久しぶりの匂いがする。絵の具と布と木と、他にもいろいろな温かいものが混ざった、昔馴染みの優しい匂いだ。室温もちょうどよく、寒い外からやってきた体を包んでくれる。
それなのに、どうして。
「聞きたいことは山ほどあるんだけど、先にやっておいたほうがいいかなって思うんだよね」
正面に座している兄は、冷笑を浮かべているのだろう。
「やっておくって、何を?」
「それはもちろん」
おそるおそる尋ねたイリスに、ニアはふんわりと微笑む。けれども知っている。これは油断して口に放り込めば激しい頭痛に襲われる、いわばかき氷のようなものなのだ。
「ね、レヴィ。選ばせてあげるよ。右と左、どっちの耳から毟られたい?」
「毟るなよ! 怒ってるなら怒ってるってちゃんと言え! こっちも色々事情があったんだよ、ホント悪かったってば!」
レヴィアンスはあわてて両手で耳を押さえる。以前なら長い髪ごと押さえていたのだが、もうそれができない。すっかり短くなった、けれどもやっぱり人よりは癖っ毛で量の多い髪に、イリスもまだ慣れていない。しばらく直接顔を合わせていなかった兄たちなら、なおさらだろう。
「お兄ちゃん、今回は怒らないであげてよ。レヴィ兄、本当に大変だったんだよ」
「知ってるよ、そんなの。あんなことして、大変じゃなかったわけないじゃない。今日うちに来てくれたのだって、僕の予想より早かったくらいだ」
ニアの笑顔が解けて、かわりに眉根がきゅっと寄る。それを横で見ていたルーファが、仕方ないな、と言いたげな笑みを見せた。
「ずっと心配だったんだよ。でも俺たちじゃもう、力になってあげたくてもできないだろ。自分がもどかしかった。もうちょっと軍にいたら何か違ったかなって思ったこともあった。……でもさ、結局、そんなの何遍考えたって仕方ないんだよな。俺たちはもう、自分の道をとっくに選んじゃってたんだから」
な、とニアに確かめると、こくりと頷いた。眉間のしわは怒っているのではなく、泣きそうになるのを我慢しているのだと、イリスは気づいた。
だってたぶん、自分も同じような顔を、何回もしてきたのだから。
「おかえり、イリス、レヴィ」
顔をあげたニアは、目を潤ませながら、今度はちゃんと笑っていた。
「ただいま、お兄ちゃん。遅くなってごめんなさい」
「……ここオレの家じゃないけど、一応ただいま。妹さんはちゃんとお返ししましたから」
「そんなの当然のことでしょう。レヴィには僕らに話せるだけのことを話してもらわないと」
温かくて、賑やかで、落ち着く場所。イリスたちはやっと、日常に戻って来られた。ここに来てようやく、それを実感できたのだった。
公会堂での戦いが終わった直後、関係各所へ手早く連絡がまわり、まずはエルニーニャの家々に夜の明かりが戻った。電気が止まっていたのは約一時間だったが、様々な面で支障が出ることは免れなかったし、何より国民が混乱していた。そして電気が復活しても、テレビは一時間前の続きを映すことはなかった。
その後のニュースや翌日の新聞は全国規模の停電とその影響について報じ、予定されていた大総統演説にはほとんど触れなかった。しかし人々は「演説はどうなったのか」と不信感を募らせていた。そのために三日前から準備をしてきたのだから。
「鳴りっぱなしだな、電話。電話番には本当に迷惑かけるよ」
戦いの後、足に怪我を負ったレヴィアンスは、他の負傷者とともに病院へ搬送された。両足には大剣の刃が斬りつけた浅くない痕があったが、幸いにして歩けなくなるようなものではなかった。だからこそ明朝には、大総統執務室で仕事を再開していたわけだが。
けれども、痛まないはずがない。立ち上がるたびにちょっと顔を顰めるのを、イリスは見逃していなかった。切られた髪を短く整え直したおかげで、レヴィアンスの表情は以前よりわかりやすい。この髪だって、長く伸ばしていたのは彼なりのこだわりがあったからなのだ。イリスを助けようとして、それらを犠牲にしてしまった。
「……ごめんね、レヴィ兄」
「何回謝ってるんだよ。イリスは何も悪くないから、そんなに気負う必要ないんだって。それより頬の傷、本当に痕残ったりしないんだよね」
「残ったっていいもん、こんなの。レヴィ兄の怪我に比べたら大したことないし」
「良くないよ。お前は自分が女の子だってことちゃんと自覚しろ」
「女だろうと男だろうと関係ないもん。ていうかわたしとの勝負で容赦しなかった人がよく言うよね」
