先日、ニールの住むファミリー向けマンションの一室は、とても狭くなっていた。大人の男が四人と子供が一人。いつものメンバーがイリスからダイに変わっただけで、かなりの圧迫感があった。

ただ、ダイの「お前はあんまり身長変わってないな」と笑う声は、初めて会ったときより穏やかだった。なんでもエイマルと遊んだときのことを色々と聞かされ、感心してくれたのだとか。

「ニール、お前って案外強いんだな。これからもエイマルのこと、惚れない程度によろしく」

日頃から強くなりたいと思っていた。だからこの言葉は、それもなかなか認めてくれないらしいその人から貰ったものは、とても嬉しかった。

嬉しかった、のに。

「ごめんなさい。僕が、僕がエイマルちゃんを止めてたら、こんなことにならなかったのに……!」

泣きじゃくるだけなんて情けない。子供だからとすぐ帰されて、ニアとルーファに「ニールは悪くない」と慰められて。悪くないはずないのに。だって、ニールは知っていた。ウルフという人が怪しいということを、大人たちの話でとっくにわかっていたのだ。

その名前は、酒の席で出た。レヴィアンスが話したのだ。ウルフ・ヤンソネンという人物がイリスに近づいている。もしかしたら厄介なことに関係があるかもしれない。イリスが現在危険な人たちに目をつけられていて、ウルフと彼らの繋がりが疑われる。――実際はもっと複雑な話だったかもしれない。レヴィアンスだって全てを明かしたわけではないだろう。

でも、十分だった。イリスの近くにいる者は、気をつけていなければならなかったのだ。それはニールやエイマルも例外ではない。事実として、ウルフはイリスの友人として現れ、イリスは彼と一緒にいることを他の人には言わないようにと念押ししていた。あれは、いけないことだったのだ。

わかっていて、何もできなかった。ウルフと二人きりになったときでさえ。彼が親し気に話しかけてくるのに無難な返事をしているそのあいだ、エイマルは危険の只中にあったのに。

――僕は、全然強くなんかない。

何一つとして守れないことが、悔しくて、もどかしくて、苦しかった。

 

意識が途切れないように強く噛みすぎた唇は、舐めると錆くさい味がした。けれどもおかげで、得た情報は全部記憶できたし、軍に伝えるべきことはすぐに言えた。それができるようにと仕込まれていた。一国を守る大将の娘としてどう振る舞うべきか、自分から教えてほしいと祖父と母に頼んだ。

エイマルが父を父と呼ぶために、自らに課したこと。もしものときに自分で対処できる、あるいはそこまでできなくても、対処のために役に立てるようになる。父が心配しすぎないようにと思ってのことだったが、うまくいっただろうか。

――お父さん、大丈夫かな。怒ってないかな。

口はテープで塞がれた。手も足もきつく縛られて痛い。実行犯兼見張りらしい二人組は、エイマルを睨みながら「誰なら買ってくれるだろうな」「黙ってりゃ結構可愛いし、小国の富豪とかが気に入るんじゃないか」などと話している。きちんと理解できているわけではないが、人攫いが話すようなことだから、ろくな末路ではなさそうだ。

――よそに行くのはやだな。ニール君のいうこと、聞いておくんだった。

考えながら、腕時計の針が動く音に耳をすませた。また、一分が経過した。

 

 

軍用車両を借りてエイマルのところに急ごうという思い付きは、車の鍵がないということであっけなく失敗した。イリスはレヴィアンスの車に連れ戻され、他の車が出ていくのを見送ることになった。

水族館にいた人々のチェックもほぼ終わっている。多くの軍人が「ここから四十分程度で行ける距離にあった大型車両」を捜しに向かうのに、イリスは何もできない。することを許されていない。

「イリス、ちょっとは立場考えろよ。オレもいい加減怒るよ」

「俺も今のは擁護できない。エイマルが心配なのはわかるし、責任も感じてるんだろうけど、今はイリスに単独で動かれると困るんだ」

「ごめんなさい……」

ここに各車両から情報が入ってくるから、と言われても、じっとしていることができない。あまりにそわそわするのを見兼ねてか、レヴィアンスが話を始めた。

「イリスさ、四歳の頃に誘拐されたの憶えてるよね。あのとき、ニアとルーファが容疑者巡って喧嘩してたんだ。ルーファは容疑者をとことん疑ってて、ニアは容疑をかけられてるその人はやってないって信じて庇おうとした」

何の話かと思ったら、だんだん既視感を覚えるようになってきた。兄たちの関係は、まるで。

「それって、こないだのわたしとゼンみたいに? お兄ちゃんはわたしよりは酷くないと思うけど……」

「いや、そんなに変わんない。ニアは『ルーはいなくていい』って言ったらしいから」

「お兄ちゃんが? でも二人とも助けに来てくれたよね」

「ルーファが疑ってた人の容疑が晴れたからね。イリスの隣のその人なんだけど」

驚いて隣を見ると、ダイが「どうも容疑者です」と笑っていた。笑い事じゃないだろうに。

「なんでルー兄ちゃんはダイさんを疑ったの? 知ってる人なのに」

「率直に言って、俺がそういうふうに誘導してたからだな。イリスが攫われるのはさすがに想定外だったけど、それまでの行動はわざと俺を敵だと認識させるようにしていた。ルーファは見事に引っかかってくれたし、レヴィも怪しんでたけど、ニアは引っかからなかったんだ」

