午後の大総統執務室。レヴィアンスは自分の椅子に座り、客用のソファには大総統付記者のエトナリアが座っている。ガードナーは紅茶を淹れてから執務室を出て行った。

「レオナルド君が用事なんて珍しいわね。レヴィ以外のことに興味ないのかと思ってた」

カップに触れながら、エトナリアが笑う。

「そんなことないよ。レオだってここ以外での仕事はある」

「冗談よ。それより、事件の顛末についてコメントを。それを書くのがあたしの仕事」

……続けられるの、仕事」

カップがソーサーに当たって音をたてる。ちょっと不機嫌になったな、とわかった。

「まだ、今のところは。でもお見合いの日取りは設定されちゃったから、一応顔は出さなきゃね。お互い断れば不成立になるんだから、そうしたら上司も納得するでしょう」

早口に語られる状況。それより、と仕切り直される場。まずは仕事をすべきだろう。けれども、そのあとはずっと考えていたことを話さなければならない。そのためにガードナーは出て行ったのだ。

「本当に国の資産を増やすなんて思わなかったわ。まだ本決まりじゃないでしょうから、そこは書かないけどね」

「うん、厳密に言うと国の資産じゃないし、このあとまだ片付けなきゃいけないことがあるから、発表の時期はこっちで決める。うっかり口滑らせんなよ」

「優秀な記者ですからそんなことはしません。だから人身売買組織の検挙については、たっぷり聞かせてちょうだい」

にんまり笑ったエトナリアに、レヴィアンスはにやりと返す。

「本当に仕事に貪欲だな、お互い」

考え事は、一旦隠して。

 

少女誘拐事件からの延長で、人身売買組織が検挙された。最近の女性や子供の行方不明事件のうちいくつかに関連しているとみられ、その捜査が続いている。組織が拠点としていた場所からは人体の一部とみられるものが多数発見され、現場に入った軍人の何人かはその日の夕食と翌日の朝食を摂れなかった。

組織は単なる人身売買だけではなく、人体を「殖やす」事もしていた。かつて大陸中で問題となっていた裏の技術、クローンの生成である。見つかった臓器や四肢などの半数は、誘拐した人間を元として、そこでつくられたものだった。

組織がイリスを狙った理由は、もちろん彼女の眼にある。洗脳して裏の手駒とするもよし、特別な力を持つ眼を殖やす実験をしてもよし、いずれもかなわないならいっそ潰して脅威をなくす。これはこの組織だけの目的ではないらしく、裏社会の多くの者の狙いだという。つまりは今後も油断できない。

「情報過多で倒れそうだけど、閣下の頭の中はこのレベルのものがいくつもあるんだよな。本当に凄いよ、あの人。現場での指揮もかっこよかったし」

時間は少し遡り、始業直後の情報処理室。溜息を吐きながらのルイゼンの話を、フィネーロは黙って聞いていた。目はディスプレイに向かい、手はキーボードを打ち続けている。いつものスタイルだ。

「検挙と聴取で、ウルフからの情報の裏付けもとれた。で、あいつが組織とは現時点では関係ないこともはっきりしたよ。でも……

「危機は去っていないし、そもそもあいつをイリスに近づけたくないんだろう。とられるから」

「そういうことだけズバッと言うなよ」

昨日は夜遅くまで現場に出ていたので、本来なら午前休みをもらっているルイゼンだ。それをわざわざ通常業務のフィネーロについてきてぼやいている。フィネーロからすれば少々迷惑なのだが、今回一番苦労したリーダーの言うことなら聞いてやろうと、こうして耳だけ貸しているのだ。一言くらいの毒は吐いても罰は当たらない、と思う。

「当分は会えないはずだけどな。イリスはとりあえず謹慎だって、閣下が。もちろん無断外出はできないし、メイベルだって見張ってる」

「謹慎か。メイベルは嫌がるんじゃないか。勝手に大嫌いな人間と出かけて、軍人としてあるべき行動をとらなかったイリスを、あいつは許せないはずだ。となれば寮にはいられない。おそらくは……

たん、と最後のキーを叩き、フィネーロは手を止めた。言わんとすることはわかったので、ルイゼンもそれ以上は聞かずに、眉を寄せながら頬を掻いた。

「それはそれでちゃんと監視がつくから、かまわないだろうけどな」

 

同じ頃、イリスはすでに寮の部屋を追い出されていた。メイベルが「世話などいらん」「今は顔も見たくない」と癇癪を起こしたのだ。――いや、そう言っては失礼だ。彼女の怒りは、イリスからすれば正当なものだった。

「ベル、お腹の包帯はちゃんと換えなよ。本当なら入院しなきゃいけないんだから」

「うるさい! さっさとどこかへ行け!」

駄目押しでドアの向こうに話しかけてもこの調子だ。おとなしく引き下がったほうが良い。共同電話からレヴィアンスに確認すると、自宅謹慎でも良いそうだ。「信じててやるから真っ直ぐ帰れよ。カスケードさんには連絡しておく」だそうなので、最短距離で帰らなければまた騒ぎになる。

そういうわけで年始以来で実家に帰ると、玄関で迎えたのは母だった。昔、こっそり家を抜け出して遊びに行き、帰ってきたときと同じ表情をしている。怒りと心配が入り混じったものだが、今回は怒りの割合が多いだろう。

「このおばか! 全部レヴィ君から聞いてるわよ。ニールとエイマルちゃんまで巻き込んだんですってね! 私はあなたをそんな子に育てたかしら?!」

「こんなふうには育てられてません、わたしが勝手に育ちました。本当にごめんなさい、お母さん」

両肩を掴まれ揺さぶられ、何度目かの謝罪を述べる。ニールにも謝りたいのだが、今のところそれは許されていない。ただ、エイマルが無事だということは伝わっているらしい。

「謹慎が解けるまではこっちにいるんでしょう。深く反省しなさいね」

「はい……

やっと家にあがると、微かに紅茶の香りがした。こんなときでもお茶を淹れてくれるのか、と思って台所を覗くと、父が二人分のカップを運ぼうとしているところだった。

……お父さん、ただいま」

「おかえり。荷物を置いて座れ」

素っ気ない返事だ。いつもなら笑顔で迎えてくれるのに、そんな気配は微塵もない。当然か、と言われた通りに自分の席に座った。父は紅茶を置いてから、その正面に着く。

「レヴィが一通り説明してくれたから、何があったかはわかっている。その前にルーファからも電話があったしな。子供たちに大きな怪我がなかったのは不幸中の幸いだということは、理解しているな?」

「わかって……ます。わたしがしたことがどれだけ最低か。ベルにはしなくてもいい怪我をさせるし、一般の人たちの楽しみも奪いました。水族館にも迷惑かけました」

「損害面はちゃんとわかってるな。シィが玄関でもう叱ってたから、俺はこれ以上は叱ったりしない。そのかわり、この後イリスがどういうことになっても、俺は助けない」

低くゆっくりと告げられる言葉は、これまでに聞いたどんなものよりも重かった。「はい」と頷いてから飲んだ紅茶が、舌に沁みる。今日のはちっとも甘みがない。渋みが強い種類なのだろうが、それにしたっていつもならもっと美味しく感じるはずだ。兄と同じで、父はお茶を淹れるのは得意なのだ。

