今日は風が冷たい。コートを着てもあまり効果はなく、そろそろもう少し厚手のものにするか、と考える。任務に支障が出るといけないので、選ぶのには苦労するのだが。
「落ち着いたら、買い物に行きたいなあ。……そうだ、冬物はエイマルちゃんとニールを連れて見に行こうかな。最近あんまりお金使ってないし、二人にプレゼントするくらいの余裕はあるよね。お揃いにしてあげたら可愛いだろうなあ。あ、でもお揃いだってダイさんにばれたら面倒か」
ぶつぶつと呟きながら、イリスは病院へ向かう。レヴィアンスから言いつかって、ガードナーの見舞いに行くところだった。近況報告もしなければならない。
王宮襲撃事件がようやく落ち着いてきた。表面上は動いていないことになっている軍への批判も、女王オリビアとレヴィアンスが会談の場を設け、ニュースにしてもらうことでなんとか収まってきている。大手新聞が王宮を称えながら軍を擁護する、いい塩梅の記事を書いてくれたことも大きい。これを支持するととれる発言をした大文卿夫妻――公式の場に働きかけたのはアーシェの提案だろう――のおかげもあって、一応は国民は王宮を評価し軍を責めないことになりつつある。個人での考えは違うかもしれないが、そういう姿勢であるとアピールするのが今は有効だと、三派は判断したのだった。
――国民向けじゃなく、外国向けの姿勢。もっといえばウィスタリアを牽制しつつ、他国も黙らせるための動きだよ。三派政はこの程度のことじゃ動じないってね。
苦手な話し合いや公式会談が続いて疲れた様子のレヴィアンスがそう説明した。相槌を打ちながら、イリスの心にはよくわからない違和感が生まれていた。上手く言葉にできなかったので、言わなかったが。
「ガードナーさん、調子どうですか?」
病室を覗くと、ガードナーは新聞を広げていた。イリスを見ると嬉しそうに目を細める。
「わざわざありがとうございます。具合が良いので、エイゼル先生には退院させてもらえないか頼んでるんですけど、なかなか通らなくて」
「だってガードナーさん、退院したら即無理しそう」
「先生もそう仰るんです。私は無理した覚えはないんですが」
それは単にレヴィアンスの傍に付き従っていることが当たり前になりすぎて、無理を無理と感じないようになっているだけではないだろうか。そう言うとそのまま返ってきそうなので、イリスは苦笑いするに留めておいた。
「王宮襲撃事件は、ひとまずなんとかなりそうですね。閣下も苦手なことばかりで大変だと思いますが」
「そうなんです。さっきもアー……大文卿夫人と電話してて、疲れちゃったみたいで。わたしがこっちにいるあいだにエト……いつもの新聞記者さんが来る予定になってるんですけど、それもまともに応対できるかどうか」
「大丈夫でしょう。記者のリータスさんは、その辺もわかっている方です。それよりイリスさんも無理して喋らなくていいんですよ」
「いやあ、補佐を真面目にやるからには慣れておかなくちゃだめかなって思ったんですけど、難しいですね。だってわたしにとってアーシェお姉ちゃんはアーシェお姉ちゃんだし、エトナさんはエトナさんなので」
ひとしきり二人で笑ったあと、新聞記事に目をやった。三派の動きをまとめたものだ。こうして入ってくる情報と、定期的な連絡で、ガードナーは現状を把握している。
「閣下は、王宮襲撃以降の動きを対外的なものだと言っていませんでしたか」
「そうです。他国にエルニーニャの三派政が動じないことをアピールしてるって」
「ええ、これだけ準備をしておけば、三派政に揺らぎはないでしょうね。……たとえすぐに大総統を変えることになっても、地盤は引き継がれる」
ガードナーが目を伏せる。その途端に、イリスは抱えていた違和感の正体がわかった。答えはガードナーが言ったそのままだ。
「レヴィ兄、もしかして自分がいなくなったあとのこと考えてるの? こうしておけば、もしレヴィ兄が大総統じゃなくなっても、三派政は崩れない。少なくとも大総統政に戻したい過激派の思惑通りにはいかない……。わたしはレヴィ兄が大総統でい続けることを考えてたけど、レヴィ兄はそうじゃないってことですか?」
「私には、閣下の今のお気持ちは量りかねます。ですが個人的な感想として、危うい、とは思っています。三派政に揺らぎがなくとも、王宮襲撃とその対応によって、閣下ご自身の地位は疑われたのですから」
――私自身にはいくらでも代わりがいるから、何があっても平気なの。
オリビアの言葉が耳によみがえる。本当に平気なはずがない。オリビアにも、レヴィアンスにも、代わりなんかいない。
「わたしは、レヴィ兄の補佐でいたい。他の誰かなんて考えられない」
「私もです。だからこそ、過激派の目論む次のステージ……閣下の暗殺は、絶対にさせてはならない」
イリスは強く頷いた。
急ぎ足で司令部に戻り、大総統執務室の扉を叩く。まだ客と話をしているかもしれないので、念のため。返事は軽いものだったので、入ってもよさそうだ。
「ただいま、レヴィ兄。ガードナーさん、思ったより元気そうだったよ」
扉を開け、ひょこりと中を覗き込む。と、そこにいた人物と目が合った。レヴィアンスではなく、来るはずだった記者でもなく。
「やあ、イリス。さっき何かぶつぶつ言いながら歩いてたな。考えを全部口に出すのはどうかと思うよ」
なんて爽やかな笑顔。こんなときにそんな笑顔を浮かべていられるなんて。
「ダイさん、どうしてここにいるの?! ノーザリアでの仕事は?!」
「静かに。今日はこっそり来てるんだ。すぐに戻らなきゃいけないから娘にも会えないんだよ。……で、何が誰にばれたら面倒だって?」
「そこまで知ってるってことはすれ違ったってことだよね。全然気づかなかった……」
ノーザリア王国軍大将、ダイ・ヴィオラセント。元はエルニーニャの軍人で、レヴィアンスたちの上司だったこともある。今でも何かとエルニーニャにやってくる。仕事のためだけではなく、こちらにいる家族に会うためでもあるのだが、忙しいときにはそれが果たせない。今回はそのパターンなのだろうか。
「ダイさんはウィスタリア調査の結果を持ってきてくれたんだよ。本来なら外国の要人が来たら三派会を開かなきゃいけないけど、今回は極秘だからしない。女王と大文卿には報せて了承してもらってる」
レヴィアンスがテーブルの上の紙束を軽く叩く。そういえば、ウィスタリアの調査をダイに任せていたのだった。イリスは息を呑んで、そろそろと国軍トップ二人組に近づく。
「オリビアさんたちは知ってるってことは、一般の人たちに対しての極秘ってことだよね。あとは当のウィスタリア……」
いったいどんな結果が出たのだろう。ソファに座って、紙束に目を落とす。表紙は白紙だった。いや、そう見えるだけで、透かしたりコピーをしたりすると、特殊な加工がしてあるのがわかるようになっている。国の偉い人専用の、特別な紙なのだ。
「ついさっきまでエトナが来てたから、オレも聴くのはこれからなんだ。資料の中身を見てもいない」
「彼女は優秀な大総統付記者だよ。俺が来たことは絶対に口外しないって誓ってくれた」
フッと笑って、ダイは紙束に手を伸ばす。表紙を捲ると、そこには紙面が真っ黒に見えるほど文字が並んでいた。レヴィアンスとイリスが思わず眉を顰めると、ダイはマーカーペンを取り出して話し始める。
「大事な部分だけ説明してやろう。まずウィスタリア政府だが、あいつらはレヴィのことが相当気に入らないようだ。あわよくば今回の暗殺騒ぎで大総統を辞めてほしいと思っているけれど、親交がある女王にすらそうは言わないだろうな」
いきなりズバッと言った。この人はオブラートに包むということを、ことにレヴィアンス相手にはしない。だからこそ信用しているということもあるのだろうが、一緒に聴いているイリスはハラハラしっぱなしだ。
「だが、ウィスタリアの思惑はそこまでだ。あいつらと血脈信仰過激派に直接の関係はない。暗殺計画の情報は、ウィスタリア軍が別件の捜査をしているときに手に入れたものだろう。肝心なのはその別件だ」
