エルニーニャ軍の訓練は、様々なところで行なわれる。練兵場、市街地を想定した専用施設、平地、森、川べりに山。海にはほとんど縁がないが、夏に避暑を兼ねてプールで救助訓練が行なわれることがある。

軍で山を一つ、訓練用に持っている。一般人は基本的には入れないことになっているが、時折侵入者や迷い人が現れるので、軍の者が頻繁に見回りをしている。ごくまれに、軍の最大の敵ともいえる裏社会の人間が、そこで捕まることもある。

見回りが行なわれないのは、天候により地盤が緩んでいる可能性があるだとか、危険が想定される日くらいなものだ。だが、そういうときに限って、部外者が巻き込まれているというケースもある。したがって、天候悪化のあとの見回りは、通常より注意しなくてはならない。

「おい、足元気をつけろ。……そこ、遅れるな!」

「気をつけて遅れるなって、無茶言わないでくださいよ」

「無茶は承知の軍だろう」

例によってバケツをひっくり返したような雨が降った翌日、山中の見回りが慎重に行なわれていた。ぬかるみに足をとられながら歩く隊の、その先頭が、山を下りる途中でふと足を止めた。

ほぼ土色の地面に、ぽつりと鮮やかな色がある。植物や茸の類ではない。人工的な、明るい青色。よく目を凝らせば、それは靴の形をしていた。軍支給のブーツではない。それに、小さい。

この国の軍は十歳の子供から入隊が可能だが、それにしてもあれは。

「待て! この付近に人はいないか、確認するぞ!」

「さっき見たじゃないですか。俺たち以外に誰がいるって……」

「いいから! 子供の姿を捜すんだ。泥で汚れていたり、怪我をしている可能性もある!」

見回りから帰るのが遅れる、と司令部に連絡をとり、彼らは捜索を開始した。

 

 

大陸の中央にして大部分を占めている、エルニーニャ王国。現在の土地は、幾度も施行された統合政策により、かつて周辺にあった小国や、他の大国との交渉で得た地域によって構成されている。かつて大陸戦争で、人々が暮らすためにと確保した土地は、もっと狭かった。

建国から、生活のために法と街を整備し、国が栄えるまで。そんな歴史の中で、商売をする者も動き、富を得てきた。

この国の大手家具会社、フォース社もそのひとつだ。有名優良企業として、多くの商品と雇用を生み出し、庶民から貴族、王宮までも味方につけている。その現社長は若い頃軍人であったが、引退して家業を継いでからは、最初からそのための修行でもしていたかのように辣腕を振るっていた。実際、彼は軍に入るまでは、そういう教育を受けていた。そして引退後は、商業の世界に生きるために猛勉強をしたのである。

――という親を持つのが、ルーファ・シーケンスだ。彼も二年ほど前までは軍人であり、しかしながらこの国の軍人の退役時期が三十歳前後であること、いつかは親の仕事を継がなければと思っていたことから、自分も会社勤めになった。

勤務先こそ親の会社ではあるが、軍以外の仕事についてはまだ素人寄りだ。いくら必死で勉強しても、他の者に追いつけない部分がある。つまり、経験だ。それを着実に積んでいくために、ルーファは研鑽の日々を送っている。

「軍ほど簡単に伸し上がれるとは思わないことだな。……まあ、軍も簡単ではないが。昇進は早かったから、しばらくはこのなかなか上に行けない世界に戸惑うだろう」

入社時に親が告げた言葉は、会社で働くようになって二年経った今、痛感している。だがこれはルーファだけの感覚ではなく、この国の多くの人間が感じることでもあった。

「軍では将官だったのに、退役したら一番下っ端だぜ? やってられるかよ」

同じ境遇の同僚がぼやくのを、ルーファは苦笑しながら聞いていた。そう思わなかったことがないとは言いきれないが、社長の息子がそんなことを口にすることはできないのだった。

「シーケンスは将来が約束されてるからいいよ。そのうち役員になって、社長になっちゃうんだろ」

「いや、そうとは限らないよ。俺がどうして平社員から出発したかって、それは社長の意向だからだ。ちゃんと経験積んで、仕事ができるようになって、その上で跡を継がせるかどうか考えてやるって。つまり俺以外に良い奴がいたら、そっちに役目がまわることも可能性として十分にあるんだよ」

やっかみを避けるため、というのもあっただろうが、嘘を吐かない親が言っていたことだから、これが本当のことなのだろう。ルーファが真面目に仕事をしなければ、親――社長は認めない。

