔っ払ってる。ついでにお土産広げ始めた。どうしよう。

「腹減ってるだろ。これ差し入れ」

「オレたち引き続き飲むから」

「ここで?! 何考えてるの、二人とも……お兄ちゃんとイヴ姉に告げ口するよ?」

「そしたらオレがイリスの暴れっぷりをニアに暴露する」

目の前の光景に開いた口が塞がらず、硬直しているルイゼンたち。

それに気付いて、イリスは慌てて言葉を紡ぐ。

「あ、あのね、ちょっと酔っ払ってて正常な判断ができてないだけだから!」

「失礼な。俺たちは至って普通だ。なぁ、レヴィ」

「そうそう。諸君らもこっちに来て食べたまえよ、休憩も大事!」

「あぁ……ダメな大人……」

イリスにはこうなった流れが想像できている。

大方、三派会の後に食事会があって、そこで相当の気疲れがあったのだろう。

それを忘れようと二人で飲みに行ったら、楽しくなってしまって、ここに立ち寄ったと思われる。

でもそんな事情をルイゼンたちが把握できるはずもなく、彼らはひたすら戸惑っている。

そうこうしているうちにダメな大人は酒盛りを始めてしまう。こうなったら、諦めるしかない。

だがイリスが休憩を提案する前に、メイベルが席をたった。

「ベル?」

「これ以上イリスを疲れさせるのも忍びない。私たちも相伴に預かろうじゃないか」

さすがは我らがクールビューティ、メイベルである。すたすたと大人二人の傍へ行くと、物怖じせずに挨拶を始めた。

「お初にお目にかかります、ノーザリア軍大将。メイベル・ブロッケンと申します」

「宜しく。あ、ジュースでよければ飲むか?」

「えぇ、いただきます」

稀に見る優雅なメイベルに触発されたのか、ルイゼンとフィネーロも頷きあって席を離れる。

ダイに簡単な挨拶をし、おそるおそるではあるが宴会に加わった。

「イリス」

レヴィアンスが手招きをする。イリスは仕方なく隣に座る。

「ホント、ダメな大人」

「そう言うなって」

渡されたジュースに口をつける。……少し、楽しくなってきてしまった。

 

国の「偉い人」の話は、まだ「子ども」であったイリスたちには興味深いものだった。

彼らが酔っ払っていなければ、もっと感心できたのであろうが。

いや、素面だったらこんなにぶっちゃけたりしないかもしれない。

「偉いふりって、単に椅子にふんぞり返ってもっともな命令をするってことじゃないんだよ。

例えばどんな話題にも対応できるように情報を集めておくとか、そうやって味方を増やしておくとかね」

「媚を売りすぎてもだめだな。俺は媚売ったことなんてないけど」

一見真面目そうなこの会話の間にも、私怨が覗いたりする。

ある種の「人間味」というものを、イリスたちはひしひしと感じていた。

「……あのね、ダイさん」

話が途切れた隙をみて、イリスが口を開いた。

「何だ」

「仕事は大変だろうけど。こっちに来たときは、ちゃんとエイマルちゃんに会って行ってね」

エイマル、というのはイリスより年下の、しかし軍に入るまではよく一緒に遊んでいた少女だ。

イリスが生まれて初めて見た、生まれたばかりの赤ん坊だった彼女。その時、それまで「みんなの妹」だったイリスに、自分より小さく愛しい存在ができた。

実の妹のように思っている少女のために、イリスはその言葉を口にしたのだ。

受け取った本人は、困ったような笑みを浮かべていたが。

「それ、言われたの二回目だよ。大丈夫、明日ちゃんと会うから」

「それなら良いけど」

「だから、イリスも行こう」

ダイの誘い、というよりは頼み。珍しいことではない。寧ろ毎回のことなので、イリスは少し呆れる。

呆れながらも、頷く。それが彼らを手伝うことになるならと、いつも同伴する。

「レヴィ兄」

「うん、明日の外出な。全然問題ない」

上司の許可もすんなり下りた。自分が二回目なら、きっと一回目はレヴィアンスだったのだろうとイリスは察した。

 

 

昨夜の宴会の余韻を残しつつも、午前中は普段どおりに仕事をこなし、午後の予定にとりかかる。

大総統執務室から出てきたダイと合流し、イリスは妹分の家へ向かった。

「最近エイマルに会ったか?」

「仕事がちょっと忙しかったからね。わたしも会うの久しぶりなの」

広い廊下を持つマンションの、一室。呼び鈴を鳴らすと、すぐに反応があった。

玄関へ向かってくる足音が聞こえると、ダイが持っていた荷物を抱えなおす。いつもの光景だ。

「どなたですか?」

少女の高い声が訊ねる。

「エイマルちゃん、イリスだよ」

「イリスちゃん!」

応答すると、嬉しそうな声と同時にドアが開く。

赤茶色のふわふわした髪の少女が、笑顔で飛びついてきた。

「イリスちゃん、いらっしゃい!」

「久しぶりだね、エイマルちゃん。元気だった?」

「元気だよ!」

女の子が二人、小動物のように戯れる。その姿を微笑ましく思いながらも、ダイは咳払いを一つした。

それに気付いたエイマルがぱっと顔を上げて、彼の姿を見止める。

「おじさん! 来てくれたの?!」

「こんにちは、エイマル」

ダイは微笑んで、お土産を差し出す。エイマルはそれを受け取る前に、「おじさん」に抱きついた。

その様子から、彼らの関係について誰もが思うはずだ――二人は親子なのだと。

玄関先での賑やかさは、その部屋の住人を呼ぶ。遅れてやってきた女性に気付いて、イリスは会釈し、ダイは申し訳なさげに口を開いた。

「久しぶり、グレイヴ」

「……あがって」

無表情で、グレイヴは客人を招き入れる。

エイマルがダイとイリスの手をひいて、にこにこしていた。

 

