「成長したようね、あの子」

ティーカップを優雅に傾け、女王オリビア・アトラ・エルニーニャが微笑む。名目上、エルニーニャ王国に君臨するのは王であるのだが、今代王宮の実権を握っているのはその妻である彼女だ。昔から王宮に仕えてきた家であるパラミクス家から輩出され、政に関わりながら王宮近衛兵の長としての役割を果たしている。

向かいに座るレヴィアンスを、ゼウスァートの名で大総統の地位に就けたのもオリビアだ。軍と王宮の立場は対等になったことになっているが、そういう経緯がある以上、彼女はレヴィアンスより一段高いところにいる。明言しなくとも、レヴィアンスはそう感じていた。

「あの子って?」

「イリスちゃん。補佐、よく務めているそうね。先日うちの子が視察に行ったら、練兵場でこてんぱんにされちゃったって」

「げ、来てたの……。しかもイリスが暴れてるときに……」

オリビアのいう「うちの子」こそ王宮近衛兵で、ときどき軍施設を訪れている。軍内の動向を抜き打ちで見るためなので、大抵は予告なしに来て挨拶もなく去っていく。レヴィアンスが会えば普段司令部にいる人員ではないと見抜くことができるのだが、イリスはそうもいかない。同じ軍服を着て、国章と階級章をつけていれば、それは等しくエルニーニャの軍人とみなす。全員を覚えてはいないのだから仕方がない。

侵入者であれば挙動でわかることもあるが、王宮近衛兵の仕事に抜かりはないのだった。

「かつて失われた信頼を、あなたたちは着実に取り戻している。そのまましっかりね」

「仰せのままに、女王陛下」

言葉とは裏腹に、行儀を無視して紅茶を飲みほしたレヴィアンスに、オリビアはクスリと笑った。

その表情のまま、次の言葉を聞く。

「……で? 今日の用事ってなんなのさ。本題に入ってもらおうか」

「相変わらず王宮での雑談は苦手なのね。早く帰りたいところを、付き合ってくれてありがとう」

レヴィアンスは最初からこの瞬間まで、とうとう笑みを見せることはなかった。

 

 

ジュースにシロップ、ジャムに……それから酒。兄の家のテーブルにぞろっと並んだ瓶を、イリスは今年もうっとりと眺める。

「あーあ、わたしも早くお酒飲める歳にならないかな。お兄ちゃんと一緒に飲みたいなー」

「終わらない酒盛りになりそうだな。その日が来るのが怖い」

ルーファの不安をよそに、瓶の一つを手に取ってみる。果実酒がとぷんと揺れて、きらきらと輝いた。ニアたちが美味しそうに飲むこれは、毎年時期が来ると送られてくる。作っているのはセパル村の村長とその秘書だ。

「今年は特に自信作だぜ、だって。ゲティスさん、毎年そう書いてくるよね。農産物の出来がいいのは良いことだけど」

「ジュースが去年より多めなのは、ニールのこと聞いたからかな。ていうか、報告したの?」

「うちからはまだ教えてない。教えたとすればレヴィじゃないか? しょっちゅう連絡とってるんだろ」

一緒に届いた手紙を読みながら、ジュースをコップに注ぐ。ニールに渡すと、いただきます、と言ってから口をつけた。

「わ、味が濃い」

「この味が癖になるんだよ。シロップは料理に、ジャムはパンやヨーグルトに。色々使ってたらあっという間になくなっちゃう。わたしなんかジュース目当てにここに通い詰めたもんね」

季節の贈り物に感謝して、ニアが早速手紙の返事を書き始める。ルーファは瓶を種類ごとに片付け、その途中で一つだけ蓋にマークをつけていた。ルーファ専用の、酔い覚ましの薬草水だ。これがないと酒豪たちの宴会に付き合えない。

「そういえばイリス、最近レヴィはどうなんだ。うちに来ないってことはかなり忙しいんだろ。ダイさんとやってた仕事は片付いたのか」

「レヴィ兄? うん、それはダイさんがこっちにいるうちにやっつけちゃったみたい。今忙しいのは、また別の仕事」

酒豪の一人は、しばらくここに来ていない。週の半分は飲みに出かける、というのは変わっていないのだが、それがプライベートではなくなった。詳しいことはイリスも教えてもらっていないので、難しい案件なのだろう。大総統補佐見習いといえども、イリスは尉官。大総統であるレヴィアンスとは大きな差がある。特別に仕事を任せてもらうことや、あまりに忙しい時に仕事をいくらか引き受けるということはあるけれど、通常レヴィアンスは階級相応に仕事を振り分けている。大総統に距離が近いからといって全ての情報を知ることができる、というわけではない。

「昔、レヴィが自分で言ってたよね。大総統の子だからって何でも知ってるわけじゃないって。レヴィもそれなりに線引きしてるんだろうな」

「お兄ちゃんの言う通り。でもレヴィ兄の判断基準ってときどきわかんないから、納得できないときはガードナーさんにこっそり聞くんだ。じゃないと変に仕事溜めこむんだもん」

だが今はその時ではない。イリスが踏み込んでもどうにもならない、むしろ邪魔になりそうだと思ったときは、あえて動かない。その加減を二年以上かけて心得てきたつもりだ。

「イリス、良い部下になったな。レヴィも上手く育てたもんだ。ほら、ご褒美」

「え、いいの? ありがとう!」

小さな瓶のジュースを一本。ルーファから受け取って、イリスは喜ぶ。これは明日大総統執務室に持って行こう。誰への「ご褒美」なのか言わなかったのは、きっとそういうことだと思うから。

疲れたときは、甘いものがいい。

 

夜の街、昔からあるとある店の奥。隠し扉のついた壁に区切られた個室が、最近のレヴィアンスの「仕事場」だ。王宮関係者が利用する特別な店、の噂はかねがね聞いていたが、実際に来たのはオリビアからの話を聞いてからだった。

――本来ならすぐに教えるべきだったのでしょうけれど。報告が遅れてしまって申し訳ないとは思っているわ。

国政など、国を運営する柱に関わることは、王宮と軍と文派の三派で連携をとりあう。そのために定期的に、あるいは少しでも重要だと思われることについては三派会を開くこととする。先々代大総統ハル・スティーナと先王、そして先代大文卿のあいだで交わされた約束だ。もとは王宮と文派が軍の動きを把握するために提案したことだが、それが今回、王宮の側で即座に機能しなかった。

