一家団欒。そのかたちは数あれど、一般的には平和で賑やかで楽しい、そんな家族の様をいうのだろう。
インフェリア家も普段はその典型だ。独立している息子と軍の寮で生活している娘が帰って来れば、居候している娘も含めて、家族で温かな時間を過ごす。それは厳しい親を持った父とあまり幸福とはいえない幼少期を送った母の、こうありたいと願う一家の姿でもある。
だが、そんな家もときとして凍りつくような空気が流れる。一家にとって重大なことが起こったときに発生するイベントだが、大抵は祖父と父、場合によっては父と子が対立することでそうなってしまう。
今回の場合はどちらなのだろう。いや、三代揃って別の方向を向いているような気がする。こうなると面倒なので、本当は知らないふりをして母や叔母、祖母、実家の同居人と女性だけの穏やかなお茶会でもしていたいところなのだが、そうはいかなくなってしまった。
イリスもこの件には、多少なりとも関わってしまっているのだから。
「では、議題はニアが引き取ってきた子供の処遇ということでいいな」
「何の相談もせずに引き取ったことから、そもそも問題じゃないのか。一言くらい俺に言ってくれれば、なんとかできたかもしれないのに」
「いいかげん、子供扱いはやめてよ。僕、もう二十八なんだけど。当然自分で責任取るつもりで行動してるんだから、わざわざ大事にする方がおかしい」
祖父の重い声、父の珍しく怒っているような口調、静かだが棘のある兄の言葉。イリスはどれも苦手だ。こうなると誰が窘めようとしても無駄だということは、十七年の人生で嫌というほど思い知った。
――結局のところ、おじいちゃんもお父さんもお兄ちゃんも、根っこはそっくりなんだよね。
だから余計に厄介なのだ、インフェリア家の家族会議というものは。
事の発端は……さて、どこだっただろう。とある事件でイリスたちが、子供を一人助けたところからが始まりといえるかもしれない。
その子は目の前で、たった一人の肉親だった母親を殺された。身寄りがなくなった子供は、十歳に満たなければ病院その他の機関または私立の養護施設に送られる。その子も事件の際に負った怪我が良くなれば、そうなる予定だった。実際、病院を退院した後に、三週間ほど施設で暮らした。
だが、そのあいだ、彼のもとに通い続けた者がいた。最初から彼を引き取り、一緒に暮らすつもりで。それがイリスの兄、ニアだ。
ある日、イリスがニアの暮らすアパートを訪れると、彼はすでにそこにいた。イリスの姿を見るとニアの後ろに隠れて俯いてしまったが、間違いなく助けた子供であるということはわかった。
「ちょっと、どういうことよ、お兄ちゃん。この子、ルー兄ちゃんが通報してくれたあの事件の……」
「その話は後で。まずは挨拶が基本でしょう、イリス。年上の君が手本を見せないでどうするの」
「いや、それはそうだけど……」
とりあえず、こんばんは、と言うと、彼は小さく頭を下げて、完全にニアの後ろにまわってしまった。事件関係者という経緯もあって怖がられているのは知っているが、もともと人好きのするイリスは、何度だってショックを受ける。しかも相手は子供だ。
「ニール、この人は僕の妹だよ。必死な顔が印象に残ってるかもしれないけど、普段はそうでもないから大丈夫」
「お兄ちゃん、それあんまり大丈夫に聞こえないし、わたしはちょっと傷を抉られるよ。ていうか、その子がどうしてここにいるのかを聞きたいんだけど」
「説明するからあがりなよ。今日、レヴィは? まとめて話したかったんだけどな」
「レヴィ兄は仕事だよ。来たところでその子、怖がると思うけど」
「それもそうだね。でも他人に慣れて貰わないと、これから困るから」
今この瞬間、妹が大いに困っていることなどそ知らぬ兄である。いや、わかってやってるのか。ともかく説明をしてもらわないことにはどうにもならないと判断し、イリスはいつも通りに部屋に上がり込んだ。
もう一人の住人であるルーファは、まだ帰ってきていなかった。ニアから話を聞き出すより、彼がいたほうがよほど話が早いのだが、あちらも仕事だろうから仕方がない。そもそも、この事態を知っているのだろうか。
