練兵場は死屍累々。本当に死んでいるわけではないけれど、きっとしばらくは動けない。円を描くように倒れている彼らのその中心には、少女が一人立っている。
艶やかな黒髪、そこから覗く耳に光るカフ、得意気に笑う唇、魔の宿っていそうな赤い瞳。威風堂々たるその姿は、いつからかこう呼ばれている――「エルニーニャの獅子姫」と。
「さあ、次の相手は誰? それとももうギブアップ?」
イリス・インフェリア、十六歳、エルニーニャ王国軍少尉。実力は確かで、ある種異様ともいえる存在感を放つ彼女は、しかし。
「まーた全勝か。そろそろ骨のある奴が出てきてもいい頃だと思うんだけど」
「そうだな。例えばオレみたいな奴とか」
「そうそ……う?!」
学習能力はあまりよろしくないらしい。
誰かが呼びに行ったのか、それともずっと見ていたのか。いずれにせよ事実として、軍の仲間をばったばったと倒してしまったあとに、大総統であるレヴィアンス・ゼウスァートが真横に立っているということは、イリスにとっては非常にまずい。過剰で一方的な「訓練」は禁止されていて、イリスの場合はそれをしてしまうと兄に叱られる。
「……レヴィ兄、このことお兄ちゃんには……」
「今月三回目だからな、ちょっと見逃せないなあ」
「お願いします! 言わないでえぇ!」
最強に限りなく近い少女の弱点は、大好きな兄である。
その夜、イリスはレヴィアンスに連れられて、司令部から少し離れたところにある集合住宅にいた。
「イリス、君が強いのはみんな認めてるし、事実だよ。けれどもそれをむやみに誇示するのは良くないって、何度も僕は言っているよね。そんなことで怪我をしたりさせたりするのは、君の力の使い方として正しくない」
確かに何度も聞いた台詞だ。耳にタコができるほど繰り返された説教を、イリスは懲りずに受けている。同じことを飽きずに滔々と説くのは、イリスの兄、ニアだ。今は一介の絵描きだが、ほんの一年と少し前までは軍の大将格だった実力者である。イリスはこの兄に、まだ一度も勝てたことがない。
幼い頃は「たたかいごっこ」に付き合ってもらって、いつもイリスが勝ったことにしてもらっていたが、あくまでそれは遊びだ。訓練など、本気に近い闘いではやはり兄が格上で、しかもイリスでは到底敵わないほどに頭が良いのだった。そんな兄をイリスは尊敬しているし、それ以前に好きで好きで仕方がない。
だから兄に叱られるのは本意ではないのだが、勝負を挑まれればつい受けてしまうし、体を動かすのが好きなのもあってやりすぎてしまうのだ。ここまでくると本能として認めてくれないだろうかと思ったこともあったが、それを言ったところで「人間には理性があるんだから抑えなさい」と諭されるのがオチだ。
そう言われたら「だってわたし、『エルニーニャの獅子姫』だもん」と返してやろうかと思ったこともあったが、本気で兄を怒らせるとどれほど怖いかもよく知っているのでやめた。
そしてたぶん、それを口にすると、兄の小言はレヴィアンスに飛び火する。かの呼び名を広めたのは、他でもない彼なのだ。
「聞いてるの、イリス? 叱られたくなかったら必要な時以外には闘わないでよ」
「はーい……」
返事はしたものの、きっと言いつけを守ることはできない。体のほうが先に動いて、刺激を求めてしまうのだから。いつも気がついたときには、挑戦者全員をのしている。――最後に現れるレヴィアンス以外。さすがに現役大総統に勝てるほどの力はまだない。
「ニア、そのくらいにしてやったら? オレがきっちり倒して、仕事もがっつり押し付けたからさ」
「僕はそのレヴィのやり方にも説教したいんだけど。いくら大総統補佐見習いだからって、仕事は少尉に相応しいだけにしないと、やっかみと疲労はイリスに来るんだから」
「はいはい。やっぱりニアは妹が大事なお兄ちゃんだよね」
ニアやレヴィアンスが、イリスをそれぞれのやり方で大事にしてくれているのはわかる。けれどもいつかはその保護を離れて、一人で立たなければならない。一体その日はいつになったらやってくるのだろうか。彼らが、イリスを本当に認めてくれる日は。
「やっぱり、わたしが当主にならないとだめかなあ……」
ニアが茶を淹れるあいだに、テーブルに突っ伏しながら呟く。ニアが軍を辞めて、パートナーであるルーファと暮らすようになってから、ずっと考えていることだ。ニアが家を出た以上、次のインフェリア家の当主はイリスということになるはずだ。いずれ父から家を継ぎ、インフェリアの血統を次の世代へと続けていくことになるだろう。
その段階にならなければ、ニアはイリスを認めてはくれないのかもしれない。そうすることでしか、兄を越えられないのかもしれない。そうであれば、それはまだまだ先のことだ。――もっと早く、追い越したい。大好きで、尊敬しているけれど、兄は目標であり超えるべき存在でもあるのだ。
暴れるのは強くなりたいからというのもある。誰よりも、もっともっと強くなって、インフェリア家当主に相応しい人間になりたい。それがイリスの運命なのだから。
「え、イリス、当主になるの?」
空になった酒瓶を振りながら、レヴィアンスが言う。何をいまさら、と思いながら、イリスは顔をあげた。
「当たり前じゃん。お兄ちゃんが家を継がないなら、わたしが継ぐしかないでしょう」
