エルニーニャ王国首都レジーナの、とある大型書店。そこにその月の新刊が、平台にずらりと並べられていた。立派な装丁のハードカバーもあれば、ちょっとおしゃれをした単行本、サイズも見た目も可愛らしい文庫本も揃っている。

なかでも訪れる人々の目を引いていたのが、国内ではそこそこに名の知れた作家の新作。表紙は海を描いた透明感のある水彩画で、あまり海には馴染みのないはずのエルニーニャの人々でも、なぜか「懐かしく」思い、手に取るのだった。

商店街をとことこと歩いてきた少女も、その本を見つけた。母とつないでいた手をぱっと離して駆け寄り、その本をとても壊れやすい宝飾品であるかのように、そうっと持ち上げる。なにしろ紙の束で、しかもなかなかの長編であったので、その重さは壊れ物を圧し潰してしまいかねないものではあったのだけれど。それを落とさないように抱えながら、そっと表紙の海を撫でた。

「きれいねえ、お母さん」

追いついた母に、少女はうっとりとして言った。

「この町からは見られないけれど、この世界には、こんなに美しいところがあるんだね。お父さんの住んでいるところなら見られるかな」

絵であるそれを、少女は実際にあるものとして、すぐにとらえていた。彼女もまた多くの人と同じく、この海に「懐かしさ」を感じたのだ。それはまだ、見たことがない景色だけれど。波が奏でる音も知らないけれど。

「そうね、父さんの職場からなら、海が見られないこともないかもしれないわ。ただ、向こうは雪が降るから、こんなにきれいな青色をしているかしら」

「夏は? 夏ならきっとこんなふうになるんじゃない? お父さんに頼んで、写真送ってもらおうかな」

「写真ねえ……。お父さんはあんまり上手じゃないから、他の人に撮ってもらった方がいいかも。それか我らが大総統閣下に出張ついでに撮ってきてもらうか。アイツはなかなかいい腕してるわよ」

「もう、お母さんってばすぐお父さんはあれが下手これが下手って言うんだから」

頬を膨らませながら、少女はもう一度本の表紙をじっと眺め、それから丁寧に棚に戻した。少女の持ち合わせではこの本は買えないし、母にねだろうなんて気は少しも起きなかった。そんな気は今までだって起こしたこともない。

貯金箱にいくら残してきただろうか、と思いながら、今日のところはそこを離れることにした。

 

 

休日を過ごす人々も、彼らを迎え入れるために働く人々も、町を賑わせている。もちろん軍人だって、町の見回りを欠かさない。こんなときだからこそ、町に自然に溶け込みながら、人々の平穏や町の安全を守るのだ。

「いい天気ー! 仕事じゃなくて普通に買い物とかしたかったな」

青空の下、思い切り伸びをしながら、軍服姿のイリスがぼやく。その隣を歩いていたルイゼンは、苦笑いで答えた。

「それはお前だけじゃないって。一般の休日と非番がぶつからなかった奴が、毎日嘆いてることだろ」

「むしろ非番が突然なくなった人とか。よくあるじゃん、休みだと思って浮かれてたら、急に遠征行くぞーって叩き起こされるパターン」

いずれも「軍人あるある」と称される、彼らにとっては日常茶飯事の光景である。けれどもそれで誰かの助けになるなら、というあまりに真っ当すぎる理由で、イリスは本当に動いている。軍家インフェリアの娘だから、名ばかりだが大総統補佐見習いという立場にあるから、と周囲は言うが、本人は本気で誰かのために常に考え、行動していたいと思ってやっている。

じき、彼女が軍人になって七年。それ以前からも数えて、生きているあいだのほとんどを一緒に過ごしたルイゼンは、幼馴染であり好きな女の子でもあるイリスの成長を、日々眩しく思っている。逞しくなったし、賢くもなった。それでいて根っこの部分は幼い頃からずっとしっかりしているのだ。

