気がつくと、ソファの上に横たわっていた。丁寧にブランケットがかけ直されている。寝に入ったときにはちゃんと座っていて、ブランケットも膝にかけただけだったのに。というかそもそも、寝るつもりなんかなかったのに。イリスは自分が普段から早寝早起きの健康体であることを、このときばかりは恨んだ。

「そうだ、レヴィ兄……!」

跳ね起きて部屋を――大総統執務室を見回す。朝の爽やかな風が、割れた窓から吹き込んでいた。床にはガラス片と血痕。昨夜と変わらない、事件後の光景だった。その中で自分の椅子に座り、机に伏せている赤い髪の男が、一瞬息をしていないように見えて焦る。

駆け寄って確認すると、ちゃんと規則正しい呼吸をしていた。怪我はない。イリスは安堵し、時計を確認した。

「始業まで寝かせてあげたいけど……

そうはいかないだろうな、と嘆息する。ガードナーなら起こすだろう。彼は今日、待っていても来ない。しかし何も連絡がないところをみると、もう二度と会えないというわけではなさそうだ。時間を見て見舞いに行かなければ。

「とりあえず、お茶でも淹れるか。ガードナーさんならきっとそうする。それくらいならわたしにだってできる」

お湯を沸かしながら、今日の予定を確認しよう。そう思ったのだが、こちらへ向かってくる足音のほうが早かった。三人分の、聞きなれた音。

「イリス、無事か?」

「おいメイベル、大総統室に勝手に入るなって」

開いた扉の向こうには、メイベル、ルイゼン、そしてフィネーロ。昨夜のことはもう、メイベルが話しているのだろう。あまりに心配そうだったので、イリスは笑ってみせた。

「無事だよ。レヴィ兄も、わたしも。お茶淹れてくるから座ってて」

彼らも早起きだっただろうから、目が覚めるような一杯を。

 

人の気配で目覚めたレヴィアンスは、大総統執務室備え付けの資料室に引っ込んでからまた出てきた。抱えたバインダーを来客用のテーブルにどさりと置いて、それから自分も大総統の椅子にどさりと腰を下ろした。

「予定より早いけど、説明を始めるよ。どうせ話すと長くなるし」

「待って、レヴィ兄。お茶淹れるから、そのあいだに顔洗ってきて。できればシャワー浴びてきてほしいんだけど、一人で寮に戻らせるのは危ないかな……

イリスが止めると、苦笑が返ってきた。心配しすぎ、と。

「でもまあ、それくらいの時間はあるか。イリス、クロゼットにオレの着替えあるから出して。シャワーは寮のじゃなく、練兵場併設のを使う」

「うん。……うわ、ちゃんとシャツが畳んで入ってるよ。下着と靴下まで。徹夜準備万全じゃん」

「お前、あんまり下着とかそういうの見るなよ! 閣下もイリスに注意してください!」

「別にイリスにパンツ見られても、今更なあ」

「それはどういうことだ。場合によっては今回の事件の犯人より先に私が閣下を始末するがそれでもよろしいか」

「メイベル、やめろ。イリスも少し気を遣ってくれ。この場合は自分や閣下にじゃなく、僕らにだ」

少しだけ空気が和んだ。相変わらず涼しい風が入ってくる明らかな事件現場で、それ以前に大総統執務室という重要な場所なのだが、それをほんのわずかでも忘れることができた。レヴィアンスが着替えを持って出ていったあとで、イリスは四人分の紅茶を淹れる。

「で、何もなかったのか」

剣呑な雰囲気を残したまま、メイベルが問う。

「寝ちゃったけど、寝られたってことは何もなかったんだと思う。ガードナーさんに怪我させただけで怖気づいて退散してくれたのならいいんだけど」

状況としてはちっとも良くないけれど、まだマシという意味だ。だがフィネーロが首を横に振った。

「今回の襲撃が別件でなければ、彼らは人員を変えてまた閣下を狙うだろう。むしろ今回は失敗することが前提だった」

「なんかややこしいけど、やっぱりフィンはこうなることを知ってたんだね。レヴィ兄も。予想外だったのは、ガードナーさんを守り切れなかったことくらいか」

「詳しくは閣下が戻ってから話すが、そういうことだ。ただ、ガードナー大将の負傷に関しては、相手にとっても想定外だった可能性がある。本来ならあの人にも重要な役割があったんだ」

フィネーロはずっと小脇に抱えていたものを、テーブルの上に置いた。イリスとメイベルには見慣れないそれを、ルイゼンは「最近こいつが弄ってた端末」と説明してくれる。上蓋を開くと、内側に画面とキーボードが並んでいて、地味な黒灰色がなんだか格好良く見える。

「たんまつ……って、それで何するの? ていうかこんなのあったんだ?」

「長兄が某社と協力して作った、情報収集と暗号化、送受信に特化した機械だ。全く同じものを持っているのは、研究開発に関わったチームと、長兄と僕だけ。プロトタイプは二年前に北方司令部で試験的に運用されていたが、兄の退役とともに回収された」

「もっとわかりやすく」

「兄が僕に寄こしたスパイ専用機器」

イリスがわかる単語で簡潔にまとめられた言葉を、脳内で繰り返す。スパイ、が光って浮かび上がるイメージができた頃には、メイベルがもう口を開いていた。

「それを使ってあの人を小馬鹿にしたようなお前の長兄と密談をしていたのか。持ってきたからには閣下も関係してるんだろうな」

「本当に君に嫌われているな、兄は。もう一度言うが、詳しいことは閣下が戻ってからだ」

「まあまあ、レヴィ兄がいなきゃできない話なら、ちょっと待っていようよ。……でも、そっか、フィンにはそういう仕事があったんだね。スパイなら口が軽いわたしとは離しておいたほうが良かったかも」