「僕がいつ継がないなんて言ったの」
あまり広くはない、集合住宅の一室だ。普通に声を出せば、台所にも届く。そのこと自体はおかしくはないのだけれど、兄は今、何と言っただろうか。
「……だってお兄ちゃん、ルー兄ちゃんと一緒にいるじゃない」
目を見開くイリスを振り向き見返して、ニアは落ち着いて答える。
「ルーと一緒に住んではいるけど、インフェリアの籍を外れたわけじゃない。軍は辞めたけど、そもそも父さんは僕を軍人にしたくなかったんだから、当主を継ぐかどうかということに職業は関係ない。イリスがいつまでも子供のままなら、僕はインフェリア家の次期当主を譲る気はないよ」
用意していたかのような、淀みのない言葉だった。イリスが何も言えずに、思わずレヴィアンスへ目をやると、彼もこんなことになるとは予想していなかったようで、酒瓶をテーブルに置いて口をあんぐり開けていた。
静まりかえった室内の、その空気を破ったのは、玄関が開く音と同時に聞こえた「ただいま」の声。仕事を終えたルーファが帰ってきた。そしてあまりに静かすぎる室内に、驚いてたたらを踏んだ。
「うわ、レヴィとイリスがいるのになんでこんなに静かなんだよ……。何かあったのか?」
「ルーファ、おかえり。ニアが実家に帰るってさ」
「は?!」
レヴィアンスの語弊のある答えに、ルーファが身を乗りだす。いつもならイリスがすぐに訂正するところだが、今日は声すら出ない。先ほどの台詞が、頭の中をぐるぐるとまわっている。
――次期当主を譲る気はないよ。
そんなことを兄が考えていたなんて、少しも思っていなかった。自分は自動的に当主になるものだと思い込んでいた。
「……子供って、何よ」
やっと声を絞り出すと、レヴィアンスとルーファの視線がこちらへ集まった気配がした。ニアはずっとイリスを見据えたままだ。ただ、静かに。凪いだ水面のような瞳で。
「お兄ちゃんはいつになったら、わたしを子供扱いしなくなるの? わたしがおとなしくなったら? もっと頭が良くなったら? お兄ちゃんが認めなきゃ、わたしは一生子供のままじゃない!」
一度言いだすと、今度は止まらない。ぶつけるように放った言葉は、しかしニアの溜息に勢いを打ち消される。
「そういうことじゃないよ。……そういうふうに思ってるうちは、やっぱり当主は任せられないね」
「――っ」
何が大人になることなのか、イリスにはわからない。将官級の人間には敵わないが、強さにはそこそこの自信があるし、人望だってそれなりにあるつもりだ。年ももう十六歳、そろそろ大人として扱ってもらってもいいんじゃないか。――でも兄は、イリスを認めない。当主は任せられないという。
拳を強く握り、キッと兄を睨み――こんなことをしたのは生まれて初めてじゃないだろうか――叫ぶように宣言する。
「……もういい。お兄ちゃんに継承権があるっていうなら、わたしはそれを奪ってやる。絶対に、わたしがインフェリアを継いでやるんだから!」
レヴィアンスがうわぁ、と呻き、ルーファが瞠目する。しかし当のニアは極めて落ち着いて、淹れた茶をテーブルに運んできた。
「具体的には、どうやって?」
「お兄ちゃんに勝負を申し込む。訓練では手を抜かれてたけど、今度はホントの本気で闘ってよ。わたしが本気のお兄ちゃんに勝てたら、次の当主はわたし」
「……イリスがそれでいいと思ってるならいいけど。日時と場所は?」
「一週間後、通常業務終了後! レヴィ兄、練兵場おさえといて」
「え、軍の施設使うの? ……まあいいか、建国御三家の当主継承権がかかってるんだし。ニアはその日で大丈夫?」
「予定は今のところないね。その勝負、受けてあげるよ」
上から目線の返答に、イリスはまたカチンときた。自分の前に置かれたカップの茶を一気に飲み干すと、「今日はもう帰る!」と玄関へ向かってしまう。ルーファが慌ててそれを追いかけ、「考え直せ」と宥めようとするが、もうそんな言葉は届かない。
「あれ、いいの?」
玄関を指さしながらレヴィアンスが問うと、ニアは表情を変えることなく自分のカップを持ち上げた。
「うん、良い機会かもしれないし。いつまでも勢いだけで進めるなんて思ってちゃ、これからの仕事にも支障が出るでしょう。それより巻き込んじゃってごめんね、レヴィ」
その答えに、レヴィアンスは息を呑んだ。こちらはこちらで、負けてやるつもりなど毛頭ないのだ。
軍人寮へ向かう車の中、イリスは助手席でむくれていた。いいと言ったのに、ルーファが「送る」と無理やり車に乗せたのだった。
「当主継承権を奪うって……どうしてそんな穏やかじゃないことになったんだよ」
途中から話に加わったルーファは知らない。詳しい事情を聞けばきっとルーファはニアに味方するだろう。彼もまた、イリスをいつまでも子供扱いする一人だ。
「……ルー兄ちゃんは、お兄ちゃんがインフェリア家を継ぐって言ったら、やっぱり認める? わたしよりお兄ちゃんのほうが当主に相応しいと思う?」
それでも尋ねてしまう。もしかしたらイリスのほうがいいと言ってくれることを、少しだけ期待して。
「ニアが継ぐっていうなら、認めざるを得ないかな。俺と一緒に住んでるのも絵を描くのに都合がいいからだと思うし、その時が来たら家に戻るのかも。でもイリスとどっちが相応しいかっていうと、それは判断できないな」
