白いブラウスに、臙脂色のネクタイ。紺色のスカートに、同じ色のジャケット。
左胸には金色に輝く軍章と、少尉の地位を示す階級章。
久しぶりにも感じる、姿見の向こうの自分。一人の少女ではなく、国を守る一員。
「行こうか、ベル」
同じ格好のルームメイトに声をかける。
「承知した」
不敵に笑い合う彼女らは、本日から再び戦いへ身を投じる。
「体が鈍って仕方がない」
イリスが聞いたルイゼンの第一声がこれだった。
というわけで、四人組は今練兵場にいる。
待機期間中、兄らに相手をしてもらっていたイリスはともかく。他の三人は手ごたえのある相手がいなかったので、感覚を取り戻す必要があった。
ルイゼンとメイベルが手合わせをしている間、イリスとフィネーロはそれを見ながら言葉を交わす。
「フィンはこの数日、何してたの?」
「ちょうど兄達が帰ってきたので、各地の状況など聞いていた」
フィネーロには三人の兄がいて、それぞれ地方司令部や大学などに所属している。遠くの情報は仕入れやすかった。
さりげなく地方での貴族条項違反について聞いてみたが、大きな成果は得られなかったという。
「中央と北方で検挙数が多いらしい、ということくらいだな。兄は西方と南方については詳しいが、他はあまり知らないということだった」
「そっか……それは昨日、レヴィ兄から聞いたしなぁ」
「イリスは、閣下から何か情報を得たのか?」
「うん。かなり核心に近づいたと思う」
さらりと流すように言うイリスに、フィネーロは怪訝な表情を返した。
それほど重要なことならば、朝一番に報告してくれてもよさそうなものだ。それをしないのは、何故だ。
その疑問を口にする前に、イリスは曖昧に笑って答えた。
「わたしも、こんなに一気に進むなんて思ってなかったんだ。……だから、実感が湧かない。夢だったんじゃないかって疑ってるから、フィンたちにも言いにくい」
「それでは困る。僕らは君と共にこの件を調べてきたんだ」
「そうだね、ごめん」
すぐに報告しなかった理由がこれだけではないということは、フィネーロにもわかることだった。
イリスの中で、ひっかかっていることがある。それが確信できるまでは、どう説明して良いのかわからなかったのだろう。
だからといって、黙っていられるのは心外なのだが。文句の一つでも言った方が良いかと思ったところで、あとの二人が戻ってきた。
「メイベルが手加減一切してくれないんだけど」
「当たり前だろう。ストレスを解消しなければ、仕事にならないからな」
「お疲れ、二人とも」
いつも通りの笑顔で、イリスが二人に手を振る。何事もなかったかのようで、フィネーロはむしろ違和感を持つ。
イリスとメイベルが会話をする間に、ルイゼンが「調子は戻ってきたけどなー」などと呟いて、フィネーロの隣についた。
「ルイゼン。イリスのことだが……」
「ん? 今朝からずっとへこんでるみたいだな。あれはレヴィアンスさんと何かあったと見た」
「……わかるのか」
ルイゼンは、イリスの空元気を見抜いていた。その原因すらも。
驚いているフィネーロに、彼は「幼馴染だしな」と返す。
「元気がないっていうよりも、悔しがってる。でもそう振舞うことは許されないんじゃないかって思ってるから、なんでもないフリをする。
強がりすぎなんだよ、あいつは」
メイベルとじゃれて、はしゃいでいるイリス。その様子からは、そこまで読み取ることはできない。
付き合いの長さを感じて、フィネーロは「ルイゼンには敵わない」と覚った。
昨夜、レヴィアンスはイリスに「報告」をした。
リヒトからの情報と、それを元に調査した内容――北方に関してのことだった。
「“赤い杯”は、七年前まで北にあったとみられる。その前はどこにあったのかということを調べるうちに、八年前の北方の状況に突き当たったんだ」
その頃北方での貴族条項違反の検挙数が増え、そして一気に減っていった。
単に厳しく取り締まったことが功を奏した、ということならばいいのだが。
「北方軍は貴族の取締りが厳しくなることで、批判を受けることを怖れた。実際、中央にもクレームが入っていたらしい」
レヴィアンスがそう告げると、イリスは眉を寄せて「まさか」と呟いた。
「だから、意図的に検挙数を減らしたってこと……?」