「今日一日、平和だといいなー。こんな見回りなんか無駄になるくらいの平和……に、ちょっとスパイス程度に大立ち回りができればわたしは満足なんだけど」

「お前が大立ち回るほどのことがあったら平和っていえなくなるから。絶対に暴れてくれるなよ」

あんまり強いから、多少自分がつっこみを入れられるくらいでちょうどいい、とルイゼンは思う。悔しいことだが、訓練ではイリスに勝てたことがないし、身長の差も昔ほどなくなってきた。ルイゼンも逃げるように伸びてはいるが、イリスの追い上げはすさまじかった。

「冗談だよ、冗談。本当に事件が起こってほしいわけないし、たぶんこの発言をお兄ちゃんに知られたらまたお説教タイムだから内緒にしておいてね」

いたずらを見つかった子供のように笑うと、まだまだ「少女」なのだけれど。

 

「きゃっ」

どこかから悲鳴があがった。イリスとルイゼンはその声を聴き逃さず、すぐにそちらへと走っていく。周囲の人はそ知らぬふりだが、特に疚しいこともないようなので、おそらく事件性はないと判断した。

ただ、突然転んだ女性に気づかないだけ。気づいていても、大したことはないだろうと思えば、次の瞬間には忘れてしまう。

「大丈夫ですか?」

小柄な女性に、イリスが片膝をついて屈み、手を伸ばした。女性は照れたように笑って頷く。

「大丈夫です……ちょっと靴がですね、引っかかってしまって、ドジを」

「そうでしたか。怪我はされていませんか? よろしければ、広場中央のベンチまで、わたしにエスコートさせてください」

手をとって微笑めば、相手の女性の心を奪ってしまう。それもこれも、イリスの笑顔から仕草まで、彼女の父親に似ているせいだ。実の兄よりも似ている。そういうことで軍の女性陣からもイリスは人気があるのだった。ルイゼンは溜息を吐きながら女性の荷物を持って、広場中央まで付き従う。こちらも慣れたものだ。

女性をベンチに座らせ、ルイゼンから受け取った荷物に不足がないか確認してもらう。金品や身分証もすべて揃っていたため、スリというわけでもなさそうだ。だが、事件性がないからこれで終わりというわけにはいかない。大抵の軍人なら終わりかもしれないが、イリスはこれで終わらせない。

「先ほど靴が引っかかったと仰ってましたね。お足もとを確認させていただいても?」

「え、はい……」

失礼します、と一声。女性の足にそっと触れ、怪我がないか改めてチェックする。さらに靴も見る。踵が折れたりということはないようだが、傷がどれも妙に新しい。

「靴、おろしたてなんですね。よく似合ってます。でも今日の人出では、履き慣れていない靴だとちょっと大変だったでしょう。せっかく新しい本も買われたようですし、どこかで休みながら、ゆっくり読まれたらいかがです? なんだったらお茶の美味しいお店も教えちゃいますよ」

「そ、それは軍人さんは一緒に行ってくれます?」

「すみません、わたしは仕事なので。残念です」

このやりとりができるのはイリスならではだ、とルイゼンは常々思っている。男の自分などがやったら、司令部にセクハラされただのナンパされただのといった苦情が舞い込みかねない。しかも背の高い男前(女だが)にこんな扱いをされるのだから、大多数の女性は喜ぶのではないか。

もちろん喜ばない女性がいることも知っている。けれどもイリスは、相手を見てすぐに、どう接するべきか判断できている。今のところ成功率百パーセントなのだから、そうとしか思えない。

女性と別れてから、それまでの態度は一変するというのに。

「今の人可愛かったね! 服とか靴とか髪型とか、エイマルちゃんがもうちょっと大きくなったら似合いそうだなあ」

「あー、うん、そうな」

イリスが一瞬にして目を輝かせたただの(シスコン気味な)女の子に戻るのを、ルイゼンはいつも呆れて見ているのだった。

「それに、本! あの人、本買ってくれてた!」

「ああ、書店の紙袋が鞄に入ってたな」

「中身透けて見えたの! あの本だったよ。わたしが間違えるはずないもん!」

あの本、と突然言われても、ルイゼンにはすぐにどの本のことを言っているのかわかった。近々発売になると聞いていたが、もしや今日だったのか。

改めて女性が出てきたと思われる大型書店の店先を見てみると、たしかにそこには、その書籍が一番大きく展開してあった。――平台に広がる、青い青い海。透明で、底のほうまで覗けそうなのに、そうすると引き込まれて浮いてこられなくなりそうな、あまりに美しい海の表紙。あまり小説の類は読まないルイゼンでも、名前くらいは聞いたことがある作家の、最新作。