「正確にはスパイは兄で、僕は情報を受信するだけ。閣下や兄に比べれば、リスクの少ない仕事だよ」

リスクがない、とは言わなかった。少ないといえる程度に抑えていたのだろう。フィネーロが班から外された本当の意味が、イリスにはようやくわかった。

端末とフィネーロに気をとられている隙に、ルイゼンがいち早く積まれたバインダーに手を伸ばし、中身を確認していた。レヴィアンスがそのまま放置していったということは見てもいいはずだ。

どうやら一番上にあったのは、過去の軍籍簿だったらしい。ずらりと並ぶ名前と性別、入隊年と退役年、そして備考欄。退役年が空欄になっている人物は、まだ在籍しているか、備考欄に「死亡」という記入と年月日があった。

「おい、イリス。これ」

呼ばれて振り向いたイリスの目に、知っている名前が映る。同じページに並んで、ニア・インフェリア、ルーファ・シーケンス、アーシェ・リーガル、レヴィアンス・ハイル。少し離れて、グレイヴ・ダスクタイト。

「十八年前の入隊者だ」

「うん、アーシェお姉ちゃん旧姓だけど、十歳なんだから当然だよね。退役年が空欄なのはレヴィ兄だけか」

「それより、知っている名前全員の備考欄が埋まってる。共通しているのは『身元について個人情報を参照されたし』。ここには書ききれない、けれどもわざわざ書いておかなければならないようなことがあったんだ」

全員親が元軍関係者なので、その注釈に納得できないこともない。だがイリスはもう知っている。「身元」がそれだけの意味では使われない場合を。そのために起きた事件を。

……ルー兄ちゃんは、実の親のことかも。裏の人だったって聞いたことがある」

「他は」

「詳しくは知らないけど、アーシェお姉ちゃんの母方のお祖父さんは、昔事件を起こしてるらしいよ。イヴ姉はお父さんが昔素行が良くなかったって。今じゃ想像できないけど」

「イクタルミナット協会の名前の由来は覚えてるか。裏と関わりがあるなら血脈信仰信者の『撲滅』の対象になる。お前の知ってる情報じゃ、ルーファさんしか確実には当てはめられないな」

ルイゼンはイリスと全く同じことを考えていたようだ。全員がイクタルミナット協会事件に、より深いかたちで関わっていたのではないか。単なる軍の人間ではなく、彼らのターゲットになっていたのでは。

レヴィアンスが襲われたのなら、かつての仲間たちにもなんらかの被害が及んでしまうのではないか。

「閣下はまだ来ないが、これだけは言っておこう。今ルイゼンとイリスが懸念していることの答えは、否、だ」

不安げな二人に、フィネーロが溜息交じりに声をかけた。なんで、と問う前に、返答がある。

「軍外に被害が及ぶ可能性があるなら、もっと早くに閣下は動いていただろう。軍を効率よく指揮し、僕らにもすぐに話があったはずだ。イリスの兄さんたちにも注意喚起くらいするだろうな」

「それがないってことは、やっぱりレヴィ兄が狙い?」

「ああ。軍籍簿は、本来なら自分から十八年前の事件について話すために、閣下があらかじめ用意していたのかもしれないな。でもそれはもう、先々代のおかげで済んでいる」

そっかあ、とイリスは大きく息を吐いた。何にせよ、兄たちに危害が及ばないだろうということは、ひとまず安心していい。たとえ何かあったとしても、兄たちであれば自分で対処できてしまうかもしれない。……いや、やはり油断は禁物だ。昨夜のガードナーの件がある。

気を取り直して二つめのバインダーを手に取ると、それもやはり軍籍簿だった。今度は二十五年前のものだ。こちらには付箋がある。捲ったところに、イリスしか知らない名があった。

「ダイさんだ」

「だってそれ、ダイ・ホワイトナイトって書いてあるぞ。ヴィオラセントじゃないのか」

「あとで養子になったんだよね。生まれはホワイトナイト家。ユロウさんの名前を思い出してよ」

「あー……たしかにあの人、フルネームはユロウ・ホワイトナイトだな。見た目似てないから兄弟だってこと忘れるんだよ」

たしかに、と笑ってから、イリスはここに付箋がある意味を考える。かつて兄らの上司だったことを考えれば、ダイも過去の事件に関係していることは想像がつく。ただし他の人のようにターゲットだった可能性は低いのではないか。

だが、妙に気になる。血脈信仰、ターゲット、事件は現在に続いている。

「血脈信仰信者共がどういう考えで閣下を狙っているのかは知らないが。フィネーロ、これから起こる可能性のある事件として、奴らが再び十歳以下の子供を狙うというのは考えられるのか」

いつのまにイリスの手元を覗き込んでいたのか、メイベルがすぐ隣で発言した。

「そこまでは僕にもわからないが、閣下を狙うのに何か手順のようなものがあるらしい」

「ではその中に含まれる可能性はあるな。十八年前はイリスの兄君と閣下が攫われたんだろう。今回もおあつらえ向きの子供が近所にいるじゃないか。……ノーザリア王国軍大将の娘が」

