この国でたった一人だけが座る椅子に、今は彼が居る。豊かな緋色の髪は炎のようであり、鳶色の瞳は全ての罪をさらけ出し射貫くかのよう。左胸に輝くのは、国章と金色の階級章。この色を身につけられるのもまた、椅子に座れる人間だけだ。

その目は今、真正面に立つ人物を見つめている。左胸の階級章は、中将を表す銅。彼は唇を噛みながら目を逸らしていた。この場所に呼び出された時点で、疚しいことがあったのだ。

「現在、司令部内の備品を一新しているわけだけど。君もそれに関わってるよね」

問えば、肩がぴくりとはねる。一瞬のことだったが、鳶の眼は見逃さない。

「それが何か」

「君の上司が出した発注数を、オレは認めた。そうしてそのまま戻して任せた……と思ったら、その後の処理は君に任されているという。君が実際に発注した数字は、元のものより随分と多くなっている。……これ、どういうことかな」

「さあ? 数字が大きくなっているというのも、初めて聞きましたが」

「そりゃそうだ。君が勝手に大きくしてるなら、聞くこともないよね。でも司令部に入ってきたのは元の数字の通り。けれども備品を扱っている会社が受け取った数字と、こっちが請求された金額が、元のものと異なっている。じゃあ、ものはどこに流れたんだろうね」

「知りませんよ。あちらの会社都合では?」

「そうじゃないのは確認済みだよ。それに関わっている人間が知らないなんて言葉を使うのもどうなのさ」

口調はさほど重くはない。だが確実に責めている。中将のこめかみを、汗が伝った。

「じゃ、質問を変えようか。……水増しした備品、どこに流した?」

この男はすでに調べ尽くし、知っている。この呼び出しは確認のためではなく、処分のためのもの。答えようが答えなかろうが、この先の展開は決まっている。中将もそれを察し、椅子に座る男を睨んだ。しかし男は狼狽えない。こんな場面は、残念ながら何度となく経験済みだ。

「……くそっ」

中将は小さく吐き捨て、それから軍支給の短剣を抜いた。

「名前だけの大総統のくせに、偉そうにしやがって!」

叫んで床を蹴る。短剣を振り上げ、一足で男に迫る。とっさに、それまで男の脇に控えていた者が、腰の剣を抜こうとした。

「閣下、私が」

「いいよ。一瞬だけ相手してやるから」

控えていた者を制し、男は飛び込んできた中将を素早く避けた。しかし椅子から立ち上がった男を、中将は再び狙う。

「なめんじゃねぇ!」

大きく振り上げられる短剣。それが下ろされる前の一瞬で、男は中将の懐に入った。その手にはいつのまにか紅玉を柄にあしらったダガーナイフがあり、切っ先は中将の左胸へ突き刺さる。

目を見開いた中将に、衝撃はあれど傷はない。ナイフは左胸の階級章を割り、肌に触れる前に止まっていた。中将の手から短剣がこぼれ、足がよろけて後退した。

「……見逃したつもりかよ」

憎々しげに吐かれる言葉は、しかし男には全く響かない。そもそも見逃すわけがない。

「いいや。でもその階級章、もう使えないよね。新しいのあげるよ」

割れた銅の替わりに放られたのは、真新しい白の階級章。二階級下の、准将のものだ。――つまりは、それが処分。

「その階級章つけ直して、一か月謹慎。その間の手当なし、給与減額。……もののルートは割れてるし、そう危険なものでもないから、それくらいでいいかな」

元中将がへたり込んでしまうと、脇で控えていた者が彼を引きずって、部屋の外へ出した。

全てが済んでから、控え、いや、大総統補佐大将レオナルド・ガードナーは嘆息する。

「閣下、処分が甘くはありませんか。たった今、ご自身が危険な目に遭ったんですよ。それに彼がものを流したルートは裏でしょう。資金調達などに利用されていたら……」

「割れてるんだから、潰すのもそんなに時間はかからないよ。何だったらオレが直接出向く」

それよりさ、と男――エルニーニャ王国軍大総統、レヴィアンス・ゼウスァートが振り向いた。右手に収まっているダガーナイフを、軽く振りながら。

「今のでちょっと、こいつの刃先やっちゃったんだよね。メンテナンス行ってくる」

苦笑いする大総統に、補佐はまた大きな溜息をもらす。

「……ついでに、ちゃんと休んできてはいかがですか。本日の残りの仕事は私がやりますので」

「悪いね、留守番よろしく。何かあったらすぐに、鍛冶のスティーナに連絡のこと」

 

