軍家インフェリア。建国御三家の一柱であり、この国の頂点である大総統を何度も輩出している名家だ。歴史の文献にも名を遺し、その力は伝説として語り継がれる、「地獄の番人」。

「君がニールか。賢そうな顔をしてるな。まあ、そんなに緊張せずに、そこにあるクッキーでも食べろ。茶はとりあえずアップルティーにしてみたけど、他にもいろいろあるぞ」

施設にあった歴史の本にそう書いてあったから、どんな怖い家なのかと思っていた。けれども自分を引き取ってくれたニアがインフェリア家の人間だと知り、少しイメージが変わった。さらにニアの妹であるイリスがとても気さくで明るいお姉さんだとわかって、インフェリア家が軍家であることを忘れた。

「ああ、自己紹介をちゃんとしておかなきゃな。俺はカスケード・インフェリア。ニアとイリスの父親だ。ニールは気軽に、おじいちゃん、と呼んでくれていいぞ!」

そしてこの現当主に会って、インフェリア家への恐怖は完全に消え去ったのだった。

「え、ええと……」

血の繋がりもないのに、本当におじいちゃんなんて呼んでいいものか。戸惑うニールに、ニアが微笑む。

「気にしないで、好きなように呼べばいいよ。それとクッキーは、ニールの口に合わないかもしれないから、手を出さないほうが無難かも。買ってきたケーキを切るから待ってて」

「は、はい……」

ニール・シュタイナーは、この日初めてインフェリア家を訪れた。先日、もう一人の引き取り手であるルーファの実家に行って、盛大なもてなしを受けてきたところだが、こちらも負けてはいない。大勢の使用人や毛足の長い豪奢な絨毯こそないが、歓迎の度合いはどうやらそう変わらない。

ニアとともに簡単に挨拶をするはずが、いつのまにやら椅子に座らされ、テーブルの上にたくさんのお菓子と良い香りのするお茶を広げられていた。

緊張しながらカップを手に取り、リンゴの香りのお茶を一口飲んで、ようやく息を吐くことができた。お茶の味は、普段生活をしているニアとルーファの家のものと同じだ。

「美味いか?」

しかしそう尋ねてくる声は、さっき会ったばかりの人のもの。ニアと同じ暗い青色の髪と海色の瞳をしているが、体はずっと大きい。年齢は五十をとうに越えて六十に近いというが、もう少し若く見える。だがたしかに、ニアたちよりは年上であり、この大きな家の主らしい風格もどことなく感じるのだった。口調が明るいので、その分だけ、ほんの少しだが、気が楽だった。

「お、美味しいです。クッキーもいただきます」

手を伸ばして、皿に盛られたクッキーを一枚取る。ニアが「あ、だからそれは」と言うのが聞こえたのと、クッキーを口に含むのは同時だった。……食感はたしかにクッキーなのだが、味がおかしい。クッキーとは砂糖が入っているものではなかったか。少なくとも唐辛子や胡椒は入らないはずだが。

「……か、からい……?」

「ほら、だから口に合わないかもって言ったのに。母さん、ニールのは甘くしてって言ったよね」

「もう甘いクッキーの作り方なんて忘れちゃったわよ。またシェリーさんに訊かなくちゃ」

台所から聞こえる可愛らしい声が、恐ろしいことを言う。やっぱりインフェリア家は怖い家かもしれないと、また思い始めたニールだった。

 

今日はルーファは仕事、いつも遊びに来るイリスも同じく仕事だ。何故かしょっちゅうやってくる大総統閣下ももちろん仕事である。ニアは自由業なので、仕事の調整さえつけば出かけることができる。

インフェリア家訪問も、ニアが引き受けていた仕事を一段落させて、やっと実現できたことだった。ニールについてニアが実家に報告をしてから、一週間が経っている。そのあいだ、ニアのところには「まだニールを連れてこないのか」という実家からの催促の電話が毎日きていた。