――すぐに話せなかったのは、私たちがどう出るべきかをすぐに結論付けられなかったから。あなたが頑張っているのはよく知っているし、だからこそ結果も出ている。でもね、物事がうまく運びすぎていると、疑う人と信じすぎる人が出てくるの。

それはよくわかっているつもりだった。狂信者、と表現できる一部の人々の動きが警戒レベルに達すると起こりうる危険を、レヴィアンスは身をもって知っている。だからこそ国内に乱立するあらゆる組織を可能な限り把握してきた。国外に目を向けなかったわけでもない。だが、どうやらあと一歩足りなかった。

西の大国から報告があったという。そこで活動していたとある団体が、エルニーニャの動きに注目している。正確にはエルニーニャ軍を。北の大国の軍の長と懇意にあり、南の大国との関係も良好で、東方にも目をかけているらしいというレヴィアンス・ゼウスァートの動向を、異様に気にかけているのだ。

レヴィアンスが何をしたというわけではない。南のサーリシェリアとはもともと友好で、北のノーザリアにはダイがいる。東方諸国とのつながりは親たちの代で得られたものを引き継いでいるのであって、他意はないのだということは東のイリアに説明済みだ。――それを「西がおざなりな扱いをされている」ととられたのかもしれない。

まさかそのウィスタリアの一部団体とやらは、エルニーニャが他国と一緒に攻めてくるとでも思ってんの? 冗談で言ったレヴィアンスに、オリビアは溜息交じりに返した。

――そうではないようなの。むしろその逆ね。あなたのやり方を妄信していて、ウィスタリア政府にも同じ対応を求めたり、エルニーニャの行く末に手出しをすることも考えられるそうよ。あちらが公式のかたちをとらず、私に密かに報告してきたのは、彼らに動向を探られたくなかったから。

大国同士のやりとりは、必ず五カ国会議というかたちをとることになっている。それができないほどの事態を、ウィスタリアの「団体」の目的を正確に把握しておきたい。オリビアとレヴィアンスの考えが一致した結果、こちらも密かに動くこととなった。

それには協力者が必要だ。王宮でも軍の人間でもない、もう一つの立場の協力者が。

「学術目的以外で他国に行くのは気が進まないと、ずっと申し上げているはずですが」

しかし正面に座る男の表情は、相変わらず苦々しい。

「学術調査でいいから、何かヒントをくれると助かるんだよ。女王もオレも動けないし」

「文を他派に、そんなかたちで利用されたくありません。大文卿も同じ考えだと思いますよ。私たちの立場はあくまで対等。王宮から依頼されたとしても答えは同じです」

眼鏡の奥の瞳は冷たい。だが何一つ間違ったことは言っていないので、レヴィアンスの交渉は進まない。

「ただし、弟を今の班から外してくれるのであれば、私個人としては考えないこともない」

「だからそれはできないって言ってるだろ」

「ならば私も了承できません。……いつまで無駄な時間をとるつもりですか、閣下」

顔はそっくりなのに、敬意どころか容赦ない。彼の「弟」との差はどこで生じたのだろう。

研究者であり若くして大学で教鞭を振るう彼、アルト・リッツェ准教授は、レヴィアンスの部下でイリスの同期の、フィネーロ・リッツェの実の兄だ。実際、大学での職についたのは二年前のことで、それまでは彼も軍に属していた。北方司令部の上層にいた彼は、しかし、北方で起こっていた汚職に気づけなかったことの責任を感じ、軍を退いたのだった。

レヴィアンスとは同い年だが、年齢をごまかして入隊したレヴィアンスから見て、アルトは二年後輩になる。だが彼はこちらに少しも敬意をはらっていない。レヴィアンスとてそんなものが欲しいわけではないが、かなり苦手な部類の人間であることには間違いなかった。

「西で何が起こってるのか、ちょっと見てきてくれるだけでいい。資金はもちろんこちらから出す」

「大した利もなくスパイ活動なんかごめんですよ。……このやりとり、何度目か覚えていますか? あまり頭の出来はよくありませんでしたよね、閣下は」

こちらをじとりと睨みながらグラスを傾けるアルトに、レヴィアンスは否定を返せなかった。こちらもグラスを空にして、再び酒で満たす。この個室を使うための鍵、女王のキープボトルは、高級で美味いがどこか苦い味がする。

「弟を閣下お抱えの危険な班から外してくれれば動くと、私は申し上げている。けれども閣下はそれはできないと仰る。弟がいないと班が困るだのなんだの……たしかに困るでしょうけれどね、あの子だけが賢く理性的に動けますから」

このブラコンが、と思いながらも口にはしない。機嫌を損ねることはないだろうが、開き直られる可能性は十分にある。

「今夜ももう遅い。次は弟の今後について決めてから呼び出してください。私も研究や講義の準備があるので、暇ではないんですよ」

何も動かないまま、今日もタイムリミットを迎えた。アルトが出ていった部屋で、レヴィアンスは一人、深い溜息を吐いた。

 

 

昼休み、昼食をとっている最中に、フィネーロがぽつりと言った。

「兄が帰ってきているらしい」

「兄ってどの兄だよ」

すかさずルイゼンがつっこむとおり、フィネーロには兄が三人いる。それぞれ地方に行っていたり、首都にいても実家からは離れていたりして、めったなことでは帰ってこない。今回実家に戻っているのは、長兄のアルトらしい。

「父とともにレジーナ大で働いているから、最も家に近くはある。でも、だからこそいつでも帰ることができると言って帰ってこないのがアルト兄さんだ。何かあったのかもしれない」

「フィンの一番上のお兄さんって、たしかレヴィ兄と同い年だよね」

「おそらく、兄のほうが二つ下だが?」

「おっと……そうだったそうだった」

うっかり滑らせた口を、イリスはパンを齧って塞ぐ。レヴィアンスが軍では年齢を二歳ごまかしているということは、一部しか知らない秘密だ。イリスは幼い頃から知っているが、フィネーロたちがそれを知る術は本来ならばない。だいたいにして、大総統が年齢詐称していることなど公になっては困る。