イリスはこの本のタイトルを、たぶん今、初めて見た。けれどもこの本の話は、ずっと前からしていた。こんなふうに人々の目に触れて、喜ばれる日を、ずっとずっと待ち詫びていたのだ。

「……やっぱり、きれいだ。すごくきれいな本になった」

表紙を眺め、捲り、また戻し。イリスは繰り返し、その本を確かめる。心の底から嬉しそうに。

けれどもそのうち棚に戻し、店には背を向けた。

「買わないでいいのか?」

「欲しそうにしてる人、いるから。それに、もっと小さい本屋さんで、でも確実に置いてくれてるところ知ってるの。どっちにしろ、わたしじゃ読めないだろうけど」

イリスはあまり本を読まない。同室のメイベルがかなりの読書家なので、薦められてはいるらしいが、どうやら「読めるレベルが違う」ということだった。小説でたとえるなら、難解な文体で綴られた長編小説を呼吸をするように読みこなすのがメイベルなら、イリスはヤングアダルトのエンターテインメント小説をなんとか最後まで読み通すのが精いっぱいだという。

「ベルがね、読みたがってるんだよ。図書館で予約待ちが……三十、とちょっとだっけ。そうしたらわたしにも、内容教えてくれるから。今はあの絵で本が出たってことだけで胸がいっぱい」

「……そっか」

すれ違う人が、本を見つけて嬉しそうにそちらへ向かい、手に取る気配。それだけでイリスは満足だった。そう、今は。

 

見回りを終えて司令部に戻り、簡単な報告書を作ったら、今日やらなければならない仕事はおしまいだ。ただしそれはルイゼン達リーゼッタ班の仕事という意味で、イリス個人の仕事はまだ残っている。

「失礼します。レヴィ兄、生きてるー?」

遠慮なく覗いた大総統執務室の、重厚なつくりの事務机の上に、赤い髪が広がっている。返事はない。昨夜は徹夜だったのだろう。イリスたちは関われなかったが、最近大きな事件が立て続けに起きていて、処理がなかなか追いつかないという。

大総統になって二年、忙しさには慣れたはずのレヴィアンスだが、いつまでも体力と気力が続くわけではない。続いた案件のうちの一つは、直接出向いてもいる。

正補佐は外出中のようだ。書置きがある。つまりそれ以前から、彼は机の上に伏しているのだった。

「レヴィ兄、寝るにしてもソファとかに移動した方がいいよ。体痛くなるよ」

軽く揺すっても、反応がない。呼吸はしているようで、少し安心する。安心ついでに周囲に丸めて捨てられたメモを拾って片付け、まばらに積み重なった書類を直す。大総統補佐見習いを言い渡されて二年、すっかり手馴れた、「イリスの仕事」だ。

「……なにこれ」

仕事用のメモとは異なる書き方の、そしていずれの事件とも関係がなさそうなポストイットが、大切そうに机に貼ってあるのを見つけた。まだレヴィアンスが目を覚まさないのを確認してから、しっかりと読み直す。

