怪物退治――現代、この国の軍人にとってこれ以上に心躍る仕事があるだろうか。

大昔からある神獣信仰。伝説の生物は神の使いとして崇められているが、それが科学者たちによって顕現されると、暴走し手の付けられない化け物となることがある。多くの場合「神獣」をつくった張本人は責任を逃れようとするか、自分ではどうにでもできなくなってしまって、その処分は軍人の仕事になる。

経緯はどうであれ、凶暴な怪物から地域の人々を救うというのは、見た目にわかりやすくかっこいい。怪物退治はエルニーニャ軍の花形任務なのであった。

大けがや、ときには死者が出ることもある、危険な任務でもあるのだが。

 

「依頼任務だ。場所はセルフォート村、内容は最近出現するようになった大型獣の調査と駆除だな」

「つまり怪物退治?!」

ルイゼンが書類を読み上げると、イリスは身を乗りだした。一部からは魔眼とも称される赤い瞳は、今は期待にきらきらと輝いていた。魔性などちっとも感じられない。

この反応は予想できていた。兄に一度と言わず数え切れないほど諌められたが、やはり派手に動くのが好きなイリスだ。さすがに最近は同じ軍人の喧嘩をかったり勝負と称して何人ものしたりということはなくなったが、かわりに外に出る任務で張り切るようになった。思い切り暴れられそうな任務は久しぶりだ。

「……イリス、無茶するなよ。あくまで調査がメインで、遭遇したら駆除するんだ。今のところ被害は畑を荒らされたくらいらしいし」

「でも人里に現れるってことは、いつ誰かが襲われてもおかしくないんだよね。大型獣っていうのははっきりしてるわけだしさ。わたしたちが助けなくちゃ!」

「まあ、そりゃそうだけど……」

息巻くイリスに、呆れるルイゼン。いつものことだと落ち着いているメイベルとフィネーロ。任務を担当するのはこの四人、リーゼッタ班と人は呼ぶ。表面上は一番階級の高いルイゼン・リーゼッタ大尉がリーダーだが、最も目立つのは魔眼を持つ軍家出身の少女、イリス・インフェリア少尉だ。メイベル・ブロッケン少尉とフィネーロ・リッツェ中尉は軍人養成学校を出ていて、その頭脳で班をサポートしている。

これまでに様々な事件に――それこそ小さなものから国を揺るがす大事件まで――関わってきた四人だが、怪物退治だけはまだ取り組んだことがない。尉官に任されることの多い仕事ではあるが、なにしろ件数が少ないのだった。連続して起こることもごくまれにあるが、それは大抵同じ流れの中のもので、関わる人員が限られる。事が思ったより重大であると判断されれば、尉官が担当していた仕事でも、佐官へと回されることもある。

「子供の冒険ごっことはわけが違うんだぞ。俺たちは軍人として、この件を処理しなくちゃならない。大型獣と対峙して殉職した軍人だって過去に何人もいるんだから、浮かれるなよ」

怪物退治は尉官の大仕事。最悪の場合死者が出る。心してかからなければいけないのだということを、イリスはわかっているのだろうかと、ルイゼンは不安になった。

しかし、その思いはもう一度イリスを見たときに霧散した。さっきまで期待に輝いていた瞳は、いつのまにか静かに任務概要のコピーを見ている。その表情はどこか、いややはり、彼女の兄や父に似ていた。――これなら大丈夫だ。

「誰も傷つけないで、任務を完遂すればいいんだよね。じゃあ、やろうか」

獅子の笑みに、ルイゼンは、メイベルとフィネーロも、頷いた。

 

任務を依頼してきたセルフォート村には、かつて神獣信仰があった。かつて、というのは、ここ数十年は祭事がなく、神獣を崇めていたということすら知らない世代も増えてきているのだった。

ところが最近になって、神獣信仰について研究しているという人間が村を訪れ、古い文献やいまやただの石となってしまっている碑などを調べていった。不思議に思う村人たちが彼らを送りだしてから一週間ほどが経った頃、畑が荒らされ始めたのだという。

獣の足跡が残っていたので、熊や大型の狼かと思い見張り番をたてた。猟銃を傍らに、うつらうつらしながらそれが現れるのを待った。――まさか、そのいずれとも違う巨大な生き物がやってくるとは、誰も予想できなかった。