「じゃあ、オレが社長になれる可能性もあり?」

「お前が真面目にちゃんと仕事をして、認められればな。実力主義だぞ、社長は」

その人に育てられたから、誰よりもわかっているつもりだ。だが、だからこそ、自分が努力して、この大会社をまとめられるような人物にならなければと思う。親の顔に泥を塗るわけにはいかないのだ。

 

仕事を終えて帰る先は、実家ではない。実家は豪邸で、使用人も多く雇っている、至れり尽くせりの環境なのだが、ルーファはそれに甘んじることができなかった。と、いうのも。

「ただいま」

「ルー、おかえり」

一般的なファミリー向けのアパートの一室で、パートナーは待っていてくれる。元軍人、現画家であるニア・インフェリアと一緒にいたいがために、ルーファはこの暮らしを選んだ。いつまでも実家に甘えて、ニアもそれに巻き込むなんて、それでは誰のためにもならない。

「おかえり、ルーファ。先に飲んでたぞー」

「ルー兄ちゃんおかえり! わたしも先にご飯食べてた!」

「……お前ら、また来てんの? イリスはともかく、レヴィは仕事しろよ。大総統閣下様だろ」

ただ、実家ならばこのような事態にもならなかっただろう、とは思う。

ニアと二人暮らしをしているはずの部屋には、毎日のように来客がある。軍人時代の同期で友人であるレヴィアンス・ハイルと、ニアの実妹であるイリス・インフェリア。この二人が来ると賑やかだとニアは喜んでいるが、ルーファとしてはもう少し、ニアと二人きりの時間が欲しいのだった。

「仕事はちゃんと終わらせて来てる。面倒な案件続いてて、毎日忙しいんだよな」

「だったらもっと忙しそうにしろよ……」

「わたしもレヴィ兄手伝ってたけど、今度こそ死ぬかと思ったね。あの書類の量ときたら、思い出すだけで眩暈がするよ」

「イリスはもうちょっと断っていいんだぞ。大総統補佐っていうけど、まだ中尉だろ」

「そうだよ。レヴィはもっと将官を働かせることを考えないと。イリスが過労で倒れたら訴えるからね」

ルーファが喋りながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めているあいだに、ニアは夕飯を用意してくれる。何かハーブらしき匂いがするので、今日もアーシェあたりが何か差し入れてくれたのだろう。大文卿夫人アーシェ・ハルトライムは、仕事と子育てで忙しいはずなのに、誰も料理ができる者のいないこの家に頻繁におかずを持ってきてくれるのだった。ちなみに、ハーブ系ではないソースの匂いがすると、グレイヴが何か持ってきてくれたのだなと思う。グレイヴ・ダスクタイトは、こちらも仕事と子育てを両立させている。そろそろヴィオラセント家に籍を入れ直すだとか言っていた気もするが、それはどうなったのだろうか。

「お兄ちゃん、わたしは倒れないから安心してよ。それよりルー兄ちゃん、最近仕事忙しくない? 今、軍で備品の入れ替えしてるから、受注多いでしょう」

考え事をしていたら、不意に話を振られた。ああ、と返事をして席につくと、やはりハーブで香味をつけた鶏肉があった。「アーシェちゃんが」とニアが言うので、予想はあたっていたようだ。

「いただきます。……その、軍からの受注だけどな、数字おかしくないか? ちゃんと確認してるのかよ、大総統」

「今はプライベートだから大総統じゃないって。ちゃんと確認して書類通してるから、大丈夫だと思うんだけど。……やっぱり一部の将官が上乗せしてるのかなあ」

「ほら、ちゃんと見ておかないからそういう疑いがでる。私的流用させないように、しっかり管理しなきゃ駄目じゃない」

「うわー、早く将官になりたいなあー。そうしたら、ずるいことなんか絶対にさせないのに」

「イリスが手を出すまでもなくレヴィがちゃんとしていればいい話だろ。……うん、美味い。これもアーシェのところの自家製ハーブ?」

「みたいだね。双子ちゃんが摘むの手伝ってくれるって言ってたよ。いいね、子供がいるって」

仕事の話と、それを和らげるように食事の話。そしてまた、仕事の話。いつもこの繰り返しだ。軍を辞めても、軍との関わりは切れない。この国がそういう社会であり、ルーファが元軍人で、友人と義妹(といっていいものか)が現役軍人である限り、たぶんこの話は終わらないのだろう。

