大きな事件が起これば、その後長く尾を引くことになる。大総統レヴィアンス・ゼウスァートの暗殺未遂事件は、その真実を求める人々によって、季節が変わっても取りざたされている。予想はしていた事態だが、行き過ぎないように対応をしなければならない。

例えば、人々の意識の方向を変えるというのも、一つの方法だ。

「何か明るい話題でもあればいいんだけど。刺激があればなおいいわ。国の資産が急に増えるとか」

「そんな都合のいいことあるかよ」

大総統執務室で、レヴィアンスと大総統付記者エトナリア・リータスは「話題作り」に腐心していた。演説放送の後からずっとだ。月捲りのカレンダーが顔を変え、ついには新しいものに取り換えられても、「明るい話題」は出てきそうにない。面倒な事件ばかりが増え、しかしながら暗殺未遂事件に比べればどれも些細なことだった。

「もう、あんたが結婚でもするしかないんじゃないの。独身の大総統なんて何期ぶりよ。随分とモテているんでしょう? 良い相手はいないわけ?」

半ば自棄に笑いながら、エトナリアが指でペンを回す。器用だな、と思いながら眺めていると、隣から咳払いが聞こえた。

「リータスさん、ご冗談はほどほどにお願いします。閣下はお仕事に集中するため、数多の女性の誘いを断り続けているのですよ」

「そりゃあ、あたしだって知ってるわよ。レヴィに余計なことをするような奥さんは必要ない。手を貸してほしいところは、だいたいレオナルド君が先回りしてやっておいてくれる。いっそあんたたちが結婚しちゃえばいいのよ」

「そんな畏れ多いこと、よく口にできますね」

嫌だとは言わないんだな、とレヴィアンスは苦笑を浮かべる。たしかに配偶者のことまで考える余裕はない。だから必要ないということにして振り切り、仕事に邁進してきた。――だがそれももう三年になるし、レヴィアンスも二十七歳になる。軍に登録している年齢なら、二十九だ。

何も結婚ばかりが大人の甲斐性の証明になるわけではない。レヴィアンスはそう思っていて、近しい人も似たような考えだったが、たしかに世間には「大総統がまだ家庭を持っていない」ということを気にする人もいるのだ。余計なお世話ではあるけれど、一方的に持ちかけられる縁談のうち一つでも受け入れれば、それ以上同じ面倒は起きないであろうことも想像できるのだった。

余裕は今もない。余裕ぶっているのはゼウスァートの名を背負っているからだ。しかし。

「……まあ、結婚は置いといてさ。今日はいつも以上に荒れてるようだけど、何かあったの、エトナ」

頭に浮かんだものを追い払って、話を変えようとする。その気がないことを話しているのは不毛だ。だが返答は、話題を変えてはくれなかった。

「あたしに、上司から縁談の話があったの。こっちがその気はないって、仕事に集中したいって言っても、聞いてくれなくてね。あんたと同じ対応してるのに、なんであたしはうまくいかないのかな」

普段、記者として話を引き出すことはするが、自分の話はしなかったエトナリアだ。その彼女から不意に告げられたその言葉は、妙に響いた。

 

午後のカフェの、大きな窓から陽射しが入り込む席。可愛らしいケーキを前に目を輝かせる幼馴染を、イリスは目を細めて眺めていた。

「ここ、ずっと来たかったの。学校の帰りに寄り道なんかしたらママに叱られちゃうから、機会を逃してて……」

短い髪を陽に透かして、幼馴染のリチェスタ・シャンテは恥ずかしそうに笑う。イリスの数少ない軍外の友人で、同い年。ルイゼンの実家の近所に住んでいて、彼とも仲が良い。昔は三人でつるんだものだったが、ルイゼンが、そしてイリスが次々に軍に入隊したことで、リチェスタと一緒に過ごす時間はとても少なくなってしまった。

