目覚めて最初に感じたのは、懐かしい匂い。

一番安心できる、生まれてからずっと親しんできた場所。

「おはよう、イリス」

ちょうど部屋に入ってきていた兄が、柔らかな声で言う。

「おはよ、お兄ちゃん」

ゆっくりと体を起こしながら、イリスは記憶を辿る。

セパル村に行ったこと。貴族のオークションに参加したこと。眼の力を使ったこと。そして、バンリに会ったこと。

そこから先はわからない。ただ、そのときは日が暮れていたはず。

窓から入ってくるのは……朝日だ。

「お兄ちゃん。わたし、どれくらい寝てたの?」

「昨日は丸一日起きなかったね。ついでに、君が帰ってきたのは二日前だよ」

「二日?! 仕事は?! バンリは?!!」

穏やかな表情で答えたニアに掴みかかり、思いつくまま言葉を投げつける。

だがニアは少しよろけた後、イリスを優しく抱きしめて返した。

「落ち着きなさい。順を追って説明するから、まずは仕度をしてリビングにおいで」

ぽんぽん、と背中を軽く叩き、ニアはイリスを解放する。そして部屋を出て行ってしまった。

残されたイリスは赤い顔のままそれを見送り、ぽつりと呟いた。

「……ずるいよ、お兄ちゃん……」

世界一かっこいいと認識している相手に、敵うはずがない。

 

 

 

 

