それは、国が大きく変わろうとしていた、その過渡期に起きた出来事。

時代の流れにまぎれて、忘れられてしまった物語。

けれども、彼の記憶には鮮明に刻まれている、傷。

世界暦五二九年。エルニーニャ王国軍北方司令部のある、シーキルにて。

 

 

 

年明け間もない、雪の深い時期だった。

エルニーニャ国内といえども、車で国境を越えられるくらいには、ノーザリアに近い。

寒さの厳しいこの場所で、一人の軍人が子どもに出会った。

「君。雪の中で裸足でいては、血まで凍ってしまうよ」

薄い服に、素足。防寒具らしきものはない。このまま外にいては死んでしまうだろうと、誰もが判断できる。

そんな少年に、軍人は手を差し伸べた。

「行くところがないのなら、僕のところにおいで」

ふわり、と笑ったその人に、少年は手を伸ばした。繋いだ手は大きくて温かかった。

軍人は少年を立たせると、抱き上げて「君の名は?」と問うた。

問われた側は困り果ててしまって、黙り込む。彼は名前を持っていなかった。

呼ばれる時はいつも「おい」「お前」。誰かが彼のことを話すときは、「あれ」「それ」が普通。

それもそのはず、彼は貴族の家で雇われていた「使用人」だった。

聞こえは良いが、実状は奴隷。貴族条項では、奴隷を持つことは原則禁止とされている。だから「使用人」という名称だけの役割を与えられた。

彼の仕事は、主人の玩具。怒りや欲など、ありとあらゆる負の感情を黙ってぶつけられること。

少年は今よりもっと幼い頃から、ついさっきまで、貴族家で虐げられていたのだった。

そんなこととはまだ知らない軍人は、少年に信用されるべく、自分から名乗ることにした。

「ごめんね、僕から自己紹介をするべきだった。僕の名はバンリ。北方軍の、バンリ・ヤンソネン少佐だ」

凍えの季節なのに、春のように暖かい笑顔のバンリ。少年は、この優しい人の名を復唱する。

するとバンリは嬉しそうに笑って、「そうそう」と頷いた。

 

バンリ・ヤンソネンは、真面目で正義感の強い人物だった。しかし自分の考えを人に押し付けることはないので、いわゆる暑苦しいタイプではない。

軍では目立たないが、確実に仕事をこなす。知らないところで彼に助けられている者は多かった。

「ふむ、君は名前がないのだね」

そして助けられた者がまた一人。少年はバンリに連れられるまま、軍人寮の一室に到着した。

風呂で体を温め、部屋の主が貸してくれたシャツに着替えた。それだけでは寒かろうと、バンリが用意した毛皮製のマントで全身をすっぽり覆われる。

漸く開いた口で、まずは自分の身の上を話した。物心ついたときから虐待を受け、命からがら逃げてきた話を。

それを聞いて、バンリはまず少年の名前を考えることにした。

「名前か……困ったな、同僚にはよくネーミングセンスがないって言われるんだ」

不安で顔をしかめる少年をよそに、彼は暫く考えた。ふと毛皮のマントを見て、ぱっと顔を明るくして言った。

「そうだ、ウルフはどうだろう。強そうな名前じゃないか?」

少年は眉間の皺を深くした。いくらなんでも単純すぎるし、センスもない。

けれどもバンリはその響きをいたく気に入ったようで、少年は「いやだ」ということもできず、それを受け入れた。

恩人のくれた名前だ、そのうち慣れるだろう。そう諦めて、その日からウルフと呼ばれることになった。

「ウルフ、今日から君は新しい人生を送るんだ。誰に虐げられることもない、幸せな人生を」

手を伸ばして、嬉しそうに笑うバンリ。ウルフもつられて笑みを浮かべると、彼はもっともっと喜んだ。

真面目で、正義感が強くて、けれども公平で。バンリは誰よりも純粋な人間だった。

 

