「会ったことがあるんだよね?」

確信を認めさせるように、受話器の向こうへ問う。

「あるよ」

応答はすぐにあった。それから、疲れたような溜息が聞こえた。

「……まさか、ここで関わってくるなんて思ってなかった」

「オレも同じ立場だったら、そう思うだろうね」

彼の表情は見えないが、予想はつく。きっと酷く後悔している、そんな顔をしているんだろう。

でも、そんなの今更じゃないか。良くも悪くも、彼は「関わりすぎる」運命にあるのだ。

それとも世界が、実は目に見える部分だけで構成されていて。都合のいいときに現れているだけだったりして。

「数奇なもんだね、ダイさん。……ここまできたら、手伝ってくれないわけがないだろ?」

「手伝うも何も、こうなったら俺の事件だ。協力しろよ、レヴィ」

その言葉を聞き届けたところで、大総統室の扉が叩かれた。来訪者はきっと彼女だろう。

「それじゃ、詳しいことは後でまた」

神様。あんたは本当に残酷だね。

オレたちをどれだけ面倒に巻き込んだら気が済むんだ。

 

 

 

 

大総統の姿を騙る奴が正体を暴かれなかった例はない。かつてハル・スティーナに変装して軍に侵入した輩がいたそうだが、見事にばれたという。

その後逃げおおせることができるかどうか、それが侵入者にとっての問題なのだろう。変装の精度にはこだわらないのかもしれない。

ともかく。今イリスの目の前にいるのは、レヴィアンス・ゼウスァートの格好をやめたバンリだった。

「こんにちは、美しい瞳のお嬢さん」

口角をきれいにあげ、微笑むバンリ。しかしその左手にあるものに気付いたイリスは、惑わされることなく剣を抜いた。

「こんにちは、盗人。よかったね、見つかったのが詐欺罪がつく前で」

大総統は列車など公共交通機関を使う際、専用のパスを提示することで扱いが優先される。それは同時に身分の証明にもなる。

パスがあれば、バンリはレヴィアンスになりすまして北方へ行くことができたはずだった。

しかし当の大総統はそれを予測して、わざとパスを使わなかった。同様の効力を持つ女王からの許可証を手に入れ、発表していた時間よりもずっと早く北方へ向かっていた。

「レヴィ兄として北方に行って、あんたは何をする気だったの?」

真っ直ぐにバンリを見据えて、イリスは問う。だが、返ってきたのは独り言だけ。

「……もう、何もかも無意味か」

左手に握った棍を振り上げた彼は、一瞬悲しそうに見えた。

その一瞬は、イリスを怯ませるには充分なものだった。

振り下ろされる棍を受け止めようと剣を構えた時には、それはすでに方向を変え体側に迫っていた。

「……っ」

右脇腹に強い衝撃を感じ、床に倒れてから激しい痛み。声も出せずうずくまるイリスが視界の端で見たものは、無表情のバンリだった。

何も感じ取れないが、口の形だけが知っている言葉を音もなく告げていた。

イリスから目を背け、部屋から出ようとドアノブに手を伸ばす。しかし、触れる前にドアは向こう側から開かれた。

伸びる手には銃。思わず後ずさりするバンリの正面には、怒りに満ちた表情の少女が立っていた。