「どれもみんな同じ顔で真面目な、大層な兄君だったな。私のことを快く思っていない人たちだ」

メイベルはフィネーロの兄たちに会ったことがあるというが、印象はよくない。育ちがリッツェ家の人間と付き合うのにふさわしくないと言われたことがあるそうだ。

「全員がそう思っているわけではない」

「どうだか。私が信頼できるリッツェの人間はフィネーロだけだ」

相変わらず、メイベルの褒め方はわかりにくい。呆れたように溜息を吐くフィネーロを見て、イリスは苦笑いした。

「うちのお兄ちゃんたちは平気なのにね、ベル」

「イリスの兄君は男性的な感じがあまりしないからな。ルーファさんはルイゼンと同じ雰囲気ですぐに慣れた。閣下は……まあ、閣下だ。しょっちゅうイリスを一人占めするのは解せないが、存在を許せないわけではない」

いつも通りの少々過激な台詞のあと、メイベルは首を傾げた。ルイゼンとフィネーロも気がついて顔を見合わせる。イリスだけがきょとんとして、パンを咀嚼していた。

「……閣下、最近イリス呼ばないな」

「ああ、一時期はこうして昼食を共にすることすらままならなかったのに」

そういうことか、と飲みこんだ。たしかにイリスが仕事を手伝っているときは、このメンバーで集まることも難しいくらいに、大総統執務室にいる時間が長くなる。それが急に減ったのは、レヴィアンスがイリスに任せられないような大変な仕事に関わっているということなのだが、その詳細は今のところ見えてこない。とりあえず忙しいのだろう。隙を見てガードナーに様子を確認しなければ。

「イリスがとられないのは喜ばしいことだ。私にはイリスさえいればいい」

「ベルってば。四人揃ってこそのわたしたちでしょ。素早く動けるベルがいて、作戦を考えるフィンがいて、この超絶強いわたしがいて、リーダーのゼンがそれをまとめる。レヴィ兄が直々に組んだ、最高の班だよ」

にい、とイリスが笑うと、他の三人も頷いて笑顔を浮かべた。

イリスたちが軍に入隊してまもなく、一年早く軍にいたルイゼンと一緒に行動するように、当時佐官だったレヴィアンスが指示した。年月が経つに従って、上司についてではなく、四人だけで仕事を任されるようにもなった。軍できちんと実力を認められている班になったと誇れる。

それを崩す要素があるなんて、今まで思いもしなかった。

「ああ、いたいた。リーゼッタ少佐、リッツェ大尉。閣下が呼んでいますよ」

食事を終えたところで声をかけてきたのは、つい先ほど話を聞きたいと思っていたガードナー大総統補佐大将だった。だが、用事はイリスにではないようだ。

「俺とフィン……リッツェにですか?」

「わかりました、すぐに参ります」

呼ばれた二人も怪訝な表情で応えている。イリスは眉を寄せ、ガードナーに駆け寄った。

「ガードナーさん。レヴィ兄……じゃない、閣下は忙しいの? ゼンとフィンに何の用?」

袖を引っ張りながら尋ねると、ガードナーは困った表情で、しかし微かに笑みを見せた。よく一緒に仕事をするイリスには、これが慰めのための笑顔であるとすぐにわかる。

「閣下はちょっと難しい問題に取り組んでいます。どうか気持ちを汲んであげてくださいね」

やはり詳細はわからない。けれどもなにか、イリスが納得しなければいけない事態が起こっていることだけは、たしかなようだった。

いってくる、とガードナーについていったルイゼンとフィネーロを見送りながら、イリスは胸騒ぎを感じる。察したメイベルが、「上位二人を呼ぶなら任務じゃないか」と軽い調子で言った。

 

はたしてレヴィアンスが出した結論は、思った通り、ルイゼンには受け入れられなかった。普段は班員の暴走を止めてくれる、他人を気遣った大人の振る舞いができる彼なのだが、今回ばかりは取り繕えないようだ。

「そうなる理由をちゃんと説明してくださいよ! 俺たちを班にしたのはあなただろう?! それをまた、どうして勝手に……!」

良く通る声は、ここが大総統執務室でなければ、外にも響いていたかもしれない。今は重厚な扉と壁に遮られているが、ガードナーとフィネーロが黙りこくっているこの場では十分すぎる声量だった。

「勝手で申し訳ないけど、班を組ませたときとは状況が違う。リーゼッタ少佐はリーダーとしてよくやってくれてるし、インフェリア、ブロッケンの両中尉は実戦に適応できる力を伸ばしてきた。問題行動を起こさなければもうちょっと階級を上げてもいいくらいだ」

でも、と言葉を切る。憤慨するルイゼンの隣で、フィネーロはただ静かに直立していた。最初の一瞬こそ瞠目したものの、そのあとは冷静そのものだ。もしかすると、敵に回すと兄よりも厄介なのではないだろうか。――少しは喚いてくれた方が、こちらもやりやすかったのに。本当に苦手な兄弟だ。

「……でも、リッツェ大尉は実戦向きじゃない。リーゼッタ班の売りは攻撃力と機動力のつもりだったんだけど、大尉は情報処理班にまわした方が適切なんじゃないか。こう言っちゃなんだけど、武器を扱うのが未だに得意じゃないから、相変わらずあんな特殊なやり方で現場に出てるんだよね?」

フィネーロの武器は「紐状の物」。ロープやチェーン、長鞭などを場合に応じて使っている。足止めや捕縛などに役立ってはいるが、所詮単独では戦力不足なのだ。それは入隊時からわかっていたことで、それでも彼はその頭脳と軍人養成学校出身という経歴を買われてここにいる。

リーゼッタ班の参謀として働いてきたが、現場で動くためには少々他の三人と差が開きすぎてきたと、きっと本人が一番わかっていた。

「フィンは俺たちの仲間です! 絶対にこの班になくてはならない存在なんです! それをなんで今更」

「今だから、でしょう。……ルイゼン、喉が嗄れる。あまり叫ぶな」

フィネーロは自らルイゼンを制止し、まっすぐにレヴィアンスを見返してくる。ここ最近見ている瞳と同じ色をしているのに、それよりもほんの少し感情が見える気がした。

「僕が班から外れるのは、仕方のないことです。リーゼッタ班にはそぐわないと、認めます」

微妙に震えた声も、言葉にせず語っている。――悔しい、と。

「じゃ、今日これから情報処理室に詰めてもらうことになる」

「これから?! あまりに急すぎます!」

「さすがに仕事が迅速ですね、閣下。僕もそのほうが変な感傷に浸ることがなく助かります」

「フィン、お前……」

まだ何か言いたそうなルイゼンを、ガードナーが見やった。それが退出命令の代わりだ。これで用事は終わってしまったのだ。何も言わずに踵を返そうとした二人を、レヴィアンスは呼び止める。