「インフェリア家は軍家だけど、父さんと母さんはあんまりそういうの気にしてないから。怖がることはないよ。それより早くニールに会いたいみたい」

半ば呆れて引き攣った笑いを浮かべ、昨夜のニアは言った。軍人はまだ少しだけ怖いが、ニアがそう言うなら来てみたい。ニールはそう思って頷き、この家を訪れた。実際、カスケードも、ニアの母であるシィレーネも、元軍人とは思えないような、優しくて人懐っこい人物だ。それをいうなら、現役の軍人であるイリスもそうなのだけれど。

「わあ、ニアの小さい頃の服がぴったり! これなら買っておいた新しい服も着られるわね」

シィレーネが古くもきちんと手入れのしてある服をニールにあてて喜ぶ。残念なクッキーを作ってしまう人だが、ニールのことは本当に可愛いらしい。

「やっぱり小さい子はいいわね。成長してももちろん可愛いんだけど、この年頃はまた違うのよ。ニアもイリスも、こんなにちっちゃかったのにね」

ニールには想像ができない。自分が着られるような小さい服を、ニアやイリスも着ていたことがあるだなんて。二人とも、年齢の割に背が低く手足も細いニールから見れば、随分と大きいのに。

「昔のニアは絵を描くのが好きだったな。あ、それは今もか。性格は素直で可愛かったんだぞ」

「はいはい、今は可愛くないね、ごめんね。ニール、新しい服着てみたら? 母さんたち、気合入れて選んだらしいよ」

「新しいの……いいんですか?」

「もちろんよ! それとね、敬語なんかいいわよ。気軽におばあちゃんって呼んで」

おばあちゃんと呼ぶには、シィレーネはまだ若いような。そんな気持ちもあって、ニールはその言葉を口に出せない。とりあえずは「はい」と返事をしておいた。

インフェリア家の人々は、思っていたよりずっと元気で賑やかな人たちだ。顔をよく見れば、ニアはシィレーネに、イリスはカスケードに似ているようだ。そこに全く似ていない自分が入っていいものか、とニールはどうしても考えてしまう。ニアやイリスは、家族だ、と言ってくれるけれど。

新しい服もどうしても不釣り合いな気がしてしまって、嬉しいのに、少し胸が苦しかった。

「おお、よく似合ってるじゃないか。写真を撮っておこう」

喜んでカメラを構えるカスケードに、本当は笑顔を向けるべきなのだろう。でもニールは、うまく笑えている気がしなくて、ついニアの後ろに逃げ込んでしまった。カスケードたちに、こんなに良い人たちに、ぎこちない表情を残すなんてできない。

「写真、あんまり好きじゃなかったか?」

「いきなりカメラ向けられたらびっくりするよ。レヴィもカメラ持って来るけど、未だに撮らせてもらえないんだから」

「まあ、そうだよな。俺が悪かった。写真はもっと慣れてからだな」

カスケードがカメラを下ろすと、ニールはホッとした。そんな自分が嫌になった。

本当に可愛い子供というのは、大人に笑顔を見せるものだろうに、自分はそれができないのだ。母を喪ったあの日に、笑顔は置いてきてしまった。ちょっと笑うくらいならする。面白いことは面白いし、嬉しいことは嬉しい。でも、それを表に出せている気がしないのだ。

ニアの後ろから出てこないニールを、カスケードはしばらく見ていた。それから唐突に、ぱちん、と指を鳴らして、何か愉快なことを思いついたという顔をした。ここ最近見ていた、絵を描くのに良い色を作ることができたときのニアに似ている。

「よし、ニール。今日はいい天気だし、気温もなかなか高い。そんな日にぴったりのいいものを、俺と一緒に食べに行こうか」

「食べに、ですか?」

テーブルの上に、もうたくさんお菓子があるというのに。でもそんなことはまるで気にしていないふうに、カスケードは鼻歌まじりにこちらへやってきた。そして突然、ニールの脇の下に手を入れ、ひょいと頭上に掲げた。