淹れてもらったお茶を自分用のマグカップで飲みながら、斜向かいに座る子供を盗み見ると、眉を八の字にしていた。彼の前には初めて見る新しいマグカップが置いてある。たぶんニアが用意したのだろう。
「ニールは今日、僕が施設から引き取ってきた。その時はルーも一緒にいてくれたけど、仕事を休めなかったからすぐ戻った」
話は唐突に始まった。危うくお茶をふきだすところだったのを堪え、イリスは「待って待って」と手を突き出す。
「引き取ったって……え、なんで?」
「ルーが気にしてた。僕も気になってた。ニールはそれをゆっくり考えてくれた」
ルーファが身寄りのない子を気にするのはわかる。彼自身がこの子供の救出に関わっているし、何より彼もかつては同じ身寄りのない子供だったのだ。良い大人に手を差し伸べられ、それをとることで、家族を得て育ってきたという経緯がある。
ならば、ニアはそれをわかっていて、ルーファと子供のことを考えたということか。
「でも、突然連れてくる?」
「施設にはここ最近ずっと通ってたよ。だからニールに納得してもらったんじゃないか」
「その子……ニールを養子にしたの? ルー兄ちゃんみたいに」
「いや、戸籍はそのまま。ルーの家はともかく、うちは大事にされかねないし。それにお母さんの名前をちゃんと持っていたいよね」
ということは、この子供の名前はイリスが救出した時のまま、ニール・シュタイナーなのだ。だが、問題はそこではない。
「されかねないっていうか、もう大事確定でしょ……。その口ぶりだとお父さんたちに報告してないのね?」
「これからだよ。だから、ちょっと面倒に巻き込むよってイリスには説明しようと思って」
ちょっとじゃない。ちょっとなどではなかったから、家族会議に発展した。そうなることは、イリスよりもニアのほうがわかっているはずなのに。
ニールという少年が巻き込まれた事件のことは、イリスらの父であるカスケードも、祖父であるアーサーも当然知っている。イリスが捜査と救助にあたった事件ということもあり、その発生と経過についてははっきりと憶えていた。
「だが、あんな事件はいくらでもある。この国で毎年何人のみなしごが出るか、お前も知らないわけではないだろう。関わった者の面倒をいちいち見るつもりか。たった一例が多くの基準を揺るがすこともあると、賢いお前なら理解できるな」
アーサーの言葉に、ニアが頷く。だがカスケードが苦い顔をした。
「そういう言い方はないだろう、親父」
「ならばどう言えばいい? 担当した事件の関係者を調査期間が終了しても足繁くまわり、ついには人間一人の世話をするまでになったお前なら、何と言う」
「それは……」
すぐに答えが出ないのは、アーサーが至極当たり前のことを、ただストレートに言ったに過ぎないからだ。きっとカスケードが言えたとしても、言葉の端々を曖昧にしただけの内容になっただろう。ただアーサーの言葉を柔らかくするということではなく、言ってしまえば自分自身の行いと言動の矛盾を指摘されることになるからだ。
いちいち深入りしていてはきりがない。それは誰もがわかっていることで、しかしなおも深く関わろうとしてきたのがカスケードのやり方だった。その極め付けが、クローン少女ラヴェンダ・アストラの身柄を引き取るという行動だ。かつて自らの祖父を、子供らを、そして自身をも傷つけたはずの人物を、その親代わりの男が刑期を終えて帰ってくるまで預かろうと決めた。彼女がマカ・ブラディアナと名乗っていた頃のことを、一切水に流して。
「俺はそういう、統計だとか基準だとかの話をするつもりはない。ただ、そういうことをするなら、俺たちに一度相談してほしかった」
「ラヴェンダ嬢を引き取るときに何の相談もなかったお前がそれを言うか」
「親父には関係ないと思ったからだ」
「私にはたしかに関係の薄いことだ。だが、ニアはどうだ。当人が納得していないのを、あのときお前は有無を言わさずそうすると決めたのではなかったか」
たしかにそういう過去はあった。だが、今の議題は。
