無力なままではいけないと思った。真っ先に力を持てるのは、それを行使できるのは、自分だと思った。だからこそ使えるものは何でも使って、這い上がったのだ。

しかし。

「どうしてお父さんを売るような真似をするの? あなたは、なんて娘なの……!」

やったことは間違っていないはずなのに、それが全てを救える方法だったはずなのに、降りかかった言葉は深く深く突き刺さった。

認めてほしかったわけではなかったけれど、それでも痛かった。今でも傷は、ときどき引き攣る。

 

 

エルニーニャ王国軍中央司令部の女子寮。その二人部屋に並んだベッドの片方に寝転びながら本を読んでいたイリスの耳に、同室のメイベルの声が入ってくる。

「……そうか、異動になるわけじゃないのか。でも家には顔を出せよ。そのときは私も行こう」

電話の相手は、イリスも知っている人物だった。以前、メイベルの実家に遊びに行った時に会っている。彼女のすぐ下の妹だ。――メイベルの家は他にも妹や弟たちがいる大家族なのだ。

「今の、カリンちゃんでしょう。どうしたの?」

通話を終えたメイベルに尋ねると、無表情で頷きが返ってくる。いや、顔色が少し良くなっているから、嬉しいのだろう。わずかな表情の変化だが、長いこと一緒にいればわかるようになる。

「研修で中央にくるんだそうだ。一週間世話になる、と」

「おお、久しぶりに会えるんだね! あのカリンちゃんが軍人になったって聞いたときはびっくりしたけど、順調にやってるんだろうなあ」

「そうらしい」

ふ、とメイベルの口元が緩んだ。目も少し細くなる。これが彼女の笑顔なのだと、そういえばわかるまでには時間がかかった。

イリスとメイベルの出会いは、十歳の頃に遡る。軍に入隊してまもない頃は、こんなに親しくなるなんて思わなかった。なにしろ元気の塊のようなイリスと、傍から見れば静かで冷たそうにも見えるメイベルでは、互いに近寄りがたかった。だが、寮の部屋を共にすることになり、それぞれの気持ちを真正面からぶつけることで、角が取れて丸くなった。つまりは良いコンビになったのだった。

ときどきメイベルからの想いが強すぎて引き気味になることもあるイリスだが、彼女はきっと生涯の友になるだろうという、その気持ちは今日まで変わっていない。

メイベルとは何もかもが違うが、だからこそイリスは、彼女を大切に思うのだ。

 

数日後、西方司令部から中央へ数名の研修生がやってきた。年に数回、各地方司令部からこうして、優秀な人材や優先的に育成していきたい者を呼び、もっとも仕事の内容が多くかつ濃いといわれる中央司令部での仕事にあたらせる。それが当人の昇進のきっかけになることもあるし、中央にいるのが適していると判断されれば異動になることもある。昔から、それこそイリスが生まれるずっと以前からの慣例だ。

研修生たちは中央での事務仕事、市中の見回り、実働班に配属されて任務にあたるなど、様々な経験を一週間のうちにすることになる。中央司令部に所属する人員は、これに協力しなければならない。

「……というわけで、俺たちも一人預かることになった。全員知ってるけど、一応簡単に挨拶しようか」

ルイゼンが連れてきたのは、琥珀色の髪に若草色の瞳の少女だった。いや、連れてきたというよりは、おそらくは押し付けられたのだ。

「西方司令部曹長、カリン・ブロッケンです! 一週間、よろしくお願いします!」

理由は「身内がいるから」。評価が極端にならないように、本来なら離されるべきところを、彼女の場合はわざと姉のいるリーゼッタ班に組み入れられた。何かあったときの責任を、誰も取りたがらなかったのだろう。カリンのせいというよりは、メイベルの評判に起因する。

自らが敵だと判断したものには、容赦なく銃口を向け、引き金を引くことを躊躇わない。ストッパーとなりうるのは、リーゼッタ班の人間だけ。いわゆる厄介者の扱いをされているメイベルの妹だから、何をしでかすかわかったものではないし、何かあったら姉に責任をとらせたい。上層部の思惑はそんなところか。大総統レヴィアンス・ゼウスァートの決定ではなく、その下の将官連中の判断だろう。

何はともあれ、カリンは一週間限りではあるが、イリスたちの仲間となる。

「よろしくね、カリンちゃん。背も伸びたし、髪型も変えた? 縦巻き可愛いね」

「はっ、はい! イリスさんに会えるので、今朝、張り切って巻いてきました! イリスさんも一層かっこよくなってて……わたし、気絶しそうです……」

目をきらきらさせ、手を祈るように組んで、カリンはイリスを見つめている。初めて会ったときから、彼女はイリスのファンなのだ。男性陣には目もくれないが、ルイゼンとフィネーロはいつものことだと諦めている。