そうしなければならなかった事情までは、イリスは知らない。だが、ニアが誘導に惑わされずにダイを信じ抜き、それが間違いではなかったのはたしかだった。少し希望を持ったイリスに、しかしレヴィアンスは冷静に続ける。

「もちろん今回のケースとは違うから、同じようにはいかないだろうね。そもそもダイさんは先々代大総統が身元を保証してたって背景があったんだけど、ウルフにはそれがない。ルイゼンとフィネーロが調べてくれたんだけど、バンリさんとは半年前から会ってないらしい。以降、これまでの動向を証明できる人がいないんだ」

「そんなはずない! だって、レジーナから離れた村に、二人で暮らしてるって……」

イリスはそう聞いた。それに半年前なら、ウルフが警備会社に勤め始めたのもその頃だ。そちらで証明はできないのだろうか。

「半年前までは一緒だったみたいだよ。でもウルフは家を出て行った。レジーナで働きたいっていうのを、バンリさんが了解した形でね」

「ディアおじさんがいた警備会社に勤めてるの。たしかに外から通うにはちょっと遠いよね」

「ああ、あそこか。レヴィ、もう調べは?」

「まだだよ。そういうのは早く言え。……でもそれなら勤務時間は不安定だね。潔白を証明するまでにはいかないし、警備員ならいろんな施設に出入りできるから死角も探れる」

逆にウルフの不利になってしまった。言っても疑いが晴れないのでは意味がない。どこで寝泊まりしているのかもわからず、容疑は深まる一方だ。

「ウルフは人身売買組織の主なターゲットは子供だって言ってた。わたしが標的なら、そう言うんじゃない?」

「ルイゼンが聞いた話では、体の一部分の売り買いだった。イリスとは言っていない。子供も含まれてるようだから嘘ではないだろうね。エイマルが誘拐されたことだけ見れば、むしろそれはウルフの容疑を濃くする証言だけどいいの?」

言葉に詰まる。何か、疑いを覆せるようなことはないのか。いくら探しても見つからない。あんなに信じていたのに、それを証明できる一手がない。

「……ウルフは違うよ。自分が酷いことされたのに、他の人を同じ目に遭わせるようなことはしない」

そうだ、彼には動機がない。人身売買に手を染める理由なんかないはずだ。それを阻止しようとすることはあっても、手を貸すなんてありえない。

だが、レヴィアンスは頷いてくれなかった。

「バンリさんが今どこにいるか、その様子じゃ知らないよね」

「どこって、だから首都から離れた村に」

「それは合ってる。……村の病院だよ。半年と少し前に病気が見つかった。いずれ臓器移植が必要になると、そのときにはわかっていたらしい」

それには多額のお金と、臓器を提供してくれるドナーが必要だ。しかし、どちらもそう簡単に得られるものではない。金銭の工面はできても、都合よくドナーが見つかるかどうか。――さすがに、もう説明されなくても、想像ができる。できてしまう。

「人身売買組織がやりとりしているのは体の一部だ。手を貸せば融通してやる、と言われたら……」

「やめて。そんなことしたって、バンリさんは喜ばないよ。ウルフだってわかってるはず」

「心を殺して命が手に入るなら、俺もそうするかもな。そもそも天秤にかけられないものだ」

――全部立てることはできない。人生の至る所で、似たような選択を迫られます。

ウルフも、選んでしまったのだろうか。信じていたものが揺らぐ。

動く気力が失われたイリスの耳に、無線の受信音が飛び込んできた。

「閣下、現地駐在員が該当車両を発見しましたが、すでに逃亡した模様です。被害者も見当たりません」

「やっぱ遅かったか……まあ、エイマルちゃんがあれだけ派手にやってくれたら、ねえ?」

「でも役に立っただろ。そう遠くには行ってないはずだ。いずれにせよ目指してる方向はわかってるんだから、追えるだろう? なあ、大総統閣下」

ダイが凄むと、レヴィアンスは諦めたように前を向いた。

「安全運転は保証できない。イリスは絶対に外に出さない。ダイさんも一般人なんだからおとなしくしてるように」

 

レヴィアンスの車が動き出したのを見て、ルイゼンも出る準備をする。助手席ではせっかくの非番を最悪な形で奪われたメイベルが眉を寄せ、行ってしまう車を見送っていた。

「閣下が動いたということは、エイマルの保護はひとまず失敗か。おい変態盗人、いい加減に敵の本拠地を吐いたらどうだ」

「だから首都を中心に活動しているらしいことしか知らないんだよ。それも含めて君たちに調べてほしかったのに」

メイベルの何度目かの追及に、拘束されたウルフはこれまでと同じ答えを繰り返した。水族館でニールと一緒にいるところを確保したときから、彼に笑顔はない。何を考えているのかわからない無表情で、尋ねられたことに淡々と答えていた。