「少し待っていて欲しいと、イリスが言ったとおりにした。結果、貴様はイリスを傷つけた」

続く言葉は銃声に掻き消され、弾丸はバンリの頬を掠めて後方の窓を割る。

メイベルからバンリが、そしてイリスが感じ取ったものは、明確な殺意だった。

「……チ、顔のど真ん中をぶち抜いてやろうかと思ったのに。よくも避けられたものだ」

次の弾丸を敵へ撃ち込もうとするメイベルを止めたくても、イリスは動くこともできなければ声も出ない。

かといってバンリに逃げられては、また一からやりなおし。今日、ここで決着をつけたいのに。

「困ったな」

バンリが呟く。棍を握る左手には、再び力が込められる。メイベルが引鉄を引くのが先か、彼が棍を叩き込むのが先か。

そのどちらでもないのなら、

「落ち着け、メイベル」

「全く、すぐ暴走するんだから……」

彼らが動くしかない。

フィネーロがメイベルの手を下ろし、道を開けさせる。そこから部屋に入ってきたルイゼンは、素早くバンリの手を掴んだ。

「この前とは随分キレが違うんだな。窓から逃げようともしないし。……どういう心境の変化だ」

「おい、ルイゼン」

相手に問いかけるだけのリーダーを、メイベルが睨む。

「イリスの心配はしないのか? そこに倒れているだろう!」

「ちょっと黙っててくれないかな、メイベル。イリスにかまってたら、こいつを逃がすかもしれない」

「貴様……っ!」

ルイゼンに飛びかかろうとする怒りの塊を、フィネーロが押さえ込む。無言で、今は従えと訴える。

拘束を解こうとするメイベルの、いや、そこにいた全員の耳に、細い声が届いた。

「……だい、じょぶ」

痺れる体を起こして、イリスは不敵に笑って見せた。

「このくらい、平気」

「イリス……」

怒りを溶かしたメイベルから、力が抜ける。最愛の彼女が無事ならば、それでいい。そのために戦っているのだから。

「……うちの特攻隊長はやわじゃないんだ。ホッとしたか? バンリ」

ルイゼンは安堵の表情を浮かべていた侵入者に問う。問われた方は戸惑い、左手を掴む手を振り払おうとする。

でも、できない。これ以上は無駄なんだという思いが、そうさせてくれない。

体が、全身の力が、負けを認めていた。

「……人を傷つけることが、嫌いだった。捨て犬とか拾っちゃうような人だった」

ふと口をついて出たのは、いつか優しい笑顔を向けてくれたあの人のこと。

自らの行動の最初にある、とても一途な人のこと。

「バンリ・ヤンソネンさんのことか?」

「やっぱりたどり着いてたんだ。……そうだよ、僕の正義だった人だ」

「正義?」

イリスが立ち上がり、脇腹をさすりながらバンリの傍へ歩いてきた。

フィネーロとメイベルがそれを支えようとしたが、もう一度「大丈夫」と言う。

自分が殴り飛ばした少女へ心配するような視線を送るバンリにも。

「あんたも、人を傷つけるのは好きじゃないんでしょう?」

「……あの人の、バンリの嫌なことは僕も嫌だ。彼の信条は僕の信条だった」

俯いて、ねぇ、と言う。ここにいる者全員への質問だ。

「君たちの正義は、何?」

何が正しいのか、何を信じるのか。

迷ってしまった僕に、答えを聞かせておくれ。

 

 

