ぎらりと刃が光る鎌から、長い鎖がのび、その先には分銅がある。分銅には紅玉があしらわれているが、これは本物のサーリシェリア産鉱石だそうだ。エルニーニャ王国首都レジーナで、この装飾を施せる店は一軒しかない。

「さすがスティーナ鍛冶。二代目もいい仕事するな」

「いいなー。わたしも私物の剣持つときは絶対頼もう」

ルイゼンとイリスが口々に褒める新品の鎖鎌は、つい先ほどフィネーロが受け取ってきたものだ。今までは軍支給の鞭を武器として登録していたが、今後はこちらに切り替えて訓練をする。

「情報処理担当になってから武器を変えたら、事務に妙な顔をされた。あまり例がないんだろう」

「しかも私物だしね。普通は変えるにしても、軍支給の無難なやつだろうし。早く使いこなせるようになって、班に戻ってきてよ」

フィネーロはリーゼッタ班から外れている。イリスたちと一緒に行動することは少なくなったが、休憩時間や自主訓練のときには顔を合わせ、言葉を交わす。

そうせざるをえなかった事情を、イリスはまだ知らない。それを決めた大総統レヴィアンスは、未だに何も語っていなかった。

「戻れるかどうかは閣下の意向次第だ。でも努力はする。それより、これを受け取るときに一緒に渡されたものがある。イリス宛てに」

「わたしに? レヴィ兄じゃなくて?」

スティーナ鍛冶はレヴィアンスの実家だ。何かあるとしたらそちらにだと思ったのだが、手にした封筒にはたしかにイリスの名があった。流麗な筆跡は、まさしく先々代大総統ハル・スティーナのもの。首を傾げながら封筒を透かしてみたが、さすがに内容を読むことはできなかった。

「普通に開けて読めよ。事務室にペーパーナイフあるだろ」

「これも気になるけど、フィンと一緒にいる時間も大事なんだよね」

「そういうこと言うと、またメイベルが妬くぞ。そうだフィン、メイベルが体調不良で休みだから、仕事終わったら見舞いに行かないか」

「わかった。あいつの具合が悪いなんて珍しいな、雪でも降るのか?」

どちらにせよ、まもなく休憩時間は終わる。人手不足で忙しいが、手紙に目を通すくらいは許してもらおう。

 

[イリスちゃん、元気に仕事を頑張っているようですね。噂はいろいろ聞いています。

ガードナー君と一緒にレヴィをいつも支えてくれていること、ボクからもとても感謝しています。

ところで、イリスちゃんはこの一年で勉強もかなりしていると聞きました。元大総統として、エルニーニャのことをきちんと勉強してくれているのは嬉しく思います。喜びついでに一つ、宿題を出させてください。そんなに難しいことじゃありません。

十八年前に起こった、『イクタルミナット協会事件』についておさらいをしてみてください。この事件について調べることが、今のレヴィを助けることにも繋がると思います。

君たちの活躍を心から応援しています。ハル・スティーナより]

丁寧に折りたたまれた可愛らしい便箋に、「宿題」というあまり嬉しくない言葉。複雑な気持ちで手紙をしまうと、ルイゼンに「読み終わったら報告書すぐやれよ」と言われてしまう。口をとがらせながら昨日の視察任務の報告書にとりかかるイリスだったが、頭の中は手紙の内容のことでいっぱいだ。

十八年前の事件について調べることが、今のレヴィアンスを助けることに繋がるとは、どういうことなのだろう。最近は補佐見習いの仕事をあまりしていないのもあって、どんな関係があるのかわからない。

フィネーロが抜けて、リーゼッタ班では主に事務処理での人手不足が深刻になった。おかげでイリスがちょいちょい大総統執務室へ仕事をしにいくという今までのスタイルが困難になり、それをわかっているレヴィアンスもイリスに仕事を頼んでいない。彼としても、しばらくはイリスたちに事務のレベルを上げるよう努めてほしいだろう。これまでフィネーロに頼っていた分は気づいてみればかなり大きく、とりわけメイベルも休んでいる今日は慌ただしい。

なんとか報告書に手をつけながら、事件の名称を反芻する。「イクタルミナット協会事件」、聞いたことがないわけではないが、発生がイリスの生まれる前だ。内容はほとんど知らないも同然である。ただ、十八年前といえばイリスの兄らが軍に入隊した年だ。同期なのだから、もちろんレヴィアンスも。事件の規模にもよるが、関わっている可能性は高い。いや、だからこそ知っておくとレヴィアンスの助けになるのだと推測できる。

「ねえ、ゼン。イクタルミナット協会事件について何か知ってる?」

机でできた島の、真向かいに座っているルイゼンに問う。別件の報告書から顔をあげた彼は、怪訝な表情をしていた。

「それより報告書をさっさと片付けてもらいたいんだけど、どうしてお前がそれを訊くのか疑問だから答えてやる。俺が生まれた年に起こった、中央司令部襲撃事件だな。ニアお兄さんたちが深ーく関係してるだろ」

「お兄ちゃん? なんで?」

「いや、お前こそなんで知らないんだよ。……ああ、でも、お前だから誰も話したがらなかったのかも」

一人納得して作業に戻ったルイゼンに、イリスは首を傾げる。兄が関係していて、しかしイリスには誰も聞かせたがらないような話。そんなものがあったのか。「中央司令部襲撃事件」というからには、規模は大きかったのだろう。ならば幼い頃から軍に興味を持っていたルイゼンなら、知っていてもおかしくはない。では、同じく軍に興味があったはずのイリスが知らない理由は何だ。知らせなかったわけは。

「ゼン、仕事終わったらもっと詳しく聞かせなさいよ」

「イリスこそきっちり仕事終わらせてくれ」

うんざりしたような返事は、イリスがなかなか仕事を進めないからというだけが理由だろうか。気になっても、まずは目の前の仕事だ。やるべきことをきちんとやらねば、フィネーロやメイベルを心配させ、レヴィアンスには会うことすらできない。

 

なんとか終業時間に仕事を全て間に合わせたが、ルイゼンは佐官での会議があるという。イリスは仕方なく一人で寮に戻ることにした。徒歩二分だが、ずっと誰かと一緒だったのとそうでないのとでは、随分とまとわりつく空気が違う気がする。

「イリスさん、お疲れさまです」

その声を耳にしてホッとしたのは、寂しかったからでもあるし、久しぶりだったからでもある。どうやら顔を合わせないあいだも元気だったようだ。

「ガードナーさん、お疲れさまです!」

大総統補佐、レオナルド・ガードナーは書類を抱えてにっこりしていた。執務室にいるときと何ら変わらない……というより、どこにいてもこの人はあまり変化がないのだが、顔色くらいはわかる。

「そっち、忙しいですか? レヴィ兄は仕事してます?」

「いつも通りですよ。私はこの書類を届けたら帰るように言われていますが、閣下はもう少し仕事をするんだそうです。……ただ、イリスさんが来ない分、机周りはどうしても散らかりがちですね」

