ニア・インフェリアの睡眠時間は不規則だ。軍にいた頃は毎日決まった時間に寝起きしていたが、退役して絵を本業にしている今は、描ける時に描いて眠れるときに眠るのが普通になっている。

とはいえ、同居人が規則正しい生活をしているので、起床時間と朝食、夕食は合わせている。夜は客が来ることも多いので、大抵は仕事にならない。深夜になってから仕事をすることもしばしばだ。

そんな生活をしているところに、ニール・シュタイナーがやってきた。新しい同居人は子供で、生活時間帯は同居人であるルーファに合わせるのが好ましい。それに慣れるまでは様子を見ていたい。

しばらくは一日の生活を調整しなければ、と思っていた。

 

「……あ、まだ起きてたんですか? すみません」

深夜、ニールがリビングに現れた。ニアが寝かしつけたはずだが、やはり慣れない環境では目が覚めてしまうのだろう。描きかけだったラフをテーブルに置いて、ニアは立つ。

「眠れなかった? 喉が渇いたかな」

「あ、ええと、それもありますけど……。すみません、まだ落ち着かなくて」

「謝らなくていいよ、当然のことだから」

この小さな子は、すぐに謝る。ニア自身が彼と同じ八歳だった頃より随分としっかりした子ではあるのだが、心に刻まれた大きく深い傷が、彼を俯かせてしまっている。

目の前で唯一の肉親であった母親を殺され、自分も殺されかけた。その体験がどんなに恐ろしいことだったか、現役軍人時代にたくさんの凄惨な事件を見てきたニアにも想像しきれない。一度殺した心を取り戻し、こうしてニアたちのところにやってきてくれたということは、きっとほとんど奇跡に近い。

「ミルクを温めようか。僕は眠りたいのに眠れないとき、いつもそうしてるんだ」

「……ありがとうございます」

やっと謝る以外の言葉が聞けて、ニアは安堵する。ミルクパンにカップ二杯分のミルクを入れて、火にかけてから、ニールを椅子に座らせた。ずっと立ったままだったことに、作業を一通り終えてから気づいたのだ。

「遠慮しないで、座っていいんだよ。ここは君の家なんだから」

「でも、お仕事の邪魔になるんじゃ……」

「ならないよ。ここに住む前は、傍でルーがせわしなく動き回ってるところで絵を描いてたんだから。それに比べたらニールはおとなしすぎる」

それに、遠慮しすぎる。たぶん彼にとって、ニアがまだ「他人」だからなのだろうけれど。いくらか時間をかけて話し合いを進めてきたつもりでも、そう簡単にこの壁は崩れないし、乗り越えるのも難しい。

小さい子供の相手は慣れていると思っていたけれど、それは相手が実妹で、しかも元気いっぱいだったので、さほど気を遣わずに済んでいたおかげだ。この子はまるでタイプが違う。

「よし、温まった。……はい、ニールの分」

ミルクパンからマグカップへ、ホットミルクを移して、テーブルへ。ニールは頭を下げて、カップに触れる。

「ありがとうございます」

「どういたしまして。……眠くなったら一緒に部屋に行こうか」

「お仕事中じゃないんですか?」

「もうある程度は進んでるから大丈夫。見る?」

テーブルの上の何枚かのラフを指さすと、ニールは小さく頷いた。ありがたいことに、この子はニアの絵を気に入ってくれている。まだはっきりとかたちになっていないラフも、興味深げに見ていた。

「これも、どこかの風景ですか?」

「そうなる予定。昔、仕事で行った場所を思い出しながら描いてるんだ」

「すごいなあ……」

絵を見ることで、ほんの少しずつ目の輝きを取り戻していくニールに、今のニアは勇気づけられている。この子と暮らしていく自信が持てる。なにしろ子供を引き取って面倒を見るという決断が、見切り発車もいいところで、周りの人々に叱られたばかりだ。