ここに来たのは、イリスとの約束だったから。日程を決めるときに、子供たちも一緒だということは聞いていた。イリスがウルフとの接触を禁じられていたことは知らなかった。だが、おそらくそういうことになるのではないかと予想はできていた。

だってリーゼッタ君は僕のことを良く思ってなかったでしょう、と言われたときには思わず手が出そうになったが、それには及ばなかった。先にウルフの隣にいたフィネーロが、拘束用ロープをきつく締めたのだ。無表情でこなすそれは、こちらがカッとなるより、はるかに怖い怒りの示し方だった。

イリスが姿を消していた寒波の夜、ウルフに会いに行っていたのだということもついさっき判明した。今日の約束は、そのときにしたのだと。ルイゼンは任務に行っていたので、あとで聞いただけの出来事だ。喧嘩の直後だっただけにショックだったが堪えた。

「イリスはどうして変態盗人に会いに行ったんだろうな。今日も、先日も。何を言って誑かしたんだ」

「誑かしてなんかないよ。僕は彼女が来てくれて嬉しかった」

「そこはイリスの行動だから、彼ばかり責められないだろう。聞くべきは誘拐事件に関与しているかどうかだ。事前に情報を知り得たなら、実行犯にそれを流すこともできる」

「そんなことはしてない。誘拐犯はあの子……エイマルちゃんだったかな、彼女とイリスの交換を要求しているんだろう。僕ならそんな遠回りはしない。直接イリスを襲うほうを選ぶ」

殺気立つメイベルを制し、ルイゼンは「そうだろうな」と呟く。他の雑魚ならまだしも、ウルフにはイリスに勝てる可能性がある。眼の力は効かず、互角以上に戦える相手。だからこそレヴィアンスとルイゼンは、彼を危険視していたのだ。

「襲ってどうするつもりだ? 例えでいい、君の考えを聞かせてくれ」

フィネーロが続けて問う。ウルフは少し間を置いて、「僕なら」と切り出した。

「帰りにでも不意を打って、彼女の眼を抉るかな。組織はあれを欲しがってるから、僕が持っているとわかれば向こうから近づいてくるだろう。美しいから勿体ないけど、交渉材料に使って、組織の本拠地に潜入する」

「それで奴らが流通させている臓器等を手に入れるのか」

「いらないよ、そんなの。そういう発言が出てくるってことは、バンリのことはもう知っているんだろう。彼には僕が稼いだお金ときちんとした医療機関を使って良くなってもらう。僕がしたいのは組織を潰す方だ」

ミラー越しに、ルイゼンとフィネーロが頷きあう。ウルフは長く息を吐いた。

「君たち、こんなことを聞きたかったの?」

「目的が分かれば阻止することができる。イリスにお前を捕まえさせなくて済む」

「今頃閣下に脅されて小さくなっているだろうから、早く聞かせてやらなければな」

少し気が抜けたルイゼンを見て、メイベルが舌打ちする。言いたいことは色々あるだろう。だが、黙っていてくれた。真相が明らかになろうとしている今、最優先すべきは誘拐されたエイマルの救出だ。関係がないのなら、ウルフを責めている場合ではない。殺気だけで十分、気持ちは伝わる。

そのあいだにも車はレヴィアンスたちを追いかけていた。向こうはかなり急いでいたが、ルイゼンもちゃんと一定の距離を保ってついていく。慣れたものだ。

たしかにイリスほど強くはない。しかしルイゼンがレヴィアンスがもっとも信用する部下の一人であることには変わりない。今だって、何をしようとしているのか、どこへ向かうつもりなのか、予測して動いている。

「……勿体ないな」

フィネーロの呟きには、誰も返事をしなかった。意味はちゃんとわかっている。

 

乗り捨てられた車両は部下たちに任せ、レヴィアンスはレジーナ周辺を走っていた。エイマルが連れ去られてからかなりの時間が経っているにもかかわらず、なかなか西へは向かおうとしない。

「レヴィ兄、要求通りに動かないの?」

こちらには相手の目的であるイリスがいる。要求を呑んだふりをして相手を誘い出し、捕まえることも可能だ。イリスはそう思っていたのだが、レヴィアンスは「だめだよ」と一蹴した。

「今はイリスもダイさんも一般人だからね。寄り道するより、確実に安全にエイマルちゃんを助ける方法をとらないと」

「でもやみくもに動き回るより、来るとわかってる場所に向かった方が良いんじゃ……。エイマルちゃんとわたしを交換するんだよね?」

「さっきダイさんが言っただろ、相手は約束を守る気なんかない。それにやみくもじゃないよ。人身売買担当チームにはもう動き方を知らせてあるし、オレには心強い味方が多い」