「そう?」
「ニアにもイリスにも、インフェリアっていう歴史のある家を継ぐ権利はあると思う。どっちが継いでも大丈夫だろうなとも。……ただな、それってまだ先の話だろ。カスケードさん、バリバリ現役だし。今もときどきは軍の仕事手伝ってくれてるんだろ?」
そう、父カスケードはまだインフェリア家の当主であり、軍とも強いコネクションがある。現大総統であるレヴィアンスも、難しい案件はカスケードに意見を仰ぐ。それを差し置いて当主継承について話すのは、確かに気が早すぎたかもしれない。だが。
「こんなこと言うのは娘としてどうかと思うけど、人間、いつどうなるかわからないでしょ。こういうのははっきりさせておかなきゃ」
「とか言って、イリスはただニアに実力を認めてほしいんじゃないのか」
そう、それが本当のところだ。当主がどうこうではなく、ニアに大人として認めてほしい。ニアが「イリスに任せるよ」と言ってくれればいい。けれども真っ向から逆のことを言われてしまったのが、ひどくショックだった。
だから勝負するなんて無謀なことを言ってしまったのだ――そうだ、一度も勝てたことなどないのに、無謀だった。
「今からでも取り消せるんじゃないか?」
「それはやだ」
かといってここで退いてしまうという選択肢はない。それに軍から離れて久しいニアに、今なら勝てるかもしれないという僅かな希望があった。本当は全盛期に勝ちたかったけれど、それには年齢が離れすぎている。目標である兄に勝ちたいというのは嘘ではないので、勝負を取り消すわけにはいかない。
「お兄ちゃんに勝って、すごいねって、強いねって言わせる。だからルー兄ちゃん、お兄ちゃんや私を説得しようなんて思わないでね」
車を降りようとしたときに、ルーファが何か言おうとしたのを、イリスは聞かなかった。
イリスがニアと当主の座をかけて争うという話を聞いて、ルイゼンは唖然とし、フィネーロとメイベルは顔を見合わせて怪訝な表情を浮かべた。
「兄君は軍を辞めて、当主も継承しないものだと思っていたが……」
「やはり長男だから、継承権はニアさんのほうが上なのだろうか」
「インフェリア家がどんなシステムなのか知らないけど、ニアお兄さんとマジバトルはやばいって! イリス、お兄さんに勝ったことないだろ! ただでさえ伝説だらけの人なのに……」
首を傾げ合う眼鏡二人組に対し、兄妹を幼い頃から見てきたルイゼンは信じられないといった反応を見せる。インフェリア家に憧れ続けて軍人を志した彼にとって、ニアもまたヒーローだ。妹に負ける人だとは思えない。知略はもちろん、力でも。
「伝説ならわたしだってあるじゃん。今まさに進行中の、尉官以下なぎ倒し記録更新っていうやつが。佐官にだって負けてないよ」
「でも将官には敵わないだろ。現に閣下には負けてるし」
「そ、それは、レヴィ兄はさすがに格が違うっていうか……」
「ニアお兄さんだってその格の人間だぞ」
ルイゼンの指摘に、イリスは言葉を詰まらせる。たしかに本気で闘えば、勝算はほとんどない。嫌な表現ではあるが、周囲に「人間兵器」と言わしめたその実力は、まさにエルニーニャ王国軍の伝説だ。それを本気で相手にしようというのだから、ルイゼンが止めようとするのもわからなくはない。だが、イリスはそれが悔しいのだ。ニアには負けても仕方がないという認識を、覆したい。
「そもそも当主って何なんだよ。家長って認識でいいのか?」
「それは……軍家であるインフェリアの代表になるってことじゃないの」
「当主になって、イリスは何がしたいわけ?」
ルイゼンに問われ、イリスは答えに詰まった。独り立ちして当主にならなくてはならないだろうとは思っていたが、なって何をするかというところまでは、考えが及んでいなかった。これまでの当主は、何を考えてその地位を継いだのだろう。何をしなければならないのだろう。
「なんだ、答えられないのか」
「だって、その代によってやることが違う……と思う。とりあえず家を継ぐことが最優先でしょ。存続させなきゃ、滅びちゃうんだから」
「それなら別にニアお兄さんが継いだって良いわけだ。たとえ血筋は途絶えても、家が続けば滅びることにはならないはずだろ」
家の名を残すだけなら、なにも血脈にこだわる必要はない。ニアが当主を継いで、その先へと家を続かせたいのなら、養子をとればいい。イリスが無理に家を継がなくても、インフェリア家は途絶えない。
結局イリスは当主になりたいのではなく、当主になれる器があると、ニアに認めてほしいだけなのだ。けれどもそれだけではやはり、ニアが「任せられない」と思っても仕方がないということになってしまう。
勝負の前に負けを認めるのは嫌だ。せめてイリスが自分なりの答えを持たなければ、ニアには対抗できない。
「じゃあ、当主になって何をするかをはっきりさせようじゃないの。わたしがインフェリア家を継ぐことにどんな価値があるか、語れるようになればいいんだよね」
勝負まではまだ時間がある。それまでに考えをまとめてみせようじゃないか。――そのために必要なのは、情報だ。歴代の当主と呼ばれた人々が何をしたのか、知らなければ。