「わ、わ、高い」

「だろ? 足を俺の肩にかけろ。……そうそう、上手だ」

言われるままにすると、肩車になった。建物にあがる以外の方法で、こんな高さでものを見たことはない。誰かの肩に乗るなんて、生まれて初めてだった。

「そっか、それは父さんにしかできないね。ルーだと微妙に低いし。ていうか、よくそんな体力あるね」

「ニールが軽いんだ。ちゃんと食ってるか? ニア、普段の食事はどうしてるんだ」

「グレイヴちゃんやアーシェちゃんの差し入れか、パン食べてる。イリスにはもっと食べさせてあげなよって怒られた」

「それは怒るだろ。ニアは俺とニールが出かけているあいだに、シィに料理を習っておけ。辛くないやつな」

どうやらカスケードは、このまま出かけるつもりらしい。ニールは戸惑った顔をニアに向けたが、「いってらっしゃい」と帽子を渡され、手を振られてしまった。ドアを通るときも言われるままに頭を下げ、玄関で靴を履かされ、そのまま外へ連れ出されてしまう。

「本当にいい天気だな。帽子、ちゃんとかぶっておけよ」

「はい……」

視界が広いおかげで、肩車は、それも二メートルをゆうに超えたものは目立つということもよくわかってしまった。ニールは帽子のつばで顔を隠し、カスケードの肩の上で背中を丸めた。

 

街は、ニールが母を喪う前と後とで変わっている様子がない。インフェリア邸に向かうときも思ったが、誰も何事もないように歩いている。賑やかに笑い、ある人は怒り、何を考えているのかまったくわからない人もいる。自分と母が巻き込まれた事件は随分と話題になったそうだが、それも一時期のことで、今はみんな忘れてしまっているのだろう。

視線が集まっている気がするのは、肩車が目立つからで、それをしているのがカスケードだからだ。ときどき、「元大総統閣下だ」という囁きが聞こえる。それが耳に届けば、カスケードはすぐにそちらを振り返り、手を振って挨拶をするのだった。

「こんにちは、いい天気ですね」

「ええ、暑いくらいで。あの、そちらのお子さんは?」

「うちの新しい家族です。どうぞよろしく」

普通なら変に思いそうな紹介も、なぜか誰もが「インフェリアさんのとこなら」と納得した。飴をくれる人もいる。「またですか」と笑われることもある。……また?

歩きながら、カスケードが説明してくれた。どうやらインフェリア邸には、ニールがまだ会っていない住人がいるらしい。

「ラヴェンダっていうお姉さんがいるんだよ。見た目はイリスと同じくらいか。お父さんが迎えに来るまで、うちで預かることになってるんだ。パン屋で仕事してるから、ちょっと顔を出していこう」

そう言って、美味しそうな良い匂いのする通りに入り、脇に整然と並ぶ店の一軒に入ろうとした。が、扉の前で止められる。「ちょっと、お客さん」と声をかけた相手を見下ろすと、店の看板と同じデザインの文字が書いてあるエプロン姿の女の人だった。

「店に入るときは肩車禁止。そんなに広い店じゃないからね」

「惜しいけど仕方ないな。そうだ、シェリーちゃんにも紹介するよ。うちのニール」

屈んで、ニールを肩からおろしながら、カスケードが言う。パン屋の人らしい女性は、「ああ、シィが言ってた子」と頷いた。

「可愛いじゃない。エイマルの一つ下だっけ。はじめまして、おばさんはシェリアっていうの」

「は、はじめまして。ニール・シュタイナーです」

「小さい頃のニアを思い出すなあ。似てるよね」

「シェリーちゃんもそう思う? ニアよりちょっと内気だけどな。ニール、シェリーちゃんはニアのお母さんの親友なんだ。うちのパンはだいたいこの店のだな」

道理で親しいわけだ。納得するニールの頭を帽子の上からぐりぐり撫でてから、シェリアは店の中へ通してくれた。

パンの香ばしい匂いと、果物やハーブの香り。以前、ここではない別の店に、母と行ったことを思い出した。大きくて甘いパンを一つだけ買って、二人で分けて食べたのだった。

対してカスケードは、トレイの上にどんどんパンを載せていく。ニールにも好きなものを訊いてくれたけれど、思い出の中のパンはこの店にはないので、なんでもいいです、と返した。実際、どれが美味しいのかわからない。ニアたちのところに来てから食べているパンも、ここのものではないそうだし。どれも美味しいのだろうけれど、ニールの知らない味であることには変わりない。

