せっかく帰ってきたのに大雪降るのはちょっとな。イリスが風邪をひいたと聞いたダイの反応である。それくらい珍しいことで、ずっとイリスと同室で生活しているメイベルも、未だに信じられない。

空港でダイを拾ってから司令部に向かうまでの車内の会話は、ここから始まった。

「昨夜、独りで外に出てたらしいんだよね。メイベルにも行き先告げてなかったみたいで、オレのとこにまで連絡来てさ」

「本人は、行き先のない散歩だから言いようがなかった、とか言ってごまかそうとしていた。だがイリスは嘘が下手くそだ。絶対に何か目的があったはずだ」

レヴィアンスに続いてメイベルが発言すると、ダイは助手席で「ほー」と聞いているのかいないのかわからない返事をした。話を聞く態度としてはなっていないが、メイベルは彼が嫌いではない。最愛のイリスに手を出さないことがわかっているため、そして執着したものに関わるときに手段を択ばないところに親近感が持てるためだ。この二つが揃って、初めてメイベルの眼鏡にかなうことになる。ついでに、もうレヴィアンスの隣には座りたくないという我儘を笑って聞き入れてくれたこともある。

「昨日はエルニーニャも大寒波だったらしいからな。どうせイリスのことだから、薄着で飛び出していったんだろ」

「さすが大将、よくわかってますね。防寒具はコートだけでした。それでもいつもなら、風邪をひくなんてありえないのですが」

話聞いてたんだな、と口に出すのを我慢して、敬語を使う。オレに対する態度と違う、という大総統閣下のぼやきは無視した。

「でもさ、本当に風邪で熱出たのかは怪しいよね。最近あいつ色々あったから、知恵熱なんじゃないの」

「お前の暗殺未遂以外の何があったんだよ」

「親友と意思疎通がうまくできないとか、ルイゼンと喧嘩したとか」

「喧嘩なんかするのか? 原因は?」

「イリスが担当できない事件に関わりたくて余計なことまで言って、ルイゼンを怒らせた。イリスの気持ちもわからなくはないけどね。信じたい人を疑わなくちゃならないのは、あいつにはきついよ」

しばらく前席二人の会話を黙って聞いていたが、唐突に知らない情報が入ってきた。イリスがルイゼンと喧嘩したらしいという話は、昨夜フィネーロから聞いた。だがその原因まではわからず、当人が不在ということもあって追究はしていなかった。

担当できない事件とは、信じたい人を疑うとは、どういうことだ。

「閣下、その話をもっと詳しく聞かせろ。事件とは何のことだ。イリスは誰を信じたいんだ」

「げ、話しすぎた。メイベルは聞いてなかったのか……」

しまった、という顔がバックミラーに映った。その隣で笑うダイは、暢気に言う。

「レヴィ、お前『閣下』があだ名になってるな」

なっているのではない。メイベルにとっては「そうだった」。だがそんなことよりも、今はイリスだ。

予想はこの一瞬で組み立てた。メイベルは中央司令部に来たウルフの姿を見ているのだ。あいつが関わっているに違いない。

 

予定になかった休みができてしまった。体はだるいが、動けないわけではない。発熱も今がピークだろう。――今、イリスはこの部屋に独りだ。

昨夜コートのポケットにしまい、今は机の引き出しに隠すようにしてある、メモとチラシ。メイベルがいないうちなら、電話がかけられる。確認すると、非番の日は案外近く、レヴィアンスや他の近しい上司なら体調も考慮してきちんと休ませてくれるだろうという確信もあった。

布団の中で、外出の言い訳も考えた。協力はすぐに得られるだろう。

「こんなずるいこと考えるなんて、わたしも悪くなったなあ」

口ではそう言いながらも、なんだか楽しい。もちろんレヴィアンスやルイゼンの言いつけを破ることになるから、罪悪感もある。大事なことのはずなのに、気分はまるで幼い頃に母の目を盗んでひとりで遊びに出かけたときのよう。

――そういえば、リチェやゼンと友達になるまでは、勝手に遊びに行くと怒られたっけ。

四歳の頃に誘拐されるという事件があってから、しばらく家族はイリスの行動の把握に努めていた。大人と一緒に行動すること、どうしてもひとりで出かけたいときは必ず行き先を告げることを、強く言い聞かせられたものだ。約束を破ると、帰ってから母にきつく叱られた。

「また叱られるかな。……叱られるだけで済まないかも」

そうなったら、どうしよう。最悪のパターンとして、軍を辞めることになったら……そのときは、あの親切だという会社あたりが、イリスを雇ってはくれないだろうか。

「いやいや、レヴィ兄だってゼンだって、そこまではしないよ。ウルフの疑いをわたしが晴らせば、心配事なんてなくなるじゃん。でもそのためにはまず、わたしが信用されなくちゃならない……」

すでに「まず」の部分で躓いている。深い溜息を吐いてから、イリスは電話に向かった。机の中のメモを忘れずに。

 

 

緊急の三派会は、挨拶と説教だけで早々に終わった。ダイが休暇で帰ってくるときは、外交扱いにはならないので、本来この手続きはいらない。だが、空港で「仕事をした」となれば別だ。他国の軍人がエルニーニャで発生した事件に関わったということになってしまうので、一応報告が必要になる。

「アーシェ、相変わらずすごい剣幕だったな」

「わかっててどうして怒らせるのさ……」

他人事のように言うダイに、レヴィアンスは呆れ果てていた。ついでに疲れてもいる。イリスの件を、メイベルに「業務に差し障りがない程度」に伝えるのは骨が折れた。さらに苦手な三派会となれば、体力も精神力も限界だ。

「寄り道しないで帰ってよね。エイマルちゃんもお土産待ってるだろうしさ」

「俺じゃなくてお土産か」

「もちろんお父さんのことだって待ってるんじゃないの。いいから早く帰りなよ」

ダイの滞在期間は一週間らしい。ここ何年かを考えると休暇としては異例の長さだが、今回はノーザリア情勢が安定しているということで、補佐が融通してくれたそうだ。上手に人を育てていれば、椅子を離れても部下がちゃんと守ってくれる。