――三月十二日発売。いつもの路地裏の書店から連絡が入り次第引き取りに行く。

今日の日付と書店という情報から、これはあの本のことだ、と思い当たる。レヴィアンスはあの本を買う気でいたのだ。

「言ってくれればおつかいしたのに。……ねえレヴィ兄、そろそろ起きないと」

「ん……」

やっと返事があった。ぼさぼさの髪を持ち上げ、かきあげて、ゆっくりと体を起こしたレヴィアンスは、低い声で「今何時?」と呻いた。

「昼過ぎ」

「そっか……じゃあ二時間は寝られたな。イリス、昼飯は?」

「わたしはここ来る前に、ベルたちと済ませてきた。レヴィ兄の分、何か頼もうか? レヴィ兄は部屋に戻って、お風呂入ってくるといいよ」

二時間、と頭の中で復唱する。午前はほぼ起きて、仕事をしていたのだ、この人は。そして仕事はどれだけ進められたのだろうか。

「いや、頼まなくていい。仕事は終わらせたんだ、全部終わって安心して寝落ちた。これで今夜は飲みに行ける」

「飲みに行くつもりだったの? 呆れた」

「……まあいいけどね、今は呆れてて」

含み笑いをして、実にさりげなく、机のポストイットを剥がして捨てる。用事はもう済んだのか。でも、いつ済ませたのだろう。本屋に行く時間などあったのか。

「レヴィ兄、いいの? 書店……」

「ああ、見たの。開店と同時に連絡が来ることになってたから、仕事一旦置いて行ってきたよ」

「わたしに言ってくれたら代わりに行ったのに」

「だってイリス、仕事あっただろ。どうだった、街の様子は」

さっきまで机に伏せて微動だにしなかったとは思えない要領で動くレヴィアンスに、イリスは首を傾げる。落ち着いているようなのに、どこか違和感がある、けれども具体的にそれが何なのかわからない。仕事がうまく片付いて機嫌がいいにしては、いつものそれと何かが違う。

「さて、仕事は終わりだよ、イリス。あとは寮でおとなしくしてろ」

「えー……」

レヴィアンスは何かを企んでいる。無理やり仕事を終わらせてまで、企むようなことがある。

 

 

不審な行動をとっているのはレヴィアンスだけではなかった。寮の部屋に戻ってみたら、メイベルがいない。男子寮に乗り込むと、ルイゼンとフィネーロも不在だった。みんながイリスを置いてどこかに出かけているなんてこと、あるだろうか。

「でもゼンは何も言ってなかったしなあ……」

午前中のルイゼンに、特に変わったところはなかったはずだ。昼食をとっているときの、メイベルとフィネーロにも。みんなどうしたかなあ、と呟きながら布団に寝転び、目を閉じた。

瞼の裏には、水彩画の海。いつでも思い出せる、美しい景色。あれがたくさんの人々の手元へと渡っていると思うと、自然に口元が緩んでくる。そしてあの絵の持つ他の誰も知らない姿を、イリスは知っているという事実に、ちょっと得意になる。

なにしろ、下書きから見てきたのだ。出来上がっていく過程を、時間さえあれば見に行った。あの幸福な時間が、今日のこの日をつくったのだ。

「やっぱり、買えばよかったかな。内容は少しずつ、辞書ひきながらでも読むことにして……」

独り言が午後の日差しにすっかりとけてしまう頃。イリスはもう、夢の中だった。

 

目覚ましは電話の音。いつのまにやら日も落ちかけていることに一瞬焦りを感じつつ、イリスは慌てて受話器をとった。メイベルはまだ帰っていないようだ。

「もしもし、どなたですか?」

「イリス、もしかして寝てたか? 声がまだ寝ぼけてる」

「……なんだ、お父さん。何か用?」

父からの電話は珍しくはない。大抵はたまに実家に顔を出せという話で、そう言われた日には必ず帰って近況報告をするようにしている。「お父さん過保護だ」と思わず言ってしまったとき、母が笑って「寂しがり屋なのよ」と返した。人との別れが多いから、だと。

それなら絶対わたしは寂しがり屋なんかにならない、と誓ったのは、いつのことだったか。とりこぼさない、助ける、守ると、強く胸に刻んだのは。

父は自分では、寂しがっているふうを見せないけれど。

「何か用、とは冷たいな。ディナーの誘いなのに」

「いつ? まさか今夜?」

「そのまさか。せっかく例の本も出たことだし、お祝いしよう」

明るい声にそう言われては、そうでなくとも、断る理由がない。あの本に関することならなおさら。急だなと思いながらも、電話を切ってすぐに支度をした。メイベルが帰ってきたときのために書置きを残し、部屋の鍵をかけて。

寮から実家まではバスを使うのが常だが、今日はタイミングが良くないので車を拾う。乗り込んで目的地を告げてから、ラジオの音に耳を傾ける。あの本のタイトルが聞こえてきたからだった。