「持って帰って、ニアたちと一緒に食べるといい。ニアもここのパンは好きなはずなのに、あんまり来ないからな」

「そうね、私がいるからかしら」

カスケードについてレジカウンターへ向かおうとしたところに、突然女性が立ちはだかった。思わずカスケードの後ろに隠れたが、よく見ると店のエプロンをつけている。栗色の髪をまとめた彼女は、カスケードとニールを交互に見た。

「シェリアから連れてきてるってさっき聞いたけど、本当に小さいのね」

「お疲れ、ラヴェンダ。ニール、この人がうちに住んでるお姉さんだ」

イリスと同じくらいの年頃とさっき言っていたような気がするが、ラヴェンダという人は背がさほど高くなく、顔立ちもイリスより少しだけ幼く見える。けれども、こちらをまるで品定めでもするかのような眼は、もっと年上の人のもののように感じた。

「人見知りするんだよ。さっきは俺も逃げられた」

「へえ。……ま、私はほとんど家にいないから、安心しなさい」

笑顔もなんだか妖しい。この人にはまだしばらく慣れることができないかもしれない、とニールは思った。それに、この人がさっき言ったことも気になる。会計をしてパン屋を出て、今度はカスケードと手をつないで歩きながら、ニールはおそるおそる尋ねてみた。

「あの、どうしてラヴェンダさんがパン屋さんにいると、ニアさんが来ないんですか?」

カスケードは困ったように笑って、「なんて説明したらいいかな」と呟いた。

「ニアは、ラヴェンダとどう付き合っていいか、長いこと考えてるんだよ。仲が悪いわけじゃないんだけど、距離をおいてるんだ。一応はルーのいとこみたいなものでもあるから、普通に仲良くしてほしいんだけどな」

「ルーファさんのいとこですか? ラヴェンダさんが?」

「そのあたりの事情は複雑なんだよ。俺も説明に困る。これはルーに聞いたほうが、わかりやすい答えをもらえるかもしれない。……でも、ラヴェンダも今はうちの大切な一員ってことには変わりない。そのうち慣れてくれよ」

ニールはこくりと頷いて、いつになったら慣れられるかな、と思った。ラヴェンダのことだけではなく、ほかのたくさんのことにも。そこには手をつないでくれている、カスケードの存在も含まれている。

おじいちゃんと呼んでくれ、とこの人は言った。でもニアとニールは親子ではないのだから、カスケードはニールの祖父にはなりえない、と思う。そもそも今までおじいちゃんと呼べる人がいなかったニールには、その存在自体を掴みにくい。この人を、これからどうとらえたらいいのだろう。

インフェリア家の人たちは、ニールにとって何なのだろう。

 

パンの匂いとともに歩いていくと、人だかりができているのに遭遇した。突然乱暴な怒号が響き、ニールはとっさにカスケードにしがみついた。そっとニールの頭を撫でてくれた手は大きくて優しいけれど、いくらかの緊張が伝わってくる。

「あれは……喧嘩、ではなさそうだな。でも穏やかじゃない雰囲気だ。解散させたほうが街のためだな」

背の高いカスケードには、何が起こっているのか見えるようだ。屈んでニールと目線を合わせると、真剣さと心配が混じったような声で言う。

「俺はあの集団をなんとかしてくる。ニール、ここで待っていられるか?」

周りには通りすがる人がいる。みんな人だかりを避けていく。怒鳴る声が、ときどきそんな関係のない人たちにまで飛んだ。――ここは、怖い。

首を横に振って、カスケードにしがみついた。そもそもなんとかするって、どうするつもりなのだ、この人は。

「……そうだよな、待てないよな、ひとりでなんて。もうそんな思い、したくないよな」

抱きしめ返して、背中を優しく叩いてくれる。この人に危ない目に遭ってほしくない。怖いところなんかさっさと通り過ぎて、もう帰ろう。そう言いたかったのだけれど。

「でも、俺は見過ごせないんだ。あの集団を放っておいたら、怖がる人はもっと増える。軍の見回り時間は、このあたりはもうとっくに過ぎているから、誰かが通報しない限り人は来ない。来たとしても、あれをなんとかするには時間がかかるだろう。そうたくさんの人を寄越せるような案件でもないしな」