軍家の歴史はエルニーニャ王国建国以降の歴史に等しい。その情報を最も有しているのが、エスト家だ。個人の日記から手続きを踏んで編纂された歴史書まで、たくさんの文書や書物が書庫に保管してある。学者もそれを参考に研究をするので、エスト家は軍家でありながら、文士たちにも頼られている。
ついこの間まで、軍と文派は相容れない存在だと言われていたのに、双方に双方の立場を理解する人間がいるために、そのわだかまりは解消されつつある。このことはイリスの知人らも関わっているので、わざわざ勉強しようとしなくても、自然と頭に入っていた。
「ドミノさん、書庫見せてください!」
まずはここから当たってみよう、と思うのも自然なことで、頭を下げられたエスト家現当主ドミナリオも何の疑問もなくそれを受け入れる。何か仕事で必要になる情報でも求めているのだろうと解釈して、イリスを二つ返事で招き入れてくれた。
だが、エスト家に保管されている膨大な資料を前に、イリスのほうがフリーズしてしまった。いったいどこから手をつけていいのやら。
「……ドミノさん、インフェリア家の当主が何をしてきたかがわかる資料ってない? できればわたしにもわかりやすいやつ」
「当主? 君の家に限定するなら、自分の家の書庫とか見たほうがいいと思うけど」
「ううん、家に帰るのは、今はちょっとね……」
家に帰れば、事情を話さなければならなくなる。当主継承絡みでニアと喧嘩になっているなんてことを父が知ったら、狼狽えられて「考え直せ」とか「そんなことする必要ない」とか言われるに決まっている。それはそれで面倒だ。
その思いを読み取ったのか、ドミナリオは眼鏡を上げ直すと、ずらりと並ぶ棚からほとんど迷うことなく数冊の本やバインダーを取り出した。「重いから気をつけて」とイリスに渡してくれたそれは、けれどもそんなに重いと感じない。表紙には『軍家入門』や『代表軍家資料』といったタイトルがあり、子供向けらしいイラストが添えられているものも見られた。
「軍人学校で使ってるテキストと、副教材。基礎の基礎だね」
「……わたし、基礎からやらなきゃだめかあ……」
「だって、ちゃんと勉強したことないだろう。インフェリアはそういう家柄じゃないし。ニアは別だけど……あいつは頭が良いから」
また兄に比べて劣っているようなことを言われて、イリスは少しムッとする。しかし一方で兄を褒められて嬉しいという気持ちもある。複雑な気持ちが顔に出ていたのか、この家の幼い双子のきょうだいがイリスの顔を見て口々に「へんなかお」と言った。
居間に戻ってテキストをぱらぱらとめくると、なるほど、イリスでもわかりやすい言葉で軍家について説明がされていた。主な軍家の名前も出ている。建国御三家と呼ばれるインフェリア家ももちろん並んでいた。
「……インフェリア。地獄の番人の意味を持つ古代語を名として持ち、軍における『武』を司っているとされている。……へえ、エスト家は『知』で、ゼウスァートは『統』なんだ。面白いね」
初めて見るテキストは、勉強が苦手なイリスの興味を意外にもそそる。両脇から双子も覗き込み、目を輝かせていた。たぶんこの二人は、純粋に勉強することが好きなのだろう。
「ドミノさんのとこは、次の当主はどうするか考えてる? センテッド君とマリッカちゃんのどちらかが継ぐことになるんでしょう。やっぱりより頭の良い方が継ぐとか、基準があるの?」
ページをめくる手を止めずに、何気なく尋ねてみる。するとドミナリオは何故か不機嫌そうな声で答えた。
「うちは代々、双子が生まれることが多いんだけど。その場合は両方ともに当主継承権がある。二人で家を継ぐように教育することになっているんだ」
「あ、そうなんだ? 二人でって、どうやって継ぐの?」
「さあね。規則上そうなってはいるけれど、二人当主制が実行された例はないんだ。なぜなら、エスト家に双子が生まれると、片方が必ず当主を継げなくなるような事態に陥ったからね」
なんだか、聞いてはいけないことを聞いた気がした。実際、ここには双子であるドミナリオの子供たち、センテッドとマリッカがいるのだし。これ以上突っ込んだことを訊くのはやめようと思ったが、ドミナリオが先に続けた。
「次の代はそんなことにはさせない。センテッドもマリッカも、無事に成長して、……そうだな、別にこの家を継がなくてもいいようにしたい。そんな義務はいらないと思っている。自分自身が、エストの名を継ぐのにかなりの抵抗があったから」
「あ、そうなの……」
そういえばドミナリオは、軍が嫌で辞めようとしたこともあったと、いつかに聞いたことがある。彼は本当は、文派につきたかったのだと。けれども軍にいることで文派とのバランスを保つことができるということで、軍家エストを継いだのだ。
「テキストは持って行っていい。用が済んだら返しに来てくれるか、ホリィに渡してくれても大丈夫」
「うん、ありがとうございます」
家を継ごうとする子供がいる一方で、継ぐ必要はないと思う親がいる。――もしかしたら父もそうかもしれないと、イリスは思った。なにしろ、かつては兄が軍人になるのを反対していたそうだから。イリスのときはまったく反対などしなかったけれど、それでも怪我などすればものすごく心配される。
