イリスが巡回から戻るまでに、街路で起こった障害未遂事件は軍に知らされていた。実行犯である二人の男は捕まり、早々に聴取が始まっている。
だが、彼女が軍に連れ帰ってきた青年に、ルイゼンは驚愕していた。なぜ彼が、ここにいる。
「おい、どうしてそいつが一緒にいる。首謀者か?」
メイベルが苛立ちを隠さず尋ねる。するとイリスが答えるより先に、青年がへらりと笑って言った。
「やだな、僕は今回の事件とは何も関係ないよ。君は相変わらず僕が嫌いなの、ブロッケンさん?」
「イリスの許可があれば今すぐ滅したいくらいだ」
「だめだよ。ウルフはわたしを助けてくれたんだから。それと軍に用事があったんだって」
イリスの言葉に、にこっと笑う青年。だが彼は無害そうな見た目とは裏腹に、過去にとんでもないことをしでかした人物なのだ。
「用事なら俺が聞こう。これでも一応佐官だ。下手な真似はするなよ、ウルフ・ヤンソネン」
「下手はしないよ、上手にやる。……ああ、冗談だから睨まないでよ、リーゼッタ君」
相変わらず真意が読めないやつだ。――ウルフ・ヤンソネン。かつて貴族家をターゲットに盗みを繰り返していた「怪盗」で、その前は軍人だった青年。その強さは鈍っていなければ、イリスに匹敵する。
だが、ルイゼンたちが彼を捕まえて、聴取と相応の刑罰の後に釈放されてからは、ずっとおとなしくしていた。イリスの前に現れることもなかった。だから顔を見るまでは、その存在を忘れていたといってもいい。
「で、用事って何なんだ。今までどこにいたのかは知らないしどうでもいいけど、わざわざ中央司令部を訪れるようなことなのか」
「なんだか、君も僕のことは嫌いみたいだね。でも僕は君たちを信用しているし、僕の恩人を貶めた人間に処罰を与えてくれた大総統閣下にも感謝している。そうでなければ、軍に頼みごとなんか、今でもごめんだよ」
一般応接室に通すと、ウルフは微笑んだまま、言葉の端にまだ残る禍根を滲ませた。
「軍じゃなく、閣下と君たちに頼みたい。でも君たちが信用する人になら、この件を預けてもいい。どちらにせよ僕ができることは少ない」
「何のことだ」
焦れて少し荒れたルイゼンの問いに、氷の色をした瞳が笑うのをやめた。
「……人身売買関係を、担当したことはある?」
巡回の報告書を手早く仕上げ、街で事件を起こした男たちの聴取に補足をする。まるで昼間の失敗の数々が嘘のように仕事を片付け、イリスは再び司令部を出て行った。
ここから近い小さな公園が、待ち合わせ場所だ。巡回から戻るときに、そこを見かけた彼が指定した。
「ウルフ、あんたずっと待ってたの? どこか店にでも入ってればよかったのに」
真ん中に立ち竦んでいた彼は、にこりと笑った。
「レジーナの中心街の店は、どこも入るのに勇気がいるよ。華やかな人たちばかりで。でもほら、屋台が出てたから、温かい飲み物は確保できた」
寒くなかったよ、とウルフは蓋つきのカップをイリスに差し出した。受け取ると熱く、指先がじんわりと痛む。
「ありがとう。いくら?」
「君はしっかりしてるね。いいんだ、僕の奢り。君のおかげで、軍への用事がスムーズに済んだ」
「それを言うなら、わたしだって助けてもらったんだから、割に合わないでしょ」
「ううん、合ってるよ」
さっきまでカップを持っていた、温かい手がイリスのこめかみにかかる髪を除けた。親指が目じりに触れる。
「僕は今でも、君の眼はこの世で最も美しいものの一つだと思っている。その力まで見せてもらったんだから、お礼に助けるのは当然じゃないか」
「相変わらず変なこと言うんだね」
手から逃れて、髪を直す。やたらと人に触れてくるのも、イリスの眼を「美しい」と褒めるのも、初めて会ったときと変わらない。変わったのは、彼がもう追うべき存在ではないということ。
「……今まで、何してたの? バンリさんに引き取られたんだよね」
釈放されたウルフは、恩人にして唯一身内と呼べる人、バンリ・ヤンソネンという元軍人に引き取られたはずだ。それからあとは、音沙汰がなかった。