第三十一代大総統は、ゼウスァートの名を持っている。この名はエルニーニャ王国建国に際し、設立された軍の初代大総統に与えられたものだ。古代語より、「万能の指揮者」という意味を当てはめた。

しかしゼウスァート本家はとうに断絶していると思われていた。はるか昔、当時十四代大総統を務めていたゼウスァート姓の人間が、軍による政権台頭に反対する者の手で暗殺されて以来、歴史の表舞台からはその名がしばらく消えることとなる。そのあいだ、ゼウスァートの末裔がどこで何をしているかは全く世間に知らされず、そのまま絶えてしまったものだと誰もが認識していた。

ところがそれが覆る事件が、二百五十年の時を経て発生する。エルニーニャの事件史ではイクタルミナット協会事件と名付けられている一連のできごとで、ゼウスァート家の末裔が現代に存在していることが発覚した。――彼こそが、レヴィアンスである。

建国記にあるとおりの緋色の髪と鳶色の瞳、そして現代科学が、それが真実であると裏付けた。三十代大総統の失踪を機に、それに目をつけた女王が、レヴィアンスにゼウスァート姓を名乗り大総統として立つように命じた。名ばかり大総統、と非難されるいわれはここにある。ゼウスァートの人間だから、運よくトップに立つことができたのだと考える人間は少なくない。

だが女王もそこまで愚かではない。彼女はレヴィアンスの元上司であり、彼の活躍を間近で見てきた一人だ。その上で、この人物はゼウスァートと国という重圧を背負うことができると判断した。それを知る者はわずかだが、実際、レヴィアンス・ゼウスァートが大総統に着任して二年のあいだに、その実力は国民の多くに認められることとなった。名前の力ではない、彼自身の力がそうさせた。

いや、要素は他にもいくらかあるにはある。レヴィアンスという人間を育てたのは、二十九代大総統とその補佐なのだ。親の背中を見てきた彼には、自分の目指す国の姿が見えていた。

なるべくしてなった大総統。指揮者の再臨。人々の目に映る現在のレヴィアンスは、そう呼ばれている。

だが一方で、レヴィアンス・ゼウスァートという人間は軍にしかいない。「一国民」としてのレヴィアンスには、彼が本当に名乗りたい名があった。

 

「シルビアさん、ナイフ一本直して」

レヴィアンスに声をかけられ、赤毛を頭の上でしっかりとまとめた女性が振り返る。そうして、ぱっと花が咲くような笑顔を見せた。

「まあ、レヴィ君じゃない! 最後にここに来たのはいつだったかしら。お仕事忙しいの?」

「うん、まあまあ。一日椅子に座ってるだけなんだけど。で、ナイフを預けたいんだよね。ついさっき刃先がやばいことに」

「さっきって、何をしたの?」

「階級章をぶっ壊した」

「ちょっと見せて。……あら、しかもこの具合、一個じゃないわね。噂には聞いてたけど、本当に軍人さんを降格させるときに、階級章壊しちゃうのねえ……あんなに硬いのに……」

レヴィアンスの愛用するダガーナイフを受け取ったシルビアは、その刃を様々な角度で眺めはじめる。そうしながら考えるのは、これをいかに直し、かつ以前よりも耐久性のあるものにするかだ。この鍛冶屋の本来の主、名匠スティーナ翁も、同じようにするだろう。もっとも、判断は彼女より早いだろうが。

長年、エルニーニャの首都レジーナで鍛冶屋を営んでいたスティーナ翁は、国で最高齢ともいわれる現在はよほどのことがない限り店には出てこない。主な業務は唯一の弟子である、シルビア嬢に任せている。この女性、元の素性ははっきりしないのだが、スティーナ翁の作品をこよなく愛して、鍛冶屋という仕事に情熱を傾けている、腕と熱意は確実に信頼できる人物なのだ。