今までどんなことがあっても、何かしらのかたちで助けてくれた父が、「助けない」と言った。だったら本当に手を出すことはないのだろう。

「エイマルちゃんが攫われたとわかったとき、怖かっただろ」

「うん」

「ニールが泣いたとき、胸が痛かっただろ」

「うん」

「それを二度と忘れるんじゃない。これからも軍人であり続けるとしても、そうでなくなったとしても」

軍人で、なくなったとしても。一瞬考えて、さすがにそうはならないだろう、なったとしてもどうにかならないだろうか、と軽く扱ったことが現実味を帯びている。改めて軍人でなくなった自分を想像しようとしたが、できなかった。未来は真っ暗だ。

ただ、父に言われたようなことは、死んでも忘れられないだろうと思う。

お茶の時間は静かに終わり、イリスは自分の部屋に引きこもった。部屋は常に整えられている。いつ帰ってきてもいいように。誰かを連れてきて泊めても問題がないように。助けないとは言われたが、愛情までは失われていない。それを実感した瞬間に、涙があふれてきた。何年ぶりかで、声をあげて泣いた。

 

 

「あらまあ、不細工な顔。とてもカスケードとシィレーネの子だとは思えないわよ」

夜になっても引きこもっていたイリスに、鈴のような声で容赦のない言葉が降りかかる。この家に居候しているが、普段は仕事でほとんど外にいるラヴェンダ・アストラだ。ニアとはあまり折り合いが良くない彼女だが、イリスは姉妹のように思っている。少しくらい厳しい言葉も、いつもなら平気だ。だが。

「そうだね、この状態じゃインフェリアを名乗るのもおこがましいよね」

「気持ち悪いくらい落ち込んでるわね。だいたいの事情は知ってるけど、そこまで思い詰めるようなこと? 私なんかあんたに暴力振るってもここに図々しく居座ってるのに」

それは父が許したからだ。刑罰を終えて住む場所がなくなったラヴェンダを、父はインフェリア家で預かると言った。服役中の彼女の父が戻ってくるまでという期限付きで。

「それもそろそろ終わりだけどね。春になったら、この家ともお別れよ」

「え、なんで? アストラさん、もう出てこられるの?」

「違うわ、私の都合。おかげさまで次の行き先が決まったの」

ラヴェンダがかざした白い左手に、イリスは落ち込んでいたのも忘れて見入った。その薬指に、指輪がある。宝石が一つだけついた、シンプルで細いものだが、それが意味するところは重大だ。

「うそ、ラヴェンダ、結婚するの? それともわたしが知らないうちにしちゃった?」

「言ったでしょう、春にするのよ。おかしいわよね、記憶の年齢はとっくにおばあちゃんの私を、ホリィはお嫁さんにしてくれるんですって」

イリスの知人で兄の先輩でもあるホリィと、ラヴェンダが長く交際を続けていることは知っていた。それがついに結ばれるという。イリスは思わずラヴェンダの手を取った。

「良かったね、ラヴェンダ! すごくいい報告じゃん、もうお父さんたちには話したの?」

「話そうと思ったら辛気臭い顔してるんだもの。訊けばあんたが謹慎処分で帰ってきてるって言うじゃない。盛り上げてくれないと気分悪いから、先にあんたに言うことにしたのよ」

「てことはまさに今日プロポーズされたの? うわあ、こんな嬉しいことってないよ。ラヴェンダが幸せになれるなんて、インフェリア家代々の念願がようやく叶うんだね!」

「代々って……私が関わったのはあんたの曽祖父の代からよ、そんなに昔じゃないわ。全く、さっきまで不細工な顔でしょぼくれてたのが、急に元気でうるさいイリスに戻っちゃって」

クスッと笑ったラヴェンダは美しかった。見た目は十代後半の少女だが、その記憶はとうに百年分を超えた記憶継承クローンの彼女。幸せを望むあまりに凶行に走ったこともあるが、やっと本当に幸福を掴めるのだ。きっとこれまで彼女に関わってきた誰もが、この笑顔を見たかっただろう。

「ね、ホリィさんになんて言われたの?」

「あんたでもこういうこと興味あるのね。てっきり軍とニアにしか関心ないのかと思ってたわ」

「わたしもいろいろあってさ。乙女心が分からなくてリチェとすれ違ったりね」

二人でベッドに並んで座り、イリスはラヴェンダの惚気に耳を傾ける。プロポーズはいかにも熱血なわりに器用でスマートなホリィらしいもので、イリスでも想像が容易だった。こっちまでにやけてしまう。語り終えたラヴェンダは満足気に指輪を眺めながら、「で?」と言った。

「あんたはどうなの。相変わらず初恋もまだなの?」

「初恋はお兄ちゃんだってば」

「やっぱりそれ、カウントするの? ニアじゃなくてレヴィアンスとかルーファだったりしない?」

「レヴィ兄はそういうのじゃないって。ルー兄ちゃんも、そんなの考えたこともないよ。……そもそも、恋とかよくわかんなくて、リチェとすれ違ったんだし」

わかんないのにニアが初恋だって言い張るのね、とラヴェンダは呆れていた。それから何か考えながら、私の場合は、と歌うように語り始める。

「その人を見たとき、胸が高鳴った。その人を想えばいつだって幸せな気持ちになって、安らいで、何をしてでも一緒にいたいと考えるようになったわ。たとえ罪を犯してでも、彼の側にいたい。それで結局、本当に罪を犯しちゃったわけだけど」

たとえ罪を犯してでも、一緒にいたい。その言葉にイリスはどきりとした。すぐに思い浮かんだのは、あの真意の見えない笑顔。そして謹慎の原因となった、自分がしでかした一連のこと。

イリスはおそるおそる口を開いた。

「あのさ、ラヴェンダ。もし、会っちゃいけないって言われたのにどうしても会いたくなって、本当に会いに行ったり、隠れて一緒に出掛けたりしたら、……その相手に抱きしめられたり手を繋いだりしたらどきどきして、他の人にそうされるのとは違うなって思ったら。それは、恋、ってやつなのかな……

言うだけで恥ずかしい。それが大きな過ちに結び付くのだから、本当に恥だ。ラヴェンダにも「はあ? 何言ってんの、馬鹿じゃない?」くらいは言われるかと思った。

だが反応は違った。隣に座る彼女はぽかんと口を開け、イリスの顔を見つめていた。

……ラヴェンダ? どうしたの?」

「いや、どうしたのじゃないわよ。こっちが言いたいわ。あんたどうしたの? 何があったの? そんな具体例出してくるんだから、誰かとそうなったってことよね?」

堰を切ったように溢れ出る疑問符が、イリスを押しつぶさんばかりの勢いで降りかかってくる。何から言えばいいのかわからなくなって、ただ一言だけ「ありました」と答えたら、ラヴェンダに思い切り背中を叩かれた。今までに見たこともない、いい笑顔で。

「やだ、そういうことはもっと早く言いなさいよ! カスケードとニアには内緒にしておいてあげるから! で、恋の相手は誰? やっぱりレヴィアンス? それともルイゼンかしら。意外とフィネーロ、大穴であの粘着質女だったり?!」

「いや、なんでその名前が出てくるの……。ていうか相変わらずベルのこと好きじゃないんだね」

該当する人物をラヴェンダは知らないから、適当に知り合いの名前を並べたのかもしれない。しかし、何はともあれ、これはたぶん恋なのだ。そしてその気持ちを、イリスはコントロールできなかった。そういえば恋は盲目なんて言葉もあったなと、そしてそれはなかなか自分をよく表しているのではないかと、イリスはしみじみ納得した。