ガードナーはレヴィアンスの机を片付けることができない。全て必要なものなのではないかと疑ってしまい、手をつけられないのだそうだ。対策として、いらないものをすぐに分けるための箱を設置してみたようだが、それではどうにも見栄えが悪いらしい。

「目が良い方なら、きっと閣下の背後にある箱の存在にすぐ気がついてしまうと思うんですよ」

「あはは、たしかに大総統の部屋としては威厳がないかも。じゃあ明日の朝にでも片付けに行きますね」

「ありがとうございます。でも閣下は不要なものを私が帰った後に処理してしまうので、朝はきれいだと思いますよ。徹夜をしなければ、ですが」

「じゃあ、鍵がかかってたらいないものとして放っておきます」

片付けもいらなくなったら、今イリスができることはない。自分のことに専念すべきだとわかっていても、レヴィアンスの世話をやけないというのは少々つまらない。こういうとき、正補佐であるガードナーが羨ましくなる。

「私もレヴィ兄と並べるくらい、階級が上なら良かったんですけど。十年早く生まれてたら、正補佐になれたかなあ」

「何を言ってるんです、正補佐はあなたでしょう。閣下は初めから、あなたを補佐にしようと考えていたんですから。私は間に合わせの補佐です」

「そういうこと言ったら、レヴィ兄怒りますよ。ガードナーさんのこと、めちゃくちゃ信頼してるんですから。それじゃ、レヴィ兄をよろしくお願いします!」

大総統就任時のレヴィアンスの思惑がどうであれ、正補佐はガードナーだ。地位も実力もあって、大総統の隣にいるのにふさわしい。ガードナーと別れ、寮に向かって駆けながら、イリスは知らず知らずのうちに胸を押さえていた。

もっとレヴィアンスの役に立てたらいいのに。そのためには全然力が足りないのだ。しかも成長しなければこの先はない。――彼を助けられるであろう方法が、今はたった一つ、ポケットに入っている。胸の苦しさをなくすには、それに縋るしかなかった。

 

会議を終えたルイゼンがフィネーロを連れて部屋に来たのは、すっかり夕食の準備が整った頃だった。普段は寮の食堂に食べに行くのだが、メイベルの体調を考慮して、今日はイリスが台所に立った。四人前とおかわり分を作ったトマトカレーの鍋が、良い匂いの湯気をたてている。

「お、インフェリア家のカレーの匂い」

「今年最後の夏野菜だよ。お兄ちゃんちでやろうと思ってたんだけど、最近はわたしが作りに行かなくてもよくなってきたし、こっちで食べるのもありでしょ」

「さっきまで自分の体調を恨んでいたが、久々にイリスのおさげ髪とエプロン姿が見られたから良しとしている」

「なんだ、メイベルも元気だな。もともと心配は無用だったか」

トマトをよく煮こみ、スパイスをたっぷり入れて作ったスープカレーを、皿によそう。素揚げした野菜と一緒に食べると、これがまた美味しいのだ。

一口で全員の表情がほころんだのを確認し、イリスは満足気に頷いた。

「上出来だね。さっすがわたし」

「イリスが作る料理ならなんでも食べる所存だが、本当に美味い」

「相変わらずだな、メイベル。仕事中もいつも通りか?」

「変わらないな。フィン、新しい武器見せてやれよ」

今日の仕事、明日の予定と、食べながら一通りの連絡をする。メイベルが仕事を把握し、フィネーロが自分のいないあいだの班の動きを知り、そうしているうちにおかわりも出て鍋は空になった。

そろそろ皿も中身がなくなろうかという頃、イリスは昼間の話をもう一度切りだす。

「ねえゼン、イクタルミナット協会事件のことだけど」

「ああ、覚えてたか」

途端に声が低くなったルイゼンに、イリスはムッとする。態度を問い詰める前に、フィネーロが口を開いた。

「あの事件がどうかしたのか」

「フィンは知ってる? フィンが預かってきてくれた手紙に、この事件について調べるように書いてあったんだよ。それがレヴィ兄を助けることになるって」

「知っているも何も、君の兄さんが関わった事件じゃないか。どうして知らないんだ」

フィネーロはルイゼンと同じことを言う。隙があったら調べに行こうと思っていたのだが、今日は時間がなくてできなかったので、イリスはやはり何があったのか知らないままだ。

「手紙ってなんだ。イクタルミナット協会事件は、私たちが生まれる前にあった中央司令部襲撃事件だろう。それがどうして今更閣下の助けに? むしろ陥れる要素になりそうなものだが」

「陥れる?」

メイベルも何か知っているらしい。説明してくれようとしたのを、しかし、ルイゼンが遮った。

「ちょっと待て。話してやるから、イリス、絶対に怒らないと誓え。この事件はお前の地雷だ」

「地雷って何。隠される方がよっぽどイライラするって」

「そうか」

息を吐いたルイゼンから目を離さないまま、空いた皿を片づけようと手を伸ばした。四枚全部重ねたところで、

「この事件はな、お兄さんが人間兵器と呼ばれるようになったきっかけの事件だ」

その言葉が、イリスの手を止めさせた。

何よりも嫌いな言葉だ。大好きな兄を、まるで物のように扱う呼称。兄が軍にいるあいだ、ずっと囁かれていたもので、そして兄が軍を辞める際にも、この呼称のせいですんなりとはいかなかった。

だが、イリスも知らないわけではない。兄がそう呼ばれる理由を。自我を失うこととひきかえにして振るわれる、超人的な強さを。

「……お兄ちゃん、当時十歳だよ。まさか襲撃犯全部倒しちゃったとか?」

苦々しい顔で、ルイゼンが首を横に振る。メイベルとフィネーロは顔を見合わせ、黙っていた。

「逆だ。お兄さんが襲撃犯に操られて、中央司令部の軍人を倒した。人間兵器なんて呼ばれて軍で監視されてたのはそのせいだ」

言うのがつらいだけではない。本当に知らなかったのか、という呆れも声に混じっている。――そうだとも。今まで誰も、教えてはくれなかった。たぶん、イリスを思ってのことだったのだろう。父や兄はなおさら避けるはずだ。物心ついたときからお兄ちゃんっ子で、一家の仕事に誇りと憧れを持っていたイリスに、そんな事件の話はできなかったに違いない。

「なるほど、イリスだからこそ知らされなかったというわけか。僕は親や兄たちから聞いたが、ルイゼンは自分で調べたんだな」

「私も自分で調べたぞ。なぜイリスの兄君があんなふうに呼ばれるのか気になっていたからな。イリスはあれを聞いただけで怒るから、誰も話題にできなかったんだ」

「……それはわかったよ。わたしに気を遣ってくれたんだよね。でも、レヴィ兄は何の関係があるの? さっきベルが陥れる要素って言ったけど」

ニアと同期だから、親しいから、同じく危険視されたのだろうか。それならルーファやアーシェ、グレイヴもそうだ。「陥れる」理由にはならないように思う。

「事件の主軸となったイクタルミナット協会は、血脈信仰を掲げる団体だ。正しい血統の者が世界を救うと、奴らは本気で信じていた。あまりに熱心に正しい血統を調べ上げたものだから、それまで誰も知らなかった事実に真っ先に辿り着いた。……ゼウスァートの末裔が現代に生きている、ということに」