おまけに彼女の家はルールが厳しく、こうして出かけるのにもいくつかの条件を満たす必要がある。イリスと二人でお茶の時間、というのも随分と久しぶりのことだった。

「イリスちゃんも、去年からずっと忙しかったんだよね。なんだか軍が大変なことになってたみたいだし。今日は大丈夫なの?」

「リチェと会うから午後休みほしいって言ったら、レヴィ兄があっさりオーケーしてくれたよ。だから心配いらない」

今日はエトナリアが来るから、ということもあるだろう。大総統付記者である彼女と話すとき、レヴィアンスはイリスをあまり同席させない。だから彼女がしょっちゅう司令部に来ていても、イリスと会うときの挨拶は「久しぶり」になることが多い。

それを抜きにしても、大総統補佐を務めるイリスの休みは普段から少ない。だからこそ急な休みの申告でも許してもらえたのだろう。それが軍の外の人と会うためなら、なおさら。常に危険と隣り合わせの仕事だし、気分転換は大事だ。

「イリスちゃんが忙しいなら、ゼン君も忙しいんだろうね。年始の挨拶には来てくれたけど、それっきりだもの」

紅茶に砂糖を入れてかき混ぜながら、リチェスタが眉を八の字にする。本当はこのカフェだって、ルイゼンと一緒に来たかったのではないか。だが今日も今日とて、佐官であるルイゼンは上司とともに会議に出たり、次の遠征任務の準備をしたりしている。一応誘ったのだが、「俺は無理。リチェによろしく」とあっさり断られてしまった。

「やっぱりゼンに会いたいよね、リチェは。ずーっとあいつのこと好きだもんねえ」

「そ、そうだけど、会えたら嬉しいけど、今日はイリスちゃんとお話したかったの! たしかにゼン君も連れてきてくれたらラッキーだなって、ちょっとだけ、ほんのちょっと思ったけど」

「ごめんね。今度は引きずってでも連れてくるから。で、わたしはこっそり退散するのであとは若いお二人で」

「イリスちゃんのほうがゼン君より若いし、私とイリスちゃんは同い年でしょう……。そんなことされたら私の心臓がもたないよ、爆発して飛び散って大変なことに」

「リチェって言うことがたまにグロテスクだよね」

言葉はともあれ、リチェスタは恋する乙女なのだ。幼少の頃から近所のお兄ちゃんであったルイゼンに恋焦がれ、しかしながら思いを伝えることができずにいた。彼女自身が内気で恥ずかしがり屋ということもあるが、イリスにはなんとなくわかっている。自分がいたからこうなったのだと。

三人でつるんでいたから、イリスとルイゼンが男の子同士の友人のように親しかったから、リチェスタはなかなかあいだに入ってこられなかったのだ、きっと。今でも彼女は学生、こちらは二人そろって軍人で、しかも同じ班で仕事をしている。リチェスタとルイゼンにとって、イリスはたぶん障害だった。

「でも、本当に。連れてくるから、そろそろ告白したらどうかな。ゼンは順調に階級を上げていって、このままじゃもっと忙しくなって、まったく会えなくなっちゃうよ。それに危ない任務も増えるから、ゼンには癒しとか安心できる場所が必要になってくると思うんだ」

リチェスタならきっとそうなれる。イリスはそう信じている。けれどもそう言うと、いつも困ったような顔をされるのだった。

「……ねえ、イリスちゃん。本当に私が告白してもいいと思ってる?」

「もちろん。早く付き合っちゃってよ」

「そうじゃなくて、私が告白してゼン君にまともに受け取ってもらえるかどうか。私のこと、妹みたいにしか思ってないんだもの。それに……」

言い淀んでから、リチェスタはケーキを崩し、そっと口に運んだ。待ち望んでいたはずの瞬間なのにあまり嬉しくなさそうなのは、期待とは違う味だったからだろうか。

「リチェ?」

「とにかく、告白しても付き合える確証はないよ。私がゼン君の癒しになるかどうかも疑問だし」

「少なくともわたしには癒しの塊だけどね。告白してみなきゃわかんないよ。あいつ鈍感だしさ」

リチェスタの表情がさらに渋くなったのを見て、言葉を選び間違えたか、と思い返す。だが、イリスは思い当たることができなかった。今までさんざん二人の邪魔をしておいて何を今更、ということくらいだ。