「ちょっと待ってよ。おじいちゃんも父さんも、どうして僕を置いて勝手に話をするの。ラヴェンダのことは今は関係ないし、別に僕は父さんの真似をして子供を引き取ったわけじゃない。それに軍人時代ならまだしも、僕はもうとっくに退いてるんだよ。一般市民が一般の子と暮らすだけのこと、何を相談しろっていうの。身寄りのない子の全てを抱えられるなんて、僕だって思ってないし。だからおじいちゃんの言うことは元軍人の一般論として受け取ってはおくけど、そこまでだ」
本来ならば話の中心にいるべき自分が差し置かれたことにも腹を立てたのか、ニアはアーサーとカスケードの両方をはねつける。――このあとに何が起こるか、傍で聞いていたイリスにも容易に想像がついた。
「軍家インフェリアに生まれたからには、軍を退いたとて一般市民にはなれない」
「親父はいつまで軍家にこだわるんだよ。ニアはもう軍人じゃないんだから、それでいいだろ」
「軍人扱いはしないけど、家族って枠にはめようとするのは父さんもおじいちゃんと一緒でしょう」
「だって家族は家族じゃないか。何かあったときに対応して協力できるようにするのは、当然のことじゃないのか」
軍家インフェリア、はアーサーの口癖。ニアはもう軍人じゃない、はカスケードの口癖。それを浴びるのが嫌で、ニアは報告を後回しにしたのではないか。しかしどちらも間違いではないのだ。ただそれがニアを置いてけぼりにして語られるのが我慢ならないということで。
思えば、ニアはイリス以上に彼らの対立に振り回されてきている。軍に入隊するときもそうだったと聞くが、退役すると決めたときにも家族会議は行われたのだ。その経験から、今回もまた面倒なことになると踏んで、先に動かしがたい既成事実を作ったのでは。イリスはやっとその考えに辿り着いた。
引き取った子供を放りだすわけにはいかない。この家にそんなことをする人はいない。だからニアは先回りした。いや、後回しか。このあたりを考え始めると、またややこしい。
「なあ、ニア、引き取った子供の生活はどうするつもりだったんだ。ルーは昼間仕事でいないし、ニアだって家を出て仕事をしなきゃならないことがよくあるだろう。そのあいだ、その子の世話は誰がするのか、ちゃんと考えてるのか。そもそも今日はどうした」
カスケードの話は続いていた。これまた真っ当な疑問で、イリスもすでに同じ質問をしている。
「ルーには普通に働いてもらって、僕が当分家でできる仕事を中心に受ければいい。あと、今日はルーが休みだから大丈夫」
「それができないことだってあるだろう」
「ちょっとのあいだなら留守番してもらっても大丈夫だよ。八歳だよ、ニールは。幼児じゃないんだ。レヴィならもう軍に入ってた頃だよね」
「あいつとはわけが違うだろう。ニアにしては珍しく、考えが足りなかったんじゃないのか」
「何、その言い方。僕は父さんみたいに過保護にするつもりはないんだよ」
ああ、それを本人に言うか。先に同じ言葉を聞いていたイリスとしては、再びは聞きたくなかったのだけれど。正直なところ、三すくみよりもアーサーとカスケードの対立よりも、ニアとカスケードがぶつかる方がイリスには怖い。
「過保護とか過保護じゃないとか、そういうことじゃないだろう! その子が置かれた状況を考えろ。お前が負うべき責任をわかっているか。そういうことを含めて、相談しに来いと言ったんだ!」
「十分に考えて、責任をとるって決めたからそうしてるんじゃないか! そんなに全部把握してなくちゃ気が済まないの?! まだ僕を保護下に置きたい?!」
「そんなことを一言でも俺が言ったか?! どうしてそう曲解しようとするんだ!」
一族三代の中で、おそらくはニアが最も素直ではないのだ。年が離れすぎているからか、アーサーと正面からやりあうことはほとんどない。だが相手がカスケードになると、互いに譲りどころを忘れることがあった。
放っておけばそのうち、言葉が尽きておとなしくなる。険悪さは時間が解決してくれる。だが、今回はそれで済ませてはいけないということを、彼らはわかっているのか。せめてニアには忘れないでいてほしかったのだけれど。
それまで黙って聞いていたが、イリスはついに顔をあげた。
「いいかげんにしなさいよ!」
頑丈なはずのテーブルが、壊れそうなほどの音をたてる。壊れてもかまわないと思って殴りつけた。拳の痛みなど後回しだ。