仕度をしながら、イリスは自分の頭で簡単に状況を整理してみた。

オークション会場で倒れた後、今までずっと眠っていたらしいということはわかった。

レジーナに帰ってきたが、自分が運ばれたのは現在居住している寮ではなく、実家であるインフェリア邸だったということも状況から理解する。

アパートに住んでいるはずの兄が同じくここにいるということは、わざわざ戻ってきてくれたのだろう。おそらくは、イリスのために。

それから少し思考を戻して、自分が実家に戻された意味を考える。

「……レヴィ兄なら、しばらく実家帰って休めって言うよね……」

眼の力を大放出して、長い時間気を失っていたら、強制的に数日間の休みをとらされるのは仕方がないだろう。

普段から練兵場で暴れることを楽しみにしているイリスには、若干辛いおしおきだ。

「まぁいっか、お兄ちゃんいるし!」

仕事ができないことはもどかしいが、イリスはとにかく兄が好きだ。今の状況も前向きに考えようと結論付け、リビングへ向かう。

ニアは朝食を用意して待っていた。食パンとスクランブルエッグとサラダ、それに紅茶がついた、彩の良いメニューだ。

「お腹空いてるでしょう」

「うん!」

広いリビングで、二人きりの食事。齧ったパンを飲み込んでから、イリスは浮かんだ疑問を口にする。

「お父さんたちは?」

「ちょっと旅行に行ってもらった。二人ともイリスをすごく心配してたけど、事情を知られたらややこしくなるからね」

父は子どもたちを溺愛している。軍に在籍している以上、危険な目にあうことは承知しているが、やはり心配でたまらないようだ。

それに、今回の仕事には得体の知れない男バンリが絡んでくる。彼が娘につきまとっていると聞いたら、父は過剰に反応するだろう。

母ももちろん子どもたちを愛し、心配している。

加えて人に比べて神経の細いところがあり、特にイリスの眼に関しては、自身の遺伝ということもあって冷静に話ができない可能性があった。

だからニアは、自分が話をするからと申し出て、両親には少し離れてもらうことにした。後で報告するよう言い置かれたが、それは当然と受け止めた。

「頂き物の旅行券も使い道がなかったし、ちょうど良かったよ」

「追い出したんじゃん……旅行券もさ、ルー兄ちゃんと使うとかしないの?」

「ルーは仕事が忙しいから。僕も描かなきゃいけないデザインがあるし、行く暇ないよ」

談笑の後は先日の任務の確認。イリスは落ち着いて、一つ一つ質問する。

「で、わたしの仕事だけど……どうなったの?」

「オークションに参加した人たちは、軍で事情聴取中。また貴族条項違反で大量検挙になりそうだね」

「バンリは捕まったの?」

「それらしき人物は捕まってないって。……まだ先は長そうだね」

「……そっか」

予想はしていたが、やはり落胆する。手を伸ばして、届きそうなところでまた遠くへ逃げられる。真実を隠したまま。

俯くイリスに、兄が優しく言葉をかける。

「焦らなくていいよ。急ぎすぎて命に関わる失敗をする方が困る。……今回みたいな無茶は、もうしないで」

最後だけ、語気がほんの少し強くなる。顔を上げて頷くイリスに、ニアは微笑んだ。

「そういうことだから、レヴィから連絡があるまで仕事は休み。

もちろん何もせずにいるのは落ち着かないだろうから、僕からいくつか頼みごとをする」

「頼みごと?」

「そう。まずはこれ」

ニアがテーブルの隅に置いてあった封筒を取り、イリスに差し出す。受け取って中身を覗くと、紙の束が見えた。

カラフルなチケットが十枚。記された文字は、首都で人気の施設名。

「ウィーアミューの入場券だ! これ、どうしたの?!」

「旅行券と同じく、頂き物」

人々に長く愛されている、屋内遊園地ウィーアミュー。その看板や壁の塗り直しに、どうやらニアが参加したらしい。

その時の礼として配られたものだというが、枚数がとにかく多い。

「それ、できるだけ使って欲しいんだ」

「使っていいの?! ありがとう! 誰を誘おうかなぁ……」

イリスが一人ひとり名前を挙げながら数えていると、玄関から物音が聞こえた。

買い物袋を持った少女がリビングに入ってきて、「ただいま」と言おうとしたのをやめる。

「……起きたの、イリス」

「あ、おかえりラヴェンダ! そうだ、ラヴェンダも一緒に行かない?」

昨日は少しも目を覚まさなかったくせに、起きたとたんハイテンションなイリスに、栗色の髪の少女は呆れたように溜息をついた。

「元気ねぇ……」

ラヴェンダ・アストラ――十一年前、イリスを誘拐し、ニアと対峙したクローンの少女。

かつて敵だった彼女だが、イリスたちの父の提案によりインフェリア家で暮らすようになって六年。その間にイリスとは和解していた。

「おかえり。今日はもう終わり?」

「午後からも仕事よ」

ニアとも初めのうちこそ険悪だったが、今ではお互い、自然に接している。

「それで、行くってどこに?」

「遊園地! お兄ちゃんがチケットくれたの」

「あら実妹贔屓。私には一度だってくれたことないくせに」

「あげても仕事があるからって返すでしょう、君は」

ラヴェンダと遊園地の話で盛り上がるイリスは、年頃の少女そのままだ。

ニアはホッとしながら、妹たちを眺めていた。

 

 

