長い休みが終わる一日前、イリスはニアとルーファの住むアパートにいた。

兄とともに膝を抱え、前の晩のことを思い出しながら溜息をつく。

その様子を見ていたルーファが、苦笑しながら呟いた。

「なにもそんなに落ち込まなくても……」

独り言のつもりだったから、できる限りの小声で言ったつもりなのに。静かな室内には異様なほど響いてしまって、はっと口を噤む。

だが時はすでに遅し。不用意な台詞が耳に入るや否や、兄妹は顔をルーファに向け、同時に言った。

「ルー(兄ちゃん)はあれを見たことないからそんなことが言えるんだよ」

恨みがましく告げられるその言葉の、原因は一つ。

インフェリア家現当主である。

 

 

 

レヴィアンスに休みを言い渡されている間のほとんどを、イリスは実家で兄やラヴェンダとともに穏やかに過ごしていた。

さすがに練兵場ほどではないが、インフェリア邸には駆け回るのに十分な広い庭がある。イリスはそこで毎日体を動かし、訓練の代わりとしていた。

時々ニアやラヴェンダが相手をしてくれるので、退屈はしない。それどころか二人は、イリスにそれまで以上のやる気を与える存在だった。

なにしろ、二人ともイリスより強いのだ。軍では上官であれ地べたに伏す彼女でも、彼らには未だ満足のできる勝ちかたをしたためしがない。

元将官であるニアと、十七歳の外見で百年近く生きているラヴェンダ。この二人を超えることがイリスの目標だ。

「お兄ちゃん、大剣で防ぐのずるいっ!」

「完全な肉弾戦って、なかなかやらせてもらえないよ? 大抵の相手は何かしらの防具を持ってる」

「そうだけど……」

退役後もニアの大剣さばきは健在だ。十五歳、つまりは今のイリスと同じ歳の頃に父から譲り受けたそれは、今でも彼の良き相棒である。

その重みを叩きつけられると、イリスは耐えられずに膝をついてしまう。

「ニア、手加減してあげなさいよ。イリスは子どもなんだから」

挑発を笑みで表しながら、ラヴェンダが言う。むっとして言い返そうとするも、実際負けてしまったイリスは言葉を持っていない。

悔しさは次の一撃に込めようと、手足にぐっと力を入れ、もう一度ニアへ向かっていった。

これはこれで、彼らにとっては穏やかな時間なのだ。

 