その顔を瞬時に思いだし、イリスは背筋が寒くなった。いやしかし、それなら彼女の母のほうに注意を促しているはずだ。それがないのなら、彼女もまた安全では。だが……

「エイマルちゃん、大丈夫かな……

呟いて胸を押さえる。今度の不安には、フィネーロも返す言葉がないようだった。

 

「今度こそ話を始めようか」

大総統の椅子に戻ったレヴィアンスは、イリスが淹れた紅茶を一口飲んでから切りだした。

テーブルの上に資料が広げられているのを見て、部下たちがいろいろと考えを巡らせていたであろうことは察している。イリスの顔が少し青ざめていたので、よくない想像もしたかもしれない。もっと早くに話していれば、こんな表情もさせなかったし、ガードナーも無事だった……と考え出すとキリがないので、それは一旦置いておく。

「フィネーロ、どこまで話した?」

「閣下が来るまで詳細の説明はしないほうがいいと判断しました。ですが、無意識に口を滑らせているかもしれません」

もうこの事態ですので、という言葉を呑みこんだように聞こえた。彼なりの非難なのだろう。

「それじゃ、昨夜の説明から。現場がここだし、想像しやすいだろ」

ちら、と見た床に血痕が落ちている。ここに戻る直前、病院に電話をした。ガードナーはまだ意識がないという。何かあったら連絡します、という言葉を預かってきたが、「何か」が良いことであるよう祈るばかりだ。――軍籍簿の備考欄を埋めるのは、大総統の仕事の一つだ。嫌な仕事はしたくない。

「時刻は日付が変わる少し前。侵入経路は見ての通り窓。何か道具を使って割られたのは間違いないけど、それが何なのかはこれから考える。室内への侵入者は四人。レオはちょうど外に出してていなかった」

「襲撃の瞬間、閣下はお一人だったんですね」

ルイゼンに頷きながら、イリスに目をやった。口が小さく「わざと?」と動いたので、正直に同じ形で返事をした。

「窓を割った直後に侵入してきたから、入ってきた四人以外にも、敷地内への侵入者がいたと思う。カメラを確認してもらってるけど、もし映ってても意味はなさそう。侵入者の目的はあくまで自分たちの存在をこちらにわからせるためで、オレを殺すかどうかは運次第ってところだった」

殺す、と言った途端にイリスの表情が険しくなる。ルイゼンも眉を顰めた。メイベルは表情の変化こそなかったものの、少しは動揺したのか、足を組み直していた。

「相手の武器は短剣。ここにあるけど、見る?」

「あとで」

「じゃああとでな。パッと見た感じ、ウィスタリアで製造されてる量産品だと思う。とにかく四人の相手をしているあいだにレオが戻ってきて、一気に片付けてくれた」

そこまでは良かった。問題はこの後だ。思い出すと吐き気がこみ上げてくるが、我慢する。

……が、倒した四人を縛っているあいだに、外から発砲された。伏せてって言われたんだけど、完全に油断していたオレは反応できなかった。結果、庇ってくれたレオナルド・ガードナー大将は負傷」

「それから救急を呼んで、私たちの部屋……というよりイリスに連絡をしたと。時間からして、そのあとは特に襲撃犯の追跡などはしていないという認識で間違いは?」

「ない。……あ、やっぱり一つ追加。イリスが寝てから、ちょっと屋上に行った」

「動いてんじゃん! 一人じゃ危ないから、そういうときはわたしを叩き起こしてよ!」

ばん、とテーブルを叩いて、イリスが叫ぶ。ルイゼンがそれを宥めつつ、レヴィアンスに尋ねた。

「屋上には、何を?」

「煙草吸いに」

「いつから煙草なんて吸ってんの?!」

「イリス、話進まないから。……閣下、正直に」

「嘘はついてないよ。煙草吸おうと思って屋上に出たのは本当。でもおかげで、侵入経路はちょっとわかった」

ぴっ、と指でイリスたちに向かって弾いたものは、うまくテーブルの上に落ちた。写真が一枚。複数撮ったうち、一番わかりやすいものがそれだった。

「足跡、ですね。エルニーニャ軍指定の靴とは明らかに違う」

フィネーロの確認に頷く。司令部屋上には人が来ることがほとんどなく、普段は砂埃が積もっている。そこにくっきりと、本来施設にいるはずの人間とは明らかに異なる靴の跡が残されていた。新しいものだということは明確で、襲撃犯に関係していると想像するのは容易だった。

「今朝、兄から『上空に注意』という旨のメッセージが入っていました。昨日の時点ですでにエルニーニャに入っていたようですが、まさかウィスタリアからここまで……

「うん、空から来た可能性はあると思ってる。ていうかアルト、情報遅くない? ばれてんじゃないの?」

「ばれてはいないと思いますが、たぶん。でもこの時間差は気になりますね」

端末を見ながら話すフィネーロとやりとりをして、ふとイリスに目をやると、酷く機嫌が悪そうだった。文句はたくさんありそうだが、もう少し我慢してもらいたい。

「というわけで、屋上から壁伝いに、この部屋に入ってきたんじゃないかと思う。幸いにも部屋への侵入者の身柄は確保済みだから、調べは簡単につく」

「だとしたら、襲撃犯は最低でも七人組か」

メイベルがさらりと言って、不機嫌そうだったイリスの表情が驚きに変わった。

「え、ベル、どうしたらその計算になるの?」

「部屋に入ってきた四人、これは私たちも見たし、閣下が嘘を吐く必要はない。それから窓を割った奴と、大将を撃った奴。真上からの狙撃はありえない。窓を割ってから移動して撃つということも、空の移動でなら可能かもしれないが、人が乗れるくらいでかいものが長く滞空していれば誰かしらが気づく。残る一人は御一行様を運んできた奴だ」