「うん。レジーナからは少し離れた村に、バンリと二人で暮らしてるんだ。だけど半年くらい前から、レジーナにある警備会社で働いてる」
「あんた仕事してたの」
「してるよ。だからそのうち、君にも会えるんじゃないかと思ってた」
「なかなか会わないもんだね。わたしはレヴィ兄につきっきりだったせいもあるけど」
もう捕まえる必要がない、犯した罪もきれいに償った彼に、イリスが抱く気持ちは一つだ。――元気そうでよかった。身内も無事ならもっと良い。
「君には感謝してる。僕やバンリを、苦しみから救ってくれた。その力に縋りたいと思って、中央司令部まで来たんだ」
「何かあったの? そういえば、あんたから話聞いたあと、ゼンが戻ってこなかったんだよね」
ルイゼンが事務室に戻ってきたのは、終業間近のことだった。なにやら難しい顔をしていたが、それにかまわずに、イリスはここに来てしまった。
ウルフは笑みをほんの少し歪め、頷いた。
「レジーナで仕事を始めたのには、いくつか理由があるんだ。その一つが、裏組織と一部市民の手による人身売買の情報を集めることだった」
「人身……って、あんたまだそんなことに首突っ込んでたの?!」
国内のみならず、大陸中に蔓延る闇、裏社会。組織をつくって、違法な手口を使って生きている人々を、イリスたちは取り締まっている。危険薬物の取引が大半だが、ウルフのいう「人間のやり取り」もたしかに存在していた。
「まあ、聞いてよ。リーゼッタ君に情報は渡したから、近いうちに話があると思う。僕が手を出せるのはここまでだけれど、どうしても君たちに託したかった。貴族も絡んでるから、他の軍人はあまり信用できなくて」
「まだ、軍人と貴族が嫌いなの?」
「嫌いなわけじゃないよ。それに貴族の全てが悪いとは思っていない。君たちのような、真っ当な軍人がいるように」
そう言いながら、ウルフは上着を脱ぎだした。イリスが止めようとしたのも無視し、中に着ていたセーターの袖も捲る。あまり健康そうには思えない左腕が露わになった。
「……だけど良い人がいるのと同じくらい、そうじゃない人もいる」
腕にはいくつもの古い傷があった。古いけれど深くて、まだそれとわかってしまう。イリスは息を呑み、やっとのことで「いつの?」と訊いた。
「子供の頃、バンリに会う前。僕は貴族に買われて、家の主人の慰み者として生きていた。これは当時の折檻の痕で、体中がこんな感じ。やっとのことで逃げ出したのは、今日みたいな寒い冬で、バンリが助けてくれなかったら、僕は名前もないままこの世から消えていた。そんなことだから、僕は自分の実年齢を知らないし、親の顔も見たことがない」
名前と誕生日は、バンリが与えてくれた。彼がこの世でただ一人の身内となった。ウルフを痛めつけた貴族家は、バンリが条項違反で検挙し、貴族階級を剥奪された。それでもこの傷は、そう簡単には消えなかった。
「僕は幸福だ。バンリがいたから、今もこうして生きてる。でも今まさにつらい思いをしている人がいる。僕が情報を入手した裏組織の主な狙いは子供だった。子供や女性は特に狙われやすいんだ」
いつのまにかウルフは笑うのをやめていた。真剣な瞳は、真冬の寂しさをこれでもかというくらい詰め込んだような色に、鈍く光っている。
「君に、助けてほしい」
かつての彼なら、無理にでも自分の手で救おうとしていたかもしれない。けれどもそれには限界がある。怪盗は盗みを続けることはできなかったし、今は彼にも家族がいる。その人のためにも、この件はしかるべきところに託す必要があった。
イリスは地面に落ちた上着を拾い、土と雪を掃って、ウルフにかけ直した。
「話を聞いたら、助けないわけにいかないでしょ。ゼンがきっと、レヴィ兄にも報告してる。わたしたちに任せなさい」
にい、と笑うと、ウルフにも笑顔が戻った。そのまま距離をあけないうちに、抱きしめられる。すっかり身長が高くなったイリスを、余裕をもって抱きしめられるような人はそうそういないので、少しだけびっくりした。
「ありがとう。頼りにしてるよ」
耳にかかる吐息。柔らかく穏やかな声は、どこか兄に似ている。
「……あんた、こうやってすぐ人に抱きつくのやめなさいよ。子供じゃないんだから」