レヴィアンスはいつのまにやら片耳にイヤホンをはめている。無線と繋がっているようで、イリスが気づかないあいだにも常に通信状態にあったようだ。

「リーガル社の運搬車は追跡が可能で、車だけじゃなくて備品のほとんど全てに発信機がつけてあるんだって。だから何か一つでも持ち出せば、車を降りたあとでも乗っていた人間の居場所がわかる。やつらはそうと知らずに、リーガル社の運送担当者の制服と車にある地図を盗んでいる。無理もないよね、社員にもあまり知らされていないことだから」

「どうしてレヴィ兄がそんなこと知ってるのよ」

怪訝な表情のイリスの隣で、ダイがくくっと笑う。

「情報を流してるのはリヒトか。あいつの言う通りに動いてるんだな」

なるほど、とイリスも感嘆する。リヒト・リーガルはリーガル社の御曹司にして若き役員だ。運送担当者たちを束ねているのは彼だという。アーシェの弟で抜け目ないところがそっくりだが、今はそれが頼りだ。誘拐に使われている車両がリーガル社のものだと聞いて、レヴィアンスはすぐに連絡をとったのだ。

「ちょっと時差があるし、他の普通の担当者と混ざるかもしれないって言ってたけど。でもオレはあいつを信じてる。もう何度も捜査で世話になってるし、向こうも慣れてるでしょ」

イリスの胸がチクリと痛む。信じてもらっていいな、と思ったのだ。イリスは不正をしたし、レヴィアンスと同い年でずっと協力関係を結んでいるリヒトと比べられるものではない。でも、信頼されているのが羨ましかった。裏切ったのは自分のほうなのに。

「エイマルちゃんの大暴露によって、やつらはリーガル社の車を使えなくなった。そこで緊急で別車両に乗り換えたけれど、着替える余裕まではなかった。もとからエイマルちゃんも売るつもりなら、その最終的な決定権ははたして誰にあるのか。迂闊な行動を繰り返すような下っ端じゃ、そんな大事なことは決められないよね」

「ボスかそれに近い人間がいるところが、やつらの行き先か。イリスを引き取りに西へ向かうのは別の人間でいい。というより、腕っぷしの強い別の人間でなければならない」

「そう。だから実力のあるチームを向かわせてる。そしてこっちはこっちで、本拠地を叩く。できれば到着前にエイマルちゃんを取り返したいところだけどね」

人身売買を担当したことがある、数少ない経験者。そこにレヴィアンスも計上されている。本当に危険な場所へ向かうことを想定していたからこそ、自ら動いたのだ。単にイリスが問題を起こしただけでは、彼は来なかっただろう。

本当はイリスを関わらせたくなかった案件だ。だが、今となっては仕方ない。きっとレヴィアンスの頭の中には、可能な限りイリスを外に出さない片付け方が用意されている。

おとなしく従った方が良いのだろう。もうレヴィアンスの邪魔になってはいけない。それにもしウルフも敵なら、イリスはきっとまともに戦えない。戦って勝てる自信がない。眼を使わずに勝負に出ることもできるし、そのための訓練は積んできたが、おそらく彼には通用しない。たった一度見ただけの棍捌きだが、あれだけでイリスには判断できた。いざというときに彼が迷わないのも、過去の経験から知っている。迷いだらけのイリスが勝てるはずはなかった。

「……ん、あれだ。あの車」

レヴィアンスの声に我に返る。そして前方を見て、思わず身を乗りだした。

外から少し見ただけでは、ごく普通の一般車両。だが、運転手がつなぎを着ている。間違いなくリーガル社の運送担当の制服だ。後部座席には二人の人間が並んで座っていたが、こちらは着替えたのか、それとも初めからそうだったのか、どこにでもあるシャツを着ていた。

「間違いないよ、レヴィ兄。エイマルちゃんの姿は見えないけど、あの車の中の人は不自然」

「イリス、眼を使ってるな。あんまり使うなって言ってるじゃん。でもまあ、遠くのものや暗い場所がよく見えるのは便利だよね」

助かった、とレヴィアンスが言う。それと同時に車が大きく傾いた。イリスはダイに押さえられ、負傷を免れる。急にハンドルを切った車は、猛スピードで狙いの車両を追跡した。相手もスピードを上げるが、レヴィアンスの操る車両はそれ以上だ。相手車両の前方に回り込むと、相手はそのまま突っ込んできた。

「イリス、伏せろ!」

ダイに守られるようにして、イリスは低く伏せる。次の瞬間、大きな衝撃に襲われた。耐久性の高い軍用車の、誰も乗っていない側面が潰れた。

「……これ、大事故じゃないの」

「人のこと一般人って言っておきながらよくやるよ、大総統閣下」

眉を顰めるイリスと、苦笑するダイ。そして不敵な笑みのレヴィアンス。その肌には汗が滲んでいるが、拭う間もなく車から出ようとする。

「絶対に外に出ちゃだめだからな」

念押しされたが、外を見るなとは言われていない。相手車両に目を向けると、フロント部分が若干潰れてはいたものの、それ以外は無事だった。丈夫な車で良かった、というより、レヴィアンスもそう判断して無茶をしたのだろう。でなければ人質が乗っているはずの車と事故を起こすわけがない。