メイベルの言葉で、イリスも思い出す。ゼウスァート家は大昔に滅びたと考えられていた。しかしレヴィアンスが現れ、その正統な後継者と認められたことで、女王が大総統に指名した。そもそも最初に見出したのは、イクタルミナット協会だったのだ。

「協会が動き事件を起こすことによって、閣下の身元は人々、少なくとも軍関係者には知れ渡ることとなった。しかも当時の大総統に育てられている子供だ。ドラマが大好きな人間という生き物にとって、こんな奇跡をとりあげないのはもったいないだろう」

極端にいえば、その事件がなければ、現在のレヴィアンスの地位はない。

「どうしてそんな事件、ハルさんはわたしに調べさせようとしたんだろう」

周りが教えずにいたことを、あえて今提示する理由は何か。事件当時の大総統だったハルは、この事件について詳細に知っているはずで、だからこそイリスにそれが告げられてこなかったことも承知しているだろう。

「レヴィ兄が大総統になったってことは、事件を起こした側が信じる通りにことが運んじゃったってことだよね。陥れるっていうのはそういうことでしょ?」

「だと、私は思ったんだが。先々代大総統の思惑は違うんだろう」

「事件を知ることが閣下の助けになる、か」

フィネーロが小さく頷く。でも事件と手紙のことで頭がいっぱいだったイリスは、それに気がつかなかった。

 

早朝の大総統執務室には鍵がかかっていた。レヴィアンスは昨夜のうちに仕事を片付け、ちゃんと寮に戻って寝たらしい。それならそれで、と息を吐きつつも、イリスの気持ちは晴れなかった。

もう何日、直接顔を見ていないだろう。ハルに出された宿題のことは、知っているんだろうか。まだ話せないと言っていた事情は、いつ明かしてくれるのだろう。訊きたいことや確かめたいことがたくさんあるのに、今は全てを重い扉でシャットアウトされているようだった。

「閣下はいたのか」

「ううん、まだ来てないみたい」

「ではプランAだな。始業時間までイクタルミナット協会事件についての資料探しだ」

足早に軍設図書館へと向かうメイベルを追いかけようとして、けれどももう一度だけ振り返った。待ち伏せていれば、部屋の主はそのうち必ず現れる。しかしそんなことをしている暇はない。自分にも、きっと彼にも。

図書館前でルイゼンと合流した。フィネーロはいない。情報処理担当は始業前から、何かと準備しなくてはならないことがあるらしい。

「伝言だけ預かってきた。イクタルミナット協会事件のことを調べるなら、協会がどんな組織だったのか、どのような動機で事件を起こすに至ったのかに着目しろ、だとさ。あくまでお兄さんや閣下が関係したことは結果に付随している事項だから、気にするなって」

「ゼンはいいよね、フィンと同じ部屋にいるんだから。本当はどこまで聞いてるのよ」

「閣下に口止めされている件のことか? それは絶対に言わないんだ。だから俺も知らない」

フィネーロの口が堅いことも、ルイゼンがそれを無理に割らせるようなことをしないのも、イリスはよく知っている。だが何も知らないということは、存外に焦りを呼ぶのだった。少しイライラしていると、メイベルに肩を叩かれる。いつもと立場が逆だ。

「なに、あいつが正しいと信じてやっていることだ。それで良いんだろう。それにいざとなれば責任は全部閣下。イリスが気にすることじゃない」

「……言ってることはいつものベルだね。わたしはレヴィ兄にばっかり責任を押し付けるのはどうかと思うんだけど」

でも、レヴィアンスならきっと言う。それが自分の役割だと。最初から全部背負う覚悟で、この立場にいるのだと。もしそれがハルでも、イリスの父カスケードでも、同じ答えになるのだろう。それがこの国の大総統というものだ。

「閣下は閣下、フィンはフィンの仕事をしてるんだ。俺たちも自分の仕事をするしかないだろ。まあ、今は始業前、この調べ物もプライベートだけど」

「わたしに出された宿題なのに、ゼンとベルを巻き込んじゃってごめんね」

「イリスのものは私のものだ、謝るな。……さて、必要な資料は特別書架にある。一般公開はされていないし持ち出し厳禁。調べるなら早いところやってしまおう」

始業までそう時間があるわけではない。急いで特別書架に行き、十八年前の資料を探す。イクタルミナット協会事件に関してまとめたものは、すぐに、なかなかの量が見つかった。これはイリス一人でクリアするには無理がある宿題だっただろう。ハルはそこまで見越していたのだろうか。

最初に開いたその一ページ目から、イリスは気が遠くなりそうだった。イクタルミナット協会事件は司令部襲撃だけでなく、それまでに起こった一連の事件全ての総称。元をたどれば二十年以上昔にまでさかのぼるものだという。まだイリスは影も形もない。

事件の中心、イクタルミナット協会が掲げていた「血脈信仰」は、簡単にいえば先祖の性質が子孫に受け継がれていると信じるものだった。良い行いだけでなく、悪行までもが血となって代々流れていて、未来に影響する。悪しき未来を避けるためには、偉大な血を持つ者を頂点とした世界を築く必要がある。――かつては子孫に汚点を残さないよう自らを戒める教義だったものが、次第に変質していったのだという。

名家の子供を未来の支配者として育て、犯罪者の子供は間引くべきだ。事件が起こった頃には、そんな極論が血脈信仰の柱となっていた。もっとも、差別思想を極大化させる原因は、裏社会が血脈信仰を利用しようとしたことにある。イクタルミナット協会として組織が立ち上げられた当初は、血脈信仰信者は表立って教義を唱えようとはしていなかった。

裏社会の者によって差別思想を強めた協会は、理想的な支配者をつくるために、名家の子供に接触するようになる。建国御三家の一つエスト家の現当主、ドミナリオもかつて彼らに着目されていた。しかし彼らには、子供に教義を与えるならば十歳までに、という決まりがあったらしい。ドミナリオが結局彼らの手にかかることがなかったのは、その父が我が子を守り抜いたからだ。

十歳という年齢制限は、おそらくはこの国のシステムに基づくものだろう。十歳になれば軍に入ることができる。十歳からこの国をつくる社会の一員として働くことができ、そのための教育を施される。逆にいえば、まだ十歳のうちなら教育によって意識をつくりかえることができる。

協会は暴走を強め、軍に入って間もない名家の血をひく子供を引き入れようと、強硬手段に出るようになった。それが十八年前。彼らはインフェリア家に接触していた。

「……傷害事件被害者、サクラ・インフェリア。接触動機はニア・インフェリアの能力。直前に、ニア・インフェリアは裏組織との戦闘で異様な身体能力を発揮しており、本件はそれを狙ったものとみられる……か。わたしには言わないわけだ、お兄ちゃんも、叔母さんも」