「ああ、ごめん。嬉しくてつい」
ウルフはそっと離れてから上着に袖を通し、それからポケットに手を突っ込んだ。畳んだ紙を取り出し、イリスの手に握らせる。
「これ、連絡先。何か進展があったら教えて。職場を訪ねてくれてもいいよ」
「わかった。教えられることはできるだけ伝えるよ」
「待ってる」
すっかり冷たくなった手が、また髪に触れた。今度は前髪を撫で、除けて、それから。
「じゃあ、またね。イリス」
額にあたった柔らかい感触に呆然としていたら、ウルフは吹き過ぎる風のように姿を消していた。夢ではなかったのだということを証明するのは、手の中の小さなメモ。
「今、あいつ、何した……?」
触れたのは、直後に「またね」と形作られた、自らの過去を語り、頼りにしてると言った、その部分。
「……っ、冗談がすぎるわ、あの馬鹿――!」
親族以外のキスも、こんなに顔が熱いのも、恐怖以外で心臓の音がうるさいのも、初めてだった。
「続けて様子がおかしいが、大丈夫か。昨日はどこに行っていた」
メイベルの問いに、今日は答えられなかった。巡回中に落とし物したみたいで、と適当にごまかしておいたが、おそらく通用していないだろう。
早ければ朝のうちに、ルイゼンからなんらかの話があるはずだ。それからであれば、うっかりウルフの話をしても大丈夫だと思っていた。だが、仕事が始まっても、そんな気配は微塵もない。
ルイゼンは午後から佐官による遠征任務に同行するという。行ってしまえば明日まで帰ってこない予定だ。イリスはその前に、ルイゼンを問い質すことにした。
それ以外の、昨日あったことなんか、もう忘れている。
「ゼン、ウルフの用事って何だったの」
メイベルの不在を狙って問うと、しかめっ面で返事があった。
「俺たちじゃ手に負えないこと。閣下に報告して、准将がリーダーの佐官グループで担当してもらうことになるから、イリスには関係ない」
「関係ないわけないでしょ。だってウルフはわたしたちを頼って来たのに」
物言いにカチンときて言い返すと、ちょっと来い、と事務室の外に連れ出された。そのまま向かったのは第三休憩室だった。
あまり広くはない部屋だが、二人でいるには十分な余裕がある。冬である今は寒いくらいだ。
「何でこんなとこに……」
「お前、あいつからどこまで聞いてるんだ」
こちらの呟きを遮ったルイゼンの声は、いつにもまして低い。
「どこまでって?」
「わたしたちを頼ってきた、って言っただろ。あいつがそう言わなきゃ、知らないはずだよな」
つい口が滑った。もともと嘘を吐くのは下手だし、まして幼馴染であるルイゼンを欺けるわけもない。ごまかしきれそうにないので、素直に白状する。
「人身売買の情報を託しに来たんでしょう。まだ軍は信用しきれないから、わたしたちにって」
「俺たちが信用する人間になら預けていいとも言っていた。だからそうしたまでだ」
「でもあいつは、わたしたちにって」
「尉官が担当できる仕事じゃないし、俺も経験がない。あいつも元軍人なら知らないわけじゃないだろうに、どうしてわざわざ指名してきたんだろうな。顔見知りからなら、軍の捜査がどこまで進んでるのか、情報を得ることができると思ったか。それさえわかれば、盗みをやってた頃のような無茶も、情報を裏に売ることもできる」
ルイゼンが言い切る前に、イリスはもう彼の胸倉に手を伸ばしていた。そんなことは、あるはずがない。いくらルイゼンでも穿った邪推は許せない。
「あいつが、ウルフがそんなことするはずない。信用してくれてる人を、どうしてそんなに疑えるの」
抵抗なく、表情も変えず、ルイゼンは答える。
「お前こそ、どうして前科がある人間をそう簡単に信じるんだ。何を言われて絆された」
「前とは違う。自分は手を出せないって、だからわたしに助けてほしいって、ウルフはそう言ってた!」
「イリスは頼られると弱いからな。そうやって騙されて、軍の情報を勝手に流されたくないから、俺はこの件を上層のプロに任せた。閣下もそのほうがいいと、人を集めてくれている」