「他の軍用車はまだみたいだな。でもこっちに向かってはいる」

ダイが勝手に無線をいじり始める。と、聞き覚えのある声がした。

「おい、事故になってるがいいのか」

「閣下の作戦の内……だといいんだけど。フィンはウルフを拘束しててくれ」

「わかった。健闘を祈る」

ルイゼンたちの車両での会話だった。こちらが見えているようだ。イリスは気づかなかったが、ついてきていたらしい。

ウルフもここに連れてきているというのはどういうことだろう。案内人だとしたら最悪だ。

「エイマルを攫ったのは雑魚だろう。レヴィとルイゼンとメイベルで十分に対応できる。俺たちのやることは、エイマルを迎えることだけだ」

「うん……。そう、だね」

つまり何もするな、おとなしく待っていろということだ。イリスは飛び出したいのを堪える。

かわりに近づいてきて止まった軍用車両の中を見た。ルイゼンとメイベルの姿が真っ先に目に入る。その後ろにはフィネーロと、ウルフが乗っていた。イリスの前ではほとんどずっと笑っていたのに、今は全くの無表情の彼が。

 

ダガーを構えたレヴィアンスと、剣と銃をそれぞれ手にしたルイゼンとメイベルのあいだで、誘拐犯たちは狼狽えていた。佐官や尉官はともかくとして、大総統本人が出てくるなんて思っていなかった。そんな話は聞いていない。せいぜい将官が関わってくる程度だろうと、上からは言われていたのだ。

レヴィアンスたちの読み通り、彼らは組織の下っ端、つまりは雑魚だった。それなりの戦闘能力はあるが、軍のトップを相手にできるほどの実力はない。だから強いと評判のイリスではなく、幼いエイマルを攫った。子供を使えばイリス・インフェリアは簡単に釣れるという情報は持っていたし、それが上からの指令だった。

「座席にはいない、ってことは攫った子はトランクかな。狭いところに閉じ込めておくのは可哀想だから、さっさとケリつけようか」

ダガーナイフの切っ先が誘拐犯たちを狙う。あれは百発百中だと、裏でももっぱらの評判だ。とすれば下っ端である自分たちにできることは、降伏か悪あがきかのどちらかになる。この状態を、組織は助けてくれないだろう。代わりの者はいくらでもいるし、イリス・インフェリアを手に入れるための計画もまたしかり。所詮、自分たちは使い捨ての道具なのだ。

「おい、俺たちに手を出したら、子供がどうなるかわかってんのか」

どうせ破滅しか待っていないのなら、せめて道連れを。誘拐犯が選んだのは、悪あがきだった。トランクを開けて、中に転がしておいた少女を引きずり出す。事故で気を失ったかと思っていたので、その目がこちらをしっかりと睨んでいたことにはギョッとしたが。

「そこから動いたら、子供を殺すぞ」

少女のこめかみに、隠し持っていた銃を向ける。けれども少女は少しも怯える様子がない。軍人たちも冷静そのものだった。

「そこから動いたら、ねえ」

「馬鹿か貴様ら。こちらの得物を見てもなお、言葉を選べないとは」

大総統が苦笑し、女性軍人が鼻で嗤う。剣を持った軍人だけは、呆れたような表情をしていた。

「何がおかしい! 子供が死んでもいいのか?!」

「死なせないから笑ったんだよ。だって、ここから動かなくてもお前らを倒すことはできるからさ」

ついでに、誘拐犯たちは銃を使ったことがない。持たされたが、弾の無駄遣いはするなと言われていて、扱いを練習したことすらない。引鉄を引きさえすればいいと思っていた。だがそれすらも、指が震えてままならない。もちろん銃のプロ――メイベルはそれを見逃さなかった。

子供がいるというのに、全く躊躇はなかった。彼女が放った弾丸は正確にエイマルを捕えていた者の手を貫き、銃も弾き落とした。痛みを感じるより先に混乱が生じ、彼は何も考えられないまま悲鳴をあげて蹲る。エイマルは地面に転がったが、そのついでにもう一人の誘拐犯の足を蹴っていた。両足をまとめて縛られているのに。

「このガキ……っ!」

「ガキにかまうな! 軍人への対処を」

「無駄口叩くほど余裕ないでしょ。だからお前らは雑魚止まりなんだよ」

エイマルに気をとられているあいだに、レヴィアンスのダガーが誘拐犯たちに迫っていた。避けられずにまともに刃を受け、彼らもまた短く叫ぶ。そうしているうちにルイゼンがエイマルに駆け寄り、抱き上げる。拘束を手早く解いて、傷がないかどうか確認。両手足に縛られた跡があるだけだった。

「よかった、怪我はないな」

「うん。ありがとう、ゼンさん」

にっこりと笑うエイマルの背後で、三人の誘拐犯が確保された。

 

事故車では帰れないし、ルイゼンたちの車だけでは定員オーバーなので、応援が来るまで待つことになった。せっかくなので聴取も済ませてしまおうと、ルイゼンは誘拐犯たちに質問を始める。

レヴィアンスはイリスとダイにエイマルの無事を報告しようと、車に戻ろうとした。イリスは外に出したくないが、ダイは保護者としてエイマルの状態を確認する必要があるので、出てもいいだろう。