ニアの能力が狙いということは、協会はそれを血筋によるものとみたのだろう。本当のところは今でもわかっていないので、どうとでもいうことができる。とにかくそれがきっかけとなり、軍はようやく協会の存在に気づき、対策を始めたのだった。

しかしその実行は後手に回る。ニアに続き、協会はレヴィアンスにも接触。彼がゼウスァートの血をひく人間であると明かした。インフェリア家での事件と並行、あるいはそれよりも前に、協会は調べをつけていたと思われる。その後、ニアが協会を操っていた裏組織に、レヴィアンスが協会に攫われ、中央司令部襲撃事件へと繋がっていく。

最終的に、事件は軍を壊滅させ、あわよくば国を乗っ取ろうとした裏組織の企みだったと結論付けられている。イクタルミナット協会関係者のうち、誘拐及び襲撃に関わった数名が捕まったが、全ての血脈信仰信者に罪があるわけではなかった。軍は無関係の信者たちが迫害を受けることのないように働きかけている。イクタルミナット協会はこれを機に解散したが、血脈信仰は残り、以降も続いていると考えられる。

「あのまま今も続いてるのかな、血脈信仰って」

始業時間が近くなったので、急いで資料を片付けながら、イリスは苦い顔で呟いた。

「信仰は人間が行動する規範の一つだからな。心に根をはるものが、そう簡単になくなったりはしない。変化はあるかもしれないが、それだってこちらに都合の良いものかどうかはわからない」

メイベルがさらりと答え、しかし、と続ける。

「もし彼らが再びインフェリア家に手を出そうとするなら、私は容赦しない」

「ありがと、気持ちだけ受け取る。わたしも十歳なんてとっくに過ぎたから、もうないとは思うけど」

事件の結末をみる限り、信者たちにはもうそれほどの力が残っていなかった。だからこそ十八年、動きがなかったのではないか。――だが、今になってハルが事件のことを知るように仕向けた理由が気にかかる。十八年もあれば、力を新しく得ることも可能だ。

同じことをルイゼンも考えていたのか、渋い顔をして最後の資料を棚に戻す。

「先々代大総統が事件を調べるように指示し、フィンがヒントをくれた。俺にはこれが閣下の隠してることに繋がっていそうな気がしてならない。それに佐官会議でも、妙な懸念があるんだ」

「懸念?」

「視察任務のとき、裏社会と繋がりがありそうかというだけじゃなく、裏組織と過剰に敵対する勢力の存在にも気をつけろって。下手をすれば軍の方針ともぶつかりかねないって言ってたけど、あれはイクタルミナット協会のことだったんだな。イクタルミナットは古代語で撲滅、協会ももともとは裏社会のような悪を滅ぼすことを理念としてつくられた組織だった。それが逆に裏に良いように利用されて、最終的には反軍勢力になってしまった。……いくらなんでも、タイミングが良すぎる」

佐官会議の内容とハルの宿題が重なるのはありうることだろう、とイリスは思う。注意喚起を促しているもとがレヴィアンスなら、その相談を大総統経験者としてハルが受けることは珍しくない。

「直結してるって判断するのは早いと思う。フィンのアドバイスだって、班にいたときはいつものことだったじゃない。レヴィ兄の傍にいれば、実際何が起こってるのか、わたしもある程度は把握できるんだけどね」

それができない今は、何とも言えない。ただ調べたことを覚えておくだけだ。必要になったとき、いつでも役立てられるように。

 

 

情報処理室にいながらも、軍のコンピューターは利用しない。早朝のまだ誰も来ていない部屋に、フィネーロは私物の端末を持ち込んでいた。深夜のうちに、西の大国にいる兄から報告が届いている。一見して何の変哲もない、弟を気遣うような文章が並んでいるが、仕掛けを解けば国家を揺るがす重要機密が現れるようになっていた。

「……やはりか」

解読後、フィネーロは深く息を吐いた。今起こっている事態を、先々代大総統ハル・スティーナは知っている。レヴィアンスから相談を受けた上で、動いたのだ。

十八年前に事件を起こして解散した、イクタルミナット協会と呼ばれていた一味と、彼らが掲げていた血脈信仰の信者たちは、エルニーニャ王国内だけでなく大陸の各地に散らばった。そのなかの一握りが西国ウィスタリアで成長し、活動をしている。

――奴らはエルニーニャの大総統がゼウスァートの名を掲げていることに対し、「我々の言う通りだった」と自信を持った。そうしてゼウスァートにあるべき仕上げとして、その「栄誉ある死」を求めている。十四代大総統と同じように、歴史に名を残せと。

十四代目はゼウスァート家最後の大総統だった。それまで政権を持っていた王宮の人間が突如発生した事件により行方不明となったことで、エルニーニャ王国の頂点を独りで担うこととなった彼は、しかしそれに反対する者の手で暗殺された。だが主を失い、ようやく取り戻すことができたたった一人の王子は幼く、不安定になってしまった王宮には以前通りの政治がままならなかった。

大総統政は結局、そのまま十五代目へと引き継がれた。十五代目も暗殺の危機にあったが、幾度となく阻止され、そのあいだに新体制の地盤を確かなものにすることができた。以降、先々代大総統のときに改革を行なうまで、エルニーニャ王国は大総統が単独で治めることとなる。その称号が軍だけでなく、国家全体に対して責任を負うものとして扱われるようになったのだ。

――せめて大総統がインフェリアを補佐見習いなどにしなければ、暗殺論に及ぶことはなかっただろうに。奴らは本気で歴史が繰り返されていると思い込んでいる。いや、繰り返されるべきだと主張している。

十四代目の死を見て、十五代目を安定まで守りぬいた軍人がいた。インフェリア家の九代目だった。大総統にはならなかったが、その立場にあるものを支えた、有能な補佐候補だ。階級が大将に達する前に、役目は果たしたとして、軍を退いたのだという。

「だから今……イリスがそこにいる、今なのか」

すぐ大総統にはなりえない。正補佐でもない。だが、イリスの存在は大きい。知ってか知らずか、大総統はあまりにも相手の思い通りに動きすぎた。

――気が早い者が、すでにエルニーニャに入り込んでいる。こちらで得た情報通りに動くなら、三日以内に行動に出る。だが今回は失敗するだろう。奴らはまだ手順を踏んでいない。

たとえ失敗するとしても、すぐに報せなければならない。フィネーロは端末を抱え、情報処理室を出ようとした。

だが、

「おはよ、フィネーロ。ありがたいね、言う通りに動いてくれてさ」

「閣下……」

戸口には、いつのまにかレヴィアンス本人が待っていた。

「おはようございます。いつからそこに?」

「んー、昨夜から。入ってくるときに気づかないとダメだろ」

「昨夜って……ここに泊まったんですか」

完全に気配を消していたのもあるが、そもそも情報処理室に人が寝泊まりしているなど思わない。それとも、フィネーロがまだ仕事に慣れていないからわからなかったのか。何にせよ、未熟さが露呈されたことには変わりなかった。