部屋の机にしまってある、連絡先のメモを思い出す。進展があったら教えてほしいとは言われたが、誰でも自分の持ちこんだ話の続きは気になるものではないか。でも、イリスもここまで言われればわかっていた。そう返したところで、ルイゼンは「仕事への意識が足りない」と言うだろう。
情報提供者の安全のためにも、本来なら堂々と連絡をとって教えるなんてできないのだ。それを忘れていたのは、何故だろう。懐かしい人に助けてもらって、舞い上がっていたからだろうか。
「でも、だからって、あいつを疑うことないじゃない」
「お前が信じすぎなんだよ、イリス。俺はお前の上司として、お前を守る義務がある」
「あんたに守られなくたっていいわよ! だいたいあんた、一回もわたしに勝てたことないじゃない!」
叫びを掻き消すくらい大きな音が室内に響いた。もしかしたら、外にも聞こえたかもしれない。廊下が少しざわついた気がした。
近くにあった椅子を蹴り飛ばしたルイゼンが、イリスの手を掴んで自分から引き剥がす。
「そういう問題じゃねえんだよ。力が強けりゃなんでもできると思うな。特例で大総統補佐やってても、お前は経験の浅い尉官に違いねえんだ。閣下の暗殺未遂事件でちょっとは学んだかと思ったらこれだ」
軍に入ってからは滅多に見せなくなった挙動と口調。だが、幼馴染であるイリスは知っている。ルイゼンがどれだけ本気で怒っているのか、よくわかる。
「ウルフ・ヤンソネンが持ち込んだ件には、お前は関わらせない。あいつには関わるな」
第三休憩室を出て行ったルイゼンに、その日はもう会うことはなかった。
約十年ぶりの大喧嘩に落ち込んでいると、ガードナーがお茶を淹れてくれた。ハーブティーだ、と思ったところに、辛辣な言葉が飛んでくる。
「レオ、今日は甘やかさなくていいよ。イリスが明らかに悪いんだから」
「しかし閣下、落ち着かなければ自分の非を冷静に受け止めることも難しいですよ」
「十分刺さってます。わたしが悪いのはよくわかってます……」
そうでなければこんなに落ち込んでいない。考えなしの行動も、ルイゼンを傷つけたかもしれない言動も、これでもかというくらい後悔している。しかもそれをすぐに謝ることはできない。
「勝てたことないとか絶対禁句じゃん……。わたしだって、お兄ちゃんやレヴィ兄に勝てたことなくて悔しい思いしてるのに……」
「そうだな。それはルイゼンが帰ってきたらすぐ謝れ」
自分に出されたお茶を飲みながら、レヴィアンスは手元の書類を捲っている。添付されている写真で、それが軍に所属する者の個人データだとわかった。将官と佐官。この組み合わせは、もしかして。
「レヴィ兄、それって人身売買の件を担当する人たちの?」
顔をあげて書類を凝視するイリスに、レヴィアンスは溜息交じりに「まあね」と返した。
「目敏いなあ。気になるのはわかるけど、ルイゼンの言う通り、これは尉官の手には負えないよ。危険薬物関連より手口が巧妙だし、人間を扱うからか、裏で動いてるやつも手強い。何度か現場を経験してる人員を選んでるけど、それでも解決を見たことがあるやつはあまりいない」
「そんなに難しいの? ていうか、解決したことあるの?」
「イリスには話したことないよね。最後に人身売買のルートを潰して売られそうになった人を助けられたのは、四年前。ルーファをリーダーに、オレとニアがそれぞれの部下を連れて動いた。この意味わかる?」
メンバーと時期で、イリスには事の重大さが分かってしまう。現場慣れした大将級が三人も動かなければならなかったほど、難しい事件だったのだ。そして以降、他のルートが確保され、人身売買は続いたのだろう。つまり、精鋭を揃えても根絶やしにできなかったということ。たしかに経験の少ない尉官には任せにくい案件ではある。
「レヴィ兄は、今回は動くの?」
「数少ない経験者だからね。ただ、事件にあたれる人員は増やしておかないとあとで困るから、情報の真偽を探らなくちゃいけない現段階での担当は准将以下」
「それってわたしは」
「含まないよ。だからルイゼンが言ったことが正しいんだって。お前は情報提供者に近すぎる。ウルフ・ヤンソネンが完全に味方であることが証明されなきゃ、イリスには噂も聞かせたくないっていうのが、オレの本音」