「あ、あのさリチェ、わたしのケーキも食べなよ。こっちのほうが口に合うかもよ」

「いいよ。私のもちゃんと美味しいから。……でもね、イリスちゃん。親友としてこれだけ、ちょっと勇気を出して言うね」

取り繕おうとした行動は、いったい何を繕えばいいのかわからなくなる。

「人のこと言えないよ、イリスちゃんは」

それは、いったいどこにかかった言葉なのか。

 

家に来るなり同時に深い溜息を吐いたイリスとレヴィアンスに、ニアは苦笑した。

「なに、二人ともそんなに疲れてるの? 忙しかった?」

「ううん、わたし午後休みだったし、リチェにも会ったし、疲れる要素ない」

「オレはいつも通り。少々もやっとするだけ」

「あー、わたしもそれ。少々もやっとね」

大総統暗殺未遂を巡る諸々が片付いてきてから、また二人はニアたちの住む部屋に入り浸るようになった。ルーファには呆れられているが、ニアとニールは歓迎してくれるので甘えている。年末年始は仕事であっという間に過ぎたが、ここには可能な限り訪れていた。

「お二人でももやっとすることあるんですね。いつも明るくて元気なので、そういうのとは無縁なのかなと思ってました」

「たまにあるのよ。ニールはそういうのない?」

「なくはないですよ。でもそういうとき、最近はニアさんやルーファさんに話しちゃうことにしてるんです。人生の先輩の話はためになりますよね」

「うわー真面目だ。オレも子供の頃に戻りたい」

「レヴィは子供の頃からあんまり変わってないでしょう。で、何があったの」

あんまり頻繁に来るので専用に用意したマグカップに、ニアがお茶を注いでくれた。今日は濃い目のミルクティーだ。一口飲んで、イリスは昼間のケーキの味を思い出した。あのときはちっともわからなかったのに。

「……お兄ちゃんはさ、ルー兄ちゃんのどこが好きなの」

隣でレヴィアンスがお茶をふきだしそうになっていたが、イリスには見えていない。ニールが慌ててふきんを持ってきて世話を焼くあいだ、ニアは腕組みをして首を傾げた。

「改めて訊かれると困る質問だね。先にそれが気になった経緯を聞いても?」

「わたし、恋愛とかそういう話に疎いんだ。リチェの相談に乗ってあげられないし、何があの子の気に障ったのかわからない。リチェがゼンのこと好きなのはすごくいいなって思うんだけど、何がどういいのかはよくわかってないってことに気づいちゃったんだよ」

ただ親友同士がうまくいってくれたら嬉しい、とそれだけではだめなのだろうか。リチェスタの態度を見るにつけ、きっとだめなのだろうとは思うのだが、改善の方法がわからない。恋でもすればいいのだろうか。しかしイリスの理想は、今も昔も兄だった。

「リチェちゃんの気に障るようなこと言ったの?」

「言ったかもしれない。でもそれが何なのかわかんなくて、もやっとしてるの。リチェは気にしないでって言うけど、そんなの気にしないでいられるわけないじゃん」

「そうだね。イリスとリチェちゃんは恋愛観にかなり差があるから、そのうちこういうことがあってもおかしくはなかったんだろうけど」

理想の兄は、この事態もある程度の予測がついていたらしい。少し考えてから、でも、と言った。

「僕の話を聞いたところで、リチェちゃんとの問題は解決しないでしょう。それでイリスがすぐに恋をするわけでもないだろうし」

「そりゃそうだけど。でもほら、ニールがさっき、人生の先輩の話はためになるって」

「こういうのはためになるんじゃなくて、するんだよ。なんでも自動的に解決するわけじゃない」

「……とかなんとかいって、ニアは照れてるだけじゃないの。それともオレがいるから話しにくい?」

咳き込んでいたのがやっと収まったレヴィアンスが、少し意地の悪い笑みを浮かべて言う。もっと時間をおいたらルーファも帰ってくるよ、と追い討ちをかける。それに負けたのか、ニアは咳払いをした。

「あのね、僕はルーのどこを好きになったとかじゃないんだよ。良い絵が描けたり、嬉しいことがあったりしたときに、真っ先に報告したいって思うのがルーだったってだけ。そして僕はそれを恋だとは思っていない。そもそも向こうが僕のこと好きだって言ってきたんだから」