レヴィアンスの部下たちだって負けてはいない。今だって、執務室はガードナーがしっかりと守り、仕事を着々と片付けてくれている。将官、佐官は直接手をかけて育てた精鋭たちが務め、若い力もよく育っていると胸を張れる。暗殺事件を未遂に終わらせることができたのは、彼らのおかげだ。

あとはレヴィアンス自身がしっかりすれば、部下たちも安心できるのだろうが。

「レヴィ、悩みでもあるのか」

ようやく家へ向かって歩き出したはずのダイが振り返った。この人に覚られるなんて、今日はよほど疲れているのだ、きっと。

「は? ないない、そんなの。あっても話すようなことじゃないから大丈夫。それより」

「わかった、帰る。今日は帰るが、俺がこっちにいるうちに時間作れ。お前にも土産がある」

「それはどうも。じゃあ戻って仕事片付けて、スケジュール空けとくよ」

今考えているいくつかのことや、抱えている些細な問題を、この人は気づいて聞いてくれようとしている。昔はもっと傍若無人だった気がするけど、と思って、気づかれないように笑った。

 

ドアを開けたら娘と妻に会えると思っていただけに、声のトーンはあからさまにがっかりしてしまった。

「なんだ、お義父さんかあ……。ただいま戻りました……」

「戻って早々に家主に喧嘩を売るとはいい度胸だな」

出迎えたブラックが言うには、グレイヴとエイマルは待ちくたびれて買い物に出てしまったらしい。「待たせたほうが会ったときに感動があるかと思って」と言うと、「馬鹿か」と睨まれた。

「勘違いすんな、待ってるやつをわざと待たせてんのは甲斐性ねーんだよ」

「あ、それさっき全く同じことをアーシェに言われました」

「言われんなよ、こういうことを」

親しみを込めた文句と、台所から流れてくる家庭料理の匂い。この場所に来ると、ダイの胸の中にくすぐったさと罪悪感が同時にやってくる。今は前者の割合が多くなったが、少し前までは後者が圧倒的に重かった。ブラックを「義父」と自然に呼べるようになったのも、一昨年からだ。

「お前が送ってくれた肉、先に着いてたから処理しちまった。今回はなんだあれ」

「鹿です。獲ったのを適当に捌いたんですけど、但し書きとかつけたほうが良かったですか」

「あった方がお前も美味い飯が食えるぞ」

「ここのは何でも美味いです」

いつもの部屋に通され、いつもの場所に荷物を置く。土産一式は分けておく。一週間のスケジュールをある程度は決めておこうと、手帳を取り出したところで。

「ただいまー!」

少女の明るい声がした。

「あ、お父さんもう帰ってきてる! お父さーん、おかえりー!」

「こら、エイマル! 靴はちゃんと揃えなさい!」

久方ぶりの賑やかさ。これから一週間、この家で家族として暮らす。

「ただいま、エイマル。またちょっと背が伸びたか?」

「お父さん、いっつもそれ言うね」

「アタシもいつもの言っていい? 遅いのよアンタ。またレヴィに世話かけたんでしょう」

「グレイヴはいつ見ても美人だな」

「人の話を聞きなさいよ」

くすぐったい家だ。ここにいるあいだは、まるで自分がまともな人間のようだ。

食事をしながら、休暇中の予定を埋めていった。ダイが予定していることといえば、下宿に顔を出すことと、レヴィアンスと酒を飲むことくらいだ。あとは決めてもらう。

「お父さんとおうちでごろごろしてー、遊びにも行きたいな」

エイマルがにこにこしながら言う。おうちでごろごろはともかく、遊べるところはどこかあっただろうか。気がついたらなくなっていたり、増えていたりするので、事前調査が必要だ。

「どこがいい? 遊園地か、水族館か」

「水族館は行く約束してるから、他のところ。おでかけとお父さんのお休み重なっちゃった」

「そうだったのか。誰と行くんだ? イリスは熱出して寝込んでるみたいだけど」

「でもイリスちゃん、今日誘ってくれたんだよ。熱は当日までに気合で下げるからって。あのね、ニール君のお誕生日のお祝いも兼ねてるんだって」

風邪の割には随分と元気そうだ。しかし、イリスなら完全に治るまでは子供に接触しないようにするとか、考えていそうなものだが。ニールの誕生日だから焦っているのだろうか。それにしても、祝うだけならあとでも良さそうだ。

「ニールの誕生日っていつ?」

「今月の末だよ」

「まだ先じゃないか。やけに急いでるな」

思ったことをそのまま口にすると、グレイヴも何か考えるように首を傾げた。

「アタシも少し気になってるの。あの子、いつもはエイマルやニールの都合に合わせてくれるのに、今回は自分の都合にこの子たちを付き合わせたいみたいだった。変よね」

ダイの脳裏に、昼間の車内でのやりとりがよみがえる。イリスがやりたかった仕事を、ルイゼンが難易度を判断して上層にまわしてしまった。それで言い合いになり、大喧嘩に発展した。どうやらイリスがその仕事に関わりたかった理由は、依頼主が指名してきたからであるようだ。――依頼主のことならダイはよく知っていた。ウルフ・ヤンソネンには直接会ったこともある。

メイベルは「イリスをあの変態盗人から遠ざけるのは当然だな」と頷いていた。ルイゼンとメイベル、そしてレヴィアンスはウルフに疑いを持っている。おそらくレヴィアンスだけは、別の種類の疑念がある。

そしてイリスだ。喧嘩くらいで、指名された仕事から簡単に身を引くような子だろうか。どうにも挙動がおかしいように感じる。

「……エイマル、水族館は楽しんでおいで。そして帰ったら、俺に話をたくさん聞かせてほしい」

「うん!」

イリスには借りがある。返せるものなら、手伝ってやりたい。

 