だが、実の姉はそうもいかない。

「カリン、ここには仕事で来ているんだろう。この班は特殊な任務を受けることが多いから、浮ついていては死ぬぞ」

カリンの襟首を掴んでイリスから引き離し、メイベルは厳しい口調で告げる。自分が一番イリスに心酔しているくせに、と男性陣が思っても口にしなかったのは、ややこしいことになるのを避けるためだ。

「お姉ちゃん、大袈裟」

頬を膨らませるカリンは、姉とはあまり似ていない大きな瞳を不満げに上方へ向けた。だがメイベルはまったく怯むことなく、冷たく返す。

「大袈裟じゃない。先日は危険薬物取引の現場で、ルイゼンが相手の大将と戦って死ぬところだった」

「いや、そこまでじゃなかったけどな。途中でイリスが割り込んできたし」

「イリスがいなかったら死んでいただろう」

「死なないって」

「つまりイリスさんが強くてかっこいいってことですね! 一週間といわず一生ついていきたいです!」

「馬鹿を言うな、カリン。イリスと添い遂げるのは私だ」

たった一人増えるだけで、実に賑やかになった。冷ややかだったメイベルの言葉も、いつのまにか普段の調子に戻っている。フィネーロが頭を抱えて、溜息を吐いた。

「これから一週間もこの状態なのか……?」

「大丈夫だって、フィン。カリンちゃんは真面目にやらなきゃいけないときはちゃんとするよ。ベルと同じにね」

「なおさら不安になることを言うな」

一週間が無事に過ぎれば、何の問題もない。要はカリンの評価に悪影響がなければいいのだ。

実際、仕事を始めてしまえばカリンはよくできた娘で、事務仕事も見回りも難なくこなしていた。任された仕事をしっかりとやることで、ルイゼンやフィネーロ、そしてなによりイリスに褒められるのが嬉しいらしい。しかし、どんなに張り切っても、うまくやっても、メイベルは一言も妹を褒めなかった。

 

イリスがブロッケン家について知っていることは、それほど多くはない。家族が多くて、メイベルが長子であること。それから母親がほぼ独りで子供たちを育ててきたことくらいだ。父親は「いろいろあって」家にはいない。メイベル曰く、「そんなものは存在しない」そうだ。

だがその人のせいで、メイベルは男嫌いになった。とくに粗暴で無責任で必要最低限の労働もしようとしない、ろくでもない男が大嫌いだ。彼女の「父親」がそういう人だったのだと、直接言われなくてもわかる。そうではない、たとえばルイゼンやフィネーロ、イリスの兄などには親し気に振る舞うことができるが、初めて会う男性には必ずといっていいほど警戒を見せる。

イリスの知っている「家族」の像と、メイベルの認識している「家族」は、大きく違う。だから初めの頃は、なぜメイベルが父親を否定するのかを理解できなかったし、家族とはかくあるべきだ、という考えを押し付けてしまうこともあった。十歳の子供だったせいもあったけれど、おそらくはイリスがメイベルを深く傷つけてしまった、今となっては後悔しかないできごとだ。

両親に愛され、守られて育ってきたイリスと、親であるはずの人から妹や弟を守らなければならなかったメイベルでは、当然考え方が違うということを、時間をかけて学んだ。そうしたからこそ、イリスは今、メイベルと並んでいられる。

「カリンちゃん、頑張ってたね。ちょっとくらい褒めてもいいんじゃないの」

こうしたことを、変に気を遣うことなく口にすることもできるようになった。

「あまり調子に乗りすぎるのは良くないだろう。それにカリンは、イリスが褒めれば満足だ」

「そんなことないよ。やっぱりお姉ちゃんからの言葉は欲しいんじゃない? わざわざ研修のこと、事前に教えてくれるんだからさ」

「どうだろうな。……そもそも、褒め方がわからないんだ、私は。イリスの兄君のように、そういうことが自然にできたら、良い姉だったのかもしれないが」

無表情のなかに、きまり悪そうな、困っているような、そんな気配を読み取る。メイベルはごまかそうとしているのではなく、本心で「褒め方がわからない」と言っているのだ。軍に入ってからは妹や弟と会う機会は減っていて、ましてそれが七年も続いていれば、無理もないかもしれない。

「お兄ちゃんは褒め上手だけど、厳しいときは本当に厳しいよ。あれ、誰に似たんだろうね。お父さん……よりは、おじいちゃんに似てるかも」

「しっかりしていていいじゃないか」

「うちのことはともかく、ベルだってわかんないわけじゃないと思うよ。だって、わたしのことはよく褒めてくれるじゃん。こっちが照れるようなことも平気で言うし」

「それはイリスのことであって、カリンのことではない。……だが、善処しよう。カリンが思った以上に器用だったのはたしかだ」

「そうそう、それだよ。そうやって言えばいいの」

イリスが笑うと、メイベルは目を細める。――こうして笑ってくれるようになったのは、同室になって随分経ってからのことだった。そしてそれが笑顔だと気付いたのは、もっと後だ。