夕飯をきれいに平らげ、ごちそうさま、と言ったとき、ニュースが聞こえてきた。

「――軍所有の山林で捜索が続いています。引き続き情報提供を求めているとのことです。心当たりがある方は、司令部に情報をお寄せください」

いつのまにか、レヴィアンスとイリス、そしてニアの表情も硬くなっていた。ルーファもこの事件を不安に思っているので、客先を訪問した際に、世間話のひとつとして持ちだして、情報を集めようとしている。だが、今のところ収穫はない。あればすぐに軍に連絡している。

軍が訓練用に所有している山で、片方だけの子供の靴が見つかったのは、昨日のことだった。一昨日の雨で地盤が緩くなっている。万が一土砂崩れに巻き込まれていたら。その懸念のもと、山での捜索と、行方不明者の情報収集や整理が行なわれていた。

人員の割り振りは、時間、気候や地盤の条件などをもとに決められている。今日の午前は、イリスも捜索に加わったらしい。

「靴があった場所を中心に捜してるんだけどね。ゼンたち男は、穴掘ったりもしてた。わたしも他に何かないか目を凝らしてみたけど、手掛かりはなし。犬かなにかが、どこかから拾ってきた靴を置いていったんじゃないかっていう話も出てる」

「明日何も見つからなければ、そういうことになりそうだな。ニアとルーファはどう見る?」

「敷地内に子供が入り込んでたって話はたまにあるから、心配だよね。靴に獣の痕跡はあったの? ていうか、その獣に襲われた可能性もあるよね」

「周辺にそういう形跡はあったか? ちゃんと調べてるのかよ」

「報告にはあがってきてないな……。靴は科学部にまわしたけど、結果はまだ出てない。出たとしてもオレまで情報が来るのが遅いんだよな。犬が運んできた説は、まだ信じられるような段階にない」

「周辺は、今度はもうちょっと範囲を広げて調べてみるよ。わたしは明日も出動するから」

現場の状況も、寄せられる情報も、決め手に欠けるようだ。ぎりぎりまで調べるけどね、とレヴィアンスは言うが、いつまでもその件に人を割いていられないというのが現実だということも、軍人であったルーファにはわかってしまう。ニアも同じことを考えているようだった。

捜索のために早く帰る、というレヴィアンスとイリスを見送ってから、ルーファは茶を淹れて、ニアと話をした。

「本当に子供が迷い込んだんだろうか。無事ならいいんだけどな」

「そうだね。……あの山は小さいけど、子供には広大に見えるから。ある程度訓練してないと、軍人でも迷子になるし」

「ニアも迷子になったっけな、昔。レヴィと勝手にどっか行って」

「ああ、あったね。あのときは引率してたダイさんにすごく怒られたっけ」

「俺も心配したんだからな。アーシェなんか泣きそうになってたし、グレイヴはそれ見て焦るし」

自分たちにとっては懐かしい思い出だ。もう過ぎたことだから。無事に帰ることができたから。でも、あの靴の持ち主は、どこにいて何をしているのかわからないのだ。今、この瞬間も。

「一番良いのは、靴を失くした子が普通に元気にしてて、軍に連絡をくれることかな」

「そうだな。俺も営業のとき、心当たりないか訊いてみるよ。今日も何か情報ないかって思ってたんだけど、何もなかったからな」

「ルーってば、全然軍にいた頃の癖が抜けてないね。あのまま軍にいたほうが良かったんじゃないの?」

ニアが微笑む。嬉しそうなのと、心配そうなのとが、混じった笑みだ。

「いや、一般市民にしかできないことだってあるだろ。それに、いつかは親の仕事を継ごうって、ずっと前から決めてた。いつまでも軍にいたら……それこそ、良くない将官の一人になってたかも」

「ならなかったよ。だって、もしそうなら真っ先にレヴィに使われるはずだもの」

「それもそうか」

軍人なら、山に直接入って捜しに行けた。それを考えなかったわけではない。でも、今のルーファはそうではない道を選んだのだ。できることを、するだけだ。

 

全部の仕事を経験しろ。それが跡を継ぐための条件の一つだ。そういうわけでルーファは、経理もやれば営業にも行き、その他一般事務もこなす。部署をまたいで業務にあたり、社長の息子、という肩書以外の部分でも存在を覚えられている。

そもそも名乗る姓がフォースではなくシーケンスなので、社長の子だと気づかない者も、とくに勤務歴がさほど長くはない人々には多い。家庭が多少複雑なのもたまには役に立つものだ。社長の子というだけで態度を様々に変えてくる輩もいるのだから。