ダイの目が暗く光る。闇がぐろぐろと渦を巻いているような瞳に、イリスの心臓がどきりと大きく跳ねた。レヴィアンスも「まさか」と口にする。
「ウィスタリア軍が追っていたのは裏組織。危険薬物密売に関わっている連中だ。前に東経由のルートをレヴィと検討したことがあったが、あてが外れていたんだ。もっと早く西ルートに気がついていれば、状況は変わったかもしれない」
危険薬物関連事件はダイの得意、いや、執着する分野だ。これを追うために軍人になり、ノーザリアへ移籍し、大将として君臨している。――だからこそ、自分からウィスタリアの調査を申し出たのだ。危険薬物に対する嗅覚が、彼を動かした。
危険薬物を扱う裏組織が西にあって、ウィスタリア軍はその捜査の過程で血脈信仰過激派の動きを知ることになった。つまり過激派は、裏組織と関わりがある。十八年前の事件のように。
「イクタルミナット協会事件と同じ構図?」
「似てはいるな。ただ、裏組織が過激派を積極的に利用している様子ではない。こちらもウィスタリア政府と同じ、あわよくばレヴィを排除してくれると動きやすくなる、くらいの考えだろう。まあ、一部でそのために手を貸したりはしてるんじゃないか。武器や乗り物、司令部襲撃に使った装置は裏が提供したものだろうな」
「じゃあ、過激派はどうしてレヴィ兄の暗殺にこだわってるんだろう。手順を昔の暗殺事件になぞらえて、歴史を繰り返そうとして。でもよく考えたら、前提は全然そろってない」
王宮襲撃の件で、イリスは気づいていた。暗殺された十四代目大総統が王宮の代わりに政権をとったのは、国王一家が失踪し、取り戻せたのが幼い王子ただ一人だったからだ。今の王宮に子供はいない。そして政治能力がないと思われている現王は、実は国内外の政治や外交関係について、国王として適切な程度には把握していたのだった。事件後、オリビアが「ここだけの話」と、そう語ってくれた。
つまり、過激派がこだわろうとしていた十四代目暗殺になぞらえた手順は、どうしたってとれないのだ。揺らぎが出たのではない。最初から不可能だった。
とすると、過激派はゼウスァートとインフェリアの関係だけに注目していたことになるが。
「もしかしたら十四代目暗殺の歴史を繰り返すというのは建前で、本当の目的があるんじゃないか。それがイリスの考えじゃないか?」
「わたし一人じゃ、そこまで思いつかなかったし、気付かなかった。オリビアさんや、話を聞いて整理してくれたガードナーさんのおかげ。王宮襲撃が失敗して三派政が崩れないことがはっきりしたから、過激派は行動を諦めてくれるんじゃないかと期待したけど、フィンのところには相変わらず、お兄さんからの暗殺計画進行の情報が送られてくる」
「そうなんだよね。やつらはどうしてもオレを殺したい。その答えは、やっぱりウィスタリアにあったんだと思う」
直接の関係はないのではなかったか。イリスが怪訝な顔をすると、「正確にはウィスタリアの国の成り立ちだ」とレヴィアンスが言った。
「大陸戦争の頃、エルニーニャはウィスタリアとも敵対関係にあった。領土だけでなく人も奪われ、ようやく戦争が終わって国を作る段階になったとき、ウィスタリアはかなり疲弊していた。それはどこも同じなんだけど、被害がエルニーニャより大きかったと向こうさんは今でも主張しているんだってさ。これ、ドミノさんから聞いたんだけど」
大陸戦争は、現在の五大国がそれぞれ陣営をつくって戦い、宗教観と領土と権利を争ったものだ。西方で人権を踏みにじられたとされる人々が、中央に逃げてきたという記録もある。建国御三家の一つであるエスト家の人々も、そもそもはそうしてこちらにやってきたそうだ。
だが、西方の人々からしてみればどうだろう。中央が西の民を唆して人手を奪い、彼らを動かして領地をも奪ったという認識が、今でも少なからず残っている。「正しい歴史」は主張する側の主観によって変わるのだと、イリスも少しだが勉強したことがあった。
「ウィスタリアの血脈信仰信者たちの一部は、十八年前の事件をきっかけにエルニーニャから追い出された人々だ。エルニーニャ軍によって信仰の自由を奪われたと感じている人々もいるかもしれない。もちろんそんなことのないように対処したはずだけど、当人たちは居づらかっただろうね」
「その対処をしたはずの、十八年前当時の大総統がハル・スティーナだ。つまりレヴィの親。初代大総統の血を引き、大総統に育てられた子供として、レヴィの存在は一時期話題になったな。それが大総統になってエルニーニャを動かしてるっていうんだから、一部血脈信仰信者にとっては面白くないだろう」
「で、でも、血脈信仰だとレヴィ兄は立派な血を引いてるんだから、崇める存在なんじゃ」
「ウィスタリアではそうじゃない。所属を変えたことで、意識も変わった可能性がある。十八年かけて変えたんだ。過激派の思想にあるのは、ウィスタリアから見た歴史……エルニーニャの始祖が倒すべき敵であるという極端な認識。そういう考えもできるんじゃないか」
これまでの予測が、ダイの調査によって覆る。「正史に従え」とはそういう意味だったのかもな、とレヴィアンスはぼんやりと思った。
「大陸戦争、十四代目の暗殺、十八年前の事件に意味を持たせて複雑に絡ませて、今回のレヴィ暗殺計画に繋げているんだ。これでニアがまだ軍にいたら……事態は完全に泥沼だ、考えたくもない」
ダイが吐き捨てた言葉を、イリスは俯いて聞いていた。そして思う。インフェリアの名をもつ自分も、もしや守る側ではなく守られる側なのではと。ウィスタリアの歴史から見れば、インフェリアは数多の人間を葬った「地獄の番人」なのだ。
「さあ、面倒なことだらけだな。レヴィ、俺ができるのはあと一つ。危険薬物の西ルートを介入して断絶することくらいだ。そのついでに過激派と接触することもあるかもしれないが、直接対決ができるのはお前とイリスだけだろう。そして対決するにも餌が必要だ」
足を組み直したダイが歪んだ笑みを見せる。イリスは首を傾げたが、レヴィアンスには通じているようだった。
「遺恨が五百五十年も昔からのものとはいえ、計画のベースは十四代目……それでも二百五十年前か。やつらがオレを暗殺しやすい環境をつくってやった方が、動いてくれるよね」
「環境をつくるって。レヴィ兄、自分から危ないことするつもり?」
「これまで相手の都合に合わせてきたんだ。今度はこっちから仕掛ける。ダイさん、裏組織を潰すついでにちょっと頼まれてよ」
にやり、とレヴィアンスが口角をあげる。まさかこんな日が来るとはな、とダイが諦めたように笑った。
イリスはしばらく渋い顔をしていたが、やがて覚悟を決めた。大総統補佐として、インフェリアの人間として、最後の戦いに勝つしか道はないのだ。
幸いにして協力者は多い。それだけのものを、レヴィアンスは二年間で、いや、それまでの人生で培ってきた。それを助けるために、イリスも奔走する。
「十四代目暗殺事件は大集会中、国民の目の前で発生したらしい。でも今回は一般人を巻き込みたくないし、わざわざ人を集めなくても大総統の言葉は国民に届けられる。少々面倒で大掛かりだが、こういう仕掛けはどうだろうか」
エスト邸に赴き、ドミナリオから助言をもらった。
「国民への情報規制ね。今回ばかりは仕方ないか。知らないほうが良いことだってあるもの。ええ、私たちに任せてちょうだい。もちろん公会堂も貸すわよ。ただし修繕費は軍持ちでってレヴィ君に伝えてね」
大文卿夫妻を訪ね、アーシェの協力を得た。
「今度はこっちが助ける番ね。国民はしっかり守るから、安心してちょうだい。それがエルニーニャ王宮の役割ですもの」
王宮に出向き、オリビアに計画を聞いてもらった。
「また賭けに出るのか。まあ、レヴィは運が強いし、イリスもいる。いざとなれば俺が出て行ってもいい。……頑張れよ。俺たちは地獄の番人の名を背負ってはいるけれど、頑張るしかない人間だ。頑張って、この困難を乗り越えられると、信じてるぞ」
カスケードに、背中を押してもらった。
「なるほどなるほど。これがうまくいけば、ひとまずは安心できるね。そのあとのことは終わってから考えよう。ボクたちも控えてるから、いくらでも頼って。元大総統としてせいいっぱい働かせてもらうよ」