 

翌日、メイベルとフィネーロ、そしてカリンを見回りに出したら、とんでもないことになって帰ってきた。不機嫌そうに眉を寄せるメイベルが早足に行ってしまうのを、フィネーロが泣きそうなカリンを連れて追っている。男兄弟の末っ子であるフィネーロは、自分より小さな女の子――とはいえ同じ仕事をしているという点を考えるとむやみに子供扱いはできない――の慰め方がわからず戸惑っていた。

「イリス、メイベルを追って話をしてくれ。俺はフィンのサポートするから」

「了解。あ、このハンカチ、カリンちゃんに」

ルイゼンにきれいなハンカチを押し付けて、イリスはメイベルを追いかける。何があったのかは連絡が入っているので知っているが、予想以上の険悪さには正直焦っていた。せっかく再会した姉妹が、こんなかたちで仲違いするのはつらいし、嫌な話ではあるが、このままだとカリンの評価に響いてしまう。

すでにあちこちから、噂する声が聞こえていた。ブロッケンの妹がミスをしたらしい、姉がそれを叱責し、市中を騒がせたらしい。やはりブロッケンには問題がある。――囁く口を塞いでやりたかったが、それよりもメイベル本人から正確な話を聞くのが先だ。

「ベル! ちょっと待って、ちゃんと報告しなさいよ!」

人が少なくなったのを見計らって、振り向かない背中に大声で問う。不機嫌な返事だけがあった。

「……なぜイリスに? 班長はルイゼンだ。報告書はこれから作る」

「ゼンがわたしに任せたの。班長代理として、話を聞くのがわたしの仕事」

「それは偉くなったな。話も何も、すでに連絡した通りだが」

「詳細を言ってよ。ベルが何に怒って、カリンちゃんがどうして泣いてるのか、説明してくれないと納得できないじゃない」

「泣いてる? 五年も軍にいて、まだ泣いて済むと思っているのか、あいつは」

吐き捨てるメイベルの表情が見えない。せめてこっちを向けと思い肩に手をかけたが、振り払われた。だがその一瞬、怒りだけではない別の何かが混じった瞳に気づいた。感情をなかなか表にしないメイベルの、もっともわかりやすい態度が怒りなのだが、それには様々な種類がある。

「ベル、何があったの」

もう一度尋ねる。こちらも怒って返してはいけないと、長い付き合いで知っている。立ち止まったメイベルが、溜息を吐きながら眼鏡を直した。

「……あいつは軍人に向いていない。それを確認して、腹が立った」

見回り中に起こった事件はこうだ。カリンの目の前でひったくりがあり、慌てた彼女はメイベルとフィネーロを呼んだ。そうしてすぐに走り、ひったくり犯に追いついたはいいものの、カリンは容易く突き飛ばされ、なかなか起き上がらなかった。メイベルがそのあいだにひったくり犯を捕まえて抑え込んだのだが、そのままカリンを罵倒したのだという。――何をしている、役立たず!

「ベル、言いすぎだよ。捕縛に失敗することなんて、誰にでもあるじゃない」

「誰にでもあるで済ませられるか。あのひったくり犯は武器を所持していた。あのまま逃がしたら、何をしでかしていたかわかったもんじゃない。カリンの得物は銃なのだから、すぐに撃てば良かったんだ」

「無茶だって……人がたくさんいるのに撃ったら危ないよ。ベルだって武器を使わない方法を選んだんでしょう」

「私には可能だったからな。力で敵わないと判断したなら、すぐに道具を使うべきだ。カリンにはそれができなかった。その上、私に怒鳴られた程度で泣くだと? ふざけるな、そんなことで軍人が務まるものか」

メイベルはいつもその判断が早いし、躊躇わない。それはたしかだが、同じことをカリンにも求めるのは違うと、イリスは思う。できなかったからといって、役立たずと罵るなんて。もともと口調に関しては厳しいことの多いメイベルだが。

「らしくないよ、ベル。本当は何を思ってたの? つい酷いことを言ってしまうほどの、何があったっていうの?」

「全て話した。とにかく、私はもうあいつの面倒は見きれないからな。どうしても軍に置いてやりたいというなら、イリスが助けてやったらいい。あいつはイリスを気に入っているし、イリスもそうだろう。小さくて愛らしい子がお気に入りだものな」