言い合いをしていると、傍でふきだす声がした。肩を震わせて笑っているのは、病院を抜け出したまま戻っていないガードナーだ。念のためクリスに確認したところ、「退院手続きは済ませておきましたから、清算だけお願いします」とのことだった。
「閣下とイリスさんがお話されているのを聞くと、執務室に戻ってこられたんだなと感慨深くなりますね。それはともかく、お二人ともご自愛を」
「お前もね、レオ」
「ずっと病院にいた割には大活躍だったよね、ガードナーさん。ゼンから聞いたけど、しばらく現場に出てないとは思えない動きだったって」
「いいえ、やはり鈍っていました。動けているように見えたのなら、それはルイゼン君のおかげです」
ガードナーが褒めると、レヴィアンスも深く頷く。もちろんイリスの記憶にも、駆けつけてくれたときの凛々しい姿は焼き付いている。
「あいつ万能だよね。フィンやメイベル、現場に出てた全員がよく頑張ってくれたよ。戦うには良くない条件だったのに。この際、みんな階級上げちゃおっかな」
「本当?! わたし大尉になれる?」
「冗談だよ。そんなに大勢一気に上げたら、留守番してた将官から文句出るだろ」
「ちぇー、期待したのに」
「さっきまでのしおらしく謝ってたイリスはどこいったの」
全員で戦えた。そうしてレヴィアンスの命を守りきれた。それは誇っていいのではないかと、イリスは思っていた。けれどもガードナーは、表情を引き締めてレヴィアンスに言う。
「しかし、ここからが正念場です。閣下、演説はいかがなさいますか」
「え、あれってブラフでしょ? 過激派をおびき出すための」
イリスが首を傾げると、溜息交じりに返答があった。
「昨日のはね。でも、昨日のことも含めて、国民にはちゃんと説明しなきゃいけない。それも早いうちにしないと、将官や電話番がまいっちゃうよ。軍全体への不信も大きくなる。オレへの非難はオレを選んだ女王への非難にもつながる」
「かといって時期を見誤れば、再び閣下が襲われることも考えられます」
「でも過激派のリーダーは倒したよね」
「イリスが言ってるのって大剣のあいつ? あれはリーダーじゃないよ。戦闘要員と……もしかしたら執務室の窓を壊したのもあいつかもね。リーダーもエルニーニャ入りしたって情報だったけど、公会堂での戦いには参加してないと思う。こっちの様子を離れて眺めて、劣勢になったら逃げたんじゃない?」
なんてずるい手を、とイリスは憤慨したが、きっとそれが上手なやりかたなのだろう。とにもかくにも、まだ気は抜けないということだ。事件の処理で忙しい日々は続くし、司令部に届く苦情や疑問にもできる限り応じなければならない。当分は休む暇などなさそうだ。
「お前は休んでいいんだよ、イリス。眼を使ったあとで具合も良くないだろうし、それ以前に尉官だし。報告書はルイゼンたち佐官がまとめてくれることになってるしさ」
「今はいい。レヴィ兄とガードナーさんはどうせ休まないだろうし、ゼンが報告書まとめなきゃいけないならわたしも手伝わなくちゃ」
忙しい方が気がまぎれる、というのが本音ではある。どうしたって、レヴィアンスが助けてくれたときのことを思い出してしまうのだ。一瞬でも「負ける」と思った。あんな感覚はあまり経験がなく、イリスは実力不足を今度こそ思い知ることになった。今まではレヴィアンスや兄に勝てなくても、それで死ぬようなことはまずないから、どこかで甘く見ていたのだ。
もっと強くなりたい。けれども焦ってはいけない。敵はまたすぐにやってくる可能性があるけれど、今度は確実に動かなくてはならない。間違っても、自分の代わりに誰かが傷つくなんてことは、あってはならない。
佐官以下が中心の事務室は、事件の処理でてんやわんやだった。もちろん将官たちも停電の対応に追われて忙しい。だが彼らのおかげで、こちらは公会堂で起こった「大総統襲撃事件」――敵をおびき出したのは軍のほうだが、名目上はそういうことになった――に集中することができる。
ルイゼンは外に出る支度をして、自分の席をたとうとした。すると斜向かいから、不機嫌そうな声が呼び止める。
「聴取か」
「そうだよ。メイベルも行くか? イリスと閣下が戦ってた、あの大剣のやつ任されたんだけど」
「思うまま罵声を浴びせていいのか」
「だめ。やっぱりお前留守番してろ。眼鏡ないし」
戦いのさなかに眼鏡を壊されたメイベルは、これでも落ち込んでいる。見せてもらったが、すっかり曲がってしまって、度の入っていないレンズにもひび割れがあった。修理に出せるのは今日の業務終了後で、直るまでも時間がかかるから、それまでは落ち着かずに誰彼かまわず睨みまくるだろう。もともと目はいい彼女なので、本来なら眼鏡は必要ない。けれどもあれは彼女にとって特別なものなのだ。