「悪いね」

「……イリスが黙ってませんよ」

「うん、あとで乗り込んでくるだろうなって思ってる。その前に新しい仕事の話をしたいから、フィネーロだけ残って」

ルイゼンだけを外に出し、大総統執務室に再び静寂が訪れる。黙ったままガードナーが差し出したものをレヴィアンスが受け取り、その先を咥えた。

「ちょっと煙いだろうけど」

「かまいません。……ずっと我慢してましたよね。素が出てましたよ。先ほど、僕をフィネーロと」

「お見通しか」

煙草に火をつけながら苦笑いするレヴィアンスに、フィネーロも同じ表情で返した。

「兄が、帰ってきていましたから」

 

片手に瓶を持ち、もう片方の手で大総統執務室の扉を開け放つ。本来そう簡単には開かないはずの重量の扉を躊躇いなく押せるのは、補佐見習いとして働いてきたイリスならではだ。

「挨拶くらいしろよ。ニアに怒られるぞ」

「怒られたってかまわない。今はわたしのほうが怒ってる」

こちらを見ず、机で何か書きものをしながら軽い口調を飛ばしてくるレヴィアンスに、イリスの瞳はさらに燃えた。ずんずんと前進し、机を挟んでレヴィアンスと向かい合うと、瓶を書類の脇に振り下ろすように置く。中の液体が大きく揺れた。

「フィンを班から外すって、どうして? そんな大事なこと、なんで急に決めるのよ?!」

一人で戻ってきたルイゼンから、事情は聞いた。納得のできない説明のあとに湧き上がってきたのは、すぐに取り消しを求めなければという思いだった。イリスたちに、フィネーロは絶対に必要だ。実力が伴わないなんてはずはなく――たとえ本人がそう言っても、イリスはそうは思わない――だからこそ急に断行された人事を、覆さなければならない。

「大事なことだから決めた。オレにはその権限がある」

「そんなの、レヴィ兄のやりかたじゃない!」

「大総統はより多くの利を考えなきゃいけないの。イリスだってわからないわけじゃないだろ」

小さな班で合わない仕事を与えられて燻っているよりも、特技を生かして軍全体のために働く方が、フィネーロにとっても良いことなのかもしれない。それはイリスも考えた。だがレヴィアンスが突然、それも独断で動くということが信じられなかった。イリスになら、見習いでも大総統補佐である自分になら、一言くらい何かあってもいいと思っていた。距離が近いからといって全てを知ることはできない、ということもわかっていたつもりだったが、それでも今回ばかりは事前にきちんと話をしてほしかった。

「レヴィ兄、フィンを返して」

「もう仕事渡しちゃったから無理」

「今日の分は、だよね。だったら明日からでいい。それもできないっていうなら、力ずくでも取り戻す」

「オレに勝負でも仕掛ける? こっちが勝ったところでメリットがないんだけど」

「これあげるよ。お兄ちゃんのところから貰ってきたジュース。あとわたしがレヴィ兄のいうことを素直にきく」

ないも同然のメリットだが、今はこれしか提示できるものがない。レヴィアンスが瓶を一瞥し、それからやっとイリスを見た。鳶色の瞳がハッとするほど冷たく、後退りそうになる。必死にこらえて見返すと、呆れたような溜息が聞こえた。

「レオ、しばらく留守を頼むよ。小一時間もかからないと思うけど。緊急の用があったら練兵場まで」

「承知いたしました、閣下」

ガードナーが頭を下げると同時に、レヴィアンスが立つ。昔ほど身長差はなくなったはずなのに、妙に大きく見えるのは、逆光のせいだけではないだろう。――そこにいるのは、イリスが昔から知るレヴィアンス・ハイルではない。大総統レヴィアンス・ゼウスァートだ。

「来いよ、インフェリア中尉。叩きのめされないとわからないんだろ?」

「……やられるもんか」

どんなに睨んでも、彼には通用しない。でも負けるわけにはいかないのだ。

 

練兵場にはギャラリーが集ってきている。大総統閣下と補佐見習いがただならぬ雰囲気で練兵場に向かっているという、それだけで司令部の人間が続々と見物に訪れていた。イリスに誰かが勝負を挑み、次から次へと倒されていく光景はそもそもの名物となっているが、最初から大総統と直接対決するとあっては注目せずにはいられない。

ルイゼンとメイベルも、人混みを掻き分けて見物人の最前列にやってきた。フィネーロは情報処理室で仕事をしているのか、姿を確認できていない。噂を聞いたとしても、積極的に見に来ようとするタイプではないとメイベルが言う。

「しかしもったいないな。いつものイリスの大暴れの仕上げとはわけが違うじゃないか。今回の閣下はどうやら本気でイリスの相手をするつもりらしい。フィネーロも見ればいいのに」

「メイベル、お前やっぱりわかってなかったか。閣下……いや、レヴィさんがイリスに手加減したことなんて、あいつが生まれてこのかた一度もないぞ」

やっぱり、という表現にムッとしたらしいメイベルは、ルイゼンをじとりと睨んだ。

「閣下は幼い頃からやんちゃなイリスの相手をしていたと聞く。まさかひとまわりも年下の女児にまで容赦なかったとでも言うのか」

「そのまさかだよ。イリス本人だけじゃなく、ニアお兄さんまで証言してるんだ。あいつのたたかいごっこ、お兄さんやルーファさんはイリスと遊んでいたけれど、レヴィさんはいつもマジだった。だからイリスも常にそのとき自分にできる最大の力を、遠慮なくぶつけていた。お前たちの代の入隊試験、実技はイリスがぶっちぎりでトップだったのは憶えてるよな。あれを育てたのはもちろんインフェリア家の人たちでもあるけれど、俺は正直、レヴィさんの影響が一番大きいんじゃないかって思ってる」

唖然としたメイベルに、ルイゼンはさらに口早に追い打ちをかける。いつのまにか近くにいた人々もそれに聴き入っていた。そこかしこから「ほう」「本当だとしたらすごいな」と声が上がる。やっと息を吐いたメイベルが口にしたのは、「大人げない」の一言だった。