 

翌日、お祝いムードのインフェリア家をレヴィアンスが訪ねた。イリスのことがあったのにどうして、という疑問はすぐに解消され、はたしてそれを壊してしまうのはどうかと話を切り出すのは躊躇われた。

だが、言わねばなるまい。本来なら大総統執務室に呼び出して言うべきところだが、今回はカスケードもいるこの家のほうがいいだろう。

「イリスの処分を正式に決めたよ」

出されたお茶で喉を潤してから、告げる。イリスは姿勢を正し、真っ直ぐにこちらを見ていた。もう覚悟はできているようだ。

「降格はない。ただし、今後すぐに階級を上げることもない。最低でも一年は中尉のまま留まってもらう。このままだとリーゼッタ班では一番下になるね」

近いうちにリーゼッタ班全員を昇格させるつもりだった。今回のことがなければ、イリスも一緒に大尉になるはずだったのだが、それはなくなってしまった。大総統暗殺未遂事件で上げた功績が丸ごとなくなったようなものだ。

ことあるごとに昇格を望んでいたイリスはさぞやがっかりすることだろうと思っていたが。

……それだけでいいの?」

「だけって、結構なペナルティーだと思うけど。大総統補佐がいつまでも階級上がらないんじゃ、周りからの風当たりも気になるだろうし」

「軍どころか、補佐も辞めなくていいの? レヴィ兄、正気?」

どうやら、レヴィアンスはイリスを侮っていたようだ。閣下が思うよりいろいろ考えているかもしれませんよ、というガードナーの言葉が思い出される。たしかにそうだ。今回のことを、イリスはちゃんと受け止めている。

「正気だよ。ちゃんとレオとも話し合って、ルイゼンにも報告した。カスケードさん、これでいいかな」

「レヴィがそう決めたならいいんじゃないか。階級保留で、監視しながら扱き使うってことだろう」

「なるほど、そういうことか。だったらちゃんとペナルティーだね」

カスケードの説明でようやく処分に実感がわいたのか、イリスは何度も頷いていた。ルイゼンなどは「イリスを補佐にし続けるのは閣下が不利なのでは」と疑問を呈していたが、これでいい。最初から彼女の軍人としての人生に責任を持つつもりで、補佐に抜擢したのだ。これが不利だというのなら、レヴィアンスの監督不行き届きでもあるのだから、甘んじて受け入れる。

「典型的な悪い報告と良い報告ってのをやろうと思ったけど、これじゃイリスにとってはどっちも良い報告だな」

「え、まだ何かあるの?」

「ウルフのことでね」

名前を出すと、途端にイリスは固まってしまった。処分を告げるときより緊張しているようだ。イリスならこっちのほうを気にしていたとしてもおかしくはないが。

……どうなるの、あいつ」

「本人はどうにもならないよ。今まで通り働いて普通に生活してもらう。でも何かあったらまず疑われるだろうね。今回の件も、どうやら組織に潜入して潰すつもりでいたようだから。軍に情報を渡して調査を持ちかけたのも、肝心の本拠地を見つけてほしかったってのが真相。本人曰く、だけど」

「そっか……

イリスが信じていたうちのいくらかは、やはり裏切られていた。だが実行に移さなかっただけいい。おかげで今回の件については無罪放免となった。そして。

「それからバンリさんだけど、レジーナの病院に移ってもらったよ。病気もちゃんとした方法で治せる。裏組織が動いてると、正しい治療法があるのに不当な利益のためにそれを邪魔されたり、より良い治療法を適用する妨げになるからね。だからウルフは動いてたんだ」

「本当?! そっか、それならいいんだ。やろうとしたことは無茶だけど、組織に協力しようとか、裏から治療を都合しようとか、そういうわけじゃなかったんだね。ウルフがそんなことするはずないもん。バンリさんも助かるなら良かった」

やっと嬉しそうな顔が見られた。少しは裏切られたかもしれないが、だいたいはイリスが信じていた通りなのだから、安心しただろう。

でもそれだけじゃなさそうだ、と気づいても、レヴィアンスは言わなかった。カスケードがいる前で、迂闊なことは口にできない。事情はもう話してあるから、わかっているかもしれないけれど。

「もう一つ、これはカスケードさんへの報告だね。今回の人身売買組織の検挙をきっかけに、裏で働いている闇医者とか、発達した生体技術関係とかの把握が進みそうなんです。今まで裏の技術だからと長いこと実用できなかったことを、オレが大総統をやっているうちに堂々と正しく使えるようになるかもしれない。まだ確定してないから、公表はできないんですけど」

「それはいいな。そのことで惜しい思いをした人はかなりの数いるから、早めに進めてほしい」

これはまだ時間がかかりそうだが、もう「国の資産が増える」という表現でエトナリアには明かしてしまっている。宣言したからには確実に前進していかなければ。

それから――いや、これはまた後日でいいだろう。今日の仕事は終わったことにして、レヴィアンスはインフェリア邸を辞した。

イリスの謹慎はまだ解いていない。けれども長くはしないつもりだ。

 

その日の夕方には、インフェリア邸は実に忙しなくなっていた。ラヴェンダの婚約祝いということで、カスケードが人を呼んだのだ。だが、それだけではないだろう。父はイリスを助けないと言ったが、気遣っていなければ、ラヴェンダとはほぼ無関係のエイマルたちダスクタイト家の人々まで呼ばない。

「黒すけのとこには、うちの娘が迷惑かけたからな。俺からの詫びってことで」

「お前が詫びてどうすんだ。エイマルは喜んでるからいいけどよ」

そんな会話が玄関で交わされていたのを、イリスは宴会の準備をしながら聞いていた。父との話が落ち着いた頃に、彼らに駆け寄って頭を下げる。

「ブラックさん、イヴ姉、エイマルちゃんを危ない目に遭わせて、本当にすみませんでした! もう二度とこんなことにならないように気をつけます! 今度こそちゃんと、エイマルちゃんを守り抜きます!」

二度と会わせてもらえなかったらどうしよう、とまで考えた。味方をしてくれると言ったダイはともかく、普段からエイマルの世話をしているグレイヴとブラックには許してもらえないのではないかと。

でも、それは嫌だった。エイマルとはこれまで通りに仲良くしたいし、グレイヴとブラックは頼りたい先輩だ。イリスがこれからも裏組織の標的であり続け、一緒にいる人が危険にさらされるとわかっていても、彼らとの交流を諦めたくなかった。

どれくらいの時間、そうしていただろうか。もしかしたら数秒だったかもしれないけれど、イリスにとっては長かった。

「顔を上げなさい」

グレイヴに言われて、勢いよく頭を上げた。すると頭頂部に手刀が入った。結構痛いが、これがまた懐かしい。他人の子だろうと悪いことをすれば容赦しないグレイヴには、昔からよくこうやって叱られたものだった。

……イヴ姉のチョップ、久しぶりだね」

「そう? ここ数日でかなり繰り出したから、アタシはそんな感じしないわよ。……それより、ちゃんと約束しなさいよ」

「約束?」

「たった今自分で言ったでしょう、エイマルを守り抜くって。もう会わないなんて言ってたら、これじゃ済まなかったわ」

ということは、これまで通り会ってもいいのか。ブラックに視線を移すと、それを肯定するように頷きが返ってきた。

「勝手に突き放すって決められるよりずっと良い。エイマルもお前と一緒に遊びたいだろうから、これかも頼む」

「はい!」

今度は絶対に。軍人としてだけではなく、エイマルの「お姉ちゃん」としても、しっかりしよう。認めてもらえるのなら、応えなければ。決意を込めた返事を聞いたかのように、エイマルが玄関から早足でやってきた。手には新聞紙に包まれた大きな塊を抱えている。