まだ軍に入って、一年経つか経たないかという頃だった。その頃にはすっかり仲良くなっていたイリスとメイベルが、一緒に買い物に行って帰ってきた日。それまで家族のことを優先にして、自分のために給料を使うことがなかったメイベルが、初めて買った「余計なもの」が眼鏡だった。必要ないよねと言いつつイリスと二人で試着していたら、言われたのだという。
――ベル、眼鏡似合うね。美人が引き立つっていうか。
生まれて初めての衝動買いだ、とメイベルは語り、以来サイズが合わなくなっては直し、誤って壊しては直しを繰り返して着用してきた。おかげで彼女の視力が本当は全く問題ないということを知っている人のほうが、今は少ない。
「イリスの言葉はでかいからなあ……」
メイベルにとってはなおさらかもしれない。だが、それはルイゼンとて例外ではないのだった。剣を武器にしているのは、見た目がかっこいいからというのももちろんだが、入隊前にイリスに言われたことが一番の影響になっている。
――入隊決まったの? じゃあさ、武器は剣にしなよ。絶対かっこいいよ。
今となっては、ルイゼンをかっこいいと言ったのではないことくらいわかる。でも、当時は嬉しかったのだ。かっこよく人を守れるようになれると、信じたのだ。
「実際はあのざまだけどな」
「何があのざまだって?」
ひとりごちたのを、通りかかった部屋からちょうど出てきたフィネーロに聞かれた。上を見れば「情報処理室」のプレート。彼がいてもおかしくはない。
「よ、フィン。そっちも忙しいか?」
「それなりには。協力してもらった施設や機関、他司令部への礼と説明を送る手伝いをしている。ルイゼンは今日は一日聴取なのか」
「時間がかかればな。俺一人じゃないから、遅くても三時ぐらいには戻れると思うけど」
そうだ、上司を待たせているのだった。急がなければ叱られる。じゃあ、とフィネーロに手を振ると、背後から声が追いかけてきた。
「僕は、昨日の君は格好良かったと思う。それともイリスに言われなきゃ不満か」
振り向くと、真顔でこちらを見ているフィネーロがいる。急激に照れがきて頬を熱くしている、こっちのほうが恥ずかしい。
「……いや、どうも。お前こそかっこよかったぞ! これからも期待してるぜ、我が班の戦力!」
親指を立てると、同じサインが返ってきた。これからも一緒に戦ってくれると、そうとっておこう。
押収された大剣の重さを改めて数字で見て、イリスは眉を寄せた。昨日は「軽い」と豪語してみせたが、明らかにイリスの知っている数字より大きい。書類を持ってきたトーリスが深く溜息を吐いた。
「無茶はするなと言っただろう」
「いや、こんなに重いものだとは思わなかったんです。だってあのときは本当に、お兄ちゃんの剣のほうが重いから大丈夫だって……」
「錯覚だったということだな。その場の勢いもあっただろう。短剣にすら負けた私がどうこう言えることではないが」
「実にその通りだな。まったく役立たずな大佐殿だ」
メイベルが横から口を挟んで、トーリスに睨まれる。それを宥めつつ、イリスはとんでもない重量の大剣を片手で扱っていた相手のことを思った。あんなに強い人がいるという事実。彼がどうしてその力を、もっと別のかたちで役立てられなかったのかということ。
――あ、でもわたしだって軍にいなかったら。周りに理解者がいなかったら……。
彼の力は、イリスの眼にも通じるものがある。当人も持て余しかねない、強すぎる力。扱い方は、その人によって変わるのだ。人を変える要因や環境は様々だが、イリスと彼にはたしかに似たところがあるのかもしれない。
「何を考え込んでいる。結果的には持ち主を拘束できたんだからいいだろう。さすがにあれ以上の脅威はそうそうあるまい」
メイベルの声で我に返り、イリスはごまかすように笑う。
「あってたまるかってくらい強かったね。倒しきれなかったし」
「閣下がうろちょろしなければ、私が撃っていたんだが」
「いつものベルなら、レヴィ兄のこと気にしないで撃ってるんじゃない?」
「眼鏡がないと調子が狂うからな、手を出しにくかった」
躊躇も遠慮も容赦もないと評判の彼女でも、躊躇うことはあるらしい。躊躇ってくれてよかった。すぐに決着がついていたら、イリスは自分が戦った相手についてじっくり考えることをしなかっただろう。