暫く一緒に暮らしていると、ウルフにもバンリの仕事の内容がわかってきた。

バンリが主に担当していたのは、貴族条項違反者の検挙だった。とはいえ、そうそういるものでもないから、普段は別の仕事ばかりだったようだ。

司令部内を掃除したり、書類に見出しをつけてまとめたり、資料を分類して片付けたり。少佐という立場にそぐわず、雑用が多かった。

しかし彼がそれをしていることに気付く者は少ないようだ、ということまでウルフは知っていた。

「どうして、自分がやったんだって言わないの? 良いことなんだから、褒めてもらわないと」

貴族の家に飼われていた頃、そこの息子はよく「すごいでしょ?」「えらいでしょ?」と父親に報告して褒められていた。

だが、バンリはウルフの問いにへらりと笑って答えた。

「僕が僕が、っていうの、恥ずかしくて」

「どうして?」

「昔から人前に出るのが得意じゃなかったんだ。でも、人の手伝いはしたかった。だからこっそりやることにしたんだよ」

そう言った彼は、このときすでに、「こっそりと」ウルフを虐げていた貴族家を条項違反としてあげていた。

ウルフの知らないうちに、その家は貴族としての階級を失っていたのだった。

ときどき、バンリは泥だらけになって帰ってきた。本人はそれを「訓練で汚してしまって」と言った。

嘘をついてはいないのだが、理由はそれだけではない。貴族家を監視していると思われがちなこの役割は、あまり好かれるものではなかったのだ。

石を投げられ、怒鳴られても、彼は自分の正義のために行動した。ただ黙々と、しかし笑顔で。

ウルフがこのことを知るのはもう少し後のことだが、それを抜きにしても、彼は恩人を慕い、尊敬していた。

だからバンリと同じ場所に立ちたかった。軍に入りたいと望んでいた。

「僕、打たれ強いから。どんな訓練も任務も平気だよ」

そう言ったとき、バンリは苦笑していた。しかしそれがウルフの望みならと、試験までに稽古をつけてくれた。

バンリが得意としていた棍。その基本をマスターしたウルフは、三等兵としてエルニーニャ軍に入隊した。

そしてより詳細に、バンリの仕事について知ることとなったのだった。

 

「将官と繋がりのある貴族だったらしい」

「また嫌われたな、ヤンソネン少佐」

そんな会話が耳に入ったのは、ウルフが二等兵に昇進したばかりの頃。北方には短い夏が訪れていた。

貴族条項違反が出たという話は聞いていたし、その担当がバンリであることも知っていた。

だが、違反者が北方軍に在籍する将官と密接な関わりを持っていたなどということは、ウルフにとっては初耳だった。

真面目なバンリのことだから、この関係性を知っていても自分の職務を全うしただろう。

嫌われても、煙たがられても、彼はひっそりと、しかし確実に与えられた役割をこなす。

ウルフはそんなバンリが好きだったが、そうでない人もたくさんいる。

「仕方のないことだから、ウルフは気にしないでいいんだよ」

嫌われたままでいいのか、とウルフが訊ねたとき、バンリはそう言った。

「僕はそれでも、僕の正義に従っていたいんだ」

その言葉を思い出しながら、会話を続ける人物らを睨む。

すでに彼らの話題は変わっていたが、ウルフは心の中で問いかけた。

じゃあ、お前たちの正義は、何だ。

ただ上層部に媚び諂うだけで、自分の職務を全うしたという誇りが持てるのか。

――僕は決して、それを認めない。

 