ハルとアーレイドに、笑顔をもらった。
イリスがまわった人々のみならず、レヴィアンスが電話で協力を仰いだ者もいる。誰もがこちらの味方だった。絶対に我らが大総統を死なせはしないと言ってくれた。
「必要な機材はエトナが集めてくれるってさ。あとは情報がうまくまわってるかどうかだけど……」
レヴィアンスが受話器を置いたところで、ちょうどノックの音がした。返事をすると、フィネーロが端末を持って入ってくる。
「フィネーロ、どうだった?」
「兄からは血脈信仰信者たちが閣下の演説の期日に向けて動いていると。過激派はリーダーを含め、エルニーニャ入りするとのことです」
「おお、すごいじゃん! リーダー倒せばこっちのもんだよね、レヴィ兄!」
「つまりそれだけ本気でくるんだよ。王宮襲撃が失敗したから、黙って待っていられなくなったんだろうね。いいねえ、思った通りに事が運ぶってのは」
餌は三日後に設定した。司令部内にも通達してある。国民にはアーシェらを通じて、偽の情報を流した。もっとも完全な嘘ではない。
公会堂からエルニーニャ国内へ、大総統の言葉をテレビ中継で放送する。王宮襲撃以降は対外的な策しかとってこなかったので、大総統による国民向けの説明はこれが初めてになる。――という予定だが、これは狂うことになる。そこまでが筋書、あとは軍の働きと過激派の行動次第だ。
「本日は大総統閣下の演説があるため、全員が間に合うように帰宅すること。残業や時間外の外回りは控えるように」
フォース社の朝の業務連絡は、こんな台詞で締めくくられた。ルーファは苦い顔をしたまま自分のデスクに向かう。国の都合で急な予定変更が相次ぎ、この会社もバタバタと忙しい。昨日までの二日間は、今日やるはずだった営業と内勤をずらしてぎゅうぎゅうに詰め込み、帰りが夜中になっていた。一方、客のほうも今日の大総統演説の時間に合わせて予定をずらしたりキャンセルしたりしていたので、それを把握するだけでも大変だった。手帳の中身を書き換えるたびに、「おのれレヴィ」と内心恨み言を吐いたのは言うまでもない。
三日前に速報が出て、緊急の大総統演説が行われるということが国民に一斉に知らされた。最近の軍の動向や、謎の残る王宮襲撃事件、普段は静かな大文卿の表立った行動などに違和感や不信感を抱いていた人々は、今回の演説に注目している。国内全てのテレビ局やラジオ局が演説の中継を行うと発表し、その視聴が国民のほとんどの大切な予定となった。
「大総統閣下の演説って、何を話すんでしょうね。シーケンスさん、閣下とお知り合いだって聞きましたけど、内容わかります?」
同僚に話しかけられ、ルーファは首を横に振った。知るわけがない。ここ最近、家にも顔を出していないのだ。レヴィアンスだけでなく、イリスも。
「知り合いでも、もう軍から退いた俺に、そういう話はしないよ。だから閣下の演説なんて見当もつかない」
演説は夜七時から。早い時間に帰れるのはいいが、テレビで友人の真面目な顔を見なければならないというのは、複雑な気持ちだった。
「夕方に帰るの久しぶりだし、子供にお土産でも買っていくかな……」
「それなら早く確保しておいた方がいいですよ。商店街もいつもより早く閉めるみたいです。だからお客さんも買いものをさっさと済ませておくって」
「マジかよ」
三派政だろうと何だろうと、この国は大総統の一声で大きく動くのだ。そこは昔から変わらないんだよな、と過渡期を軍で過ごしたルーファは溜息を吐いた。
電話の子機を左手に、右手でキャンバスに色を塗り重ねる。夜七時までに仕事と家事をひと段落させなければならないので、ニアも休んでいる暇がない。
「相変わらずだね、グレイヴちゃんのところも。レヴィのことならダイさんが何か知ってるかなと思ったんだけど、知ってても言わないよね、あの人」
「そうなのよ。アタシももう一般人だから、言わないのが普通なんだろうけどね。もどかしいけど仕方ないわ、今日の演説とやらを待つわよ。それにしても、レヴィってばちゃんと喋れるのかしら」
「大丈夫だと思うよ。大総統モード入ったレヴィのすごさはイリスもよく話してくれるし」
その名前を口にしてから、ふと寂しさが過ぎる。ここしばらく家に顔を出さず、電話をしても出ないか、出ても曖昧な返事しかしない妹は、今頃どうしているのだろう。それを察したのか、受話器から慰めるような声が聞こえた。
「イリスもきっと大丈夫よ。あの子の強さなら、アンタが一番知ってるでしょう」
「そのつもりだったんだけどね。こうも状況がわからないことなんて、初めてだから。ニールがいてくれなかったらヤケ酒あおってたところだよ」
「本当にニールがいてくれてよかったわ……」
呼ばれたと思ったのか、ニールが部屋を遠慮がちに覗いた。ちょうどそのタイミングで、グレイヴも「そろそろ切るわよ」と言う。
「アタシも予定が詰まってるのよ。エイマルのお昼用意してから軍人学校の実技指導なの」
「そっか、ごめん。僕もそろそろお昼の支度しようかな」
みんなが忙しい。ルーファも遅くまで帰ってこなかったし、実家も電話がなかなかつながらなかった。けれどもきっとレヴィアンスは、イリスは、もっと大変なのだろう。軍が王宮襲撃の対応で叩かれたことも知っている。それを収めるためにレヴィアンスがあちこち駆け回り、苦手な仕事をこなしていたのも、報道を通じて知った。イリスはそれを手伝っただろう。
それが今日の演説で落ち着くのだとしたら……いや、そうであると思いたい。そうしてまたこの家を訪れた友人と妹を、心を尽くして労ってやりたい。
「ニアさん。仕事中なら、僕がお昼ご飯作りますよ」
「ううん、僕がやるよ。もっと上達しておかないと、今度イリスが来たときに呆れられちゃうから。どうせならいい意味で驚かせたいじゃない」
「そうですね。でも、やっぱり僕も手伝います」
軍人ではない今のニアができることは、待っていること。きっとそれだけだ。
公会堂にカメラが設置される。時間になったら回り始めるようにセットされ、人間は軍の指示で速やかに退出させられた。
二百五十年前にはこの公会堂はまだなかったが、野外に集会場が設けられていた。そこで第十四代大総統は王に代わって政治を行うことを国民に説明し、その立場を正式に認められるはずだった。しかし結局はそれを許さなかった者によって、その場で命を奪われたのだ。手を下したのは王宮関係者だったと言い伝えられているが、今となっては真偽は定かではない。今更蒸し返すことでもないと、レヴィアンスは思っている。
「確認終わりました。カメラの電源は全てコンセントです」
「ありがとう。……どうせ壊れちゃうんだろうけどね。もったいないなあ、こんなに良いカメラ」
撮影機器が好きなレヴィアンスが本気で惜しむのを、ルイゼンは苦笑しながら聞く。惜しんだって、この作戦でいくと決めた当人なのだから仕方がない。
集会場に人を集めなくても、大総統が演説を行える。その途中で起こる事件は国中に放送され、混乱が巻き起こる。一般人を直接巻き込むことなく、十四代目の悲劇を再現する方法がこれだった。もっとも、完全再現なんてさせる気はない。そして国民をむやみに混乱させるわけにもいかない。
「ルイゼン、お前はイリスが泣いてるの見たことあるよね」
レヴィアンスから何の脈絡もなく発せられた言葉に、ルイゼンは怪訝な表情を浮かべた。
「急に何ですか。そりゃありますよ、長い付き合いですし。軍に入ってからは泣かなくなったけど……」
「だよね。もしイリスが泣くようなことがあったら、お前に任せた。他のやつはびっくりするだろうからさ」
「泣かせる気ですか。そんなの、いくらレヴィさんでも許しませんよ」
「もし、だ。今のあいつなら、泣くより先に怒るかもしれない」
広い部屋を見渡しながら話していると、イリスが入ってきた。両腕で大きな丸を作っているところを見ると、どうやら外の警備は整ったらしい。正確にはわざと整えていないのだが、その加減が難しかった。
色々な人の助けを借りて立てた作戦だ。失敗は許されない。速やかに終わらせる。