昔に戻ったようだ、と思った。現在のメイベルはイリスの行動を基準に物事を考えるほどに、イリスのことを気に入っている。だからこんな発言は、本当に久しぶりだ。まだそれほど仲が良くなかった頃、寮の部屋で口喧嘩をしてばかりいたが、今ここにいるメイベルはそのときの彼女と重なる。

当時のイリスなら、かっとなって言い返していた。しかしメイベルの態度に含みがあるとわかったときから、何が含まれるのかをまず考えるようになった。今回もきっと、メイベルの本当の気持ちが隠されている。

「カリンちゃんと実家に帰るんじゃなかったの? そういう約束してたよね」

「やめだ。私はいつでも帰ろうと思えば帰れるんだから、カリンが一人で行けばいい」

再び歩き出したメイベルを、イリスは止めなかった。メイベルからは、これ以上無理に聞き出せない。姉妹の仲を余計に拗らせてしまってもいけない。来た道を戻って、一旦ルイゼンに報告することにした。

それから、カリンの話を聞いておきたかった。メイベルの態度が急変した原因が、彼女にならわかるかもしれない。話すのがつらそうなら、無理には聞かないけれど。

 

カリンは医務室にいた。ひったくり犯に突き飛ばされたときに、転んで手足を擦りむいていたらしい。イリスの姿を見ると、泣きそうな顔で笑った。

「イリスさん、お姉ちゃんはどうでした? 何か言ってましたか?」

「いや、あんまり話してくれなかった。あ、でも、今日のは何かの間違いだとわたしは思うよ。だって、ベルはカリンちゃんが中央に来るの楽しみにしてたし、絶対に嫌いになったわけじゃないから」

「いいですよ、無理して取り繕わなくても」

とうとうこぼれた涙を拭って、カリンは俯く。

「お姉ちゃんがわたしを役立たずって思うの、仕方ないです。昔からちっとも変わってないんだから、呆れられて、怒られて、当然なんです。……軍に入った意味がないって、きっと思ってるんでしょう」

「昔?」

「お姉ちゃんが軍人になるって決めた頃……ううん、もっと前からですね。未だに男の人に抵抗できないわたしに、お姉ちゃんは怒ったんです、たぶん」

それはまた随分と昔の話だ。イリスが怪訝な表情をしたのを見て、カリンは話を続けようとする。そのタイミングで、軍医はさりげなく部屋を出ていった。気を利かせてくれたのだろうけれど、あの体の弱い軍医がまた廊下で倒れたりしないだろうかと、少し心配になる。

「イリスさん、お姉ちゃんが軍人になった理由って、まだ聞いてないですか?」

「家族を養うためって説明されて以来、それっきりだね。他に何かあるの?」

「それは表向きの理由です。お姉ちゃんがわざわざ特待生として養成学校に入って、奨学金をやりくりしながら確実に軍人になろうとしたのは、お金のためじゃないんですよ。……確実に軍人にならないと、そうして即戦力にならないと、父を捕まえることができなかったからです」

メイベルからはけっして聞くことのできない言葉が、耳に入る。そんなものはいない、いないから話すこともないと、彼女は言っていた。だが、カリンの認識は違うようだ。それとも、イリスにわかりやすいように言葉を選んでいるのだろうか。

「お父さんを、捕まえる? あんまり良くない人らしいっていうことは想像ついてたけど……」

「自分で働かず、母が稼いだお金でお酒を買っては飲みすぎ、酔って家族に暴力を振るう人でした。母は、それからわたしたちも、父の言うことをきかなければ叩かれました。今日、ひったくり犯にされたみたいに突き飛ばされることも、わたしたちにはよくあることでした」

イリスにはうまく想像ができない。父が不必要に暴力を振るうなど、自分の常識では考えられないことだった。だが、ブロッケン家ではそれが日常だったのだ。――軍に通報しようなんて、それで助かるなんて、思わなくなるほどに。

「母も、わたしたちも、諦めてたんです。それと、ちょっとは希望がありました。母が優しかった頃の父の話を聞かせてくれましたから。いつかはそういう父が戻ってきてくれるんじゃないかって、神様が改心させてくれるんじゃないかって、そう考えて耐えていたんです」

でも、とカリンが継ぐのと、それがイリスの頭に浮かぶのは、同時だった。――でも、たった一人だけ、その考えを捨てた者がいた。

「お姉ちゃんだけは、母と同じようには思っていないようでした。母の収入だけでは生活をするどころか、父の酒代さえ賄えないと、お姉ちゃんは早くに気づいたんです。……少しでも家計の足しにしようと、街頭に立っていたこともあったので、そのときに認識が変わったんじゃないかな」

貧しい子供や身寄りのない子供が生きていく術の一つに、物乞いをするという方法がある。福祉がはるか昔に比べればずっと充実してきたとはいえ、救いきれない、そもそも見つけてすらもらえない、苦しみを抱える子供たちがいなくなったわけではない。裕福な家に育ったイリスも、教えてもらわなければ彼らの存在に気づけなかった。