『――本日、三月十二日発売です。さっそく当番組にも、感想第一弾が届いてまいりました。表紙がきれいで引き込まれました、という声が多いですね』

小さくガッツポーズをしたイリスの耳に、続いて情報が入ってくる。

『話題となっている表紙ですが、こんなお話が届いていますよ。この本を作るにあたって、著者のエゴン氏と装画担当のインフェリア氏が約束をしたんだそうです。絶対に、三月十二日に世に出るようにスケジュールを進めたいと。……異例のことですが、それがインフェリア氏を起用するための条件だったということです。なぜならこの日が、彼のご家族の――』

どうしてこんな情報が、先に世に出てしまったのか。いや、どうしてこんなことを、誰でもない自分が忘れてしまっていたのか。

運転手が声をかけるまで、イリスは茫然としていた。

 

 

インフェリア邸にはたくさんの人が集っていた。大人も子供も、来られる人はみんなやってきて、今日を祝おうとしていた。

知らない人が見れば、どんな要人を迎えるパーティかと思うだろう。大総統、大文卿夫人が顔を揃え、隣国軍の大将まで妻と娘を伴い出席している。しかし、内実はもっともっと気軽なものだ。

ただ、誰もが一度は彼女と関わり、ときに世話になり、ときに手を差し伸べた。それだけのこと。

壁には本の表紙にもなった、透明で広い海の絵が、複製ではあるが大判で貼ってある。描いた本人は絵を見上げながら、待っていた。

たくさんの人々に愛される、このパーティの主役がやってくるのを。

 

「ちょっとお兄ちゃん! 今ラジオで――」

ドアを開けて、ただいまよりも先にそんなことを言おうとしたら。

「イリス。――誕生日、おめでとう!」

波のような声が幾重にも重なって、迎えてくれた。

あんなに日付を見ていたのに、その意味に全く知らない声に教えられるまで気づかなかった、十七歳になった少女は。

「……ありがとう」

この十七年と、そのために描かれた絵の真相を知る。

 

母と叔母が用意してくれた新しいワンピースに着替え、幼い頃から実の姉のように慕ってきた人たちから贈られたメイクセットできちんと化粧をし、改めて祝いの席に迎えられる。イリスがその動向を訝しんでいたレヴィアンスは当然このために仕事を終わらせており、余裕の表情で酒瓶を開けていた。

ルイゼン、メイベル、フィネーロは、先にここに来て父や母の手伝いをしてくれていたという。必要になるだろうから、と今日専用のアルバムもくれた。

「みんななんで言ってくれなかったの……」

「本人が気づいてなかったら言わなくていいって、俺たちに言ったのは閣下」

「ルイゼン、こら、誤解を招くようなこと言うんじゃない。最初に提案したのはニアだし、本作ってるときから言ってたんだからな」

そうだ、本だ。あの本はイリスの誕生日にわざわざ合わせて出版されたのだ。それも、装画を担当したニアが著者に出した条件だった。

「お兄ちゃん」

絵の前に佇み、独りで飲んでいたニアのもとへ走り寄り、イリスは尋ねようとした。でも、何から尋ねたらいいのか、最初の一言が出てこない。

「待ってたよ、イリス」

それをただ微笑んで、もう受け止めたよ、わかってるよ、という顔をして。ニアは海の絵を仰いだ。

その横顔は、もうイリスのほぼ真横にある。この家の生まれにしては、さほど背の伸びなかった兄とは、もうほんのわずかの身長差しかなかった。昔はあんなに大きく感じたのに。

「……君には、この絵の制作過程を見せてきたよね」

「うん。下書きから、筆が入って、色が重ねられていくのを、わたしはお兄ちゃんの斜め後ろでずっと見てた」

本の表紙を描くことになったんだ、とニアから聞いたときは、自分のことのように胸が高鳴った。各方面に様々なかたちで作品を発表、提供してきたニアだったが、本の装画は初めてだった。