「レヴィ兄とゼンは何の話してたのよ。もうカメラの設置は終わってるんだよね」
「万全だよ。あーあ、残念だな。オレのイケメンっぷりを一瞬しか映してくれないなんて」
「作戦採用したのレヴィ兄じゃん……。ていうか、自分でイケメンとか言う?」
呆れながらも、イリスは緊張していた。あともう少しで、最後の大勝負が始まるのだ。今日もフル活用するつもりの眼は、すでに調整を始めている。一瞬見ただけで、ルイゼンは少し眩暈がした。
「気合入ってるな、イリス」
「入れなきゃこっちがやられるでしょ。わたしの眼はもうあんまり見ない方がいいよ」
「オレはあんまり眼に頼ってほしくないんだけど」
「今度は倒れないように頑張るから」
「そういう意味じゃなくて。……まあいいか、そのときはそのときだ」
どこか不満げなレヴィアンスにイリスは首を傾げたが、結局真意はわからなかった。秋の日暮れは早い。その時は刻一刻と迫っていた。
夜七時の少し前。エルニーニャ王国民のほとんどは家に帰り、ラジオやテレビをつけていた。家がなくとも、ラジオだけは街頭の放送で聴くことができる。むやみに出歩く者のほとんどいない、異様な光景が国中にあった。
公会堂の周りは軍人が取り囲んでいる。だが見る人が見れば、その守りが甘いことに気がつくだろう。ただ、見る人がいないだけで。
やがて時計が七時を告げる。テレビの画面にレヴィアンスの姿が映し出され、人々は見入った。
「予定の時間になりましたので、これより私、レヴィアンス・ゼウスァートより国民の皆様へ話をさせていただきます。貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
そしてごめん。声に出さずに呟いたとき、公会堂の明かりが消えた。国内のほぼ全てのテレビが、電灯が、ぶつりと切れた。電化製品も動きを止め、国中が闇に包まれる。
全司令部、全国内施設の協力をたった三日で得た。どうしても電力が必要なところは、施設の予備電源で賄ってもらっている。この状態を長くは続けられない。
そしてこの国内一斉停電が、公会堂に軍以外の人間が侵入した合図でもあった。
「ただいま停電の原因を確認しております。その場で静かに待機してください」
突然演説の中継が途切れたラジオだけが、国民に語りかけている。
公会堂にいる軍人たちに聞こえるのは、戦う相手の息遣い、走る音。得物を持った手が襲い来る気配が迫る。
「停電程度じゃ動じないか」
間近に立った気配を、レヴィアンスはダガーで一掃する。カメラが倒れる音がして、あーあ、と呟いた。
「お互い夜目は利くようだし、さっさとケリをつけようぜ?」
暗闇の中で、最後の戦いが幕を開ける。
新しい武器に鎖鎌を選んだとき、これしかないという確信があった。扱いの慣れた長い鎖。分銅と鎌の両方を巧みに操る技の型。そもそも主要な武器として用いることは難しいといわれているが、だからこそ自分には似合いだと思った。殺傷能力の低さも、自身と相通ずるところがある。
――相手を確実に仕留めようと思ったら鎌を使う必要があるから、真正面から向き合わなきゃならないのか。分銅にある紅玉といい、どっかイリスみたいなとこあるな、それ。
ルイゼンはそう笑っていた。だが少し違う気がする。イリスという少女は出会った頃からずっとまっすぐで、複雑な駆け引きや技を必要とせずに、最初から物事とちゃんと向き合おうとする。いつも技や躱し手を考えながら行動しなければならない、そうでなければ人に追いつけない自分のほうが、この武器には似ている気がした。
それでももし武器がイリスに似ているのなら、きっと彼女のような強さが欲しかったから、これだと決めたのだ。
班から外されて情報処理担当にまわされたとき、それがレヴィアンスの作戦だったとはいえ、仕方ないと思っていた。自分がただいるだけでは戦力にならないのは、学校に通っていたときから自覚していた。けれども悔しいと感じたのは、軍にいた七年で、仲間と呼べる人を得てから、こんな力でも役に立つのだと希望を持っていたからだ。仲間が希望を託してくれていた。
他の仲間のように、強力な攻撃で敵を倒していくことはできない。訓練しても、それは簡単に変わらない。しかしただのサポーターのままでいるのも、レヴィアンスの言う通りに心苦しい。
――だったら、僕は。
闇の中を、遠心力を纏った分銅が突っ切る。鎖の長さと動きに反応できなかった敵の腕を絡めたのを確かめ、素早くこちら側に引く。バランスを崩した相手の懐に入り、鎌の柄を強く握りしめる。
――せめて彼らと同じだけの覚悟を。主要な力にはなれないなら、徹底的にそれを補佐する。ただのサポーターじゃなく、他には真似できない最高のサポーターになろう。
鎌が人の体に刺さる感触。たぶん剣を扱うイリスやルイゼンならずっと感じてきたものだ。この仕事への覚悟なら、メイベルは一緒に机を並べるその前から持っていた。
相手を倒して鎖を解くまでに時間がかかるが、自分ならその扱いには慣れている。どんなに鎖が複雑に絡んでいようと、常人より早く外せるという自信がある。そのあいだに次の行動を考える。頭の中であらゆるパターンを組み合わせ計算するのは、得意中の得意だ。
短剣を手に襲いかかってきた敵に向かって、外した鎖を投げる。相手の首に絡まり、そのまま引きずり倒す。自分以外にも多くの軍人が戦っているからこそできる、フィネーロの戦い方。仲間ありきの、そして仲間を助けるための方法。
ひとりじゃないから戦える、なんて言えばメイベルには鼻で嗤われるかもしれないが、実際に動けば文句も言わないだろう。
外した鎖を今度はしっかりと手に持ち、分銅を振って回す。もうぶつける相手は決まっていた。フィネーロ自身が走る道、相手に行かせたくない道が並行して脳内を巡る。行く手の壁、それから背後に迫った者と、分銅で殴り鎌で切り裂き次々に退かす。
――今、僕ができる、そしてやらなければならないことは、閣下たちに近づこうとする者を一人でも多く減らすことだ。そして。
躊躇も容赦もしない、最も付き合いの長い仲間の、視界をクリアに。
今回は動かないつもりだ、とメイベルは先に宣言していた。だから一番見晴らしのいい場所を寄越せと、レヴィアンスに直接迫った。
そうして得た公会堂上部のギャラリーは現場を一望できる最高の場所だったが、同時に背後の大窓からの侵入に備えなくてはならず、加えて左右から挟まれても逃げ場がないという、「動けない」場所でもあった。それでも良かった。敵は倒せばいいのだ。
本当ならもっと経験豊富な佐官を置きたいだろう。現に上司連中はほとんどがこの配置に反対だった。問題行動ばかり起こす女性中尉に任せるような場所ではないと怒鳴った者もいる。それでもレヴィアンスは、メイベルの要求を受け入れた。いつもの軽い口調で、「ブロッケン中尉なら何とかなるでしょ」と笑って。――ああ、あの笑顔は、最高に気に食わなかった。あんなふうに笑うから、イリスがよりあの男に懐くのだ。
戦いが始まった今でも、メイベルにとってレヴィアンスの進退や、言ってしまえば生死までもどうでもいい。行動原理がイリスという、自分が惚れ込んだただ一人の少女にあるからこそ、戦おうと思っている。彼女が望むなら相手が死なないよう極力気をつけるし、邪魔者は徹底的に排除する。
侵入者は上司らの懸念通りに、大窓からもやってきた。ギャラリーには他にも軍人が控えていて対処はできたが、メイベルの周りは自分で片付けなければならない。他の軍人とは距離をあけてもらっているので、援護は期待できない。もとから期待などしていない。そもそもここに敵襲があることだって、懸念ではなく予定通りなのだ。
背中にはライフル銃、腰の左右にはホルスターに収まった拳銃、右手に機関銃、足元には弾丸のストックを山と積んでいる。動かないと言ったなら、絶対に動かない。敵襲の瞬間にはもう機関銃を構え、相手が着地する前に盛大な射撃を始めていた。響く轟音の中でかすかに聞こえた驚いたような声は、同じくギャラリーに控えていた上司のものだろう。