エルニーニャの北の都、シーキルにある王国軍北方司令部。

ノーザリアとの国境線を防衛するという役目も負っているが、それは何も戦って守るというわけではない。

特に争う理由もない今、良好な関係を保つことが国境警備につながっている。

だからこそ、隣国の大将がこの場所を訪れることは容易だった。

「この前会ったばかりなのに、妙に久しぶりな感じ」

「そうだな。……ただ前回は二人で飲むこともできたが、今日はそうもいかない」

レヴィアンスとダイは駅で落ち合い、北方司令部へ向かった。

発表の時間よりもずっと早いため、迎えはない。相手は油断しているか、それとも緊張感を緩められずにいるところか。

いずれにしろ、やることは一つ。八年前の事件に絡んでいたと思われる人物に接触し、真実を得ること。

バンリ・ヤンソネンが軍に在籍していた当時、彼と関係のあった者を洗い出す。特に彼の仕事を、立場を、左右することのできる者が有力だ。

「八年前、北方で大佐以上の地位にいた人間。その中でヤンソネン中佐に関わりがあったのは、ごく少数だった」

幸か不幸か、バンリ・ヤンソネンを部下と認める人間はほとんどいなかった。扱っていた案件のためか、厄介に思っていた者の方が圧倒的に多かった。

彼が認められるようになったのは、その活躍を見たダイがエルニーニャにそう進言したからだ。

つまりは。ヤンソネン中佐が北方司令部に属する一部の人間にとって邪魔な存在となったのは、ダイがきっかけであった。

彼が単なる厄介者のままならば、何をしたってかまわなかったのだ。すぐに処分してしまえば、それで済む。

それができなくなったから、遠回りをした。一度認めたふりをして、それをいいことに彼が好き放題やったというデータを作って、「残念だが」という言葉とともに追放する。

これなら万が一大総統の耳にヤンソネン中佐の話が届いても、言い訳ができる。

その上で、ヤンソネン中佐を処分した者達は真の目的を達成しようとした。

それが“赤い杯”を盗み、貴族らへ流すこと。北方軍と貴族との癒着を強固なものにするための行動。

「ここまでくるのに時間がかかってしまったのは、本当に申し訳なかった。その贖罪を今するよ」

その奥の真実はこの先にある。

予告よりも早く訪れた大総統と、予定にはなかったノーザリア軍大将の来訪に、北方司令部はざわめいた。

「閣下、随分と早いご到着で」

焦った様子で出迎えたのは、北方大将。彼は八年前の件にはおそらく関係ない。しかし、当時の関係者と連絡を取れる人間ではある。

まずは彼から情報を引き出す。

「聞きたいことがたっぷりあるからね。立会人は彼、ダイ・ヴィオラセント」

「それは何故ですか? 異国軍の方が今回の査察にどんな関係があるというのです?」

「ありまくりだよ。だって、オレたちが暴きに来たのは……」

真相を白日の下に。バンリ・ヤンソネンは何故排除されなければならなかったのか。“赤い杯”は何故盗まれたのか。警備員は何故殺されなければならなかったのか。

北方司令部がこれらを実行、あるいは加担していたのは何故なのか。

先々代の大総統が解決へ導けなかったことを悔やんでいた事件を、今、終わらせる。

 

 

かつて、メイベルの正義ははっきりしていた。

金を稼ぎ、生活が困窮しないようにすること。そのためには労働をし、対価を得ることが必要だ。

人に金をたかるだけたかり真面目に働かない人間は、生きているべきではないと思っていた。彼女の最も軽蔑する人間が、その類のものだったからだ。

だからこそ、自分はブロッケン家の長子として、国内でもっとも金を稼ぐことができると言われている軍に入った。入隊を確実なものとするために、奨学金で養成学校にも行った。