「そう。すでに貴族階級を剥奪された者に、権利を返すこともあったそうだ。そうして数字は修正され、貴族からの信頼もいくらか回復した」
「苦情が入った時点で、中央は動かなかったの?」
「注意はしたはず。でもその後の報告は無事解決という内容だったし、何よりこの年は例の事件が起こっている」
北方から解決したという一報が届いたのと、中央で博物館が襲撃されたのはほぼ同時期。貴族からの苦情の件は、すぐに忘れられてしまったかもしれない。
あるいは、いつもの取るに足らない文句だと捉えて、初めから気にしていなかったかもしれない。
どちらにせよ、中央は北方での状況にほとんど関わっていなかった。
「博物館襲撃の後、今度は中央で貴族条項違反が徐々に増えていった。急増、もとい大量発覚はつい最近だけれど、それ以前から兆しはあった」
「貴族条項違反と、“赤い杯”……やっぱり、無関係じゃないんだ」
貴族条項違反は北方から中央へ。“赤い杯”は博物館襲撃によって中央から北方へ。その両方と関わりがあると思われる人物が存在している。
“赤い杯”のレプリカを盗み、本物とすり替え。貴族のリストを残していった、あの男。
「それからさ、イリス。ここからが一番重要で、きっと一番知りたかったと思う話だ」
レヴィアンスは、鞄から一冊のファイルを取り出した。『北方軍在籍者』と題された分厚いそれには、二枚の付箋がついていた。
イリスはファイルのタイトルをなぞるように見て、それから表紙に触れる。指先から伝わる感触は、それほど古いものではない。
「……開いても?」
頷きが返ってきたのを確認して、イリスはそっとファイルを開いた。付箋の貼ってあった二ページのうち、表紙に近い方が現れる。
そこには写真とともに、軍に在籍していた人間の基本データが記されていた。この人物は、八年前に軍を辞めているようだ。
当時の階級は中佐。備考欄には「貴族条項違反担当」と走り書きされている。
おっとりとした印象の写真の、横の欄に名前があった。
「レヴィ兄、この人の名前……偶然?」
「オレも初めはできすぎた偶然かと思った。でも、二つ目の付箋のページで確信したよ」
その言葉に、イリスは急いでもう一方のページを開いた。そこにあったのは当時の軍曹のデータで、こちらも時期はずれるが八年前に軍を辞めている。
先ほどと同じように名前と写真があって、その顔は若いけれど、どこかで、……。
「……バンリ」
その名を呟く。
それは八年前まで北方で貴族条項違反を担当していた中佐の名であり、写真にある少年軍曹が現在名乗っているもの。
元北方司令部中佐バンリ・ヤンソネンと、同じく元軍曹ウルフ・ヤンソネン。
「間違いなく、彼らがバンリだ。……中佐は軍を辞めたあと行方不明になり、その後を追うようにして軍曹が同様に姿を消した」
言いにくいことではあった。しかしフィネーロの言うとおり、これは仕事なのだ。
昼休み、イリスはルイゼンたち三人を第三休憩室に集め、昨夜の話を伝えた。
「……やっぱり、元軍人だったのか」
棍の一件からその疑いを持っていたルイゼンが、頷きながら言った。
「俺たちの会ったバンリは、ウルフが名前を借りたものって理解で良いのか?」
「多分。ファミリーネームが同じだから、兄弟かもしれないね」
データをそのまま持ってくることはできなかったので、イリスが一通りを書いたメモを囲んでの話となった。
名前と階級、在籍期間などが震えた文字で記されている。ルイゼンはイリスの心境を思い、拳を握った。
ややこしいな、と呟いたのはメイベルだった。辞職日が書かれた箇所を一刺し指で叩いて、切り出す。
「二人とも八年前に辞めているが、あの変態盗人……ウルフは随分後になってから辞めたんだな。何ヶ月も空けて後追いと考えるのは不自然じゃないか?」
「色々葛藤があったのかもしれない。それにバンリ・ヤンソネンは行方不明になったんだろ? 人捜しをするなら軍にいた方が立場を利用して情報を集めやすいと思う」
「それが上手くいかなくて、自分も辞めたってことかな」
メイベルの疑問に、ルイゼンとイリスが考えを述べる。だがフィネーロは、時期の関係にひっかかっていた。
単なる後追いとするには不自然な、空白の時間。その間に何があった?
軍で行方不明者を捜すことを見限った、そのきっかけは何だった?