今すぐこの場をおさめなければならない。そのためにわざわざ、自分たちだけで話すからという、男性陣の中に入りこんだのだ。祖母では父との関係が危ぶまれ、母に負担をかけるわけにはいかず、叔母を巻き込むわけにはいかない。今回の彼女らの役目は他にある。この言い合いが終わった後に、頑なになってしまった男性陣を諌めるという重要な役目だ。その前に精神力を削るようなことがあってはならない。……というのがイリスの判断だった。
――わたしはみんなより事情を知ってる。だから今日はわたしに任せて。
始まる前にそう宣言した。言ったからにはやってやろう。祖母と母は心配したが、叔母は苦笑して頷いてくれた。
――まあ、イリスが適任ではあるんじゃない? 誰も逆らえないし。現時点においては一番冷静だろうからね。
冷静というのとはちょっと違う。ただちょっと、展開が読めるだけ。軌道が逸れたときに修正できる誰かがいなければ、本当に中心とすべき人が傷つくことになると思っていただけ。
「さっきから黙って聞いていれば、みんな自分のことばっかりだよね。いつもはそうじゃないのに、どうして興奮するとそうなっちゃうかなあ?」
椅子の上に立ち上がり、片足をテーブルにかける。行儀が悪いのは承知だが、三人がかりでそれを叱ってくれればそれはそれでいい。
「今日の議題は何よ? いったい何の話をしてるわけ? 毎度思ってたけどね、こんな状態で会議なんて大層な名前背負ってんじゃないわよ!」
真に冷静なら、どうして吼えることができようか。
「……イリス、降りなさい。はしたない」
「おじいちゃん、悪いけどこのまま言わせてもらうよ。こうでもしなきゃ、またわたしの存在なんか忘れるでしょ?」
アーサーの表情の変化はわからなかったが、カスケードが決まり悪そうに俯き、ニアがぎくりとしたのが見えた。ニアの反応の理由ならわかる。イリスの言い回しが、普段の自分のそれを真似たものだと気づいたのだろう。
「おじいちゃんは、心配ならそうとはっきり言えば良かったんだよ。お父さんはおじいちゃんに反発するのとお兄ちゃんにむきになるのやめて。でもね、一番しっかりしなきゃいけないのはお兄ちゃんだったんじゃない? 今日のこと全部、ルー兄ちゃんとニールに話せるの?」
「話せるわけないだろう、こんなの……」
「そうだよね。お兄ちゃんが過保護にされたことを気にしてるなんて、二人には関係のないことだもの。でもこれからはそうはいかないって、わかってるの? 人間一人の一生に影響与えるんだよ。ここでちゃんと話をしておかなくてどうするのよ」
そう何度も、妹の口から言わせないでほしい。――これは、二度目なのだ。一度目はニールが来た日、ルーファの帰宅後。実家への連絡を面倒がっていたニアに、でも、と呈した苦言。あのとき、もしうまくいかなかったらもう一回言ってと頼まれ、そう何度もあってたまるかと思った。
「おじいちゃんとお父さんはさ、一旦家のこととか相談しなかったこととか置いといて、お兄ちゃんの話を聞いてくれないかな」
「うん……ろくに話も聞かずに喧嘩になったからな。悪かった」
「では、イリスの言う通りにしよう。だから降りなさい」
イリスが椅子から降りて座り直してから、アーサーは戸口を見やった。つられるようにして視線を移すと、扉がわずかに開いていた。
「お前たちも、覗き見るなら入ってきなさい。もう誰も怒鳴りはしない」
いつからそこにいたのか、応えるように、祖母ガーネット、叔母サクラ、母シィレーネが連れ立って部屋に入ってきた。戸惑うイリスに、サクラが「お兄ちゃんとニアが喧嘩始めたあたりから」と耳打ちする。そういえばその頃から、アーサーの発言がほとんどなかった。
「もう気は済んだわね。それじゃ、今度こそ家族会議しましょうか」
「カスケードさんたちが喧嘩してるあいだに、こっちはニール君へのプレゼントとか一通り決めちゃったんですからね。ああ、でも服のサイズがわからないんだった。ニア、それも教えてね」
ガーネットとシィレーネが着席し、サクラはそれに続くと同時に書類――小児科医である彼女がニールを診察した時の記録だ――を用意した。女性陣はすっかり、真の会議の準備を済ませていたのだった。イリスだけに任せてはおけないと、それでは大人としての立場はどうなると、彼女らは彼女らの会議をしていた。