「ダイさん、エイマルちゃん救助成功だよ」

「ああ、聞こえてた。声からして元気だな」

「良かった……。わたしのせいで怖い思いさせたよね」

イリスはしょんぼりしながらも、一安心できたようだ。あんまり怖かった感じしないけど、と言おうとしたとき、軍用車両がこちらへ向かってきた。急いで駆けつけてくれたのか、スピードが出ている。そして道の脇に、急ブレーキで止まった。

「もうそんなに急ぐ必要ないよ。誘拐犯は捕まえたから」

レヴィアンスが声をかけると、その車の窓が少しだけ開いた。一仕事終えて安心していたので、真っ先に気づかなければいけないのに気付かなかった。

「全員伏せろ! こいつは違う!」

叫んだのはメイベルだった。反射的にレヴィアンスとルイゼンは伏せたが、メイベルはその場に立ったままだ。――銃声が響いても。

「メイベル!」

顔をあげたルイゼンから血の気が引く。いつもは銃を撃つ側のはずのメイベルに、車の窓から向けられた細く煙をあげる銃口。そしてわき腹を押さえる彼女。指の隙間から、赤黒い血がどくりと流れた。

「……私としたことが、しくじった」

「喋るな、座ってろ! しくじったのはオレだ!」

とっさに駆けつけたレヴィアンスに、銃口が次の狙いを決めた。

「閣下、だめです!」

「だめじゃない! 出てこい、卑怯者!」

発砲前に、レヴィアンスは車の窓を蹴り飛ばした。割れはしないが、銃は引っ込む。ドアを開けると、そこには銃を持った見知らぬ男がいた。

「車を奪ってきたな……!」

歯噛みしたレヴィアンスに、再び銃口が向けられる。しかし今度は至近距離だ。銃身を掴んで奪い、放り投げる。

銃が一丁だけではないことにも気づいていた。すぐに退くと、一瞬前までレヴィアンスの頭があったところで発砲された。運転席に一人、後部座席に発砲した一人ともう一人いる。

「ルイゼン、エイマルとメイベルを安全な場所へ!」

「はい!」

現時点で最も安全なのはルイゼンたちが乗ってきた車だ。メイベルを担ぎ、エイマルを抱え、避難させようとした。しかし向こう側からもう一台軍用車が来るのが見えて、ルイゼンは動きを止めた。そして。

「フィン、ウルフを連れて降りろ!」

即座に反応したフィネーロがウルフとともに車を脱出すると、やってきた車が勢いを緩めずにぶつかってきた。その中からも軍人ではない者たちが降りてくる。ぐるりを見渡し、フィネーロは鎖鎌を構えた。

「仲間を助けに来た……というわけではなさそうだな」

むしろ処分しに来たというのが正しいだろう、と推測する。軍用車両を奪ってくるのだから、今来た彼らは戦い慣れしている。邪魔な軍人たちとこれ以上の利用価値がないと思われる雑魚を、まとめて処分するのが彼らの目的だ。実際、捕まった三人は怯えている。

「この車両、佐官の班が使っていたものだな。メイベルを撃った方も」

「閣下がいるとはいえ、怪我人と一般人を守りながらはきついな」

フィネーロと、抱えていた二人を地面におろしたルイゼンが言うと、メイベルが怒る。

「私も戦える! このくらいの怪我なんかで……」

「まず止血しろ。怪我で手元が狂ったらまずいから、おとなしくしててくれ」

逆上すると見境がなくなるメイベルには、今はあまり動いてほしくない。ここはレヴィアンスとルイゼン、フィネーロの三人で切り抜けるしかないだろう。

ルイゼンがそう考えていた隙に、敵の一人が接近していた。狙いは負傷したメイベルだ。

「くそっ!」

メイベルが血塗れの手で銃を構える。だが反応が遅れた。引鉄に指が触れる前に、敵の手は素早くこちらへ伸びる。

「だめっ!!」

それを立ちふさがって阻んだのは、小さな体だった。

「エイマル、退け!」

「きゃ……っ!」

とっさに叫んだメイベルだったが、それしかできなかった。少女はそのまま髪を掴まれ、敵の腕におさまってしまった。痛みに歪んだエイマルの表情を見て、彼は勝ち誇った顔をした。

「車に乗っていた軍人が言っていた。この娘、親がたいそう美人だそうだな。これから調教すれば、成長後も楽しめる。このまま生かしてこちらに渡すか、それともここで殺すか、二つに一つだ、大総統閣下。まさか国民を見殺しにするはずはないと思うが……」

気持ちの悪い笑みを浮かべ、彼はべらべらと宣った。だが、レヴィアンスは全方向に注意を払ったまま、面倒そうに息を吐いた。

「……あのさあ、違うよ、それ。選ぶのはオレじゃなくてお前で、たぶん三つめを強制的に選択させられる」

彼はエイマルに手を出してしまった。レヴィアンスが敵から奪った銃は、さっき放り投げた。そしてここにはメイベル以外にも、遠距離射撃の名手がいる。――本当は、動いてほしくはなかったのだけれど。