「……イリス、博物館襲撃はいつだ?」
投げかけられた問いに、イリスははたと動きを止めた。
バンリ・ヤンソネンが軍を辞め、行方不明になった。その後数ヶ月の間があって、ウルフ・ヤンソネンが辞職した。
空いた数ヶ月に、あった出来事は。軍での人捜しが上手くいかなくなったわけは。
「フィン、ありがとう。……そうだったね、バンリは“赤い杯”に関わりがあるんだった」
バンリ・ヤンソネンが姿を消してから数ヵ月後、中央で博物館襲撃があった。ウルフ・ヤンソネンが辞めたのは、それから間もなくだ。
ウルフ――自分たちが会ったバンリは、博物館襲撃を境に軍を出て行ったのではないだろうか。
いや、確かにそうなのだ。正しくは、「バンリが“赤い杯”に関わっている」という言い方も間違いだ。
イリスが“赤い杯”との関わりを問い質したとき、彼はこう答えた。「関係ないよ」と。
「僕が関わっているのは、八年前にこれを盗んだ窃盗団の方だ」
彼は自分から関わりを明かしたものの、それがどういうものかというイリスの問いには答えなかった。
「それはちょっと教えられないな。……だって君は、軍人だろう?」
イリスが軍人だから、教えられない。軍人には、言えないこと。
何かがあって軍を見限ったから、彼は出て行った。
それ以前に、バンリ・ヤンソネンは貴族条項違反を担当していて、在籍中は次々に貴族を検挙している。トラブルに発展するまでに。
バンリ・ヤンソネンが軍を辞めて、北方は貴族条項違反としてきた案件を見直した。検挙数は書類の上で減らされた。
この事実があったとして、それを知るきっかけが博物館襲撃の際にあったのなら。
「あいつの……バンリの動機は、きっとヤンソネン中佐で。博物館襲撃の窃盗団と関わりがあるってことは、あの時の犯人は……」
「決まりだろう、イリス」
メイベルが席をたち、その先を紡ぐ。
「真実は北方にある。……イリスが望むなら、私は今すぐ乗り込んで全滅させても良いと思っているが」
冗談に聞こえない――実際メイベルに冗談を言っているつもりはなかった――言葉に、苦笑で返してから、イリスも立ち上がる。
鍵も扉も見つかった。あとは、これを開く為の力がもう少し欲しい。
「ゼン、大総統室に行くよ。この班の責任者はあんたなんだから、しっかりわたしをフォローしてよね」
「それは本来、責任者から言う台詞じゃないか? 俺がフォローするから、お前は堂々としていろってさ」
言われなくてもやってやる、とルイゼンが立つ。一人だけを伴うことに不満げなメイベルの肩を、フィネーロが叩く。ここは任せたほうが良い、と。
これはイリスが望んだ決着だ。
大総統レヴィアンス・ゼウスァートは、ノックの音に気付くと「あとでまた」と受話器を置いた。
来訪者を招きいれ、相手の赤い瞳に「何かを掴んだ」ことを覚った。
「オレにしてほしいことは?」
だから、この問いだけで良い。余計な言葉は必要ない。
「閣下、北方司令部査察の許可を」
先に口を開いたのはルイゼンだった。あくまでリーダーは彼なのだから、当然だろう。
そしてこちらも、軍全体を率いるリーダーとしての答えを用意してやらなければならない。
「お前たちには許可できない」
「何故ですか」
「北方から要請があったのなら別だが、こちらの判断で尉官を送ることはできない。どうしてもというなら、佐官以上の人間に託す」
そんな決まりはなかった。だが、レヴィアンス自身も状況を把握しているからこそそう判断した。
少年少女が話し合いの末に導き出した考えに、この男は昨夜の時点ですでにたどり着いていた。正確には、リヒトから情報を得た直後だ。
北方を調べる必要があると思ったが、八年前の出来事を今になって正しく知ることができるかどうか。そう反発があることは目に見えている。
まだ当時の人間が残っていたとして、それが敵でないと言い切れない。寧ろこちらを歓迎しないと思ったほうがいい。
だから、イリスたちに行かせるという選択は、レヴィアンスにはない。
「じゃあ、頼みを変える」
その考えを彼女なら、イリスならきっと解ってくれると思っていた。
長い付き合いだ。彼女の成長も見てきたし、自分の思いも伝えてきた。