絵で、あの子を助けることができるなら。それならこの手にもできることがあると思った。――それが話の始まりだった。
イリスがニールを救出してから、五日ほど経った頃。ルーファが仕事に行っているあいだに部屋を掃除していたニアが、机の上に広げたままにしてあった本を見つけた。子供の心に関するその本は真新しく、最近買ってきたものであることがわかった。わざわざこんなものを用意する理由は、一つしか思い当たらない。
自分が関わってしまった事件の生き残りである子供のことを、ルーファはずっと気にしている。レヴィアンスやイリスの話もあったせいだろう。事件の状況を淡々と証言し、以降は全く話さなくなった。軍人を見ると怯えるようになった。けれども怪我が良くなって病院を退院したら、施設に入ることになる。軍にいた頃、そんな事例は幾度となく見てきたのに、今になってその流れがどうにも引っかかるようだった。
施設に入ることは悪いことではない。心にできた大きく深い傷も、生活しているうちに少しずつ、痛みが和らいでいくかもしれない。けれどもそれ以上に、ルーファの中には「救われた日のこと」が強く残っていたのだろう。大人が自分に「家」を与えてくれた日のことが。
本を見つけてからさらに二日、ルーファがニアの絵を買いたいと言いだした。譲ってくれ、ではなく、買う、というところが彼らしいと思った。そのときにはもう、例の本に絵と心に関する項目があることを知っていた。しかしそれ以前から――描いた絵が認められるよりも前だ――絵が人の心に与える影響などは、様々なかたちで聞いていた。
自分の絵も誰かの助けになるだろうか。傷ついた心を瞬く間に癒すような魔法は使えないけれど、一瞬でも忘れられるような、それくらいのことはこの手にできるだろうか。逆に楽しいことや嬉しいことを思い出させることは。その一瞬が何度も続けば――。
ニアがニールという子供のことを気にかけるようになったのはそれからだから、初めて会ったときにかけた言葉はほとんど勢いだった。本当に彼を迎える覚悟と準備をするまでが、三週間。
「それじゃ足りなかったね。今日、父さんとやりあってよくわかった。自分の意地が先じゃだめだ」
そうして息を吐いたニアに、イリスはかける言葉が見つからなかった。せっかく落ち着いたのに、また波をたててはいけないと思うと、何を言っていいのかわからない。
だがそれはイリスだけで、頷きながら話を聞いていたシィレーネは笑って言った。
「なんだかんだで親子ねえ。そういうところは父さん譲りなんだから」
「ちょ、ちょっとお母さん」
「仕方ないわね、親子三代意地っ張りってことは、きっとその前もだし。あ、でもおじいちゃんってもっとおおらかな人だったんだっけ」
「叔母さんまでそんな」
「比較的おおらかではあったけど、変なところで意地っ張りだったと思うわ。インフェリア家が意地っ張りの家系なのよ。イリスもサクラも覚えがあるでしょう」
「おばあちゃんも……」
誰も何も言い返さない。よく考えれば、さんざん喧嘩したあとに言い返すもなにもない。ついでに巻き込まれたので、イリスはサクラと顔を見合わせて苦笑した。
こほん、と一つ咳払いをして、カスケードがやっと切りだす。
「とにかくだな。……あんまり急だと驚くから、どうあれ連絡はちゃんとしてくれ。俺が把握してないと嫌だとか、そういうことじゃないぞ。母さんたちのことも考えろ。これはニアのことを子供扱いして言っているわけではなく、大人として対等でいたいからこその頼みだ」
イリスは、そしてもちろんニアだって知っている。カスケードは、父は、嘘を吐かない。性格上吐けないのだ。それはアーサーも、言い方こそ異なるが、よく似ているのだった。
「わかった。意地張ってちゃルーやニールにまで迷惑がかかるから、何かあったら連絡はするよ」
「それと、近いうちに一度ニールを連れてくること。みんなを紹介しなきゃいけないだろ」
「そうだね。うちの家族は多いから、憶えきれるかどうか」
「すぐに憶えるさ。おじいちゃんって呼ばれるの楽しみだなー」