「ベル、助けてくれてありがとう。でもちゃんと撃てたし、眼鏡ってそんなに必要? たしか目は悪くないよね」
「気持ちの問題だ。私にだってそういうことはある。……そんなことよりイリス、自分の剣をちゃんと確認したんだろうな。さっきの数字を見る限り、軍支給の剣が耐えられるとは思えないんだが」
「わたしの? そういえば全然気にしてなかった……」
傍らに鞘に収めて置いていた剣を、周囲に気をつけながら抜いてみる。全てを見るまでもなかった。折れてはいなかったが、すぐにそれとわかる大きな傷が刀身に入っている。このまま使うことはできそうにない。
「交換しなきゃだめかー……。すぐ気づいていれば、手続き早くしたのに」
「どうせならフィネーロのように作ってしまえばいい。兄君のようになりたいなら、いっそ押収した大剣を引き取るのはどうだ」
「それは重くて無理じゃないかな。でも、自分の剣は憧れるかも。ねえベル、仕事終わったら眼鏡の修理に行くんだよね。わたしも一緒に行っていい?」
「断る理由がどこにある。イリスとのデートならいつでも歓迎だ」
微笑んだメイベルの手を取って上下に振っていると、トーリスの咳払いが聞こえた。終業後のことを考える前に、少しでも報告書を進めておかなければ。まとめるのはルイゼンでも、みんなで作成しなければならない。
さて、対決相手のことはどのように報告しようか。気づいてしまったからには、被害に剣のことも含めたほうが良いのだろうか。
それから四日ほど、レヴィアンスは相手の出方を慎重に見ていた。この場合の相手は血脈信仰信者過激派だけではなく、ウィスタリア政府、ウィスタリアを中心に動いている裏組織なども含まれる。もちろんただ黙って見ているわけではなく、そのあいだに協力者たちと話し合いを重ね、情報を集め、ときにはこちらから発信するべき情報に手を加えた。
「あんまり時間が経ちすぎるのも良くないわよ。勝手を言わせてもらうと、あたしたちも最新の情報がないと困る」
「そうだよね。オレもエトナにあんまり迷惑かけたくないんだけど、もうちょっとだけ待ってもらえないか。ちょっとでいいから」
大総統付新聞記者エトナリア・リータスは、「ちょっとってどのくらいよ」と呆れる。だが、事情がわからないわけではない。迂闊なことをすればレヴィアンスの命に関わること、国交に影響が出ることなど、承知している。だが国民が「真実の言葉」を欲しがるのも、痛いほどわかるのだった。
「前なら、いい加減にしろ赤もさ! って怒鳴りつけることもできたのに。もう赤もさじゃないからこれも使いにくいわ」
「最初から赤もさって言わなければいいんだよ。ていうか今ちょっと怒鳴ったよね」
レヴィアンスも真実を公表するつもりではあった。だが、そこにウィスタリアの名前を入れることはできない。血脈信仰もしかりだ。だから、ただ「大総統への敵対勢力があった」としか言えない。
実際、真実は混迷していた。一連の事件は第十四代大総統の暗殺になぞらえたものとされていたが、その根は建国の時代にあり、また十八年前の司令部襲撃事件にも関連している。レヴィアンス自身、なぜ自分が命を狙われていたのか、今後もまだ狙われるのか、道を見失いかけていた。
「それぞれを個別の事件にしておいたら? レヴィは公会堂での大総統襲撃について説明するだけ」
「じゃあその前に演説しようとしたのは何だったのかって話になるだろ」
「それも入れたらいいじゃない。あんたは人に何を伝えたかったの? 本当に何にも考えないで、あの場を用意したわけじゃないでしょう」
用意はしていた。だがその中身は、今まで対外的にとってきた行動について、繰り返すだけだった。それでは誰も納得しないだろう。
「煮え切らないわねえ、それでも大総統? レオナルド君、何か良い案ある?」
「私は閣下の考え通りにと思います。たとえ、きちんとまとまらなくても」
何を言ったらいいのか。何を伝えたいのか。四日前と同じ形式をとって、改めて話すべきことは何なのか。新しい情報を取り入れながら、レヴィアンスはずっと悩んでいた。
自分の行動について、ハルやカスケードの先代としての無難なコメントをしてもらう、それだけで繋ぐのはもう限界だ。それは理解している。彼らもレヴィアンスの出方を、けじめを、待っているだろう。それが今後の大総統としてのありかたを決めることにも繋がってくる。