「さて、第一陣が来るまであとどのくらいだって?」

「兄は三日以内と言っています。しかしなぜ第一陣だと?」

「手順を踏んでないから。オレの身元を明かすくらいの奴らが、こだわらないはずないからね」

兄も手順を踏んでいないから失敗すると見ている。レヴィアンスは何を知っていて、この先どこまで予想できているのだろう。兄と連絡をとって暗殺計画の阻止を手伝ってほしい、と頼まれたが、フィネーロにすら語られていないことも多い。

「閣下。先々代を通じてイリスに調べ物をさせたのは、敵がイクタルミナット協会の残党だと知っていたからですか」

初めに動向を調べろと言われた団体にも名前はあった。しかし全く違う名前だったため、フィネーロが彼らとかつての事件を結び付けることはできなかった。

「他の筋の情報と、昔の事件でわかってたことを照らし合わせて、なんとなくそうじゃないかって思ってた。フィネーロに協力を仰いだのはその後。……で、イリスが調べ物って何のこと?」

「ご存知なかったんですか? 昨日、先々代大総統からイリスに手紙が」

「わかった、詳しくは先々代から聞くよ。母さんってば過保護だな」

「人のこと言えませんよ、閣下も。イリスに隠してきましたよね、十八年前の事件を」

「隠してないよ。言わなかっただけ。インフェリア家の人たちも言ってほしくなさそうだったし」

早口に話しながら、レヴィアンスは端末に表示された報告を確認した。最後まで読み終わってからフィネーロに端末を返し、薄く笑う。

「……お兄ちゃんは兵器なんかじゃないよね、なんてまた泣かれたら困る」

「泣かれたことが? あのイリスに?」

「昔の話だよ。端末からオレの指紋消しといてね」

軽く手を振って部屋を出ていこうとしたレヴィアンスを、フィネーロは慌てて引き留める。まだ疑問は山ほどあるのだ。

「手順って何ですか。イリスたちにはいつこのことを言うんですか」

しかしレヴィアンスは人差し指を口もとで立てる。

「なんでもかんでも秘密にさせて悪いとは思ってる。でももうちょっと辛抱してほしい」

「でも三日以内には」

「第一陣は自分で対処するから、まだ言わない」

違うだろう、と返せるものなら返したかった。イリスのように吼えられたら、そうしていた。

言わないのではなく言えないのだろう。自分の選択が招いた戦いに、巻き込みたくないから。もう遅いとわかっていて、それでも少しは遠ざけられないかと思って、あがいているところなんだと、この人は正直に言わない。あるいはイリスの語るとおりの彼なら、あがいていることにすら気がついていないのかもしれない。

 

大総統執務室に入ってすぐに、受話器に手を伸ばした。が、時計を見て思いとどまる。この時間ではまだ、曽祖父の支度を手伝っていて忙しい頃だ。

ただでさえ今回の件で相談に乗ってもらっている。これ以上心配をかけるわけにはいかないと思っていたが、一足遅かった。

「でも、イリスに直接調べさせなくたってなあ。そのうち全部……」

話しただろうか。話すことができただろうか。いつかの泣き顔を思い出さずに。

「閣下、おはようございます」

物思いに耽っているうちに、入ってきていたらしい。ガードナーの声がすぐ耳元で聞こえた。

「おお、おはようレオ。どうしたの、今日早くない?」

「私はいつもと変わりませんよ。閣下は随分前からいらっしゃったようですが」

「来たばっかりだよ。まだ仕事道具も広げてない」

「証言があります。昨夜から情報処理室に張り込んでいらしたんでしょう」

フィネーロに会ったのだろう。笑ってごまかそうとしたが、ガードナーはつられなかった。

「今は情報を早く得なければならないということはわかっています。私も言われるままに帰ったりせず、こちらで寝泊まりをするべきでした」

「しなくていいよ、そんなの」

「いいえ、閣下の命に関わることです。そうするべきでした。私にはあなたの補佐としての自覚が足りませんでした」

「十分すぎるって」

ガードナーは実際、よくやってくれている。暗殺計画阻止のためにレヴィアンスが方々に連絡をとっているあいだ、平常の仕事を代理でこなしてくれた。何も言わずともちょうどいいタイミングで茶を用意し、いつのまにか溜まっていたごみを片付けてくれるところなど、補佐というより執事だ。

これならイリスがいなくても問題ない、とすら思った。このまま遠ざけておけると。できることならこの甲斐甲斐しい補佐官にも、安全地帯にいてほしい。

しかしまだ何も知らないイリスとは違い、現在進行している事態をレヴィアンスとともに把握している彼は、だからこそこの場所――大総統の隣から離れないだろう。

「私は仮の補佐ですが、閣下の楯になるつもりでいます」

こういうことを簡単に言う人物なのだ、彼は。

「仮じゃないだろ。レオはちゃんと補佐だよ。このオレが選んだ正補佐だ。その肩書に恥じない仕事をしてくれている。だから、これ以上は心配しなくていい。楯になるなんて言わなくていいんだよ」

ガードナーがまだ何か言おうとするので、遮るように受話器を持ち上げた。そろそろ実家も落ち着いている頃だろう。慣れた番号に繋いで、向こう側の声を聞いた。

「はい、スティーナです」

「母さん? レヴィアンスだけど。あのさあ、イリスに何か吹き込んだの?」

ああ、と呟く母、ハル・スティーナの声は落ち着いていた。何でもないことのように、答えを続けた。

「宿題を出したよ。レヴィの助けになると思って」

「それでイクタルミナット協会事件のことを調べさせようとしたの? 当時生まれてもいないあいつには、関係のないことだよ。カスケードさんもニアも話したがらない事件を、どうして母さんが知らせようとするのさ?」

「だからだよ。カスケードさんも、ニア君も、それからレヴィもあの事件を彼女に伝えない。でも伝えなきゃわからないことがある。ボクが動かなくても、いずれは知ることになってたよ」

「それを知ってショックを受けてもいいっていうのかよ」

トーンの変わらない声に苛立ちながら、レヴィアンスは受話器を握りしめた。脳裏によみがえるのはいつかの泣き顔と言葉。兄の変貌に衝撃を受け、恐怖に震える少女の姿。もうあんなのは二度とごめんだと、そう思ったから事件のことはあえて口にすることもなかったし、今回の件も告げることを先延ばしにしている。

ハルは、それを知っている。他でもない、レヴィアンス自身が、今後の対応をどうするべきか相談していた。我が子が暗殺される危険性を、この人は理解し、ともに情報を集めて対策を考えていた。