早く一人前になって、母や弟妹たちを助ける。そのためなら死をも厭わない。軍人なら、死んだら死んだで家族に金が入る。

それこそが彼女の正義だった。

けれども、学校に通い、軍に入隊してから、その強固な考えは少しずつほぐれていった。

労働で対価を得ること以外のものに何の価値があるのかと思っていたメイベルを変えたのは、学校で出会ったフィネーロと、軍で出会ったルイゼン、そしてイリスだった。

全く生き方の違う者たちを拒絶することなく、真正面から向き合うことで、彼女の中の正義は形を変えた。

少々過激な行動や言動もあるが、彼女は確かに変わったのだ。

「私の正義は、イリスだ」

バンリの問いに真っ先に答える。

「イリスがいるから、私は私でいられる。イリスが、ついでにフィネーロやルイゼンが私という人間を許容してくれなかったら、私はここにはいないだろう」

だから、とバンリへ銃口を向ける。私の正義を、幸せを、壊すなと懇願する。

「私の正義に傷をつけた貴様は、万死に値する」

怒りは暫く静まらないだろう。せめて落ち着けと、フィネーロがメイベルの手を押さえる。

「イリスは人殺しを望まない」

「そうだよ、ベル。一旦銃は下ろして」

「……わかった」

しぶしぶと手を下ろしたメイベルを確認し、フィネーロは息を吐いた。

メイベルは出会ったときから、自分の信じるもの以外は悪だという極端な思考の持ち主だ。それを止めてきたのが自分だと、今では自負している。

「メイベルの正義がイリスというなら、僕の正義も表面上は同じ言葉になる」

フィネーロは文武両道の裕福な家庭に生まれ、高度な教育を受けてきた。軍人養成学校での生活も、その一端だ。

文人としても軍人としても大成し、父や兄らのような立派な人間になること。それがフィネーロの信じてきた道だった。

しかし、彼もまたメイベルやルイゼン、イリスに出会ってからその道に疑問を持ち始めた。

ただ決められた道を行くだけでいいのか。父や兄らのように、ということだけを意識して歩いていれば、それで充分なのか。自らが考え、決める道はないのか。

「僕はイリスやルイゼン、そしてメイベルの考えや行動に感銘を受けてきた。自分が動かなければ、決められた道すらも歩けないのだと知った。

僕が守るべき正義は、僕に思考を与えてくれた仲間だ」

そしてフィネーロは、ルイゼンに目配せする。次は君の番だ、とバトンを渡す。

ルイゼンはバンリに警戒しながらも、そのバトンを受け取った。

「格好良いことが正義だ。単純だけど、俺はそう思ってる」

彼の入隊動機は「軍がかっこいいから」だ。彼は幼少期から、御三家インフェリアに憧れを抱いていた。

自分ががどれだけ格好良く生きられるか。それを考えた時に、その意味は次第に広がっていった。

妹的存在や好きな女の子を格好良く守る為には、力をつけなければならない。それも、余裕をもてるくらいの力を。

一人を守りたいと思う時、この世の全てを守ってやると思い、実行するだけの強さが必要だと思った。

かつ、法律の遵守、発言の技術、他者への影響力についての考え方など、全てを磨かなければならないと覚った。

ルイゼンの正義はまだ発展途上だ。何故なら、まだ成長する余地があるからだ。

班のリーダーとして、イリスの相棒として、町を守る軍人として、自分に納得できる人間として。正義を体現できる人物になりたいと考えている。

「とまあ、俺はそんなにたいそうなこといえないんだよな。だから、我らが正義にしめてもらおう」

そして、バトンはイリスへ。

バンリが、仲間達が見つめる中、イリスはまだ少し痛む体をさすりながら自嘲気味に笑った。

「そんな立派なもの、わたしは持ってないよ」

正義は語れない。正義そのものというのも、聞いていてなんだかおかしい感じがする。

イリスはただ、自分のわがままにしたがって行動しているだけなのだから。

「わたしは一人の女の子を幸せにしたいだけだよ。あんなに可愛い子の泣き顔、見たくないもの」

みんなの妹だったイリスに、初めてできた妹分。エイマルのために戦うことが、彼女の全てだった。

不幸が重なり、祖父を亡くし、父を父と呼べず、それでも健気に笑う少女。彼女が愛しくて、力になりたいだけだ。

「あの子の為なら、この眼も使える。必要なら、障害はいくらでも潰す。……人の信じてる正義を、否定することも厭わない」

万人の為の正義の味方――そんなものはどこにもない。イリスはそれを知っている。

産まれた時から、彼女の背負う名は「地獄の番人」。戦場を駆け抜け、敵とみなしたものを斬り捨てる者。

成長するにつれ、この世の理を知る。どうにもならないものと、どうにでもできるものがあることを学ぶ。

立場を気にしなければいけない理由や、偉いふりをしなければならないことや、悪役をかってでる必要があることを理解する。

理不尽なことがあるということを、受け入れる。

「バンリ、今の私の役目は、たぶん真実を知ること。あんたの知ってること、全部教えてよ。……力ずくにでも吐かせてあげる」

正義? いや、必要なら悪になるほうが良い。それについてきてくれる人たちが、自分を正義と言ってくれるのはうれしいけれど。

元々正義も悪も、別の側面から見れば逆になるものじゃないか。

女王が大総統を指名で選定したこと。王宮権力復興の為に英雄の末裔を利用することと、信頼した人間に軍の未来を託すこと。

男が妻と娘を置き去りにしたこと。自らの目的の為に動くことと、これ以上家族を亡くしたくないという思い。

男が家に閉じこもること。自分自身が世間の目にさらされたくないという拒絶と、子らまでそれに巻き込みたくないという願い。

兄が両親に事実を隠すこと。誰よりも妹の異常性を気にしているという実際と、家族を傷つけたくないという気持ち。

正義のために悪魔の眼を行使する少女が、その目で見てきた世界だ。

「……君の眼は、本当に美しい。美しくて強力な魔眼だ」

バンリが苦しげに微笑む。イリスと目を合わせすぎたのだ。

ふらりと足を崩しかけた彼を、イリスはとっさに駆け寄って支えた。一度目を閉じそっと開く。眼の力は大分弱めたはずだ。

「具合はどう? 喋れる?」

「まだ喋らせる気なんだね。君は強引な女性だ」

「そうだよ。私は、正義なんかじゃないから」

誰だって、ただ自分の信念で行動しているだけ。それを正しいと信じて。

 

 