その姿は闇の中で影となっており、正確なかたちはわかっていない。ただ、古い文献にあった伝説の生物にどことなく似ていたような気がすると、村人たちは囁き合っていた。

神獣様の復活。誰かがそんなことを言いだして、畑を荒らされたのは長いこと供物を奉げもせず祭りも開かなかった村の者たちへの罰だということになり始めた。とくに年寄りには、そう思う者が多かった。だが神獣信仰があったことすら知らなかった若い者たちは、大型獣をどうにかするのは軍の仕事であると判断し、中央司令部に依頼を持ち込んだのだった。

「で、その神獣ってのは何型なの?」

がたごとと揺れる軍用車の助手席で、イリスは資料を読み返す。依頼の経緯と任務の内容は把握したが、肝心の神獣――大型獣がどのようなものなのか、詳細は出てこない。

運転をしながら、ルイゼンは溜息を吐いた。

「それなんだよな。村の人から文献とやらを見せてもらうか、証言を聞くかしないと、はっきりとわからないんだよ。伝説上よく出てくるやつなら、弱点とかもわかるかもしれないんだけど」

たとえばケルベロスとか、とぼやいたルイゼンに、フィネーロがそれなら中央の頭だな、と返した。伝説上の生物にこだわっていればいるほど、弱点も再現性が高いというのがこれまでのセオリーだ。

初めての怪物退治ということで、一応過去の大きな事件を復習してきている。最も悲惨なのが、イリスたちが生まれるずっと以前に起きた、しかしながら親の世代の記憶にははっきりと残っているという、「センヴィーナの悲劇」と呼ばれる事件。軍の人間が到着したとき、そこはすでに村ではなかった。人間は一人としておらず、ただ荒れ果てた建物の残骸と、一頭の大きな獣がいたという。地獄の番犬と云われる伝説上の大型獣、ケルベロスが。

「ケルベロスは倒したけれど、その痕跡は消えてしまった。村が一つ壊滅してしまったという最悪の結果だけが残った……という話だったな。まさかイリスがこの事件のことを知っていたとは思わなかったが」

記録を丸暗記したメイベルに、イリスは「まあね」と返事をする。「センヴィーナの悲劇」は、イリスの知人が昔担当した事件だ。怪物退治と聞いて真っ先に思い浮かぶくらいには、話を聞かされていた。

「他にも、軍人が殉死した事件のことも見てきたよな。だから今回の任務は、何度も言うけど、くれぐれも無茶をしないように。相手には理性がなくて力ばかり有り余ってるんだから、加減なんかしてくれないぞ」

「わかってるよ。わたしに何かあったら、お父さんやお兄ちゃんが黙ってないもんね。心配かけたくないから、ちゃんと真面目にやりますよ」

頬を膨らませながらも、イリスは本当に真剣に任務のことを考えている。彼女の脳裏には「センヴィーナの悲劇」ともう一つ、怪物退治絡みの事件があった。――父が親友を、その事件で亡くしている。だから怪物退治の任務にあたるなんて報告できなかったし、もしかすると大総統であるレヴィアンスから話を聞かされているかもしれないので、父に会うことすらできなかった。最もつらい思い出を想起させたくなかった。

「でも、神獣信仰って珍しいものじゃないんだな。フィネーロたちは学校で習ったのか?」

進行方向だけを見ながら尋ねるルイゼンに、フィネーロは「ああ」と答えた。軍人養成学校では、軍に入るため、軍人として生きていくために必要だと思われる知識や技術を叩き込まれるという。宗教に関しても、その範疇だった。

「エルニーニャに限らず、大陸各地に太陽神信仰を柱とした神獣信仰がある。ただ空想の生物を偶像崇拝するだけなら良かったんだが、科学技術が進み、人間が命を容易く扱うことができるようになってから、神獣は具現化されるようになった。その結果が現在の怪物退治だ。結局、それらは人間の手に余ったということだな」