だがルイゼンは逆だと思っている。軍人一家に生まれて、家族の仕事と姿勢に憧れを持っていた少女に、レヴィアンスは最初からまっすぐ向き合っていたのだろう。これが現実で、さらに上がいる。もっと危険なことだってある。それでも軍人になりたいかと、もっとも早くに問いかけていたのは彼だったのだ。実の兄よりも先に、いや実の兄ではなかったからこそ、イリスの持っている力を認め、彼女が思うように利用できる方法や環境を探っていたのだ。――そうして二年前、大総統になったレヴィアンスは、補佐にイリスを選んだ。

練兵場に立つ二人は、得物も防具もなく向かい合っている。昔からそうしてきたように。今でもときどきそうするように。いつもならレヴィアンスの圧勝だが、今日はイリスが勝てるんじゃないか。そんな声もあがっている。

ギャラリーが騒めく中、彼らは同時に地面を蹴った。気づいたときには動いていたので、同時だと多くが思った。しかし少したりとも目を離さなかったルイゼンと闘い慣れしている者たちには、どちらが先だったのかがはっきりとわかった。

イリスが動いたその刹那を見逃さずに、レヴィアンスが反応したのだ。

飛び上がって蹴りを繰り出そうとしたイリスの脚は、レヴィアンスの横面を狙っていた。しかし宙を切っただけ。空振りして不安定になった体勢を立て直す暇も与えられず、前進していたレヴィアンスに胸倉を掴まれた。

「イリス!」

メイベルの叫びは届いていないだろう。どよめきのためだけでも、イリスの集中力のためだけでもない。そのまま地面に叩き付けられた衝撃が、ほとんどの感覚を麻痺させていた。

「……勝てないよ、イリスは。闘い方を教えて育てたのはレヴィさんで、行動パターンは誰よりも知り尽くしてる。動きだけじゃない。何が一番イリスのダメージになるのか、あの人は全部わかってるんだ」

怯まず真正面から、一撃で。それはイリスの戦闘スタイルだが、レヴィアンスが教えたことでもある。彼は今、それを見せつけたのだ。同じやり方ではイリスに勝算はない。いや、他の方法もきっと見切られている。

イリス自身もそれはわかったはずだ。実際に受けたこの一撃で、ほとんど全てを覚っただろう。――それでも彼女は、立ち上がった。足を震わせながら、手で乱暴に擦りむいた頬を拭って。

「おい、ルイゼン。イリスは立ったぞ。まだやられていない」

「挫けない、懲りないのがあいつの性分だからな。でも今のは心身ともに相当きつかったはずだ」

立ち上がらせたものを、ルイゼンとメイベルは知っている。自分たちも同じ気持ちだからだ。仲間を、フィネーロを、どうしても取り戻したい。たとえそれが困難だとしても、せめて納得のいく説明をしてほしいという、その想い。それからもう一つ、イリス自身がレヴィアンスの行動と考えを信じたい、信じさせてほしいという望み。

だがレヴィアンス、いや、大総統は高らかに言う。

「インフェリア中尉、もう医務室行ったら? まだ仕事残ってるだろ」

「やだ」

「お前は勝てないよ。ジュースだけで勘弁してやるから」

「いやだっ!!」

さっきの攻撃で、背中も強かに打った。声を出すのも苦しいに違いないイリスは、しかし、練兵場全体に響く声で叫んだ。

「大総統じゃなくて、レヴィ兄のっ! 何を考えてんのか、本音を聞かせろって言ってんのよ!! どうしても仕方のない理由があるなら、わたしもどうするのが最善なのか考えるよ!!」

「中尉がどうこうできると本気で思ってるのか」

応えたのは、大抵の者は聞いたことのない声だった。いつも余裕綽々で、軽い口調で笑っている大総統閣下の、低く重い、厳しい声色。

しかし彼女だけは怯まない。その威圧をまともに受けているのに、腕を伸ばして、目の前の相手の軍服を掴む。真っ直ぐに彼を見る。なぜなら。

「ちゃんと呼べ! わたしはイリス・インフェリアだ!! 階級なんか無視してわたしを自分の傍に置いたのは、レヴィ兄、あんたでしょうがっ!!」

無茶の仕方だって、教えたのはレヴィアンスなのだ。

酸欠を起こして倒れ込んだイリスを抱き止め、彼はギャラリーに向かって手を振った。

「ルイゼン、メイベル。……あと後ろのほうで突っ立ってるフィネーロも。この重いの医務室に運べ」

練兵場に立つのは、いつものレヴィアンスだった。

 

女の子が顔に傷ってのはまずいよね、と苦笑しながら、軍医は丁寧に処置をしてくれた。事前にガードナーから頼まれていたそうで、医務室では手当の準備をして待っていてくれたのだった。

メイベルはイリスをじっと見守っている。ルイゼンは仕事の資料を医務室に持ち込み、それを眺めながら向かいに座るフィネーロに尋ねた。

「イリスにも聞こえるようにはっきり言ってくれ。あのあと、閣下に何を言われた?」

「すまないが、答えられる段階にない。だが僕を振り回しているのが閣下ではないということははっきりさせておこう」

「……それだけでもちゃんと言ってくれれば、イリスがぶち切れることもなかったんだけどな」

たぶん、と付け加える。レヴィアンスにでなければ、自分が班にそぐわないと言ったフィネーロに対して怒っていただろう。案の定、ざらざらした細い声が、「フィンのばか」と呟いた。

「まさかフィネーロがあの場に来るとは、私は思わなかったが。どのあたりから見ていたんだ」

イリスから目を離さずに、メイベルが問う。これには明確な返答があった。

「噂を聞いて気になってはいたんだ。到着した時には、イリスがいやだと叫んでいた」

「じゃあ、一度倒された後か。衝撃のシーンを見逃したな」

「その後も十分衝撃だった。なにしろイリスを個人として扱わない閣下なんて、今まで見たことなかったからな」

「普段が私情で動きすぎなんだ。あの多重人格大総統め、次に対面したときには暗殺未遂事件だ」

「やめろ、メイベル。洒落にならん」

いつものやりとりだった。ルイゼンと会話をし、メイベルを宥める、フィネーロのいる光景。けれどもイリスの手当てが一通り終われば、また失われてしまう。まだそれぞれの仕事が残っているのだ。