メイベルが仕事から帰ってきたら、元気に振る舞って出迎えるつもりだった。実際、熱はもう下がっているし、明日からはイリスも仕事に戻れそうだ。

ところがノックに反応して勢いよく開けた戸の向こうには、意外な人物が立っていた。

「風邪にしては元気だな。仮病か?」

「……ゼン、なんで……」

昨日大喧嘩をしたはずのルイゼンが、何事もなかったような顔をしてそこにいる。もっと怒っているものだと、どうやって謝ろうかと思っていたのに。

「台所借りるぞ。メイベルから許可は得てる」

返事をする前にあがりこんでくる。そろそろとついていくと、ルイゼンは持ってきた袋から果物を取り出して並べ始めた。

「桃? 季節はずれじゃないの?」

「だよなあ。だから美味いかどうかはわからない。でも具合悪い時はこれが一番だって、お前もリチェも昔から言ってただろ」

「……わざわざ、わたしのために? そんな昔のことよく覚えてたね」

「イリスはともかく、リチェはよく風邪ひいてたからな。そのたびに見舞いに行ってたんだ、忘れるほうが難しい」

剥いてやるから待ってろ、と言われて台所から出る。たしかにリチェスタは体が弱かった。それをよくこうして見舞っていたのなら、彼女がルイゼンを好きになるのもわかる気がする。イリスだって、喧嘩の後ということもあるが、普段通りのルイゼンが来てくれたことが嬉しい。

しばらくおとなしくしていると、切った桃の載った皿を持って、彼はこちらにやってきた。

「残りはシロップ漬けにしておいたから、明日の朝にでもメイベルと食って」

「おお、あんたそんなことできたの」

「トーリス大佐に教わった。あの人の趣味は剣とお菓子作り」

「そりゃまた意外な」

季節はずれの桃も意外と美味しかった。一口をじっくり味わってから、イリスはルイゼンに向き直る。貰ってばかりではいけない。言わなければならないことがある。

「ゼン、ごめん。昨日の……カッとなって、最低なこと言った」

ルイゼンは一瞬目を見開く。けれどもすぐにまた、普段の表情に戻った。

「俺も言い方間違えたなって思ってて。ガキ大将時代は封印したはずなのにな。悪かった」

「あれくらい怒るのも当然だよ。仕事と勝負は関係ないもん。仕事はゼンのほうがずっとできる。上の人に任せるって判断も正しい」

イリスが黙ると、ルイゼンもしばらく何も言わなかった。やがて小さく息を吐いて「そうか」と呟いたとき、困ったように眉を寄せていた。

「あの、またまずいこと言ったかな、わたし」

「言ってはいない。……言わなかったなと思っただけ。お前って本当に強情だな」

「謝ったのに強情って何よ。でも失言がなかったならホッとしたよ。リチェにも変なこと言っちゃったみたいで、ちょっと怒らせたんだ」

「リチェを怒らせるなんてよっぽどだぞ。何言ったんだよ」

しまった、また口が滑った。リチェスタがルイゼンを好きなことは、本人から言わなければ意味がないし、そもそもイリスから告げるのは、リチェスタの気持ちを蔑ろにすることになってしまう。「まあ色々」と言葉を濁すと、ルイゼンはまた溜息を吐いた。

「早く仲直りしろよ。じゃないとイリスはいつまでも調子がおかしいままだし、リチェだって落ち込む。そんなお前たち、俺はいつまでも見ていたくはないからさ」

そろそろ戻るというルイゼンに合わせ、イリスも立ち上がる。部屋の外へ続くドアまで見送り、彼の笑顔を見た。

「風邪、ちゃんと治せよ」

「うん。もう大丈夫だから、明日にはもう出るよ」

「そんなに早くなくていいよ。メイベルとフィネーロも心配してたから、明日くらいは寝てていい」

その優しさを昔から知っているつもりだった。ガキ大将として暴れていた幼少期も、軍人を本気で目指すようになってからも、イリスの上司として目の前に現れたときも。いつだってルイゼンは、他人を気遣うことを忘れない、優しい人物だった。

そんな彼の言葉を無視する。関わるなと言われた人物に、また会う約束をした。仕事ではなくプライベートだから関係ない、エイマルとニールも一緒だから問題ない、というのはとても下手な言い訳だ。

明日仕事にきちんと出て、まともに仕事をしたとしても、この罪悪感は拭えない。ルイゼンが優しくするから、比重が大きくなってしまった。イリスの心の中に天秤があったとしたら、きっと大きく揺れていることだろう。

「ごめんね……ゼン」

呟いてから、そういえば「ありがとう」と言っていない、ということに気がついた。

 

 

風邪で寝込んだ翌日から、熱はもうないからとマスクをしたまま仕事に復帰したイリスは、咳もくしゃみもないからとさらに翌日にはマスクを外して完全復活を遂げていた。本当に知恵熱だったのかもしれない、とレヴィアンスが言うと、ガードナーは苦笑した。

「イリスさんは閣下がお考えになっているより、色々と思うところがあるかもしれませんよ?」

「そうかもね。今のところ不穏な動きもないし、このまま何事もなければいいんだけど」

意外なほど、復帰後のイリスはおとなしい。かといって黙々と仕事をしているわけでもなく、すっかり元の調子に戻ったようなのだ。ウルフのことなど、忘れているように。

「閣下は、昨夜はニアさんたちのお家に行ってらしたのですよね。イリスさんのことはお話されましたか?」

「熱を出したことと、まあ一応例のことの報告をちょっと。ダイさんもいたから、相談したいとも思ってたし。ニアはあんまり心配してないみたいだった。イリスはちょっとやそっとのことじゃ動じないだろうってさ」

「ああ、ヴィオラセント大将もご一緒だったんですね。ルーファさん、胃を痛めてはいらっしゃいませんでしたか」

「そのへんはいつも通り。意外だったのがさ、ダイさんがニールを認めてたことだね。なかなか見どころがあるって褒めてた」

そうして笑ったあと、レヴィアンスはダイと二人でいるときの会話を思い出した。ニアたちの家を辞してから、二人で夜道を歩いていたときのことだ。

――イリスに起こっていることはだいたいわかった。厄介な問題だが……それにうちの娘が巻き込まれたりはしないだろうな?