「ブロッケン、閣下は聴取のために相手を生かしておけと……」
聞こえない。聞かなくていい。それは先にイリスが言ったのだからわかっている。余計な口出しなんかいらない。自分の領分を守りきったら、ライフルに持ち替えて階下を見る。まだ軍人と敵がごちゃごちゃしているようだ。暗いので、濃紺の軍服と敵の着ている黒服は判別しにくい。目はとうに慣れているが、気持ち良く撃たせてくれそうにない。舌打ちをして、少し様子を見ることにした。
王宮襲撃に失敗して、敵のほうも本気を出すことにしたらしい。いくらかまともに戦える人員が増え、軍側にも押されている者がちらほら見える。暗闇という環境のせいなのかもしれないが、しかし一応は夜目の利く人間を選んでいるはずだ。つまり押されている軍人はよほど自分の階級に胡坐をかいて怠けていたに違いないというのがメイベルの評である。
少しは骨のあるやつが、と思えば、それはすっかり扱いなれた鎖鎌を操るフィネーロであったり、万全を期していたルイゼンであったりした。フィネーロに至ってはこちらを確認すると、合図まで寄越してくる。随分と余裕だ。
「あいつに言われては、もはや快感など期待しないで撃つしかないか。獲物もとられてしまう」
撃つために準備をし、撃つためにここにいる。撃たねば自分の存在意義などないだろう。
的確に標的の足を狙う。もし腹や胸に中れば運がなかったと思うし、頭に中ればこの戦いに参加したのがそもそもの間違いだったのだ。少なくともこちらに外すつもりはないのだから。
続けざまに五人を倒し、再装填しようとして、人がこちらへ来る気配を察した。軍人ではない。どうやらギャラリーに上ってきた敵がここまで辿り着いたらしい。気がつけば最初からギャラリーにいた軍人の半数は姿が見えなかった。倒れているのか、それとも落ちたか。いずれにせよ職務を果たしていない。
「口ばかり偉そうな役立たずどもめが」
舌打ちしながらライフルを置き、腰の拳銃を二挺とも抜く。こちらへ向かってくる敵は一人じゃない。さっさと片付けてしまわなければ次の攻撃ができない。
右から向かってきた一人を倒し、ほぼ同時に左も撃つ。まだいる、と認識したのと、顔面に衝撃があるまでに差はなかった。かしゃん、と音をたてて何か落ちる。二つ。
「どうだ、お嬢ちゃんよ。眼鏡がなきゃ得意の銃も使えまい」
頭の悪そうな声がする。こめかみに手をやると、何かぬるりとしたものに触った。いつも着けているはずの眼鏡は触れない。落ちたものの一つはこれか、と認めた。――敵は認めさせてしまったのだ。
メイベルは躊躇なく、拳銃の引き金を引いた。弾丸は先ほど喋った人物の右手と左足を貫き、耳障りな悲鳴をあげさせる。
「くそ、自棄になったか?!」
「自棄? お前は大きな勘違いをしている」
痛みに呻きながらも叫ぶ相手に、メイベルは実に丁寧に応対した。狙撃手の視界を奪おうと考えたこと、そうして投げた短剣が見事に的中したことは褒めてやってもいいと思ったのだ。この暗闇の中、メイベルが眼鏡をかけていることに気づき、行動できた。普通ならば手柄だろう。
「お前はいい腕を持っているのに頭が悪かったな。そんなに汚い声で喋れば厭でも居場所がわかる。それとこれは気づかなくても仕方がないだろうが、私の眼鏡は補助具ではなくアクセサリーだ。度は全く入っていないから、かけようと外そうと視力や視界にさほど変化はない」
相手が後退る。こちらの種明かしに驚いているのではない。顔には恐怖がべったりと貼りついている。
「だが、あの眼鏡は愛しい者が似合うと褒めてくれた特別なものでな。……したがって、お前の行動は万死に値するものだ」
銃口を相手の頭に向けたまま、メイベルは再び引き金を引く。軽い音と焦げる匂い、人が倒れて響いた振動が伝わる。手を一旦おろし、曲がってしまった眼鏡を拾いながら、嗤った。
「頭のてっぺんを掠めただけなのに、気絶したか。イリスが殺すなというから手加減してやったんだ、感謝しろ。……とはいえ」
拳銃をホルスターに収め、ライフルを階下に向け直す。先ほどより立っている人数は減っていた。
「標準替わりがなくなったから、うっかり外しても知らんぞ?」
フィネーロが鎖鎌を使いこなしているのを見、威勢よく鳴り響く銃撃の音でメイベルの無事を確認する。ここに集った軍人たちは誰もがよくやっていると思う。よくやっているはずなのだが、相手のほうが明らかに王宮襲撃犯たちよりも数段上の腕を持っている。ルイゼンでも一人ずつ相手をするのがやっとだ。
かろうじて後ろをとられないのは、誰かのサポートがあってのことだ。それは上司であったり、部下であったり、フィネーロやメイベルであったりした。
力の足りなさが歯痒い。実力が認められてきたとはいえ、まだ勝ちたい相手には一度も勝ったことがないのだ。そもそも、ルイゼンが順調に階級を上げて小班のリーダーでいられるのは、対人関係の立ち回りが上手かったためというのが最もたる理由だ。力ではイリスに、技術ではメイベルに、頭脳ではフィネーロに劣る。上なのは年齢だけかと嗤われたことだって、仲間が知らないだけで、一度や二度ではない。
だから二年前、ほんの少しだけレヴィアンスに親近感を抱いていたことがあった。ゼウスァートの名を背負って大総統となった彼を呼ぶとき、誰かしらが頭に「名ばかり」とつけて嘲る。その直前に軍を去っていった他の先輩、主にニアやルーファと比べて、実力がないと評する輩も見てきた。表面上は「戦闘スタイルから性格まで何もかも違うのに比べても仕方がない」と言っていたが、ルイゼンだってそう思わなかったことはなかったのだ。
だが、そんな暗い同類意識などは簡単に切り捨てられた。名ばかりと罵られても、兵器と称されるほどの恐ろしい力を持っていなくても、頭脳や技能の安定性が他と比べて低いと評価されても、レヴィアンスは自分の力で大将格に上り詰めている。それどころか先々代大総統ハル・スティーナが現役だった頃は、身内だから贔屓されていると思われないよう、階級がなかなか上がらなかったという話まである。いざ現場に出てみれば、その戦闘センスは計り知れず、もちろん指揮も申し分ない。少しでも自分と似ていると思ったのが恥ずかしかった。そんなのはルイゼンの思い上がりだった。
幼い頃から軍人に憧れ、軍家を尊敬していた。けれども一番憧れていたインフェリア家の、それも一歳年下の女の子に喧嘩で負けた。やっと軍人になった頃、ニアに「これからよろしく」と笑顔を向けられて、いつか彼のように強くなりたいと思った。しかし試しに手合わせをしてもらって、現時点ではあまりに遠すぎる目標であることを思い知らされた。イリスたちが入隊してきて一応は先輩となり、レヴィアンスの提案で班を組んでリーダーに抜擢された。だがその実力は後輩であるはずの彼女らのほうが上で、今もそれは変わっていない。イリスには、まだ一度も勝てたことがない。勝てないからか、男として見られたこともない。
今、戦っているこの瞬間にも、緊張すればするほど「情けない」と心の内から罵られる。「このままじゃ次こそ勝てないぞ」と、自分の声で囁かれる。目標はまだ遠いし、仲間には助けられっぱなしだ。
――だからこそ、俺が真っ先に倒れるわけにはいかないんだよ。
情けなくても先輩だ。佐官だ。リーダーだ。仮にも肩書を持っている以上、せめてそれに恥じないよう、立っていなければならない。さっきまで大総統と並んでいたこの足を折ることなく、剣を振い続けなければ。
短剣一つに負けていたら、それこそ一生勝てない気がする。イリスに、先輩たちに、――何より、自分を罵り続ける自分自身に。
やっとの思いで短剣を振り払ったその相手は、しかし体術に長けていた。あいた両手でルイゼンに掴みかかり、逃れようとする暇も与えずに床に叩き伏せる。これまでに相手をした中で、一番強かった。戦い慣れしていることは明白だ。剣をルイゼンの手から奪い、切っ先をこちらに向ける。
――倒れるわけにはいかないのに。
もがこうとすればするほど、体の自由は奪われる。「ここまでだな」と自分の声がする。いつも一緒にいるせいか、勘がフィネーロとメイベルがこちらに気づいたことを教えてくれた。でも、鎖も弾丸も間に合わないだろう。