「イリスちゃん、見て! ラヴェンダさんのお祝いに、お父さんのお肉持ってきたんだよ!」

「え、ダイさんの? 削いだの?」

「削ぐわけないだろ。向こうで獲ってきたんだよ」

一緒にやってきたダイも、エイマルの持っているものより一回り大きい包みを手にしていた。父も覗き込んで、懐かしい土産だな、と笑う。

「休みも明日で終わりなんで、今日呼んでもらったのは良かったです。ラヴェンダのお祝いと、それからイリスと一緒になって暴れたお詫びってことで」

「そうか、せっかくの休みなのに悪かったな」

「俺は娘たちの成長を見られて、良い思い出になりました。な、イリス」

肉を受け取りながら、ふと思う。ダイは今回、ずっとそう表現していた。それはつまり。

「ずっと気になってたけど、娘たちって言い方、もしかしてわたしも入ってるの?」

「年齢だけなら親子くらい離れてるだろ。それにお前、俺のことは兄扱いしてないし」

素直に喜んでいいのかどうかは微妙なところだが、大切に思われているのだろう。それも実の娘であるエイマルと並べられるくらいに。とりあえず、ありがとう、と返しておいた。

台所仕事にグレイヴも参加してくれ、料理が揃った頃に兄がやってきた。「ただいま」という声はイリスまで聞こえたが、それがすでに笑っていない。今回はイリスにとって怖いことがたくさんあったが、やはり兄が一番怖いことには変わりない。自分が悪いから、仕方ないのだけれど。

「今日はあからさまに機嫌悪くしてるわね。大丈夫?」

グレイヴもさすがに心配になったようだ。ぎこちなく頷いたイリスの隣で、母が困ったように笑う。

「ニアは怒鳴ったりしない分、どこまで怒ってるのかわからないのよね」

「笑い事じゃないよ、お母さん……

今までで一番怒っているのではないだろうか。ニアは自分のことよりも、近しい他人の傷に敏感だ。ニールを泣かせたことで、今度こそイリスと口をきかなくなるかもしれない。謝っても許してもらえないのは覚悟の上で、イリスは兄のもとへ向かった。

兄は先にダイたちに挨拶をしていた。ルーファも一緒にいる。ニールはエイマルに飛びつかれていたが、笑顔がどこかぎこちなかった。――せっかく最近は、明るく笑えるようになったのに。

……あの、お兄ちゃん」

おそるおそる話しかける。だが、兄の表情は見えなかった。その前にルーファがこちらに気づいて大股に歩いてきて、イリスの正面に立つなり頭に拳骨を落としたからだ。痛みに頭を押さえようとすると、今度は怒鳴り声が降ってくる。

「イリス、お前ニールを誘った時なんて言った?! あいつの誕生日祝いだからって、そう言ったよな。それがなんだ、あんな事件に巻き込んで! どうにもおかしい誘い方すると思ったら、最初から子供たちを利用する気だったのか!!」

周りがみんな静まりかえる中、ルーファの言葉がイリスに深く刺さった。そうだ、子供たちを自分の我儘を通すための口実にしようとした。そうして事件に巻き込んだ。現に誘拐されたエイマルだけではなく、もうたくさん怖い思いをしているはずの繊細な少年を傷つけた。

「利用、しました。せっかくニールがこっちに来て、初めての誕生日のお祝いだったのに。わたしがそれを台無しにしました」

イリスが認めると、深い溜息が聞こえた。イリスを殴ったその手で、ルーファは自分の頭を抱えている。

「反省をどう表すつもりだ。俺は謝ればチャラに、なんて甘いことは考えてないぞ」

「チャラになんてできないよ。そんなのわかってる。……でも、どう表したらいいかな。わたしね、エイマルちゃんと同じく、ニールのこともこれからちゃんと守るって言うつもりだった。だけどそんなの、ルー兄ちゃんは、きっとお兄ちゃんも、信用できないよね」

グレイヴたちは優しかったのだ。エイマルが逞しいこともあるだろう。けれども本当なら、これくらい怒られて当然なのだ。これこそが普通の反応だった。反省の表し方を問われても、何をしても許しては貰えない気がして、すぐには思いつかなかった。

「ごめんなさい。ニール、ごめんね。わたし、初めて会ったときからずっと、あんたを傷つけてばっかりだ。怖い思いをさせて、泣かせて、それなのにまたお姉さんぶるなんて、虫が良すぎるよね」

涙がこみ上げる。でも、泣いてはいけない。泣いたって何も変わらない。自然に目のあたりに力が入ってしまう。――ああ、これじゃあ、ニールの顔を見ることすらできないな。

「イリスさん、こっち見てください」

いつの間に近くに来ていたのか、ニールの声がした。目を閉じたまま首を横に振ると、手を握られる。

「お願いです。僕を見て。……僕、怒ってませんし、もう泣いてもいません」

「そっか、ニールは強くなったね。でもわたしの眼は見ないほうが」

「目を開けて。お願いします」

懇願されて、思わず瞼が開いた。眼を制御できていないのはわかっている。でも、目の前の子供は少しも怯えていなかった。具合悪そうにもしていない。

精悍な顔つきの少年が、そこにはいた。

……ね、僕、泣いてないです。事件の時だって、僕が泣いたのは自分の無力さが悔しかったからで、イリスさんの所為じゃありません。だからルーファさん、もういいですよね。ちょっと叱るかもしれないとは聞いてましたけど、手をあげて怒鳴るなんて思ってませんでした。いつも優しいのに、どうしてこんなことを」

傷つけたと思っていた。ただでさえ繊細なのだから、と。しかしニールは、イリスを庇おうとしていた。世話になっている人を、静かな目で見つめて。

しばしの静寂の後、突然誰かが吹き出した。

「ルーファ、お前……っ、頑張りすぎだろ……! たしかにこういう役は、ニアにはやらせたくないよな。いやあお見事!」

「ダイさん? え、なんで笑うの? ここ笑うとこ?」

真っ白だったイリスの頭が、途端に疑問符で埋め尽くされた。グレイヴが呆れ顔で諌めようとするも、今度は母が笑いだしてしまう。イリスとニールは思わず顔を見合わせた。やはりニールに、怯えはない。きょとんとしているが、顔色も良かった。

ニールに眼が効かないことも含めて混乱しているイリスに、ルーファの諦めたような声が届く。

「もうちょっと間を持たせてくれれば良かったのに。ダイさんがいるとこういうことになるからな」

「ルー兄ちゃん、どういうこと?」

「怒ってるんじゃないんですか?」

「怒ってたよ。怒ってなきゃこんなことするもんか。くそ、ダイさんじゃなくてレヴィならもっと空気読んでくれただろうに」

「そんなこと言われても。傑作だったから報告はしておいてやるよ。……つまりだな、ルーファは憎まれ役を演じようとしてたのさ。ニールがイリスを庇うのも、もしかしたら計算の内だったかもな。だからこそニアより先に動いた。先に怒ってしまえば、それ以上のことはできなくなるだろうと踏んだ」