「うわー、ルーファがそれ聞いたらショック受けそう」

レヴィアンスはにやにやと笑っていたが、イリスの認識では彼もまたニアのことが好きだったはずだ。こんな話をされて、失恋の傷がよみがえったりしないのだろうか。その傷を、リチェスタは随分と恐れていたように思うのだが、レヴィアンスにはどうということはないのだろうか。

「良いことがあったら真っ先に教えたいのは、恋に限ったことじゃないですよね。僕だってニアさんやルーファさんやイリスさん、エイマルちゃんやレヴィさんもすぐに思い浮かべます。あ、その中で特別なのが、ニアさんにとってのルーファさんだったってことですか? だから今でも一緒にいるんですよね」

ニールが手をポンと叩いて言う。賢い子供の得心を否定することはできず、ニアは頬を染めながら曖昧に頷いた。

「うーん、まあ、そうかな」

「それでいうとオレは何番目だったのさ。告白したのはルーファよりオレが先じゃん」

「レヴィはどう考えても親友の枠から出なかったんだよ。一番の相談相手ではあったけど、そういう気持ちには応えられないかなって」

「即答かよ。当時はあんなに時間かけて考えてたくせに」

だんだん話が赤裸々になってきたようで、イリスは少し恥ずかしくなる。ニールは平気なのだろうかと窺うと、顔を赤くしながらも興味はあるようだ。恋愛ごとというよりも、大人たちの関係がわかることが楽しいのかもしれない。

ルーファが帰宅してからも話は続いたが、結局イリスは、恋愛の尻尾すら掴むことができなかった。

「そういえばレヴィも溜息ついてたけど、そっちはいいの?」

「オレのは大したことじゃないからいいよ」

自分のものではない恋に悩む少女には、大人の抱える悩みは見えていない。

 

 

翌日になっても気持ちはすっきりしなかったが、仕事はある。身支度を整えて気を引き締めようとしていたイリスに、しかし、メイベルが訝し気な表情を向けた。

「昨日から様子が変だが、何かあったのか。たしかリチェスタと会っていたんだったな」

メイベルもリチェスタのことは知っていて、悪いようには思っていない。むしろ好感を持っているようだ。おそらくは彼女の妹とリチェスタの雰囲気が似ているからなのではと、イリスは思っている。真相は定かではないけれど。――似ているのなら、メイベルのほうがリチェスタの気持ちをわかるのではないだろうか。ふとそんな考えが脳裏をよぎった。

「あのね、ベル。実は……」

支度をしながら、昨日リチェスタと交わした会話をできる限り思い出し、メイベルに話して聞かせた。手はけっして休めずに、さあ出勤だ、という段階に差し掛かって。

「人のこと言えないって、何のことだろうね。それでずっともやもやしててさ」

「……イリス、それは本気で言っているのか」

メイベルが動きを止め、低い声で尋ねた。

「本気って?」

「いや、考えなくていい。下手に気づかれると私が不利になるからな。イリスはそのまま清くあって、そのうち私の牙にかかってくれ。しかしまあ、気の毒な話だな」

「ねえ、何のこと? わかったなら教えてよ」

縋るイリスを適当にあしらうメイベルは、なんだか機嫌が良さそうだった。どうして人が気の毒だと言いながら愉快そうな表情ができるのか。そんな要素、今の話にあっただろうか。だがメイベルは絶対に教えてくれないだろう。もともと勿体ぶるようなことはしない性格だ、何かあればはっきり言うし、言わないと決めたことは本当に言葉にしない。

だが気になって仕方がないイリスは、考え事をしすぎて、その日の午前のうちにミスを連発した。三回目になるとトーリスが叱るのを面倒がり、四回目からはルイゼンが呆れていた。

「イリス、お前今日本当に変だぞ。昨日の午後休み、リチェと会ったんだよな。喧嘩でもしたのか?」

「喧嘩なんかしてないし」

あれが喧嘩だとすれば、その原因の一端はリチェスタの気持ちに気づかないルイゼンにもある。たとえイリスが二人の邪魔になっていたとして、それがわかっていても、ついルイゼンに毒づいてしまった。