「レヴィ、君が今まで話してくれたことから察するに、イリスちゃんはもう守るべき小さな女の子じゃないんだよ。君が補佐に選んだんだ。その力を、誰よりも信じてあげなくちゃいけないのは君だよ。あの事件のことを知った彼女は、たしかにショックを受けるだろうね。でもそれを受け止めきれないほど、もう幼くはないんだ。彼女は強い、一人前の軍人だよ」

全てをわかっていて、導き出した答えがこれだ。ハルは、レヴィアンスにはイリスが絶対に必要だと結論を出していた。遠ざけないように、レヴィアンスがそうしようとするならイリスから近づけるようにしようと、動いたのだった。

「君は指揮者なんだよ、レヴィ。従うものがいなければ、その名は意味を持たない。自分からそれを離そうとしてどうするの」

万能の指揮者。ゼウスァートという名には、そういう意味がある。それになぞらえ、レヴィアンスはしばしば「再臨の指揮者」と呼ばれることがある。再びゼウスァートの名を背負い、国に立つ者として、たくさんの想いを向けられている。暗殺計画だって、その一端なのだ。

本当はゼウスァートと呼ばれたくはない。レヴィアンスはハイル家の子供として育ってきたつもりだ。どうせ大総統になるのなら、レヴィアンス・ハイルとしてここにいたかった。けれども求められたのは、かつて大陸を駆けて中央の人々を指揮し導いた、その人物に与えられた名だった。その末裔でなければ、今ここにいることはできなかった。できたとしても、より多くの助力を得ることは難しかっただろう。

たとえその名が自分を殺すことになるのだとしても、レヴィアンスはゼウスァートの名を継ぐ者として、大総統の椅子についていなければいけなかった。そして傍らには、指揮に従う者が必要だった。

イリスを、ガードナーを、選んだのは自分だ。選んだからには責任を負わなければならない。遠ざけるのではなく、傍らに控えてくれる彼らをまとめて守るくらいの心づもりでいなくては。

そうでなくて、どうして大総統が名乗れようか。

「……そんなことは、わかってるんだよ。オレだって、考えた。絶対に、何が何でも守ってやるって。でもさ、もしそれができなかったらどうするんだよ」

「できなかったらどうするかじゃない。やるんだよ。それがボクの仕事だった。そして君の仕事だ」

だった、と過去形にしているけれど、ハルの仕事はまだ続いている。元大総統としてアドバイスをし、レヴィアンスが手を出しあぐねていた場所に駒を動かした。偉大な先輩のすることは、お節介だけれど、きっと間違ってはいないのだ。

本来、レヴィアンスがするはずだった仕事だ。これからは自分でやらなくてはならない。避けている場合ではないのだ。

「うん……そうだね、オレの仕事だ。適切な指揮をして、生き延びて、永く国を導くのがオレの役目だ」

「わかっているならよし。イリスちゃんはきっと仲間の力を借りて、宿題をさっさと済ませてしまうはず。ボクが提示したのはイクタルミナット協会というヒントだけだから、君はその意味を早く明かすことだね。みんなが君の指示を待っているよ」

もちろんボクもね、と付け加えたあたり、まだまだ動くつもりでいるらしい。先々代大総統は、どこまでも気が若いというか、それとも我が子に対して心配性なのか。昔から、なかなかスパルタな心配のしかたをする人ではあるけれど。

頑張るよ、と一言だけ返して電話を切ると、ずっと傍で控えていたガードナーが微笑んでいた。言葉にせずとも伝わってくる。――いつでも何でも、ご命令をどうぞ、閣下。ただし、退くつもりはありません。

「レオ、三日のうちに第一陣が来る。イリスたちにはまだ知らせないつもりだ」

「そんなに余裕のあるふりをしていて大丈夫なのですか?」

一気に表情を引き締めたガードナーに、レヴィアンスはにやりと笑ってみせる。

「ふりじゃないよ。実際、まだ余裕があるんだ。オレとお前の二人いれば、十分対処できる程度にね」

「閣下、あなたって人は……」

呆れたように息を吐いたガードナーは、けれども少し嬉しそうだった。

 

 

宿題というからには、済ませたことを報せなければならないだろう。町を見回るついでに、イリスは鍛冶屋に立ち寄った。店では女の人が、展示品を整えていた。

「あの、こんにちは」

「いらっしゃいませ。……あらまあ、珍しいお客様ね」

店の二代目は顔をほころばせ、すぐに奥へ声をかけてくれた。まもなくして、長い髪をきれいに編んだその人が現れる。

「こんにちは、イリスちゃん。しばらく見ない間に大きくなったね」

「お久しぶりです、ハルさん」

彼が大総統という肩書を手放したのは、イリスが入隊して少ししてからのことだった。退任の式典の、新兵代表の挨拶を、イリスが務めたのだ。よく覚えている。

ハル・スティーナには、以降、きちんと顔を合わせる機会があまりなかった。

「出していただいた宿題、取り組んでみました」

「ありがとう。どうだった?」

「まだちゃんと理解したわけじゃないんですけど、イクタルミナット協会って組織があったってことはわかりました。お兄ちゃんやレヴィ兄と、関わりがあったことも」

「うんうん、仕事が早いのは良いことだね」

満足そうに頷いたのは、宿題がちゃんとできたことに対してだけではなさそうだった。それくらい、深かった。

おそらくはこの人でなければ、提示しなかった事件。自らが治める時代に起こった大きな出来事で、しかし他の関係者は誰も語ろうとしなかったこと。レヴィアンスの助けになると判断しなければ、この人もまた、わざわざイリスに教えようとはしなかっただろう。

「イクタルミナット協会はもうないけれど、血脈信仰は残ってる。レヴィ兄が大総統で、わたしが見習いとはいえその補佐をしている。……ハルさん、信者たちはレヴィ兄に対して、何かしようとしているんですか?」

それ以外の事情が、イリスには思いつかなかった。ルイゼンも言っていたが、タイミングが良すぎる。一度は否定しようとしたが、やはり不自然だ。

十八年前の事件を語らなかったレヴィアンスなら、現在何か起こっていたとしても、イリスには言わない可能性がある。できることなら自分一人で、それが難しくてもガードナーや自身の持っている外部のコネクションを使って、解決しようとするだろう。

「血脈信仰信者の全てに悪意があるわけじゃない。むしろ彼らの多くは善意で動いている。それはイリスちゃんもわかるよね」

「わかります。善意が最も相手にすると厄介なものだっていうことも。わたしたち軍も、それは変わらないってことも」

イリスの返事に、ハルは笑顔で首肯した。

「それをわかってくれているのなら、ボクからの宿題はおしまい」

「おしまい、ですか。まだ全部聞いてないのに」

「語るべきはボクじゃないから。……まあ、でも、元補佐としてなにかアドバイスがあるならしてあげてもいいんじゃない、アーレイド?」

名前を呼ばれてやっと出てきたのは――すぐ傍にいることは、イリスも気配でわかっていた――先々代大総統の補佐を務めたその人。そして、レヴィアンスを育てたもう一人。

「レヴィを頼む。この国の大きな柱がたおれることのないよう、支えるのが補佐だ」

まっすぐにこちらを見据え、アーレイドは言う。それを頭の中でゆっくり繰り返してから、イリスは不敵に笑った。

「もちろんです。わたしは大総統補佐、イリス・インフェリアですからね。大切なものは何が何でも守り抜く。後悔なんか、わたしが抱える誰にもさせない」

 