「しばらく預かるわよ。早めにはするけど。すぐに持って来るってことは、近々使う予定があるんでしょうし」

「お願いね。……で、まあそれはそうとして、じいちゃん元気?」

「出てこないだけで元気よ。腰が痛むから鎮痛剤は使ってるけど、本当はそれも嫌みたい。食事ももっと味がする物にしろって、ハルさんと毎朝のように口喧嘩」

「母さんのことだから、適当にあしらってるんだろうね。父さんは胃が痛いだろうなあ」

「さすが、よくわかってるじゃない。アーレイドさんは逃げるように、うちの品物の配達に行ってるわよ。本当は重いものを持つなら、ハルさんのほうが得意なのにね」

シルビアと笑いあってから、レヴィアンスは店の隣へ目をやる。そこに立つ一軒家が、この店を営む一家が寝起きをする場所であり、レヴィアンスが育った場所だ。鍛冶屋を訪れる際には、実家にも立ち寄るようにしている。どうしても長居してしまうので、仕事の目処が立っているときに限るけれど。

「じゃ、母屋行ってくるから。あとはよろしく」

「任せて。丈夫に直すからね」

店を一旦出て、隣へ。呼び鈴を鳴らすと、そう待たずに家の者が出てくる。明るい赤紫色の長い髪は、今日もしっかり三つ編みだった。

「あ、レヴィだ。おかえり。直接顔見るの久しぶりだね」

「ただいま、母さん。間接的には見てるんだ?」

「新聞とかテレビとか。アーレイドが全部保存してるよ。軍人学校に寄贈して資料にしてもらっても良いくらい」

「……それ、母さんのときにもやってたんだろうなあ……」

レヴィアンスが母さんと呼ぶその人が、ハル・スティーナ。かつて二十九代大総統を務めた人物であり、現在は実家で仕事をしている。スティーナ翁の身の回りの世話から、鍛冶屋の手伝い、そして政治に関わる様々なこと。元大総統という肩書は、つまり当時のこの国を知り尽くしているという証明であり、ゆえに現在の政への意見を仰がれることも多い。レヴィアンス自身、この人に何度助けられたことか。

ちなみに政治に関する相談はハルに、軍の動向に関わることは二十八代大総統カスケード・インフェリアに相談することが多い。肩書は同じだが、得意分野は違うのだ。もっと複雑なことになると、より多くの人の手を借りることにもなる。なにしろレヴィアンスが大総統になって、まだ二年だ。

「父さんは配達?」

「うん。寄り道してることを考えても、そろそろ帰ってくると思うけど。おじいちゃんの薬、もっと飲みやすくしたからってカイさんから連絡があったんだよ」

「じゃあ話しこんでるかもね」

父はアーレイド・ハイル。ハルが大総統だったときに補佐をしていた。この二人に育てられたレヴィアンスの、プライベートでの名はレヴィアンス・ハイルだ。自身はこちらの名のほうが落ち着くし、本来の自分であると思っている。大総統の任に就くまでの人生二十四年間、そう名乗っていたのだから。いや、今だって友人知人のあいだでは、レヴィアンス・ハイルのままだ。

「これ、お土産。新しいケーキ屋ができたってイリスが教えてくれたから、さっき寄ってみた。店の人に確認したから、じいちゃんも食べられると思う。シルビアさんにもあとで言っといて」

「わあ、ここ気になってたんだよ。そうだよね、見回りにでも出なきゃ、新しい店なんてわからないよね。大総統って大枠を見る仕事だから、細かいことはなかなか気づけないし」

「母さんはどうやって知ってたのさ。店に行く機会は少なかったかもしれないけど、美味しいお菓子とかには昔からそこそこ詳しかったよね」

「そこは仲間内の情報網。甘党グループで連絡とりあって、仕事上で使えそうならチェックして。レヴィのお酒の付き合いと同じかな」

なるほど、そうやって人付き合いをしてきたのか。今更気づかされることもたくさんある。代々、それぞれの大総統にそれぞれのやり方があって、エルニーニャという国を動かしてきた。国を作るのは人だ。上の選ばれた人間だけではなく、そこに生きる全ての人が、この国の動力であり礎であり、守るべきものだ。やり方は違っても、それだけは忘れてはいけないと、レヴィアンスもハルから教わっている。