ただ名を継ぐのではないということを、家を継ぐということはその歴史を背負うことなのだと、ほんの少し考えただけで胸のあたりが重くなった。いや、今までがあまりに軽く考えすぎていたのだ。
熱心にテキストを読むイリスを、寮で同室のメイベルは不気味がった。今まで薦めた小説すらまともに読まなかったのに、突然勉強なんかし始めたものだから、奇妙に思ったのだろう。
「私は家を継ぐとか家名にこだわるとか、そういう感覚はわからない。だから思うのかもしれないが、イリスは自分が継がなければということを意識しすぎてはいないか?」
「そうだねえ……お兄ちゃんが家を出たならわたしが、っていうのはあったな。去年お兄ちゃんが軍を辞めて、ルー兄ちゃんと一緒に暮らし始めてから、意識するようになったかも」
情報に触れ、人に話していくうちに、イリスの気持ちも整理されていった。インフェリアの名前は継がれて当然のものであるとこれまで思い込んでいたということ、けれどもイリスがその名を継ぎたいと思うのは、ニアに認めてもらいたいからという単純な理由であるということ。歴史を背負う覚悟なんて持っていなかったということにも、やっと気づいた。
なかでもインフェリアの名は一等重い。地獄の番人と呼ばれる所以は、初代の恐るべき強さにあるとテキストにはあったが、副教材だといって渡された資料には、初代当主ガロット・インフェリアがどれほどの敵を倒したかという想定人数が書かれていた。エルニーニャという国ができる前は、大陸全体が戦争状態にあり、戦闘は容赦のない殺し合いだった。つまり倒したという表現はかなりやさしいもので――。
今の自分の存在が数多の屍の上にある。それを思うだけでもぞくりと鳥肌が立つのに、その歴史を背負わなければならない当主に、簡単になれるものなのか。
いや、当主になるだけなら誰でもなれる。問題は、当主として何を背負い、何を成すか。
「ちゃんと勉強してみたら、考えなくちゃいけないことが次々に出てきちゃった。自分の家のことを常に考えて、いかに弟妹たちの生活を支えるかを重視してるベルは、やっぱり偉いよ。わたしよりずっと現実的に物事を見てるんだもん」
「それは私がそういう環境で生きてきたからだ。……と、フィネーロやルイゼンあたりが言うだろうな」
環境と、それから経験だ。環境はともかく、経験がイリスには圧倒的に足りていない。拉致されたり、大総統補佐見習いになったり、大事件の一端に関わったりといったことはあるけれど、周りの「大人」たちが通ってきた道には及ばない。これでは「子供」扱いされてもしかたがないと、認めざるを得なかった。
翌日、イリスは大総統室で、レヴィアンスの仕事を手伝っていた。一応は大総統補佐見習いなので、呼ばれればそちらの仕事をする。休憩も大総統執務室でとることが多い。いつもは茶を飲みながら雑談をして過ごすところを、今日はイリスがドミナリオに借りた本を持ち込んで読み始めたので、レヴィアンスは読んでいた書類を落としそうになった。
「イリスが本読むなんて珍しいね」
「本っていうか、軍人学校の教科書らしいよ。軍家に関するやつだって。ゼウスァート家についても書かれてるけど、読む?」
「いや、いいよ……」
先日ニアに勝負を挑んでいたから、てっきり日々の訓練に力を入れるものと思っていた。まさか、あのイリスが勉強を始めるとは。レヴィアンスが感心していると、不意にイリスが本から顔をあげた。
「レヴィ兄は、別にお母さんの跡を継いで大総統になったわけじゃないもんね」
「親を見て目標にしたのはたしかだけど、大総統にしたのはオリビアさんだからね。今この地位にいられるのはオレの力じゃなく、たまたま持ってた要素のおかげで、親はむしろオレを大総統にしようと思わなかったから」
「だよねえ……。実際、レヴィ兄はレヴィ兄のやり方で、一年大総統やってきたもんね」
教科書とやらを読んで、イリスはイリスなりに考えたのだろう。先日より随分冷静になっている。今ならニアと勝負をするという考えを取り下げるかもしれない。
「イリスはさ、どうしても当主になりたい?」
「うーん……なりたいかなりたくないかっていうより、なってもいいのかなってところで悩んでる。だってわたし、お兄ちゃんに認めてもらうことしか考えてなかったから。実際に当主になったとして、インフェリア家の歴史を背負っていけるかといったら、それは今のままのわたしには難しいなって思う」
どうやら、ニアに言われたことを少しずつ受け入れ、解そうとしているらしい。でもきっとそれはニアに言われたからではなくて、自分で勉強してみてわかったのだろう。
レヴィアンスが心配するまでもなく、イリスは自分自身のことを見つめ直していた。もしかしてニアがそれを狙ったのかと、一瞬そんなことが頭をよぎったほどだ。
「じゃあ、今回の勝負はとりあえずなしに」
「それはしない。一度やるって決めたからには、しっかりけじめはつける」
だがそれはイリスの中では、いや、たぶんニアでも、勝負を辞める理由にはならない。なにしろ頑固な兄妹だ、前言撤回は信条が許さない。
「当主が重い責任を持つものだってことはわかったけど、だからってわたしがそれを背負わないってことにはならないよ。だって私がインフェリアの娘だっていうことは事実なんだし。それに、お兄ちゃんに認めてほしいって気持ちは変わらない。もう軽い気持ちで当主になるなんて言わないってことは、わかってもらわなくちゃ。その上で当主の座をぶん奪る」