もしかしたら、大総統ではいられなくなる可能性だって、まだ捨てきれてはいないのだ。女王の推薦でこの立場にいる、後ろ盾があるということで、そう簡単にこの椅子を他人に譲るようなことにはならないと思っていた。しかしきっとレヴィアンスがこの立場を降りなければならないと決めたなら、女王は止めたりしないだろう。理由がつけられる今なら。
静寂が落ちた大総統執務室に、ノックの音が響いた。音の感じで、誰が来たのかはわかる。
「入っていいよ」
許可を出すと、扉を開けて、イリスが顔を覗かせた。
「失礼しまーす。エトナさん、こんにちは」
「イリスちゃん! いいところに来てくれたね。ちょっとこの元赤もさに発破かけてやってよ」
「元赤もさってなんだよ……。イリス、どうしたの?」
こちらを指さすエトナリアを軽く押しとどめながら尋ねると、紙の束が差し出された。何かはすぐにわかった。四日で仕上げてくるとはさすがだ。
「聴取内容も含めた、大総統襲撃事件の報告書。大佐が提出してこいって言うから、持ってきた」
「マー坊、まだ忙しいだろうからね。ありがとう、見ておくよ」
「で、発破かけるって何の話? エトナさん」
報告書を受け取ると同時に、話を元に戻されてしまった。エトナリアが憤慨しながら、レヴィアンスが煮え切らないということをまくしたてる。イリスは苦笑いしながらも、「だよねえ」と頷いていた。どこにかかる言葉なのかはわからない。簡単に話をまとめられないのは仕方がないと思ってのことなのか、それともレヴィアンスの決断が遅いことへの同意なのか。両方かもしれない。
「イリスちゃんはどうしたらいいと思う? レヴィの補佐として、何か意見があれば言っていいのよ」
なぜエトナリアが許可を出すのかということはともかくとして、たしかにイリスにもその権利はある。彼女も補佐だ。レヴィアンスが認めてそうしたのだから、考えがあるなら言ってくれたほうが助かる。
「わたしは難しいことはわからない。でもレヴィ兄の立場とか危険とか、考えなくちゃいけないことがたくさんあるってことくらいは、ちゃんと意識してるつもり」
ぼそぼそと、イリスが答える。エトナリアはそれにも頷きながら熱心に耳を傾け、おそらくは頭の中にしっかりと書き留めている。
「……だから、かな。レヴィ兄は、レヴィ兄としての考えとか言葉を、みんなに聞いてもらったほうがいいんじゃないかなって思うんだ」
レヴィアンスの心にも、その言葉が書きこまれたような気がした。
「レヴィとして、なの? 大総統としてのコメントじゃなくて」
確認するようにエトナリアが問い、イリスは今度ははっきりと頷く。
「わたし、レヴィ兄に喧嘩売ったり、不満みたいなことをぶちまけたことがあって。それって、レヴィ兄がわたしに納得のいく説明をしてくれなかったり、本当の気持ちを言ってくれなかったからなんだよね。本音を聞かせてほしかったのに、大総統としての建前ばっかりだったから」
「イリスちゃんはそれが嫌だったのね」
「嫌だよ。だってわたしが話したいのはゼウスァート閣下じゃなく、レヴィ兄だったんだもん。……でも、わたしとみんなは違うよね。事情もまるで違う。閣下の言葉を求めてる人が、今はたくさんいるんだよね」
だからわたしは何も言えないや、とイリスは困ったように笑った。けれどもエトナリアは首を横に振って、それで十分、と言う。さすがに彼女らは、レヴィアンスと付き合いが長いだけあって、よくわかっている。――何を伝えたいのか、と問われれば、その答えはきっと決まっていた。
「エトナ、大総統付記者でいられなくなったら、仕事のあてはある?」
「何よ今更。あるに決まってるじゃない、あたしは超有能記者よ? 他にも担当してるものはあるし、守備範囲だってそれはもう広いんだから」
堂々と胸を張るエトナリアは、心配しなくていいだろう。一つのことに執着することなく、視界を広く持っていることが、彼女の長所だ。では、こちらは。
「レオ、大総統補佐でいたい?」
「私の望みはあなたの補佐ですよ、閣下」
ガードナーは微笑んだまま、口調をほんの少し強くした。
「イリスは? ……大総統補佐じゃなくなるとしたら、どう?」
「意地の悪い質問だね、レヴィ兄」
ちょっとムッとしたイリスが、小さく息を吐く。それから。
「ガードナーさんと答えは同じだよ。わたしはレヴィ兄と一緒に進みたいの。だいたいわたし、そもそもは補佐見習いだもの、今更立場をどうこういったところで意味ないよ」
胸に手を当て、こちらを真っ直ぐに見据えて告げる。幼い頃からこうだった。眼の力が効かないレヴィアンスには、きちんと目を合わせて向き合ってくれていた。イリス自身もそうしたかったのだろう。