すらすらとした説明に、感心したように溜息を吐くイリスと、まあそうなるよな、と頷くルイゼンとフィネーロ。いつもこれくらい冷静でいてくれたら、と思いながら、レヴィアンスは礼を言う。

「ホント話早いな。助かる」

「閣下がもったいぶらないでさっさと吐いてくれれば、私が説明する必要もなかったんですが」

毒はもっともなので、おとなしく受けておこう。

「屋上はすぐにまた砂埃が積もります。今のうちに現場を見ておきたいのですが」

「そうだね。レヴィ兄が勝手に行っただけで、わたしたちはまだ直接見てないし。すぐ行こう、レヴィ兄」

「オレも?」

「当たり前でしょ。一人にしておけないし、……とにかくさっさと立つ!」

まだ何か言いたそうなイリスは、不機嫌な顔に戻っていた。

 

屋上を一通り調べて再び大総統執務室に戻ってから、始業時間がとっくに過ぎていたことに気がついた。レヴィアンスが慌ててイリスたちの上司と情報処理担当に連絡をしてくれたので、このあと叱責されることはなさそうだ。それ以前に、今日は通常の業務に戻れるかどうか。

「屋上、やはり閣下が見落としていたものがありましたね」

「暗いうちだったし、縁ぎりぎりのところなんて見てなかったから。で、何だと思うの、あれ」

足跡とは違う、しかし新しさでいえば同じくらいの、何かの痕跡が見つかった。屋上の縁、もう一歩で落ちてしまうようなそこに、縁に対して直角についた紐状の跡。二つあって、それぞれの太さは違った。

「屋上から執務室に降りてくるとき、ロープをひっかけたんじゃない?」

イリスが任務中のフィネーロを思い出しながら言う。紐といえば彼だ。だが当のフィネーロは肯定せず、腰に装備していた鎖鎌を見せた。

「それだけなら二つもいらない。必要だとしても同じ太さのものでいい。……だから片方は、こういうことじゃないかと、僕は思う」

持ち上げたのは鎌ではなく、鎖を挟んで逆側にある分銅。鎖から下がってゆらゆらと揺れるそれを見て、メイベルが鼻で嗤った。

「なるほど。良かったですね、閣下。より窓に近いところにいたら、本当に死んでいたかも」

……だとしたら乱暴にもほどがある。でもこれならそれなりの勢いもあるし、道具も回収できるな」

レヴィアンスも頬を引き攣らせながら納得している。イリスは横にいたルイゼンに目配せした。

「なんだよ、自分で言えよ。……ええと、悪いけど説明してくれないか、フィン」

「振り子だ。この鎖を持って揺らすと、分銅が動くだろう。素材や大きさにもよるが、勢いをつければ窓も割れるんじゃないか」

鎖を軽く振り回すと、フィネーロの指を支点に、分銅が大きく振れた。

「跡の一つはここの窓のほぼ真上のようだった。力や距離の問題がクリアにならなければ確定できないが、屋上から窓を割る方法として考えておいてもいいかと」

「へえ。レヴィ兄、おもりみたいなやつ見てないの?」

「ガラス防ぐのにブランケットで視界覆っちゃったからな」

手っ取り早く正確な方法を知るには、捕まった四人から聞き出すのが一番だ。ルイゼンがメモを手に、「聴取は俺が」と引き取った。

「侵入経路についてはひとまずこれくらいにしておくか。……さてイリスさん、オレに何か文句あるんじゃないの? 言うなら今だよ」

レヴィアンスが視線と言葉を投げてくる。本人が今だと言うなら、我慢するのをやめてもいいのだろう。イリスは遠慮なく打ち返すことにした。全力で。

「レヴィ兄、いったいいくつ隠し事してたのよ?! いつから襲撃を予測してたの、フィンに協力してもらったのはどのタイミング、手順がどうこう言ってたってことはまだこれ続くわけ?! 事件が起こっちゃってからも、ご丁寧に寝ちゃったわたしを横たえてブランケットかけ直してくれちゃうし、勝手に屋上なんか行くし! あと足跡の写真、撮ったのレヴィ兄なんでしょ。レヴィ兄しかいないよね。写真得意だもんね、現像まで自分でできるもんね、資料室の奥に暗室作ってるもんね。それに時間を費やしたってことは、全然寝てないんでしょ? ねえ、どこまでわたしに隠すつもりだったの!!」

堰を切ったそのまま、あらん限りに叫ぶ。外にも聞こえているかもしれない。けれどもそんなことはおかまいなしに、本当に尋ねたかったのは。

……本当にわたしのこと、補佐だと思ってる? 守るためにいたつもりが寝ちゃうような、未熟な子供じゃ、やっぱり務まらないって思った? わたしは、今、全然自信ない。フィンはレヴィ兄から大事な仕事を受けて、しっかりこなしてる。ベルはどんどん考えを言って、私にもわかるようにまとめてくれる。ゼンは佐官だから、事態を把握できれば動ける範囲は広い。でもわたし、わたしだけが、中途半端で先がない。ガードナーさんみたいに、レヴィ兄が何も言わなくても先読みして動けるような、そんな補佐じゃない。所詮は見習いの、尉官の、背ばっかり伸びた子供なんだ」