真剣な表情だった。危険薬物関連事件を追っているときの恨みを湛えたものとはまた違う、真面目に仕事に向かうときの顔だ。思わず「なんで」と尋ね返してしまった。

――近々、イリスがエイマルとニールを連れて遊びに行くと言っていただろう。ニールも楽しみにしていたな。もしもそこを狙われたら、と思って。

ニアとルーファは大丈夫だと言っていた。イリスがいるなら、万が一の事態でも切り抜けられるだろうと。レヴィアンスも同じように考えていたので、ダイがこれほど心配しているとは思っていなかった。

――気にしすぎなだけだといいんだが。エイマルを誘うときのイリスの様子が、いつもと違ったみたいなんだ。熱を出しているはずのタイミングで誘うこと、あらかじめ日付を指定していること。後者は休みの都合があるからかもしれないが、前者は不自然だろう。

たしかにそうだ、と思った。ニールが「イリスさんから連絡をもらって、楽しみにしているんです」と嬉しそうに語っていたときは、特に気にしなかった。だが、改めて考えてみると奇妙なタイミングだ。風邪なんていつ治るという確証がないのに、熱が下がってもしばらくは感染の可能性を考えなければならないものなのに、イリスは予定をつくって押し通そうとしている。普段ならそんなことはしないはずだと、レヴィアンスにもわかった。

「あのさ、レオ。次のイリスの非番って、明日だよね。いくらイリスでも、それまでに風邪を完治させられるかな。実際治ってるから、今更だけど」

「イリスさんなら可能かもしれませんが、必ずとはいえませんね。ぶり返すかもしれません」

「だよねえ。わかってないはずないんだけどな……」

行き先はわかっているから、監視をつけるまではしなくてもいい。だが、何が起こるのか、何が起こっているのかはわからない。それに、寒い夜にわざわざ出かけて行った日のことも、何もわかってはいないのだ。何をしていたのかはレヴィアンスも尋ねたが、「突発的な散歩」としか返事がなかった。

大寒波に襲われているというのに、突発的な散歩も何もない。だが、深入りはしなかった。こっちはこっちで、イリスに知られると厄介なことを抱えている。

「ご心配なら、私がついていって見てきましょうか」

「いや、それはしなくていい。したくないし。オレはこれでも、イリスを信用してるんだ」

何も起きやしない。起きても問題なく片付けられる。イリスが子供たちから目を離すことはないだろうし、子供たちもイリスから離れることはないだろう。

きっと気にしすぎだ。ダイも、自分も。

 

 

ワインカラーの、ボトルネックのセーター。胸元にはビジューの飾りが光っている。それにお気に入りのロングスカートをあわせた。仕上げは髪を一つに束ねたシュシュ。なかなか使う機会がなかったが、今日はまさにそのときだろう。

いつもの非番の日に比べて随分とめかしこんだイリスは、何度も鏡をチェックする。そこへひょいと、メイベルの顔が覗いた。

「素晴らしい恰好だな。デートか?」

デート、という単語にどきりとしたが、いつもエイマルと出かけるときなどに使われる言い回しだ。焦らず、落ち着いて、返事をする。

「エイマルちゃんとニールと一緒にね。ニールの誕生日が近いから、お祝いしようと思って」

「お前は本当にちびっ子に甘いな。ちびっ子たちが羨ましいよ」

メイベルは本を読んで過ごすらしい。フィネーロとルイゼンは、それぞれ仕事だそうだ。レヴィアンスは毎日そうしているように、大総統執務室に詰めている。

誰も知っているはずがない。そしてこのあとも知らずに終わる。今日の外出の、もう一つの目的を。

寮を出て、まずはエイマルを迎えに行った。玄関先で迎えたのは、可愛らしいポシェットを提げたエイマルと、送り出そうとするダイだった。

「ダイさん、お久しぶりです。お休み楽しんでる?」

「おかげさまで。今日はイリスにエイマルを取られるから寂しいけど」

「だからお父さんも、お母さんとお出かけして来ればいいんだよ。あんまりデートしたことないって言ってたよね」

靴の爪先でとんとんと床を蹴り、エイマルは屈託なく笑う。「そうだな」と同じ表情で笑い返したダイに、イリスは少し驚いた。いつぞやに比べたら、かなり穏やかな表情だ。

「そんなふうに笑えるんだね、ダイさんも」

「お前のおかげだよ。だから、何かあったら俺はお前の味方をしてやる」

「じゃあちょっとだけ期待してるよ。それじゃ、エイマルちゃんといってきます!」

手をつないで駆けていく二人を見送る声は、冬の朝の冷えた空気に溶けた。

「……何もないのが一番良いんだけどな」

次にニールを拾いに行って、ニアとルーファに見送られ、バスに乗ってやってきたのは大きな建物。レジーナには大規模な施設がいくつかあるが、この水族館も非常に広くなっている。大陸の真ん中にあるエルニーニャは海とあまり縁がなく、ここは多くの水棲生物について知ることができる貴重な場所だ。エイマルは何度か来たことがあるが、ニールは初めてだという。

「ここに海や河川の生物がいるんですか?」

「そうだよ。大きな水槽にたくさんいるんだから。一日かけてゆっくり見よう」

「海獣のショーがあるんだよね。楽しみだなあ」

きゃあきゃあと喋りながら入口へ向かうと、彼はすでにそこで待っていた。イリスの姿を見つけると、片手を軽く挙げて小さく振る。

もちろんエイマルとニールにとっては知らない人だ。顔を見合わせて首を傾げている。

「ウルフ、待った?」

「ちょうど今来たところだよ。チケットは買ってあるから、行こうか」

大人二枚と子供二枚。四枚の入場券のうち、イリスは三枚受け取って、子供たちに一枚ずつ渡す。知らない人がくれたチケットを、ニールは戸惑い、エイマルは不思議そうに見つめていた。イリスが慌てて説明する。