「また女の子にあるまじき発言を……。でも、それならオレが口を出すこともないね。ちゃんと場所は用意するから、納得のいくようにすればいい」
頑固なところがいい。苦難の道を知ってもなお、挑戦的に前へ進めるところが好きだ。レヴィアンスはイリスとニアの、そういうところをいたく気に入っているのだ。
そもそもニアもイリスも、当主の重みを背負えるだけの気概は持っていると、レヴィアンスは思っている。最終的にどちらが当主になっても大丈夫だという確信がある。今日のイリスの態度で、その思いはさらに強くなった。
「ありがと、レヴィ兄」
父親によく似た笑顔で、この子はこれからもっと成長していくのだろう。兄がそうだったように。
その日の業務が終わった後、ほんの少し自主訓練をしてから、イリスは外出した。行き先は可愛い妹分の住む家だ。もともと「遊びに来て」と誘われていた。
「イリスちゃん、いらっしゃい!」
呼び鈴に応えて飛び出してきた癖っ毛の可愛い女の子を、イリスはしっかりと抱き止める。最近さらにパワフルになったなと思いながら。
「こんばんは、エイマルちゃん。良い子にしてた?」
「今日はね、計算の勉強してたんだ。さっきおじいちゃんが花丸くれた!」
「すごいすごい! エイマルちゃんは頭良いなあ。イヴ姉に似たのかな?」
少し遅れて、そのイヴ姉ことグレイヴが奥から出てくる。エプロン姿で微笑む彼女もまた、以前より随分と落ち着いたように見える。イリスにはそれが嬉しい。
「いらっしゃい、イリス。晩御飯、食べていくよね?」
「いただきます。エイマルちゃんとご飯、久しぶりだね」
一年前、ダスクタイト家の抱えていた問題が解決に導かれ、以降少しずつ家族が修復されてきた。イリスの目指していた「幸せ」に、一家は確実に近づいている。エイマルは実の父を「お父さん」と呼べるようになった。父のほうも、ようやく仕事机に家族の写真を置くことができるようになったと聞いている。
人生経験の少ないイリスだが、この一家を救えるように動いたことは、胸を張って誇れるのだった。
「当主の継承? どうしていきなりそんな話になったの。カスケードさん、怪我でもしたの?」
夕食をいただきながら今回の件について話すと、グレイヴと、その父ブラックは怪訝な表情を浮かべた。当主がどうこうというよりも、イリスの父に何かあったなんて聞いてないけど、という疑問だ。普段仲間同士で情報がまわるのがあんまり早いので、少し知らないことがあると不思議がるのだ、この人たちは。
「お父さんは何でもないんだけど、わたしとお兄ちゃんがね」
夕食用のずっしりしたパンをちぎりながら、ことのあらましを説明する。するとよく似た親子は同じ表情で納得したように頷き、エイマルはちょこんと首を傾げた。
「たしかにニアなら、イリスには当主をやらせたがらないかも。そうじゃなくても、そういうアクションはするわね」
「うん、わたしお兄ちゃんに反発したけど、今思うと仕方ないことなんだなって思う。インフェリア家の当主になるってことがどういうことなのか、ちゃんとわかってなかったもん」
「気づけただけ偉い。世の中には惰性で家を継いで、そのまま悪い方向に進む奴もたくさんいるからな」
だから貴族家や軍家の汚職が出てくるんだ、とブラックが言う。貴族家の違反にはイリスも関わったことがあるので、その例えはわかりやすかった。同時に、何も知らないまま自分が家を継いでいたらどうなっていたか、少し怖くもなる。
「イヴ姉もやっぱり、わたしじゃ当主には力不足だって思うよね。お兄ちゃんが継いだ方がいいって」
その点は経験の差と人間的な賢さで、兄に利があって当然だとイリスは思う。きっと兄が継げば、インフェリア家は安泰だろう。
「アタシはイリスの方が向いてると思うけど」
しかしグレイヴは、あっさりとそう言った。
「え、なんで? だってお兄ちゃんのほうが家の責任もきっとわかってて、頭もいいし、闘えば強いよ」
「そりゃそうよ。アンタより十一歳も年上なんだから。おかわりいる?」
スープのおかわりをもらいながら、イリスはグレイヴの言葉の意味を考える。自分が兄より勝っているところなんてあっただろうか。あるとすれば、魔眼と称されたこの瞳の力くらいだが、それと当主とは関係がないだろう。
しかしスープとともに出された答えは、勝ち負けも関係がなかった。
「イリスは助けたい、どうにかしなきゃと思ったものに、まっすぐ取り組むでしょう。正攻法で挑んで、ちゃんと結果を出してくれる。アタシたちの家を助けてくれたみたいに」
「それは、お兄ちゃんだって……」
「こう言っちゃなんだけど、ニアは頭が良いせいか、ときどきずるい手を使うようになっちゃったのよね。たぶん上司が良くなかったんだわ、悪影響を受けたのよ。アタシはもっと素直で熱い心を持った人に、建国御三家っていうこの国の柱を継いでほしいの」
まさかそこまで応援してくれるとは思わなかった。イリスを認めてくれる人も、ちゃんといたのだ。そのことに、今までどうして気づかなかったのだろう。――おそらくは、イリスがニアしか見ていなかったからだ。周りにはちゃんと、イリスのしてきたことを正しいと、単純な気持ちを熱く頼もしいものだと思ってくれる人がいたのに、そちらには目を向けていなかった。
