とある晩のこと。いつもなら癒しと美味しい食事を求めて行く場所で、イリスは深く頭を下げていた。その正面には、驚きと呆れが入り混じったような表情のグレイヴと、目をぱちくりさせるエイマルがいる。

「イヴ姉、お願い。こんなこと頼めるの、イヴ姉しかいないんだよ」

イリスは真剣だった。そして切実だった。なにしろ、人の生活がかかっているのだ。今までは他人の厚意に甘え放置していたが、もうその段階から抜け出さなければ。

「お兄ちゃんに料理を教えてあげてください! わたしじゃもうどうにもならないの!」

兄、ニアの料理は味が非常に残念だ。見た目はきれいで美味しそうなのに、口に含めば無味か刺激が強すぎるかのどちらかで、ちょうどいいところがない。イリスは兄が大好きだが、この点だけはどうしても頭を抱えるところだった。

ニアと同居しているルーファは、彼もまた味は普通なのに見た目が残念な料理を作りだしてしまう人で、しかしながらニアの料理を完食することができる数少ない猛者だ。彼と二人の生活なら、知り合いからの差し入れが頻繁にあったこともあり、なんとか乗り切れていた。

だが、現在は状況が違う。彼らの生活はニールという少年を含む、三人暮らしになってしまった。子供にはきちんとした食事をしてほしいと、イリスだけでなくニアとルーファも思っているのだが、今のところそれができているのはよそからの差し入れのおかげだった。あるいは、イリスが出向いて食事を用意することもある。

いつまでもそんなことでは、ニールの安全で快適な食生活は守られない。そう痛感したイリスは、家にいることが多いニアの料理スキルを上げなければならないと結論付けた。そこでダスクタイト邸に出向き、こうして頼んでいるというわけだ。

「頭を上げなさいよ。アタシはかまわないし、今まで通り差し入れをしてもいいんだよ?」

グレイヴが優しく言うが、イリスは首を横に振る。それではだめなのだ。

「お兄ちゃんたちはニールを引き取るとき、責任をとるって決めたんだよ。だからニールが健やかに育つように、自分たちで環境を整えなきゃいけない。なのにいつまでも食事をイヴ姉やアーシェお姉ちゃんに頼ってるなんて、それは違うと思うんだ」

「妹にそこまで言わせるなんて、よっぽどのことがあったのね」

そう、現に食事のことでニアとルーファが喧嘩をして、ニールが困ってしまったことがあった。ニアだって美味しい食事を自分で用意して、ニールやルーファに振る舞いたいのだ。けれども失敗して、ルーファにストップをかけられてしまう。一方のルーファも料理が得意ではないうえに、普段は仕事で帰りが遅い。これでは誰も幸せになれない。

ニアも努力していないわけではないのだが、どうにもうまくいかないのだった。

「わたしが何回教えても、お兄ちゃんの料理って美味しくならないんだよね。イヴ姉ならなんとかできないかなって思ったんだけど……」

「その状況でアタシがなんとかできるといいんだけどね。わかった、やってみよう」

「本当?!」

グレイヴの作る料理は昔から美味しい。その腕を、コツを、ニアに伝授してくれるなら、今度こそうまくいくのではないか。

「イヴ姉、大好き! お兄ちゃんのこと、よろしくね!」

「確実にうまくいくとは限らないわよ。だからそうね、できるだけうまくいくように舞台を作ろうか。エイマル、もしニールを家に招待して、みんなでご飯を食べるってことになったら、お手伝いしてくれる?」

母の頼みに、エイマルも瞳を輝かせる。手伝いができることも、友達を家に招待できるのも、エイマルには至上の幸福なのだ。

「手伝う! ねえ、そのときはイリスちゃんも来るよね」

「わたし? イヴ姉、お兄ちゃんに料理を教えてくれるだけでいいんだよ?」

「だから、そのための設定を作るのよ。ニアが力を発揮するのは、より緊張感のある場面。アタシと二人で作って味見するだけなんて、アイツにはスパイスが足りなさすぎるわ」

ニアの料理はよくスパイス過多になるので困っているのだが、という言葉を呑みこんで、イリスは頷く。

「ポイントはみんなでってところね。ルーファもニールもここに連れてきて、食事会をするの。エイマルもいるから、ちゃんと食べさせなきゃいけない子供は二人。よりたくさんの人に振る舞うというプレッシャーの中、しっかりと料理を覚えてもらう。もし失敗したらアタシと父さんでフォローできるわ。イリスがいてくれると、人手が増えて助かるんだけど」