レヴィアンスまでウルフを疑っているというのか。彼のことを詳細に調べたのなら、過去に何があったかも知っているかもしれないのに。イリスが睨んでも、レヴィアンスは眉一つ動かさなかった。考えを曲げる気は毛頭ないらしい。
「イリスさん、少し落ち着きましょう。お茶は飲みましたか?」
「でもガードナーさん、ゼンもレヴィ兄もちょっと一方的過ぎじゃないですか」
「私は妥当だと思います。ただの一般人にしては、彼の持っている情報は多すぎました」
「レオ、喋りすぎ。ヒントはそこまでにしてやって。……そういうことだからさ、イリス。この件は諦めろ。ウルフとの接触も禁止」
関わるな。接触禁止。重ねられる言葉が胸に刺さって痛い。そんなにもウルフは疑われているのか。憤慨しながらカップに口をつける。こんなふうに、彼も温かい飲み物を用意して、イリスと話すために待っていてくれたのに。大切なことを託そうとしてくれたのに、それを受け取れないのが悔しい。
――ああ、違う。疑われてるのは、ウルフだけじゃない。
ルイゼンはイリスのことも疑っていた。ウルフに入れ込んで情報を流すのではないかと。おそらく、レヴィアンスも同じように考えているのだろう。だから「噂も聞かせたくない」のだ。そういうことを軽率にしてしまうと思われている。
実際、そうしてしまうところだった。だからこれは、イリスが責められても仕方がない。
――信用がないのは、わたしも同じだ。
暗殺未遂事件以降、もう少し頼ってもらえると、信じてもらえると思っていたのに。大総統補佐としても、なかなかうまく振る舞えていた気がしていたのに。全部勘違いだったのか。それともこちらが調子に乗りすぎていたのか。
「……お茶、ごちそうさま。ゼンもいないし、事務室に戻らなきゃ」
ふらりと立ち上がって、イリスは大総統執務室を出ていく。扉を閉じてしまえば、部屋での会話はもう聞こえない。
「閣下、イリスさんには本当のことを話した方が良かったのでは?」
まだお茶が半分以上も残っているカップを片付けながら、ガードナーが言う。
「言ったらなおさら自分で動こうとするよ。自分が少しでも関わったことは放っておけないし、人を信用しやすい。親と兄貴にそっくりなんだもん、あいつ」
「ですが、イリスさんが自分の身を守らなければならないという意味でも、多少の注意喚起は」
「雑魚相手なら何も知らなくても十分戦える。一番厄介なのはやっぱりウルフだ。イリスの眼が効かない相手だし、そこそこ強いし、何より前科があるからさ」
レヴィアンスが煙草を取り出して咥えると、ガードナーはすぐに火をつける。この人の考えていることは大抵わかるようになった。「前科」の意味も知っている。
「閣下は、どこまでもイリスさんが大切なんですね。ルイゼン君も。……伝わればいいのですが」
「ルイゼンはともかく、オレは別に誤解されてもかまわないよ」
本当に「かまわない」なら、煙草を吸うことはないはずだ。この人も大概嘘が下手だなと、ガードナーは苦笑した。
終業後の、ほとんどの人が寛いでいる時間。男子寮の部屋のドアがものすごい音をたてて蹴られた。何事かと、部屋の主だけでなく、周りの部屋の住人まで驚いて出てくる。が、大抵の者はそこにいた人物を見て、気まずそうに戻っていく。彼女が男嫌いなように、多くの男性にとっても彼女は天敵なのだ。
「メイベル、もっと静かに訪問できないのか」
呆れながらドアに疵がついていないか確かめるフィネーロの問いを、メイベルは無視して尋ねる。
「イリスは来ていないか」
「ここには来ていない。昨日からちょっと気まずいんだ、僕のところには来ないだろう」
散々鈍いだの気の毒だのと言ってしまった後だ。さらにはイリスの過去を掘り返して、勝手な推測から余計なことまで指摘してしまった。その傾向があるなとは以前から思っていたが、わざわざ伝える必要はなかったと、フィネーロは後悔していたところだった。
「なんだ、誰も彼もそんな調子だな。イリスの様子がおかしいのは誰の所為だ」
「君には何も話してないのか」