「……やだなあ。フィンがいないリーゼッタ班なんて、塩の足りないスープみたい」

ぼんやりした声で言うイリスの手を、メイベルが黙って握る。ルイゼンはちょっと頭を掻いてから、資料の紙束から一枚抜き取った。

「俺、軍の武器リストを簡単に見返したんだけど。フィンが実戦で強くなれるような得物を使えばいいんじゃないかと思って」

「そう単純なことじゃない。武器の扱いだって一朝一夕で身につくわけじゃないだろう。まして僕は」

「おっと、自分を卑下するようなことは言ってくれるなよ。イリスがまた怒るし、だいたい状況に応じて長いものならなんでも使えるお前に、武器の使用が難しいとは思えない。……まあ、条件に合うやつがリストにはなかったんだけど」

「無駄足か。ルイゼンらしくない」

「リストにないってことがわかったんだ。オーダーメイドって選択肢があるだろ。一緒に現場に出たいと思うなら、それも視野に入れてくれ。情報系でやっていきたいなら、俺たちの班の情報担当として動けるようにする。例ならいくらでもあるんだ、フィネーロが一番やりたいことを教えてくれれば、また閣下に訴えに行くさ」

胸を張るルイゼンに、メイベルがほぼ棒読みで「さすがリーダーだな」と言う。イリスもやっと笑って、改めて頬の傷の痛みを感じた。

フィネーロは少し俯き、口を開きかけてから、また閉じる。顔をあげてやっと言ったのは、

「少し……ほんの少しでいい。僕の気持ちはまとまっているからいつでも言葉になるが、今はそれができない事情がある。待っていてくれないか」

どこか必死な、願いだった。

「それ、レヴィ兄のせい?」

イリスが尋ねると、「違う」と即答する。

「とにかく、閣下は悪くない。悪くないのに、わざと悪者を演じている。それを手伝うのが、今の僕の仕事なんだ。だからイリス、あの人の気持ちを、汲んでやってはくれないか」

ガードナーもそう言っていた。だからイリスが納得しなければならない事態が起こっているのだと、そう思ったはずなのに。仲間をとられると思って、その理由を教えてもらえるほど信頼されていないと思い込んで、頭に血が上った。

「……うん。でもさ、仕事が済んだら、ちゃんと帰ってきてよね」

「君にそこまで期待されているなんて、光栄だよ」

フィネーロにもようやく笑顔が見えた。イリスはホッとして、それから、もう一度レヴィアンスと話をしなければと決めた。責めるのではなく、話すのだ。

 

結局残業になってしまったその日の仕事を終えてから、イリスは大総統執務室の扉を叩いた。すぐにガードナーが出てきて、中へ招いてくれる。まるで待っていたかのように。

執務室の机にはレヴィアンスがいて、昼間と同じように書きものをしている。こちらはまだ仕事が終わっていないらしい。余計な時間をとらせてしまったと、少し後悔した。彼だって、いや、彼だからこそ、イリスが抱えているよりずっと多い仕事があったのに。それを知っていたはずなのに。この訪問すら、邪魔になるかもしれないほどに忙しかったと、誰よりもわかっていなければいけなかったのに。

謝るために、まずは何と声をかけたらいいのか。迷っているあいだに、聞き慣れた声がした。

「何を遠慮してるんだよ、イリスらしくない」

手を止めてこちらを見ているその人の呼び方を、おかげでようやく決めることができた。

「レヴィ兄、ごめんなさい。仕事の邪魔だったよね。フィンのことだって事情が」

「そんなことより、怪我は? まだ痛い?」

用意してきた台詞を、けれども遮られてしまう。昔から変わらない、軽い口調で。

「ううん、大丈夫」

「そっか、ならいい。ていうか、昼間の闘い方は何だよ。お前の動きに慣れてるオレに対して、あんな大きすぎる蹴りはダメだろ。エイマルにはそうやって教えられるのに、なんで自分でやらないかな。あと、弱点知ってるんだから積極的に狙ってこい」

たしかに弱点は知っている。もう随分と昔のことになるが、レヴィアンスは右肩を脱臼し、左腕を折ったことがある。かつてイリスがとある事件に巻き込まれたとき、それを助けようとして負った怪我だ。以来気取られない程度に庇うようになった場所を、イリスには狙うことができない。初めは意識的に、いつしか無意識に、攻撃しないようにしていた。

「レヴィ兄にそんなことできない」

「じゃあオレには一生勝てないな。ずっとオレのいうこときいてろよ」

「ジュースだけで勘弁してやるって言ったじゃん」

「言ったっけ?」

意地悪く笑うレヴィアンスに、イリスは脱力する。何を緊張していたんだろう、この人は昔からこういう人じゃないか。――イリスの兄たちの、一人じゃないか。

「イリスさん、座ってください。閣下、休憩するなら少し栄養をとってはいかがですか」

タイミングを見計らったガードナーが、それぞれのためにグラスを置いた。イリスが持ってきたジュースが注がれている。勧められるままにソファに座ると、レヴィアンスが「レオも飲んだら」と立ち上がろうとする。ガードナーはそれをやんわりと制止した。

「ではご相伴にあずかりますから、閣下はそのまま。大総統としてのお勤めと急ぎの外出で大層お疲れでしょうし」

「今日はいいんだよ、仕事終わったら何もないし。……というわけでイリス、ジュース飲んでちょっと待ってて。片付いたらオレの部屋に行こう。ルイゼンたちも誘わなきゃな」

「部屋って、寮の? ゼンたち……ベルとフィンも?」

「そう。……あー、ゲティスさんとこのジュース今年も美味い!」

きちんと謝ることはできず、そして疑問の答えも与えられない。消化不良だが、濃いジュースはかまわずイリスの胃に落ちていった。

やがてレヴィアンスが本日最後の書類を処理し終え、空になったグラスをガードナーが片付け、誰もいなくなった執務室の明かりが消えた。

 

レヴィアンスの部屋に初めて入るわけではないのに、ルイゼンもメイベルもフィネーロも落ち着かない様子だ。イリスでさえとても寛げる気分ではない。ただ、部屋にふわりと広がる香ばしい匂いは懐かしかった。