「ごめんごめん、教えてなかったもんね。この人はウルフ・ヤンソネン。わたしの友達だから、遠慮しないで」

「はじめまして、ウルフです。ええと……」

「女の子がエイマルちゃん、男の子がニール。エイマルちゃんはダイさんとイヴ姉の娘さんで、ニールはお兄ちゃんとルー兄ちゃんの子」

はじめまして、と子供たちも頭をぺこりと下げる。人見知りするニールは、まだ相手をまともに見られていない。逆にエイマルはしげしげとウルフを見つめ、やがてにっこりと笑った。

「イリスちゃん、ウルフさんって本当にお友達なの? もしかして彼氏とかだったり……」

「ち、違う違う! 違うけど、説明がややこしくなるから、ウルフが一緒にいることは他の人には内緒にしてね。ニールも、お兄ちゃんやルー兄ちゃんには秘密だよ。レヴィ兄はもってのほか!」

「え、わ、わかりました。……よろしくお願いします」

にまにまと口元がにやけるのを隠さないエイマルと、怪訝な表情のニールを連れて、イリスは館内へ進んでいく。隣にはウルフ。会ってはいけない人との、秘密の一日が始まる。わくわくしながら、罪悪感を残したまま。

 

南の海にいるという、小さく鮮やかな色をした魚たちの水槽の前で、エイマルは図鑑で知ったという蘊蓄をニールに披露している。よく一緒に図書館に行くというが、二人で遊んでいるときはいつもこんなふうなのだろうと、イリスは微笑ましくその光景を眺めていた。

「ニール君って、お兄さんの子だっけ。血が繋がっているわけでは……」

不意にウルフが、こそっと尋ねる。子供たちに聞こえないであろう声量で、イリスも答えた。

「血縁ではないよ。去年の夏に起こった事件がきっかけで、お兄ちゃんたちが引き取ったの。でももう本当の家族と同じだね。ウルフとバンリさんみたいじゃない?」

「そうだね。僕はバンリと本当の兄弟だって思ってるから」

「他にもウルフとちょっとだけ似てるところがあったの。わたしたちがニールを救助したんだけど、あの子は最初、軍人が苦手ですごく怖がってたんだ。事件のショックと関係しているからじゃないかってみんなは言ってたけど、わたしは今でも、わたしの所為じゃないかって思ってる」

一通り知識を話し終えたエイマルが、次へ行こうと誘う。今度は大きな魚がいるスペースを見たいらしい。自分たちの身長くらいの巨大魚がいる、と聞いてニールの目も輝いた。子供たちの後ろからついていくように歩き出すと、ウルフが「どうして」と言う。

「君の所為って、何かあの子にしたの?」

「ニールを見つけたのは夜だった。あの子を捜索するのに、わたしは眼の力を使ってたんだ。そのほうが見えるし、それに絶対に見つけなくちゃって必死になってた。でも、忘れちゃいけなかったんだ。わたしの眼は多くの他人にとっては毒。わたしがニールを見つけたときに、あの子が怯えていたのは、きっと事件の所為だけじゃない。初めて見たわたしの眼も怖くて、だから軍人が怖くなったんじゃないかって、ずっと思ってるんだよね」

普段、自分の眼について、これほど多くは語らない。ニールを怖がらせたかもしれないという話は、レヴィアンスやニアにだってしていない。ウルフに対して妙に饒舌になってしまったのは何故だろう。眼の力が効かない人や、眼の力を認めてくれている人は、彼以外にもいるのに。

「君の眼が役に立ったから、あの子を見つけられたんじゃないの? 僕はやっぱり、君の眼は美しいと思うけれど」

もしかして、この言葉を待っていたのだろうか。

「それに今は、君と随分仲が良いようだよ」

「お兄ちゃんたちと暮らしてるうちに、ニールは怖いものを減らしてきてるんだ。友達のエイマルちゃんが引っ張っていってくれるから、怖くて動けないままではいられないし。そうやってわたしのことも、いくらか好きになってくれたみたい」

「君は元々、誰からも好かれるじゃないか。必然だよ」

ウルフがふわりと笑う。イリスは一瞬どきっとしたが、すぐに首を横に振った。子供たちはもう巨大魚に見入っていて、こちらのことは気にしていないようだ。

「……誰からもは、好かれないよ。レヴィ兄の補佐をするようになってからは、尉官のくせに生意気だってよく言われるし。小さい頃は、ゼンたちと仲良くなるまで、友達ができなかった。大人も子供も、わたしの眼を怖がって、気持ち悪いって言うの。昔は制御する方法を知らなかったから、余計に」

ぶつけられた悪意は、たぶんほとんど忘れている。兄たちに遊び相手をしてもらうことや、ルイゼンやリチェスタと友達になることで、忘れることができた。けれども、たとえばリチェスタの母は今でもイリスを「気持ち悪い眼をした子、あまり娘と仲良くしてほしくない」と思っているし、数人の大人から濁した言葉で確かな糾弾を受けたことは、記憶に深く刻まれている。

「昔ね、学校に入りたいって思ったことがあったの。そうしたら友達もできるし、軍人になるなら中退できるって聞いたから。でも入学のための面談で、学校側から拒否された。学力がどうとか、ちょっとやんちゃすぎるとか、色々言われたけど……やっぱり結局は、眼が不気味できちんとした指導ができないって理由だった」

「それは酷いな」

「お母さんもそう言ってすごく怒ってた。お父さんやおじいちゃんは、そんなところなら行かないほうがいい、友達なら近所で必ずできるし、勉強はお兄ちゃんに教わればいいって。その頃は、お兄ちゃんも頻繁に実家に寄ってくれたなあ。で、ゼンたちと知り合えたのはその直後」

学校に行かなくても、友達はできたし、それなりに社会性は身についたつもりだ。眼の力の制御も、あまり目に力を入れすぎないこと、まばたきの回数を意識することなどから始めて、次第にできるようになっていった。今では自在に扱える。結果的には良かったのだと、これまでの人生には納得している。