ここ最近で実感がどんどん深くなっていったことを、だんだん震えてくる声で吐き出す。こんなことをしたら余計に子供みたいで、だから口にするごとに悔しさが増した。

もっと力があれば、もっと頼れるような人間だったなら。早くに事件のことを知って、ガードナーとレヴィアンスをまとめて守ることができたなら。――そうだ、何が何でも守り抜くと言ったのに、少しも実行できていない。こんな情けない自分に、補佐なんか務まるわけがない。

いつもなら真っ先に声をかけてくれるメイベルが、黙ってソファで足を組み直した。フィネーロは何か言いたそうにしていたが、口を開くことはない。ルイゼンはイリスとレヴィアンスを交互に見て、それから呆れたように溜息を吐いた。呆れもするだろう、こんな場面を見せてしまっては。

……それだけ?」

静寂を破ったのは、レヴィアンスの声。イリスが顔をあげると、彼は鳶色の瞳で真っ直ぐにこちらを見つめていた。いつかの冷たい眼差しではなく、生まれたときから見てきたであろう、ただのレヴィアンスの眼がそこにあった。

「だけ、って……

「もっと文句言われるかと思ってた。大総統のくせに部下一人守れなかったんだから、思いっきり罵声浴びせてくれてよかったのに。昨夜、情けない姿も見られたし。……なのにイリス、オレの心配と自分の弱音ばっかりじゃん」

困ったように笑うのは、ゼウスァートの名を持つ大総統ではなく。妹分を可愛がっていた、レヴィアンス・ハイルだ。昔から変わらない仕草で手を伸ばし、イリスの頭をくしゃりと撫でる、その人だ。

「昨夜、レオが撃たれたとき。血を流して運ばれていくのを見送ったとき。……自分で超ポジティブだと思ってたのに、生まれて初めて死にたいって思った」

……え」

レヴィアンスの言葉に目を見開いたのは、イリスだけではなかった。もちろん、今のイリスは気づかなかったが。

「これはもう死んで詫びるしかないなって考えてたところに、イリスたちが来たんだ。お前の真っ青な顔見たら、その前にやることがあるって気づいた。とりあえずはその場で、大総統としてのふるまい。うまくできなくて嫌になったけど。でもイリスが閣下って呼ぶから、なんとか頑張らなきゃって思った。お前に補佐してもらってんだから、立ってなきゃだめだって」

この国の大きな柱がたおれることのないよう、支えるのが補佐。その言葉を再び思い出す。

「でもわたし、レヴィ兄のこと支えられてない」

「まあ、大総統補佐としてはまだ未熟な点もある。でも、オレが育てるつもりだったんだ。今までも、これからも。最初からそのための補佐見習いだ。……でもさ、レヴィアンス・ハイルっていう人間の支えには、お前はずっとなってんだよ。仲間内の末っ子だったオレの、初めての妹がお前なの。絶対強くなって守りたいって思うじゃん」

その気持ちはわからないでもない。イリスにとってのエイマルがそうだ。

しかし、イリスはもう、ただの妹分ではない。いつまでも同じ扱いということは、やはり認めてくれていないのか。唇を噛みかけたとき、レヴィアンスが苦笑した。手もイリスの頭から離す。

「まあ、それじゃだめなんだけどね。フィネーロを班から外すのに、自立を妨げるなって言ったろ。あれは自分にもちゃんと言い聞かせておくべきだった。イリスを補佐にしようって思った時点で、妹扱いはやめるべきだったんだ。それを二年も引きずって、この期に及んで過保護になって。ニアがまだ在籍してたらぶん殴られてるところだよ」

「お兄ちゃんそんな理不尽じゃない……

「うん、理不尽じゃないよ。だから殴ると思う。お前と本気で勝負するみたいに」

すう、とレヴィアンスが息を吸う。そうして真剣な表情で問う。

「イリス、道連れにしていい?」

「道連れ?」

「襲撃は終わったわけじゃない。むしろこれからが本番だ。今回は存在の主張とレオを負傷させるにとどまったけど、やつらの本当の目的はゼウスァートを名乗る大総統を殺すことだ。それも、インフェリア家のお前が補佐をしている今。フィネーロは関係ないって言い張れば解放できるし、そのためにオレが情報を得た痕跡はできるだけ消させてる。ルイゼンとメイベルは、なんならすぐにこの事件から手を引かせることもできる。聴取だってオレが直接やればいいんだし。でもな、お前だけはどうしても切れない。やつらがオレとお前を結び付けて考えている以上、どうすることもできない。補佐を辞めさせたって同じだ。だからといって軍を辞めさせようとしたら、お前が猛反発するだろう。だからイリス、お前だけはオレと一緒に死ぬかもしれない」

メイベルが立ち上がろうとしたのを、ルイゼンとフィネーロが止める。ついでに口も塞がれたらしく、なにやらもごもご言っている。――言いたいことはだいたいわかる。つくづく愛されているなと、イリスは日頃から思っている。

だから答えはすぐに決まった。大総統が間違ったことを言ったら訂正するのも、補佐の仕事だ。

「一緒に死ぬわけないでしょ」

先がないなら道を拓く。その決意を、もう一度。今度はもっともっと強く。

「切れないのなら、レヴィ兄とわたしで生きるだけ。弱いなら弱いで、あがいてあがいて、あがきまくってやる」

「だよね。お前ならそう言うと思ってた。だからイリスが補佐なんだよ」

レヴィアンスが不敵に笑う。イリスも同じ笑みで返す。

「だったらもう、隠し事なしね。全部話して、レヴィ兄」

 