ブロッケン家の子供たちも、そうだったのだ。とくにメイベルは長子だったから、自分がなんとかしなくてはいけないという気持ちもあったのだろう。母に代わって弟妹の世話をしながら、自分も街に立って、子供にできる「仕事」をした。

「街で、軍に入ればたくさんのお金を得られることや、当時始まったばかりだった養成学校の奨学制度などを知ったんだと思います。それから、父のような人は本来ならば、軍によって取り締まられるべきだということも。父の暴力からわたしたちを庇ってくれたのは、母ではなくお姉ちゃんでしたし」

貧しい家の子でありながら軍人学校に行くことを志し、弟妹を守りながらそれを成した。学校に行っているあいだに弟妹らが父から暴力を受けることのないように、家の中に上手に隠れることと、可能ならば「働き」に出ることを教えた。そうしてメイベルは、ずっと狙っていたのだ。――自らが軍人になり、父を自力で抑え込んで、捕まえることができるようになる日を。自分の手で家族を救うことを。

「家庭内暴力は、軍に訴えてもなかなか改善されることがない。むしろ中途半端に通報だけするようなことでは、もっと酷くなる。そういう現実もあったんだと、今になって思うんです。だからお姉ちゃんは自分で父を捕まえることにこだわり、……軍に入隊してすぐに、実行したんです」

「実行? でも、そんな権限、新人には……」

「軍人学校を出た即戦力ですから、全くないというわけではなかったみたいです。ただ、勝手に行動したから、お姉ちゃんの実績にはなっていません。それどころか謹慎処分になりました。寮に入る前だから、イリスさんとはまだ会ってないですね。フィネーロさんは知ってるかも」

他人の家庭の事情だから、フィネーロは何も言わなかったのだろう。メイベルとは軍人学校時代からの付き合いだから、知っていてもおかしくはない。今でもメイベルを最も理解しているのは、たぶんイリスでもルイゼンでもなく、彼だった。

「……でも、ベルは家族を助けられたんだよね。お父さんを捕まえることは、できたんだよね」

「はい。お姉ちゃんを止めに来た上司の人の手柄にはなりましたけど、お父さんは刑務所に入ることになりました。わたしたちは知らなかったんですけど、よそでも暴力を振るったり、盗みをしたり、余罪がいろいろ見つかったみたいです。……ただ」

「ただ?」

「母は、いつか優しい父が戻ってくると信じていましたから。軍を動かした、というより自分で父を捕まえようとしたお姉ちゃんの行動を、認めませんでした」

暴力を振るい、家族を不幸に貶める者は、メイベルが自分の力をもって排除しようとした。そうして家族は救われた。それでめでたし、になれば良かったのだが、現実はそうではなかった。謹慎を言い渡されて家に帰ってきたメイベルに母がかけた言葉を、カリンはよく憶えている。

――なんで軍人になんかなったの? どうしてお父さんを売るような真似をするの? あなたは、なんて娘なの……!

それを聞いたメイベルは、何を思っただろう。自分は間違ったことはしていないと、初めのうちは訴えたそうだが、母が耳を貸さないとわかってからは何も言わなくなった。ぼろぼろになってしまった生活をなんとか改善させるために、軍をやめることはしなかった。今ではメイベルの稼ぎで、小さかった弟や妹は学校に行くこともできるようになっている。そうして立て直された家族を、イリスは見ていたのだった。

「わたしも、お姉ちゃんに言われたんですよ。学校に行けって。そうしたら、いい仕事に就けるようになるからって。……イリスさん、昔うちに遊びに来たときに、聞いてますよね」

「うん、憶えてる。だからカリンちゃんが軍に入るなんて思ってなかった。そういえばあのとき、カリンちゃんは商店街にあるお店の手伝いをしに行ってたんだっけ」

「はい。お姉ちゃんのおかげで、表立って働けるような身なりができるようになっていましたから。お姉ちゃんが家を離れているなら、二番目のわたしがしっかりしなきゃって思って。軍に入ったのもそうです。十歳になったら入隊して、お姉ちゃんみたいに頑張るんだって、思ってたんですけど……」

今日ので、がっかりされちゃいましたね。そう言うカリンの目に、また涙が溜まる。イリスはハンカチを取り出そうとして、さっきルイゼンに預けたことを思いだした。あれはどうしたのだろうと思っていたら、ちゃんとカリンが持っていた。

「あの、これ……」

「そのまま使っていいよ。なんだったらあげちゃう。義兄が会社で配ったもののサンプルだってくれたものだから、同じのいっぱい持ってるんだよね。安心と信頼のフォース社が扱ってるものだから、長く使える優れものだよ」