この海が描かれる過程を、イリスは頻繁にニアのもとを訪れ、見せてもらった。育っていくのを見てきたからか、だんだんとこの絵に特別な愛着がわいてきた。

「イリスが、この絵ができて今日たくさんの人の手に渡るまでを見ていてくれたそのあいだ。感じてくれていたことは、たぶん僕が君の成長に感じていたことに近いんだ」

「お兄ちゃんが、わたしの成長に?」

「そう。君が生まれるってことを知った日から、この世に生まれて、どんどん大きくなっていくまで。とてもとても、幸せな時間だったよ」

絵が完成して世に出るまでの、イリスが感じていた幸福感。それはイリスの知らないニアが感じてきたものと、限りなく似ているのだという。そしてその幸せの中で、イリスと、本は、生まれた。

「こんな無茶なスケジュールに付き合ってくれた著者はね、僕が絵を大きなコンクールに出すようになってから知りあった人なんだ。いつか二人で本が作れたらいいねって約束して、やっと叶えた。この絵はもちろん、その彼の作品世界を表すために描いたものだけれど……イリスに僕の気持ちを伝えるためでもある。彼もそれは知っている」

「そっか、なんかラジオで、お兄ちゃんが著者に条件を出してとか言ってたから……」

「そんなこと言ってた? まあ、間違ってはいないな。その代わり、作中に僕をモデルにした人物が出てくるよ。僕のことを徹底的に取材して、彼が描き出した僕が、この中にいる」

にっこりと笑って、ニアが丁寧に包装されたものを差し出す。受け取ると重くて、けれども初めて感じるような重さではない。今日の午前中に、見回りのついでに立ち寄った書店で、もうこの感じは経験している。

「イリスは本を読むのが苦手だっていうけれど、いつか自分で家のことをちゃんと勉強しようとしたことがあったでしょう。あれくらいできれば大丈夫。それに、この中には僕がいるから、退屈はしないと思うよ」

「お兄ちゃん、もう読んだの? あ、内容は知ってるんだよね」

「知ってたけど、ちゃんと読んだよ。とても面白いし、実はもう続編の話も出てるんだ。次の装画も僕がやる。……今度のテーマは赤だって。サーリシェリアの鉱石か珊瑚あたりを描かないかって彼は言うんだけど、僕なら珊瑚かな」

青と赤。海と珊瑚。遠い昔、南の海の絵葉書を見せてくれたニアが、言っていた。――海は僕とお父さんの、珊瑚はイリスとお母さんの色だね。

本を抱きしめ、イリスは思う。ここに兄がいるのなら、会いに行こう。難しくても諦めないで、この美しい海に漕ぎ出してみよう。

今日は旅を始めるのに、とても良い日だ。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「どういたしまして。あ、本のお礼はレヴィにね。オレが買ってやるんだって言ってたから任せちゃったんだ。妙な事件が続いたから徹夜明けだろうに、本当に用意してくるんだから」

「レヴィ兄ってば……」

そうか、あのポストイットは自分用ではなかったのだ。だとしたら見られたとき、内心どんな気持ちだったのだろう。少しは慌ててたのかな、と考えると、思わず笑みが漏れた。

 

 

「そりゃ、美しいと評判なわけだ。純粋な兄妹愛なんてものでできた絵なんだもんな」

今日のためにわざわざ隣国から帰ってきた父親がしみじみと言うのを、少女はその横に立って聞いていた。振り返れば姉のように思ってきた彼女、本日の主役が、仲間たちと談笑している。

「イリスちゃんのための絵かあ。だからかな、懐かしい感じがしたの」

「それもそうかもしれないけど、人間はもともと自分の体の中に海が流れてるからな」

「自分の体の、海?」

「血だよ」

そこに広がるのは、自分たちも持っているもの。遠く遠く、はるか昔から繋がる、たしかな「海」。

少女と父にも、同じものがちゃんと流れている。

「さて、お父さんは後輩たちとお酒を飲んでこようかと思うけど、エイマルはどうする?」

「イリスちゃんのところに行く。お父さん、またあとでね」

ここにいる人たちには海があって、受け継ぎ、分け合い、人を繋げている。

絵の海もきれいだけれど、人の中にある海も負けないくらい深く美しいのではないかと、少女は幼くも思う。その手に父から貰った、海が表紙の本を抱えて。