「事件が終わっても、同じだよ。わたしたちは一緒にあがいて生きよう。少なくともわたしは、そのつもりでいたんだけど」
目の高さだけが変わった。いつのまにか大きくなって、目線がそうかわらなくなった。もう一度、改めて思う。泣き虫だった幼い少女は、もういない。
「……そういうことなら、悩まなくてよかったな。一応オリビアさんやアーシェには確認してもらうけど、話したいことはだいたい固まった。エトナにはまた、いい塩梅の記事を書いてもらう」
「任せなさい。あんたのダガーより強いこのあたしのペンで、国中に届けてあげる」
大総統レヴィアンス・ゼウスァートを名乗りながらも、心はレヴィアンス・ハイルのままで生きていく。二年前にそう誓ったことを思い出す。これを受け入れない人もいるだろうけれど、受け入れてくれたからこそ手を貸してくれた人が大勢いる。
期待に応えられるかどうかはともかく、言葉を紡いでみよう。慎重さを欠かずに堂々と、レヴィアンスがいつもそうしてきたように。
そして事件からちょうど一週間、修理中の公会堂に再びカメラが備え付けられた。今度は途中で停電になって中止になるということはない、本当の大総統演説中継が行われようとしていた。とはいえ、演説というほど大仰なものではないと、レヴィアンスは思っている。ただ、人々に報せること、伝えることをするだけだ。
だから先日ほどの告知はしていなかったのだが、エルニーニャ王国民は今度こそ大総統の言葉を聞き逃すまいと、一週間前とほぼ同じようにテレビやラジオの放送に注目していた。そのために仕事を詰めたり切り上げたりすることはなくとも、耳に入るようにはしておいているようだ。その様子が街を巡回しているあいだにもわかって、イリスは感心したものだった。
誰もがレヴィアンスの言葉を欲しがっている。それは大総統としての言葉かもしれないし、今回の事態への説明責任を求めているということでもあるだろう。いずれにせよ、レヴィアンスは人々にとって大きな存在なのだ。
映像には入らない、しかしレヴィアンスからほど近い位置に、イリスとガードナーは控えることになった。公会堂の内部と外周は、先日と同じように軍人たちが囲んでいる。異なるところがあるとすれば、少しだけ警備を厳重にしているということか。今度は邪魔が入っては困るし、おびき寄せる意図もない。
開始時間は一週間前の放送と同じ、午後七時に設定した。時計の針がその時刻を指し示すと同時に、中継が始まる。
「やあ、こんばんは。今夜の放送に耳を傾けてくれてありがとう。今度はちゃんと話すから、少しだけオレに付き合ってほしい」
軽い口調に、堂々とした姿勢、不敵な笑みを浮かべた顔。先日とは違う、けれども国民には馴染みのあるレヴィアンスが、ここにいた。
イリスとガードナーは、こっそり目配せして、小さく笑った。これでこそレヴィアンスだ、自分たちが慕う彼だ、と。
まずは先日の停電と放送の中断についての詫びから、話が始まった。国内一斉停電が軍による捕り物の作戦の一環であったことが明かされ、損害補償が始まっていること、まだ行き届いていないことがあればすぐに対処するという旨を伝える。補償については、前もって王宮と大文卿との話し合いで決めていた。
「で、その捕り物についてだが。実のところ、オレはしばらく狙われていた」
大総統としての地位が揺らぐという懸念があって、ずっと言わないでいたことを、レヴィアンスはあえて話すことに決めた。誰に狙われていたのかというような、具体的なことは明かさない。当然ウィスタリアの思惑や過去の事件のことも取り上げない。危機にあったという事実と、それが一週間前の停電のさなかに決行した作戦によってひとまず収まったことを報せた。
解決した、という言葉は使わなかった。まだ気を抜けない状況であることには変わりないし、公開はしないが、首謀者は捕まっていない。
「オレを気に入らない人間がいるのは、おかしいことじゃない。疑問だっていくらでもあるはずだ。だからオレに意見することはまったくかまわない。でも、このことでオレ以外の人間に被害が及ぶようなことは許さない。エルニーニャのみんなには手出しさせないよう、オレはこれからも大総統としてみんなを守っていきたい」
出した答えはこれだ。硬い言葉で伝えるべきことだったかもしれないが、レヴィアンスは自分の言葉で話すことを選んだ。
そして、伝えたいことは。