屋内遊園地の天気はいつも晴れに設定してある。自然の状態に近づけるため、照明も太陽光と同程度に調節している。

だからこの光景は、まるで天気のいい外のよう。人工太陽の光できらきらと輝く少女たちの髪に、目を奪われる者多数。

「……この状況で男二人ってのも心許ないな、フィネーロ」

「大丈夫だろう、イリスがいる」

「うん、確かに強いけど。あいつも女の子だからな?」

兄にもらった遊園地のチケットを、イリスは大人数で一気に使ってしまうことにした。

彼女と同様、休みをもらっていたルイゼンとフィネーロは強制的に連行された。男性は彼ら二人のみである。

「遊園地は生まれて初めてなんだが、一体どういうものなんだ?」

彼らが休みなら、当然メイベルも休暇中だ。イリスの誘いとあらばどこへだって行くし、なんでもする。

しかしこうして外で遊ぶことは珍しく、彼女もまた歳相応の表情を、わずかばかりではあるが覗かせていた。

「実際にまわってみた方がわかるよ。ね、エイマルちゃん」

「うん! あのねあのね、最初はメリーゴーランドに乗りたいな!」

いつものメンバーだけではなく、エイマルの姿もある。「おじさん」が北国に帰ってしまったばかりで落ち込んでいたのだが、イリスの誘いで元気を取り戻した。

「それじゃ、行こうか。エイマルちゃんは馬車と馬、どっちに乗りたい?」

「馬!」

「ふふ、勇ましいね」

イリスの隣では、髪の短い少女が微笑んでいる。名をリチェスタ・シャンテという、イリスとルイゼンの幼馴染だ。

時折こうしてイリスに誘われ、出かけて遊んでいる。

「リチェは馬車にしたら? ゼンも一緒に乗せてあげるからさ」

「イ、イリスちゃん……。そんなことになったら心臓弾け飛んじゃう……」

「グロテスクだな」

リチェスタは幼い頃から何かと世話を焼いてくれるルイゼンに思いを寄せていて、イリスはそれを応援している。ルイゼンの気持ちには全く気付かないで。

普段イリスと仲の良い者には嫉妬しがちなメイベルも、リチェスタには普通に接している。ライバルを減らしてくれそうだからだ。

そして、最後にもう一人。

「こんなところで立ち話してたら邪魔でしょう、早く行きなさいよ」

姉風を吹かす、ラヴェンダである。イリスとの間で遊園地の話が盛り上がってしまったので、行かないわけにいかなくなった。

彼女の働くパン屋の人々も、たまには遊んでおいで、と背中を押してくれた。

だが、一つ問題が浮上する。

「流石に最年長は場の仕切り方が違うな」

「ガキが溜まってたら邪魔になると思っただけよ」

メイベルとラヴェンダは仲が悪い。というより、メイベルがラヴェンダを敵視している。

イリスが敢えて二人を会わせるのは、もう少し仲良くして欲しいと思うが為である。

「ほ、ほら、ラヴェンダの言うことは正しいし、進もう!」

「イリスちゃん、メリーゴーランドあっちだよ! みんなで行こうよ!」

今回は心の癒し兼空気読みとして、エイマルとリチェスタがいる。なんとかギスギスした雰囲気を最小限に止めてくれれば良いが。

「……無理だろ」

フィネーロがぼそりと呟く。彼はすでにフォローを放棄しようとしていた。

 

メリーゴーランドでは少女趣味な夢に浸り、コーヒーカップでは過剰な回転をかけて係員に叱られ。

男子をふらふらにしたまま、一行はミラーハウスへと足を踏み入れようとしていた。

「エイマルちゃんは迷子にならないように、わたしと手を繋ごうね」

「うん! イリスちゃんなら絶対ぶつかったりしないもんね!」

イリスとエイマルが組を作ったのをきっかけに、他の五人は顔を見合わせて相談を始める。

「俺たちも誰かと組んだ方がいいのか?」

「エイマルちゃんは小さいから、目のいいイリスちゃんと組んだんだよ。……でも組んでいいなら一緒に……」

「なら、ルイゼンとリチェスタが組めばいい。私はイリスたちを追うから、フィネーロは年増女を頼む」

「年増年増ってうるさいのよ、このストーカー女」

「……まぁ、君たちが一緒になってしまうよりはマシか。いいだろう」

謎の相談をしている彼らを見ながら、イリスは頬を緩ませる。

なんだか、先日までの緊張感が嘘のようだ。ここにいる自分たちは軍人ではなく、普通の少年少女なのだと思える。

平和な時間が続けばいい。続いていればよかった。そうだったなら、どんなに良かっただろう。

「イリスちゃん」

エイマルが手を引っ張る。一瞬過ぎった暗い考えをごまかすように、イリスは笑顔を返す。

「エイマルちゃん、楽しい?」

「うん!」

「そっか、良かった」

今、そしてこれからできることは、自分の手を握る幼い少女の笑顔を消さないこと。

そのために自分は戦っているのだから。

ミラーハウスで、自らを取り囲む鏡を見る。歪んで映った自分の姿に、「しっかりしろ」と叱咤を送る。

休暇の間は一般的な少女として、仕事のときは誰かをあるいは何かを助ける者として、まっすぐ立っていたいと思う。

 