「愚かな奴らだ。傲慢にも神を勝手につくりだし、自分の無努力の結果を神のせいにする。そんな奴らが真っ先に神獣とやらに食われればいいのに」

うんざりした表情で毒を吐くメイベルに、イリスは苦笑する。人間の傲慢さは認めざるを得ないが、大きな力に憧れてしまう気持ちも、わからなくはない。できればそれが何の苦労もなしに得られるものであったなら、という希望も。けれどもそんなふうにして手にした力は、やはり正しく扱うのがとても難しいものなのだろう。

神獣――具現化されたものはキメラといわれる、人工の獣。人の手によって生み出され、人の手によって命を奪われる。あまりにも勝手だとわかっていながら、軍はキメラを退治するのだ。それはあってはいけないものだから、と。人間に害を及ぼす恐れがあるからと。

幼いイリスに、兄が言ったことがあった。「可哀想だよね」と、「何のための命なんだろうね」と、悲しげに。

「……それでも神獣殺しは、言い換えて怪物退治は、任務の花形でなくちゃならない。軍の威信と名誉が誰の目にもわかりやすいしあまり敵を作らないから。実際、うまくいけばかっこいいし。だからわたしも憧れてたんだよなあ」

「イリス、それ、ニアお兄さんの言葉?」

「ううん、レヴィ兄。でもお兄ちゃんたちと話してて、そういうふうに考えたんだろうね」

少年少女の思惑を載せて、軍用車は荒野を走る。点在する村を通り過ぎながら、目的地に到着したのは正午を過ぎた頃だった。

 

村の人々の多くはイリスたちを歓迎したが、年配の者たちは眉を顰めて遠巻きにこちらを見ていた。彼らは神獣を信仰しているがゆえに、現れたそれを退治することに反対しているのだ。だが、畑の作物が荒らされると村の生活が苦しくなるのはたしかなので、直接文句を言うことはできないといったところだろう。これはフィネーロの推測だが。

「お願いします、怪物をやっつけてください! いつ人が襲われるかもしれないと心配で……」

イリスの兄とそう年の変わらない青年が頭を下げる。彼にはどうやら、妻も子供もいるらしい。家族のことを守りたいが、自分にはその力がないと感じているので、軍人であるイリスたちを頼っているのだ。それを引き受けるのが、こちらの仕事である。

「わかりました。まずは調査にご協力願います。その怪物の姿や、現れた時間帯、残された足跡の記録なんかも教えていただけるとありがたいです」

調査の結果、人に害をなさないと判断できれば、それでこの仕事は終わる。けれども大抵の場合、そんな甘い判断はできない。そもそも生きる糧に手を出された時点で、相手は危険だという見方をしなければならないのだ。

姿は村長宅にあった、研究者たちも見たという文献からわかった。キマイラ型――大地の獣たちが融合している、本来ならば守り神であるはずのそれ。この土地で信仰されていたものは、山羊の頭に獅子の鬣と胴、そして足。尾は蛇。各地で様々な形態が見られるキマイラ型だが、共通しているのは基本的に空を飛んだり水中を泳いだりしない生き物で体が構成されているというところだ。

過去、ロックフォードという場所で確認されたキマイラは、尾が蛇の熊だったという。なににせよ「地上の強いもの」から想起されたものであることには変わりない。

「強そうだね……大きさは農具小屋くらいっていうし、これは気をつけないとまずいかも」

そう言いながらも、イリスの表情はわくわくしていた。久しぶりに思い切り強いものと戦える、そんな期待が透けている。

「下手すりゃ死ぬかもしれないな。独りで立ち向かって殉職した軍人も、昔いたらしいし。単独行動は厳禁、全員で対抗できる作戦をしっかり練っておこう」

イリスを牽制するようにルイゼンがわざと不吉な発言をし、ここから作戦会議が始まった。四人の息が合わなければ、巨大な敵を倒すことは不可能だ。――そう、現れたら倒すことに決めたのだ。それが脅威であると判断したから。

たとえそれが人間の勝手な都合でつくりだされた、哀しい生き物だったとしても。

 

村人たちは夕飯を振る舞ってくれたが、そこここからひそひそと陰口が聞こえた。「神獣様を倒すなんて」「軍人どもには罰が当たるぞ」「いっそあの娘らを生贄にしてしまおうか」――囁く人々は古い信仰を知っている、しかしながら祀ることをやめてしまった当人たちだ。神獣に対する後ろめたさもあるのだろう。