「オレ、この国のみんなが好きだからさ。たとえ大総統の椅子を降ろされても、それは変わらない。オレはオレのやりかたで、大切なものを守る方法を考えて実行していく」
最初から、そのひとつだった。
「というわけで、これからもよろしく! オレの命が欲しければ、正々堂々と来い。いつでも相手になるぞ!」
レヴィ兄、挑発はだめだって。イリスは呆れながら、彼の背中を見る。髪が短くなってよく見えるようになったその背は、広くてしゃんとしていて、あんな口調でも頼もしかった。
それからの中央司令部は、いやエルニーニャ軍は、国民からの応援や文句や疑問に追われて目まぐるしかった。通常の業務や任務もあり、レヴィアンスはもちろん、イリスらもなかなか自由には動けなかった。レヴィアンスの身辺警護も続いている。襲撃事件以来、音沙汰はないが。
というのも、女王が王宮襲撃の対応に軍の力を借りていたことをウィスタリア政府に打ち明けたようで、ようやく彼らも国内の不穏な勢力の監視に本格的に乗り出したのだった。さらにはウィスタリアで活動していた裏組織が、危険薬物の流通に手を出しているということを理由に大規模な摘発にあった。これにはノーザリアの大将が根回しをしている、ということはウィスタリア軍とレヴィアンス、そして当人くらいしか知らない。
レヴィアンスの命を狙っていた過激派は、戦力が少なくなったこともあり、動きにくくなった。それはどうやらたしかなようだと、ようやく認めることができた。
だからこそ、今夜、イリスとレヴィアンスは揃ってニアたちの家に来ることができた。こうして直接会うのはいつ以来だろう。
「話せるだけのことは、もう放送で話したよ。以降、事態は順調に収束に向かってる」
スコーンにジャムを塗りつけながら、レヴィアンスが言う。イリスは何もつけずに頬張ってみたが、冷めてもそもそしていながらも美味しかった。ニアが作ったというのは本当だろうか。だとしたら、確実に料理の腕は上がっている。
「演説もテレビで見たけど。せめて口調くらいどうにかならなかったの? 大人なのにちゃんとした話し方しないで大丈夫なんですかって、ニールまで心配してたよ」
「オレはあれでいいの」
この家の子供であるニールは、今日はルーファの実家に泊まりに行っているらしい。ニアがレヴィアンスを説教したかったからだ。インフェリア家に預けなかったのは、一連の事件で協力を仰いだおかげで忙しくなったカスケードに配慮してのことだろう。レヴィアンスが落ち着くまでは、あらゆる方法で手を貸してくれるという。
「大人にはできるだけ子供の手本であってほしいんだけどね。大総統ならなおさら。……もう何言っても仕方ないから、演説についてはここまでにしておいてあげる」
ニアが紅茶を一口飲むあいだに、レヴィアンスはホッと息を吐いた。イリスもつられそうになったが、口を開けるとスコーンがぼろぼろと零れそうなので堪える。
「で、髪と足は?」
だが必死の抵抗も空しく、ニアの問いはイリスの口を開かせてしまった。「それは」と言おうとしたのが「ふぉれふぁ」になってしまい、スコーンのかけらがテーブルに落ちる。ルーファが慌てて紙ナプキンを差し出してくれたが、遅かった。
「……髪は見ての通りだから仕方ないとして、なんで足までわかったのさ」
口をへの字に曲げ、レヴィアンスが問う。ニアはこともなげに「歩き方変だったから」と答えた。随分治って、もう走るにもほとんど支障がなくなったというのに、わかる人にはわかってしまうようだ。
「それは、わたしを助けようとしたからだよ」
口の中のものを紅茶で飲み下したイリスが、やっとまともな言葉を発する。レヴィアンスに止められそうになったが、そのまま続けて、公会堂での戦いについて話した。ニアは黙ってそれを聞き、ときどき口を挟もうとしたレヴィアンスを視線で制した。
「……だから、レヴィ兄は全然悪いことなんかない。わたしがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだよ」
「そう。事情は分かった。別にレヴィが悪いなんて思ってないから安心して」
頷きながらスコーンを割り、「大剣の相手か」とニアが呟く。それからレヴィアンスの髪をまじまじと見た。
「躊躇ったね、彼。髪を切ったならそのまま背中を斬りつけるだろうに、レヴィは実際、足を怪我している。一度手を止めたか、あるいは引いたかもしれない」
「そうなんだよ。わたしはわからなかったけど、ゼンが聴取に行ってそう聞いてきた。レヴィ兄が急に飛び込んできたからびっくりしたみたい」