その年の秋――北方は冬を迎えようとしていた頃、バンリは数日部屋を空けた。

その間、ウルフは一人で過ごし、一人で北方司令部に流れる噂を聞いていた。

貴族家の一部が、集会をしているらしい。エルニーニャ中から、なにやら荷物が集まっているらしい。

事件性があるとすれば、未然に防がなければならない。バンリもそのための任務に出ている。

大きな仕事なんだな、とウルフは思った。目立たず事務仕事をしていたバンリの能力が、やっと認められるかもしれない。

本人はこっそり仕事をしていたいと言っていたが、大好きな人の力が必要になるということは嬉しい。

バンリを嫌っていた連中も、考えを改めるかもしれない。

しかし、帰ってきたバンリが呟いた一言は、その希望を砕くものだった。

「訴えられるかも」

相変わらずへらっと笑う彼。だが、ウルフはそこに疲れを見ていた。

それがわかっていて、問い詰めることをやめられなかった。

「訴えられるって、何で?! 仕事で行ったんだろ?!」

「うん。でもね、生活に介入するなって言われてしまったんだ。集まるだけで悪事と思われるのはたまらないって」

「怪しいことをする方がいけないんじゃないか!」

「疑わしきはシロ、だよ。決定的にそれが悪いことだって言える、証拠がどこにもなかった。……一応説明はしたんだ、危険薬物の流通に関わる可能性もあったからって」

それがかえって良くなかったんだ、とバンリは弱々しく笑った。

名誉毀損で訴える、と貴族達に叫ばれ、引かざるを得なかったのだという。

「でも、多分大丈夫。そうならないように、大総統閣下が動いてくれるって。ウルフは心配しなくて良いよ」

確かに、貴族らを鎮めることはできるかもしれない。大総統はそれだけの力を持っている。

けれども、感情までも抑えることはできない。それに、バンリの場合は内側からの評判もあった。

もともと疎まれている彼が、貴族らを怒らせたことで、より肩身の狭い思いをすることは必至だった。

そんな細かいところまでは、大総統だって手を出せない。ましてここは、地方なのだ。対応が遅れてしまうこともある。

「なんで、バンリの正義は認められないんだろう?」

「みんなが自分の正義を持っているからね。それが僕と違う考え方なら、認められないのも当然なんだ」

それでも僕は貫くよ。

そう言って、バンリはウルフの頭を優しく撫でた。

後日、その件は確かに、当時の大総統ハル・スティーナによって収められた。

だがバンリへの風当たりは、日に日に強くなる一方だった。

 