「生贄とは物騒だな。まずあいつらから片付けるか」

「ベル、抑えてね。わたしたちの仕事は村の人たちを助けることだよ」

たとえ生贄にされたって、村の人が助かればそれでいい。イリスの言い分を、メイベルは渋々呑みこむ。生贄にされたところで、神獣とやらを倒してしまえばいいだけの話だと思いながら。

「神獣信仰って歴史が古いものなんだよな。ここの人たちは、どうして信仰をやめたんだろう?」

「エルニーニャ中央政府による、周辺小国の統合政策が影響しているといわれている。中央は新興の自由を認めてはいるが、基本的には宗教にこだわらない生活をしている。現に僕たちも、太陽神を意識する機会なんて商業イベントくらいだろう」

「なるほどな。ここも昔は、国だったのか……」

ルイゼンとフィネーロは、いつも寮の部屋でそうしているように会話をする。ここがよそだということは、あまり気にしていない。遠征任務のときは大抵こんな調子だ。どこにいっても変わらない態度でいることが、たとえば身分を隠して行なう視察任務のときも役に立つ。堂々としていれば怪しまれない。

「軍人さんたち、おかわりはいりますか? これから怪物と戦うかもしれないのですから、しっかり食べて力にしてください」

「ありがとうございます」

「神獣に食わせる栄養にもなるしな」

「ベル……」

良くも悪くも人の声に満ちた夕食の時間を過ぎれば、いよいよ大型獣が現れるという時間が迫ってくる。陽は完全に落ち、人々は息をひそめる。子供は早々に寝かしつけられた。

大人たちにも休むように言って、イリスたちは外に出た。辺りは雑木林になっているが、はたしてそこに大型獣が隠れられるかどうかは怪しい。そもそも林に潜んでいるのなら、昼間のうちに行って調べたときに、見つかっていいはずだ。

「調査に来たっていう人たちが明らかに怪しいよね。わざとキメラを放しに来てるんじゃない?」

「そう思って、周辺に応援を呼んでおいた」

「えー……」

無線を振ってみせるルイゼンに、イリスはあからさまにがっかりした。応援に来た軍人がキメラを放す現場を押さえれば、この件はそこで解決する。イリスたちの出番はなく、至って平和的に済む。それが一番良いことなのだろうけれど、体を動かしたいイリスには物足りない展開だ。

「被害がないのが一番だろ。村の人にも、俺たちにも。……それともイリスは、親父さんのトラウマ抉りたいのか?」

「それはやだ」

早く確実に、安全に解決するのなら、そのほうがずっといいのだ。暴れたい気持ちはしまっておくことにして、自分たちは村で待機する。

夜が更けていく。一緒に待っていて、ときどき毛布や飲み物を差し入れてくれた村人たちも、次第に寝静まっていった。まだ感じる人の活動の気配は、おそらくはこちらの様子が気になって眠れない人たちのものだ。外部の人間ではない。

温かな毛布と飲み物のおかげで、イリスもうつらうつらしてきた。メイベルにわき腹をつつかれてハッとしては、また意識が遠のいていく。長距離の移動と調査で、頭が先に疲れてしまっていた。

「ちょっと寝ててもいいぞ、イリス。見張りは交代ですればいいし。フィンも疲れてるだろ、俺とメイベルはまだ平気だから少し休め」

「万が一のことがあっても、私が銃声で起こしてやる」

「うーん……そうさせてもらおうかなあ」

「なら、僕は少し休む。悪いな、ルイゼン」

「こういうときは年長者と夜更かし慣れしてるやつに任せとけ」

メイベルが眠くならないのは、普段から遅くまで本を読んでいることが多く、睡眠時間が短くても生活に支障がないからだ。ルイゼンは軍人をやっている期間が他の三人よりも一年長く、その分鍛えられている。リーダーであるという自負もある。