だがそこは、軍にいてもそう変わらない。将官だからおもねる、大総統の子だからと、名のある軍人と繋がりがあるからと、全く関係のない者から贔屓や嫉妬を向けられる場面は、よくあることだった。ニアやレヴィアンスと付き合いがあるルーファには、はっきりと見えていた。

今はルーファ自身が、当時の彼らの立場だ。社長の子はいいよな、という言葉には、良い意味も悪い意味も含まれる。社長の子だから何をしても将来が約束されている、と勘違いしてほしくはない。こっちはこっちで、その社長に迷惑をかけないよう必死なのだ。

だがその気持ちをうっかり口にしてしまうと、何かの機会に社長本人から叱責が飛ぶ。本当に必死になるべきはそこじゃないだろう、と。客を相手にするのだから、そちらに目を向けろと、至極当然のことを言う。――それは、軍と一緒だとも。

いつかニアと約束した、「人を助ける軍人になる」というそれが、軍人ではなくなっただけのこと。だが、軍人時代もそうだったが、それはなかなか大変なことなのだ。

「外出てきます。店舗じゃなく、個人宅ですけど」

「ああ、例の貴族家だろ。時間も時間だし、長引くだろうから、終わったら直帰していいぞ」

仕事によってはそういうこともある。どれくらい時間がかかるかはわからないが、現場から直帰はありがたい。ちょっと癖のある客なのだ。

ルーファが向かったのは、とある貴族家。貴族認定されている家には貴族条項というものが適用されており、それに違反すると、貴族として得られる特権などが剥奪される。一時期には一気にこの貴族条項違反が増え、国内の貴族家は減った。他にも、貴族家は悪人にその財産などを狙われやすく、いつ突然滅ぼされてもおかしくないという危険にさらされている。

かつては狙われた貴族を守ったり、起こってしまった事件を解決するのがルーファの仕事だった。ときには貴族を取り締まることもあった。だが、今は貴族家に課されたつとめをサポートする立場にある。貴族家はその財産で、庶民を助けなければならない。持てる者は与えよ、という精神が、貴族条項に反映されているのだ。それは多くの場合、財産のうち何割かを慈善活動に使うということで、クリアされることになる。

ルーファが担当する貴族の客は、新しく児童養護施設を作ろうとしていた。そこで使う家具一式を、フォース社のものにするつもりなのだとか。正確には施設をつくるならうちの家具を使いませんか、という営業をかけて、それがうまくいきかけているのだ。

「こちらの製品なら角に緩衝材を使っているので、子供がぶつかっても怪我をしにくく、家具自体も倒れにくいです。高さも調節できますから、フリースペースに本や遊び道具を置くのに良いかと」

「さすがにフォース社の製品はバリエーションが豊かだね。……おや、こっちの棚はどうなんだ? デザインが美しいじゃないか。美しいものを見て育った子供は、感性が豊かになる。私はこちらを採用したいね」

「彫りものがきれいですからね。これもオプションでより良い事故防止用の加工ができます」

「シーケンス君は随分と安全性を推すねえ」

客は苦笑いをしたが、ルーファが安全面を気にするのは実体験からのことだ。自分自身、幼い頃に今の親に引き取られるまでは、施設に入っていた。そこで、喧嘩をして家具にぶつかり、怪我をした子供を見てきた。それ以外にも、子供が危険にさらされる可能性というのはいくらでもある。こちらで防げるものなら防ぎたい。

「安全性能だけにこだわっているわけではありませんよ。こちらは丸みがあるので、見た目にも実用面でも優しいです」

「ああ、それもいいね。じゃあこれと、さっきの棚とを発注しようか」

「ありがとうございます」

やっと発注を決めてくれたことにホッとしたルーファは、ふと、客の座るソファの向こう側にある袋に目を留めた。透明の、大きなビニール袋。ごみが雑多に入っているその中に、鮮やかな青い色が見えた。それが子供の靴だととらえるまでに、時間はかからなかった。

「……お子さん、いらっしゃいましたっけ」

「子供? 私に実子はいないよ。だから施設を作って、子供たちを笑顔にしたいと思ったんじゃないか」

元の職業のせいかもしれない。どこにでもあるようなものだから、普通の人は気にも留めないかもしれない。けれどもルーファは、妙な胸騒ぎを覚えていた。ニュースで、心当たりのある方は連絡を、と呼びかける声とともに流れていた、写真を思いだす。山の中で見つかった、泥だらけのわりに新しそうな、その靴を。