一年前は、エイマルのために必死だった。この可愛い子が、父を父と呼べるようにと、そればかり考えていた。自分が得をするかどうかなんて二の次で、一つのことを必死に追いかけていた。
一年経って、それが少しずれてきた。自分を認めさせることに一所懸命になってしまって、そのせいで誰かの抱える痛みや、誰かからの応援に気づかなかったのかもしれない。
「アタシはイリスを信じてるよ。アンタはインフェリアの当主として、たくさんのものを抱えていけるだけの力がある。だから、遠慮なくニアにぶつかっておいで。まっすぐに、ね」
「そうだよ! イリスちゃん、がんばれ!」
当主は重いものを背負う宿命にあり、歴史を胸に刻みつけていかなければならない。それはきっと痛みを伴う道で、今のイリスにはとても行くことのできないものだと、諦めかけていた。だから当主なんてこの際関係なしに、とりあえずニアに挑んでみようと思っていた。
でも、イリスが当主になることに期待をしてくれている人もちゃんといる。今のままでも大丈夫だと思ってくれている人がいる。
「自信、持っていいのかな」
「自信がないとニアには勝てないわよ」
立ち竦んでいた背中を、ぽん、と押された気がした。
一週間でわかったことがある。
当主とは、単に家を続かせるための立場ではないこと。ことにイリスの生まれた家はあまりに重い宿命を背負っていて、それを受け止めきれるほどの器が必要であるということ。
その器をつくるためには、経験することと思考することを止めてはいけないということ。あらゆる物事からヒントを得て、自分で物事を差配し、決めていく力を見につけなければならないということ。
けれどもそのことばかりにこだわって、本来の自分を見失ってはいけないということ。
当主は簡単に継げるものではない。けれども難しいからやらせない、という道理もない。
「当主継承権を巡って兄妹で闘うなんて、そんなの駄目だ。そんなことをさせるくらいならインフェリア家は俺の代で終わらせる」
案の定、事情を聞いた父はそう言った。ニアは一人の絵描きとして生き、イリスはいつか誰かのもとへ嫁いで平穏な暮らしを手に入れればいいと。予想していた通りの考えだった。
「終わらせないよ、お父さん。インフェリアの名を冠することで降りかかる危険も、わたしは承知してるんだから。……まあ、継承するのなんてまだまだ先のことだろうけど」
イリスは剣を手に、練兵場へ向かう。追いかけてくる父を振り返り、笑顔で言う。
「大丈夫、争ってるわけじゃないから。わたしはわたしの気持ちにけじめをつけたいだけだし、お兄ちゃんはわたしに大事なことをわからせたいんだと思う。……お父さんは、見てて。わたしたちの覚悟を」
自分の子供たちがどれだけ育ったか、今はそれさえ見届けてくれればいい。
「さて、お兄ちゃん。始めようか」
約束の時刻、ニアは練兵場ですでに待っていた。
その手に大剣を握り、耳には銀色のカフスを光らせて。――本当は、それも羨ましかった。兄ばかり父から色々なものを受け継いで、認められているような気がして。だから、その兄に認められたかったところもある。
イリスは今、自分で自分を認めていた。
「本気で良いんだね?」
ニアの最後の確認に、イリスは獅子の笑みで応えた。
「当然」
大きく振られた大剣の勢いに吹き飛ばされないよう、イリスは足を踏ん張る。自分の剣を弾き飛ばされないように、手にも力を込める。
大剣は刃ではなく、広い面の部分を相手に叩きつけるように使うのだと、いつかニアに教わった。それを実際に受けると、なるほど、一度当たっただけで気絶してしまう者がいるのも無理もないことだと思い知る。
だが受け止めているだけではこちらが攻撃できない。一旦飛び退いて体勢を立て直し、いかにしてニアの懐に入るかを探る。リーチの長い大剣は、しかし至近距離に飛び込まれると対応が難しいというデメリットを持っている。
狙うなら背後か、上か。いや、ニアの反応速度に追いつけるかどうか。――やってみなければわからない。地面を蹴り、跳ぶ。こういうとき、軽い剣を得物にしていると都合がいい。
だがやはりニアには届かない。大剣の面は楯でもある。イリスの攻撃はあっさりはね返された。おまけに宙返りして着地したところを、さっきまで防御に使われていたその面で押しつぶされそうになる。金属の塊は、ニアのけっして丈夫そうとは思えない腕にそぐわないほど重い。よくもこんなものを、ときには片手で扱えるものだ。
かつての大将格の力はまるで衰えていない。全盛期と闘いたかったなんて、甘い考えだった。今でもニアは十分すぎるほどに強い。もしかしたら、いつもイリスを簡単に負かしてしまうレヴィアンスよりも。
「軍から、離れて……一年以上、経つのに……っ」
「そのあいだ僕が何もしてないとでも?」
ニアは軍を辞めても、力を保つために鍛錬を怠らなかったのだ。それもインフェリア家を継ぐことを見据えてのことだったのか、それともインフェリアの名を持つがために戦いから逃れられないと悟っていたのか。いずれにせよ、イリスが敵う相手ではない。
――ここで諦める?