なるほど、とニールがルーファを見上げる。イリスはダイを見て、それからニアへ視線を向けた。

……そうですね。ルーが派手にやってくれた所為で、僕は何もできなくなりました。でもさすがに拳骨はやりすぎ」

「やってからまずいと思った。イリス、頭へこんでないか」

「へこみはしないし、拳骨くらいいくらでも食らうつもりだったけど」

「ニールもびっくりさせたな。悪かった」

ルーファはすっかりいつもの調子だった。ちょっと気の抜けたニールを撫で、ニアに目配せしている。今度はニアが大きな溜息を吐く番で、それからイリスのもとへやってきた。眉を寄せてこちらを見る深海の色に、身が竦む。

「レヴィから連絡があったよ。階級保留だってね」

声は穏やかだった。ルーファに先を越されたせいで、怒るに怒れなくなってしまったのだろう。イリスも自然に、いつも通りの返事ができた。

「うん。軍を辞めさせられるかと思った。そうでなくても、大総統補佐はできないんじゃないかって」

「次はないって言ってた。僕も同じ。またニールが泣くようなことがあったら、きっとそれはよほどのことだろうから、ルーが先に何しようと容赦しないよ」

「その時は縁切られると思ってる」

「そうだね。今の言葉、お互い忘れないようにしようか」

重くて大事な約束だ。けれどもそれくらいでなければ、今のままのイリスではすぐに心が揺らいでしまう。エイマルを守り抜くこと、ニールを泣かせないこと。破れば自分の心も張り裂ける。しっかり憶えていて、これからを歩むと決めた。

「ところで、準備ってどこまで進んでるの。ラヴェンダがホリィさん連れてくる前に終わる?」

「終わらせる! うわ、予定の時間まであと十分しかない。お兄ちゃんも台所手伝って! あと食器運ぶだけだからお兄ちゃんでもできるよ」

「僕を何だと思ってるの。本当に反省してる?」

主役が来る頃には、何事もなかったように賑やかになっていた。笑顔が咲いて、門出を祝う。今からこんなに盛り上がってどうするのよ、たしかに盛り上げろとは言ったけどやりすぎだわ、と文句を言うラヴェンダは、やはり幸せそうだった。

 

 

宴の余韻が残って眠れない。人がいなくなると、広い家が急に寂しくなる。父が家に人を呼びたがるのは、この寂しさに耐えられないからだろうか。この家の人たちは、案外寂しがりだ。

ラヴェンダにもそれはうつったかもしれない。でも彼女には、その寂しさごと抱きしめてくれる人ができた。父には母がいて、兄にも新しい家族がいる。

――でも、わたしは。

布団に包まり、目を閉じる。頭ははっきりしていて、この数日のことをきちんと思い出せる。ちょっと衝撃が大きすぎたということもあるけれど。

もう一度目を開けて額に触れる。何一つとして忘れていない。そしてそれが信じて良かったものなのかどうかも、今では冷静に考えられる。考えて、答えを出せたことがある。

起き上がって、寝間着の上にコートを羽織る。部屋を出て、玄関まで降り、静かに扉を開けて外に出た。冷えた空気の中に立つ人物に、そっと近づく。

「風邪ひくよ」

「一度ひいたら、もう大丈夫でしょ」

「そういうものじゃないと思うけど」

ウルフが困ったように笑う。いや、いつも笑っているから、これはただの困り顔なのだろう。彼がここにいるのは、レヴィアンスの手引きによる。

まだ家が賑やかな時間に、電話がかかってきた。レヴィアンスはまだ大総統執務室にいて、仕事をしているようだった。

――今日だけ、夜間のインフェリア邸の警備を頼んだ。外に出ればウルフに会えるよ。

そんなことしていいの、ついこのあいだまで疑ってたくせに、と問い詰めた声は、自然と小さくなった。ニールだけがこちらへ振り向いたので、あの子には聞こえたかもしれない。

――無罪放免だし、あいつ警備員なんでしょ。仕事仕事。カスケードさんはちょっと自信なかったから、シィさんに許可取ったよ。

いつのまにそんなことをしていたのだろう。母もよく許したものだ。レヴィアンスは全部話したというから、本当に事の全てを知っているだろうに。そう言ったら、だからだよ、と返された。

――あいつと決着つけたいでしょ、イリスは。シィさんもわかってた。何かあればすぐにこっちが動くから、余計な心配せずに会うといい。会いたくなければ部屋にいて。

余計な心配をしているのはレヴィアンスのほうだろう。放っておいても良かったのに。言い返す前に、含んだような一言で締められた。

――お前が患うと周りにも影響あるからさ。

言葉の意味はとうとうわからなかったが、自分の性格を考えるとやはり引きずりそうだった。少しだけ迷って外に出てきて、決めたはずの答えをまた迷う。

「これ、使うといいよ。温かいから」

「いやいや、あんたのほうが寒いでしょ。ずっと外にいたんだから」

「僕は北国育ちだから大丈夫」

巻いていたマフラーを貸してくれ、手袋まで渡される。微笑みに負けて、そのまま借りてしまった。温もりに絆されそうになって、違う、と思い直す。言わなければならないことがある。そのために出てきたのだ。

……バンリさん、こっちの病院にいるんでしょ。ちゃんと治せるって、レヴィ兄が言ってた」

「ああ、聞いたんだね。わざわざ軍医さんが連れてきてくれたんだ。色々厳しいこと言われたよ」

「だってあんたのしてること、やっぱり無茶苦茶だったじゃない。バンリさんの病気、治したかったら一緒に来ればよかったのよ。裏組織のことなんか放っておいて」

「長年調べてると、その癖が抜けなくて。それがバンリにも関係あることなら、そのままにしておけなかった。僕はやっぱり、普通には暮らせないみたいだ」

それはイリスも同じだ。関わってしまったものから手を離せない。たぶん軍を辞めさせられたら、世間一般にいう普通の生活はできなくなる。今がイリスの普通だからだ。同じように、ウルフにはウルフの「普通」があるのだろう。

「バンリと暮らすようになってから、探偵を始めたんだ。人捜しが主だったんで、調べていくうちに例の人身売買組織に辿り着いた。内情を知っていくうちに、バンリの病気のこともわかって。そしたら、もういてもたってもいられなかった。奴らの本拠地がレジーナ近辺だというところまで掴んで、お金が必要だったからこっちにきて仕事を探した。今の警備会社に来たのは偶然。縁が欲しかったっていうのは後付けの理由だ」

後付けでも、そこに留まる理由にはなった。全くの嘘ではなかった。

「街で事件があった日、わたしに会ったのは?」

「仕事が休みだったから、組織に関係ありそうな人間を追ってた。君を襲った人たちだよ。まさか狙われているのが君だなんて、そのときまでわからなかった。中央司令部に君たちがいることを思い出して、利用することを思いついたのも君に会った時。君たちが興味ありそうな情報を伝えて、君が関わるように仕向けた。……僕は、イリスを利用したかった。利用したくて君を呼び出し、自分の過去に同情させようとした」

それはたしかにうまくいった。ルイゼンやレヴィアンスに止められなければ、イリスは軍での捜査内容をそのまま話してしまうところだった。

「君がわざわざ会いに来て、情報はあげられないって言った時、そこで関係を切るべきだった。失敗したらそうするつもりだったんだよ。でも、できなかった」

「どうして」

「もっと会いたかったから」

ふわりと笑って言ったそれは、イリスと同じ気持ちだった。嘘ではなく、打算もなく、純粋な。

「一番最初の出会いから、君に惹かれていた。眼も美しいけど、僕のために必死になってくれたのが嬉しかった。僕よりも年下で、小さいのに、バンリみたいだって思った。水族館に行った時、昔話をしてくれたよね。君でも弱点があるんだなって初めてわかって、本気で愛おしいと思った」