さてその間、インフェリア邸の主は奥方と旅行へ出かけていた。

親孝行な息子が妹から色々と話を聞きだすために、彼らを家から遠ざけたのだ。

だが期間は短く、親としても倒れて実家へ帰された娘のことが心配でないはずがない。

当然ながら、彼らは家へ帰ってくる。

「イリスはもう元気だよ。だから僕に任せて、ゆっくりしておいでよ」

帰ったら必ず事情を説明することと言い置かれていたニアは、受話器の向こうへそう告げた。

しかし、元より子ども達に並々ならぬ愛情を注いでいる両親。それをそのまま真に受けることはない。

「いや、もう充分休んだ。何を聞いても驚かないし、受け止める」

父がそう返すのを聞き、ニアは「それなら、なおさら……」と言葉を紡ごうとした。だが、それは低い声色に遮られる。

「それとも、何か聞かせたくないことがあるのか?」

そのとおりです、と返せるわけもなく。かといってごまかす言葉も見つからず。ニアが喉を詰まらせている間に、父の台詞は続く。

「心配事を残して、ゆっくりできるはずもないだろう。母さんの心労を考えろ、ただでさえ疲れやすいんだから」

「それは……わかってる、けど」

「わかっているなら、駅まで迎えに来い。あと一時間ほどで到着する」

どうやら、もう逃れられないようだ。父の中では今日帰宅することが決定していて、自分達はそれに従うより他にない。

タイムリミットまでに言い訳を考えておくしかなさそうだ。そう思い溜息をついて、ニアはまだ庭ではしゃいでいた妹達を呼んだ。

「イリス、ラヴェンダ。父さん達、もうすぐ帰ってくるって」

「わお、急だね……」

「どうするの? イリスが倒れた理由とか、洗いざらい報告する?」

「そこだよ……」

額を押さえながら、ニアはこれまでの経緯を、その中でも重要なことを頭の中でリストアップしていく。

まず確実に聞かれるのは、イリスの容態。見れば分かることではなく、昏睡した原因などの話だ。

眼の力を使ったことは、できれば母の耳に入れたくない。「疲れやすい」彼女は、きっと遺伝元である自分を責める。

そしてイリスがそこまで無茶をした理由。父にとっても辛い話になるだろう。

考えを巡らせるニアに、ラヴェンダは「あのねぇ、」と溜息混じりに言った。

「隠す必要はないと思うわよ? あんた、ちょっと考えすぎてない?」

「ラヴェンダがそう思う理由は?」

「いずれわかることだからよ。イリスが関わっている件のことも、その中で眼を使ったことも。

このことを知ったくらいでシィレーネが鬱になるとは思えないし……」

「うちに来てたった六年ぽっちの君に、そういうぞんざいな言い方はしてほしくないんだけど」

傍で聞いていたイリスにはわからなかったが、ラヴェンダの口調はニアの気に障ったらしい。

今でこそ冗談を言い合うくらいになったが、元々敵同士という立場にあった二人だ。衝突することは珍しくない。

その度に間に入るのも、イリスの役目だ。

「とにかく、これはわたしの問題だから! お兄ちゃんとラヴェンダが喧嘩しても仕方ないことだよ!」

「喧嘩はしてないよ」

「そうね、ニアが突っかかってきただけよね」

「だからやめてってば!」

こうしている間に、両親の到着は迫っている。言い争いよりも、覚悟を決める方が大事で簡単だ。

イリスにはすでに、その準備ができていた。たとえそれで母が自分を責めようとしても、父が辛い記憶に呑まれそうになっても、イリスなら「大丈夫」と言える。

当人にしか言えないのだ。

「お兄ちゃん、そんなに気を遣わなくてもいいよ。ラヴェンダ、わたしたちのことをちゃんと思ってくれてるのは、わかってるからね。

わたしはもう充分休んだ。だから、お父さん達に心配しなくていいよって言えるよ」

しゃんと背筋を伸ばし、父によく似た頼もしい笑顔で、イリスは言う。

自分達を交互に見る赤い眼に、ニアもラヴェンダも表情を緩めるしかない。

「イリス……」

「……あんた、昔から無駄に悟ってるわよね」

ラヴェンダがインフェリア家に来た時もそうだった。

因縁を捨てきれないニアとラヴェンダの間で、イリスは「大丈夫」と笑っていた。

自分を大切にしてくれる兄のことも、心を入れ替えて頑張ろうとしている新しい家族のことも、大好きだと言って。

かつて傷つけられた本人であるというのに。

「さ、そうと決まれば掃除と、迎えにいく準備だね! 時間がないよ、早く早く!」

「じゃあ、私は掃除とお茶の準備をするわ。ニアは車の準備でもしなさいな」

「あんまり気の進まない役割だな……」

我が家の妹の明るさに助けられ、ニアは漸く諦めがつき、ラヴェンダは「もう少し言葉に気をつけた方が良かったのかしら」と思う余裕ができたのだった。

 