ぱん、と一つ、破裂音。弾丸は視認できない速さで、エイマルを捕えていた男の耳を撃ち飛ばした。だらりと流れた血が落ちる前に、飛び出してきた影が少女を奪い返す。

彼は、もっとも怒らせてはいけない人たちを怒らせた。

「おい、てめえは誰の娘をどうしようとしてた? たしかに母親は美人だが、てめえらの好きにさせるためにそうなってるわけじゃねえよ」

壊れた車の側から狙撃してきた男に、襲撃者たちは見覚えがあった。

「選択肢は増えるし増やせる。だから増やすね。答えは、あんたが刑務所送りになる、よ」

少女を胸に抱えながら赤い瞳を光らせる彼女のことも、もちろん知っている。

「まさか、ノーザリアの大将……?」

「ここに来ていたのか、イリス・インフェリア……!」

敵が驚き慄いている今こそが好機。レヴィアンスはやむなく一般人の保護を諦めた。もとより保護に甘んじるような人間ではない。

「よそ見してんなよ。そいつらは大当たりだがおまけだ!」

 

フィネーロの鎖鎌は器用に敵の腕に絡み、引き倒す。そしてルイゼンが武器を奪い腱を切って確保。大総統暗殺未遂事件で鍛えられた、素早い連係プレーだ。わき腹を持ってきた救急セットで処置したメイベルは、その様子を唇を噛みながら見守っている……だけのはずがない。

「怪我で手元が狂うだと? ルイゼンめ、私を見くびるな」

だいたい、機嫌が悪いのだ。イリスが黙って出かけたこと、ルイゼンとフィネーロの間だけで情報が共有されていたこと、せっかくの休日を台無しにされたこと。全てにおいて気に食わない。これが撃たずにいられようか。

レヴィアンスは敵を次々に斬りつけ、体術も駆使して地面に伏せさせる。たとえ敵が佐官らを倒して車を奪ってきた者であろうと関係ない。誰もが等しく、大総統より格下だ。

――あと一人。

最後の相手はメイベルの放った弾丸とレヴィアンスの駆使するダガーに動きを封じられる。死線を潜り抜けた彼らには、全員が雑魚のうちだった。

だが、雑魚にも脳はある。それとも彼らに指示を与えた者がそう判断したのだろうか。敵が乗ってきた車から、もう一人男が飛び出した。素早くレヴィアンスの足元を撃って動きを止め、フィネーロの鎖鎌を避けてルイゼンを引き離し、メイベルには再装填の隙を与えない。そうして真っ直ぐに、イリスのほうへと向かっていた。

イリスはエイマルをダイに渡し、二人から少し離れた場所にいた。敵の真の目的が自分なら、彼らと一緒にはいないほうがいい。私服に徒手空拳でも、十分に戦えるはずだ。眼にも力を込めた。

しかし敵は、嗤っていた。街路で見た表情と同じだ。

「それでいい。その眼を奪えば……!」

敵の狙いはイリス。欲しかったのは眼。彼らの「奪う」には二つの意味がある。――そのものを取るか、潰して使えないようにするか。目の前に迫った敵が土壇場で選んだのは、後者だった。

もちろん迎えうつつもりで、イリスは蹴りを構えようとした。軍服ならできただろう。しかし、今の恰好は私服のロングスカートだ。脚に絡んで、得意の蹴りの邪魔になる。

――こんなときに?!

破くことはもとより、たくし上げている暇もない。相手はもう目前だ。手にはナイフ、向かう先はイリスの眼。怪我をしてでも手で止める――と、この行動はつい最近もとろうとしなかっただろうか。

「なんて残念なんだろう」

また、ナイフは届かなかった。あのときと違うのは、彼がイリスに背を向けていたこと。手には棍がある。そういえば彼の得物は特殊で、伸縮自在だった。隠し持っていたのだろう。

「美しいものに傷をつけようとするなんて、君たちと僕とでは美的感覚が合わないようだ。乗り込むことを選ばずに正解だったよ」

拘束されていたはずだが、解いたのか。おそらくはフィネーロが施したのだろうから、解くのは容易ではなかっただろうに。棍を操り敵を殴り倒したウルフは、小さく息を吐いて振り向いた。

「間に合ってよかったよ、イリス」

何を考えているのかわからない、でも嫌ではない、穏やかな笑顔で。

「……あんた、こいつらの仲間じゃなかったの」

「違うよ」

あまりにもあっさりと答えるので、真実かどうかが分からない。あんなに信じていたのに。

「やっぱり、疑うよね」

笑顔が少し悲し気になる。否定はできない。全てが、明らかになるまでは。

イリスの目の前で、レヴィアンスが襲いかかってきた男を、ルイゼンがウルフを再び確保した。

 

 

まもなく軍人たちが現場に到着した。今度は本物だ。一部は確保し拘束した襲撃者たちを連れて行き、一部はイリスとダイ、そしてエイマルを運んでくれることになった。そして残った将官と佐官を中心とした班には、もう一仕事残っている。

