任務が続いて、なかなか休みがとれなかったので、今日は久しぶりの非番だ。だがいつものメンバーは仕事なので、一人だけすることがないと暇になる。こんなときは、最近では本を読むのもなかなか面白くなってきたのだけれど、やっぱり外に出たい。

行くところがないわけではないのだが、それまでの時間があいてしまうので。

「……そうだ、お兄ちゃんのところに行けばいいんじゃん!」

さっと支度を済ませ、イリスは寮を飛び出した。目指す先は、兄のいるアパート。

……だったのだが。

土産を買ってから目的地を訪れると、そこには珍しい光景があった。珍しいが、楽しくはない。

「イリス、いらっしゃい。今日は休み?」

兄、ニアの笑顔は穏やかなようで、どこかよそよそしい。イリスにはわかる、これは機嫌が悪い時のニアだ。けれども原因がイリスにはないので、こうして笑っているのだ。

「うん、お休みもらった……。あ、でも、忙しいならお土産だけ置いてくよ」

「上がっていけよ、茶も淹れるから。ニアも茶だけは美味く淹れられるし」

奥からこちらを覗いたルーファ(どうやら彼も休みだったらしい)が、「だけ」を妙に強調して言う。ニアがピクリと眉を動かし、返した。

「そうだね、お茶を淹れるのは得意だと思ってるよ。誰かさんが淹れるみたいに薄くないし」

「はっきり言えばいいだろ、俺の茶が不味いって」

「不味くはないよ。味と香りがないだけで」

ニアとルーファの喧嘩は珍しい、というのがイリスの認識だ。大抵の場合、何かあっても先にルーファが折れるので、ここまでピリピリした空気にはならない。ところが今日はルーファのほうにも、そう簡単に引き下がる気配がない。

玄関で立ち竦んでいると、奥から少年が困った顔をしてやってきた。とある事情でこの家に住むことになった、ニールという彼にとって、たぶんこんな状況は初めてだろう。

「イリスさん、いらっしゃいませ」

「こんにちは、ニール。……ねえ、お兄ちゃんとルー兄ちゃん、何かあったの?」

声を潜めて尋ねると、ニールは半分泣きそうになりながら、こちらも小さな声で言った。

「朝ごはんのときに、ちょっと」

ことは朝食のときに起こった。普段はパンとインスタントのスープなどで軽く済ませるのだが、今日はサラダや卵料理、ちゃんと作ったスープなど品数が多かったという。

たまにはちゃんとやらなきゃね、とニアは笑っていた。そのときは朝食の準備をやりきった、清々しい笑顔だった。

ところが遅く起きてきたルーファは、食卓を見るなり難しい顔をした。これは全部ニアが作ったのか、と怪訝な表情で尋ねる。まだ何か用意しようとしていたニアに代わって、ニールが頷いた。

いつもならきちんと席について、「いただきます」と食事を始めるところだ。だがルーファはパン以外の料理――サラダ、スクランブルエッグ、スープを少しずつ口に含んで、そのたびに咳き込んだ。そしてニールに言ったのだ。「食うな」と。

「僕は結局食べてないんですけど、なんだか味が……その、普通と違ったみたいで。ニアさんはそれを聞いてちょっと機嫌が悪くなったんです。でもそのあとがもっと大変で……」

美味しくないっていうなら、ルーがやってみてよ。機嫌を損ねたニアがルーファに場所を譲った。残った材料で、ルーファはテーブルに並んでいるのと同じメニューを作ろうとした……のだと思う。なにしろ出来上がったのがなぜか全て彩りが悪く、卵に至っては真っ黒になっていたので、本当のところがわからなくなってしまった。それを見たニアが、「ほら、ルーだってできないじゃない」と溜息を吐いたところから、状況はより険悪になった。

味はお前のよりマシだよ。見た目がきれいじゃなきゃ食べる気すら起きないじゃないか。だいたい料理の練習してるっていうけど、全然上達してないだろ。人の苦労も知らないで自分のことを棚に上げて、今日だって寝坊したくせに、そんな言い方ないんじゃない。

あからさまに騒いでいるわけではないのだけれど、二人のやり取りがどんどん激しくなっているのが、ニールにもわかった。あいだに入っていこうにも、どうしたらいいのかわからない。どちらかの味方をしようにも、そうすればどちらかと拗れてしまう。

そうして困っていたところにやってきたのが、イリスだったというわけだ。

「あー……ついにこの話題で爆発しちゃったのね。みんな揃ってゆっくり朝ごはん食べられると思ったから、お兄ちゃんってば頑張りすぎちゃったのか……」

イリスもわかっている。ニアは料理が下手だ。見た目はとてもきれいに作ることができるのだが、味に関しては本人の味覚が少々性質の悪い方向におかしいのもあって、食べるのは難しい。

食事の相手がルーファ一人なら、黙って完食しただろう。だが、子供であるニールがいるとなれば別だ。子供にはまともなものを食べさせてやりたいというルーファの気持ちは、イリスにはよくわかる。けれども子供がいるからこそはりきって食事を準備したニアの気持ちも、同じくらい理解できる。