さて、息子の運転する車に乗り込んだインフェリア家当主とその妻は、実に楽しそうだった。

「東部の温泉はやっぱり良かったな! シィも肩こりが良くなったって喜んでたぞ」

「えぇ、本当に。あ、お土産も良かったわね。みんなお揃いで、髪飾り買ったのよ」

きゃっきゃと思い出話をする両親を見て、ニアは拍子抜けしていた。てっきりあの電話のような、重い空気になるかと思っていたのだ。

それがこの、旅行を満喫してきた風。理由はともかく、旅行券を贈って良かったと思えた。

ニアはホッとして、両親の会話に加わる。

「楽しんでもらえて良かったよ。今度また旅行券もらったら、あげるね」

「それは楽しみね」

母はそう言って微笑んだ。父も、笑みを浮かべていた。

「そうだな、今度は心置きなく楽しんできたいものだ」

口元だけの、冷笑に限りなく近い笑みだった。

背筋にぞわりと寒気が走って、ニアはハンドルを強く握りなおす。後部座席では母が、父のわき腹をつついていた。

多分、だが。この夫婦は、列車の中ででも取り決めをしていたのだろう。せめて家に着くまでは、和やかな雰囲気でいようと。

そのことに気付いてしまい、額に汗が浮かぶ。

「そう……だね。今度は、何も……」

やっと声を絞り出して、思い出すのは幼い頃。

父と祖父の喧騒の声を聞いていた、幼少期。普段は優しい二人が本気でぶつかり合うのは、それはそれは怖ろしいことだった。

たとえるなら、獅子同士が威嚇の咆哮をあげている様。同じ血が流れているからこそ、二人とも一歩も引かない。

あの咆哮が、今度はこちらへ向くのだろう。

なんとか安全運転で我が家にたどり着いたが、これから起こることを考えると、上手く振舞えない。

荷物を降ろす手が震えていることに気付き、わけのわからないままに、へらりと笑いがこみ上げる。

「情けないわね」

いつの間にやら隣に立っていたラヴェンダが、小さな積荷を抱えていた。

「イリスを見なさいよ。あんたとは大違い」

促されて振り向いた先では、妹がにこにこしながら両親にとびついている。

体は大丈夫か、と訊かれれば、平気だよ、と跳ねてみせる。

ニアはそこでやっと、両親の安堵の表情を見た気がした。

「あの子、誰に似たんでしょうね。レヴィアンスか、アーシェあたりかしら?」

「……そうだね。僕の不甲斐なさを真似なくて、本当に良かったと思うよ」

イリスには、たくさんの兄と姉がいる。それぞれの良いところを吸収して、少しばかり大人びた子に成長した。

ときどきニアよりもしっかりしていて、それを見るたびに少し寂しくなる。

荷物を担いで屋内へ向かうニアの背を見て、ラヴェンダがぽつりと呟く。

「なによ……嫌味なんだから、言い返しなさいよ……」

 