軍人時代と、自分が引退してからも現場に残った仲間から得た、様々な事件の知識が頭の中を駆け巡る。子供が関わった事件も何件かある。――もう自分はそれらを取り締まれる立場にはない。だが市民として、情報を確認し、提供するくらいはできる。

「子供といえば、今、軍所有の山で子供の靴が見つかった事件が話題ですよね。立ち入り禁止ではありますが、入り込んでしまったんじゃないかって」

「知らんね」

あまりに早い反応だった。心配ですよね、などと続けるまでもなく、相手ははっきりと「知らん」と言った。施設を作ろうと思うくらい子供を気にしているのなら、この事件にも関心をもっていていいはずなのに。それとも、ルーファが気にしすぎているのだろうか。

「そんな話をしている場合じゃないだろう、君も仕事中なんだから」

「……そうでした。すみません」

謝りながらも、袋の中に見える青い靴から目が離せない。仕事の話の続きができない。そうしているうちに別室にいた奥方がやってきて、ごみ袋を持ち上げた。

「あなた、こんなところにごみを置いて……人目につくのに、恥ずかしいでしょう。捨ててきますわ」

「その人前でごみとか言うんじゃないよ。まあいい、捨てるのは任せた」

奥方に運ばれ、青い靴は視界から消えた。この近くの廃棄場はどこだったか、軍人時代に頭に叩き込んだ付近の地図を探る。

「それではシーケンスさん、頼みましたよ。一日も早く、子供たちを良い環境に置いてやりたいのです」

客が笑う。思わずその瞳の奥を覗き込みながら、ルーファも笑顔を作って返した。

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

その家を辞した後、ルーファが真っ先に向かったのは、ここから一番近い廃棄場だった。今日、この時間なら、直近に持ち込まれたごみはまだ放置されているはずだ。

――軍にいた頃の癖が抜けてないね。

思い出したニアの言葉に、そうだな、と小さく呟いた。

親に憧れ、その背中を見て、子供の頃から携わってきた仕事だ。すでにこれは、性になってしまっているのだ。

 

 

エルニーニャ王国軍中央司令部はまもなく通常業務を終えようとしていた。山の捜索は、本日分はすでに終了していて、入り込んだ子供などいなかったのではないかという結論に達しようとしていた。もっともそれはトップたるレヴィアンスの意向ではなく、仕事が詰まりに詰まっている将官、佐官たちの判断だったが。彼らが忙しいということは当然レヴィアンスも忙しいのだが、この件についてはどうにも気になることがあって、捜査の打ち切りを決めかねていた。

「しかし閣下、山の捜索には、もうこれ以上人員を割けませんよ。せめて明日からは縮小しては?」

「今日の時点でかなり削ったのに? どうにも気になるんだよな、あの靴……山に入ったにしてはきれいすぎるというか……」

「泥がついていたじゃないですか」

「歩いて付いた泥じゃなさそうだって、科学部も言ってる。実際、靴底はほとんど汚れていなかったわけだし」

正補佐と問答をしていると、割り込むように内線が入った。口をとがらせながら電話をとると、困ったような声がした。

「山捜索についての情報提供だそうですが……閣下と直接話がしたい、と」

「オレと? 相手はなんて名乗ってる?」

「ええと、シーケンスと言えばわかる、と」

レヴィアンスの知っているシーケンス姓の人間は二人いる。一人は薬屋で、もう一人は元同僚だ。とりあえず繋ぐように指示をし、少しの間があった後に、昨夜も聞いた声がした。

「レヴィ、突然悪い。調べてほしいことができた」

「何だよルーファ、情報提供じゃなかったの?」

「情報提供になるといいんだが……今から言う住所の近辺で、最近おかしなことがなかったか調べてほしい。たとえば、誰かの姿が見えなくなったとか、逆に見慣れない人が訪ねてきたようだったとか」

そうしてルーファは、住所を伝えてきた。それと調べる内容をメモして、その下に「インフェリア中尉にまわせ」と書いてから、正補佐に渡す。彼はすぐに大総統執務室を出て行った。急がなければ、終業時間になってしまう。

「調べる根拠は? 元軍人なら、それを先に言ってくれないと」

「ああ、そうだった。俺もちょっと焦ってて……。実は、山で見つかった靴と同じものを、うちの客の家で見つけたんだ。片方だけごみ袋に入ってて、今それを確保したところだ。山で見つかったのは左右どっちだっけ?」