「あ、そうなんですか……。でも、洗って返します。貰ったら、またお姉ちゃんに怒られちゃいます」

頭の中が混乱していて余計なことまで口走ったイリスに、しかしカリンは涙を拭きながら微笑んだ。そんな彼女を見ていて、そしてメイベルが話したがらなかった過去を知って、今日の事件の裏側が、イリスにはほんの少しではあるが見えてきていた。

ただ、メイベルは絶対に真相を話さないだろう。その確信も強くなった。こういうことは話さない人物なのだと、こちらも付き合う中でわかってきている。こちらが察して動くしかないのだ。メイベルには、彼女にあとで怒られるくらい、余計なおせっかいをしておくくらいがちょうどいい。

「実の妹に言うのは失礼かもしれないけど、ベルは素直じゃないし口も悪いよね。今日のこと、たぶんカリンちゃんに怒ったんじゃないよ」

「いいですよ、気を遣わなくて。それとイリスさんは、お姉ちゃんから聞かなかったことは、今後も知らないふりをしていたほうがいいです。お姉ちゃんと仲良しのままでいてほしいから」

「仲良しでいたいよ。でも、同じくらいベルとカリンちゃんにも仲良しでいてほしいの。ベルは本当に、カリンちゃんに会うの楽しみにしてたんだから」

そのためには、どうしたらいいのだろう。メイベルもカリンも、みんなが幸せになれる方法はないものか。考えだしたイリスに、カリンは笑顔を作って言った。

「イリスさんは悩まなくていいんです。お姉ちゃんは、わたしが弱いから、軍人として役に立たないから、怒ったんです。つまりわたしのせいなんです」

「違うよ。ベルは……」

「わたしが強くなれば、いつかはお姉ちゃんも認めてくれるはずです。わたしは諦めませんから、大丈夫ですよ」

そう言いきられてしまっては、こちらは何も返せなかった。

カリンはきちんと礼をして医務室を出ていき、入れ替わりに軍医が入ってくる。ずっと廊下に立っていたせいか、顔色が少し悪い。

「ユロウさん、大丈夫?」

「平気だよ。……立ち聞きしてしまって申し訳ないけど、メイベルちゃんとカリンちゃん、結構面倒だね。でも僕にも覚えがあるよ、ああいうの」

「どうやって解決したらいいですか? カリンちゃんはユロウさんみたいに、年上に遠慮なく毒吐いたりとかできないよ」

「言うなあ。大丈夫、毒なんか吐かなくても、当人たちで解決できる問題だから。雨降って地固まる、ってね。前よりもっと良い関係になれるかもしれないよ」

君とニア君だってそういうことがあったでしょう。そう言われても、イリスにはいまいちピンとこなかった。

 

メイベルは本当にカリンと口をきこうとしなかった。仕事上必要なことだけを一方的に告げるか、書き出して渡すかするくらいで、それ以外は徹底的に無視しようとした。

イリスは何度も口出ししようとしたが、そのたびにカリンと、フィネーロにも止められた。ルイゼンは「やりにくいけど、これ以上ややこしくするのも得策じゃない」と言う。たしかにことが深刻になって表に出るほど、カリンには不都合なことになってしまう。上司としては妥当な判断だった。

寮に帰れば、メイベルはあからさまにカリンの話を避けようとする。結果的にイリスとまともに喋らなくなった。取り付く島もない。こっそりカリンが滞在している部屋を訪ねると、実家に帰っているという。本当に一人で帰ってしまった。

このまま一週間が過ぎてしまうのはだめだ、と思いつつもイリスにはどうにもできず、ついにカリンの研修は最終日を迎えた。

「カリンちゃん、今日で最後だな。事務仕事が完璧だから助かったよ」

「ありがとうございます」

「わたし、事務苦手だから、カリンちゃんがいてくれて良い一週間だった。こんなに気が利く良い子、本当にうちの班員になってくれたらいいのに」

「イリスさんにそう言っていただけると、嬉しいです。わたしも憧れの人と一緒に仕事ができて、この一週間、本当にいい経験になりました」

カリンを褒めまくってから、イリスとルイゼンはちらりとメイベルを見る。何の反応もない。フィネーロが小声で「今は期待しても無駄だ」と言った。そうかもしれないが、歯痒い。だって、イリスの認識では、カリンが一番褒めてもらいたい人は、カリンの一番の憧れは、メイベルに違いないのだ。

「ゼン、どうしたら……」

「仕方ないだろ。いつか自然に修復するのを待つしかない」

「えー……」

メイベルが折れれば一気に解決しそうだが、とうとうそんなそぶりは見せてくれなかった。外野がなんとかできることではないのかもしれないが、それでも気になるものは気になるのだ。