イリスとエイマル以外は、一度は壁にぶつかってミラーハウスを後にする。

出た先には、そのまま入って来いと言わんばかりにお化け屋敷が待ち構えていた。

「……このお化け屋敷は曰く付きでね。遊園地が開園して早々、客がお化けを持ち帰ろうと……」

「知ってる知ってる」

大人から子どもへ伝達され、すっかり有名になってしまった話を流しながら。

ここはきちんと組を作っていこうと、再び相談が始まった。

「みんなで行ったら怖くなくなっちゃうからね」

「個人でも怖くなさそうだが。……どうやって決めるんだ?」

「あみだくじは?」

「エイマルちゃんは頭いいね! そうしようか!」

などというやりとりの末、三組のペアと余りが一人できた。

先陣を切ることになったのは、フィネーロとメイベルの二人。本人たちも周囲も、絶対怖がるなんてことはなさそうだと思うペアだ。

そしてその通り、ほとんど無反応で暗い通路を歩いていた。

「お化けなんて馬鹿馬鹿しい」

溜息を吐きながら言い捨てるメイベル。せめてイリスと組んでいればもう少し楽しめたのに、と続ける。

フィネーロは内心それに頷きながら仕掛けを観察していたが、不意に口を開く。

「……メイベル、初めての遊園地は楽しいか?」

「なんだ突然。馬鹿馬鹿しいが、つまらなくはない」

「そうか。……実は僕もこういうのは初めてだ」

二人は生まれ育った環境に大きな違いがあるが、共通するものはあった。

メイベルは貧しい家に生まれ、長子として家を支える為に軍人を志した。国の援助など使えるものは最大限に活用し、娯楽に触れることはあまりしてこなかった。

フィネーロは裕福な家に生まれ、末っ子として両親や兄らに厳しく躾けられてきた。家族で外出し、遊んで帰ってくるという経験はしたことがない。

そんな彼らが出会ったのは軍人養成学校だった。同じ教室で学び、言葉を交わし、互いを少しずつわかってきた。

「今度は、弟や妹を連れてきてやったらどうだ」

「そうだな……一度くらいは、そういうことがあってもいいかもしれない」

境遇がまるで違うのに、二人はどこか似ていた。昔からそう感じていたから、今もこうしてつるんでいる。

二番手はリチェスタとラヴェンダ。怖がりなリチェスタを、ラヴェンダがフォローするように進んでいく。

落ち着いてきたところで話題に上るのは、イリスのことだ。なにしろ共通の話題はこれくらいしかないのだから。

「リチェは寂しくない? イリスは軍にいるから、滅多に会えないでしょう」

ラヴェンダがリチェスタの手を握りながら問う。リチェスタは照れながら笑った。

「寂しいときもあります。でも、イリスちゃんたちは大切なお仕事をしているんですから。

私も自分にできることを精一杯頑張って、時々こうして会ってくれるのを楽しみにしてるんです」

リチェスタがイリスと出会ったのは六歳のとき。家が厳しく、疲れていた彼女を救ってくれたのがイリスだった。

傷つけたこともあったのに、それでも笑顔で自分を友達だと言ってくれるイリスを、リチェスタは大好きになった。

「ラヴェンダさんは、イリスちゃんと会えなくて寂しくなったりしないんですか?」

「寂しくはないわね」

そう答えながらも、イリスやニアのいない普段の生活を思うと、やはり物足りない感じがする。

特にイリスは、過去にあれほど痛い思いをさせたのにもかかわらず、自分に近づいてくるのだ。ラヴェンダには不思議でならない。

何故あの子は、傷ついても笑っていられるのか。傷つけた相手を許せるのか。何度考えてもわからなかった。

「イリスは、変よね」

「そうですね、不思議な魅力を持った人です」

二人は顔を見合わせ、イリスを思って、微笑みあった。

三番目、ルイゼンがエイマルの手を引いて通路を進んでいく。二人ともここへは何度か来ているので慣れたものだ。

「ねぇ、ゼンさん」

エイマルが可愛らしい声で言う。

「ゼンさんはイリスちゃんが好きなんだよね?」

「好きだよ」

声色こそ平静を保とうとしているが、ルイゼンの心拍数は上昇している。幼い子どもの素朴な質問だ、深い意味はないと自分に言い聞かせている。

冷静になれと心の中で繰り返していると、エイマルが手を少し強めに握ってきた。

お化け屋敷が怖くなったのかと訊ねると、エイマルは首を横に振った。

「あのね、どんなに好きでも一緒にいられなくなることがあるんだよ」

エイマルは経験上知っている。大好きな人と離れ離れになること、当人達がそれを望んでいないことを。

知っていて口にできないのだ。子どもだから、求められたとおりに知らないふりをしていなければならない。

本当は「おじさん」が何者なのか、エイマルはきちんと理解していた。「おじさん」と呼ばなければいけないのは、どうやら仕方のないことらしいということも。

エイマルが抱える色々な寂しさや我慢をどうにかしてあげたくて、イリスは動いている。そしてルイゼンは、そのことを知っている。

「俺は、イリスと離れるつもりはないよ」

「本当?」