「ルイゼン君、何をぼんやりしているんです」
目を閉じかけたとき、急に体が軽くなった。締め付けられていた腕や足は自由に動く。ハッとして立ち上がると、すぐ傍には意外な人物がいた。
穏やかな笑みを口元に、けれども目は鋭く敵を射貫いている。今ルイゼンから除けた相手だけではなく、この公会堂全体を見ているようだった。
「ガードナー大将……まだ病院にいるはずじゃ」
「抜け出してきました。閣下の一番お忙しい時に、寝てなんかいられません」
大総統補佐レオナルド・ガードナーは、手にした剣を美しい仕草で鞘に収めた。そして落ちていた剣を丁寧に拾い上げ、ルイゼンに差し出す。
「閣下のところに、イリスさんもいるのでしょう。だったらあなたも、彼女が存分に戦えるよう、舞台を整えるべきでは?」
「で、でも……俺、イリスより弱いですし。今の見たでしょう、大将が来てくれなかったら……」
「今更何を言っているんです、大総統代理まで務めておいて。閣下から聞いてますよ」
剣を押し付けられ、受け取りながら記憶を探る。何のことだと思ったが、それはわりと最近で、けれどもまるで遠い昔のことのようだった。ガードナーの見舞いにレヴィアンスとイリスが二人で行ってしまったとき、ほんの短い時間ではあったが、あの立派な部屋の守り手はルイゼンだった。
「あんなの代理とはいいません」
「今はあなたの言い分を聞いている時間がありません。ただ確かなのは、あなたはたった小一時間だとしても、イリスさんはもちろん、私よりも立場が上だったんです。それも閣下に直々に任されるなんて、私ならただただ幸せです」
ルイゼンに言葉を返しながら、ガードナーは剣を抜き、また一人倒した。そしてもう一度笑う。
「ね、一介の大総統補佐である私ができるんです。あなたにできないはずはありませんよ、大総統代理」
無茶苦茶なことを言う。もしかしてレヴィアンスがこの人を補佐にした本当のポイントは、清廉さや気配り、忠実さといったところではなかったのではないか。この暴論はまるでイリスレベルだ。
「無理です。大将のようにはできません」
言葉とは裏腹に、口の端が持ち上がる。
「だから俺は、自分のやりかたで頑張ります」
情けないことなんて、弱いことなんて、自分が一番よく知っている。それでも強さを引き出してくれる人がいて、一緒に歩いてくれる仲間がいて、――この手で守りたいものがたしかにある。
「大将、今の俺には自分の背中まで守る余裕がありません。ですから、閣下たちのところへ辿り着くまで頼んでいいですか」
「ええ、閣下の代理を務めあげたあなたの頼みです。何なりと」
対人関係の立ち回りになら、多少は自信がある。使えるものは何でも使えとは、古くは誰に教わった言葉だったか。まあいい、考えるのは後だ。
剣を手に先ヘ進む。目標を定めてしまったのだから、目指すしかない。助けられることの何が悪い。それも全て、自分が培ってきたもののおかげで差し伸べられる手だろう。
その手を頼りに進むのだ、やはり真っ先に倒れるわけにはいかない。
眼の力はいつでも最大出力にできる。制御していても今は効果を発揮していて、少し相手を睨んでから得意の蹴りを繰り出すと、あまり抵抗されずきれいに決まる。暗闇で人や物を認識するのにも役に立つので、卑怯かと思いつつも完全に力を閉じてしまうことはできない。
その状態で、イリスはレヴィアンスの周囲を守っていた。自分でどうにかできる範囲はいいから、と言われたので、ギリギリ手の届かないラインから向こうの敵を倒している。少しでもレヴィアンスに近づかせないように。けれども深追いはしないように。あまり動きまわって自分が邪魔になってはいけない。
レヴィアンスは最初の敵を倒した直後、「オレは自分のことは自分で何とかするから」と傍で控えていたイリスに言った。
――だからイリスは、無理してオレを守ろうとしなくていい。
そのときは、オリビアの言葉やガードナーと話したことが一気に思い出されて、怒鳴りそうになった。代わりがいるから、なんて言いだすんじゃないかと、もしそうなら殴ってやろうかと思ったが、その前に続きが告げられた。
――オレだって動かなきゃ、みんなに申し訳ないじゃん。ただでさえお前が眼の力使っちゃってるから、ニアにばれたら耳引きちぎられるなーとか思ってんのにさ。もちろん最強のオレにも限界はあるから、イリスにはできる限り手前で敵を止めてもらう。お前まで勝てないようなやつが来たら、こっちにまわしてよ。お前よりオレのほうがずっと強いんだから、そのほうがいいだろ。
言い返すことはできなかった。レヴィアンスのほうが強いのは確固たる事実で、その上でイリスにも大役を任せてくれている。とても自分が退くことを考えているとは思えない口調と表情を疑うことはできず、そのまま定められたラインを守って戦っている。
とはいえ、ここまで来るような敵はさすがに強い。イリスは眼の力があるからいいものの、そうではない佐官たちが倒されそうになるのを間近で見てしまうと、この位置にいることがどんなに危険なことなのか痛感させられる。
将官以上は、どんなに腕がたつ者でも、司令部に残された。停電の対応にそれなりの肩書のある者が必要であることと、再び司令部が襲撃されることを想定してのことだそうだ。メイベルが「後釜確保のためじゃないのか」と言ってドキッとしたが、ルイゼンがすぐに「閣下がそんな弱気なこと考えるわけないだろ」と返してくれたので頷いておいた。そうに決まっている。……でも。
「……っ! あぶな……」
考え事をしていたほんの一瞬で、敵は近づいてきていた。短剣の刃がイリスの頬を掠め、ちりっとした痛みが走る。レヴィアンスと対決したときに擦りむいた場所だ。やっと傷がわからなくなってきたところだったのに。
「油断してたわたしが悪い、か」
剣を構え、相手の目の前に飛び込む。イリスの勢いと眼の力に怯んだ相手の腹を蹴り、おまけに斬りつけた。しばらくは起き上がるのが難しいだろう。これで油断の分は取り戻した。
息を吐いて周りを見回す。レヴィアンスはまだ無事のようだ。というか、無事でいてくれなくては困る。景気の良い破裂音がするから、メイベルも動いている。本当に容赦ないな、と少しだけ呆れながら、視線を横に滑らせた。
その瞬間が目に飛び込んでくる。持ち主の手を離れた剣が宙に舞い上がる。剣を弾き飛ばした短剣の切っ先は、標的を人間に定めた。イリスと同じラインで戦っていた、トーリスに。
「大佐!」
イリスは床を蹴り、全速力でトーリスを目指して駆けた。トーリスの剣が床に落ち、衝撃で小さく跳ねる。敵の短剣はイリスの剣に止められ、標的には届かなかった。なんとか届かせなかった。だが。
「インフェリア……お前今どこから」
「いいから大佐、ここから離れて! 早く!」
背後からの呆けた問いに怒鳴るように返す。丁寧に答える余裕なんかない。相手が使っているのはただの短剣だ。きっと今までにも使われていた、ウィスタリアで量産されているものだろう。ここまでいくつも弾き返し床に叩き落としてきたものと同じはずだった。
けれどもかかっている力が、持ち主の使い方が、他とはまったく違う。この相手がはるかに強かった。イリスでも剣に手を添えて受け止めるのがせいいっぱいなのだ、武器を持たないトーリスがここにいるのは危険すぎる。
「早く武器を拾いに行って!」
「わ、わかった」
トーリスが慌ててその場を走り去ったのを確認して、イリスは剣を持つ手に力と少しの捻りを加え、短剣を押し返す。けれども勢い余って後退った。トーリスがいたら一緒に転んでいたところだ。
「なるほど、インフェリア……か。貴様が地獄の番人の末裔なのだな」
相手が低い声で笑う。情報と違うが、と呟いたのは、彼が得ていたのが兄の情報だったからかもしれない。見た目にはイリスは兄とあまり似ていないし、父とも髪や目の色が違う。だがたしかにインフェリアの人間なのだ。
「そうよ。インフェリア家次代当主候補よ」