「憶えてはいるけど、気にしてはいない。わたしは今のわたしがあればいい。エイマルちゃんやニールも懐いてくれるし、軍の女の子たちにも結構モテるんだよ」

おどけてみせたイリスだったが、見上げたウルフの表情は、困ったような笑みだった。

「でも、イリス。それは君の、傷じゃないのか?」

言葉の意味を捉える前に、エイマルが移動を始めた。ニールが引っ張られている。イリスも慌てて二人を追いながら、心に落ちてきた「傷」という単語を思う。

――君は好意を向けられるのも疎まれるのも慣れてしまって、だから自分自身へ向けられる感情を都合のいいように解釈することでシャットアウトしてしまう癖が無意識についてしまったんだろう。

フィネーロに言われたことが、今になってようやくわかりかけた。たしかに、人にどう思われているか、きちんと知ることは怖かった。広い定義の「好意」と仕方ない「疎まれ」を、深く追求せずに受け止めてきた。それはウルフのいう「傷」の所為だったかもしれない。

知れば深くなり痛むから、それが長く続くと知っているから、線を引いてそれ以上踏み込まないように、踏み込まれないようにした。

「案外、わたしも臆病なのか」

西の海のコーナーの前でぽつりと呟く。独り言のはずが、丁寧に拾われた。

「誰だってそういう気持ちがあるよ。僕はそういうところも含めて、君を愛おしいと思う」

いつのまにか繋がれていた手は、冷たいのに安心できた。心臓の音がとくとくと鳴って、全身に温かい血を巡らせるようだった。

 

海獣のイベントショーは楽しかった。イリスと、その友達だというウルフが良い席をとってくれたおかげで、動物の鼻先に触れることもできた。盛大に跳ねる水で濡れないようにと、ウルフはきちんとビニールの合羽を用意してくれていて、エイマルは感心すると同時にすっかり信用している。

「友達っていうけど、ウルフさんはイリスちゃんの彼氏だと思う。でもたしか、ゼンさんもイリスちゃんが好きだったような……。レヴィさんもそうじゃないかなって思ってたんだけど」

他にも他にも、とエイマルが並べると、ニールが苦笑した。

「少なくとも、レヴィさんは違うと思うよ」

「そうかなあ。ニール君はどうしてそう思うの?」

「あの人は大人だから」

「ウルフさんだって結構大人じゃない? そういえば歳はいくつなのか聞いてなかったよね」

エイマルがこそこそと盛り上がっていると、イリスに「ちょっと待って」と呼び止められた。ショーのとき以外はずっと少し離れたところにいるので、たぶんこちらの話は聞こえていないはずだ。

「エイマルちゃん、ニール、そろそろお昼だよ。何か食べて、それからまたゆっくり見て回ろう。お土産も欲しいよね」

言われて初めて、エイマルは時計を確認した。父にクリスマスプレゼントとして貰った、新しい腕時計だ。針はぴったり正午を指している。

「本当だ、そういえばお腹空いたかも」

「良い時計だね。文字盤がねぁーの顔で可愛いけど、全体的なデザインはちょっと大人っぽい」

ウルフが少し屈んで、時計を褒めてくれる。嬉しくなったエイマルは思わずウルフに飛びつきそうになったが、「イリスちゃんの彼氏だから」と思って踏みとどまった。

「ここ、イートインあったよね。わたしとウルフで食べるもの買ってくるから、エイマルちゃんとニールには席をとっておいてもらおう。混んでる時間だし、なかなか難しいミッションになるけど、できる?」

イリスがにやりと笑う。一緒に出掛けると、よくこういうふうに遊んでくれるのだ。おそらくはイリスが子供の頃に兄たちにそうしてもらっていたのだろうが、エイマルもこういう指令は大好きだ。父の仕事に少し近づけるようで嬉しいし、クリアできるかどうかわくわくする。

「やるよ、ミッション! 四人が座れるところを確保すればいいんだよね。ニール君、行こう!」

「う、うん。でも走っちゃだめだよ、危ないよ。エイマルちゃんってば……」

ニールの手を引っ張って、まずはイートインコーナーを目指す。簡単に辿り着いたが、そこはもう昼食をとる人でいっぱいだった。これはなかなか手強いミッションになりそうだ。

歩きながら探そうと、エイマルは動こうとする。けれどもニールに止められた。

「どうしたの?」

「ええと、きょろきょろしながら歩くと危ないと思って。だからここでまずあたりをつけたほうが良いと思うんだ」

ニールが視線だけをあちこちに走らせ、やがて「あそこ」と指さした。背の高い大人たちの陰になっていたが、よく見るとたしかに座れそうな場所がある。少し手狭だが、大人二人と子供二人ということを考えると十分だ。

「ニール君、目良いよね。耳も良かったっけ」

「人よりちょっと良いみたい。僕は感覚を使って動くのが得意で、エイマルちゃんは動体視力と勘が良いんだって。エイマルちゃんのお父さんが言ってたんだけど、聞いてない?」

「あー、ずるーい。あたしが聞いたことないのに、ニール君には言うなんて。あとでお父さんに文句言おう」

「ニアさんたちとそういうふうに話してるのを、僕が横で聞いてただけだよ。今お父さん帰ってきてるから、直接文句言えるね」

父は先日、ニールの住む家に行っていたのだ。夜が遅くなるし、お酒も入るからと、エイマルは連れて行ってもらえなかった。その分昼間にたくさん遊ぶ約束をしたので許したけれど、エイマルだけが知らない話があるというのは聞き捨てならない。

ちょっとふくれて席に着き、ハンカチを取り出そうとしてポケットに手を突っ込んで、あれ、と思った。ポシェットの中も見たが、最後の記憶ではたしかにポケットにしまっていたはずだ。

「ハンカチ、落としちゃったかも。捜してくる」

「え、今? イリスさんたちが戻ってくるまでは動かない方がいいよ」

「落とし物で届いてないか訊いてくるだけ。席はニール君がとっておいて。ね、お願い」

すぐに戻ってくるから、と手を合わせる。ハンカチはお気に入りのもので、絶対に無くしたくない。ニールは「それもイリスさんたちが戻ってきてから」と言うが、気にしたままでは昼食の味がわからなくなってしまう。