自分がそれを実行できているかは、未だに他人にきちんと見ていてもらわないと、わからないけれど。

「……あのね、レヴィ。アーレイドが心配してたよ。ちゃんと休んでるのか、睡眠はとれているのかって。また仕事に集中しすぎて、補佐のガードナー君を困らせてないかって」

茶の準備をしながら、ハルが言う。アーレイドが、とは言うが、本当のところは自分も気にしているということは、レヴィアンスもよくわかっている。ハルが大総統だった頃は、レヴィアンスが「おじいちゃんが心配してたよ」と同じことを言ったものだ。

あの頃はレヴィアンスが子供だったから、ハルもアーレイドも「大丈夫」と笑っていた。どんなに疲れても、子供に本当のことは話さなかった。でも今は、レヴィアンスだって大人だ。そしてかつてのハルと同じ立場にいる。だから正直に自分のことを話すようにしていた。

「さっき困らせてきたところだよ。だからこっちに顔出してるんじゃん。でもさ、休めっていうけど、オレはちゃんと休んでるつもりなんだって。しょっちゅうニアたちのところに遊びに行くし、三時間は寝るようにしてるし」

「うわー、三時間か……。アーレイドには言わないでね、それ。ボクも現役のときは三時間も寝ればいけるって思ってたけど、アーレイドはせめてその倍くらい睡眠時間をとってほしいっていつも言ってたから。ボクが寝たら、自分が睡眠時間を削って仕事進めるくせに。二人で完徹もよくやったな」

懐かしみながら用意してくれたのは、薄めに淹れたコーヒーだった。現役時代はもっと濃い、それこそ泥のようなコーヒーをおともに、仕事に励んでいたのだろう。ドリップなんて悠長なことはしていられないから、インスタントの粉をさっとお湯で溶かすのだ。今のレヴィアンスもよくやっている。

「母さんたちはさ、大総統と補佐っていうより、大総統が二人って感じだよね。オレは徹夜になりそうなら、さっさとレオやイリスは帰して、翌日に備えさせるけどさ」

「ガードナー君はともかく、イリスちゃんはそもそも正補佐じゃないんだから帰さなきゃだめでしょう。そんなことしたらカスケードさんがなんて言うか」

「いや、情報が伝わるのが早い分、ニアのほうが怖いかな。イリスに何かあったら、耳がちぎれそうなくらい引っ張られる」

舌に広がるまろやかな苦みと、かすかな酸味。仕事用ではなくおもてなし用の、それもレヴィアンスのためのコーヒーを、ハルはいつ突然訪ねても用意してくれる。全く同じものを、アーレイドも淹れることができる。両親は幼少期のレヴィアンスのことをあまりかまうことができなかったのに、好みや考えはよく把握していた。忙しい中でも、常に子供のことを忘れなかった。自分が大人になった今、それがどれだけ大変なことかよくわかる。

レヴィアンスは歴代大総統の中でも余裕があるというのが、周囲からの評判だ。週の半分はさっさと仕事を終わらせて、友人宅や店に飲みに出かける。練兵場に出ていって、階級の低い軍人たちとともに訓練をすることもある。最近は少なくなったが、ときどき大暴れする妹のような補佐見習いを止めに行くことだってする。部下は補佐までも定時に帰らせて、自分は大総統執務室で酒を飲みながら誰かと電話していることがあるというのも、司令部内ではもっぱらの噂だ。

ゼウスァートの血を引いているから、親も大総統だったから、才能があるのだろう。そう教育されてきたからこそ余裕も生まれるのだろう。そんなふうに言う人もいる。

ゼウスァートの名で大総統という立場にいるからこそ、そう見える努力をしているということを、知る者は少ない。そういう人々は、本当にごく限られている。レヴィアンス当人でさえ、自分の行動を努力や頑張り、ときにはあがきであると、さほど思わない。初めのうちこそ考えていたが、二年も経てばそれらはやって当たり前、できて普通のことになってしまっていた。