返答しながらもう一度剣を構え、相手の顔を見る。年の頃はレヴィアンスや兄らと同じくらいだろうか。つまりイリスとは一回りくらい違う印象だ。目を合わせようとしたその刹那に、相手は再び短剣を繰り出してきた。イリスに向かって、真っ直ぐに突いてくる。振り下ろすよりも確実性のある攻撃だ。
それを再び剣で受けて止めた。もちろん切っ先をピンポイントに止めるなんてことはできないから、刃が届く前に柄を捉える。これくらいのことなら、ダガーを扱うレヴィアンスと昔から練習してきた。けれども慣れない一撃は重く、足にも腕にも力が入る。歯を食いしばって押し返そうとするが、さっきよりも強い。びくともしないどころか、逆にこちらが押し出されてしまった。よろけた足を即座に立て直し、イリスは相手を睨んだ。
――ああ、こいつ、すごく強いな。司令部の佐官たちより強い。
トーリスが剣を弾かれたのも納得だ。彼もそこそこ強いはずなのだが、この相手にはきっと敵わなかっただろう。イリスはトーリスと勝負をして勝ってしまったことがある。彼の実力は知っていた。
――でもね、わたしには奥の手がある。誰にだって負けない力が。
相手の目を、自分の眼で捉える。完全に合ったと感じたところで目を大きく開き、最大出力。周囲にいた敵や軍人が、力にあてられてふらつき始める。焦点を目の前の相手だけに合わせ、眼の力を集中させた。
王宮では敵を全滅させた力だ。自分でも化け物じみていると思う。でも、頼れるときには頼って、ことを有利に運ぶのがイリスのやり方だった。そのために敵の目の前に飛び込むという戦法をとってきた。
「どうした、動かないのか」
だが、相手はゆっくりと口を開いた。普通なら眩暈がして立っていられなくなるほどの力なのに、目の前の彼は微動だにしていなかった。それどころか冷静に周囲を見て、もう一度イリスの眼を見返した。
「貴様は今、何かしているのか? 何か魔物じみた……こちらを見たままということは、もしや眼に何かあるのか」
「……そんな」
相手が一歩、こちらに近づく。倒れる気配はなく、眩暈も吐き気も起こしているように見えない。顔を顰めていないから、頭痛もないのだろう。怖いという感覚も持っていないようだった。イリスが力を制御していても、眼を見て怖いと思う人はいるというのに。――彼には、全く効いていないのだ。
「何かあったとしても、俺には通用していないようだな」
再度短剣を構えようとするその前に、イリスは相手の懐に飛び込もうとした。剣で斬りこみ、もっと近付いて力を使おうとしたのだが、短剣に簡単に払われた。やはり眼は効かない。一瞬、かなり距離を詰めたはずなのに、相手は全く怯んだ様子がなかった。
わかった、とイリスは歯噛みする。これがレヴィアンスの言っていた「先がない」だ。眼に頼るための戦法だけにとどまっていれば、眼が効かない相手と戦えない。実際、同じく眼の力が通用しないレヴィアンスや兄らとは、眼を使わない勝負をしなければならなかった。使わずに勝てなければいけないと思って、最初から封印していた。
眼が使えないのなら、他の方法で戦わなければ。イリスは剣を構え、相手に正面から突進した。相手が短剣を構えて剣を防ごうとしたのが見えたその瞬間に、大きく跳躍する。相手の頭上を越え、こちらを見上げる目と眼が合った。眼は全開のままだったが、やはり効いてはいない。頭を切り替え、空中で体を大きく捻り、足を勢いをつけて伸ばした。空気を切るような音の後に、鈍い音と衝撃が伝わる。イリスの渾身の蹴りは、相手の横っ面にきれいに決まっていた。
その一撃で力が抜けたのか、相手の手から短剣が零れ落ちる。しかし床に落ちたそれよりも、イリスの目は彼の背中に惹き付けられていた。今まで正面からしか見ていなかった。相手の目を見ようと必死だった。だからそれに気づかなかったのだ。
彼は、背中に大剣を背負っていた。
イリスが着地したとき、彼は左手で頭を押さえながらも体勢を整えようとしていた。そして右手は、背中の大剣の柄にかかっていた。柔らかな革の鞘から取り出される刃は、暗闇の中にもかかわらず輝いて見える。
兄が持っているそれに、引けを取らないほど美しい。イリスは思わず息を呑んだ。
「インフェリアの娘が本気を出しているのなら、こちらも相応の態度で臨まなくてはなるまい。ゼウスァートを手にかける前に、まずは貴様だ、地獄の番人」
完全に姿を現した大剣が、片手で高く掲げられる。そしてその広い面が、イリスの前に降って、いや、落ちてきた。
「っ?! 重……っ」
かろうじて剣で受け止める。だがこちらは両手でなんとか、一方相手は片手でこの金属の塊を操っている。どんどん体が圧し潰されていくのを感じる。足に力を込め、その場で踏ん張る。この感覚は初めてではない。前にもっと重いものを受けている。受けて、押し返したことがある。
「重いけど……っ、お兄ちゃんのよりは、軽い!」
全身の筋肉とばねを駆使して、大剣を押し返す。少し上に持ちあがったところで、にやりと笑ってみせた。これくらいで負けていたら、イリス・インフェリアの名がすたる。
相手は瞠目したが、表情に乏しい。けれどもイリスに眼以外の力が十分に備わっているということは認めさせられたはずだ。その証拠に、大剣にかかる力がわずかに緩む。その隙を狙って、一気に体を伸ばし、大剣を退かした。
「……俺の剣を押し返した奴は初めてだ」
「どうよ、記念すべき第一号は?」
イリスはすかさず相手に斬り込んだが、大剣の面に防がれる。そうだ、この剣は楯にもなるのだった。おまけにリーチが長いから、こちらが一太刀浴びせたいのなら相手の懐に入る必要がある。その方法を考える暇も与えてくれず、相手は剣を大きく薙いだ。片手なのに、空間を丸ごと切り裂くような勢いだった。とっさに飛び退いて躱したが、あの刃に当たれば体は真っ二つになり、生きて公会堂を出ることはできないだろう。
そんな相手の懐に、どうやって潜り込めばいいのだ。後ろに回り込むにしても、きっと大剣が追いかけてくる。その場から動かずとも、自らが向きを変えるだけで広範囲の攻撃が可能なのがあの武器だ。それは兄を見ていていやというほど知っている。遠心力を味方につければ、先ほど以上の勢いを持った剣捌きが可能だろう。そもそも自分の力だけで、あの巨大な剣を操ることのできる相手だ。兄ともわけが違う。
もしも兄以上の力の持ち主だったなら、イリスは勝てない。
振り上げられた刃が、暗闇でもはっきりと見える。躱さなければならないのに、足はまるで痺れたように、うまく動かない。剣の柄を持つ手が震え、こめかみを冷や汗が伝った。
「あのさあ、オレ言ったよね。勝てないようなやつはこっちにまわせって」
大剣を振り上げていた彼が呻き、わずかにふらついた。反射的にイリスの足は動き、その場から退く。標的を見失った大剣の刃が、どん、と音をたてて床に刺さった。
相手の背中に、何かが二つ突き立っている。イリスの目は、それが柄に紅玉をあしらったダガーナイフであると、はっきりと捉えていた。
「頑張る姿勢は大変よろしい。でもさ、お前はもうちょっと周囲の人間の上手な使い方を覚えないと」
三本目のダガーを手で弄びながら、レヴィアンスがこちらに向かって、にい、と笑った。
「レヴィ兄……。ありがと、助かった」
「たまたまタイミングが良かっただけ。助けてほしいならそうちゃんと言えよ」
イリスが笑い返すと、レヴィアンスは少し呆れたようだった。しかしすぐに表情を引き締め、今なお大剣を離さない彼に一歩一歩近づく。
「軍にいたなら将官レベルだね、もったいない。ここにいる中では、お前がたぶん一番強いよ。単純に力がある上に、大剣の使い方もなかなかだ」
「レヴィ……レヴィアンス・ゼウスァート……!」
真のターゲットが真後ろにいる。彼にとってこれ以上のチャンスはないだろう。イリスが声をあげる前に、彼は大剣を持ち上げ、振り向きざまに薙ぎ払った。――宙を。
レヴィアンスは攻撃をバク転で躱すほどの余裕があり、着地ついでにダガーをもう一本相手に向かって放った。彼の注意がダガーに向いているのを見て、イリスは剣を握りなおした。
――ここで動けなきゃ、わたしじゃない!