「そういうことなら……。そういうの、楽しそうだし」

「じゃあ決まりね」

グレイヴが微笑み、エイマルが喜んではしゃぐ。なるほど、この状況なら、そもそもニアは誘いを断れないだろう。逃げ場を封じるところから始めるとは、さすがニアの元同僚だ。それも厳しい方の。

話し合って予定を合わせ、当日は「ダスクタイト家の食事会に招待する」という名目で集まることにした。ニアの仕事も、最近はうまく調整ができているようなので、この食事会が支障になることはないだろう。念のため探りは入れておくけれど。

こうしてニアの料理スキルを上げよう作戦が幕を開けた――のだが。

 

エルニーニャ王国軍中央司令部、大総統執務室。今日は仕事が残ってしまったので、レヴィアンスが一人で片づけをしている。補佐を帰らせたのは、なにも自分のポリシーのためだけではない。今ここにある仕事が、レヴィアンス一人でなければできないものだからだ。

「……以上三件、最近起こったエルニーニャ国内での危険薬物関連事件だよ。北と通じるルートは今のところ確認できていないけど、東方諸国のほうが気になるね。もしかしたら遠回りをして、ノーザリアとの道を作っているかもしれない」

国内での事件はほとんど全て解決済みということになっている。だが危険薬物関連事件に限っては、詳細を知り、その対応が適切であったかどうかを確かめたいという人物がいる。レヴィアンスは大総統になってから、いや、もっとずっと前から、彼に協力していた。

大陸に蔓延する危険薬物事件に異様な執着を見せる、ノーザリア王国軍大将、ダイ・ヴィオラセントに。

「こっちでは東方経由ルートは確認できていない。だが、調べる価値はありそうだな。そっちで捕まえたという売人から話を聞きたい」

「わかった、手配しておくよ。……てことは、近々こっちに来るんだね、ダイさん」

「ああ。ちょっと時間ができそうだから、娘の顔も見たいんだ。三日は滞在したい」

「一泊はグレイヴのとこにしなよ。もう一泊は仕事の進み具合によりけりだね。いつもみたいにオレの部屋に泊まるもよし、大総統室で夜を明かすのもよし」

「できればベッドに寝たいな。美味い食事と美味い酒も頼む」

「食事はグレイヴに頼みなよ」

笑いながら電話をするレヴィアンスとダイは、もちろんイリスたちの企みを知らない。今のところは。

 

 

食事会を翌日に控えたその晩、イリスはとった受話器をを危うく落としそうになった。電話の向こうではグレイヴが溜息を吐いている。

「ダイさん、明日来るの?! レヴィ兄はそんなこと言ってなかったけど……って、それはわたしが遠征任務いってたからか……」

「いつも急に連絡してくるんだから。そういうわけで、明日はダイもいるわ。ニアの緊張感はより高まっていいと思うけど、ニールは大丈夫?」

「人見知りするかもしれないね。レヴィ兄にもいまだに遠慮してるのに、いきなり隣国軍の大将に会うんだもん」

でも、たしかにニアには効果的かもしれない。尊敬する先輩であるダイの前で失敗はしたくないだろう。ニールはイリスが見ていれば良い。エイマルがいてくれるから、彼の人見知りも多少マシになるのではないか。

「まあ、ニールは大丈夫としても……ルー兄ちゃんが胃薬必須になったりして。相変わらずダイさんは苦手みたいだし」

「そう、それはアタシも考えたのよ。だから胃に優しいメニューにしようと思って」

「……そういう問題かなあ。お兄ちゃんが手を加えたら胃に穴開かない?」

「そうさせないようにするわ。父さんとも相談したから、あとはアタシたちを信じなさい」

信じるしかない。そうでなければ未来は拓けない。受話器をぎゅっと握りしめ、相手に見えないのに勢いよく頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

 

ダスクタイト邸もファミリー向けマンションの一室だが、ニアたちが住んでいる部屋より広く、通路に余裕があって、段差がほとんどない。現在、ここに住んでいるのは、ブラック、グレイヴ、エイマルの三人だ。イリスが遊びに行ってもまだ部屋の中はスペースが余っている。

それが今日、一気に埋まる。イリスが来て、ニアとニールが来て、あとから仕事終わりのルーファが合流する。ダイも一仕事してから、レヴィアンスを連れてくるそうだ。どうやらレヴィアンスは、今日の話を聞いて、面白そうだとのってきたらしい。とはいえ、みんなで食事会をするということくらいしか知らないはずだ。