もしもイクタルミナット協会事件でもっと知りたいことがあったら、とハルは各所に手を回しておいてくれた。最も話をするのが難しいと思われた、イリスの実家にまで。カスケードを説き伏せられる人は少なく、中でもハルはかつての立場を引き継いだ人間であるということもあって、真正面から意見できる貴重な一人だった。

「カスケードさんにとっても嫌な事件だったことには間違いないからね。多少は渋るかもしれないけど、ちゃんと話はしてくれるよ」

「さすがですね。ちなみにお父さん、レヴィ兄の件についてはどれくらい知ってるんですか?」

「ボクほどは知らないと思う。でも対処法はカスケードさんのほうが良い案が出せるはずだから、全く相談をされていないってことはないんじゃない?」

返答もヒントの一つだ。あとでカスケードが大総統だったときに起きた事件も、ざっと見てみることにする。これもイリスが生まれる前のことなので、詳しくは知らないのだ。ある程度調べておいたほうが、直接話を聞くにもいいだろう。

「お兄ちゃんは何か知ってるでしょうか」

「ニア君はもう軍とは関係ないことになってるから、知らないんじゃないかな。それと十八年前の件も、ニア君は記憶があいまいな点がある。僕らは『覚醒』って呼んでた超人的な力も、発揮してるときには本人の自我がないらしいし」

「それはわたしも聞いたことあります。じゃあ迂闊に話題にしないほうがいいですね」

ハルの協力を得て、イリスの今後の方針が組み立てられていく。レヴィアンスが語らないのなら、こちらが調べるまで。場合によっては無理やりにでも吐かせるつもりだ。今のイリスには、最悪の事態も想像できた。

イクタルミナット協会事件は中央司令部襲撃という結末を迎えた。再び同じ事態になるか、あるいはアーレイドの口ぶりから察するに――。

いずれにせよ、情報と、今以上の力は必要になってくる。レヴィアンスがイリスたちの能力の向上を求めたこと、それ自体が重要な鍵だった。

「いつから抱えてたのよ、レヴィ兄……」

見回りの続きに戻り、一人で呟いた。悔しさの滲む問いに、答えはない。

 

 

深夜、大総統執務室にはまだ明かりが灯っていた。三日のうちにこの首を狙う者が来るとあっては、寮に戻って寝る気にはなれない。そんなレヴィアンスの思惑をわかって、ガードナーも一緒に待機していた。

「イリスさんたちはもう眠ったでしょうか」

ブランケットを広げながら、ガードナーが言う。

「寝たんじゃない? 寝つき良いし」

欠伸を噛み殺して答えてやると、え、と驚いたような声が上がった。

「一緒に寝たことがあるんですか」

「あいつがちびっこだった頃の話だよ。オレとニアとルーファでつるんでたところに入りたがって、インフェリア家でお泊り会となれば風呂も一緒」

「閣下、それはいつまでの話ですか? まさかつい最近も……」

「最近はさすがにない。あいつが軍に入る前までだって」

「そうですよね。いえ、閣下はともかく、イリスさんはあまり気にしなさそうだったもので」

ホッとした様子のガードナーに、レヴィアンスは苦笑を返す。もともと良い観察眼を持っている彼は、イリスのこともよく見ているようだ。

「あいつ、男っぽいわけじゃないんだけどね。髪が長いのはそのほうが可愛いってニアに言われたからだし、普段着もスカートとか多いし。アクセサリーも結構持ってるんだよ、一時期ニアが細工物にはまってて色々作ってたからさ」

「ブローチなら以前見せてもらったことがあります。お兄ちゃんが作ってくれたんだって、自慢げに」

「お兄ちゃん大好きだからね、あいつは」

胸を張って宝物を見せるイリスは、容易に想像できる。思わず喉を鳴らして笑うと、ガードナーがブランケットをレヴィアンスの肩にかけながら、閣下もですよね、とこぼした。

「閣下も、あの兄妹のことが大好きでいらっしゃる。だから不都合なことは仰らず、退役されたニアさんの代理までするかのように、イリスさんを気にかけていらしたんでしょう」

「……うん、まあ。大好きなのには違いない」

彼らのためなら、どんな危険な目に遭ってもかまわないと思う程度には。

「でもニアの代理だなんて思ったことはない。思っても無理な話だから。だって片やお兄ちゃん、片やレヴィ兄だよ」

「呼び方、そういえば違いますね。意識して変えてるんですか」

「そう。一応あいつなりのこだわりがあるんだ。もともとインフェリア家の人たち、あだ名好きだし」

お兄ちゃん、では呼び分けることが難しいと思ったイリスが、自分で考えた呼び方だ。おそらく最上級形が「お兄ちゃん」で、自分はその逆なんだろうとレヴィアンスは思っている。

こちらが想うほど、相手に想われていなくてもいい。それでも守れれば、自分はきっと満足だ。

「それはそうと、レオに頼みがあるんだけど」

「何でしょう」

「実は第三休憩室に、秘蔵のお茶があるんだよね。棚の一番奥に隠してあるんだ。今飲みたいなあ」

「仕方ないですね。では行ってまいります」

一礼して、ガードナーは部屋から出ていく。独りになったレヴィアンスは、しばらく扉を眺めていた。――これでいい。守りたいのは、イリスだけではないのだから。

気配にはずっと気づいていた。予想よりも早い到着だが、相手をする準備はできている。

椅子から飛び退くように離れると、肩にかけていたブランケットをマントのように翻す。直後に外から割られた窓ガラスを布一枚で防ぎきった。

大きく開いた穴からは、真っ黒な空が見える。そこから降ってきたのは、人だった。黒服を身に纏い、手には短剣を握っている。

「銃で来るかな、と思ってたんだけど。まさか直接乗り込んでくるとは」

「それでは歴史の痕跡を残せない。我らが歴史をつくったのだと示せなければ意味がない」

「なるほどね」

黒服は短剣を振り上げ、レヴィアンスに向かってくる。一人ではない。窓から二人、三人と続く。愛用のダガーナイフを構えて全て避けたが、四人の黒服に囲まれた。狭い執務室では身動きがとりにくい。

「我らの歴史に、正史に従え」

一人がそう唱える。これが今の彼らの教義。十八年前よりさらに歪められたそれは、血脈を歴史に置き換えていた。

「さすが第一陣、よく喋る。自分たちの存在を誇示するためだけの、まあ運が良ければこれで目的達成できるかも、くらいの人たちだもんな。可哀想に、上に捨て駒にされて」

捨て駒、という言葉が気に障ったのか、黒服が次々にレヴィアンスに襲いかかる。だが彼らの短剣は容易く、レヴィアンスの得物に弾かれた。十八年愛用してきたダガーの、柄の紅玉が輝く。