エルニーニャ国政に注目し過剰な期待を寄せ、ウィスタリア政府にも同じ対応を求める者たちがいる。そうウィスタリアからエルニーニャ王宮に情報が入り、レヴィアンスに届いてから、彼らのことを調べ始めた。協力者を求めてレヴィアンスがよそに飲みに出るようになった頃、イリスはそれを「大事な仕事が入ったんだな」程度にしか思っていなかった。自分の手の届かないことだろうから、手出しは無用だと。

レヴィアンス自身、多くの人の手を借りて情報を集めていたものの、はっきりとしたことは掴めずにいた。ウィスタリアに血脈信仰信者が集まっているということをようやく突き止め、内情を知るためにアルト・リッツェに協力を要請したが、なかなかとりあってもらえなかった。時間をかけても粘り勝ちできないかと考えていたところに、他の協力者からもたらされたのが、暗殺計画の噂だった。

噂ではあったが、過去に血脈信仰絡みで大事件が起こったのはたしかだ。かつての事件の関係者が再び危険にさらされる可能性を無視できず、レヴィアンスはアルトの出した条件をのみ、そうすることでフィネーロにも協力してもらうことを決めた。

――どうも、オレの暗殺計画があるらしい。早めに真偽を、本当だったなら進行状況を確かめたい。お前の兄さんと連絡をとって、これ以上噂が広がる前に何とかしたいんだ。

これが班を外されたフィネーロに与えられた任務。兄と通じて、事態を秘密裏に収束させる手伝いをすることが、最初の目的だった。しかし、やがて疑惑は確信に変わる。近いうちに暗殺計画に大きな動きがあるだろうと、そういう情報が入ってきた。追って、計画は第十四代大総統の死になぞらえたものになるとまで。ウィスタリアからエルニーニャ王宮に届いたものだった。大きく動けない理由がウィスタリア側にもあるようだが、それを追及している時間はなかった。

これから起こるであろうことへの対処を考えることに、レヴィアンスの日々は費やされていった。

「相手は血脈信仰の教義を歪めて活動している。イリス、イクタルミナット協会事件について調べたんだよね?」

「うん、ハルさんから宿題出された」

「英雄の血を継ぐ者は持ち上げ、罪を犯した人間の血は絶やせ。過激な方針だったけど、今にして思えば裏に利用されるくらい盛り上がったんだよな。現にオレが大総統の地位に就けたのも、ゼウスァートの名前に期待されてのことだ。……まさか更なる期待が、十四代目と同じく死ぬことだとはね」

エルニーニャ王国軍、第十四代大総統。レヴィアンスが出てくるまではゼウスァート最後の大総統といわれていた。大総統がこの国の頂点に立ち政治を行なうようになったのはこの代からだ。それまでは王宮が最高権力とされていたが、国王一家失踪事件のせいで状況が変わったのだった。

十四代目はいなくなった王の代わりに采配を振るい、その穴を埋めようとした。だがその活躍がかえって王宮派の反感を買い、ついに暗殺された。以降、ゼウスァートの名は表舞台から消える。だがそこから始まった大総統を頂点とした政治は、王宮派の意思に反して、つい最近まで残っていた。

「さて、十四代目の暗殺だけど。実は二回起きてるんだ。一回目はもちろん未遂に終わったよ。銃撃されたんだけど、たいしたことはなかったから仕事は続行。その後に発生したのが国王一家の失踪。そしてそれをきっかけとした大総統政があって、二回目の暗殺事件が起きる。……これが手順だ。やつらは歴史を繰り返そうとしている」

レヴィアンスの言葉に、イリスは茫然とした。そんなこと、何のために必要なのだ。血脈を重要視するなら、むしろレヴィアンスは未来のために生かされるべきではないのか。過去にわざわざゼウスァートの末裔として見出しておきながら、今度は歴史のために死ねだなんて。次第に怒りが湧いてくる。

「勝手すぎでしょ……レヴィ兄が死んじゃって、得する人なんかいないでしょ?!」

「イリス、これあんまり言いたくないんだけど、得はしないけど損もしない人たちがいるんだよ。オレたちが普段相手にしてる裏の連中と、それから話を持ってきたウィスタリア」

「なんでウィスタリアが?」

「オレが大総統になってから、向こうが納得するようなこと全然してないの。むしろ西以外の国と親しくしすぎちゃってる。万が一に五カ国会議で、西だけが不利になる展開があったら困るわけ」

そんなことは、これからなんとかすればいい。どうとでもなる。少なくとも、そのためにレヴィアンスが命を落とす必要はない。

「しかしわずかな情報が、西から王宮へ入っていますよね」

ルイゼンが冷静に問う。レヴィアンスは頷きながら、「たぶんだけど」と前置いた。

「王宮には手順を破って生き残ってもらわなきゃならないからじゃないかと思う。手順通りなら国王一家は失踪させられるけど、エルニーニャと西のコネクションは主に王宮が持ってるから、いなくなると困るんだ。まあ、その辺は心配してないよ。女王陛下は王宮近衛兵長だし。だから話を元に戻そう」

憤慨するイリスを宥めて続ける。さらに怒らせることになるだろうなという顔で。

「王宮のことはともかく、それ以外にも計画に綻びができた。レオのことだ」

「ガードナーさん?」

「過去の歴史を再現したいなら、やつらはレオを傷つけるべきじゃなかった。計画がうまくいってオレが死んだら、大総統の役目は滞ることなく補佐に引き継がれるからだ」

怪我のせいでガードナーが戻ってこられなくなることは、相手に都合が悪い。もちろんこちらとしてもガードナーには無事でいてほしかったし、元気に戻ってきてほしいが、穴ができたことには違いない。