「今朝は話してくれなかった。昨日の夕方から出かけていたが、どこで何をしていたのかは聞いていない。そしてさっきも黙って出て行ったんだ。いつもならメモくらい残していくのに」
不満そうなメイベルだが、自分に原因があるとは微塵も思っていないようだ。この自信が羨ましい、とフィネーロは小さく溜息を吐く。自分はともかく、ルイゼンには少し分けてやってほしい。頼れるリーダーは案外繊細なのだ。
今日だって、任務に出る前にフィネーロのいる情報処理室に駆け込んできた。「イリスに怒鳴ってしまった」と言って。彼女のことだからすぐに忘れるだろう、と送り出したが、はたして仕事になっただろうか。そんなことを考えていると、ドアをまた叩かれた。
「聞いているのか、フィネーロ。イリスがいないんだぞ。どこに行ったか心当たりはないか」
「君にないなら僕にだってない。イリスの兄さんにはもう連絡をとったんだろう」
「もちろんだ。兄君が来ていないと言っていた。匿っている様子もなかった。閣下は仕事中だったが、知らないという。エイマルにも電話してみたが駄目だった」
「そうか。イリスにも独りになりたいことはあるだろう。すぐに戻ってくるさ」
独りで考えたいことの心当たりならある。もしかしたら、「鈍い」と言われた意味に気づいたかもしれない。だがメイベルはまだ納得しないようだった。
「……なあ、フィネーロ。もしやあいつの所為ではあるまいな」
「あいつ?」
「変態盗人のことだ。お前は会っていなかったか」
メイベルがそんな呼び方をするのは一人しかいない。中央司令部に来たという話も聞いている。イリスと一緒にいたらしいから、その可能性がないこともないだろう。
「バンリ・ウルフ……ではなく、本名はウルフ・ヤンソネンだったか。彼がイリスに何かしたと?」
「十分考えられる。奴はイリスをべたべたと触りまくっているからな。とうとう決定的に手を出されて誰にも言えないのでは」
「いや、イリスに限ってそれはないだろう。襲われれば急所を攻撃して動きを封じたうえで訴えるほうに賭ける」
「……なるほど」
メイベルは頷いてはいるが、イリスのゆくえはわからないままだ。このまま捜しに出ていくかと思いきや、頷きながら部屋に入ってきた。
「何のつもりだ」
「ここで待たせてもらう。最近買った本はないのか」
「構わないが、眠くなったらちゃんと自分の部屋に帰れよ」
ついでにウルフのことを少し聞いておこう。そういえばルイゼンは何も言っていなかった。ただ顔を顰めているだけで、一言も。
白い息が空気に流れる。冷たい空気は、吸い込むと喉も胸も痛くなる。温暖なはずのこの国の冬だが、今日は一層寒い。今はそのほうがいい。頭が少しはすっきりする。
夜の街を、頭に入っている地図を頼りに走る。手には一応、貰ったメモ。電話番号ととある警備会社の名前が書いてある。知っている名前だった。場所もすぐにわかった。まだ勤め先に彼がいるかどうかはわからないので、これは博打だ。
いたら少しだけ話す。いなければ金輪際会うことは諦めて、メモも捨てる。そう決めて飛び出してきた。
「……ここだ」
はあ、と大きく息を吐く。目の前が白くなって、すぐにひらけた。社屋にはまだ人がいるようだ。しかし来たはいいが、どうやって訪ねよう。
「そこまで考えてなかった……やっぱりポンコツだ、わたし」
そもそも接触禁止と言われたのに、どうして会おうとしているのだろう。疑われるのが嫌なら、今はおとなしくしていたほうが絶対にいいのに。けれどもそれが性分ではないこともわかっている。
レヴィアンスは何か罰を与えるだろうか。ルイゼンに知られたら、もう二度と口をきいてくれないかもしれない。
「イリス?」
不意に名前を呼んだ柔らかい声に振り返ると、会ってはいけないその人がいた。
「ウルフ……。え、なんで後ろに? 仕事は?」
「これからだよ、今日は夜勤だから」
笑顔に偽りがあるとは思えない。つらい思いをしている人を助けたいという気持ちは本物だと信じたい。
だから会いに来たのか、と今更腑に落ちた。誰が何と言おうと、イリスだけは信じていたかったのだ。