少し前ならわからなかっただろう。でも今ならそれがなんなのか、たった一言で表す言葉を知っている。同じ想いを、イリスも持っている。

ただ、それを抱えるには、イリスはまだ幼すぎた。振り回されて、周囲に迷惑をかけてしまうくらいに。自分の立場を、仕事を、やるべきことを見失うほど、盲目だった。

……ウルフの気持ちは、嬉しいよ。わたしもね、どうしてもウルフに会いたかったの。だからゼンやレヴィ兄の言いつけを破った。それで、大切な人を傷つけた。わたしは軍人だから、それ以前にあの子たちのお姉さんだから、何が何でも守らなきゃいけなかったのに」

この道を行くと決めた以上、それがイリスの最優先事項だ。あちらもこちらも立てるなんて、やはり無理な話だった。選ばなくてはならないときは、必ず来る。

けれども選択肢は、増えるし、増やせる。いや、実は無限にあって、それに気づけるかどうかが大事なのだ。だからイリスは、自分の気持ちを叶えるでも諦めるでもなく。

「今の私じゃ、大切な人をしっかりと抱きしめてあげることができない。だから、わたしがもうちょっと大人になって、恋をしてもちゃんと自分のやるべきことを見失わずにいられるようになったら。……そうしたら、今度はわたしから、ウルフに告白してもいいかな」

待っていてくれとは言わない。ウルフの気持ちが変わってもかまわない。ただ、イリスがそうしたいだけなのだ。我儘だとわかっていて、選び取った答えだった。

ウルフは一瞬だけ笑うのをやめ、目を丸くした。それからまた、満面の笑みを浮かべた。

「楽しみに待ってる。何年でも待つよ。執念深さで言えば、きっと僕のほうが上だからね。君の言葉、絶対に忘れない」

また一つ、約束が増えた。とても大切で、愛しい約束が。

 

インフェリア邸の様子がなんとか見える、住宅街の曲がり角の先。ルイゼンはそこで、ウルフを見張っていた。レヴィアンスが警備会社に連絡をとっているのを聞いたのだ。こっそり、ではなく、まさにその場面に居合わせた。

――ウルフを止めたかったら乗り込みなよ。

どうしてこの人を尊敬していたのか、わからなくなるくらいに、意地の悪い笑みだった。この人だってわかっているくせに。イリスが選んだのはルイゼンの言葉を受け入れることではなく、それを振り切ってでもウルフに会うことだった。

ウルフを監視するという仕事を受けたというかたちではあるが、ここに来たのは悪あがきだと自覚している。そして隣にいる仲間たちもまた、彼らなりにあがいているのだろう。

「メイベル、割り込まないのか」

「怪我を負っていなければ割り込んでいる。これも奴の策略じゃないだろうな」

「君はここに来ただけでも、十分な執念だろう。そして銃を持って来なかっただけ、ちゃんと現実を見ている」

「フィンだっておとなしいだろ。いつもおとなしいけど」

「僕には割り込む資格がない。イリスに余計なことを言って混乱させた責任がある。ウルフ・ヤンソネンはイリスにその答えを教えたようだ」

ルイゼンと、メイベルと、フィネーロ。イリスを想う者同士、抜け駆けせずにやってきたつもりだ。その結果が、自分の気持ちが伝わらないまま撃沈することになるとは思わずに。

そもそも、はっきり言わないと伝わらない相手だったのだ。みんなそれをわかっていたはずなのに、しなかった。四人での関係が心地よくて、それに浸ってしまっていたのかもしれない。

「私は諦めないぞ」

腹の怪我が痛むだろうに、メイベルは強い語気で言う。

「まだあの二人は付き合っているわけではない。物理的な距離と一緒にいる時間で見れば、私が一番イリスに近い。変態盗人からイリスを取り返してやる」

「喧嘩して追い出したくせに」

「腹が立ったのは事実だからな。で、お前たちはどうなんだ。このままイリスが盗人の手に落ちるのを見ているだけか」

イリスが好きになった相手なら仕方がない。ルイゼンはそう思いかけていた。ウルフが害をなす存在ではないとわかった今、それが一番良いことなのではないかと。けれどもメイベルはもちろんそんな満足はしない。

……今回は引いたが、僕も簡単には諦められそうにない」

フィネーロも意外と執着するタイプだ。納得できればそれまでで手放せるのだが、イリスに関してはそうもいかないらしい。

「ルイゼンは? 僕は君には諦めてほしくない。僕らよりも長く彼女を想っていて、彼女のことをよく知っていて、それなのにいきなり出てきた男に掠め取られていいのか」

「私もルイゼンからなら奪い甲斐がある。はっきりしろ」

同志兼ライバルたちに詰め寄られ、ルイゼンはたじろぐ。イリスがウルフを好きなら、諦めるべきなのだろう。でもあんなに彼女を引き留めようとしたのは、仕事のためだけではない。ここに来たこともそうだ。だからつまり、ここで答えが出ないわけはないのだ。

「諦められるかよ。こちとら十二年追いかけてんだ」

絞り出すような言葉に、同志たちは少し満足気に頷いた。

 

リチェスタが電話を受けたのは、早朝、学校へ向かう前だった。自分が受話器を取らなければ無視されていたであろう相手からの言葉を、最後まで聞いて、しっかり受け取った。

――わたしさ、リチェの気持ち、ちょっとだけわかったかもしれないんだ。

十二年。それがイリスと出会ってから今日までの時間だ。彼女を親友と呼ぶようになってから、いつのまにかこんなに経っていた。それでも互いにわからないことはあった。イリスがきっとリチェスタの「恋する気持ち」をあまりわかっていなかったように、リチェスタもイリスについて知らなかったことが山ほどある。

どうしてこんなに勇気があるんだろう。どうしてこんなに行動力があるんだろう。どうしてルイゼンとずっと一緒にいられるんだろう。どうしてこんなに強くて眩しくて、自分が翳むとわかっていても憧れて、離れ難くなってしまうんだろう。そんな思いを何遍も抱いてきたのに、答えは一つも出せなかった。ただ、そんなイリスをルイゼンは好きなのだと、それだけはリチェスタの目にもはっきりしていた。

――ごめんね、リチェ。わたし、無責任だったよね。恋をすることがあんなに不安で怖いことだなんて、全然知らずに偉そうなこと言った。

親友は、イリスは、近づこうとしてくれた。いつだってそうだ。イリスからリチェスタに歩み寄って、初めて世界が明るくなった。ときにそれは眩しすぎたけれど、やはりそんな親友を羨む気持ちは消えず、そしてそんなところが大好きだった。

ときどきしか見せてくれない弱みも含めて、彼女と、彼女と一緒にいられる自分が、誇りだった。

「リチェ?! お前、こんな時間にどうしたんだよ。学校は?」

電話を切ってから、急いで中央司令部敷地内の軍人寮へ走った。ルイゼンを呼び出してもらい、緊張しながら来るのを待った。いつも心臓が弾け飛びそうだからと遠慮していたことに、あえて挑んだ。