世界暦五三〇年。当時中将であったオミ・ヤックは過去に一度だけ犯してしまった過ちがきっかけで、幾重もの罪を負っていた。

彼はもともと、評価の高い人材だった。階級も順調に上げ、優秀な軍人としてその名をとどろかせていた。

それ故か、世の中を斜にかまえて見る癖がついていた。自分こそが頂点であるべきで、自分より少しでも劣ると認識した人間を屑だとさえ思っていた。

そんな彼が興味本位で危険薬物に手を出した。一度だけなら、知られなければ、問題ないと思っていた。しかし、その現場を押さえていた人物がいた。

彼に薬物を売った、当人である。もちろん裏社会の人間であり、しかもオミが軍人であることを知っていた。

「このことが軍にばれれば、あなたは即刻罰せられますね。現在の地位を失い、落ちぶれていくでしょう」

売人はオミを脅迫し、自分の商売に協力させた。危険薬物の運搬ルートの確保、仕入れに必要な金の横流しを要求した。

初めは転落を怖れて従っていたオミだったが、いつからか裏こそが自分のいる場所なのではないかと思い始めた。

軍で馬鹿正直に仕事をしているよりも、裏でスリリングな遊びに興じていたほうが有意義だと感じた。そのために現在の立場を最大限に利用しようと考えた。

オミは危険薬物流通のルートを確立させ、金をより集めるために貴族との癒着を利用した。彼らは無知で都合のいい財布だった。持ち上げておけばいくらでも出資してくれる。

全てはうまくまわっていた。五三〇年の、北の大国を迎えるパレードの日までは。

この日、それまで注目されることのなかった、寧ろ煙たがられていた一人の少佐がノーザリアからの賞賛を受けた。バンリ・ヤンソネンである。

貴族条項違反者を取り締まることに熱心だった彼は、オミが貴族との癒着を深めるためには邪魔な存在だった。この男が表に出てきてしまっては、都合が悪い。

抹殺しなければと思った。裏の人間と協力して、この障害を排除することに決めた。

ちょうど、裏の者たちもある計画を立てていた。彼らにとって忌むべきは、バンリを表に立てたノーザリアの人間だった。

それがダイ・ヴィオラセント。かねてより危険薬物流通の最大の敵となっていたこの人物に、裏は制裁を加えようと企んでいたのだ。

さらにもう一つ、今後貴族との癒着や裏との協力を進めていくにあたり邪魔なものがあった。当時の大総統ハル・スティーナだ。

バンリが貴族条項違反者を厳しく取り締まっていた際に、貴族側からクレームが入ったことがあった。それをバンリに非はなかったとして処理したのが大総統だった。

バンリ・ヤンソネンを許した大総統であり、ダイ・ヴィオラセントとも深いかかわりを持つこの人物を、その座から排除する必要がある。

そのために裏は、オミを協力させ、ある作戦を立てた。それが「赤い杯事件」である。

エルニーニャに存在する“赤い杯”は、サーリシェリアから贈られた宝物だ。二国の友好を象徴する品物として、国立博物館に展示されている。

大総統がサーリシェリアの血をひく人間だということは、周知の事実であった。見た目の特徴から、わかるものにはわかってしまうのだ。

サーリシェリア人大総統が、サーリシェリアからの贈り物を失う。そうすれば、エルニーニャとサーリシェリアの関係に影響が出ることが予想できる。

さらに“赤い杯”を奪い貴族らへ流すことで、金が得られる。調べられてはまずい事情を持つ貴族と渡りをつけ、“赤い杯”を買わせるのだ。

貴族らが“赤い杯”を持っていることで、容疑者は彼らになる。オミが危険にさらされることはない。

オミは裏に協力することにした。まずは貴族らへ“赤い杯”を流す為の前準備だ。バンリ・ヤンソネンを消さねばなるまい。

そのためにオミはわざとバンリに近づき、まず彼を信頼しているふりをした。彼の貴族条項違反取締りを援助しているそぶりを見せたのだ。

バンリがグレーゾーンと呼ばれる違反すれすれだがまだ許されるはずの貴族や、軍の上層部と癒着の強い貴族を取り締まるよう仕向けた。

その上で、彼の行動を問題あるものとして取り上げ、見放した。軍にいられなくなったバンリは行方をくらませ、見つかっていない。

オミのやりかたは成功したのだ。世界暦五三一年のことだった。

バンリを処分する前に、懇意にしている貴族には“赤い杯”を譲り渡す約束をしていた。貴族を待たせながら、彼は裏の動きを待った。

邪魔者を軍から排除した数ヵ月後、首都で裏が事件を起こした。実行犯達が動きやすいよう、オミは陰で指揮を執っていた。

博物館を強盗が襲撃したとされる、「赤い杯事件」。もちろん“赤い杯”の奪取も目的ではあったが、裏の標的はもう一つあった。