「本当。そしてイリスと一緒に、エイマルちゃんがいつも笑顔でいられるようにする」

イリスが好きだから、彼女が守りたいと思うものを共に守り、彼女を助け続ける。その結果エイマルが幸せになるなら、全力を尽くす。

ありがとう、と花のような笑顔を見せる少女の手を、ルイゼンはしっかりと握り返した。

最後に一人残されたイリスは、のんびりと歩いていた。以前兄たちとここへ来たときの賑やかさを思い出して、少し愉快な気分だ。

「そういえば、最近は色々な人に会ったなぁ……」

兄やルーファ、レヴィアンスなどは普段から顔を合わせることが多いが、加えてアーシェやグレイヴにも会う機会があった。

ダイもノーザリアから帰ってきたし、ユロウとも話した。先日の任務ではゲティスとパロットの世話になった。

幼い頃に面倒を見てくれた人たちに、今も助けてもらっている。いくら返しても返しきれない恩がある。

休みが終わったら、全力で恩返しに勤しまなければ。そう思いながら、特に仕掛けに反応することもなくお化け屋敷を出てきてしまう。

「おまたせー」

手を振りながら、先に出口へ来ていた者たちに手を振る。そこにあったベンチを囲んで、人影が七つあった。

「……ん? 七人?」

もう一度数えなおす。どう見ても一人増えている。

エイマルよりも小さい男の子と女の子が、そっくりな金髪と紫の眼を並べている。

「イリス、この子たち迷子らしい」

「ラヴェンダさんが親を探しに行った」

ルイゼンとフィネーロが状況を説明してくれる。メイベルが息を吐いて続けた。

「親のことを何も聞いていないのに飛び出していって……あの女も迷子になるんじゃないのか?」

「ううん、大丈夫。ラヴェンダならちゃんと連れてきてくれるよ」

イリスには確信があった。何故ならこの子どもたちのことは、イリスとラヴェンダがよく知っているのだ。

「今日は誰と来たの、センテッド君、マリッカちゃん?」

子どもたちの目線までしゃがみこみ、イリスが問う。二人は声を揃えて答えた。

「ホリィと来た」

それと同時に、近づいてくる声。

「センテッド、マリッカ!」

ラヴェンダが連れてきたのは、焦った様子の男性。

「本当に、色々な人に会うなぁ」

イリスは彼――ホリィ・グライドの姿を見て、少し困ったように笑みを浮かべた。

 

子どもを保護してくれた礼だと言って、ホリィが飲み物を全員に奢ってくれた。

せっかくなので、昼食はこちらが持ってきた弁当を振舞った。とはいえ、エイマルが母に持たされたものなのだが。

「今日は皆で遊びに来てたのか?」

「うん。レヴィ兄がお休みくれたんだ」

「そっかそっか、そういうのも大事だよな」

ホリィは子どもたちから視線を外さないまま、イリスと会話する。一度目を離してしまった後だからであろうか。

ぽろぽろとサンドイッチの具をこぼしてしまう子どもたちに、ラヴェンダが世話をやく。傍から見ればホリィとラヴェンダ、そして子どもたちで一家族のようだ。

「ホリィさん、その子たち……」

ルイゼンが訊ねようとすると、ホリィは頷いて先回りする。

「オレの子じゃないぞ。ドミノのとこの双子だ」

二人の子どものうち、男の子がセンテッド、女の子がマリッカ。エスト家現当主であるドミナリオ・エストの子だ。

ホリィが二人を預かって遊びに来るのは珍しいことではない。だから子どもたちもホリィを父と同じくらい慕っている。

そのあたりの事情を簡単に説明しながら、のんびりとした食事の時間を過ごす。

「じゃあ、この子たちのお父さんは来ていないんですね」

「出不精だからな、誘ったけど断られた。あいつもたまに遊べばいいのに」

「……外に出たくない気持ちはわからないでもないがな」

メイベルがぽつりと呟いた。

エスト家当主が家を出ようとしない理由は、おそらくエルニーニャ国民ならほとんどが推測できる。

レヴィアンス・ゼウスァートが大総統に就任する前、この国には前代未聞の事件が起こっていた。それにエスト家は不本意ながら関わってしまったのだ。

大総統が代がわりした理由――それは前大総統の失踪であった。

失踪といえばまだ響きはいいが、実際のところは女性と二人で逃げたのだ。そのまま行方がわからなくなり、国は新しい大総統をたてるしかなかった。

その職務を放り出していずこへと消えた男の不倫相手というのが、エスト家当主の妻だった。

以来、エスト家当主は世間に顔向けできずに閉じこもっている、と人々の間で囁かれるようになった。

友人であるホリィは「あいつが引き篭もり気味なのは昔から」と聞き流しているが、ドミナリオが何かしら責任を感じているのは事実のようだった。

「イリス、午後からは別行動ね」

ラヴェンダがセンテッドの口を拭いてやりながら言う。

「私はこの子たちと行くわ。そっちはそっちで楽しんで来て」

「いいのか、ラヴェンダ?」

「子どもを迷子にするような人だけに任せておけないもの」

どこか嬉しそうなラヴェンダに、イリスは頷く。

ホリィたちと別れ、一人減り、本日の午後の部が始まろうとしていた。

 