ここは言葉に甘えようかと、イリスも目を閉じた、まさにその瞬間だった。ルイゼンが手にしていた無線が、ノイズ交じりの音をたてた。

『リーゼッタ大尉、聴こえるか。こちら分署のドミニク。たった今、セルフォート村周辺で不審車両に接触した。異様に大きな荷箱を積んだ車両だ。どうぞ』

応援を頼んでいた彼らからの連絡だ。イリスは目を開け、フィネーロは億劫そうに眼鏡をかけなおす。

「こちらリーゼッタ。乗員から聴取をよろしくお願いします。荷箱の中身には気をつけてください」

もしもその車両が大型獣を運んでいるもので、応援隊がそれを押さえられたのなら、この仕事は終了だ。車両を取り囲み、そのまま分署に連れていったところを、中央司令部に連絡して荷箱の中身ごと引き取ればいい。

安堵の息を吐こうとしたルイゼンたちの耳に、しかし、次の瞬間悲鳴が届いた。

『わああ?! なんだ、何を……! しまった、逃げたぞ!』

「どうかしましたか?!」

何が起こったのか。何が逃げたのか。そしてこちらに響いてくる、重い足音は。四人は毛布を引き剥がし、立ち上がる。

『リーゼッタ大尉、すみません! 車両はやはり大型獣を運んでいました。乗員の一人が何か操作して、荷箱の大型獣を逃がしました!』

獣の習性か、そう躾けられたのか。足音は真っ直ぐにこちらへ向かってきていた。「役立たずめ」とメイベルが舌打ちをしたのと、大きな影が林から現れたのは同時。歪な形をした、巨大な獣が、暗闇を割って飛び出した。

どこからか押し殺したような悲鳴が聞こえた。まだ起きて、こちらを窺っていた村人たちのものだろう。それを聞いているのかいないのか、獣は顔を一度そちらへ向けたあと、近くの畑をその前足で掘り始めた。まもなく収穫を迎えるはずだった作物が散らされる。

「いくぞ、フィネーロ!」

「了解した」

先にルイゼンとフィネーロが、獣の前に出る。山羊の頭が、それに似つかわしくないギラギラした瞳で、二人を見下ろした。

「これはまた、よく文献を再現したもんだ……」

「思っていたより大きいな。これは動きを止められるかどうかわからん」

フィネーロの手には長縄がある。先を輪にした、巨大な投げ縄だ。獣の首にかけて木に縛りつけるつもりだったが、あまりにも浅い考えだったと知る。

「せいぜいが口に引っ掛けるくらいか」

「そう簡単にはいかないよな。でもまあ、物は試しだ。フィネーロ、頼む」

ぐわっと大きく口を開けた獣――キマイラに向かって、フィネーロは長縄を投げた。輪が口に引っ掛かったのを確認してから、走ってキマイラの後方の木へ向かう。持っていた縄の端を木の幹に縛りつけると、獣の首が反り、上体が持ちあがった。そこにルイゼンが剣を持って飛び込んでいく。切っ先は、獣の胸へ。

しかし目標に到達する前に、剣は綱を力ずくで引きちぎった獣の前脚に弾かれた。

「メイベル!」

「まったく、最初からこうすれば良かったものを……回りくどい!」

できるならキマイラをさほど苦しませることなく葬ってやりたい。ルイゼンの一太刀で終わらせることができれば良かったのだが、どうやらそれは無理なようだ。そう判断したとき、初めてメイベルとイリスが動くことになっていた。

発砲音が一発、二発。メイベルの両手の銃から放たれた銃弾は、キマイラの両の前脚にそれぞれ当たる。獣の吠える声が村中に響き、人々が目覚めた。その中にはキマイラを神獣と崇める人々もいる。その人たちの目の前で、イリスは高く飛び上がり、自分の剣を姿勢を低くしたキマイラの眉間に突き立てようとした。

しかしキマイラは長い蛇の尾を振り、イリスの体を簡単に弾き飛ばしてしまった。

「大丈夫か、イリス?!」

地面に落ちたイリスに、フィネーロとメイベルが駆け寄る。獣の目の前には、剣を拾ったルイゼンが一人で立っていた。――独りでは、巨大な獣には立ち向かえない。そうやって死んでいった軍人が、過去にいた。