イリスが気にしてカリンの話題を出す限り、メイベルはイリスとも話をしてくれないだろう。

「あのな、イリス。全部の家族が完全にうまくいくなんてことはないって、お前もわからないわけじゃないだろ」

一人で黙々と仕事を続けるメイベルと、フィネーロに教わりながら書類をまとめているカリンをこっそり眺めながら、ルイゼンは言う。

「ましてお前が介入して絶対にうまくいくなんてこともないんだから。たまたまうまくいったほうが特殊だと思え」

「そうかもしれないけど……」

いつか、似たようなことを言われた覚えがある。そして傲慢になってはいけないと、心に刻んだつもりだった。……つもり、だったのだろうか。イリス自身は一般的に見ても恵まれている家庭に育ち、それが理想形だと思い込んでしまっていると、そういうことなのだろうか。理想を押し付けるのは、良くないことだとわかっているはずなのに。

任務に使った資料を軍設図書館に戻しに行かなければならないのだが、メイベルとカリンが気になって、なかなか動けない。資料は重いので、イリスとルイゼンが運ばなければならないのだが。

「ほら、さっさと行って戻ってくるぞ。もしかしたらそのあいだに、フィンがなんとかしてくれるかもしれないし」

「それができるフィンの手腕も見てみたいよ」

バインダーが詰まった段ボール箱を渋々持ち上げ、事務室を出ようとした、そのときだった。内線をとった大佐が、部屋のものに早口で呼びかけた。

「緊急の通報が入った! 傷害事件だ! すぐに動ける者はいるか?!」

ルイゼンが抱えていたダンボール箱を置き、大佐のもとへ駆け寄る。現場の住所を告げられた後に、こう続いた。

「通報してきたのは子供だったようだ。父親による家庭内暴力から、なんとか逃れてきたらしい。急いでくれ」

がたん、と大きな音がした。椅子が倒れたのだとわかったときには、そこにいたはずの人物は部屋にいなかった。イリスの横を素早くすり抜け、彼女は真っ先に走っていったのだった。

「ベル……!」

イリスもダンボール箱を放りだし、走りながら聞こえた住所を頭の中で復唱する。後を追ってきた足音は三人分で、振り返るとルイゼンとフィネーロ、そしてカリンの姿があった。

「カリンちゃん、危ないよ?!」

先日は事件現場に偶然居合わせたが、今回はもう内容がわかっている。ひったくり犯に突き飛ばされて動けなくなってしまった子が、まさに過去の自分と重なるような事件に関わって、大丈夫だろうか。そう思ったのだが。

「今はまだわたしも、この班の一員です!」

そう言われては、置いていけなくなってしまった。リーダーであるルイゼンにも、おそらくは過去のことを知っているはずのフィネーロも、彼女に留守番をさせる気はないようだ。

この声は、メイベルに届いただろうか。まったく振り返らないけれど。

現場まではそう遠くない。司令部を出た五人は、そのまま走った。現場の近くに公衆電話があり、フィネーロだけはそこで立ち止まった。指示された場所には、このあたりでは珍しくない形の一軒家があり、中の音は聞こえない。メイベルが乗り込もうとしたのを、イリスはぎりぎりで腕を掴んで止めた。

「離せ! 現場はここだろう!」

「静かに。ちょっとは中の状況がわからないと、最悪、誰も助けられないよ」

いつもならそうだ。だが、追いついたフィネーロが首を横に振った。

「いや、すぐに入るぞ。公衆電話付近に血痕があった。通報してきたのは子供だというが、その姿は見当たらない」

それを聞くや否や、メイベルはイリスの手を乱暴に引き剥がして、玄関へ突進した。鍵がかかっていて開かないとみるや、銃を構える。

「待って、戸口に誰かいたら」

「それはない。絶対に奥に引きずり込んでいる」

はたして、メイベルの判断と狙いは正しかった。鍵を壊して戸を開けると、家の奥へと血の跡が続いている。それを真っ先に追ったのはメイベルで、次は。

「カリンちゃん?!」

「おい、イリス、止まってんな! 行け!」

ルイゼンの声で我に返り、二人を追いかけて家に上がり込んだ。どこに人が、と捜し始めたその瞬間、男のものらしい低い呻き声が聞こえた。そちらへ向かうと、メイベルが体格のよい男を床に倒し、カリンが座り込んで男の子を抱きしめていた。男の子の額は、ちらりとしか見えないが、血に塗れている。