「誰かさんが鈍いから、わたしまで鈍くなっちゃったんだよ」

「誰かさんって誰だよ。俺に言うんだから俺のことなんだろうけど、そんなこと言われるような覚えはないぞ」

覚えがないのを鈍いと言っているのだ。イリスの態度をルイゼンはしばらく怪訝な表情で見ていたが、邪険にされているというのは伝わったのか、そのうち一睨みしてから話しかけなくなった。そのあと、イリスは五回目のミスをした。

資料の取り違え、報告書の書き違え、事務室の備品の破損と一通りのことをしでかした。そのたびにメイベルが黙ってフォローしてくれたのだが、含み笑いを隠せていない。その理由を話すことは、思った通りなかった。

そうなれば相談する先は限られる。資料を片付けに行ったその足で、イリスは情報処理室に立ち寄った。大仕事を終えたフィネーロだが、その能力が大いに認められ、今でも情報処理室にいる時間のほうが長いのだ。彼はイリスの姿を見止めると、隣の席に座らせた。

「ゼンは鈍いし、ベルは何も教えてくれないし、リチェの言いたいことはわかんないし。みんなが何考えてるのか、わたしには理解できないよ」

イリスの愚痴を聞きながら、フィネーロは仕事を続けていた。コンピュータのディスプレイを見たまま、キーボードを打ち続け、こちらには一瞥もくれない。それはイリスがここに来たときのいつものスタイルであり、彼はそもそも情報が出揃って把握できてから発言をするタイプだ。だからそれ自体は気にならなかったのだが。

「だいたいわかった」

「フィンにもわかったの?」

「ああ。徹頭徹尾、鈍いのは君だ、イリス」

その反応は全く予測できていなかったし、理解が追いつかなかった。どういうこと、と訊き返すより先に、言葉が継がれる。

「メイベルが気の毒だと言ったのは、リチェスタだけではなくルイゼンのこともだ。ついでにメイベルと、それから僕も気の毒だな。君は好意を向けられるのも疎まれるのも慣れてしまって、だから自分自身へ向けられる感情を都合のいいように解釈することでシャットアウトしてしまう癖が無意識についてしまったんだろう。幼少の頃に眼の所為で様々なことを言われたからこそ身についてしまったのかもしれないな。そう思うと君もまた気の毒ではある」

登場人物が増えた。しかもみんな気の毒だという。イリスは気持ちを親友に理解してもらえないリチェスタが気の毒なのだと思っていたが、どうやら彼女に想われているはずのルイゼンまで気の毒で、さらにはメイベルやフィネーロまでもが気の毒の枠に入っている。おまけにイリスまで、勝手に気の毒にされた。

「僕からは具体的なことは言えない。抜け駆けになってしまうから。だからあとは自分で考えてくれ」

とりつくしまもない。唖然としたイリスに向かって次に発せられた言葉は「とりあえずまだ仕事があるから戻ってくれないか」だった。そのあいだ、フィネーロがこちらを見ることは一度もなかった。

 

「シャットアウトしてるのはそっちでしょうが!」

大総統執務室で吠えたイリスを、ガードナーがなだめる。レヴィアンスは集中モードに入っていて、こちらの話したことはおそらく一割も聞いていないだろう。この状態のときは誰が叫ぼうと目の前の仕事だけに意識を向け続け、他の何も見えないし聞こえない。それは彼の長所であり短所でもあるので、補佐が代わりに周囲に気を配らなければならない。ガードナーはその役割を、今日も完璧に果たしていた。

つとめて穏やかな声が、レヴィアンスに代わってイリスの相手をする。

「イリスさんは、遠まわしな話が苦手なんですよね。閣下と勝負をすることになったときもそうでしたから、私はわかりますよ」

「そうなんです。わたしに悪いところがあるなら、そう言ってくれれば直すのに。なんだかこの件に関しては、みんな煙に巻くばっかりで」

いつもならはっきり言ってくれるはずなのだ。ルイゼンに対してはイリスの態度が悪かったので、それは反省している。だが、少なくともメイベルやフィネーロは、明らかに普段と態度が違うし、その理由がわからない。納得できないのだ。