「閣下、……ううん、レヴィ兄。北方司令部の査察に行ってきて」
イリスが時折むちゃくちゃなことを言い出すところは、兄に似たのではない。自分に似たのだと、レヴィアンスは言い切れる。
「大総統に向かって、随分なことを言うんだな」
「だからレヴィ兄に頼んでるんでしょう。佐官以上の人間になら、託すんだよね?」
不敵に笑うイリスの横で、ルイゼンが目を丸くしている。こんな表情をするようじゃ、まだまだ修行が足りないな、なんて。
レヴィアンスはニッと笑む。友人たちに見せる、レヴィアンス・ハイルの顔で。
「どっちにしろ大将級の人間を使おうとする尉官なんて、生意気だと思うけど?」
「そりゃあ、お兄ちゃんたちの妹だもの。こうなるように育てた責任、とってよね」
みんなの妹イリス・インフェリアは、実に逞しく育った。目的のために手段を選ばないそのやりかたは、一体誰に似たんだか。
「とってやるよ、責任。ついでにイリスのこれからの人生について責任とっても良いわけだけど、どう?」
「閣下、冗談を言ってないで結論を」
少しムッとした様子のルイゼンを見て、レヴィアンスは実に楽しそうに笑う。イリスは良い仲間に恵まれているなと、心から思う。
人を惹きつけ、動かし、自らも中心へ飛び込んでいく少女。彼女に敬意を表して、彼は告げる。
「エルニーニャ王国軍総大将レヴィアンス・ハイルが、北方司令部内部調査を引き受けよう。
そしてエルニーニャ王国軍大総統レヴィアンス・ゼウスァートから、リーゼッタ大尉率いる小班にウルフ・ヤンソネンの身柄確保を命ずる」
「ありがとうございます。その命、必ず遂行いたします!」
イリスが目指していた場所への扉が、音を立てて開かれた。
その日のうちに、大総統が数日中央司令部を離れるという情報が国中に流れた。
というのも、彼自ら北方への査察を発表し、それをメディアに流したのだ。
「それじゃ、北方司令部もそれなりの対応をしてくると思うんだけど……突然行った方が暴きやすいんじゃないの?」
イリスの疑問に、フィネーロは首を横に振った。
「八年も前のことを調べること自体、何も出てこないと思ったほうが良い。それでもあえて発表の上で行うというのは、僕たちのためだろう」
「あの変態盗人を誘き出す為だろう? 少しはやるじゃないか、閣下も」
メイベルもそうは見えないが感心している。
北方査察を発表することで、バンリは必ず動くだろう。彼はオークションの情報を軍に知らせるために、貴族のリストや弾丸を用意してきたのだから。
今回も何かしらのヒントは与えに来ると、レヴィアンスは踏んでいた。
「……でも、軍には何も教えないつもりなら、どうしてそこまでやるんだろう」
イリスだけは、この考えに納得できなかった。バンリの矛盾が解けなかったからだ。
「軍人には言えない」。それはきっと、彼が軍を見限って出て行ったからだろう。
だがこれまで、彼は軍に情報を流しすぎていた。
多分、とルイゼンが口にする。イリスは首を傾げて振り向いたが、当人は彼女から目を逸らして言った。
「自分にできる限界をわかっていたからか、もしくは……」
「もしくは?」
「イリスのせいだ」
「……は?」
イリスは意味がわからず余計に混乱するが、メイベルとフィネーロは納得したようだった。
彼らには理解できる。自分たちも何故か全てをさらけ出し、信じてみたくなったから。
自分がイリス・インフェリアに惹かれたように、バンリもそうなんじゃないかと自然に思えた。
「まったく、本当に変態盗人だな。イリスは渡さん」
「ちょっと待ってよベル、こっちは話が全く見えないんだけど? ゼンもフィンも、自分たちだけ納得してないで説明してよ?!」
ただ一人どういうことなのかわからないイリスに、三人はただ笑う。
向こうがそのつもりなら、こちらも我らが姫のために動くだけ。……いや、姫というには少しばかり活発すぎるか。
大総統の留守を預かるのは補佐官だ。レヴィアンスも、ちゃんとイリス以外の補佐官をたてている。
彼ももちろん信頼できる人物だ。しかし軍だけではなく首都レジーナという地域を見渡すと、より多くの味方がサポートをしてくれていた。