カスケードはそのままニールを抱き上げた。そして、帽子を深くかぶり直させて、「耳を塞いで目を瞑っていろ」と囁いた。

この人は何をする気なんだろう。言う通りにしていたら、それがわからなくなる。わからないほうが、怖くなくていいのかもしれない、けど。どうにかできるものならば、どうするのかも気になってしまった。

だからほんの少しだけ目を開け、手は耳に軽く触れるだけにしておいた。がなり立てる声がだんだんと近づいてくる。いや、カスケードが声のほうへ歩いていっているのだ。

「お前たち、何やってるんだ?」

騒いでいた集団にかけた声は、ニールに話しかけるそれとは違う。どきりとするような、重さをもったものだった。

「何って、遊んでるだけだよ」

「弱い奴を鍛えてやってんの。おっさんの出る幕じゃねぇから」

品が良いとはとてもいえない笑い声が響く。ちらりと周りを見ると、人だかりになっていたのはみんながそこに群がっていたのではなくて、そこから動けなくなっていたのだとわかった。腕や足を、おさえたり引きずったりしている。屈んでいるのではなくて、体を痛めて立ち上がれないのだ。

「何をして鍛えてたんだ」

「アームレスリングだよ。足も使うけどな」

それはもう、アームレスリングとはいわないのでは。少なくとも、ニールの知っているそれとは違う。そっと振り向くと、カスケードより身長は低いが、腕の筋肉が隆々と盛り上がっている男がいて、足を踏み鳴らしていた。この男と取り巻きが、周りの人たちを痛めつけたのだろう。

「そういう感心しない遊びがあるのは聞いたことがあるけど、往来でやるのはもっと良くないぞ。通る人が怖がってるじゃないか」

「知るかよ。無謀な挑戦してくる小者と逃げてく弱虫なんか、どうでもいいね」

そうだ、そうだと取り巻きたちが騒ぐ。どうでもいいなら放っておいてくれればいいのだけど、彼らの言い分はきっとそういうことではないのだ。「自分たちが何かをした結果、他がどうなろうと、どうでもいい」という、なんとも身勝手な思いがそこにある。その「悪意」を、ニールは知っていた。その「悪意」に大切な人を奪われ、自分も殺されかけたのだ。

やっぱり、言われたように耳を塞いで、目を閉じていよう。怖くないように。

「じゃあ、勝算のある挑戦者ならどうだ。どうでもよくはならないな?」

けれども力強い声に聴き入ってしまった。目を開けて、その表情を見たくなってしまった。

「俺も勝負を申し込もうじゃないか。そして俺が勝ったら、この場から速やかに立ち去るように」

ニールは顔をあげる。男たちを睨むでもなく、ただまっすぐにその海色を向ける人が見えた。

「なんだこのおっさん……」

男の声が震えたのがわかった。気圧されたんだ、と思うと、ニールの胸がどきどきしてくる。怖いからではなく、これから何が起きるのかという期待だ。不思議と恐怖は薄れていて、自分から口を開くことができた。

「あの、僕、おりて見てます」

「見てるのか? ちょっと離れててほしいんだけど……」

「わかってます。道の向こう側にいます」

カスケードが地面におろしてくれたのと同時に、ニールは走ってその場を離れた。そして通りかかった人を思い切って引き留め、頼みごとをした。

道の向こうではカスケードが相手と手を組み、肘を台の上に置いた。取り巻きの合図で、アームレスリングとは名ばかりの、数人がかりでの酷い暴行が始まった。

取り巻きがカスケードの足を、わき腹を、蹴ったり殴ったりする。周りで動けない人たちも、ああして攻撃されたのだろう。そんな中で、腕に力を込めろというのが無茶だ。

「どうした、おっさん。大口叩いてこの程度かよ!」

男がカスケードの腕を倒そうと、力を込めている。それは遠目にもわかる。だがその口調とは裏腹に、どこか焦っているような。ニールの目と耳には、そう感じた。

腕に力を込められているはずなのだ。体中に拳や蹴りも浴びている。だが、カスケードの体は動いていなかった。腕をねじられ倒されることもない。男がリードしているように見えるが、その位置で止まっている。