「直すなどという問題ではないから、言わないのかもしれませんよ。彼方立てれば此方が立たぬ、という状況なのかもしれません。イリスさんは全て立てようと頑張ってしまうので、それが無理なことをして疲弊してしまわないようにとの配慮なのではないでしょうか」

今の状況だけでとっくに疲れているし、これ以上厄介なことがあるのかと思うとげんなりする。こんなことならさっさと解決して、すっきりしてしまいたい。そもそもこれは、いったい何の話だっただろうか。

「お友達とは、どのような話をしたんですか」

「恋の話、ていうか、ゼンの話です。リチェはゼンのことが好きなので、それなら早く告白して付き合っちゃえばってわたしが言ったんです。ゼンは鈍いから気づかないだろうし……ん?」

そういえば、この台詞はリチェスタに対しても言ったのだ。そしてフィネーロ曰く、鈍いのはイリスのほうだという。とすれば、「人のこと言えない」はもしかしてここにかかっていたのだろうか。イリスが鈍くて何かに気づいていないから、そんなふうに言われたのかもしれない。では、何に?

疑問が浮かぶと同時に、ガードナーがゆっくり頷いた。

「なるほど。お友達が告白しさえすれば、必ず結実すると、イリスさんは考えているんですね。それはどうしてでしょう」

「だってリチェですよ。ガードナーさんは会ったことがないから知らなくて当然ですけど、リチェは可愛くて、賢くて、お淑やかで、まさに女の子のお手本って感じなんです。わたしとは真逆」

ドラマのヒロインの恋は必ず成就する。そしてそれを邪魔しようとする者は敗れる。それが当然なのだと、恋というものをしたことがないイリスは思っていた。メイベルはそういう展開になると「つまらん」と言ってそっぽを向いてしまうのだが、イリスにはどうしてそう思うのかがわからない。

リチェスタはイリスから見れば、典型的なヒロインだ。そんな彼女の恋が実らないわけはない。

「真逆ですか。では、お友達も不安になるかもしれませんね。現状でルイゼン君に一番近い女性はイリスさんなんですから」

「ゼンはわたしのことなんか男友達くらいにしか思ってませんよ。昔からそうですし」

「ルイゼン君はともかく、お友達にとってはイリスさんは憧れの女性なのでしょう。強くて優しくて逞しい。そんな自分と真逆かもしれない女性が好きな人の近くにいるのは、気になることかもしれませんよ」

ヒロインとは程遠い、と思っているイリスが、リチェスタにそんなふうに思われている可能性はあるのだろうか。たしかにリチェスタは、「イリスちゃんは強くて勇気があっていいなあ」とよく口にするけれど。それが女性らしさにつながるのかどうかはわからない。

「それにイリスさん、ルイゼン君の気持ちを知らないでしょう」

「ゼンの気持ち?」

知らないはずはない、と記憶を探ってみる。ルイゼンとリチェスタは昔から仲が良くて、リチェスタはルイゼンへの想いをイリスにこっそり打ち明けてくれて、ルイゼンは……。

「……そういう話は、ゼンとはしないなあ。でもゼンが誰かと付き合ってるような噂もないし」

「お付き合いはなくても、想い人はいるかもしれません。もしかしてそれがお友達ではない可能性だってあるでしょう。そうなったとき、イリスさんは、お友達とルイゼン君のどちらを応援しますか」

「そんなのって」

二人とも大切な友人だ。幼馴染で、親友だ。どちらか片方の幸せしか選べないなんて、イリスには考えられない。首を横に振ると、ガードナーが「そうでしょう」と目を細めた。

「イリスさんはどちらも応援したいですよね。けれども全部立てることはできない。これはなにも恋愛に限ったことではありません。人生の至る所で、似たような選択を迫られます」

これまでだって、きっと知らず知らずのうちに選んできているんですよ。そうは言われたが、自然に選び取ることと意識してそうするのとでは、まったく心持が違う。唸り始めたイリスの耳に、深い溜息が聞こえた。