すっきりと片付いたリビングで、淹れたてのお茶を飲む。

暫くはたわいのない話で、静かに盛り上がる。元々そう騒ぐ人たちではないのだ。

「イリス、今忙しいの?」

「ん、ちょっとね。いくつか担当してて。イヴ姉は?」

「相変わらずよ」

イリスとの会話で、グレイヴはやっと笑顔を見せる。

少しホッとしながら、エイマルの様子を横目で見た。お土産のぬいぐるみを撫でながら、ダイと話している。

エイマルはダイを「おじさん」と呼ぶ。そう教えられたからだ。

それを聞くたびに、イリスは胸を痛める。自分がなんとかできるなら、なんとかしたいと思う。

結局は彼らの間の問題なのだが、その解決を手伝うことくらいはしたい。

エイマルがいつか、「おじさん」ではなく「お父さん」と言えるように。自分がそれを聞くことのできるように。

「……今日は、何の用?」

グレイヴのこの問いを合図に、イリスはエイマルを部屋へ連れて行く。

お母さんと「おじさん」は大事な話があるから、邪魔しないように遊ぼうと言って。

 

一国軍を預かる身でありながら、他国の娘を妻とした。

妻となった人との間に、二人の血を受けた子どもが生まれた。

そのことは何も問題なかった。ダイ自身が気にしていなかったから。

妻と娘をエルニーニャに残したまま、自分はノーザリアで仕事をする。滅多に会えないけれど、それでも良かった。

妻――グレイヴがノーザリアで暮らすことを提案したこともあったが、彼女の父のことを考えて、ダイが首を横に振っていた。

実父を失い、養父をも亡くしたばかりの彼は、彼女に家族を大切にして欲しかった。

思えば、この頃からすでに、ダイは自身を家族に数えていなかったのではないか。

しかしその時は、まだ「離れていても家族だから」と彼自身が口にしていた。

決定的なできごとがあったのは、六年前。娘が一歳を迎えようとしていた日のこと。

養父の死に関わった人間が一人、エルニーニャ軍の手によって確保された日。

「復讐だ」

ノーザリアから駆けつけたダイの目の前で、その人物は言った。

博物館に入った窃盗団の一人であり、ディア・ヴィオラセントを殺した者の仲間だった。

「お前への復讐だよ、ダイ・ヴィオラセント。散々俺たちの仕事を邪魔してくれたから、お礼にお前の大事なものを奪ってやったんだ」

彼が証言したのはこれだけ。その後、自分で舌を噛み切って死んだ。

ダイはその日のうちに、グレイヴに別れを告げた。もう自分のことは、家族だと思わないで欲しいと。

それから彼は、娘のエイマルには自分を「おじさん」と呼ばせ、他人であり続けようとしてきた。

昔も今も、それが彼の、大切なものを守る手段だった。

しかしエイマルは、イリスに言うのだ。

「おじさんがお父さんだったら良いのに」

一連の話を、イリスは兄から聞きだした。そして軍人になり、誓った。

エイマルのために、この人たちをもう一度家族にしようと。

自分の力で、彼らに仇なすものを退けようと。

 

遊んでいるうちに寝てしまったエイマルに、そっと毛布をかける。

部屋を出ると、難しい顔をした「夫婦」が向かい合っているのが見えた。

こちらに気付いたグレイヴが、イリスを呼んだ。

「あの事件に関わるなんて、大丈夫なの?」

心配してくれている。身を案じてくれる優しい人に、イリスは笑ってみせる。

「任せて、イヴ姉。わたしたちが終わらせるよ、絶対に」

不安を拭い去れないまま、けれども微笑んでくれたグレイヴの向こうで、ダイが言う。

「余計なことは考えなくて良いんだぞ」

「余計なことなんて考えてないよ。わたしはわたしの仕事を、わたしの満足いくようにやる」

「……いい心がけだ」

ニアに似てる、と「夫婦」の声が重なった。それがイリスには何より嬉しい。

 

 

終業後、イリスたちは再び名前の羅列と向き合う。

ただし、今度はすでに詳細がまとめられたものだ。名前の主たちの共通点もはっきりしている。

「全員が貴族、あるいは元貴族だな」

フィネーロが改めて確認する。

「元貴族は全員、貴族条項違反で階級を剥奪された者。現貴族で名前があった者も、マークしておくべきだ」

メイベルは冷たい目をして、書面を睨んだ。

「全て八年前のあの事件以降に、貴族階級を剥奪されている。調べてみたけど、その頃から急に貴族条項違反が増えたようだ」

ルイゼンが書類を捲り、グラフを指し示す。だが、イリスは首を横に振った。

「違うよ、ゼン。正しくは貴族条項違反者の検挙数が激増したの」

普通、条項違反は巧妙に隠蔽されるので発覚が遅い。それこそ何年も経ってから氷山の一角が現れる、という具合だった。

しかし、八年前に事件があった後を境に、それまでの何倍も条項違反者が見つかっている。それ以前に比べると異常なほどに。

「違反者の家ばかり狙っていたバンリが、わざわざこれをおいていったということは……現貴族の中に、あいつの次のターゲットがいるかもね」

イリスたちがそう結論付けたことを知ったようなタイミングで、大総統宛に一通の封書が届く。

中身は四枚の招待状と、一枚のカード。

カードにはある貴族家と、彼――バンリの名があった。