屈すればニアも力を緩めてくれるだろう。そうすれば楽になる。でも。
――抜けられればまだいける。体力も精神力も、まだ尽きてない。
降参なんかしたくない。根競べなら負けない。足と腕、腹に力を込め、大剣を少しずつ押し返す。すると突然負荷がなくなって、イリスは前につんのめった。が、地面には伏せない。勢いのままに剣を振り、何かを切った手ごたえを感じた。
体勢を整えニアを見ると、シャツが裂けていた。やっと一太刀届いたのだった。
「……本当に切られるかと思った」
「本気だったよ。だって、お兄ちゃんが本気だったから」
けれども怪我をしていないことにはホッとしていた。傷つけたいわけではない、ただ勝負を決めたいのだから。
剣を構え直し、相手を見据える。向こうはまだ構える様子がない。今、素早く切り込めば、勝てるかもしれない。――イリスは地面をもう一度、蹴った。
「さっきより跳躍力はなくなってる。腕も痺れがあるんじゃないかな。真っ向から正々堂々は結構なことだけど、自分の状態も考えて闘わなくちゃ」
ニアの呟きが耳に届いたとき、すでにイリスは切り込んでいた。さっきまでニアがいたはずの、空中に向かって。全速力で向かっていったはずなのに、それでも追いつけないなんて。
「次に期待してるよ、イリス」
瞠目した瞬間に、体側から全身へ大きな衝撃が走った。そしてイリスの体は、宙に舞い、地面に強かに叩きつけられた。
「KO負けかあ……」
気がついたイリスが見たものは、寮の自室の天井だった。傍らには無表情の――これでも心配してくれていることは十分にわかっている――メイベルがいて、台所からはチーズが焦げる匂いがする。
「兄君はやはり強かったようだな。もう少し寝ていろ」
「そうだね……ちょっと体が痛くて動けないや。台所に誰かいるの?」
「兄君が。実家から食事を持ってきたそうだ」
「お兄ちゃん、いるんだ……」
熱っ、と声が聞こえた。台所に立つと途端に不器用になるニアが心配になって、イリスは痛む体を無理やり起こし、よろよろと歩いた。メイベルが支えようとする前に壁に寄り掛かり、ニアと、その手にある耐熱皿を見た。
「お兄ちゃん」
「あ、イリス、大丈夫? 明日は休みでいいってレヴィが言ってたから、無理して起きなくていいよ。これは母さんがグラタン作って持たせてくれたんだ。僕の料理じゃないから安心して食べて」
まるで何もなかったように笑う。でも体はたしかに痛くて、あの闘いが夢ではなかったことを教えてくれる。穏やかなニアと、容赦のないニアは、同一人物だ。そういう人なのだということを、イリスはよく知っている。
「お兄ちゃん、やっぱりわたしに当主は無理かな」
いくつもの面を持ち、使い分けることが、大人にはときに必要になる。イリスにはそれができない。そんなに器用じゃない。子供扱いされても、仕方ないのかもしれない。
でも。
「イリスが負けたのは、普段から闘い方を周囲に見せて、手のうちを明かしていたから。僕がレヴィから話を聞いてイリスの動きを予想できたからだよ。……それでも、大剣を押し返されたときはびっくりしたけど。だからつい、その後の攻撃を避けるのを忘れた」
「そっか……わたしが負けたのはわたしのせいか」
「今度はよく作戦を練って、それを秘密にしておいて、僕をもっと驚かせてごらん。挑戦はいつでも受けるから」
覆すチャンスはまだいくらでもある。何度だって勝負してやる。大人になったねと、兄に言わせるまで。
お腹がいっぱいになってまた寝てしまったイリスを撫でてから、あとをメイベルに任せ、ニアは寮を出た。思い出すのはイリスの机の上にあった、数冊の書物だ。レヴィアンスがいうことには、当主を継承するということについて勉強していたらしい。
ニアが思うよりずっと、イリスは真面目に家を継ぐことについて考えていた。その重さを理解しようとしていた。そのことを説明すれば、今回のことも、父は渋々ではあっても納得してくれるだろう。――イリスを気絶させたときは、本当に久しぶりに怒られた。
本気で闘ったのは、そうでなければイリスに失礼だと思ったからであり、これまでむやみに力をひけらかしていたことを戒めるためでもあった。それでもなお、妹は強かった。いつのまにか幼かった女の子は、実力を具えた軍人に成長していた。
ニアはイリスを認めていないわけではない。むしろ認めているからこそ、その力は大切な時に使ってほしかった。あんなに立派になったのなら、なおさらだ。
そのことをイリスが勝負を提案したその日に、ルーファが言おうとしてくれたらしいが、あのときは届かなかった。けれども今のイリスは、ちゃんと辿り着いてくれている。
「……まあ、次期当主を簡単に譲る気はないけどね」
インフェリア家を背負って立つということは、イリスが学んだように、その歴史を背負うこと。妹には身軽であってほしいと、そうしてどこまでも飛び立っていってほしいと思うのは、ニアの兄としての希望だった。けれどもイリスが自らそれを引き受けようというのなら止める気はない。相応の試練は与えるが。
頂点に立つなら、せめて自分は越えてもらわなければ。
「すぐに追いつかれそうだな。僕も頑張らなくちゃ」
次の勝負が楽しみだ、なんて言ったら、また父に怒られてしまうだろうか。それとルーファにも、どんなことになっても同居を解消するつもりはないことを、改めて説明しなければ。
まだまだニアは、そしてイリスも、冠を手にする日は遠い。近付いてはいるかもしれないが、それまでの道のりは長い。