翌年の春、ウルフは伍長に昇進した。少佐のままのバンリは、それをとても喜んでくれた。

もちろんそのことは嬉しかったが、彼の心には、上官から言われた言葉が引っかかっていた。

「ヤンソネンと付き合うのをやめたら、もっと早く昇進できるかもしれなかったのに」

言った本人は親切のつもりだったのかもしれない。しかし、ウルフは悔しくてたまらなかった。

恩人を、誰より尊敬する人を、そんな風に言われるのは嫌だった。

けれどもそんなことは誰にも言えず、ウルフは暗い気持ちを抱えたままだった。

それを見越してか、それとも本当に気付いていなかったのか。バンリはただただ明るかった。

「ウルフ、今日は隣国の軍人がこっちに来るらしい。歓迎会を開くみたいだから、見に行ってみないか?」

「隣国、ってノーザリアの? 歓迎会って、見に行けるものなの?」

「うん。楽団が出たりして、賑やかだよ。そうか、去年はなかったから……ウルフは見たことがなかったんだね」

貴族の屋敷を逃げ出すまで、ウルフは外の世界を知らなかった。また一つ新しいものが見られると思うと、少しわくわくしてきた。

バンリに連れ出されて大通りへ向かうと、すでに大勢の人が集まっていた。人々に食べ物を振舞う屋台も並んでいる。

そして楽団が、楽器の音を合わせる。天気の良い春の空に、トランペットの響きが吸い込まれていく。

「今日、非番でよかった!」

「そう思ってくれて良かったよ。さぁウルフ、そこの屋台でおやつでも買っておいで」

もやもやした気持ちは忘れて、ウルフはこのお祭ムードを全身で楽しんだ。

屋台で買ったクレープには、ほのかに桜色をしたジェラートが包まれている。思いきり頬張ると、舌がとろけそうに美味しかった。

楽団の音合わせも佳境に入る。打楽器が堂々とした音を街中に響かせていた。

歓迎のために呼ばれた踊り子達の、衣装のきれいなことといったら! ひらひらと花びらのように舞う裾に、思わず見とれた。

バンリから離れぬように、しっかりと手を繋ぐ。

一瞬静まり返った街に、音がメロディーとなってあふれ出した。

「ようこそエルニーニャへ! ようこそシーキルへ!」

その声に続いて、わぁっと歓声が上がり、拍手が湧いた。

道の真ん中を、エルニーニャ軍服を着た人々に続き、グレーの服に身を包んだノーザリア軍人が歩いてくる。

先頭はノーザリア軍大将、カイゼラ・スターリンズだ。ウルフも新聞などで、その顔を見知っている。

その後ろを側近の軍人が歩く。男性と女性が一人ずつ。ちらりと見えた男性の横顔が心底つまらないといった表情で、ウルフはバンリを顔を見合わせて苦笑いした。

女性の方は現ノーザリア国王の娘だと、周りの人が噂している。王女様でも軍人なんだね、とウルフが言うと、エルニーニャもじきにそうなるよ、とバンリが返す。

一団が大通りを過ぎると、それを追う人々とその場で談笑する人々、目的が済んで帰る人などに分かれる。ウルフは別の屋台が見たいと、バンリの手を引いた。

賑わう通りを並んで歩き、飴細工の屋台を見つけて駆け寄ろうとした時だった。

「うわああああ! 退け、退けえええ!!」

明らかに異質な声だった。こちらへ駆けてくる人々の表情は、一様に恐怖を表している。

バンリは一瞬目を丸くしたが、すぐに我に返り、ウルフに言った。

「君はあの屋台の陰に隠れているんだ。僕はちょっと、様子を見てくるからね」

これは「こっそり」している場合じゃないと判断したのか、彼はウルフを置いて行ってしまった。

人の流れとは逆の方向、その先には祭りにそぐわないものがいる。

ウルフはカチンときていた。祭を邪魔する何者かにも、自分を子供扱いするバンリにも。

「僕だって、軍人なのに……!」

急いでバンリの後を追い、人を掻き分ける。

転べば踏まれるかもしれないという危険も顧みずに、一心不乱にその背を捜した。