「嫌な展開だけど、相手の思惑通りにはなってないんだね」

ずっとレヴィアンスの傍にいたガードナーなら、もしかしてこの展開も予想していたのでは。ついそんなことを考えてしまうイリスだった。

 

紅茶を淹れ直そうとしたところで、レヴィアンスの机の上に設置してある電話が鳴った。イリスをはじめ、全員に緊張が走る。何かを決意したように受話器をとったレヴィアンスが、「こちら執務室」と平坦な声を作った。

……わかった、繋いで」

どうやら内線のようだ。外部からの電話をとるのは、通常は外部情報取り扱い係、通称「電話番」の仕事だ。こちらに直接かけてこないということは、そう親しい人ではない。

イリスたちに向かって、レヴィアンスが口をぱくぱくさせる。その形はたぶん「びょういん」、病院なのだろう。ガードナーに何かあったら報せるということだったが。

祈るように手を組んだイリスの目の前で、

「おまたせしました、ゼウスァートです。……ああ、そうでしたか。それはなにより」

レヴィアンスが安堵したように、表情を緩めた。

「レオ……ガードナーと話せますか? あ、無理ならこっちから行くんで大丈夫です。もう一人の補佐をつけているから心配するなと伝えてください」

「ガードナーさん、気がついたの?!」

思わず大声を出して、ルイゼンに窘められる。そういう彼も安心したようだった。受話器を置いたレヴィアンスがにやりと笑って、椅子から立ち上がる。

「イリス、行くぞ」

「うん!」

「ルイゼンたちはここに残ってて。誰か来たら代理として承りますって言っとけ」

「ちょ……っ、それは無茶ですよ、閣下!」

その台詞は、すなわち大総統代理を短時間でも務めるということ。メイベルとフィネーロは尉官なので、ここはなりたてでも唯一の佐官であるルイゼンが責任を負うことになる。部屋を出てから、イリスは苦笑した。二年前、大総統補佐見習いに任命されたときの自分を思い出しながら。

そうして急ぎ足で到着した軍管轄の病院は、相変わらず忙しそうだった。大総統が見舞いに来ようと何だろうと、患者が優先である。そういう割り切ったところが、イリスは好きだ。

「ガードナーさんをお探しですか?」

受付に行く前に声をかけてきたのは、ここで働く外科医だ。今でこそ外科医だが、若い頃は腕利きの軍人で、イリスの父らの仲間だった。

「クリスさん、どうも」

「こんにちは、お久しぶりです。ガードナーさん、大丈夫ですか?」

レヴィアンスが小さく頭を下げ、イリスが縋りつくように見上げたその人は、呆れたように一つ息を吐いた。

「イリスさん、病院ではお静かに。彼はボクが担当しましたから、このまま案内しますよ。……しかし暇ですね、閣下。司令部が襲撃されたというのに、そちらからは何の情報もない。しかもこうして見舞いに来るだけの余裕があるなんて、よほど要領がいいか、物事の順序を間違えるくらい愚かかのどちらかだと思いますが」

たしか彼はイリスの父の四歳下で、それでもすでに五十を超えている。現在軍の医務室を任されている弟子へと受け継がれた達者な口ぶりは、年齢に関係なく健在のようだ。

圧倒されるイリスとは対照的に、レヴィアンスは笑みさえ浮かべながら応じる。

「じゃあ愚かな方かも。ガードナーには怒られる覚悟で様子を見に来ました。一緒に運ばれてきた四人は?」

「ボクが手を出すまでもなく処置が終わりましたので、とっくに勾留されてますよ。そちらに話を聞きに行く方が先では?」

「それは部下に任せてます。オレ、余裕のある大総統ですから」

「どうしてアーレイド君とハル君が育てて、君みたいになるんでしょうね」

移動しながらの会話を、イリスは一所懸命に聞いていた。心の中で、ひえぇ、と悲鳴をあげながら。これもきっと、彼らの情報のやり取りの仕方なのだ。おそらくクリスはレヴィアンスから事件の情報を引き出し、自分たちの助けは今後必要か、と問うている。レヴィアンスもまた、ガードナーの容態を確認しているようだ。事件の解決を優先しろと言われたような気がしたので、つまりは心配しなくてもいいということなのだろう。

はたして病室では、ガードナーが起きて書きものをしていた。こちらに気がつくと立ち上がろうとしたので、レヴィアンスとイリスとで慌てて止めた。

「レオ、もう起きてていいの?」

「申し訳ございません、少々寝坊してしまいました。閣下に一刻も早くお伝えしなければならないことがあるんです」

「ガードナーさん働きすぎ! ちょっとは休んでくださいよ!」

焦るイリスを見て、ガードナーは何故か嬉しそうに目を細めた。イリスが頭にクエスチョンマークを浮かべていると、肩にそっと手を置かれる。

「やっぱり、閣下の隣はあなたが相応しいです、イリスさん。私が惰眠を貪っているあいだに、閣下をお守りしていたのでしょう」

何と答えたらいいのか、イリスにはわからなかった。たしかにレヴィアンスの隣に立ちたいとは思ったけれど、それはガードナーのいた位置に収まりたいということではない。認めてくれるのはありがたいが、こんなかたちで実現されても嬉しいと思えない。