「あの、僕がいるから喧嘩になっちゃったんでしょうか……」

結局ニールが狼狽してしまうということに、二人は気づいているのかどうか。

「ニールは悪くないよ。いずれはこうなると思って、わたしもお兄ちゃんに料理教えてたんだけどね。やっぱりまだだめだったか」

イリスは溜息を吐いて、それからニールに彼の靴を差し出した。首を傾げる少年に、にっこり笑ってみせる。

「わたしと朝ごはん食べに行こう、ニール。お兄ちゃんたちの機嫌が直ってから帰って来ればいいよ」

「え、でも」

「だてに幼馴染やってないから、そのうち仲直りするでしょ。でもそれまでニールがお腹空かせてるなんて道理はない。というわけで、お兄ちゃん、ルー兄ちゃん、なんとかしておいてよね。ニールはわたしが預かった! あと今日の予定、忘れないでよね!」

ええ、とか、なんだと、とか、そんな声を聞きながらニールに靴を履かせ、手を引っ張って外へ連れ出す。行くあてはある。どうせ行こうと思っていた。

「本当にいいんでしょうか……」

「いいのいいの。たまに喧嘩させないと、あの二人もすっきりしないし」

振り返り振り返り歩くニールを連れて、イリスが向かったのは慣れ親しんだ場所。

 

「ごちそうさまでした。あの、食器はどこに」

「いいのよ、私が片付けるから。普段からちゃんとお手伝いしてるのね、ニール君偉いわ」

パンにベーコンエッグという簡単だが美味しい朝食を平らげたニールに、シィレーネは嬉しそうだった。彼女も料理が得意というわけではないが、それはアレンジが酷いというだけで、まともに作ればごく普通のものが出てくる。

イリスがニールを連れてきたのは、実家であるインフェリア邸だった。正確に言えばインフェリア邸と呼ばれる建物は現在このあたりに二つ存在していて、一つはイリスの生家であるここ、もう一つは祖父母が住むところだ。イリスはこの両方に用事があった。

「ニアもルーもしょうがないな。みんなまとめて、うちで飯食わせればよかったのに」

腕組みをするカスケードに、イリスは首を横に振る。それではだめなのだ。兄たちの本音を封じ込めてしまうことになりかねない。

「それに、お兄ちゃんは自分の作ったものをちゃんと片付けないと。ルー兄ちゃんも、自分だけなら食べるでしょ。一番は二人ともがまともに料理できるようになることなんだけど、もうちょっと先のことだろうね」

「どうしたんだろうな、あの味覚……。俺、辛いのは平気だし好きだけど、ニアほどじゃないぞ」

カスケードが遠い目をしているあいだに、湯が沸いた。すかさずイリスが茶葉を用意し、熱い茶を淹れる。こっちに持ってきた土産のクッキーとよく合うはずだ。

「本当はアイスクリームかなって思ったんだけど、まだ店開いてないよね」

「そうだな、まだだ。それは後で、出かけたときにしよう」

朝食を食べたばかりのニールの前で、茶会の準備を着々と進める。クッキーは食べられそうだったら摘めばいい。

全員の前にそれぞれのカップを置いてから、誰もいないところにもう一つ、湯気の立つカップを置いた。クッキーも一枚添えておく。それを見て、ニールが不思議そうにしていた。

無理もない。彼は知らないのだから。誰も教えていないことだし。

「それ、誰の分ですか? ニアさん、来るんですか?」

「うーん……お兄ちゃんはまだ来ないけど、ニアさんの分ではあるよ」

「?」

ややこしい。イリスでさえいまだにそう思うのだから、ニールはもっとわからないだろう。そう、これはたしかにニアの分であって、ニアの分ではない。――その名が指す人が違うのだ。

にんまりと笑ったカスケードが、ニールに向かって言った。

「今日はニアの誕生日なんだ。……が、ニールの知っているニアじゃない」

「どういうことですか? ニアさんの誕生日も、たしかもう過ぎたはずじゃ……」

「ニアはニア・インフェリアだけの名前じゃないんだよ。この名前のもとになった人物がいたんだ」

カスケードの笑顔が少し切なげになる。イリスはこの表情をずっと見てきた。兄の名前の由来を知る前から、ずっと。

「俺には幼馴染がいたんだ。そいつの名前が、ニアっていうんだよ」

いつかも、そうして語ってくれたっけ。イリスはその物語を聞きながら細めた目で、ニールを眺めた。

 

ニア・ジューンリー。それがカスケードの幼馴染であり、親友である人の名前だ。今はもうこの世にはいない。イリスが生まれるよりもずっと前、まだカスケードが少年といえる年だった頃、亡くなっている。