台所からガードナーが、フォークとナイフを持ってきて揃える。あまりにてきぱき動くので、イリスが手伝う隙がない。

「夕飯にはちょっと軽いかもしれないけど、オレこれしかできないんだよね。材料も他にないし」

明るい声に、ぽふ、ぽふ、と音が続いて、今度は皿が現れる。四つを一度に運ぶガードナーは、さながら手慣れたウェイターだ。だがそれよりも、皿の上にあるもののほうが気になる。焼きたてのパンケーキを、ルイゼンは驚いて、フィネーロは感心して、メイベルは不審そうに見た。

「閣下、じゃないや、レヴィさん、料理できたんですね」

「こんな特技があるなんて思いませんでした」

「本当に食べられるのか?」

口々に言う三人に、イリスが当人に代わって返事をする。

「普通に、ていうか、美味しく食べられるやつだよ。レヴィ兄唯一の得意料理」

「イリスは食べたことがあるのか」

「何年も前にね」

最初は四歳の時。ある事件のせいで大怪我をして、外に出られず退屈していた日。同じく怪我をして仕事を休まされていたレヴィアンスが、インフェリア邸までやってきて作ってくれたのがパンケーキだった。曰く、これが好物である彼の母のために練習したのだとか。

以来、忙しくなるまでは、ときどき作ってくれるようになった。今日のようにフルーツソースが添えられるようになったのはだいぶ後、遠くの村からジュースやシロップが送られてくるようになってからだ。

イリスがジュースを持ってきたことで、今年もその時期が来たことを知ったのだろう。ガードナーの言っていたレヴィアンスの「外出」は、おそらくはニアたちのところに届いたシロップを貰いに行ったのだ。部屋を空けていることのほうが多いレヴィアンスのところには、その荷物は来ないから。

「ソースの材料を手に入れるために、閣下は少々怒られてきたようですよ」

「レオ、余計なこと言わない。お前の分作んないぞ」

台所ではまだ追加のパンケーキを焼いている。先に食べてて、と言われたので、そうさせてもらうことにした。柔らかな抵抗を感じながら大きめの一口分を切り分け、頬張る。――うん、懐かしい味だ。

「レヴィ兄、美味しい」

「当たり前だろ。オレが作ってんだよ?」

「唯一の得意料理なのにその自信は何なんだ……美味さは認めるが」

「つっこむなよ、メイベル。美味いものは素直に食おうぜ。お、フルーツソースが絶品!」

「僕はこういうの、初めて食べた。なのに落ち着くな」

「おかわりもすぐ焼けるからな、どんどん食えよ」

「閣下、ご自分のを用意してください。彼らと一緒に食事をするのが目的でしょう」

昼間のことなどまるでなかったかのような、温かな賑やかさ。こんな時間ばかりなら幸せなのに。実際は、食事が終わって部屋に戻り、眠って明日になれば、フィネーロのいないリーゼッタ班の日々が待っている。イリスが望まない日々が。

「食べ終わりたくないなあ」

「もうおかわりか? レオがうるさいから、一枚食べ終わってからでいい?」

「そうじゃなくて。レヴィ兄、いいかげん本題に入ってよ。わたしたちを集めたからには、言うことがあるんだよね」

「あるといえばあるし、ないといえばない」

ここまできてそんないいかげんな、と怒鳴りたくなったが、留まった。レヴィアンスの表情に疲れが見えてしまって、彼を責めるのではなく彼と話すのだということを思い出した。

「大総統として話せることは、現時点ではほとんどない。ルイゼンに説明した通り、フィネーロには班を離れてもらう。それだけだ」

「それは本当に、フィンが力不足だと思ってるから?」

「現時点ではそう判断せざるをえない。ただしそれは戦闘が必要な現場での話で、事務や見回り、単純な視察といった仕事には何の支障も出してない。それどころか非常にうまくやってくれている」

「じゃあ戻してよ」

「戦闘で動けるようになってくれないと困る都合があるからダメ。せっかくの頭脳を小班だけで使うのももったいないし」

力不足どころか、フィネーロの本来の能力はやはり認められている。しかしそれでも、急に班から外されるのは理不尽だ。徐々に仕事の配分を変えるなりしてくれればよかったのに、レヴィアンスは、いや、大総統はそうしなかった。

「情報処理担当を含む班構成ができないわけではありませんよね。どうしてその方法をとらず、突然外すことに?」

ルイゼンが切りこむ。しかし、きっと語られないだろうと思ってのことだ。フィネーロ自身が、待ってくれと言ったのだから。

「それも今後の都合があるから話せない。フィネーロにはそれを少し説明したけど、口止めしてる。時が来たら全部明かすから、それまでお前らは待って……いや、ただ待ってるだけじゃだめだな。各自備えておいてほしい。フィネーロに長所を伸ばして短所を克服してもらうあいだ、お前らも成長しておけ」

「成長、ですか」

レヴィアンスは頷き、息を吐いた。それから思い切り吸って、一気にまくしたてる。

「ルイゼンは統率力はあるが、作戦を立てるという点においてはまだ甘いところがある。これから佐官として働かなきゃいけない場面も増えるんだから、上司から学ぶなりしてもっと勉強しておけ。メイベルは頭もいいし銃の扱いにも長けているのに、すぐ頭に血が上るからそれを生かしきれていない。もっと冷静に動け。イリスはもう言ったけど、あのワンパターンな動きをなんとかしろ。相手をよく見て臨機応変に行動しないと、お前には先がない」

それぞれの胸に言葉が刺さる。だがよく考えてみれば、自分たちの弱点は今まで上手に補われていた。作戦を補強していたのは、熱くなりすぎる性格を諌めていたのは、臨機応変な行動で助けてくれていたのは。

「いつまでもフィネーロを補助にしておくな。頼るなとまでは言わないけどさ、仲間の自立を妨げちゃダメだろ」

もしイリスが、レヴィアンスに勝って、フィネーロを力ずくで班に引き留めることができたとして。その先はどうしただろう。今までそうしてきたように、それが役割だと信じ込んで、フィネーロに負担をかけ続けていたかもしれない。彼が能力を伸ばすチャンスを奪っていたかもしれない。

それだけではない。イリスたち自身が現状に甘えて、成長しようとしなかった。特にイリスには「先がない」。擦りむいた頬がじくじくと痛んだ。

「班全体のレベルアップが必要ということか。そもそも私たちは閣下が、まだ佐官だった頃のこととはいえ、自分で組ませた班だ。使えない人材を特別扱いすれば、閣下の責任問題にもなる」