結局はそれを期待していたんじゃないか、とイリスは呆れたが、安心もした。これなら大丈夫だ。ニールはこの大仰な家に歓迎される。それも盛大に来てくれたことを喜ばれる。たくさんのものを一度に手に入れて戸惑うかもしれないけれど、きっと慣れるだろう。
アパートで会ったあの日、イリスが帰るときには、こちらを向いて小さく手を振ってくれたように。
インフェリア家であったことをルーファに正直に報告したニアは、しこたま叱られたようだ。無責任だとか勢いだけで動きすぎだとかそういうことではなく、どうして思ったことを正直に話してくれなかったのか、ということで。そうしたら二人でもっと考えて相談をして、ニアが悩まずに済んだかもしれないのにと。
イリスはそのやりとりのあいだ、別室でニールの話を聞いていた。小さな声で一所懸命に話してくれたのは、ニアが実家に行っているあいだに、ルーファと出かけたことだった。
「ルーファさんの、お父さんとお母さんに会ってきました。おじいさんとおばあさん、それからたくさんの使用人の人たちにも。ルーファさんの家って、大きいんですね。びっくりしました」
どうやらルーファの実家に挨拶に行っていたらしい。みんなに可愛がられたようで、頭を撫でられた、美味しいものをたくさん食べた、など嬉しそうに語っていた。
話し合いを終えたニアが改めてその話を聞いて、心底羨ましそうだった。
「ずるいよ、ルー。僕もそっちに行きたかった」
「ちゃんと家に話しておかないからそうなるんだろ。次はお前の番だ」
片手でニアの、もう片方の手でニールの頭をくしゃりと撫でるルーファを見て、イリスは思った。意地っ張りでも、一人で悩んだ末に突飛な行動をとるようなことがあっても、ニアにはルーファがいるから大丈夫なのだ。これからは、ニールも。
思い出すのは、話合いを終えて実家を辞する直前。一度席をたったイリスが、戻ろうとしたときに聞こえてきた、密やかな会話。
「子供の面倒を見るのはいいが、自分自身を制御できるのか。お前の兵器と呼ばれた力は、消えたわけではない。だからわざわざうちに来て大剣を振い、発散しているんだろう。たまにやるらしいイリスとの勝負、名目上は当主継承のためのものだったか。あれも口実の一つなのだろう」
アーサーが「兵器」という言葉を使うのは、ニア当人の前でだけだ。カスケードやイリスは、その呼称を仕方がないとわかっていながらも不快に思う。ニアは物ではないのだから。
イリスが隠れて唇を噛んだのは、そのせいだけではない。ニアが今でも軍人時代の強さを保っているその理由が、力の制御のためだということを、初めて聞いてしまったからだった。
しかしニアは、「大丈夫」と微笑んだ。声で、笑っているのがわかった。
「ニールにはもう、傷を負わせないよう尽くすよ。ただでさえ恐ろしい思いをしたのだから、危ない目には絶対にあわせない。僕の力はあの子に見せない。……もし危なくても、僕には僕を止めてくれる絶対のパートナーがいるから、おじいちゃんは心配しないで」
ニアが暴走してしまったら、止められるのはルーファだけ。退役してもルーファと一緒にいるから大丈夫だ、という理由で、軍を辞めるのを、つまりは軍の監視から外れることを許されたニアだった。
だがそれ以外の理由でも、ニアはもう大丈夫なのだ。ルーファがいて、ニールがいて、家族がいる。その中にはイリスも、たぶんいる。
「ね、ニール。ルー兄ちゃんの家もすごいけど、うちもすっごいからね。おじいちゃんは顔は怖そうだけど優しいし、おばあちゃんは明るくて美人なの。お父さんは子供が大好きで家族をとっても大事にするし、お母さんは可愛くて芯の強い人。叔母さんは会ったことあるよね、病院でニールを診てくれたお医者さんだよ。頭良いの。他には一緒に住んでるお姉さんとか、お母さんの叔父さんとか。全員わかるようになるかな?」
「……憶えるの、大変そうですね。でも頑張ります。ニアさんと、イリスさんの家族ですから」
はにかんで笑うニールを、イリスは抱きしめた。兄と自分の、だけじゃない。これからは、彼だって。
「ニールも家族だよ。……ようこそ、わたしたちの家へ」
ニールをインフェリア家に迎える今度こそ、一家団欒の時間を過ごそう。優しくて、温かな。自分たちが育まれてきたあの場所に、彼を迎えよう。