「僕に会いに来てくれたの?」
問われて、心臓が大きく跳ねた。脈拍が早くなった気がする。
「あ、会いに来たっていうか……会社が気になったの。ほら、ここってディアおじさん……ええと、『赤い杯』の警備をしてた人が、勤めてたところだから」
「うん、そうだよ。僕みたいな訳ありでも雇ってくれる親切な会社だ。それに君の言う通り、『赤い杯』の事件で亡くなった人のいたところだから、縁が欲しかったんだ」
メモを見てすぐに気づいた。そうしてイリスも、これは贖罪のつもりだろうかと思ったのだ。ウルフの身内であるバンリ・ヤンソネンが軍を辞めて姿を消していたことと、過去にあった博物館襲撃事件は繋がっている。
「バンリさんは、ここで働くことについて何か言ってる?」
「ウルフがしたいようにすればいいって。悪いことじゃなければ、だけれど」
「当たり前じゃん。次そんなことしたら、またわたしが捕まえてあげるよ」
「それはそれで理想的だな」
穏やかな笑み。その奥が読めない、不思議な表情。でも今は、少しでもいいからわかりたかった。
「……笑ってないで否定してよ」
疑われるようなことはしないと、そんな要素は持っていないと、証明してほしかった。
「もう無茶はしないって。今回のことだって純粋な情報提供だったんだって。また捕まるなんて全然理想的じゃないって、ちゃんと否定して」
イリスの言葉に、ウルフは首を傾げる。それから、笑みを保ったまま尋ねた。
「もしかして、僕、疑われてる?」
「わたしは信じてる」
「じゃあ他の人が信じてくれてないのか。リーゼッタ君、僕が話すあいだもずっと機嫌悪そうだったし。閣下もそう簡単には前科者のことを信用できないよね。それは当然だ」
「でも、わたしはそんなの理不尽だと思う。色々考えたけど、やっぱりウルフは、もう悪いことはしないって信じる。バンリさんと一緒にいて、ここで働いて、そんなことできるわけない」
もう関わるなと言われても、捜査の進捗は教えられなくても、それだけは伝えたい。伝わってほしい。ちゃんと軍にも味方はいるのだということを、知っていてほしい。
真っ直ぐに目を見ても、ウルフはイリスを恐れたりしない。気味悪がって遠ざけたりしない。それどころか近づいてきて、手を伸ばし、抱き寄せる。
急に心臓が鼓動を速めた。心音もうるさい。でもウルフにはまるで聞こえていないようなので、きっと気のせいだ。
「だから、子供じゃないんだから、こういうことは……」
「ごめんね。どうやって嬉しいのを表現したらいいのか、他の方法が思いつかなかった。バンリは昔からこうしてくれたから、きっと僕にもうつったんだ」
「……そういうことなら仕方ないな。わたしもお兄ちゃんとかに抱きついたりするし」
「なんだ、君だって同じじゃないか」
そうだ、これは親愛を表す行動で、それ以外の意味なんてない。だったらどうして兄らと違って緊張するのか、その説明がつかないけれど。
「イリス、君は僕の味方なんだね」
「そ、そう、わたしはウルフを信じるし、味方になりたい。でも、やっぱり情報はあげられない。あんたの持ってきた話はわたしが担当するには難しすぎて、ゼンは上に任せる判断をした。わたしにもこれからのことはわからないし、わかっても教えられない。それがわたしの……わたしたちの仕事だから」
「だろうね。一応僕も軍人だったことはあるから、事情は呑みこめる。でも、僕の希望は君だったから、できるならと思ったんだ。担当する上の人は、信用できる人?」
「レヴィ兄が真剣に選んでたから、ちゃんとした人たちだよ。だから安心して、解決するのを待ってて」
「それならいい。僕はイリスを信じてるから、イリスが信じる人ならいい」
ホッとした。これでもまだイリスから情報を引き出そうとしたなら、疑わなければならなくなっていた。軍に裏切られた人が、軍を信用してくれるようになった。それはイリスたちのしたことが無駄ではなかったということでもある。
もうウルフを追わなくてもいい。そして、会わなくてもよくなってしまった。こちらに完全に任せてくれるのなら、もう会って言葉を交わす必要はない。イリスの仕事は本当におしまいだ。