「ゼン!」

声を張り上げ、体を起こそうとするイリスに、ルイゼンは一瞬だけ顔を向けた。口の形がたった一言、素早く言葉を伝える。「そこにいろ」と。

剣を構え、標的を目の前の人間に定めたキマイラと対峙するルイゼンは、すでに覚悟を決めていた。

「……バカじゃないの」

独りで行動するなと、彼自身があれほど言っていたのに。イリスたちにはそれをさせないで、自分だけ立ち向かおうとするなんて。

「くそっ、もう一度撃つ!」

「メイベル、駄目だ! 今キマイラを刺激したら、ルイゼンが危ない!」

再び銃口をキマイラに向けたメイベルを、フィネーロが制止する。そのあいだにイリスは剣を支えに立ち上がり、唸る獣とそれを見据える人物を見た。

――ベルがキマイラを攻撃してもしなくても、ゼンは逃げない。きっと真正面から斬りこむ。

だが、それでは勝算があまりに低い。不意を突いたはずのイリスの攻撃ですら、あのキマイラは防いだのだ。山羊の頭に光る眼と、かま首をもたげる尾の蛇の眼。両方を封じなければ。今はどちらもルイゼンを見ている、その眼を。

「ベル、撃って」

「イリス?! だが、ルイゼンが……」

「わたしが走る。だからベルはあいつの尾の付け根を狙って」

「承知した」

メイベルは即答する。イリスの言うことならば、彼女は聞き入れてくれる。フィネーロはちぎれた縄をちらりと見てから、「頼む」と言った。

破裂音より一足早く、イリスは剣を利き手と逆の手に持ち、全速力で地面を蹴った。連続して放たれた銃弾は正確にキマイラの尾の付け根を撃ち抜き、胴体から尾をちぎり取る。キマイラはその痛みに大きくのけぞり、吠える。それから巨大な体はルイゼンに向かって倒れてきた。

それより速く、イリスはルイゼンのもとに辿り着き、利き手でその体側を思い切り突き飛ばした。驚いて瞠目したルイゼンとともに地面に勢いよく転げ、背中でキマイラの倒れ込む重い音と唸り声を聞く。間髪入れずに立ち上がり、振り向きざまにまた駆け出し、のたうち回っていたキマイラの尾に利き手に持ちかえた剣でとどめをさした。

そして今度は、自分がキマイラの目の前に立つ。目と目がしっかりとかち合うように。

「まさか、あいつ……眼をキマイラに使う気か?」

起き上がりながら、ルイゼンはイリスの動向に注視する。そんなことがうまくいくとは思えない。獣に眼の力を使ったことなんて、一度もないはずだ。

イリスの眼は、見た者の体調や精神に影響を与えることができる、特殊な力を持つ。ときに忌み嫌われ、ときに武器にもなるその力を、普段は制御して生活している。逆にいえば、行使しようと思えばその最大の力を発揮することができるのだった。

キマイラは動かない。イリスを見たまま、ピクリともしない。吠えることもなくなった。まさか本当に効いているのか、とルイゼンが思ったそのとき、イリスがキマイラから目を逸らさずに叫んだ。

「フィン!」

動かないキマイラの背にフィネーロが駆けあがり、細い金属の紐をその首に巻きつける。その先は木へ――先ほどキマイラの力に耐えたほどの頑丈なものだ、今度も大丈夫だろう――素早く結びつける。キマイラがまた急に動けば、首にワイヤーが食い込んで痛みを与える。だがそれはあくまで保険だ。あまり苦しまない、今のうちに。

「ゼン、ちょっとつらいかもだけど、お願い。わたしの剣じゃ細くて、一撃では決められないから。……この子を、終わらせてあげて」

このまま手なずけられるのではないかと思うほどに、キマイラはおとなしかった。それでも終わらせなければならない。あるはずのない命を、つくってしまったのだから。その終わりもまた、決めてやらなければならないのだ。

「わかった」

ルイゼンがキマイラに近づき、その首に向かって剣を構え、振り下ろした。それでも一度では足りなくて、キマイラは酷く暴れた。首の傷にワイヤーが深く食い込むのが手伝って、決着は二度目の刃でついた。歪な形の獣は、胴体から離れた頭のその口から舌をだらりと垂らし、すっかり獅子のそれと違わないものになってしまった四つ足の動きを止めた。