「どうせだからと思ってアーシェも誘ったんだけど、手がはなせないって」

「アーシェお姉ちゃんも来たら、昔の第三休憩室みたいになってたね。わたし、はっきり憶えてるんだよ。お兄ちゃんたちがゲームしたりお茶飲んだりしてるの」

懐かしいなあ、と呟きながら、本日使う材料を用意する。ニアが抱えている問題は味にあるので、切るものは切ってしまう。色とりどりの野菜や、数種類の肉や魚が、小鉢に分けられてずらりと並んだ。

「準備はこんなものかしらね。イリスの出番はここまでよ、ニアを呼んできて」

「はい!」

ニアは居間で、ブラックと話をしていた。その傍らでエイマルが、ニールに勉強を教えてくれている。微笑ましい光景だ。このまま平和が続けばいいのだが。

「お兄ちゃん、イヴ姉が呼んでるよ」

「うん、わかった。それでは話の続きは後で」

席を立って台所へ向かうニアの背中を見送って、かわりにイリスが着席する。エイマルに教わりながら計算の問題を解いているニールに目をやり、しかし声はブラックへ。

「お兄ちゃんと何の話してたんですか?」

「大したことじゃない」

二人の共通の話題といえば、親の話か、子供の話か。

 

たくさん並べた材料はさておいて、グレイヴがニアの目の前に置いたのは土鍋だった。ニアの家にもあるが、使う機会は冬に鍋物をするときくらいだ。

「今夜はお粥を作るわよ」

「お粥? それで僕を呼んだの?」

「そうよ、一緒にやらなきゃ覚えないでしょ。これなら簡単だし、個々に好きな具をのせたり調味料を足したりして味を調節できるから、アンタでも作れるはず」

最初からそのつもりの食事会だったのか、とニアはやっと思い至った。料理が下手な自分のために、グレイヴが、いや、おそらくはイリスが考えたのだ。さっきから妙にそわそわしていたし。

「そうだね、お粥なら……ご飯ふやかせばいいんだよね」

「あのね、アンタお粥がなんだかわかってる?」

早速呆れられてしまった。謝ってから手順を確認し、指示通りに進めていくことになった。

ところがその指示が、なんとも細かい。ご飯の量、水の量、塩までも「適量」という言葉は絶対に使わない。調理器具で量らないにしても、一つまみの加減を覚えろ、とグレイヴがとった分量を指に覚えさせられる。

「ええと、味見しながらじゃだめなのかな。匂いとか」

「それができれば教えてないわ。アンタは味覚があてにならないんだから、分量をきっちり量って覚えて、その通りに作ることに専念して。頭良いんだから覚えられるわね?」

キ、とグレイヴに睨まれると、「はい」以外の返事は出てこない。まずは分量をしっかりと量るべし。

「今日はお粥自体は薄味で良いの。具材をたくさん作って、食べる人に自分で選んでもらいましょう。もちろんこの具は普段のご飯のおともにもできるから、しっかり覚えなさい」

お粥をコトコト煮こんでいるあいだに、具を用意する。もちろんこちらも調味料はしっかりと量り、記憶していく。

ちゃんとアンタのところの好みは考えたつもりよ、とグレイヴは言う。しょっちゅう差し入れをしてくれるのだから、よくわかっている。それを改めて数値化されると不思議な感じがするが。

「グレイヴちゃんは……アーシェちゃんもか。自分の家のことだけじゃなく、うちのことまで考えて、ご飯を作ってくれてたんだよね。ありがとう」

「放っておけなかっただけよ、だって不器用なんだもの。でも甘やかしすぎたわね。アーシェはともかく、アタシは年上ぶりたかっただけだし。もっと早くに、ちゃんと教えておけば良かったんだわ」

「甘えてたのは僕たちだから。……なんだか最近、いいところないな。イリスには迷惑かけっぱなしだし、ニールも困らせてるし」

「イリスはしっかりしてるわよ。ここ一年は特にね、お兄ちゃんに負けないようにって」

もうとっくに追い抜かされているような気がしていたのに。困ったようにニアが笑ったそのとき、呼び鈴の音とにぎやかな声が聞こえた。

 

「ただいま」

「お父さん、おかえりなさい!」

久方ぶりに帰ってきたダイの両手は、エイマルを抱きしめるためにあけてあった。荷物は後ろの二人、一緒に仕事をしていたレヴィアンスと、道中で会ったらしいルーファが全て持っていた。