「本当にすぐだから。いってきます!」

「ちょっと、エイマルちゃんってば」

ニールは動けない。二人ともいなくなれば、イリスたちを心配させてしまう。それにエイマルはひとりで動き回ってもすぐに戻ってこられるという自信がある。ここにはもう何度か来ていて、設備の位置も把握している。だから絶対に大丈夫だと思っていた。

ニールを残して早足で向かったのは案内所。誰かがハンカチを拾って届けてくれたなら、ここにある。けれども尋ねたところ、ハンカチの落とし物は届いていないということだった。広い館内の、これまで歩いた場所を隅々まで見ることはできない。遅くなってはイリスたちに迷惑がかかってしまう。ひとまず戻ることにして、でも足元くらいは見ておこうかと、あまり前を見ずに歩き出した。それでもイートインまでは戻れるだろう。

薄暗い水族館の、水槽が途切れた場所。さらに照明が絞られたところに差し掛かったとき、背後から覗き込むような気配があった。

「お嬢さん、捜し物はこれかな?」

目の前にハンカチが差し出される。間違いなくエイマルのものだ。嬉しさと安堵で気が緩む。

礼を言うことはできなかった。

「んむっ?!」

そのハンカチで口を塞がれ、腕で体を拘束される。ようやく見た周囲に、人は他にいなかった。まるで空間を切り取られたようだ。そのまま持ち上げられたので、エイマルはとっさに自分を抱えている人間を踵で思いきり蹴った。相手が呻いて手を緩めた瞬間に、逃れて走ろうとする。

だが、もう遅い。足の動きは重く鈍く、頭もくらくらする。ハンカチからした変な臭いの所為だ。よろけたところを再び捕まり、抱えられて運ばれる。口はまたハンカチで塞がれたので、助けも呼べない。

「やっとおとなしくなったか、このガキ。おい、車はすぐに出せるんだろうな」

「エンジンかかってます。人が来る前に、早く」

意識がもうろうとする。ニール君、ごめん。イリスちゃん、ウルフさん、ごめんなさい。心の中で繰り返しながら、唇を強く噛んだ。

 

ようやく見つけた席には、ニールしかいなかった。ホットドッグと飲み物をテーブルに置いて、イリスはあたりを見回す。それらしき姿は、この混雑もあって見つからない。

「エイマルちゃんは?」

「あの、ハンカチを落としたかもって、捜しに……。たぶん案内所に行ったんだと思うんですけど、まだ戻らないんです」

おろおろするニールを宥めるように撫で、「案内所ねえ」と呟く。ここからそう遠くはなく、館内を把握しているエイマルならさほどかからずに戻ってこられるはずだ。

「行ったのはいつ?」

「席に着いてすぐなので、もう十分くらい経ちます。さすがにかかりすぎですよね……」

「そうだね。もしかしたら捜すのに熱中しちゃってるかも。ちょっと見てくるから、ウルフと待っててくれる? ウルフ、ニールのことお願いね。先に食べてていいから」

「え、イリスさん、待って」

よく知らない人と二人は心細いだろうが、ニールにはもうちょっと待ってもらうしかない。独りでいるよりはましだろう。イリスはまず案内所に向かった。職員はエイマルのことを覚えていて、ここに落とし物が届いていないことを教えたら、もと来た方へ戻っていったという。

「ここまでは会ってないから、館内回っちゃってるかな。すみません、放送かけてもらっていいですか」

むやみに捜しまわるよりは、館内放送で呼び出してもらった方が早いだろう。そう思ったのだが、いつまでたってもエイマルは現れなかった。まさか外に出ているはずはないだろう。お手洗いにしてもこんなにはかからないはず、と訝しんだそのとき。

「あの、すみません。お客様、イリス・インフェリアさんでよろしいですか」

「はい、そうですけど。子供、見つかりました?」

「いいえ、それが……」

職員の顔色が蒼い。唇も震えている。

「軍から。中央司令部から、緊急の連絡が入っています」

 

明るい賑やかさが一転し、不安に包まれ騒然となっている。水族館は緊急に閉鎖され、来館者はひとりひとり軍による取り調べを受けてから帰宅する。

イリスは表情を硬くして、軍用車両の中にいた。別の車にはウルフがいる。ニールは迎えに来たニアとルーファに保護され、すでに帰宅したが、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。――僕が、エイマルちゃんを止めていたら。そう言っていつまでも泣いていたが、もちろんニールの所為ではない。

「……連絡、来ないな」

運転席で、レヴィアンスが車内無線を気にしている。待っているのは、犯人からの連絡だ。エイマルを誘拐した人物からの。

軍に連絡があったのは、正午を過ぎてしばらく経った頃。イリスとウルフが昼食を買いに行って戻ってきた時間と同じくらいだ。

第一声は「大総統を出せ」だったという。電話をとった外部情報連絡係の者は、まず相手の情報を聞き出そうとしたが、「早く大総統を出さなければ罪なき市民が犠牲になる」と脅された。電話は短い相談の後に大総統執務室にまわされ、事件はレヴィアンスの知るところとなった。

――イリス・インフェリアと一緒にいた女児を預かっている。

該当するのはもちろんエイマルだけだ。イリスの居場所は知っている。ガードナーが別の電話ですぐに水族館へ連絡をとってくれた。すると案の定、というわけだ。

「わたしが行けば、エイマルちゃんを取り戻せるんでしょ。だったら行かせてよ、レヴィ兄」

「どこに行くっての。場所と方法は追って連絡するって言われてるんだから、今は待つしかない。もちろん付近も調べてるけど、今はお前を行かせるわけにはいかない」

犯人が提示してきた条件は、イリス・インフェリアの身柄との交換。イリスがそれを聞いたのは、レヴィアンスたちが水族館に到着してからだった。「どうして」とレヴィアンスに掴みかかろうとしたのを、止めたのはルイゼンだった。喧嘩をしたときよりも、もっと険しい表情をして。