「右だ」

「俺が見つけたのは左だった。ほとんど新品なのに、片方だけ捨てられてるって変だろ?」

ルーファは軍を辞めた人間だ。もう二年経っている。しかし十歳で入隊し、十六年のあいだ軍人として培ってきた勘は、未だに侮れるものではない。それを抜きにしても、今はもうこれに賭けるしかない、重要な情報だった。

「今、イリスに行くように頼んでる。ルーファはどこにいるのさ?」

「さっき言った住所に一番近い廃棄場……の近くの公衆電話だ。イリスたちを見つけたら声をかける」

「仕事はどうしたんだよ」

「ちゃんと終わらせたよ、お前と同じに」

電話の向こうで、少しだけ笑ったのがわかった。かつてともに現場に出ていたときに見せていた、緊張感のある笑みだ。だからレヴィアンスも、にやりとする。

 

「汚れを確認した時点で、自分で歩いてきたわけじゃないってわかってるべきだったよ。ていうかこんなに大事な情報を、なんでレヴィ兄もちゃんと教えてくれないかな」

「現場に来られなかったからだろ。担当してたのはあくまで佐官以下、指示は将官。科学部からの報告も、閣下にいくのは遅れたんだろうな」

文句を言いながら聞きこみ情報をまとめるイリスを、ルイゼンが宥めながら分析する。靴が発見された当日に、発見者たちが焦ってしまったということもあるだろうが、それにしても情報伝達が悪かったのは否めない。

イリスたちが住所のメモを受け取ったのは終業時間直前、聞き込みを開始したのは、完全に終業後のことだった。だが、もちろん事件性のあるものを放っておくわけにはいかない。それがこの国の軍人というものだ。

到着してすぐに、ルーファとは合流できた。が、状況説明をしてもらい、靴を受け取ってから、すぐに帰らせた。ごみの廃棄場に長い時間いたおかげで、臭いが染みついてしまっていたのだ。今日はもう職場に戻らなくていいというから、さっさと家で風呂に入るように、イリスが言った。ちゃんと「ありがとう、お疲れさま」と添えて。

「ルーファさんが訪ねたという家の、向かいの人の証言が一番はっきりしているな。見慣れない女性と子供……おそらく親子だろうと思われる人たちが、一昨日の朝に目撃されている。このあたりは貴族家が多いが、その人たちは貴族風ではなかった。しかし身なりは小奇麗だった……ということだったな」

「フィン、よく憶えたね。でもそれ以降、その人たちは目撃されていない」

「だが、この貴族家の主人の車が家を出て行ったのは、見た人がいる。山中見回りの前だな。貴族様のくせに、よほど冒険好きと見える」

「ごみから見つかった靴は、山で発見された靴とサイズが同じ。一組だった可能性はある。……とすると、この家をつついてみるしかないな」

大総統閣下の許可は下りている。貴族家の住人は逃れられない。何があったのか、きっちりと説明してもらおうではないか。

イリスたちはその貴族家に乗り込んだ。

 

 

帰宅して、ニアには会わずにすぐにシャワーを浴びたルーファだったが、結局は服の臭いを問い詰められて、事情を説明することになった。

ニアは話を真剣に聞き、それから息を吐いた。

「もし直帰が許されてなかったらどうしてたの。完全に仕事放棄だよね」

「そうだな。レヴィに冗談でも仕事しろなんて言えなくなった」

だが、後悔はない。少しでも真相究明に近づけば、いや、事件に全く関係なかったとしても、ルーファは自分の行動を間違っていないと思っていた。もちろん、正しくもなかったけれど。

あれから続報はまだない。イリスたちが、捜査を続けてくれているのかもしれない。終業直前に連絡をしたのは、少しだけ申し訳ないと思う。しかしかつての自分なら――実際は今でも――動かずにはいられない。人を助けたいと思う気持ちが先に立つ。

「いずれにせよ、今回みたいな場合は、ルーのお母さんも許してくれるんじゃない? 直属の上司にちょっとは怒られるかもしれないけれど、それだってルーは後悔しないでしょう」

「しないな、きっと」

「そうだよね。僕はルーのそういうところが好きだよ。さすが僕らの隊長」

そう言ってから、ニアが小さな声で付け加える。それから、僕の大好きなパートナー。それだけで今日一日が報われたような気がした。

そして翌日の朝、事件は急展開を迎えていた。ルーファが訪問した貴族家の主人が、殺人の容疑で捕まったのだ。仕事に遅刻しそうになるのも忘れて、ルーファは、ニアも、ニュースに集中した。