ぽかりと開けた場所に出ると、そこにはバンリと、銃を手にした男がいた。

男は狂ったように叫びながら、震える手で銃を構えている。明らかにまともな状態ではなかった。

「危ないよ、それを離して」

バンリが言う。だが、男の耳には届いていないようだった。

そこで一歩、もう一歩と近づいていくと、男は銃口をバンリに向ける。

それでも怯まず、徐々に距離を詰めていく。

ウルフは動けなかった。バンリを助けたいのに、足が少しも前へ出なかった。

こめかみを流れ落ちた冷や汗をぬぐうこともできず、ただその光景を眼に映すだけ。

男が引鉄にかけた指に力を込めたのがわかった。このままでは、無防備なバンリは撃たれてしまう。

でも、どうやって助けたら。体がいうことを聞かないのに、肝心な時に役に立てないのに、何が軍人だ。

悔しさが涙になって、ウルフの目ににじんでいた。その間にも、バンリは前へ進み続ける。

そして。

「……ったく。面倒なこと起こさないでくれよ」

男の、銃を持つ腕は、グレーの軍服の人物によって押さえられた。

いつの間にやってきたのかと思ったが、よく考えれば簡単なこと。ウルフの視界にはバンリと男しか入っていなかったし、バンリはきっと男しか見ていなかった。

突然現れたように見えたノーザリア軍人は、バンリと同じように、男に近づいてきていたのだ。

「まぁ、軽い暇潰しにはなったけど」

軍服の青年は男の持っていた銃を取り上げ、地面に捨てた。

それからバンリを見て、「あなたも、」と切り出した。

「一般人が危険な真似はしないように。何かあったら駆けつけてきてしまった俺の責任になる」

「一般人ではありません、軍人です。……今日は非番でしたけど」

すかさず返したバンリに、青年は溜息混じりに「そーですか」と言った。

そこで漸く、ウルフは体が動くことに気付いた。バンリに駆け寄り、勢いよくしがみつく。

「バンリ、無事?!」

「ウルフ! 隠れていなさいと言ったのに……」

「子連れでよくこんな危ない真似ができたもんだ」

青年は呆れた様子で、男を締め上げながら呟いた。ウルフは彼をまじまじと見て、その正体を理解する。

「さっき、ノーザリア大将の後ろにいた人だ。うんざりした顔で歩いてた……」

「顔に出てた? おかしいな、表情作るの下手になったか……」

苦笑しながら、青年は捕まえた男の顔を見たり、脈を計ったりしていた。

そして一人頷くと、バンリに言った。

「現地の軍の方を呼んでください。この男、危険薬物にやられているらしい」

「危険薬物?! ……はい、今すぐに」

バンリが軍を呼びにいくのを見送ってから、ウルフは青年をもう一度見た。

まだ若いが、隣国大将の側近ということは実力があるのだろう。

「兄ちゃん、何者?」

「ノーザリア中将。面倒な役割だよ」

「名前は? 僕はウルフ・ヤンソネン。ここの伍長」

青年は息をついて、「覚えても仕方ないぞ」と前置きをしてから名乗った。

「ダイ・ヴィオラセントという」

 

この事件以来、バンリは少しだけ評判を回復した。

市民を助けようとした人物として、ノーザリア側から名前が上がったのだ。

ウルフは誇らしいと思っていたが、バンリは「目立つのはちょっと……」と困った顔をしていた。

だが彼のもともとの仕事、つまり貴族条項違反に関するものは、以前よりやりやすくなったと言っていた。

これまであまり目立たず、そのくせ煙たがられてばかりだったバンリを、認めてくれる上司が現れたからだ。

バンリの味方が増え、彼の正義が認められ、堂々と行動できる。それがウルフにとって、何よりも嬉しかった。

これまでにないほどの好転に、二人とも喜んでいた。だから、その日まで気付かなかった。

そこに大きな罠があったということに。

 