「メイベルの認識で間違ってない。そういうことだから頑張って」

にやりと笑うレヴィアンスの、これまでの言葉を思い出す。イリスの知るレヴィアンスは、おそらくメイベルの言うような責任問題など考えていない。たとえ非難されたとしても、レヴィアンスが現在の地位を降りることはしばらくはないだろう。彼の立場は女王によって与えられたものだ。

未だ語られない何かがきっかけで、イリスたちが成長しなければならない必要性が急激に増したのだ。条件をクリアできれば、フィネーロはまた戻ってくる。たしかに「仲間」と言ったのだから。

悪者を演じているとしたら、レヴィアンスは大根役者だ。結局彼は彼以外の何者でもない。

「わかった、今はそれで納得しておくよ。フィンをあんまり困らせたくないし、わたしたちが文句を言っている場合でもなさそう」

時が来れば明らかになるならば、その時までに自らを磨いておかなければならない。今日のような敗北は、もう二度とあってはならないのだ。

「オレからはここまで。質問は残念ながら受け付けられないけど、パンケーキのおかわりの注文なら受けるよ」

「閣下、話してばかりで全然食べていないではないですか」

「これに限っては作る方が好きなの」

「じゃあ遠慮なく、おかわり!」

先がないなら、これから拓くまで。

 

 

アルト・リッツェがしばしのあいだ、西の大国ウィスタリアに研修に出ることになった。幸い大学の講義に影響を及ぼすことはなく、また資金繰りも考える必要がなかった。エルニーニャを離れる前にすべきことは、たった一つ。

「フィネーロ、情報処理担当も悪くないだろう。お前にはそのほうが合っている」

弟に会い、話をすること。

「……たしかに悪くはないよ。知識も人間関係も広がった」

「そのわりには不満そうな顔をしているが」

「もとの班に戻りたいからね。……兄さんは、本当は僕に軍自体を辞めさせたかっただろうけれど。それだけは何があっても受け入れないから」

「そこまでは考えてなかった。信じてくれ」

もしかしたらとは思っていたが、弟はやはり勘違いをしている。言い訳はあまりしたくなかったが、これも自分の蒔いた種だと思って諦めた。大総統が全て説明してくれれば良かったのだが、彼はそんなに都合よく動いてくれる人間ではない。

「私はお前の可能性を潰させたくなかったんだ。小班に、それもお前が後始末をしなければ成り立たないようなところに、いつまでも置いておくわけにはいかないと思った。あのままでは利用されるだけされて、いつか捨て駒になる。かつての北方司令部の不祥事の一要因と同じになってしまう」

「班の者も閣下も、僕をそんなふうには扱わない。そんなことにさせないという意志で、閣下は兄さんの出した条件をぎりぎりまで受けなかったんだ。それだけじゃない、兄さんが今でも軍に失望せず協力してくれるものと信じていた。閣下がそう言ったわけじゃないけれど、僕はそう思っている」

「どうだか。あの男は軽いようでいて、煮ても焼いても食えない厄介な奴だ。必要とあらば他国と協力して味方すら騙す」

こちらの申し出を受け入れたのだって、それが必要になったからだ。結局、全てが大総統の手の上にある。――それを思うと、弟を軍から引き離したいという気持ちは、やはりあったかもしれない。

「たしかに、閣下が兄さんの要求を受け入れたのは、これ以上交渉を引き延ばすともっとまずいことになるってわかったからだ。閣下は兄さん以外の人にも声をかけていて、必要な情報を少しずつ得ていた」

「そらみろ」

「でも、決定打を得るには兄さんの協力が不可欠だと。元北方司令部諜報部隊長の力がどうしても必要だと結論を出したんだ。そして兄さんが動きやすくなるためには、情報を受け取る僕が閣下から少し距離を置かなければならないということも」

弟の信頼を最も勝ち得ているのは、家族である自分だと思っていた。それなのにあの男は、大総統というだけで、弟の同僚と親しいというそれだけの繋がりで、こんなにも信じられている。弟をとられてたまるかと思った。どうしても手放さないのならそのまま失脚してしまえと呪った。だが、その呪いはきっと、大切なはずの弟を傷つけることになる。

大総統がレヴィアンス・ゼウスァートではなくなったなら、フィネーロが、闘うことが苦手なこの子が、今まで通り軍で生き残ることはできない。それこそアルトが恐れていた切り捨ての対象になっただろう。フィネーロが軍にいることを望む限りは、この子の立場をより良いものにするために、動くしかないと結論付けた。

アルトが得た情報をフィネーロが受け取り、自らの手柄とする。そうして弟が認められることを、アルトは選んだ。だから旅立つのだ。

「私が情報を得られるまで、周りに潰されるなよ、フィネーロ」

「潰されないよ。兄さんは、僕をいつまで子供だと思っているんだ」

けれどもアルトの認識には誤りがあった。弟はいつまでも「幼い弟」のままで、大人の庇護がなくてはならないものと、思い込んでいた。

「イリスの兄さんはイリスを認めてるのに、メイベルだって妹の成長を認めたのに、どうして僕は兄さんに認められないんだろうって思ってた。僕だって闘っているのに。弱いけれど、周りのサポートくらいしかできないけれど、僕だってもう一人前の軍人なのに!」

それが見くびりだと気づかなかった。愛情だと信じて疑わなかった。

「もういいけどね。認められなくたって、僕は僕だ。可能性を潰させたくないと本気で思うなら、兄さんはわざわざ僕のために道を作ってくれる必要はない。ただ、今回は閣下から仕事を引き受けた身として働いてほしい。弟からではなく、エルニーニャ王国軍大尉フィネーロ・リッツェからの頼みだ」

弟から最も目を逸らしていたということを、アルトは認めるしかなかった。成長していなかったのは、自分だ。

大きく溜息を吐いて、弟の頭を撫でるつもりだった手を引っ込める。

「わかったよ、リッツェ大尉。だが今回だけだ。研修期間が終わったらもう二度と頼みごとなどするなと、大総統に伝えてくれ」

「閣下ももう兄さんには頼みたくないって。だから今回の調査依頼も、当初より限定的なものになった」

フィネーロが表情を引き締めた。彼が仲間にも隠さなくてはならなかった、極秘の任務が告げられる。

 

「レヴィアンス・ゼウスァート大総統閣下の暗殺計画の、進行状況について報告を」