余裕があるかのように振る舞うために、力を残して、使っている。力の配分は、実はとても危ういバランスなのだということは、ほとんどの人が知らないし、気付くこともない。

もし今のバランスのまま、レヴィアンスが妻や子供を持ったとする。常に考えなくてはいけない事項を増やしたら、たぶん、どこかから崩れていくだろう。完全に崩れてしまったとき、レヴィアンス・ゼウスァートか、レヴィアンス・ハイルのどちらかが、いなくなるかもしれない。

自分ではそう思わなかった。これをはっきりと言葉にして教えてくれたのは、一日のうちもっとも長い時間を共にしている人。正補佐レオナルド・ガードナーと、補佐見習いイリス・インフェリアだった。

最初に言ったのはレオナルドだ。そのときどう考えても仕事を詰め込みすぎていたレヴィアンスが、いつもと変わらない調子でレオナルドを帰らせようとしたときに、彼は切れた。

――そうやって余裕ぶって全部抱え込もうとしていたら、閣下はいつか壊れますよ。

口調は穏やかだが、強かにレヴィアンスを打つ言葉だった。そんなことないよな、とイリスに冗談めかして尋ねると、彼女もまた真剣な表情で返した。

――ガードナーさんの言う通りだと思う。少なくとも今は、一人で何とかできる状態じゃないんじゃないの。

それから時間をかけて、仕事を進めながらの説教が続いた。地道な仕事が得意で周囲によく気を配っているから、という理由で補佐に採用したレオナルドは、レヴィアンスの見立て以上の人物で、本人よりレヴィアンスの仕事のやり方を知っていた。イリスは長い付き合いだが、その分レオナルドの言葉に同意すると重みがあった。

そのときのことを後に実家でハルとアーレイドに話し、やはり同意されて、レヴィアンスはようやく自らを省みたのだった。

そうすることで、かつての両親の大変さや、それでも我が子を愛していたということを、より深く理解できた。

自分にはまだ、そこまでの器はないということも。

「……最近さ、ちょっと失敗して。内部での連携とかチェックとか、オレがちゃんとできてなかったせいで、未然に防げたかもしれないことをとりこぼした。少し大きめの案件が続いたから、そっちに気をとられすぎた。イリスは無理でも、せめてレオにもっと仕事を割り振らせてもらえばよかったなって反省してる」

口の中の苦みが消えないうちに言う。ハルはそれに頷き、微笑んだ。

「わかってるなら大丈夫。レヴィたちでちゃんと解決できるよ。みんなそうしてきたんだから」

危ういバランスのものが、どうして今まで崩れずにいられたのか。言うまでもなく、支えてくれる手があったからだ。レヴィアンスだけではなく、誰だってそうだった。

大総統の椅子に座れるのは一人だけ。でも、大総統執務室には、司令部には、この町、この国には、たくさんの人がいる。

「そうだよね。オレには優秀な部下と、尊敬する相談相手がたくさんいるし。取り返せる失敗だから、さくっと片付けてくるよ」

「お前のさくっとは雑なところがあるから気をつけろよ」

意気込んだところに、突然声がかかる。驚いて振り向くと、アーレイドが腕組みをして立っていた。

「父さん、いつから?!」

「今帰ってきた。ただいま、ハル」

「アーレイド、おかえり。薬貰ってきた?」

「ああ。ちょっと話しこみすぎたけどな。年取ると昔話が多くなる」

それも何度もした話なんだけど、と言いながら、テーブルの上に箱を置く。レヴィアンスが買ってきたケーキの箱と同じものだ。

「あ、父さん、オレも同じの買ってきちゃった」

「マジ? 中身は?」

「ちょっと失礼。……あー、やっぱりうちの好み考えるとかぶるよね」

「じゃあそれ、レヴィが持って帰れば? どうせ執務室で食べるだろ」

「食べる。イリスが喜びそう」

思いがけず土産を手に入れ、時計を確認する。そろそろ戻らなければ、レオナルドの仕事が大変だ。いくら残りはやっておくと言ってくれても、そもそもはレヴィアンスの仕事である。もう弱音も吐いたし、十分休んだ。