自分もイリスの気持ちを知りたくなったから。知りたくてたまらなかったから。

「学校は、遅刻する。ママにばれたら怒られちゃうけど、もう慣れたからどうってことないよ」

「どうってことないって……そんなわけないだろ。送ってやる」

「ありがとう。ゼン君はいつも優しいね」

ルイゼンは昔から優しかった。幼い頃はちょっと乱暴なところもあったけれど、リチェスタには絶対に手をあげなかったし、こちらが吐く良くない嘘まで「仕方ないな」と受け止めてくれた。具合の悪い時は見舞いに来てくれたし、節目の挨拶を欠かさない。――それがただの「幼馴染のよしみ」だとしても、嬉しかった。優しさにずっと甘えていた。

気持ちを告げたら、きっとこの人は困るだろう。リチェスタを傷つけない言葉を選ぶだろう。

「ゼン君、私、あなたのことが好きです。小さい頃からずっと」

でも伝えなかったら、リチェスタはきっとそれを誰かの所為にしたり、いつまでも悩んだりする。昔、そうやってイリスを傷つけた。もう同じことは繰り返すまいと誓った。

ルイゼンが一瞬だけ目を見開いて、それから困った顔をして頭を掻く。この仕草は予想済みだ。ずっと見ていたのだからよく知っている。

……お前、それを言うために来たのか」

「そう。イリスちゃんが、ゼン君はすぐ階級上がっちゃって会いにくくなるから、早くって」

「そっか。あいつが、そうやって言ったのか」

がっかりしたような溜息。それも予想していた。そのあとの返事も。

「ごめん。リチェのことは、妹みたいなものだと思ってる。それ以上には、今は考えられない」

そうだよね。知ってたよ。ずっと覚悟していたから、涙も我慢できる。

「学校まで送る。車こっちだから、ついてこい」

「今は、だよね」

彼がこちらに背中を向ける前に、引き留めることだってできる。勇気は、自分の恋を認めた親友から貰った。

「ゼン君、今は考えられないって言った。じゃあ、これからの可能性がないわけじゃないよね。私、諦めないよ。ずっとゼン君のこと好きだって言い続けるよ。絶対にあなたを振り向かせてみせる!」

その吃驚した顔で、何を思っているだろう。イリスに似ていると、少しは思っただろうか。それとももっと先、「リチェはこんなに強くなったのか」と、思ってくれただろうか。

少し宙に視線を漂わせてから、ルイゼンはしっかりとリチェスタを見てくれた。

「期待してる」

幼い頃から大好きな笑顔で、そう言って。

 

 

イリスの謹慎が解けたのは、二十二日の午後だった。

「ご迷惑をおかけしました!」

改めて頭を下げたイリスを、仲間たちは「全くだ」と迎えてくれた。メイベルも「もう寮に戻ってこい」と言ってくれ、イリスは晴れて日常に戻ることができたのだった。

「これに懲りて、無茶はもうするなよ。なかなか懲りないのがお前だけど」

「ごめん、ゼン。でもウルフの容疑晴らしてくれたんだよね。ありがとう」

言いそびれていた言葉をようやく本人に伝えられた。少し間があってから、「どういたしまして」と返事があった。

「言っとくけど、あいつの為じゃないからな。仕事だからだ」

「でもゼン、仕事好きだし誇り持ってるよね。そういうところ、かっこいいよ」

「煽てても何も出ないし出さないぞ。ほら、お前の分の仕事とっておいてやったんだから、さっさと取り掛かれ」

逸らした顔が赤くなっていたのを、イリスは見逃さなかった。そういう表情をこれからはリチェにも見せなよ、とは思っても言わない。――彼女の告白については、電話で報告を聞いた。まさか振られるとは思っていなかったので、どう慰めたらいいのか迷ったが、それも一瞬のこと。リチェスタは案外、元気そうだった。

――今回はだめでも、次はわかんないもの。私は何度でもゼン君にアタックする。

親友の逞しさがどこからきたものなのか、そこまでイリスは考えていなかったけれど。

仕事の合間に情報処理室にも顔を出した。相変わらずこちらを向くことはなかったが、フィネーロはイリスの話を全部聞いてくれた。

「フィンの言ってたこと、なんかちょっとわかっちゃったかも。私は人にどう思われているかを、もっと深く考えなきゃいけなかったね」

……僕に話してる時点で、まだ考えが浅い気がするが。まあいいだろう、僕も言いすぎた。悪かったよ」

「何謝ってるのよ。ていうかまだ足りないの、わたしの考えは……

フィネーロの言うことはまだ難しい。彼がイリスをどう思っているのか、実はよくわかっていない。それもいつかわかるかな、と思いながら、拒まれないのを良いことにしばらく横顔を眺めていた。

大総統執務室にも行ったが、レヴィアンスは集中モードに入っていて、ろくにこちらを見なかった。ガードナーが、困りましたね、と苦笑していたが、これでいい。どうせあとでまた、顔を合わせることになるのだから。

 

午後だけの仕事はすぐに終わって、そのあとは兄の家に向かった。ニールへの反省の表し方をずっと考えていたのだが、今日やっとそれを伝えられる。本題はまた別にあるのだが、イリスにとってはどちらも大切なことだった。

水族館に行ったのは、ニールの誕生日祝いを兼ねて、ということにしていた。それを台無しにしたのだから、今度こそちゃんと祝わせてほしい。きちんと計画を立てさせてほしい。そう言うつもりだった。

いざ兄たちの住まいに到着して口を開こうとしたら、遮られてしまったけれど。

「ああ、イリス、やっと来たの。僕だけじゃとてもじゃないけど料理間に合わないし、ルーは台所ではあんまり活躍できないんだよね」

「悪かったな、役に立たなくて。そういうわけだから、飯はお前頼みだ、イリス」

「えー、イヴ姉とアーシェお姉ちゃんから届いてるのだけで十分じゃないの?」

「僕だって頑張りたかったんだよ。レヴィの誕生日だし」

兄たちが慌ただしいのは、そしてイリスがここに来たのは、そのためだった。今日はレヴィアンスの誕生日当日。集中モードに入っていたのも、各所からのお祝いを受け取って処理しつつ、夜にはここに来るためだったのだろう。

「仕方ないな、諸々のお詫びも込めて、腕を振るいますか。お、ニール、部屋の飾りつけしてるの? やっぱりセンスいいね」

「イリスさん、こんばんは。台所手伝おうとしたら断られてしまったので。イリスさんが来てくれたので心強いです」

「ニールが手伝った方がスムーズにできるのに。お兄ちゃんってば頑固なんだから」

レヴィアンスが来るのはいつかわからない。が、一緒に来なくて正解だったのはたしかだ。イリスは台所の惨状――それでも以前よりましになっている――を手際よく片付け、料理の仕上げに取り掛かった。

呼び鈴が鳴る頃には、すっかりテーブルの上と壁が華やかになっていた。レヴィアンスの好きな酒もちゃんと用意してある。あとは部屋に入ってくるレヴィアンスを驚かせるだけなのだが。

……? いつもなら、勝手に開けて入ってくるのに」

「イリス、ニールと迎えに出てあげてくれる? きっと入りにくいだろうから」

クスクスと笑う兄とにやつくルーファが気になったが、入ってこなければ凍えてしまうだろう。イリスはニールの手を引いて、玄関に急いだ。

「もー、何してんのレヴィ兄。さっさと入って……

おいでよ、という言葉は出てこなかった。ニールもいつもの挨拶が出てこないようだ。それもそのはず、外に立っていたのはレヴィアンスだけではなかった。

「よ、お待たせ」

「こんばんは、イリスちゃん。あと、ニール君だよね。初めまして」

……エトナさん? なんで?」

そういう予定だっただろうか。しかし、それならそうと兄たちが言うはずだ。だいたいにして、大総統付記者で仕事上でしか関わりのなかったエトナリアがここに来ることが、前代未聞である。混乱するイリスに、レヴィアンスが苦笑いのまま言う。