貴族家の主人は、浮気をしていたのだという。靴が見つかったあの日の朝に、浮気相手は子供を連れて、貴族家を訪れていた。親子は貴族ではなかったが、新しい服に新しい靴と、身綺麗にして彼のもとへやってきた。男が妻と別れて自分たちと一緒になってくれるよう、妻がいないところを見計らって話し合いをする予定だった。そもそも彼女らを呼び出したのは、男のほうだったのだ。

しかしそれは男の罠だった。これから慈善事業を始めるにあたり、クリーンなイメージを保ちたかった男にとって、子供のいる浮気相手は邪魔になってしまったのだ。彼は浮気相手を家で殺害し、その血を風呂場で洗い流し、死体を遺棄するために車に積み込んだ。

子供は一部始終を見ていた。拘束されていたが、一時はそれを解いて逃げ出そうとした。だが玄関で靴を履いたところで、男に捕まり、首を絞められて同じく車に詰め込まれた。靴はその時、左だけが玄関に落ちた。

軍に知人がいた男は、それを通じて、軍の所有する山のことを知っていた。見張りがいない時間帯、昔訓練用に造られた壕があるが今では点検もされていない、そもそも存在すら知っている者がほとんどいないということなど。もちろん部外者にそんなことを喋った者も処分されるだろう。とにかく遺体はそこに放り込まれた。子供のもう片方の靴は、そこへ向かう途中で落ちた。ぬかるむ山を、よく重い死体を担いで歩けたものだが、貴族の男は趣味で登山を含むあらゆる活動をしていたという。

ちなみに、当日に軍が見回りをするということは知らなかったようで、たしかに彼は「冒険」をしたのだろう。

――以上の顛末は、ニュースだけではなく、後のレヴィアンスからの報告で全容を知ることができた。

「子供に手をかけておいて、何が児童養護施設だ」

「ルーが気づいてよかったよね。もし気づかなかったら、もっと酷いことになってたよ」

「まあね。……子供が助かっただけでも、少しはましだったんじゃない?」

いつものようにアパートに来たレヴィアンスは、そう言って、酒の入ったグラスを傾けた。

子供は壕に放り込まれたあと、息を吹き返したのだ。だから事件のことを証言することができ、真相が明らかになった。イリスたちの追及だけではわからなかった部分を、子供はつらいだろうに、全て軍に話したのだった。

「でもね、その子お母さんと二人暮らしだったから、身寄りがなくなっちゃったんだよ。今は入院してるけど、そのあとは信頼のおける施設……たぶん昔レヴィ兄やルー兄ちゃんが入ってた施設になると思うんだけど、そっちに預けられる予定。十歳になってないから、軍にってわけにもいかないし」

イリスが神妙な顔をして溜息を吐いた。この結末は、ましではあっても、良くはない。一人の命が奪われ、子供の心には深い傷が残った。

ルーファは自分が施設にいた頃のことを思い出す。職員は良くしてくれたが、ルーファ自身が他人とうまく関われず、孤立した日々を過ごしていた。それを救ってくれたのが、今の親だ。

「……あのさ、その子に会うことってできないか?」

「ルーファが? ……ちょっと難しいかな。事件の状況説明は妙にはっきりしてたけど、そのあとは喋らなくなっちゃったんだよ。オレも行ってみたけど、大総統は軍の人間、軍といえばあの事件を思い出す、って感じで怖がられちゃって。子供に怖がられたの初めてだよ……」

「レヴィ兄、子供受けいいのにね。わたしは助けたときに一回会ってるけど、むしろそれが駄目なのかな、お見舞いに行ったら怯えられた」

「イリスでも駄目だったの? それはたしかに難しいね……」

しばらくはそっとしておいたほうがいい、とニアも言う。だが、ルーファは放っておくことができなかった。子供が退院を翌日に控えていたその日、仕事で外に出たときに、病院に立ち寄った。

来てはみたものの、会えないだろうと思っていた。だが、顔見知りの看護師に話を聞くと、どうやら今は庭にいるらしい。大きな中庭の、木の下にあるベンチに、黒髪の子供はぽつんと座っていた。