「あのさ、ここは大総統執務室であって、子供お悩み相談室じゃないんだよ。もやもやが晴れないんだったら、外の巡回してこい」

「レヴィ兄、聞いてたの?」

「終わったんですか、閣下。では予定通り、女王陛下との会議に向かいましょう」

イリスの問いには答えず、レヴィアンスはガードナーにだけ頷いて、コート掛けに手を伸ばした。これから外に出る仕事があるなら、イリスも退散しなくてはならない。おまけに言われた通り、このあとは巡回の当番があるのだった。

「邪魔してごめんね、レヴィ兄。それじゃ」

部屋を出ようとしたとき、声だけが追いかけてきた。尋ね返す前に、扉は閉まったけれど。

――選択肢が増えるかもしれないし、増やすこともできるよ。

それがレヴィアンスからのアドバイスだったのだと思い返すのは、もっと先のことになる。

 

 

町の巡回中にトラブルが起きることはあまりない。小賢しいやつ、疚しいことがあるやつはこの時間帯を避けて行動する。暗い路地にも人影はなく、何か起きるなら巡回後。当分は軍人が来ないであろう頃を狙う。

わざわざこの時間帯に、それもイリスが近くにいる時に、尋常じゃない悲鳴が聞こえるなんてことは今までになかった。

「どうしました?!」

駆けつけたところには人だかりができていて、その中心には男と子供。震える子供の口は大きな手で塞がれ、逆の手にはナイフ。目的はわからないが、ひとりでおつかいにきた子供を突然襲ったのだと、近くの人が教えてくれた。

――わたしじゃ正確な判断はできないけど、見た感じでは危険薬物関連じゃなさそう。

そのあたりはあとででも調べられる。まずは子供を確実に助けることを考えなければ。イリスならひとりでもできる。相手の注意を惹きつけられれば。

――ひとりでやらなきゃ、他に誰もいない!

ナイフが子供に向いていないことを確認し、人混みから飛び出す。男がとっさにこちらへ顔を向けた、その一瞬があれば十分だ。眼の力を、ほんの少し開放する。

イリスと目が合った男が、ふらつきながら後退る。子供も引きずられて倒れそうになったところを、イリスが素早く奪って、見ていた人々のほうへ逃げるように促した。

これでもう遠慮はいらない。姿勢を保てないままの男の腕を掴み、ナイフを取り上げる。子供の無事と、女性軍人の流れるような動きに人々は沸いた。

それに構わず、イリスは男に問いかける。

「あんな小さい子になんてことするのよ。何が目的だったの?」

眩暈で満足に動けない男は、しかし、口元を歪ませる。嗤っている、と判断するより先に後方に気配を感じた。

「目的はあんただ」

人を分けてやってきていることに気づかなかった。すぐそばに迫っていたもう一人の男は、すでにナイフを振り上げていた。

蹴り飛ばすにも向こう側には子供を含めた群衆がいる。近すぎて剣を抜く暇はない。多少の傷は無視してナイフを叩き落とし、眼で相手の動きを完全に封じるのがベスト。

約八年の軍人生活は、考えるより先に体を動かす。相手のナイフに手を伸ばそうとしたその時。

相手の体勢が横に崩れる。イリスは何もしていないのに、まるでそれはスローモーションでもかけたかのように、目の裏に鮮明に焼き付いた。そのままゆっくりと地面に叩き伏せられた男は、少し間をおいて、わき腹を押さえる。ナイフはもうどこかに投げ出されてしまっていた。

壁が倒れたその向こうには、普通の人々がいるはずだった。けれども群衆から一歩踏み出したそこに、普通じゃない彼はいた。――イリスが知る限り、彼はとても普通の人間とは思えない。イリスのもつ眼は効かず、それどころか「美しい」と、「欲しい」とまで言った者が、記憶とさほど変わらない様子で立っていた。

「……バンリ、じゃない、あんたは」

手には棍。細身の長身に、真意が見えない微笑み。「やあ」と空いた片手をあげた彼は。

「ウルフ・ヤンソネン……!」

二年半ほど前、エルニーニャ中の貴族を震撼させた、元怪盗だった。

「久しぶりだね、イリス・インフェリア」