一人がもう一振り、短剣を取り出した。まさか一本では来ないだろうと予想はしていたので、全く驚かない。大きく腕を振り上げることで生まれる隙を見逃さず、レヴィアンスは相手の腹を蹴りあげた。

「ごめんよ。大人しくしててくれれば、手当てはしてやるから」

そのあいだに背後から、短剣を持った手がもう三つ迫っていた。しかしこれは、レヴィアンスが手を下すまでもなく、背中を斬られて一度に倒れる。

「閣下、ご無事ですか?」

こちらのほうがよほど気配を消すのが上手い。いつのまにか戻っていたガードナーが、優雅な仕草で剣を払った。

「全然平気。今だって避けられたし」

「ええ、閣下が余裕を持たれていたのも納得がいきました。彼らはまともな戦闘をしたことがありませんね。しかしながら窓を割って侵入する大胆な手口。暗殺そのものは急務ではなかった、と」

「今倒れてるやつらはね。問題は窓を割ったやつ」

大総統執務室の窓は、そう簡単に割れるものではない。仮にも国の頂点に立つものが使う部屋だ、防御のための工夫は十分になされているはずだった。

ガードナーが落ちているガラス片を拾い上げ、眉を顰めた。

「材質に問題はなさそうです。ということは、破壊できるだけの道具を持っているのでしょう」

「銃じゃないな。音がしなかったし、弾も飛んできてない。外の様子を見に行くにしても、まずはこいつらを縛ってからか」

蹴り飛ばした一人を引きずってきて、ガードナーが倒した三人とまとめる。用意しておいたロープを巻き付けようしたときには、レヴィアンスは油断していた。風が入り込んでくる窓の向こう、漆黒の中に隠れていたものに気づかなかった。

「閣下、伏せて!」

ガードナーの声に顔をあげて反応したのと、破裂音が響いたのは同時。赤い飛沫が舞ったのは、その後だった。

言う通りに即座に伏せていれば、ガードナーもその場に立っていることはなかったかもしれない。彼ならまともに被弾することは避けられた可能性がある。けれどももう、何を言っても遅かった。

「レオ!」

銃で来るかと思ってた、というレヴィアンスの読みは、外れてはいなかったのだ。それなのに。

「……閣下、ご無事で? ……ああ、支えてくださるということは、ご無事ですね」

「喋るな。ごめん、読みが甘かった。すぐに病院に連れてくから」

「人を。……閣下が出ては……危険です、から。ひとを、よんで、」

「だから喋るなって!」

ガードナーが呼吸をするごとに、左胸から血が溢れているように見えた。急いで電話を手に取り、救急を呼び、寮からも応援を呼んだ。――気が動転していても、手は覚えているものだ。いや、冷静ではなかったからこそ、その番号を呼び出したのかもしれない。

巻き込みたくなかった。報せるにしても、もっと余裕を持って事後報告をするつもりだった。こんなことなら、腕を折られたいつかのほうがずっとマシだ。あのときは、泣き顔の女の子を案じることができたのだから。

 

部屋着のまま駆けつけたイリスとメイベルが最初に見たのは、到着したばかりの救急隊だった。先に執務室になだれ込んだ彼らは、大急ぎで怪我人を運んでいく。軍服の胸を黒く染めたガードナーに続いて、見知らぬ人間が四人。

ようやく入れた執務室のソファに、レヴィアンスが座り込んでいた。床に散らばったガラスの破片と、窓から容赦なく吹き込む風が、部屋に廃墟のような寒々しさを与えているのに、彼は微動だにしなかった。

「レヴィ兄」

イリスが声をかけても、振り向こうとしない。声だけが、やっと聞き取れた。

「……楯になんか、ならなくていいって言ったのに」

ガードナーのことを言っているのはすぐにわかった。閣下の楯になる、とはイリスも聞いたことのある言葉で、それが現実になったのはさっきのとおり明らかだ。

「何があったの、レヴィ兄」

「オレが油断したせいで、あいつが撃たれた。オレのせいで……」

「だから何があったの? どうしてここ、こんなに散らかってるのよ。さっき運ばれていった人たちは何なの?」

「待て、イリス」

メイベルに肩を掴まれ、イリスは黙る。そうしてもう一度室内を見回し、確信した。思ったことをそのまま、メイベルが肯定する。

「見ての通りだ。お前の不安は的中したんだろう。閣下が狙われ、ガードナー大将が身代わりになった」

「ちょっと、ベル」

「もっと早くイリスに話しておくべきだったな。事態を招いたのは閣下の慢心だろう」

「ベル、やめて」

「いや、その通り。話が早くて助かるよ。オレが説明するよりずっと的確だ」

言いすぎを止める前に、レヴィアンスが立ち上がった。イリスは駆け寄ろうとしたが、結局進むことができなかった。

振り向いた双眸は、鳶色よりも暗い。レヴィアンスのこんな表情は見たことがない。それが何を意味するのか、考えようとすると心音が頭にうるさく響いた。

「あ、あのさ、レヴィ兄」

「呼び出して悪かった。メイベルも、イリスに付き添ってきたんだろ」

呼びかけを遮るように、低い声が言葉を紡ぐ。

「詳細は始業と同時に話す。フィネーロのこともあるから、全員揃わないとちゃんとした話ができない。何より今はオレがこのざまだ」

「そう……だね。レヴィ兄、ちょっと休んだほうがいいよ。片付け、やろうか?」

「いや、これはこのまま。一応現場だから」

「そっか……」

「窓が駄目になったから、念のためここで寝る。イリスたちは寮に戻って」

それは危ないのではないか。レヴィアンスが狙われているのなら、現場に一人で残すわけにはいかない。そう思ったが、メイベルが手を引いた。

「戻れというのだから戻ろう。明日から忙しくなりそうだしな」

信頼していた部下が、レヴィアンスのことだからきっと守りたかった人が、おそらくは彼の目の前で、簡単には治らない傷を負った。気持ちを汲むなら、ひとりでそっとしておくべきなのかもしれない。

でもそれは、レヴィアンスの安全が保障されている時だけだ。命を狙われているのだとしたら、イリスが、いや、現時点で動ける唯一の大総統補佐がとるべき行動は、一つしかないのではないか。

――この国の大きな柱がたおれることのないよう、支えるのが補佐だ。

自分はこの言葉に、何と返事をした。

「じゃあ、すぐ動けるように、着替えて戻ってくる」

「いや、話は明日」

「それはわかった。でも今わたしが優先しなきゃいけないのは、レヴィ兄だから。ガードナーさんがいないなら、わたしがやる。ここは譲らないよ、……閣下」

そう呼んだとき、レヴィアンスは一瞬目を見開いて、

「……それなら、しかたないか」

弱々しく、口角をあげた。