刺さったままのダガーを避け、イリスは相手の背中を斬りつける。確実な手ごたえがあった。彼の纏う厚くて丈夫な黒服の、その向こうまで刃が届いた。呻き声とともに彼はこちらを振り向き、イリスを睨み付けた。初めて見せる憤怒の表情だ。
怒りは彼の右手へ。背中に血が滲んでもなお、彼は体勢を崩さなかった。大剣に左手を添えて、言葉にならない声をあげる。獣が吼えるような声とともに、大剣が大きく振られた。
彼を支点に、刃が一周する。空気が裂かれ、その勢いの所為か、それとも見えない圧なのか、大剣を躱そうとしたイリスはよろけて後退り、そのまま後ろに倒れた。
「いたた……。あ、」
尻もちをついていたイリスの目の前に、彼がいた。大剣を両手で掲げ、そしてイリスに向かって振り下ろそうとしていた。もう彼にも余裕はなく、おそらく何の躊躇いもなく、このまま巨大な刃は落ちてくるのだろうと思った。思ってしまった。
――負ける。
その言葉を心の中で呟いてしまったら、もう指先すら動かせなかった。
「イリス――!!」
目の前が真っ暗になる。もともと真っ暗だったが、もっと暗くなった。どんなに目を凝らしても、何も見えなくなってしまった。
背中を思い切り擦った後に転がった、と思い返せたのは随分後だった。気がつけば――そう、気がつけたのだ――視界はもとに戻っていて、体には重いものが覆いかぶさっていた。いや、抱きしめられていた。
「……レヴィ兄?」
頭を動かせば、すぐ横に見慣れた顔があった。けれどもいつもの余裕ぶった笑みではない。汗が浮かび、眉間にはしわがある。もう少し頭を持ち上げて、イリスは目を瞠った。
イリスを抱きしめるレヴィアンスの、長かった髪がない。高く結っていた豊かな髪は、ばっさりと切られていた。そしてもっと向こうを見れば、濃い黒に染まった足。暗闇の中でも、イリスにはすぐに血だとわかった。
「ちょっと、レヴィ兄。なんで……」
「なんでも何もないだろ。お前に何かあったら、どれだけの人間が悲しむと思ってる。オレはニアやカスケードさんたちに、何て言い訳すればいい」
怪我が痛むはずだ。喋る余裕なんかないはずだ。だが、レヴィアンスの言葉には少しもよどみがなかった。はっきりと、イリスの耳に届いていた。
「お前はさ、ちゃんとオレの隣にいてくれなきゃ、困るんだよ」
そんなのはわかっている。イリスだって、レヴィアンスの隣にいたい。だから一緒に戦うと決めた。どこまでもついていくと宣言した。
それができなくて、大総統補佐なんか、名乗れるものか。
右手は剣を握ったままだ。少しも動かなかった指が、ほんの少しの幸いをもたらしていた。そっとレヴィアンスから離れ、イリスは立つ。今立ち上がれるのは、自分だけだ。
相手はまだ大剣を持って立っていた。こちらを見る目がギラギラしている。仕留めそこなった、という微かな悔いも見えた。
「あんたの目的とかはどうでもいい。そんなのはあとで聞き出してやるから」
剣を構えると、相手も大剣を構えた。薙ぐ構えだ、と頭が冷静に判断した。
「ただ、わたしは。……あんたを倒さないと怒りが収まんないのよ!」
大剣が宙を薙ぐ。同時にイリスは跳躍し、大剣の上面につま先で降り立った。そのまま剣を振り上げ、再び跳ねる。
「あぁぁぁあぁぁあああぁぁぁあ!!!」
響き渡る咆哮とともに、イリスの刃が相手を切り裂いた。左肩から袈裟懸けに、一閃が走る。
彼の左手が大剣から離れて、だらんと下がった。
「……見事な戦いぶりだった、インフェリア」
相手はどういうわけか、穏やかな声で言った。心の奥にまで染みるような、低い声。
「だが、やはり俺のほうが上だ」
彼は右手を振り上げる。大剣を持つ、その手を。数歩進めば、そこには動けないレヴィアンスがいる。
「待て……っ」
イリスが左腕を掴んで止めようとしたが、強く振り払われた。まだそんな力が残っているのか、とそんな場合でもないのにどこかで感心してしまった。
あと何歩で、彼はレヴィアンスに辿り着いてしまうだろう。
「やめろおぉ!!」
イリスはもう一度手を伸ばした。だが、それは届かず。
代わりに銃声が響き、鎖が彼の右腕に絡み、その行く手を二人の軍人が阻んでいた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません。閣下」
「イリス、お前は無事か? 怪我は?」
「ゼン……それに、ガードナーさん……」
フィネーロが鎖を引いて相手を倒したのと同時に、イリスは床にへたりこんだ。右肩の銃で撃たれた新しい傷から血を流す相手の向こうに、上半身を起こして目を丸くしているレヴィアンスが見える。
「レオ、お前なんでここに」
「エイゼル先生が、病院の抜け道を教えてくださいました。閣下にはお怪我をさせてしまったので、完璧な仕事はできませんでしたが……」
「でもほとんどの敵は大将が倒したんですよ」
いつのまにか、あたりは随分と静かになっていた。敵は床に倒れ、味方も座り込んだり、立っている者も疲れた顔をしている。――どうやら、終わったらしい。
「レヴィ兄」
イリスは呼ぶ。何が何でも守りたいと思った、その人を。
「生きてるよ。……一緒にあがいて、生きたよ。ほらね、わたし、嘘つかなかった」
「うん、お前は……お前らみんな、よくやった。イリス、ここまで来られる?」
頷いて、立って、走った。敵を越えて、腕を広げるレヴィアンスの胸に飛び込む。ぎゅっと抱きしめ、生きている証を、鼓動を、しっかりと聞く。
「良かった……良かったあ……。レヴィ兄が生きてる。わたしも、みんなも。ねえレヴィ兄、生きてるんだから、大総統辞めたりしないよね。わたしとガードナーさんは、レヴィ兄の補佐でいて良いんだよね」
「当然。まだまだやることいっぱいあるし、辞めるわけにはいかないよ。オレを誰だと思ってんのさ」
顔をあげて、目に溢れそうなくらい溜まっていた涙を手でごしごしと拭いたら、笑顔が見えた。明るくて余裕ぶった、昔から大好きなその人の顔が。
「レヴィ兄は、レヴィ兄でしょ」
「そりゃそうだ」
レヴィアンスと笑いあっていると、ルイゼンに肩を叩かれた。フィネーロがぼそりと「狙撃手が閣下を狙ってる」と言うので、イリスは慌ててレヴィアンスから離れた。当のレヴィアンスは苦笑するばかり。
「では、閣下。みなさんに招集をかけて、この場を片付けましょう。怪我人も大勢いますから、すぐに救急隊を呼ばなければなりませんね。電気も復旧させてもらうよう連絡を。分担して行いましょう」
「だね。さあ、これからが忙しいぞ」
「おーい、ベルー! 降りてきて手伝ってよー!」
敵四十八名を確保。軍の負傷者多数も、死者は双方ともになし。
公会堂設備、その他機器等多々破損。
大総統暗殺計画、阻止。