ついに頭まで殴られるのを見て、ニールは思わず目を瞑った。だがもう一度開いたとき、状況はその前と何一つとして変わっていなかった。――いや、違う。男と取り巻きたちが戸惑っているのが、はっきりと見えた。

「……この程度、ね。俺も同じことを、お前らに訊きたい」

遠くから来る足音も、車のやってくる音も、ニールの意識に入ってこない。聞こえてくるのは、獅子の呻り声のみ。

「この程度で威張っていたのか? 不良一人よりぬるいぞ。まだまだ経験が浅いな、若造ども!」

目に飛び込んでくるのは、腕だけではなく体ごとひっくり返される男と、散って逃げる取り巻きたち、その中心に堂々と立つ、青い大きな獅子の姿。

ああ、これだ、とニールは息を呑む。これが「地獄の番人」、インフェリアなのだ。

 

逃げようとした取り巻きたちは、すぐに駆けつけた軍人に取り押さえられた。体を打撲や捻挫で痛めていた人たちは、軍と一緒にやってきた救急隊に運ばれた。それを地面に転がったまま唖然として見ていたリーダーの男は、軍人の少女に襟首を掴まれた。

「まったく、この忙しくて暑い日に、変な騒ぎなんか起こしてくれちゃって。元大総統相手に暴れたって、敵うわけないじゃない」

現場にやってきたイリスは大きな溜息を吐き、男を立ち上がらせた。すっかり大人しくなってしまった彼は、されるがままに従う。

「イリス、悪いな。予想より来た軍人が多いみたいだけど、レヴィの判断か? それと救急まで」

服についた土埃を払いながらカスケードが尋ねると、イリスはさらに眉を顰めた。

「レヴィ兄じゃないよ、こんな些細なの。でも、カスケード・インフェリアが大勢の人を相手にしてて、怪我人も何人も出てる、なんて通報受けたら、こっちだってそれなりの対応しなきゃいけないじゃない。わたしは別の仕事があったんだけど、お父さんのために動いてあげたんだからね!」

「名指しの通報? そんなの誰が……」

首を傾げたカスケードに、駆け寄ってしがみついた者があった。イリスも彼を注視する。

「あれ、ニール? なんでこんなところにいるの?」

「俺と一緒に出かけてたんだ。ごめんな、怖かっただろ」

カスケードが屈みこんで、ニールの顔を見た。眉が八の字になってはいたけれど、それは恐怖のせいではない。金の瞳に怯えはなかった。

「あの……僕が、通りかかった人に頼んだんです。今、イリスさんが言ったみたいな通報をしてほしいって。ええと、もしかして変な誤解とかありましたか? イリスさんたちに迷惑かけましたか?」

「ニールが?」

カスケードは目を瞠り、イリスは掴んでいた男を放り投げた。男は他の軍人が受け止め、そのまま連れて行く。それをニールが目で追おうとした瞬間に、イリスが抱きついてきた。

「偉い! よく頑張った! ニールのおかげですぐに駆けつけられたんだもん、全然迷惑なんかじゃない!」

「そうだな。俺も熱くなってて、後のことあんまり考えてなかったから、ニールに助けられたよ。ありがとう」

「あ、あの……ええと、僕、迷惑じゃなかったんですね? イリスさん、別の仕事とか言ってましたけど……」

「そんなの気にしないで。いつだって何度だって人を助けることが、わたしたちの仕事だもの。軍を頼ってくれて、ありがとう」

ご協力ありがとうございました、と敬礼してみせたイリスに、ニールは照れながら、ぺこりと一礼した。その頭を撫でながら、イリスはカスケードに向き直る。

「さて、本件の当事者であるお父さんには、色々と訊きたいことがあるんだけど……」

「あとで必ず行く。だから先にニールを送らせてくれ。アイスクリーム食べさせたかっただけなんだけど、どうしてこんなことになったかな」

「アイスね。今度わたしにも奢ってくれるんなら、待ってあげてもいいよ」

その時はまた、ニールも一緒にね。そう言ってイリスは、仕事に戻っていった。

 