絶叫系アトラクションは、この遊園地の花だ。

女性陣はみんな走ったり落下したりが楽しいらしく、同じアトラクションに数回並んだりしている。

ルイゼンもこの手のものは平気だし、寧ろ気に入っているのだが、一名気分の悪そうな人物がいるためにそちらに付き添っている。

「僕のことはかまわず、楽しんでくればいいじゃないか」

「いや、さすがに何回も同じの乗るのはちょっと」

フィネーロの背中を擦りながら、ルイゼンは苦笑する。

「それにさ、フェアじゃないじゃん」

「何が」

「俺ばっかりイリスに近くなる」

「……君は」

ルイゼンとフィネーロは、互いの気持ちを知っている。

二人ともイリスのことが好きで、自分が近くにいたいと思っている。

「そういうのは余計な世話というんだ」

「いいや、挑発っていうんだよ」

「わざとか。性質が悪い……」

そして二人とも、今すぐどうにかなりたいというわけではない。

対象がこちらの想いに気付いていないのだから、どうにもしようがない。どちらかといえば、今の関係を崩したくない。

だからこうして、当人のいないところでこっそりと火花を散らす。

「ルイゼン、君はリチェスタさんの想いに応える気はないのか」

「リチェは昔から妹分だから、そういう対象じゃないんだよ」

「そうか、それは残念だ」

牽制のうちに、楽しみを終えた四人が戻ってくる。

一際輝いて見える彼女の笑顔をいつまでも守っていたいと思うのは、共通。

突然現れた盗人なんかに渡したくないから、今しばらくは共闘だ。

 

アトラクションの待ち時間中、イリスは質問に答えていた。

何故ラヴェンダが、率先して子守を申し出たのか。

「あぁ、あの子たちのためっていうより、ホリィさんと一緒にいたいんだと思う」

「惚れているのか?」

「昔のラヴェンダを知ってても、優しくしてくれるからね」

敵という立場であったラヴェンダの所業を間近で見た一人であるにもかかわらず、ホリィは彼女を嫌わなかった。

二人がどのような経緯で再会したかはイリスもよく知らないのだが、ラヴェンダを助けてくれる人がいることは嬉しい。

「元々ホリィさんって世話焼きな方だし、誰にでも優しい人だから。当然の流れといえばそうなんだろうけど……」

「ちょっとゼン君と似てるね。私もそういう人、好きだなぁ」

リチェスタに頷いて、イリスは思いを巡らせる。

はるか昔には、人を愛することがわからずに暴走したこともあるラヴェンダ。しかし今は周囲に愛されようと努力し、自らも愛をもって周囲に接しようとしている。

イリスがラヴェンダを好きなのは、彼女が自分で変わろうと努力し、実らせているからだ。もう昔の彼女とは違う。

クローンである彼女は、十七歳の体のまま成長できないらしい。普通の人とは異なる性質を持つ彼女を、受け入れて愛してくれる人がいるなら、それはとても喜ばしいこと。

変えられないものを補う以上に内面を変えていく彼女の味方でありたいと、イリスは思っている。

大好きな人は、たくさんいる。できることなら全てを助けたい。それが欲張りだと知っていて、イリスは求める。

眼に宿る「呪い」でさえ、誰かを救うためにあるのだと思いたい。思わせてほしい。

「イリス、進むぞ」

「あ、ごめん」

エイマルの手をひきながら、メイベルとリチェスタに促されて、数歩前へ。

休日を思い切り楽しみながらも、イリスは先を見る。自分にとって最良の未来に辿り着く為、道を探る。

伸ばした羽でいつでも飛び立てるように。

 

 