レジーナには元軍人が多い。中央出身の人間として中央司令部に勤務し、引退後もこの場に留まり続けるというパターンが一般化しているのだ。
さらには中央へ異動になった地方司令部の人間が、この地に根をはることも珍しくない。
敵にまわせば怖ろしいが、味方につければこれ以上に心強い人々はいない。
レヴィアンスはゼウスァート姓を名乗ることによって、かつて軍に関係していた者から信用を得ていた。加えて、長年付き合いのある人々の助けがある。
数日レジーナを離れたところで、何の支障もないという絶対の自信があった。支障があっては困るのだ。
「それにしても自ら出向くなんて、この件に随分と入れ込んでるのね」
三派会の席で、女王オリビア・アトラ・エルニーニャは美しく微笑み、言った。
レヴィアンスに大総統の席に着くよう命じた、あの時のような、打算的なものは含まれていなかった。
「入れ込まないわけがないよ。これは先々代大総統の残した仕事なんだから」
「そうだよね。私たちが解決したくて、けれども実現できなかった……とても大きな残り」
大文卿代理アーシェ・ハルトライムは、あの日の後悔を思い出しながら言う。
立場は変わってしまったが、彼女らも元は軍にいた。しかしそれ以上に、同じ国を守る者だ。
「貴方は安心してお仕事をして頂戴。おちびちゃんたちのことは、私たちに任せて」
「昔からバックアップは得意なんだから、私たち。ね、オリビアさん」
政について会議をするときは怖ろしいほど詰めてくる女王と大文卿代理だが、今は頼れる先輩と同僚だ。
いつもこうならいいんだけど、という呟きを内心に秘めて、レヴィアンスは二人に礼を言った。
すると、アーシェが首を横に振る。
「こっちも助けてもらったもの。お互い様よ」
「いや、オレの方もかなり協力してもらってると思うから」
「ずるいわ、二人ばっかり。レヴィ君を大総統に推薦したのは私だってこと、忘れないでね?」
「忘れてないよ。その裏の企みも」
「酷いわね、もう……」
エルニーニャのトップたちは、一時の平和を穏やかに過ごした。
この仕事が終われば、またそれぞれの立場に戻らなければならない。今だけは、ただの友人同士でありたい。
「ニア、ニュース聞いたか?!」
玄関に靴を放り出して、ルーファは居間へ飛び込んできた。
それを迎えたニアは冷静そのもので、焦る相方に「靴揃えて出直してきて」と言い放つほどだった。
言うとおりにし、改めてニアに向かい合ったルーファは再び「ニュース……」と口にする。
「レヴィの奴、どうして大々的に発表したんだろうな。普通、こんなことを国全体に知らせることはないだろ」
「確かにないけど。でもレヴィなら、何を始めてもおかしくないよ」
「でも北方だけなんて、不満を呼ぶんじゃないか?」
「北方に用があるから行くんでしょう。イリスにしてた話、ルーだって覚えてるよね?」
この家に来たレヴィアンスが、イリスに話した内容。当然傍にいたニアとルーファの耳にも入る。
元軍人とはいえ、立場上は部外者でいなければならないので、二人は目の前で語られたことは聞いていないふりをしていた。
友人と妹に関わり、自分たちもかつては関わっていた事の話を忘れられるわけはないのだが。
「レヴィが自分で行くっていうのは僕もびっくりしたけどね。……でもよく考えたら、手出しできる味方を増やす為にもそうした方がいい」
「手出しできる味方?」
「いるでしょう、この事態に黙ってられない人が。北ならすぐに駆けつけられる」
「……あぁ、いたな」
相変わらずその人の話をするときのニアは嬉しそうだななんて、少しばかり嫉妬をおぼえながら。ルーファもレヴィアンスの行動に納得した。
それなら、ここにいる「部外者」に何ができるか。手出しできない味方として、取るべき行動は。
それをニアに問おうとした時、呼び鈴が鳴った。
「こんな時に誰だ?」
「あ、僕が呼んだんだ。状況を把握したいのにできないのは、あんまりだと思って」
ニアが素早く立って、玄関へ向かう。招かれた人物の声は二つ、大人の女性と子どものもの。
姿が見える前に合点がいったルーファは、茶でも用意しようかと台所へ向かった。
「呼び出してごめんね」
ニアがソファを勧めると、グレイヴは礼を言ってから、首を横に振った。