そこはもう長いこと街で人気のアイスクリーム店だそうで、今日も列ができていた。ニールが近くのベンチに座って待っていると、カスケードは「やれやれ」とアイスクリームのカップを持って戻ってきた。

「老体に鞭打った後の行列はきついな。でもここのアイス食べたら回復するんだ、あっという間にな」

「ありがとうございます」

カップを受け取り、いただきます、と言って一口。なるほど、これは行列もできるわけだ。何のトッピングもない普通のバニラ味のアイスクリームなのに、今まで食べたことのない美味しさだった。

「とっても美味しいです」

「だろ? 子供の頃、親友とよく来たんだ」

嬉しそうに、自分もアイスクリームを食べるカスケードは、さっきとはまるで別人のようで、けれどもたしかに同じ人物だった。彼はニアとイリスの父であり、元大総統であり、そしてニールにとっての。

「……さっき、すごくかっこよかったです。こんなにすごい人をおじいちゃんって呼んでいいのかなって思うと、どきどきしました」

今、その呼称を口にするのも緊張した。けれども最初の戸惑いではなく、あんまり嬉しくて、本当にこんなことがあっていいのかと思っての緊張だ。

カスケードはにんまりと笑って、ニールの頭を撫でる。

「好きなだけ呼べ。いや、呼んでほしい。知り合いがおじいちゃんとかおばあちゃんとか呼ばれてるのが、俺も羨ましくてな」

目元の笑いじわも、おじいちゃんと呼ぶのを許してくれるようだった。もう一度呼んでみようか、と思ったけれど、アイスクリームが溶けてしまいそうだったので、食べることを優先した。

お土産にはパン。話したいこともたくさん。これからこんな日が、もっともっと増えていく。そう考えると、アイスクリームの美味しさも相まって、ニールの表情は自然と緩んだ。

 

その晩、ニールが出かけた先であったことを話すと、ルーファは喜んで聞いてくれた。さすがにカスケードが乱暴者たちのところへ乗り込んでいったあたりでは、肝を冷やしたようだったが。

「帰ってからカスケードさんはすぐに軍に行っちゃったんですけど。ちゃんと事情を話さないと、イリスさんに怒られるからって」

「それはそうだよな。ニールが無事で良かったよ。インフェリア家にも慣れたみたいだし」

あのあと、ニアたちの祖父母、アーサーとガーネットにも会った。厳しそうな人ではあったけれど、すでにカスケードのおかげでインフェリア家の「獅子」たる側面も見ていたので、さほど怖いとは思わなかった。むしろちょっと怖かったのは、台所をごちゃごちゃにしてしまっていたニアとシィレーネのほうだ。

「……で、ニールが出かけているあいだの、ニアの修行の成果がこのスープか。たしかに辛くはないけど、しょっぱくもないな。甘いわけでも酸っぱいわけでもない」

「無味って言えばいいじゃない。おかしいな、母さんと作ったときは、もうちょっと味がしたんだけど」

「あ、あの、僕も何か作れるようになりますから……イリスさんも今度教えてくれるって……」

「ううん、ちゃんとしたものをニールに食べさせられるようにならないとね」

明日の朝は、お土産のパンでいい。でも、お昼以降は何が出てくるのだろう。それを考えると、カスケードの無茶を見ている時よりはらはらするニールだった。

「そういえば、うちでは父さんと母さんのこと、おじいちゃんおばあちゃんって言わないの?」

「直接会ったときに呼ぼうと思います。ルーファさんの家では、まだ一度も呼んでないので」

「呼んだら呼んだで動揺しそうだけどな」

ニールにとって、インフェリア家の人々とは何なのか。結局その答えはまだ見つかっていないけれど、これからまだ探せる。ルーファの実家にしてもそうだ。

ただ、そこにはニールの居場所がちゃんとある。それだけはたしかなのだ。