「レヴィ兄、本当にこのまま本拠地に乗り込むつもり? 休まなくていいの?」

「休んでる暇なんかないよ。最新の情報がある今がチャンスなんだから。お前の処分はそれから考える」

覚悟してろよ、と額を突かれる。今回は随分と迷惑をかけてしまった。俯いたイリスの耳に、レヴィアンスの声が続く。

「誰かルイゼンの車運転してやって。ちょっと潰れたけど動くよね。どうせ医療用に乗るの嫌がるだろうから、病院にメイベルを預けてから司令部に向かってな。ウルフの聴取はフィネーロを中心に頼む」

「俺の車って……俺はどうするんですか、閣下」

ルイゼンが怪訝な表情をする。返ってきたのは、いつもの表情と真剣な声。

「ちょっと厳しい現場だけど、勉強してみない? ルイゼンは経験がないからって人身売買の件を上に任せようとしたけど、経験さえあれば今後のことを頼めるとオレは思ってるよ」

イリスも顔をあげた。そしてルイゼンを見る。隣にいる時間が長すぎてなかなか気づかなかったが、幼馴染はいつのまにか、随分と大きくなっていた。立場も、人間としても。

「俺が行ってもかまわないんですか」

「リーゼッタ少佐が必要だ。実はオレにとってもそのほうが都合が良いんだよね。下っ端だから暴れさせてやることはできないけど」

「行きます。俺にとっても閣下にとっても良いことなら、断る理由がありません」

伸びた背筋は真っ直ぐだ。声に迷いはない。イリスが気がつかなかっただけで、いつもこうして守ってくれていたのだろう。それがリーダー、ルイゼン・リーゼッタだ。

「……かっこよく、なったなあ……」

思わず呟くと、ルイゼンはこちらを見た。ちょっとだけ頬を赤くして、けれどもすぐに真面目な顔になった。

「お前は早く帰れよ、一般人。メイベルの怪我のフォローだけよろしく」

「そうだ、ベルにまで怪我させちゃったんだ。わたしって本当にだめだ……」

踵を返して軍用車両へ向かうイリスを、ルイゼンは見送る。最後までは見ないで、レヴィアンスについていった。

「あの服着るのが自分と一緒のときだったら良かったのにって思った?」

「そこまで思ってません。似合うのに勿体なかったな、くらいです」

茶化されながら、向かうのは決戦の場所。

 

イリスたち「巻き込まれた一般人」は、トーリスの運転する車に乗ることになった。後部座席に、ダイとエイマルとの三人で座る。心なしか緊張している様子のトーリスに、ダイが「一般人を運ぶだけだよ」と追い討ちをかけていた。

「大将……いえ、今はヴィオラセントさんですね。インフェリアがご迷惑をおかけしました。こちらは誘拐されたのがお嬢様だと伺ったのはついさっきだったのですが、インフェリアはもちろん知っていたんでしょう。大変申し訳ありませんでした」

余計に緊張したトーリスが、声だけで力いっぱい謝る。手はハンドルを硬く握っていた。

「そうだな、大変な目に遭った。エイマルは手首と足首をこんなに赤くして……」

「ごめんなさい! エイマルちゃん、怖かったよね」

場所が場所なら土下座もしそうな勢いでイリスが頭を下げる。するとその頭に、エイマルはそっと触れた。小さな手に優しく撫でられ、イリスは戸惑う。

「エイマルちゃん?」

「あたしね、実は全然怖くなかったんだ。イリスちゃんが教えてくれた護身術を実践できたし、おじいちゃんやお母さんが教えてくれた通りに周囲の状況を言えた。おまけにお父さんと一緒に来て助けてくれるなんて、こんなすごいドラマなかなかないよ。だから、もう謝らないで」

顔を上げると、天使のような微笑みがあった。手首にはまだ生々しい縄の痕が残っているのに、この子はそれをちっとも気にしていないようだ。それどころかちょっと自慢気に胸を張って。

「ね、お父さん。あたし、エイマル・ヴィオラセントとして、ちゃんとできたでしょう? 貰った時計もね、時間を把握するのに役に立ったんだよ」

嬉しそうに、父に頭を撫でられていた。

「うん、よく頑張ったな。でもあんまり無茶はしなくていいぞ。それよりあとでニールに謝るように」

「そうだね。ニール君のいうことちゃんと聞いてたら、こんな騒ぎになってないもんね」

「わたしこそ謝らなきゃ……。小さい子に怖い思いさせて、軍人以前に人間として最低だ……」

「俺は許すよ。エイマルとニールを利用してデートしたことも。でもうちの奥さんとニアたちはどうだろうな」

さらに落ち込むイリスを撫でながら、エイマルが「お父さん、今はそういうの言わないの」と怒る。この子も大きくなったものだ。今年で十歳になるが、イリスが十歳の時、つまりは軍に入隊した当時よりも、大人なのではないだろうか。

自分はこのままではいけない。人間として、軍人として、もっと成長しなければ、他人を想うことがどんどん裏目に出る。イリスは拳を固く握った。