――ホッとしたのに、それはちょっと、寂しいなあ。
気持ちが頭をよぎるあいだに、ウルフはイリスから離れる。体温が一気に奪われて、体が震えた。
「あんた、温かいんだね。急に寒くなった」
「そう? 体温は低めな方だよ。風邪ひくと困るから、帰ってちゃんと温まってね」
「風邪とかめったにひかないから平気。レヴィ兄が、なんとかは風邪ひかないっていうもんな、ってからかってくるくらい。自分だって風邪ひかないくせに」
ウルフが声をあげて笑う。イリスもつられて笑った。いや、本当に笑えてきたのだ。これも否定しなさいよ、と軽くウルフの胸を叩くと、ごめん、という言葉が耳に、何かが手に返ってきた。
紙、いや、チラシだ。魚が泳いでいる写真に、大きく「海の生物がいっぱい!」と書かれている。
「水族館?」
「最近仕事で通ってるんだ。イベントもやってるみたいだから、一緒に行かない?」
「いいね、行きたい!」
即答してしまってから、我に返る。もう会ってはいけないのに、こんな約束なんかできない。いや、でも、あれは仕事の話で、プライベートまでは縛られたくはなくて……。
悩んでいるあいだに、ウルフは「そろそろ行かないと」と社屋を見上げる。そういえば、彼はこれから仕事だった。
「休みの日がわかったら連絡がほしい。待ってるから」
「え、ちょっと、……わたし」
もう会えない、と言えなかった。言いたくなかった。こちらから連絡をするのは難しいだろう。部屋の電話を使うにはメイベルの目を潜り抜けなければならない。でもウルフは、イリスからの連絡を待ち続けるのだろう。それならもう一度くらいは頑張らなければ。
チラシを丁寧に畳んで、ポケットに連絡先のメモと一緒にしまいこんだ。元来た道を戻る途中、何度かくしゃみが出た。
よく晴れた空を、飛行機が白線を引きながら走る。消えかけた線を辿っていくと、そこには空港がある。
レジーナから少し離れたそこには、大陸のそこかしこからやってきた人が集まっている。その一角で騒ぎがあったという報せを受け、レヴィアンスは仕方なく向かうことにした。
イリスがいれば頼んでしまうのだが、今日はいない。風邪で寝込んでいるそうです、と電話を受けたガードナーが驚いていた。あの健康優良児が、珍しいこともあるものだ。
「でもどうするかな。執務室空けるわけにいかないから、レオには残ってほしい。あと面識があるやつといったら……ルイゼンはまだ任務に行ってるし……」
「イリスさんの代理ができるのは彼女でしょう、閣下」
「……レオ、本気で言ってる?」
などというやり取りの末、レヴィアンスの運転する軍用車両の助手席には、メイベルが乗ることとなった。腕組みをしながら、何度か舌打ちをしている。
「イリスの代理なら仕方がない。仕事の内容もまあわかった。だが閣下の隣というのは最高に気に食わないですね」
「悪かったって。でも、人見知り激しいメイベルが、あの人には結構すぐうちとけてたじゃん」
「イリスに手を出す心配がないので」
「妻子持ちだからね」
空港であった騒ぎというのは、危険薬物を密輸しようとしていた者を、こちらに着いたばかりの者が見つけて取り押さえたというものだった。せっかく休暇で帰ってきても、彼は毎度この調子で、その結果プライベートなのでしなくてもいいはずの三派会を開かせることになる。休みなんだから休めばいいのに、仕事をしてしまうので要人扱いになってしまうのだ。
はたして空港には、拘束された密輸犯と、北の大国ノーザリアからやってきたその人物が待っていた。片や顔を真っ青にし、片やこれ以上ないくらいに晴れやかな表情をしている。
「久しぶり、レヴィ。……と、メイベル? イリスはどうしたんだ」
「車の中で説明するよ。とりあえず密輸犯は担当者に引き渡して、ダイさんはこっちに」
「え、こいつ最後まで責め抜きたい」
「やめてあげて。ダイさんだってせっかくの休暇無駄にしたくないでしょ。エイマルちゃん待ってるんだから、早く」
イリスが熱を出している間に、ノーザリア王国軍大将ダイ・ヴィオラセントの、少し遅くて少し長い冬休みが始まろうとしていた。