ノーザリア軍にいる障害、ダイ・ヴィオラセントの家族を殺害すること。家族の死に目を向けさせ、危険薬物事件から目をそらさせようとしたものだった。

奪った“赤い杯”は、約束どおり貴族のもとへ。所持者が軍に捕まることのないよう、その所在は転々としていた。

いずれ足のつきにくいところに到達した時、砕いてサーリシェリア産鉱物として市場に高値で出すつもりだった。

大総統ハル・スティーナは、事件を解決できずにその座を退くことになった。そしてその後継者となった男に、裏が近づいた。

結婚生活に退屈していた元貴族令嬢をそそのかし、彼女と不倫をさせた。仲を深めた二人は、国外へ駆け落ちした。

あとは後継者の指定されない軍に、北方大将の座を得たオミか、その同志である大将格が君臨すればよかった。

 

しかし、ここからがオミらの誤算だった。

新しい大総統を、女王が指定したのである。しかもそれは、あのハル・スティーナの息子であり、軍御三家の血を引くレヴィアンスだった。

しかも彼には、多くの「障害となりうる」仲間達がいた。

事件に執着する父と離れることになった少女を、ただ救いたいという一心でその強大な力をふるう少女がいた。

少女を支える味方がいた。

事件の始まりが危険薬物であると知ったダイが、徹底的に首謀者を叩きのめすのは明らかだった。

悪事が栄えることはない。その報いは必ずある。

 

 

「ふーん、そういうこと。連絡ありがとう、イリス」

レジーナからの報告を受け、レヴィアンスは不敵に笑った。

バンリ――ウルフ・ヤンソネンは、イリスたちと接触し、知っていることを全て証言した。おそらく、彼が長い時間をかけて手に入れた情報だった。

これを目の前にいるオミに認めさせれば、レヴィアンスたちの仕事は完了する。

「さて、オミ・ヤック。あとは君が関わっていた裏の人間や同志、薬物流通ルートに条項違反貴族……全部喋ってくれれば八年前の件が終わる」

現北方司令部長に呼び出させた、当時の重鎮。奥歯を噛み締めてこちらを睨むこの男が、八年前の事件の関係者オミ・ヤック。

過ちを重ね続けた彼は、とうとう追い詰められることとなった。

「……私が本当に事件の関係者だという証拠がどこにあるんですか。ウルフ・ヤンソネンが喋った内容が真実だとは限らない」

「八年前に上層部にいたって時点で容疑者なんだよ。いくらでも弁解して良いよ、その綻びを見つけてやるから」

「運で大総統の地位を手に入れた若造が、生意気なことを言わないでいただきたい」

オミはレヴィアンスを見下していた。すでに充分な蓄えを得て軍を引退した彼に、もう地位を奪われるという怯えはない。

彼のやったことがウルフ・ヤンソネンの証言通りだったとしても、時間が経ってしまった今では彼を裁くことが難しい。

証言者が罪を重ねてしまった人間であることも大きい。語った言葉が軍を貶めようとしているものととられてしまえば、オミは無罪になる。

確実なのは、オミの自供だけなのに。それを得ることができない。彼の表情が全てを語っているというのに、言葉にしなければ証拠にはならないのだ。

「捕まえたいなら捕まえればいいじゃないですか。大総統の横暴な行為が世間に知れ渡るだけですよ」

八年前の件に関しては、オミの言う通り。捕まえたとしても、証明が難しい以上は、こちらが不利だ。

今レヴィアンスが「不祥事」を起こして大総統を降りることになれば、推薦したオリビアや賛成したアーシェ、部下であるイリスらにまで影響が及ぶ。

だからこそ、それを避ける為のカードを用意したのだ。

「八年前の件は、認めてくれるだけでいい。法で裁かれる可能性は低いだろうし、裁けたとしても罰は軽いものだろう」

それまで黙っていたノーザリア軍大将が口を開く。いや、今は立場など関係ない。

どんな手段を使ってでも、自分の気に入らない事件は徹底的に洗い出し叩きのめす。彼が中央に在籍していた時から、そのやり方が変わることはなかった。

危険薬物事件への執念は誰よりも強い。過去だけではなく、現在進行中の悪事を瞬く間に暴くことができるほどに。

「問題は今、お前が操っている危険薬物密売のルートだ。ノーザリアを初めとする北国は、お前のような奴が流してくる危険薬物に迷惑している。

それに中央の貴族を関わらせ、現在も動かし続けているという事実がある。このことは追及を逃れられないだろう。

だから大総統殿は、お前にいくらでも弁解していいと言ってくれたんだ。お前が喋れば喋るほど、現在へ至る綻びが山ほど出てくるに違いない。

見せかけの力に溺れ、その地位を乱用し、甘い汁を吸い続けていたお前には、悪事を取り繕うだけの能はもうない。いや、そんな殊勝な脳は初めから持っていなかったんだろうな」