楽しい時間はいつも早く過ぎてしまう。

気がつけばエイマルの門限が迫っており、一同は解散することにした。

「ゼンはリチェを送って行ってね」

「わかってるよ。イリスも実家に戻るなら、途中まで一緒に……」

「わたしはエイマルちゃんを送っていかなきゃ。だからよろしく」

「そっか。またね、イリスちゃん」

「早く寮に戻ってきてくれ。一人の部屋はつまらん」

「たまに実家でのんびりさせてやれ。またな、イリス」

「ベルとフィンも気をつけて帰ってね。それじゃ行こうか、エイマルちゃん」

「うん!」

二人ずつに別れて帰路に着く。イリスたちが他の二組を見送ってから、背後から肩を叩く者があった。

「私を置いてくつもり?」

「あ、ラヴェンダ。ホリィさんと一緒じゃないの?」

「一緒よ。送ってくれるって言うから、甘えさせて貰いましょ?」

ラヴェンダが指差す方向には、一台の車。運転席からホリィが手を振っている。

車内では双子が寝ているようだった。起こさないようにそっと乗り込み、運転手に礼を言う。

「わたしたちまで、ありがとう」

「良いって。イリスには頼みもあるし」

頼みごとの内容を聞きながら、まずはエイマルを送り届ける。

うとうとしかけていた彼女をマンションの一室まで連れて行ったあと、車が向かうのはエスト邸。

今はドミナリオとその父、そして双子の子どもたちだけが住む広い家だ。

車から降りて、ホリィは子どもたちを慣れた手つきで抱き上げる。

イリスとラヴェンダは玄関へ向かうホリィの後をついていく。ラヴェンダが両手の塞がったホリィの代わりに呼び鈴を鳴らすと、家主はそれほど間を空けずに現れた。

「お帰り」

イリスが久しぶりに見るドミナリオは、眼鏡をかけて、青白い顔をしていた。

 