離れた箇所にダメージがあったのはそういうことだ。あの場でとっさに重い剣を止められるというのもすごいと、イリスは感心していたのだった。
「あの力、良いことに使えたらいいのにね」
「それは本人次第。躊躇えるんだから、大丈夫だと思うけどね」
「軍に勧誘したいくらいだったよ。オレと同い年らしいから、これからの入隊は難しいけど、王宮近衛兵なら年齢制限ないからいけるかも」
「俺なら力仕事に欲しいな。大剣を片手で扱えるなら、荷物運ぶのとか余裕だろ」
チョコチップの入ったスコーンに手を伸ばしながら、イリスは彼の未来を想像する。大総統襲撃の実行犯として、しばらくは外に出られない生活を送るが、そのあとは。――できることなら、彼が胸を張れる人生を歩んでほしい。それはきっと、人を傷つけるための道ではないはずだ。
「荷物……荷物か。リーガル社の御曹司様に話してみるかな」
「リヒト君? あの子、癖のある人雇うの好きだよね。アーシェちゃんに似て」
やっとニアが明るく笑った。イリスはルーファを顔を見合わせる。もう大丈夫だ、と言われた気がした。
心配かけてごめんね、ともう一度言いたかったけれど、きっとニアが欲しい言葉はこれではないだろうと思ってやめた。談笑の中に加わり、スコーンを頬張る。取り戻したかった時間を、今は思い切り味わうことにした。
帰りがけに、ニアがレヴィアンスを呼び止めた。その手が顔の横に伸びてきたのでレヴィアンスは耳を庇おうとしたが、その必要はなかった。
短くなった髪を指先で撫でながら、真剣な声が言う。
「イリスを守ってくれてありがとう、レヴィ」
軽い口調がそれに応えた。
「当然じゃん。大切なものは何が何でも守り抜け、だろ?」
本当に大事なことを言うときの笑みを浮かべて。
手には、柄に紅玉をあしらった細身の剣。振えば長い黒髪が靡き、赤い瞳が不敵に笑う。鎬を削るルイゼンは、負けたくないと思いながらも、その姿に惚れ惚れしてしまっていた。
「ちょっとゼン、真面目に相手してよね。このままじゃわたしに連敗するよ」
「連敗はしたくないな。一度くらいは勝ってみたい。でも申し訳ないけど大真面目だ」
新しい剣を馴染ませるため、忙しい合間をぬって、イリスは頻繁に練兵場へ繰り出していた。同じ剣を扱う者としてルイゼンはよく駆り出され、そしてそのたびに連敗記録を更新している。
「よくやるよ、ルイゼンも。僕なら早々に諦めてる」
観戦しながら呟くフィネーロの隣で、メイベルが新品のように輝く眼鏡を直す。
「イリスに見惚れているうちは勝てないだろうな」
「君もイリスと手合わせしたいんじゃないのか」
「武器なしならしたいんだがな。生憎、私の相棒は銃だ。変えるつもりはないし、新しく剣を覚えようという気にもならん」
結局、今日もイリスが勝った。ルイゼンも強くなってはいるはずなのだが、大総統襲撃事件を機に火がついた、いや、燃料をさらに投下されたイリスの勢いが止まらない。もっと強く、と日々邁進している。そろそろ勝てる佐官がいなくなるのではないか。
「この剣にも慣れてきた。本当にスティーナ鍛冶はいい仕事するよね」
「やっと慣れてきたところかよ。俺はいつになったらお前に勝てるんだろう……」
戻ってきたイリスはメイベルと、ルイゼンはフィネーロとハイタッチを交わす。ちょうどそのタイミングで、トーリスがこちらを見つけた。
「リーゼッタ班、仕事だ。今から外に出てもらう」
「はい。ほら、行くぞ」
「今日は何だろうね」
「地方の視察じゃないのか。停電の補償、まだ終わっていないんだろう」
「しばらくはかかると閣下が言っていたな。西から帰ってきた兄が、面倒なことをするからだと嫌そうな顔をしていた」
事務室で支度をしてから、外へ。本格的な冬が迫り、風が一層冷たくなっている。次の休みこそは買い物に行こうと、イリスは決心した。
車に乗り込むその前に、おーい、と呼ぶ声がする。振り向いた先の窓から、レヴィアンスが顔を出していた。背後にはガードナーが付き添っている。
「気をつけて行けよー!」
「閣下、あなたもですよ。あまり窓から身を乗りだすと危険です」
呆れながら、笑いながら、手を振り返す。帰ってきたら、今度は執務室の仕事を手伝わなければ。レヴィアンスとガードナーだけでは、机の周りが散らかってしまう。
「いってきまーす! 待っててね、レヴィ兄!」
必ず隣に帰ってくる。そして一緒に歩んでいく。認めてくれるのなら、そこがわたしの居場所だもの。