何も、父が殺害された真実だけを暴きにきたのではない。バンリ・ヤンソネンに会ったことがあるからというだけでここにいるのではない。

ダイが「俺の事件」とするのは、いつだって追いかけてきた危険薬物事件だ。家族を壊し続けてきた悪魔のような薬の撲滅に、生涯をかけると決めたのだから。

「ネタはあがってるんだ、オミ・ヤック。お前の横暴な行為は世間に知れ渡るだろう。……だよな、ゼウスァート大総統閣下?」

他国のトップをも動かし、利用し、自らの駒とし指揮する。多くの仲間を従えた彼は、まさしく「万能の指揮者」。

「そういうことなんだ、オミ。大人しく中央までおいで願おうか。

なに、すぐに出発できるよ。北方司令部で保管していた過去の資料も、さっき貰ったからね」

オミが北方司令部に隠すよう命じていた資料も、レヴィアンスたちの早い到着によって、資料室から出された状態のままだった。

呆然とするオミに追い討ちをかけるように、レヴィアンスは冷笑する。

「それから八年前の件、法律が裁けなくてもオレたちがきっちりしめてやるから。覚悟しておけよ」

 

 

バンリ、もといウルフ・ヤンソネンは侵入の罪で捕まることとなった。

大総統レヴィアンス・ゼウスァートの部屋に侵入し、公共交通機関のパスを持ち去ろうとした現行犯。

持ち去ったわけではないので、今日の件に関して窃盗罪はつかない。ただし、今後貴族家への侵入や窃盗などの罪に問われることになる。

イリスの眼で大人しくなった彼は、素直に手錠を受け入れた。

「私の眼、効かないのかと思ってた。いままでは平気だったんじゃないの?」

連行中、イリスはバンリに尋ねた。彼女が聞きたいことは、まだ残っているのだ。

「平気なわけないよ。君の魔眼は強力だ。油断すると倒れてしまいそうだった。

君を殴ったのも、魔眼の力に負けそうで慌てたからだよ。……すまなかったね」

「そう……」

魔眼。彼はイリスの眼をそう呼ぶ。その存在を知っていたかのように、初めからそうしていた。

この眼についても何か知っているのではないか。ずっと疑い続けてきた。

「どうして魔眼って呼ぶの?」

「バンリ……兄が語ってくれたんだ。かつて彼は、不思議な赤い瞳を持つ人間にあったことがあるって。見ているだけで心が締め付けられ恐怖する、恐ろしく美しい瞳だったと。

君を初めて見たとき、これがそうかと思った。魔眼という言葉は、兄が使っていた表現だよ」

「私のほかにも、こんな眼の人間がいるの?」

「そうらしいよ」

これまで、こんな眼を持つのは自分と母の二人だけだと思っていた。そして自分は特別力が強いので、忌避されても仕方がないのだと。

しかし、バンリの言うとおりならば、同じ境遇にある人間がいる。イリスと母は、ふたりぼっちではない。この眼は特別なものなんかじゃなく、ありうるものなのだ。

それを知るだけで、安心した。辛い思いをしているかもしれない人がほかにもいるということに安心してしまうのはいけないと思いながらも、楽になってしまった。

やはり自分は正義などではない。人を妬むこともあるし、贔屓することもある。そんな、どこにでもいる、ただの人間だ。

「それにしても、本当に美しい瞳だ。君ごと盗み出したいというのは、嘘なんかじゃないよ」

バンリはそう言って微笑む。途端に彼はメイベルに銃口を突き付けられて黙らざるを得なくなったが、イリスへは笑顔を向けたままだった。

何度聞いても言われなれない。頬が熱くなるのはそのせいだ。イリスはバンリから顔を背け、どうか見えていませんようにと祈る。

――お兄ちゃん以外の男に、こんな気持ちになるなんてありえないんだから。

嬉しくないわけない。けれども、照れていることを覚られたくない。自分にもこんなことがあるのだと、しみじみ思ってしまうイリスなのだった。