きっと痛かっただろう。苦しかっただろう。けれどもたぶん、イリスが細い剣で何度も切り刻むよりは、ずっとましな最期だった。

 

朝になってから、キマイラの体は中央司令部の科学部が引き取りに来た。興味や畏れの入り混じったざわめきの中を、その巨大な体が運ばれていく。それに続いてイリスたちも、司令部に帰った。

キマイラを村に放していた者たちは、応援に来てくれた軍人たちによってすでに身柄を司令部に送られている。車内で無線を通して聞いたことによると、彼らは神獣信仰があるといわれている各地で信仰対象となっている伝説の獣について調べ、それを再現しようとしていたそうだ。それが彼らの、自身の技術を示す方法だったのだ。もとは軍の科学部や民間の研究所などに所属し、しかしながら居場所を得られないと感じていた者たちの集まりだったという。

「……なんか、すっきりしない仕事だったね」

村人を助けたのはたしかなのに、望み通りよく動けたはずなのに、イリスの心は晴れなかった。真正面から見たキマイラの目が、どうしても忘れられなかった。憎しみや恨み、嫌悪といったものを一切感じなかったそれを、イリスはあのとき倒さねばならないと判断した。間違ってはいなかったはずなのに、正しいとも思えない。

「老人たちが最後までこちらを罰当たりだと言っていたのは腹が立ったな。自分たちだって信仰を忘れていたくせに。そもそも神そのものだって、人間が自分の心の安寧のためにつくりだした概念だ。そんなものに縋っているのも馬鹿馬鹿しい」

メイベルは村を出発してから、ずっと文句を言っている。感謝の言葉が全くなかったわけではないし、多くの人は「村を救ってもらった」と認識してくれたが、一部はやはり「神獣」にこだわっていた。

「そう言うな、メイベル。人間にはよすがが必要なんだ。それに、イリスを熱心に信奉している君が言えることか」

「イリスは実在するだろう」

「それなら神獣も、一時的にではあるがあの人たちの前に実在した。だから信仰が戻ったんだ」

それがいいことなのかどうかはわからないが、と付け加えながら、フィネーロはメイベルを宥めた。いつもと変わらない調子で。

そんなやりとりを車を運転しながら聞いていたルイゼンは、苦笑しながら言う。

「まあ、きれいに終わって全部すっきり、なんて仕事はなかなかないだろ。感謝されるのも恨まれるのも、全部承知の上での仕事だ。……でもイリス、上司の命令違反はいただけないな?」

「だって、ゼンの言う通りにしてたら、ゼンが危なかったでしょ。……わたしはお父さんのトラウマを抉るようなことにはなりたくなかったけど、自分がお父さんみたいにトラウマ抱えるのも嫌なんだから。幼馴染だから、あんたの考えてることはだいたいわかってたつもりだしさ」

万人の幸せというのは、難しいものだ。大切なものを、守らなければならないものを救おうとすると、別の何かをこぼしてしまう。あの哀しい命は、いったいどうしたら救えたのだろうか。神獣を信じた人々は、それを目の前で殺されて、今度は何を信じればいいのだろうか。

「怪物退治も、実際にやってみるとそうかっこいいものじゃないね」

「期待はずれか? 俺はイリスが助けに入ってくれたとき、かっこいいと思ったぞ」

「さっきは命令違反はいただけないって言ったくせに。ゼンってたまにめちゃくちゃだよね」

「お互い様だろ」

運転席と助手席の二人がようやく笑うと、後部座席の二人が割って入ってくる。

「ルイゼン、イリスと喋って笑わせるなんてずるいぞ。私もまぜろ」

「メイベルが拗ねるから、仲間に入れてくれ。僕も話がしたい」

誰かにとっての幸せが誰かにとっての不幸になってしまう、因果な仕事だけれど。それでもほんの一握りでも誰かを救いたいから、イリスは、彼らは、動き続けようとする。花形任務が期待外れでも、思ったほどの爽快感がなくても、そんなことは関係なく。

その目で誰かの傷や何かの綻びを見つけたならば、そこへ飛び込んでいくのが自分たちだから。きっといつか似たような経験をした人々も、そうだったはずだから。