簡単な片づけが済んで、ラヴェンダがお茶の準備を終えて。

リビングに家族全員が揃い、テーブルを囲んだ。

「……イリスが元気そうで安心した」

父から、第一声。イリスはそれに頷き、最初に言うべきと思っていた言葉を返す。

「ごめんなさい。ご心配をおかけしました」

頭を下げ、もう一度顔を上げた彼女の目は、真っ直ぐに両親へ向けられていた。

その隣に座るニアは目を伏せたまま、まだ逡巡している。

対照的な様子を確認してから、父は再び口を開いた。

「今回の件について、説明と弁明は?」

厳しい表情を崩さず、問う。

やはり祖父に似ているな、と兄妹は思う。

普段は明るく、優しい父だ。これほどまでに空気が重いのは久しい。

母もまた、真剣な眼差しをしている。だが、ラヴェンダにストールをかけてもらうと、ほんの少し弱弱しい笑みを見せた。

ずきりと痛んだ胸を、イリスは思わず押さえる。それを見たニアが、すかさず言った。

「無事だったんだから、もういいじゃない」

「俺はイリスと話がしたいんだが」

空間内に電気が走ったようだった。低い声色にニアは口を噤むしかなく、イリスの心臓は鼓動を早める。

この人は、自分達の父は、こんなにも怖ろしい人だったか。

「わたし……は、」

搾り出すように、イリスは返答を口にする。

「わたしが倒れたのは、眼を、使ったから……です」

視線だけを母へ向ける。動じている様子は、外見からは窺えない。

「広い範囲で、たくさんの人に使ったから……疲れたんだと、思います」

「詳細に」

「えと……ルー兄ちゃんの実家の、ホールくらいかな。そこにいた、四十か五十人くらいの人」

「それだけのことをすれば、どういうことになるか解らなかったわけじゃないよな」

言葉を紡げば、すぐに返ってくる。

初めから全てわかっていて、用意しておいた台詞を読み上げるようなやりとり。

「意識してこんなに使ったのは初めてだったから……加減は、わからなかったかも」

「じゃあ覚えなさい。そして、二度と無茶をするんじゃない」

イリスはもう一度頷き、小さく返事をした。

それを逃さず聞き届け、父の言葉はニアへと向かう。

「このことを隠したかったのか」

「……イリスの眼のこと、あんまり母さんに聞かせたくなかったから」

「そうか。……ニア」

名前を呼ばれ、ニアは反射的に父へと向き直る。相変わらずの厳しい表情で、声色は重かったが。

「親を侮るんじゃない」

その響きは、どこか寂しそうだった。

「こんな風にして隠される方が、俺も母さんも辛いんだ。……俺たちは、そんなに頼りない親なのか?」

「違う!」

「だったら、素直に話してくれ。お前は確かに大人になったけれど、俺たちにとってはいつまでも我が子だ。

親が我が子を心配しないはずはないし、信じないはずもない」

まして、と言って、父の表情が緩む。

しょうがない奴だな、と言っているように。慈愛を込めた笑みがあった。

「まして、頑張ってきた娘を責めるなんてこと、絶対にあるはずがない」

「!」

泣きそうな表情になったニアを見て、イリスは理解した。

兄は、妹を守ろうとしていたのだ。結局その考えが、自分が妹を責めることになると気付かずに。

だからこんなに、回りくどいことをしたのか。

「全く、ニアはイリスのことになると熱くなるからな。過保護すぎるのは良くないぞ」

父は立ち上がって、兄妹の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でた。豪快に笑う様は、いつもの父だった。

そして、母も微笑を浮かべて言った。

「私のことも、大丈夫。あなたたち家族のおかげで、私がどれだけ強くなれたことか」

「……そうだね。そうだった」

幸せそうに笑い合う家族を眺めるラヴェンダも、心から嬉しいという風に目を細める。

やはり、この家はこうでなくては。

「ねぇ、カスケード」

「何だ、ラヴェンダ」

「ニアに過保護って言ったけど、あなたも人のこと言えないわよね?」

和やかな雰囲気の中、ごく自然に、ラヴェンダは言い放った。

温かく穏やかな笑顔のまま、彼女はつらつらと続ける。

「あなたがどれだけ自分の子どもを溺愛して、過保護に過干渉していたか。私はシィレーネ他多数に聞いてちゃんと知ってるもの。

それを今になって説教だなんて、偉くなったものよねぇ」

淀みなく流れる鈴のような声に、シィレーネは途中で吹き出し、ニアとイリスも必死で笑いを堪える。

当のカスケードは顔を真っ赤にして、「いや、それは、」とモゴモゴ繰り返す。

そうそう、やはりこの家は「こう」でなくては。

 

そしてその翌日、インフェリアの兄妹はアパートの一室で溜息をついている。

「もう……辛かったよね、お兄ちゃん」

「本当に。早く逃げ帰ってきたかったけど、拘束固いし」

二人がここまで落ち込んでいるのは、叱られたからではない。

そのくらいで済めば、今頃清々しい気分で、まだインフェリア邸にいたかもしれない。

「おいおい、いい加減立ち直れよ。昔話されたくらいで、そんなにダメージ受けるものか?」

ルーファは二人の肩を叩きながら言うが、睨まれてすごすごと離れる。

確かに彼は、見たことがない。酒に酔ったカスケードの暴走など、知る由もないのだ。

一通りの説教が済んだ後、インフェリア邸では家族団らんの食事会が開かれていた。

旅行土産であった酒も一緒に出したのだが、これが予想外にきつかったらしい。

悪酔いした当主様は子どもたちの恥ずかしい過去を余すことなく暴露し、その後お決まりの親友の話で泣き出し、それが落ち着けばまた暴露話と延々繰り返した。

逃げようとすれば絡まれ、ラヴェンダと母に助けを求めるもさらりとかわされ、兄妹は落ち着くまで付き合う羽目になったのだった。

「父さんそんなに強くないのに、何で飲むんだよ……しかも悪酔いすると躁鬱の差が酷いし……」

「ここまで酷いのは家族しか知らないから、人に愚痴っても信じてもらえないし……」

溜まっていたあれやそれを、酒が一気に吐き出させたのかもしれない。そう考えると、兄妹にも責任があるのだが。

「そうだ! お兄ちゃんが飲むから、お父さんつられたんじゃないの? お兄ちゃんがほどほどにしておけばあんな酷くはならなかったよ!」

「僕のせい?! そこは父さんの自制の問題でしょう?!」

「はいはいはい、そこまでにしておけよ。あと俺もニアが飲みすぎたからに一票」

「ルーは見てもいないのに参加しないでよ!」

三人でぎゃいぎゃいと騒いでいる間に、客がアパートの階段を上ってくる。

中が騒がしいなと思いながら、呼び鈴を鳴らす。

これだけ元気なら、今からする話も軽く聞いてくれるだろうか。いや、そんなわけにはいかないか。

ルーファが玄関のドアを開き、「あ」と声をあげたタイミングで。

「どうも。オレです」

レヴィアンスはへらりと笑って、右手をひらひらさせた。

「イリス来てるよね? ……報告があるんだ」

休暇の終わりが告げられる。

また戦いの日々が始まるのだ。