頼みごとは、ホリィからというよりもドミナリオからという方が正確だった。

ホリィから出先でイリスたちに会ったという報告を受け、ちょうどいいから連れて来いとドミナリオが言ったのだ。

「大総統補佐、だって?」

「見習いです。レヴィ兄がそう決めたの」

「うん、聞いてる」

レヴィアンスが決めた前代未聞の人事は、大きな話題となっていた。

軍の御三家といわれるエスト家当主の耳にもそれは入っている。

「大変じゃない? 仕事もそうだけど、妬まれたりとか」

「多少はあるみたいだけど、わたしは気にしてないよ。何かあったら仲間が助けてくれるから」

「それは良かった」

良かった、と言いながらも、眼鏡の奥の紫色をした眼はどこか虚ろだ。

その理由は、これ。

「……レヴィアンスに、顔向けできなくて」

大総統を代えることになった原因の一端が、ドミナリオにあるためだ。

「ドミノさんは悪くないと思うけど……」

「うちの人間がやってしまったことだ。当主の私に大きな責任がある」

ドミナリオの妻であった女性は、前大総統と共に逃げた。この事件は大総統という立場を貶めたのだ。

事件によって軍と王宮や文派との協力のバランスが崩れてしまう可能性があった。それを立て直すべく、女王が動いた。

女王が大総統を指名したのは、軍に干渉して王宮の権力を強化するという側面のためだけではない。

初代大総統の家名を名乗ることのできるレヴィアンスを大総統に立て、国民の大総統への信頼を取り戻そうとしたのだ。

オリビアにその手間をかけさせ、レヴィアンスにゼウスァートを名乗ることを強要させてしまったのは、エスト家の責任だとドミナリオは言う。

「このことは知っていたか? イリス・インフェリア」

「そんな詳しい話は初めて聞きました。レヴィ兄の話では、女王が大総統を押し付けたということだったので」

「それも事実。王宮が軍を下に置きたいと考えているのは確かだから。でもオリビアは軍の信頼のためにも行動したかった」

オリビア・アトラ・エルニーニャは女王であると同時に、王を守る王宮兵のトップでもある。二つの立場にある彼女は、両方に利するように事を運ぶ必要があった。

王宮内のことしか知らない王には任せておけない。彼女は自身が采配を揮い、国を運営しなければならないと考えている。

「オリビアがこれらを一気に進めなければならなかったのは、前大総統とエスト家の所為だ。君にそれを知っておいてほしかった」

軍側の人間であり大総統に近いイリスに、女王の判断を理解してほしい。だからドミナリオは話した。

だが、それをイリスが聞くことで、どうなるというのか。

「ドミノさん、わたしにはそれを聞いても何もできない。そんな大きなもの、わたしじゃ抱えきれない」

「知っているだけでいい」

「それと、やっぱりドミノさんに非があるとは思えない」

「当主としての責任はあるよ。君もいつかわかる、インフェリアの子」

インフェリア家の次期当主について、父も兄も話したことはない。だが兄が家を離れた以上、イリスにも当主を継ぐ権利がある。

御三家の重みを改めて知る。行動が、言動が、あるいは何もしなくても、国に関わってしまう。

「ドミノ、そのくらいにしておけ」

俯いて拳を握るイリスをみかね、ホリィが間に入る。

「この子はまだ十五歳の女の子だ。大体それくらい言えるなら、レヴィと直接話したらどうだ」

「それは……」

「お前がオリビアを悪者にしたくないってのはわかるけど、それなら言う相手はイリスじゃない」

イリスには難しく重い話だが、今一つだけ理解できた。

この人たちの関係も、昔から変わっていない。ドミナリオとホリィとオリビアは、立場こそ大きく変わってしまったが、本質はそのままなのだ。

変わるものも変わらないものもある。未来の先は、様々だ。

「大丈夫だよ。ドミノさん、ホリィさん」

イリスは顔を上げる。

「まだわたしには難しくて、わかんないことだらけだけど。レヴィ兄がドミノさんやオリビアさんを責めてないことは言えるんだ。

わたしにもいつか、インフェリアの人間として何か決断しなきゃいけない日がくるんだろうなってことも」

にっこり笑って、言葉を継ぐ。

「今はね、もっと小さなことを考えてるの。国よりは小さいけど、とても大事なこと。わたしの手で届く範囲の幸せのこと。

だからわたしじゃ届かない部分は、助けてね。さっきの話をレヴィ兄にちゃんとするとかさ」

「……君は、やっぱりニアの妹だな」

ドミナリオが漸く笑みを見せる。眉は下がっているが、ホリィも久しぶりに見る笑顔だ。

「やっぱり、変な子」

「何、ラヴェンダ? 変ってどういう意味?」

「褒めてんのよ」

 

 

イリスが休日を過ごす間に、レヴィアンスはオークション参加者の調査結果に目を通していた。

もちろん他にも仕事は山ほどあるので、手が空いた隙に少しずつだ。

大方予想通り。バンリが残したメモにあった名前の羅列と、参加者の名は一致している。

この情報をバンリは如何にして手に入れ、何故軍に流すのか。

「イリスのため……だけじゃないよなぁ」

イリスが関わる前から、彼は貴族家からの窃盗を繰り返していた。情報を流すようになったのはイリスと接触した後なので、きっかけは彼女だったかもしれない。

しかしバンリが貴族家を狙っていた目的は不明のまま。そもそもバンリは何者なのか。

「閣下、お客様です」

考えを中断させたのは、大総統補佐の声。客を執務室に招き入れ、軽く挨拶をする。

「や、本日はよろしく」

「……呼び出しておいて、軽すぎ」

客――運輸の要であるリーガル社の幹部リヒト・リーガルは、息を吐いてレヴィアンスを睨む。

それを受け流し、大総統閣下は即本題に入ろうとする。

「で、オークションに出品されたものと思われる荷物の」

「送り主について、だろう? 資料の作成は姉さんにも手伝ってもらったんだ、感謝しろ」

「うん、アーシェにはあとで連絡を入れるよ。……あー、前から何かしら疑惑があったところばっかりだ」

ざっと目を通しただけでも、贋作を扱う詐欺ギリギリの美術商や盗品を扱っている疑いのあった骨董屋など。

貴族のオークションとはいつから繋がりがあったのか、改めて調査する必要がありそうだ。

「それともう一つ、北方の支社から面白い話を聞いた」

リヒトの言葉に、レヴィアンスは顔を上げる。視線で先を促すと、リヒトは頷いてメモを取り出し、読み上げた。

「随分昔になるが。ある荷物を預かったとき、冗談のつもりで送り主に何が入ってるんですかと訊いたら妙な答えが返ってきたらしい」

送り主は何故だか随分酔っ払っていて、その割には荷物をしきりに心配していた。

――“杯”をな、要求されたんで、送るんだよ。

質問者は何のことかわからず、荷物を預かって、宛先へ無事届けた。そもそも酔っ払いの言うことなど冗談だと思っただろう。

「送り主も受け取ったのも貴族だ。そして送り主はそれからいくらも経たないうちに、貴族階級を剥奪されたらしい」

「……客の情報、オレ以外には喋るなよ。信頼失うぞ」

「当然。軍を統べる大総統閣下だから話したんだ。ちなみにこれは七年前、例の事件から一年経たない頃の話だと言っていた」

思わぬところから出てきた証言。これが当時軍に伝わっていたなら、自分たちが動けたのに。

いや、今なら動いてくれる優秀な人間がいる。彼らに伝え、任せてみよう。

レヴィアンスはにやりと笑い、リヒトに礼を言った。