これで良かったんだ、と思える瞬間が、絵を見てもらうときだった。

「僕は、どこかに行った思い出があんまりないので。こんなにたくさんの風景を見たことがあるニアさんが、羨ましいです」

「じゃあ、どこか行こうか。ルーが休みの時にでも、連れて行ってもらおう」

「あ、ええと、そんなつもりじゃなかったんです。せっかくの貴重な休みを使わせるなんて……」

「ルーも僕も、出かけるのは好きだからいいんだよ」

ニールと一緒に生きたい。たくさんのものを一緒に見たい。そう思うことがどれほど幸せか、この子にも伝わるといいのに。この子も、幸せだといいのに。

でも、たぶんそうなるには、もう少し時間が必要なのだ。

「……出かけて、ちゃんとみんなで帰ってこられますか?」

呟いたニールの瞳は、暗い色をしている。金色の綺麗な眼なのに、いつも不安で翳っている。おそらくは、母と出かけて、一緒に帰ってこられなかった、その日から。

その不安を取り除いてやらなければならないのに、ニアにはまだできずにいる。

「帰って来るよ。この家に、みんなで。心配しないでいいんだよ」

どれだけ言葉を重ねても、ニールを完全に癒すことはできない。

「さっきも、夢を見たんです。……お母さんが、苦しそうにしてて、こっちに手を伸ばしてるのに、僕は何もできない。気がついたら真っ暗な場所にいて、傍には冷たくなったお母さんがいる。……おかしいですよね、電気をつけたまま寝ていたはずなのに、夢の中は暗いんです」

このつらい記憶からは、簡単には逃れられない。壕に閉じ込められて暗闇を恐れるようになったニールは、部屋の電気を消して寝ることができない。寝られたかと思っても、こうして起きてきてしまう。

怖くて、つらくて、眠れないとき。ニアはどうしていただろう。どうしてもらっていただろう。

「夢は、見るよ。……僕もね、小さい頃から、とても怖い夢をよく見るんだよ」

「ニアさんも?」

頷いて、思い出す。自分の持つ力が大きすぎて止められず、自我を失って大切な人を傷つけたこと。もう少しでこの国までも壊してしまいそうだったこと。あのとき、意識はほとんどなかったはずなのに、目に映っていたものは夢というかたちをとって記憶の底から取り出される。さあよく見ろ、これがお前の業だ。そんなふうに言われているかのように。

「怖い夢を見たときや、不安で眠れないときは、ルーに一緒に寝てもらうんだ。手をつないでね」

「今でも、ですか?」

「今でも、だよ」

どうしようもない状態から引き上げ、受け止めてくれるのが、パートナーだった。彼がいなければ今のような生活はできていない。その彼を傷つける夢を、ニアは繰り返し見ているのに。

「ルーと一緒だと安心するんだ。何があっても大丈夫だって思える。それくらい強い人だから、ニールもどんどん頼っちゃいなよ。もちろん僕にも。それでも不安なら……そうだな、イリスやレヴィとか」

「イリスさんはともかく、閣下に頼るなんて畏れ多いです」

「うーん……ニールは気を遣いすぎなんだよね。うちに来るのはレヴィだよ。大総統閣下としての仕事を終えた、ただのお兄さんなんだけど。もっと気楽にしていいのに」

苦笑いしていたら、ふあ、と欠伸が漏れた。それはニールに伝染する。目も擦り始めたから、ホットミルクがうまい具合に効いてくれたのかもしれない。

「眠くなってきた? ルーの部屋で寝ようか」

「え、でもルーファさんが寝てるの、邪魔しちゃ悪いですよ」

「ルーは一緒に寝るの大歓迎だって言ってるよ。ああ見えて、彼だって寂しがりなところがあるんだ」

空になったマグカップを片付けて、ニールの手を引き、寝室へ。普段はルーファが使う部屋になっているのでそう呼んでいるが、もともとはニアも一緒に寝るために用意した部屋だ。ニアの部屋は画材と絵と、絵の具の匂いに満ちていて、当人以外はなかなか眠れない。ニールの部屋は今まで客間だったところを彼のために改装した。

ルーファの部屋には、本棚と机と、大きなベッドがある。明かりをつけると、寝入っていた彼が薄く目を開けた。

「……一段落したのか」

「まあね。ニール、先に入って。ルー、電気つけたままで大丈夫だよね?」

「問題ない。おいで」

寝転がったまま腕を広げたルーファに、ニールはおずおずと近づいて、躊躇いながらもその隣に体を横たえる。この子をあいだに挟むようにしてニアもベッドに入ると、ルーファは二人をいっぺんに抱きしめようとした。手が届かなくて、ニアに添えるだけになってしまっているけれど。

「子供の頃、父さんと母さんが、俺を真ん中にしてこうやって寝てたなあ。懐かしい」

「僕も。ニールのおかげで嬉しい思い出がよみがえってきたよ」

二人で囁くと、ニールは照れたようにちょっと笑って、目を閉じた。それを確かめてから、ニアとルーファも。

おやすみなさい。どうか良い夢を。もし怖くても、すぐ傍にいるから、どうか安心して眠って。何度だって、いつだって。

 

規則正しい寝息が三つ、部屋を静かに満たしていく。