「じいちゃんに会ってから、司令部戻ろうかな。どうせナイフもすぐには直らないだろうし」

「シルビアさん、明日の夕方にはって言ってたぞ。近々動く予定なんだろ、間に合うのか」

「うわ、早っ! 十分間に合うよ。夕方なら、明日の晩には動けるってことだし。……じいちゃーん、腰大丈夫ー?」

スティーナ翁の部屋へ向かうレヴィアンスを、ハルとアーレイドは笑みを浮かべて見つめる。あの小さかった子は、あんなに大きくなって、とても重いものを背負って立つようになった。

「しかし、得物が直ってすぐに出るつもりなところは、ハルに似たな。もうちょっと考える時間とかいらないのか」

「もうたくさん考えたんだよ、きっと。そもそも本当にすぐに動きたかったら、今頃はそうしてるんじゃない? レヴィのダガーナイフ、いっぱいあるんだし。たった一つを待つことなんてない」

「それもそうだな」

ハルとアーレイドの入隊当時の大総統は、アレックス・ダリアウェイド。補佐はルーク・ルフェスタ。ここ百年で最も大総統の名に相応しく、補佐もそれをよく助けた「完璧な国長」といわれる。それを引き継いだのが「青き獅子」カスケード・インフェリアで、彼の最初の補佐はディア・ヴィオラセント。互いの長所と短所をわかりあった、力強い二人だった。ディアの退役後は補佐を何度も変えたカスケードだったが、それは自分が大総統でいることで降りかかる危険から、補佐という立場になってしまった人間を守るためだ。次がハル・スティーナと補佐アーレイド・ハイル。最終的な決定権はハルにあったが、互いを支え合い背中を預ける、当時のエルニーニャの「双璧」だった。次代の大総統は職務を半ばで放棄してしまい、国民に大総統不信を生んだ。しかしレヴィアンス・ゼウスァートは見事にそれをひっくり返した。それは彼の実力であり、彼の視界を補うレオナルド・ガードナーとイリス・インフェリアがよく働いてくれているためでもある。「指揮者」はたしかに再臨したが、彼を「万能」たらしめるのは、指揮をよく見ている人々だ。

大総統の椅子は一つ。一人だけが座れるもの。だがその椅子に不具合が生じたときに対応する人々がいなければ、唯一のそれは壊れてしまい、もう直らない。

「……今の大総統の椅子には、二人座ってるかも」

「なんだよ、突然。昔から唐突に妙なこと言うよな、ハルは」

「半ばボクの、そうだったらいいな、っていう希望なんだけどね。今の大総統は、レヴィアンス・ゼウスァートとレヴィアンス・ハイルなんだよ。指揮者はゼウスァートだけど、その指揮についてくるのは、ハイルに魅力を感じた人たちだと思うんだ」

「でも、それってどっちもレヴィだろ?」

「そうだけど……ボクはアーレイドの育て方も褒めたかったんだけどなー」

「それを言うならハルの育て方も良かったんじゃないか。……忙しくてレヴィをほったらかしにしてたあいだは、じいちゃんだけど」

「だよね。おじいちゃんはさすがだよ」

大総統の座に着くまでに、人脈と実績をつくりあげてきたのは、レヴィアンス・ハイルだ。だからこそレヴィアンスは、その椅子を用意された。

求められたのはレヴィアンス・ゼウスァートだった。だからその名を冠するに相応しくあるよう、現在のレヴィアンスがいる。

重なる二つで、一つ。それを取り囲む人垣。それが今のエルニーニャ。

「じいちゃん、長生きしてよ。オレが大総統やってるあいだは見ててほしいな」

「そりゃあ、百五十は目指さにゃならんな。お前、儂の年知っとるか」

「え、……百歳の誕生日祝ったの、いつだっけ」

その歴史を見てきた者は、ひ孫を見て実に嬉しそうに笑った。