話しかけても答えないかもしれない、と看護師は言っていた。だがかまわずに、ルーファは子供の前に立った。

「ニール君、だね」

名前を呼ぶと、子供は顔をあげた。表情はない。金色の瞳も暗い。

「はじめまして。俺はルーファっていうんだ。……ええと、具合は大丈夫?」

尋ねると、俯いてしまう。それでもいい。それが彼の返事だ。

「……ニール君は、絵は好きかな。いくつか持ってきてみたんだけど」

鞄から、ニアの描いた絵――はがきサイズのものを譲ってもらった――を取り出す。彼に見える位置に差し出すと、少しだけ目を開いた。

「俺はあんまり絵に興味ある方じゃないんだけど、この人の描いた絵はすごく好きなんだ。見てると、懐かしいような、胸のあたりが温かくなるような、そんな絵。これは全部風景画だけど、人物とかも描くよ。どれもすごくきれいなんだ」

「……うん」

彼は小さく声を出した。そして、絵をそっと手に取り、見つめた。花でいっぱいの、野原の絵を。しばらく見つめて、そして、そこにぽたりと雫を落とした。

「……来年になったら。一緒に行くって、約束してたのに」

涙声で言うそれは、母との約束だったのだろうか。こんな景色を、見に行こうとしていたのだろうか。でも、その人は、もう。

「なんで……ぼくだけ生き残ったの……。なんでお母さん、あんなことされなきゃいけなかったの……」

残酷な場面を見せつけられ、母の遺体と一緒に閉じ込められて、この子は本来なら言葉にできないような苦しみを味わった。でも、軍の人間には、見たこと全てを淡々と語ったという。泣きもせずに、ただ起きたことを順番に。

消された感情が、そうしなければいけなかった心が、戻ってきたのかもしれない。それが良いことなのかどうかはわからない。わからなくても、ルーファは彼を抱きしめた。このまま思い切り泣いてもいいと、泣いてしまえと思った。

この子は一度殺されてしまった。泣いて生きかえるなら、生きてほしい。――それはルーファ自身が救われるための望みだったかもしれない。

彼は、ニールは、声を出さなかったけれど。それでもルーファの胸をぐしゃぐしゃになるくらい濡らした。そうして顔をあげてから、とても申し訳なさそうに言った。

「絵、濡らしちゃった。服も。ごめんなさい」

「服なんか良いって。絵はまあ、大丈夫だろ」

「でも、にじんだ……」

きれいだったのに、とニールは顔を歪ませる。ルーファが何と言っていいかわからずに困っていると、背後から足音と、声が聞こえた。

「また描けばいいんだよ。……全く同じにはならないけど」

振り向くと海色の瞳が笑っていた。濃い青色の髪を、風に揺らして。

「ニア、なんで……」

「僕がルーの行動を読めないと思う?」

絵を持って行ったときからわかってたよ、と、ニアもニールに近づいた。戸惑う彼に、「はじめまして」とにっこり笑う。

「この絵の作者、ニア・インフェリアです。気に入ってくれた?」

「……うん、でも……」

「濡らしたのは、元には戻らないね。それは一枚しかないし、さっきも言ったけど、全く同じものは二度と描けない」

そんな言い方をしてはニールが傷つくのではないかと、ルーファはハラハラした。だが、当のニールにその様子は見られない。ニアをじっと見て、話を聞いていた。

「だけど、絵そのものが描けなくなったわけじゃない。僕は生きてるし、君も生きていれば、僕は君に次の絵を見せることができる」

絵を持つニールの手を、ニアが片手でそっととる。もう片方の手はルーファに伸びて、同じように手を重ねさせた。

「見たものを思い出すことも、生きていればできる。つらいことも一緒に憶えてることにはなってしまうけれどね。……つまり結論としては、僕は君にもっと生きてほしいわけだけど。もし良かったら、僕らと一緒に」

「え、ニア、それは」

ルーファが驚く横で、ニアは全く口調を変えずに、「ゆっくり考えていいよ」と言う。ニールはニアを見て、絵を見て、それからルーファを見た。戸惑いながらも、しっかりと目を見られるようになっていた。

「さて、ルー、そろそろ仕事に戻ったほうがいいんじゃない?」

「いや、とても仕事に戻れるような感じじゃ」

「戻って稼いでくれないと困るよ。ほら、行った行った」

ニアに背中を叩かれて、ルーファは仕方なくニールに別れを告げた。「さよなら」ではなく「またな」と。――また近いうちに、会えると思った。今度は「初対面のよく知らない人」ではなく、もっと別のかたちで。

そしてその予感は、ちゃんと当たるのだった。