ニールとウルフはすぐに引き離され、ニールは保護、ウルフは拘束された。ルイゼンの言葉が、はっきりと耳に残っている。――だから、関わるなって言ったんだ。

「なんでもっと早く言ってくれなかったのよ。人身売買組織の狙いが、わたしだったって」

「言ったらお前は突撃するじゃん。ルイゼンもそれをずっと懸念してたんだよ」

「でもウルフは関係なかったよね。だって情報提供者だよ」

ウルフが直接「イリスが狙われている」と言ったわけではない。だが、同時に起こった事件が繋がっていたのだ。

ウルフがもたらした情報は、人身売買組織の動きと狙い。それも詳細なものだった。ここ最近の行方不明者の幾人かが組織に誘拐された可能性と、その目的の大半が人間そのものを取引するのではなく、身体の一部にあること。それは臓器だったり、四肢だったり、――眼球であったりするという。わざわざ眼球という情報を持ち出してきたことで、ルイゼンは危機を覚えた。ウルフが以前からイリスの眼に興味を示していることは、よく知っている。

一方、レヴィアンスのところには、イリスとウルフが対峙した街頭の襲撃者の聴取結果が入ってきていた。イリスが当事者として補足をするその前に、彼らが人身売買を目的とした組織の一員であること、そして彼らの狙いがイリスだったということがわかっていた。わざわざイリスが巡回に出る時間を狙い、彼女がほぼ確実にかかるであろう「子供を餌にする」という罠を仕掛けた。裏にはイリス・インフェリアについての情報が出回っていたのだ。

裏組織の情報と、イリスの情報。両方を持っているのがウルフ・ヤンソネン。このことから、彼はこの件の最重要人物の一人となっていた。

「関係ないかどうかはこれから調べる。どっちにしても、お前はウルフと会うべきじゃなかったよ。どうして隠れてまで会おうとしたのさ。エイマルとニールまで巻き込んで」

「巻き込んだのは……わたしが悪い。最悪なことした。エイマルちゃんになんてお詫びしたらいいんだろう。イヴ姉やダイさんにどんな顔して会えばいいの」

「その顔でいいよ」

俯いたイリスの耳に、今朝も聞いた声が届く。レヴィアンスがすぐに車の窓を開けた。

「ダイさん、家で待っててって言ったじゃん! 今は休みなんだから、ダイさんはただの被害者の親!」

「家にはグレイヴとお義父さんがいる。母さんも来てくれて控えてるし、軍に入ってくる情報はユロウが医務室で拾ってくれるってさ。我が家の布陣は完璧だ」

突然現れたダイは勝手にドアを開けて、後部座席のイリスの隣に乗り込んだ。そしてイリスを真っ直ぐに見る。

「まさかこんなことになるとはな」

「ごめんなさい! わたしの所為で、エイマルちゃんが……」

頭を下げたイリスの肩を、ダイは意外にも優しく叩いた。いつものダイなら、身内が危険な目に遭えば怒り狂うはずだ。イリスを殴りつけてもおかしくないと思っていただけに、この態度には疑問が湧く。

「そうだな、イリスの所為だ。相手の狙いはイリスであって、エイマルじゃない。まあ、人身売買関係者なら、もしかしたらエイマルも売ろうとするかもな。子供だから体の一部といわず、昔のウルフみたいにどっかの馬鹿貴族にまるっと売り渡すほうを考えるかも」

「……ダイさん、そんなに知ってたの?」

「知ってるさ。うちの娘たちにどんな危害が及ぶ可能性があるのか、俺は可能な限り把握してるつもりだ。ともかくやつらは、エイマルのことはイリスを手に入れるついでくらいにしか考えてない。それはレヴィにきた電話の『イリスと一緒にいた女児』という表現から予想がつく。あの子が何者か知っていれば、もっと手っ取り早い言い方と理由があるからな」

唖然とするイリスに、ダイは不敵に笑った。レヴィアンスも得心したようで、やれやれ、と呟いて再び無線に集中する。

「俺はイリスの味方だ。安易にうちの娘たちに手を出そうとしたこと、末代まで後悔させてやろう」

ちょうど無線が司令部からの連絡を受信した。発信元はガードナーで、犯人からの電話をそのままこちらへまわすという。イリスも身を乗りだし、無線からの声に耳を傾けた。

「大総統、イリス・インフェリアをタルミア国境まで連れてこい。無論、独りでだ」

声は機械で加工されているようだった。相手のいうタルミアはエルニーニャ西側の小国で、国境を越えればエルニーニャ軍の介入は基本的にはできなくなる。だがここからは遠い。

「条件はわかった。でも、そっちが誘拐した子の無事が確認できないと、こっちも行動できないな」

「……声を聞かせてやろう」

レヴィアンスの誘いに、相手がのってくる。ノイズの向こうで、ガタガタという音と「喋ってやれ」という声がした。

「エイマルちゃん?」

レヴィアンスが話しかける。すると、少し間があって。

「あたしがいる車はリーガル社の大荷物運搬用トラック、連絡用車載電話付き、荷台にいるのは二人、載せられてから四十分くらい経過! 犯人はあたしを売るからあんまり手を出すなって言ってる!」

少女の声で、情報が一気に溢れてきた。レヴィアンスとイリスは目を見開く。

「おい、小娘を黙らせろ!」

「うわっ! 蹴るんじゃねえ、ガキ!」

機械を通さない男二人の声を最後に、通信はぶつりと切れた。呆気にとられているイリスの隣で、ダイが得意気に言う。

「だから言っただろ。我が家の布陣は完璧だって。相手は取引を持ち掛けておきながら、約束を守る気がないってこともわかった」

内心では心配でたまらないだろう。これでエイマルの危機は一層高まってしまった。だが、あとは情報を頼りに動ける。レヴィアンスが急いで出動している全員に情報をまわした。さらにリーガル社の運搬車で、今出ているものを探る。

「おい、待て! イリス!」

そのあいだにイリスは、ダイの手をすり抜けて車を飛び出した。そして他の軍用車両に向かって、一目散に駆けた。