何も言えずにいると、レヴィアンスがすっと手をあげた。そして、ぱん、と音をたてて、ガードナーの後ろ頭を叩いた。

「閣下……

「何するのレヴィ兄?! 怪我人を叩くなんて……

「叩きたくもなるよ。オレ、何度も言ったよね。楯になんかならなくていいって。お前は補佐としてよくやってるって」

ガードナーの手が離れたので、イリスはそっと後退った。

レヴィアンスはかまわず続ける。

「オレの頼みは何でも引き受けるくせに、どうしてこれだけは聞かないかな。……たしかにお前の言う通り、イリスはオレの隣に必要だけど。でも、一人だけじゃもう片方が空くじゃん。ゼウスァートの正補佐はな、初代から両脇にいなきゃなんないの。お前だってちゃんと正補佐なんだからな」

「閣下、でも私は」

「一番でっかい仕事の後なんだから、生きてりゃ寝てていいんだよ。ていうかちゃんと休んで、さっさと戻ってこい。……守ってくれて、本当にありがとう。レオは絶対に隣にいてくれなきゃ困る、オレの大事な補佐官だよ」

そうだよ、と口を挟みそうになって、イリスは口を押さえた。レヴィアンスが言えば通じるだろう。余計な言葉はいらない。なにしろガードナーは、レヴィアンスが選んだ補佐なのだ。その器に値すると見込んで、常に隣に置いていた人物だ。

ガードナーは顔を赤くして、叩かれた後ろ頭を撫でていた。それからレヴィアンスに向かい合うと、きちんと頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございます。閣下に認められた以上、今後も誠心誠意、補佐を務めさせていただきます」

「いや、まず休めよ」

「休んでいたら大事なことを忘れてしまいます。閣下に必要なものを先んじて用意すること、これは私の仕事であると同時に悦びです。そこは閣下もお忘れなきよう」

普段と変わらない調子で言うガードナーに、イリスは安心と呆れを同時に覚えた。苦笑いする横で、クリスが「彼、変態なんですか?」と呟く。頷くことはできないが、完全否定もできない。

先ほどまで書いていたものを、ガードナーはレヴィアンスに手渡す。薄いノートだったが、ページいっぱいにびっしりと文字が、正確には計算式が並んでいた。

……何これ。オレねえ、数字は苦手なんだよ」

「ですから私がやらなければと思いまして。閣下を狙った銃口の位置と距離を、だいたいですが思い返していました。それから私に撃ちこまれた弾はエイゼル先生が持っていらっしゃるかと。私はすぐには戻れませんが、少しは捜査の役に立つと思います」

イリスもノートを覗き込んで頭が痛くなったが、フィネーロかメイベルに見せればわかるだろう。彼らにも難しければ、先々代大総統という強力な助っ人もいるし、現にガードナーの治療にあたった医者もここにいる。なによりガードナーの強い意志と情熱が伝わってくる。

「少しどころじゃなく、大いに役立ててみせます。しばらくは、レヴィ兄のことはわたしに任せてください」

「やはりイリスさんは頼もしいですね。でも万が一に何か困ったことがあれば、遠慮なく私に言ってください」

「あのですね、水を差すようですが、医者としてはガードナーさんには安静にしていてほしいわけです。大総統閣下へのあくなき執念だか情熱だかで動いているようですが、一応危険な状態だったわけですから。ああ、この際レヴィ君にも言っておきますけれど、今回は偶然奇跡的に助かったんですよ。今後もあまり無茶なことはしないように」

早口で割り込みながら、クリスが小さなビニールのパックをレヴィアンスに渡した。中身は弾丸、ガードナーから摘出されたもので間違いないだろう。

「クリスさん、ありがとうございました。レオのこと、よろしくお願いします」

「こういうのはボクとしては御免被りたいので、問題が起きているならさっさと片付けてくださいね、閣下。君たちならできるんでしょう」

最大の応援を受けて、イリスとレヴィアンスは頷いた。できるだろうと信じてくれているのだ。やらなければならない。

 

帰ったらすぐにやることとして、レヴィアンスはガードナーに簡単な説明をしていた。

各方面から情報を集めることは続行。ただし今度はより範囲を広げる。司令部襲撃の捜査はしなければならないのだから、もうこそこそする必要はないしできない。協力者を増やすことに関しては、前もってレヴィアンスとガードナーとのあいだで話をしていたらしく、何人かあたりをつけているようだ。過去の軍籍簿が出してあったのは、そのリストアップのためだった。

イリスたちはつい十八年前の事件の関係者としてニアたちに着目していたが、どうやら観点は違うようだ。女王オリビアはもとより、資料提供をドミナリオに頼むほか、現在エルニーニャを支えているもう一つの柱である文派の頂点、大文卿にも協力を要請したいとのことだった。必然的にそのパイプ役を大文卿夫人であるアーシェに依頼することになる。

北の大国ノーザリアの大将、ダイにはもっと早い段階で調査協力をしてもらっていた。これまでは内密に動いていたが、事件が実際に起こった今、それも難しくなるだろう。北が動いていると知った西がどう思うか、そこにも気を配らなければならない。

ダイの家族、すなわちグレイヴやエイマルに危害が及ばないかどうかという心配をイリスが口にしてみたところ、とうにそれも危惧されていて、市中の見回りを強化するかたちで自然に護衛をしているという。ルイゼンも言っていたが、すでに佐官を中心に軍でも裏でもない勢力の動向に注意することは決まっている。

「それだけ決まって動いてたんなら、もっと早く教えてくれればよかったのに」

「悪かったよ。今後は頼りまくるからな、イリス」

「どうぞもちろんいくらでも!」

どんな困難だって悲劇だって、不敵な笑みの前に打ち消してやる。イリスは改めて誓った。