曰く、聡明で、強い人だった。光に透かすと緑色にきらきらと輝く髪を靡かせ、笑ったり怒ったりしながら、いつだってカスケードの隣にいた。

喧嘩だって何度もしたけれど、すぐに仲直りして、離れることはなかった。

「一緒に出掛けたときに、俺が忘れ物をして戻ったことがあったな。ニアが止めるのも聞かずに。また合流した時には、すっかり機嫌を損ねてて、アイスを奢ってやっと許してもらえたんだった」

親友のニアの話をするとき、カスケードは幸せそうで、けれどもどこか寂しそうだ。否が応にもそれが過去のことであり、もうその人はいないのだということを、認めることになってしまうから。

その幸せな時間を終わらせてしまったのが、自分の不注意だったということを思い出してしまうから。

イリスもその事件のことはよく知っていて、任務にあたるときにはいつも心に留めておく。気づけなかった、救えなかった後悔はしたくない。けれども他の誰かに同じ後悔をさせるのも嫌だ。必ず無事でいようと、そうして誓う。

ニールに対しても同じことを思っていた。気づいて、救えて、本当に良かった。そしてこれからも守り続けなければならないと決めている。後悔をしたくないから、何が何でも守り抜きたい。

その思いはもちろん、兄であるニアも同じだ。だから彼は、カスケードの親友であるニアが目指したものと同じものを目指したのだ。――「人を助ける軍人」。今はもう軍からは退いたけれど、人を助けたいという思いは変わらない。ニールと暮らしているのも、そのためだ。

一緒にそれを目指そうと誓ったパートナーと一緒に。

 

カスケード、もっとよく注意しなくちゃだめだよ。集中して物事に取り組まなくちゃ。そんな小言に彩られた日々のことを、ニールは真剣に聞いていた。ときどき笑いながら、でも、そこに何かを重ねながら。

イリスもそうだった。ニア・ジューンリーは、どこかニア・インフェリアと似ている。そう思って何度も話を聞いてきた。主に誕生日と命日に。カスケードは飽きずに、何度でも語るのだった。

「おじいちゃんの親友のニアさんは、すごい人なんですね。頭が良くて、明るくて」

「ちょっと強情なところもあったけどな。俺には見せなかった、ほんの少し我儘な部分もあったみたいだ。本当はそういうのも受け止めてやれてたら良かったんだろうけど」

「やっぱり似てますね、ニアさんと」

くつくつとニールが笑う。そうだろう、とカスケードも笑う。シィレーネも、イリスと顔を見合わせて微笑む。言葉にせずに、この話を楽しそうにするお父さんが好きなのよ、と言っている。

ニア・ジューンリーに関して語れる人物は少ない。彼は軍に入ってカスケードと会ったとき、すでに両親を亡くしていた。身寄りのない子供が十歳を迎えると同時に軍に入ることは、この国では珍しくない。

カスケードは自分の知っているニア・ジューンリーを人々に語ることで、彼をこの世界に遺そうとしている。彼が生まれ、軍に入り、自分と出会ったことを、忘れられないように。

それが親友としてできる最後のことだと思っているのだ。

自分にもいつかそんなふうに思う日が来るのだろうかと、イリスはときどき考える。ニールは、どう感じただろう。

 

カスケードがニアの墓参りに行くというのを――今日の一番の予定はこれだったのだ――少し待ってもらって、イリスは祖父母宅に向かった。インフェリア家に関する史料を探してもらっていたのを、受け取ろうと思っていたのだ。ニールも祖父母に会いたいからとついてきた。

「イリスさん、昔からあの話知ってたんですよね。ニアさんも」

「お父さんの親友の話? そうだね、暗記するくらい聞かされたから」

「だったら、ニアさんとルーファさんも、仲直りしますよね。二人も、幼馴染で親友で、パートナーなんですから」

同じことを考えていたな。イリスはにんまり笑って、ニールの頭を撫でた。それが返事。あんな些細な喧嘩なんて、今頃はもうおさまっているだろう。

増えた荷物を抱えて、カスケードとともに軍人墓地に向かうと、やはり二人はもう来ていた。とうに喧嘩は解決したようで、ごめんね、とニールを抱きしめた。喧嘩をしていても今日のことはちゃんと覚えていて、ニールのことも大切に思っていたのだ。それでいい。それがわかれば、イリスは安心だ。

「お父さん、ニアさんはこの光景をどう思うだろうね?」

「賑やかだねって笑ってるかもな。きっとニールのことも、大好きになってくれるさ」

「そっか。……そうだよね、お父さんが言うなら」

ニア・ジューンリーは十八歳でこの世を去った。けれどもその思い出と志はこの世界にたしかに遺り、受け継がれている。

「ちなみに、お父さんとニアさんのよくある喧嘩の原因は何だったの?」

「俺が訓練を真面目にやっているかいないか、ニアの分のアイスを勝手に食べてないか」

「なんだ、お父さんが原因なんじゃん。親子そろって、まったく」

「まったく、だな。……そういうしっかりしたところ、イリスもニアに似てるよ」

顔を見合わせて笑ったら、もう一つ、かすかな笑い声が重なった気がした。