「また少し背が伸びたか?」

「ちょっとね。レヴィさんとルーさんもいらっしゃいませ。イリスちゃんたち来てるよ」

「よっ、エイマルちゃん。おじゃまさせてもらうよ」

「おじゃまします。……ダイさん、エイマルちゃんにお土産渡さなくていいんですか」

「渡すに決まってるだろ。エイマル、ノーザリアの新しいお菓子だ。あとで食べなさい」

ルーファから奪うように受け取った袋を、エイマルに差し出す。元部下の扱いも、娘への愛情も、変わりはないようだ。それを遠くから確認してから、イリスも玄関に出ていった。

「みんな、おつかれさま」

「やあ、イリスも……背が伸びたなあ、また……。もうニア越えてないか?」

「それがもうちょっと足りないみたいで。どーんと抜かしたいんだけどね」

「相変わらず怖い妹だな。エイマルに変なこと教えてくれるなよ」

笑いながら娘に手を引かれるダイは上機嫌だ。一方、普段から電話でダイとやりとりをしているレヴィアンスはともかく、絡まれるのが久しぶりだったルーファには疲れが見える。予想通りの展開だった。

「今日の料理当番は? お母さんか、それともおじいちゃんか? 良い匂いがする」

「ホントだ。この家のご飯美味しいからいいよね」

「イリスも手伝ったのか?」

「ちょっとだけ。今日の夕食を作ってるのは、イヴ姉でもブラックさんでもないんだよ」

居間に全員が揃ったところで、イリスはエイマルと顔を見合わせる。それからニールに目配せして、ダイたちの前に来させた。

緊張して上ずった声で、ニールが言う。

「あ、あの、はじめまして。ニアさんとルーファさんのお世話になっている、ニールっていいます」

「はじめまして、エイマルの父親のダイだ。話には聞いてたけど、本当にもやしみたいな子だな」

「うちの子をもやしとか言わないでくれますか。……あれ? ニール、ニアはどこだ」

「あ、あの、もやしですみません。ニアさんは、台所に……」

あたふたと、ダイとルーファの両方に答えようとしたニールを、しかしブラックが呼び戻した。そして続きを引き取る。

「人んちの子供に大人げねーな、ダイ。アクトに報告するぞ。ニアは台所で、今日の飯当番だ。さっさと席について大人しく待て」

イリスはそのとき、はっきりと見た。一瞬にしてルーファとレヴィアンスの顔色が変わり、「騙された」とでも言いたげに口をぱくぱくさせるのを。そしてダイは、どこにかかるのかわからない呟きを漏らした。

「まいったな」

 

まもなくして台所から運ばれてきたのは、大きな土鍋。ニアがテーブルの真ん中にそれを置くと、ルーファがおそるおそる尋ねた。

「……鍋物?」

「ううん、お粥」

蓋を開くと、ごく普通の真っ白な米がとろっと煮られていた。これだけならひとまず安心してよさそうだ……とでも思ったのか、ほっと息を吐く声が聞こえた。イリスは兄の表情を盗み見るが、ただただ緊張しているようで、内心を窺い知ることはできなかった。

「ただのお粥じゃないわよ」

グレイヴが大きな盆に、小鉢をたくさん載せてきた。色とりどりのおかずが少しずつ盛られているそれをずらりと並べると、なかなか壮観な光景になる。「なるほどね」とダイが頷くように、この家ではそう特別なメニューではない。イリスも何度かご馳走になっている。

「小鉢のものを、お粥に好きにのせて、一緒に食べて。色々作ったのよ、ニアが」

「これ全部ニアが?」

「見た感じ美味しそうだよね」

でも味は、という言葉をレヴィアンスは呑みこんだのだろう。いつもはそうだが、はたして今回はどうだろうか。こればかりはイリスにも予想できなかったが、グレイヴの不敵な笑みで心配はなくなった。

ここで夕食をいただくとき、いつも見る表情だ。

「いただきます!」

イリスが躊躇うことなく真っ先にかかれば、みんなそれに続く。ニアはその様子を見守っている。こんなに緊張しているのは、いったいいつ以来のことだろう。

よそったお粥に、具をちょんとのっけて、れんげで掬って口に運ぶ。はふはふしながら舌で味を確かめ、それから思わず周りを見た。――たぶんみんな、同じ感想を持っている。

「ど、どうかな。ニール、食べられる?」

あるときはとても咀嚼の難しいものを作ってしまい、またあるときはまったく味のしないものができた。食事の面ではニールに度々苦労をかけてしまっていた。今日のことは、それを見兼ねたイリスが頼んでくれたのだろうが、それが無駄になっていやしないだろうか。余計なことはしていないつもりだが。