世界暦五三一年。ウルフがバンリと出会ってから、二年が経った。

バンリはこのところ、忙しく動き回っていた。昨年末に昇進し、貴族条項違反に関する案件の責任者として抜擢された為だ。

そしてその頃から、北方の貴族条項違反が増え始めていた。

「今日もヤンソネン中佐は残業かい?」

寮の食堂で声をかけてきた上司に、ウルフは頷く。最近は一人で食事をすることが多くなった。

そもそも階級が大きく離れている二人が同室のままということも珍しい。そろそろ「親離れ」をして、バンリに迷惑をかけないようにするべきではないかとも考えている。

ウルフも先日、軍曹に昇進した。そろそろ新兵指導も任せられるだろうともいわれている。

別の道を歩むことを頭の片隅に置いて、日々を過ごしていた。

ただ自分にあった道を探し、進むだけ。バンリとお別れをしようなんて、思っていない。

「ウルフ! 大変だ、ウルフ!」

食事を終えた頃、食堂に飛び込んできた同僚がウルフを呼んだ。肩で息をする彼に水を渡し、何の用かと問う。

彼は水を一気に飲み干し、大きく息をついてから、告げた。

「バンリ中佐が、会議にかけられてる。詳しくはわからないけど、何かまずい雰囲気だ」

「まずい、って……」

そんなはずはない。仕事は上手くいっている。認めてくれる人もいる。

バンリは順調に功績をあげている。近頃増えた貴族条項違反者は、みんな彼に悪事を暴かれている。

「……あ」

ウルフはそこで、漸く思い出す。

かつてバンリは貴族条項違反者を検挙し、その貴族と関わりのあった上官に嫌われている。

またそういうことがあってもおかしくはない。認めてくれる人がいるとはいえ、そうでない人が全くいなくなったわけではないのだ。

バンリの正義は、誰かの不利益になる可能性がある。またそこに触れてしまったとしたら。

「ここだけの話だけど」

同僚が小声で言う。

「最近貴族条項違反が増えたのは、バンリ中佐のせいじゃないかとも言われてるんだ」

「どうして? バンリは取り締まる側じゃないか」

「それが厳しすぎて、これまでグレーゾーンと言われてきた奴らも挙げてるんじゃないかって。違反が増えたんじゃなく、検挙数が増えたって説だ」

それならば、貴族側から苦情が出るのももちろん、軍側も状況に苦慮することとなる。

軍そのものの信用だけではない。犯罪が多いことにされては、国の威信にも関わってくるのだから。

「どうして……バンリは、バンリの正義で動いてるだけなのに」

「個人の正義は、それが大義に反してるなら正義とはみなされないんだよ」

同僚の言うこの言葉が、おそらく真実。ウルフにとっては認めたくないものだが、きっとわかってはいた。

『みんなが自分の正義を持っているからね。それが僕と違う考え方なら、認められないのも当然なんだ』

そういいながら、バンリはそれでも彼自身の正義を貫こうとした。

ウルフもそれが正義だと信じてきた。

「バンリ中佐が戻ってきたら、話を聞いてみろ」

「……聞けるかどうかわからないけどね」

もしもバンリのしたことが、軍のやりかたに反しているのだとしたら。バンリはどうやって、自分の職務を全うすれば良いんだ。

自分の本当の気持ちを隠して、半端なまま仕事に向かうのか。

軍の正義は、何だ。

いつかの問いを、もう一度思う。

ただ上層部に媚び諂うだけで、自分の職務を全うしたという誇りが持てるのか。

「……僕は決して、それを認めない」

 

はたして、同僚の言葉は概ね当たっていた。

バンリは貴族を検挙しすぎて、軍の立場や国の威信を重要視する上層部から注意を受けていた。

――ということになっている。

とにかく、以降バンリの行動は牽制され、これまでほど自由には動けなくなった。

グレーゾーンだった貴族らは見逃され、失いかけた貴族階級を再び手にすることができた。検挙数は減り、資料は作り直された。

「仕方ないよね。僕の正義は、みんなの正義じゃなかったんだ」

バンリはそう言って笑うが、ウルフはそれに苛立っていた。

――なんで笑うんだよ。自分が否定されたのに、なんで笑えるんだよ。

子どもゆえに、大人の事情なんてわからない。それに何より、バンリのことが大好きだったから。ウルフは誰よりも、この件に腹を立てていた。

そんなウルフに、バンリは優しく言った。

「どうして僕が、貴族の取り締まりに躍起になっているか。わかる?」

「……悪いことをしているから、でしょう」

「率直に、正直に言おうか。これは僕の意地だよ」

その時、ウルフは初めてバンリの身の上話を聞いた。

バンリは、貴族の生まれだった。ヤンソネン家は貴族条項によって、国から正式に貴族と認められた家だった。

しかし、バンリが九歳の時。家は自らその階級を手放すこととなった。

「貴族条項に違反したんだ。市民に分けなければいけない財産を、よりによって危険薬物に投じた」

ヤンソネン家が貴族階級を剥奪されると同時に、バンリは施設に入ることになった。危険薬物に手を出した両親から、離す必要があると判断された為だった。

小さな条項違反が、大きな事件に繋がることもある。バンリはそれを身をもって知っていた。

自分のような思いをする子どもを増やさないよう、軍に入り、条項違反の取締りをすると申し出た。

貴族階級を失くしても、家族と離れないで済むのなら、その方が良い。

それがバンリの「正義」の根底。

「だけど、うまくはいかないね。……近いうち、僕は辞めさせられるだろう」

「そんな! 辞めちゃいけない。バンリは正しいんだから!」

胸にしがみつくウルフの頭を、バンリはそっと撫でた。

困ったような顔で笑って、首を横に振って。

「君は、君の正義を見つけるんだよ、ウルフ」

その言葉を残して、彼は軍を去った。行き先を誰にも伝えることなく、シーキルから姿を消してしまった。

ウルフは毎日バンリを捜したが、二度と会うことはなかった。

 