「こっちはお礼を言いたいわ。うちのは何にも話してくれないし、アタシはアーシェみたいに軍の内情を知ることができる立場にはないから」
先に娘を座らせ、それから自分も落ち着く。台所から「ちょっと待ってて」と声がしたので、「おかまいなく」と返しておく。
「イリスちゃんはおしごと?」
エイマルが尋ねる。少し困った顔をして、ニアは頷いた。
「イリスがいないと退屈だろうけど、今日はお兄さんたちで我慢してね」
「がまんじゃないよ。あたし、ニアさんの絵見たい!」
明るく笑うエイマルのおかげで、ニアの心が癒されていく。
本当は、妹が立ち向かうものを知ってからずっと落ち着かなかった。自分たちの手で終わらせることができなかったものを託すことが、申し訳なかった。
きっとそれは、みんな同じ思いだ。特に、今はここにいないあの人は。
ルーファの淹れた茶を飲みながら、エイマルが絵はがきに夢中になる頃。ニアはグレイヴに現状を語り始めた。
「ニュースで知ってると思うけど。レヴィが単身で北方の査察に行く」
「知ってるわ。あれだけ大きく取り上げられたんだもの」
「八年前の件に関わってると見て、調査をしにいくんだ。……向こうでダイさんと合流する可能性は高い」
「……そう」
やっとそこまで進んだのね、と小さく呟くグレイヴに、笑みはなかった。
八年前の事件は、彼女にとって大きな転機だった。
あの出来事がなければエイマルが生まれるのはもっと後になっていたかもしれないが、少女が父親をそう呼べずに過ごすことはなかった。
父を失ったダイが愛する者との間に得た一人娘。事件を追うことで歪んでしまった家族。事件が解決すれば元に戻るのかといえば、そう簡単なものでもない。
だが、一家が幸せを取り戻せると信じて行動している者がいる。大好きな妹分に、実父を遠慮なく「お父さん」と呼んで欲しいから、戦っている少女がいる。
グレイヴの望みは、エイマルが幸せになること。そしてイリスの思いが満たされること。
もう少しでそこに手が、指先だけでも届くかもしれない。それは嬉しいのに、素直に笑えない。
ここまで来るのに、時間がかかりすぎた。いなくなってしまった人を取り戻せるわけでもない。
「おかあさん?」
娘が顔を覗きこむ。心配そうに眉を八の字にして、母を見つめる子。なんとか笑顔を作って、「大丈夫」とその頭を撫でてやった。
「エイマル。レヴィとおじさんを応援してあげよう」
「うん。おしごと、うまくいくといいね。それからイリスちゃんのも」
今望める幸せにたどり着けますように。ただそれだけを願う。
大総統が中央を出発する時刻の三時間ほど前。軍人寮の一室で、一人の男が探し物をしていた。
シンプルな机の、鍵つきの引き出しを開けて。その中にあったパスケースを掴み、中身を確認する。
はたして、探し物はそこにあった。ポケットにケースごと突っ込み、部屋を出て行こうと踵を返す。
だが、その道は閉ざされていた。戸口にはいつの間にか、少女の姿があった。
「何してるの? レヴィ兄」
赤い瞳の彼女が問う。赤毛の男はポケットからパスケースを取り出して見せ、苦笑した。
「列車のパスを忘れてたんだ。そろそろ時間だし、急がないと」
「そうだね。そういう発表しちゃったもんね」
少女がにっこり笑って、けれどもそこを退く気はまるでないというようにそこに立っている。
「イリス、そこ退いてくれないと行けないよ」
「うん。行かせないよ」
こちらを真っ直ぐ見つめて、彼女はレヴィアンスの姿をした相手に告げる。
「レヴィ兄はとっくに出発してる。今回は女王の許可証を使うから、パスなんて必要なかったの。
残念だったね、バンリ」
その名を呼ぶ彼女は、なんて美しい眼でこちらを見るのだろう。なんてりりしい表情をしているのだろう。
……そんな君に「バンリ」と呼ばれるのは、なんだか苦しいな。
「待っててくれたんだ?」
「来るかどうかもわからない相手を待つのは、辛くて切なかったよ。わたしの片思いだったらどうしようかと思ってた」
「そう。……今はどんな気持ち?」
「会えて嬉しいよ。だからあんたの顔を見せて」
この逢瀬を最後にしよう。全ての真実をさらけ出して。
イリスは、最期の扉に手をかけた。