ニールはイリスと見合わせていた顔をニアに向けた。

「美味しいですよ」

ふにゃ、と笑った顔は嘘ではない。

「美味しいです。僕、これ好きです」

「……!」

イリスもニールと同意見だった。グレイヴの指示通りに作ったとはいえ、これまでとは比べものにならないものが出てきたことには違いない。そもそもこれは、いつものグレイヴの味とは微妙に異なっていて、……そう、どこか実家の味に近いのだ。

もしかしてそれも織り込み済みなのだろうか。イリスがブラックに視線だけで尋ねると、それだけで言わんとしたことは通じたようで、小声で「聞いてきたからな」と返答があった。

「グレイヴちゃん、やったよ! ありがとう!」

「ね、ちゃんとやればできるでしょう。アンタは数字を味方にできるんだから、自信持ちなさい」

自分で感激するニアに、得意げに言ってから、グレイヴはイリスに微笑んだ。感謝を込めて頷いてから、イリスは二口目を掬う。耳には異口同音に感想が届いた。みんながニアの作ったものを、「美味い」と食べている。そのことが嬉しくて、誇らしい。

「本当に美味いよ、これ。グレイヴ、ニアに何したのさ?」

「何か技とかあるのか? 今後も再現可能なもの?」

「もちろん。そのために教えたんだから」

「でも、教わって本当にできるなんて思わなかった。僕はまだ自分で信じられないよ」

ニアも自分で食べて再び感動している。それを見て、ニールがまた嬉しそうに笑った。これから、こんな機会が増えるんだろう。みんなが幸せになれる、そんなときが。

「……あ、ダイさんはもやしたくさん食べてくださいね。美味しいでしょう、もやし。グレイヴちゃんに教わって、一番美味しくなるように作ったんですから」

「ニア、お前さっきの聞いてたのか」

ダイがニールに「もやし」と言った、あのときだろう。台所はすぐそばなのだから、聞こえていない方がおかしい。ルーファが先に文句を言って、ニールが謝ってしまったので、イリスは口出しできなかったのだが、あれはさすがにカチンときた。

ところが、ニアはにっこりして言う。

「聞こえてましたよ。もやし、美味しいですよね。人に言うからには、ダイさんももやし好きなんですよね」

そうしてダイの器にもやしをどんどん追加していく。ニアなりの仕返しであり、ニールが謝る必要はないという証明もしている。実際、もやしの和え物は美味しかった。

「あれ聞いて、もやしだけはなんとしてでも美味しくしなきゃって、気合入れたのよ。ニアは本当にニールを大事にしてるのね」

グレイヴがそっと耳打ちして、イリスも目を細める。

――やっぱりお兄ちゃんは、わたしの自慢のお兄ちゃんだった。

大切なものは何が何でも守り抜く。昔とやり方は変わっても、根本的なところはそのままなのだ。イリスの大好きな、兄のまま。

だから苦手な料理も克服できたのだろう。そしてこれからも、困難を乗り越えていくんだろう。

 

食事会を終えて、イリスはニアとルーファ、ニールとともに帰路についた。ルーファの運転する車で、寮まで送ってもらうのだ。同じく寮に帰るレヴィアンスも同乗する。ダスクタイト家の人々はダイと一晩、家族の時間を過ごす。

「今日は楽しかったー。お兄ちゃんのご飯も美味しかったし、ニールとエイマルちゃんの笑顔が見られたし。わたしは大満足」

後部座席でイリスがしみじみと言うと、助手席のニアが振り向いた。

「僕も楽しかったよ。自分が作った料理を褒めてもらえて嬉しかった。またグレイヴちゃんが色々教えてくれるって言ってたから、レパートリーをもっと増やすよ」

この言葉が聞けたなら、作戦は大成功だ。今後はニアの料理の心配は減るだろう。

「期待してるぞ。ニアが頑張るなら、俺も頑張らなきゃな」

「ニアが美味しいの作れるようになったら、オレももっと美味い酒持って遊びに行くよ」

「レヴィは仕事してろよ」

「あ、あの、僕はたくさんの人と一緒にご飯食べるの楽しいです。大総統閣下も来てください」

「ほら、ニールもこう言ってることだし」

「閣下って呼ばれてるじゃないか。距離置かれてるんだぞ、それ」

賑やかな車内、賑やかな食卓。イリスはこの空気が好きだ。いつか何度も加わった、兄たちの集まりの中にいるようで。――実際、そうだ。第三休憩室ではないが、たしかに幸せな場所だった。

「またみんなでご飯食べようね。今度はアーシェお姉ちゃんたちも一緒に。ドミノさんたち呼んでもいいね」

「パーティだね。そうだね、それくらいできるようになりたいな」

未来の夢が、また一つ増えた。