「カリンちゃん、その子」

「頭を切っているみたいです。意識はあります」

額の傷は、思ったより深くはなさそうだ。だが、体のあちこちに打撲や火傷の痕があり、痛々しい。おそらくは床に伏したこの男が、何度もこの子を痛めつけてきたのだろう。

「なんだお前ら……ここは俺の家だぞ! ……ひっ」

喚く男は、メイベルに銃口を突きつけられて、小さく悲鳴をあげた。

「誰の家だって?」

低く囁くメイベルの指は、引き金にかかっている。かちゃん、と金属音がした。

「自分でぶち壊しておいて、そんな口が叩けるのか。二度とふざけたことが言えないように、この獣以下の脳みそをふっ飛ばしてやる」

「ベル、ちょっと……」

意識のある子供の前だ。イリスが慌てて止めようとしたとき、普段は柔らかな声が厳しく言った。

「お姉ちゃん、子供の前だよ」

「……そうだったな。すまない」

カリンの言葉で、メイベルは男から銃口を離す。同時に力も緩めたのか、今を好機と見た男が勢いよく起き上がって、メイベルを床に倒した。

「……っ!」

「お姉ちゃん!」

「さっきなんつった、お前。女が偉そうにしやがって!」

男は怒鳴り、メイベルに襲いかかろうとする。だが、その前にイリスがあいだに入り、男の顔を両手で押さえ、目を合わせた。

「おじさま、少し大人しくしててよ。そうすれば怪我なく、軍に連れて行ってあげられるから」

イリスの眼は相手の体調や精神に影響を与える。普段は調整して隠している能力だが、適切に使えば、体格差のある相手からも力を奪うことができる。男から力が抜けたのを確認し、床に転がして、メイベルの無事を確認した。

「怪我は……してないね。さすがベル」

「いや、イリスこそ。見惚れるよ」

「お姉ちゃんたち、静かに。この子、何か言いたそう」

男の子の額の傷をハンカチで押さえながら、カリンは耳をすませている。イリスとメイベルもそれに倣うと、彼の声が途切れ途切れに聞こえた。

「お……かあ、さん、は……?」

「お母さん?」

他の部屋にいたのだろうか。イリスが捜しに行こうとすると、フィネーロがやってきた。

「あ、フィン。この子のお母さんが」

「ああ、それを伝えに来た。リビングで女性が倒れていたので、救急車を呼んだところだ。意識はある」

「そっか……」

ホッとしたイリスの後ろで、メイベルが息を吐いたのがわかった。

カリンは男の子に、優しく語りかける。

「お母さんを守ったんだね。勇気を出して、軍に連絡をしてくれたんだよね。よく頑張った。君は偉いよ」

男の子が泣き笑いし、メイベルが目を見開いていた。どちらも、穏やかな笑顔のカリンを見ていた。

 

「一週間、お世話になりました」

事件の処理はイリスたちが行なうことになり、カリンは予定通り、その日の夕方に中央での仕事を終えた。これから列車に乗って、西方司令部へ帰ることになる。到着するのは夜中だ。

「カリンちゃん、最後にお手柄だったね」

「そんな、わたしは何も。お姉ちゃんが先に行ってくれたから、怖くなかったんです」

「何を言ってる」

照れるカリンだったが、メイベルの声に姿勢を正した。緊張した面持ちで、しっかりと姉を見る。

「……まだ、軍人としては情けないよね。わかってるよ」

もっと頑張るから。たぶん、そう言おうとしたのだ。けれどもメイベルが先に続けたから、聞こえなかった。

「現場において適切な行動をとった。よくできたな。……役立たず、は撤回する。許してほしい」

「お姉ちゃん……」

メイベルが目を細める。わかる人にしかわからない笑顔は、妹にはちゃんとわかっていたようだった。嬉しそうに頬を染め、姉に抱きつく。

「今度は、一緒に帰ってよね。お母さんも待ってるよ」

「そうか。じゃあ、また来いよ」

本当は、メイベルはカリンを軍に入れたくなかったのだろう。自分で自分の身を守れそうだと思えなくて、それではとても軍に居続けることなんてさせられないと思って、辛辣な言葉が出たのだと、イリスは解釈している。彼女が怒っていたのはカリンにではなく、カリンを突き飛ばした男と、それを防ぐことのできなかった自分自身にだ。

ただ、やはり本人は弁解しないだろう。カリンに謝っただけで十分なのだから、それ以上は聞き出さなくていい。

それほど大切に思っている妹に、メイベルもまた救われたのではないか。カリンが男の子にかけた言葉は、もしかしたらいつかのメイベルが欲しかったものなのかもしれない。カリンもずっと、幼いメイベルにそう言いたかったのかも。

そんな都合のいい想像をしながら、イリスはカリンを見送った。次にまた会うときは、もっと立派な軍人になっているだろうと思って。メイベルもきっと、そう思っている。

「ねえ、ベル。カリンちゃんさ」

「しばらく見ないうちに強くなってたな。……もう、私には面倒を見きれない」

まるでニュアンスの変わった台詞を聞いて、イリスはニッと笑った。メイベルも目を細めた。

無力な少女はもういない。