数ヵ月後に起きた事件は、エルニーニャ中で話題になった。

首都レジーナにある国立博物館から、展示品が盗まれた。警備に当たっていた者のうち、一人が犯人グループに殺害された。

盗まれた展示品が、エルニーニャと南国サーリシェリアの友好の証“赤い杯”だったことと、死者が出てしまったこと。

この二つが重なったことで、国内は騒然となった。

もちろん軍も動き、大総統命令により国内全域で捜査が行われた。

ウルフもこれに加わり、“赤い杯”の行方を追っていた。その合間にバンリの捜索も続けていたが、こちらも一向に手がかりがなかった。

「すでに国外へ行ってしまったのではないか」

周囲は皆そう言う。“赤い杯”は諦められていて、バンリのことはほとんど忘れ去られていた。

「“赤い杯”、今日で捜査打ち切りだってさ」

一週間経たないうちに、同僚がそう報せた。

「早くない?」

ウルフのこの問いは、“赤い杯”の件についてだけではない。

それが伝わるはずはないのだが、同僚の返答はどちらにも重なった。

「上層がそうしろって言ったら、そうなっちゃうからな」

中央はまだ捜査を続けている。だが、北方は早々に切り上げた。

そう、どこよりも早く終わらせたのだ。

しかし後日、中央へ報告をするための書類を、ウルフが確認していたときだった。

「……あれ?」

捜査終了日の欄に書かれた日付が、実際よりも後になっていた。

これでは実際の捜査期間よりも長くなってしまう。中央に虚偽の報告はできないので、訂正しなければならない。

ウルフは書類を作成した上司に確認しようと、事務室を出た。

小会議室の前を通りかかったとき、聞いたことのある声がした。誰だっけかと思ったとき、室内からよく知った名前が聞こえた。

「バンリ・ヤンソネンを処分してから、随分と時間がかかったじゃないか」

この数ヶ月、自分以外には誰も口にしなかった名前。忘れ去られてしまったと思っていた響き。

それが不穏な言葉とともに口にされていた。

「先方にも都合があったようです。……ほら、去年のノーザリア軍の歓迎会。あの時にかなり煮え湯を飲まされたようで」

「まさか本当に、殺したのは故意だったのか?」

「おそらくは。……いずれにしろ、ヤンソネンを追放しない限りは不可能でしたね」

「そうだな。あいつがいたら、計画実行前に貴族階級を剥奪されかねん」

「辞めさせるために随分骨を折りましたよ。その節はあなた含む貴族の方々にもご迷惑をおかけしました。

あいつを自然に辞めさせるには、どんどん働いてもらって、余計なことはするなと咎めるのが一番良い方法だったんです」

「回りくどいな。“赤い杯”の入手まで、無事上手くいったから良いものの……」

「なにしろ大総統閣下の耳に入るとまずいもので。あくまでも自然な流れを作る必要があったんですよ」

ウルフは静かに後ずさりした。自分の存在に気付かれないよう、その場を離れ、事務室へと戻る。

心臓が早鐘を打っている。いや、これはきっと叫んでいるのだ。

お前たちの正義はなんだ。そんなもの、最初から存在していなかったんじゃないか。

「認めたフリなんかしやがって……」

呟きがもれるほどに悔しい。そうだ、あの声は、かつてバンリを認めてくれたあの上司の声だった。

全部嘘だった。バンリを騙して、彼の正義を利用していたんだ。

お前たちのしたことはなんだ。物を奪って手に入れて、人まで殺して。まるっきり悪じゃないか。

「バンリ。わかったよ、僕の正義が」

悪があるなら、それを裁こう。軍でそれができないのなら、一人でやろう。

それをなせなかったバンリに代わって、自分はやり遂げよう。

 

ウルフは翌日、軍を辞めた。

“赤い杯”を持っている貴族を探し、その傍らで他の貴族の悪事を裁くことにした。

北方では軍の人間と貴族の癒着が強いので、場所を変えた。“赤い杯”の持ち主を探すことはできなくなるが、そこは妥協した。

いたるところで、条項違反の貴族を探し出しては、確実に階級剥奪に繋がるネタを掴もうとした。

そのためには、住居に不法侵入することも、他人の家から物を持ち出すことも厭わない。

ウルフはウルフの正義のために、それを貫くために、行動していた。

バンリの代わりだという使命感が、彼の背中を押していた。

 

「僕は、僕の正義に従う。……僕が、バンリになる」

 

彼はいつしか、継いだ名と与えられた名を合わせてバンリ・ウルフと名乗るようになった。

彼は長い月日を、貴族を裁くことに費やした。貴族条項違反の検挙は、国内全体で日に日に増えていった。

そうして、世界暦五三九年を迎える。