「とりあえず、エトナだけでも入れてやってくれない? 結構寒いんだ、ここ」

言われるままにすると、エトナリアはごく自然に上がりこみ、兄たちに「久しぶりでーす」と挨拶していた。そして壁の装飾と並んだ料理を褒めちぎって、これまたごく自然に席に迎えられていた。レヴィアンスはイリスの横を通り過ぎ、兄たちに礼を言ってから、エトナリアの隣に座る。

「あの人がエトナさんって人なんですね。なんだか可愛らしい人ですね」

「ニール、エトナさんのこと知ってるの? ねえ、これどういうこと?」

ニールに尋ねても、意味ありげに首を傾げるだけ。またも知らないのはイリスだけという状況だ。いいかげん、こんなシチュエーションはこりごりだ。

「レヴィ兄、説明してよ。わたしが説明されないとわからないの、もう十分知ってるでしょ」

「これからするから、まず座りなよ。ニアとルーファにもちゃんと報告したいし。他のところにはもう済ませてきたから、実家を除けばここが最後」

いったい何の報告なのか。もしや生体技術関係とやらの公表の準備がもう整ったとか。いや、それはいくらなんでも早すぎるだろう。レヴィアンス自身も時間がかかると言っていた。それに報告するならここじゃなくてもいい。兄たちはあくまで一般人なのだから。

考えを巡らせるイリスの目の前で、レヴィアンスと、そしてエトナリアが姿勢を正した。

「以前話した通り、エトナと結婚することになった。でも今までと付き合いが変わるわけじゃないから、これからも普通によろしく」

よろしくお願いします、とエトナリアが綺麗な礼をする。兄とルーファが、おめでとう、よろしく、と口々に言う。ニールも笑顔で拍手をしている。

――これは、いったい。

「どういうことよ?! 話が急展開すぎてわかんないんだけど!!」

イリスの叫びが、部屋の壁を通り越してこだました。

静かにしなさい、と兄に諌められた後で、その話は始まった。

「イリスには一から説明するよ。まず、これはイリスが知ってるような恋愛結婚とかではない。互いの利害が一致して、名目上だけでも結婚しちゃった方が手っ取り早いなって結論に達したんだよ」

曰く、エトナリアは上司から押し付けられる縁談話に、レヴィアンスは大総統の妻になりたい人たちからの度重なる求婚と一部国民からの期待に、それぞれ困っていた。二人とも自分の仕事を最優先にしたく、そのために家庭を持つというビジョンがなかったのだ。今の自分たちには、それは行動の妨げですらあるとも思っている。そこでレヴィアンスから、この名目上の結婚を持ちかけたのだという。

――エトナ、オレたち結婚しようか。

――は? あんた何言ってんの。

――面倒は片付けちゃった方が、心置きなく動けるよ。オレは大総統の、エトナは記者としての仕事にそれぞれ集中したい。だったら効率よく損のない方法をとらない?

もちろん、まったく損がないはずはない。今後エトナリアが本当に結婚したい相手が現れたら、この契約は即座に破棄される。ただ、大総統の妻として発表してしまえば、たとえ契約は破棄されてもエトナリアの人生はうまくいかなくなるかもしれない。そのときはこの結婚が仮のものであったこと、レヴィアンスが一方的に持ちかけたものであることを公表するという条件だ。

エトナリアは少し考えてから、この申し出を受け入れた。レヴィアンスが思ったよりも、彼女は悩まなかったという。

「生活はこれまで通り別々。オレは首都にいて、エトナは仕事や用事に応じてこっちと地方、実家のあるハイキャッシを行き来する。あ、向こうの家にも挨拶しに行かなきゃいけないから、近々執務室をレオとイリスに任せるからよろしく」

「びっくりしたでしょう、イリスちゃん。あたしもまだ実感ないのよね。まあ仕事を円滑に進めるための契約みたいなものだし、実感も何もなくて当然なんだけど」

レヴィアンスは淡々と語り、エトナリアは冗談のように笑う。しかし、冷静に話せることでも、笑って済ませられることでもないのだ。少なくとも、イリスには。

「何それ。二人とも、結婚は経歴として残るんだよ? しかも大総統とその奥さんなんだから、もっと真面目に考えようよ。エトナさん、本当に好きな人ができるかもしれないのに、こんなのいいの? それをわかっててこんな提案するなんて、レヴィ兄、ひどいよ」

「イリス、ストップ。これはレヴィとエトナちゃんが二人できちんと決めたことだよ。君は口出しできる立場にない。それにこの話、ダイさんが来てるうちにもうしてるんだ。その時はレヴィはまだエトナちゃんに話してなかったみたいだけど」

兄が止めなければ、最低、まで口にしていただろう。これは二人の問題で、イリスがとやかく言えるわけがない。まして恋愛感情で周囲を振り回したあとで他人をどうこう言う資格はない。口を噤むと、エトナリアが笑みを柔らかくして言った。

「あたしのこと気遣ってくれてるんだね。ありがとう、イリスちゃん。でもね、あたしはこれ、いい策だと思って乗ったの。それにもう、仕事以外に恋はしないと思うのよ。そういう人生もあっていいんじゃないかって」

イリスが大切なものを守りぬくために恋を保留するという選択をしたように、エトナリアは仕事に邁進できる人生を選んだ。選択肢はそれに気づくことができれば無限にある。そしてその責任は、結局は選んだ当人に委ねられる。後悔しても遅いし、だからこそそれぞれが後悔しないための道を探すのだ。

「それにこれからは大総統閣下に遠慮なく密着取材できるから、あたしとしては旨味もあるの。この立場、大いに乱用させてもらうわよ」

「乱用はするなよ。お互い立場もあるだろ。そういうわけで報告終わり! 飯と酒が楽しみで来てるんだから、そろそろ堪能させてよ」

イリスが全てを呑み込むことはできないまま、宴会が始まった。ご馳走も、デザートも、味がわからない。まるでリチェスタの恋心がわからなかったときのお茶会のようだった。

 

台所を片付けていると、エトナリアが手伝いに入ってくれた。お客さんにやらせるわけには、と断ろうとしたが、いいのよ、と押し切られる。リビングではまだ男性陣が酒を酌み交わしていた。

「あいつ、ここではいつもああなの? ちょっと調子に乗りすぎじゃない?」

「レヴィ兄ですか? まあ、だいたいは。お兄ちゃんは笊だし、ルー兄ちゃんはあんまり飲まないけど聞き上手だから、レヴィ兄が酔っぱらって色々喋るんです。よほどの秘密は言いませんけど」

だから大総統はちゃんとやれてます、と言うと、エトナリアがそうだよね、と笑った。

「根は真面目だし、優しいからね。仕事してるとそれなりにかっこよく見えちゃうし」

……だからこそ、わたしはレヴィ兄の提案が納得できないです。エトナさんの不利になるようなこと、絶対にしないと思ってたのに」

「うん、してないよ」

洗った食器を拭く、かすかな音が耳に届く。気をつけていないと、賑やかさにかき消されてしまいそうだ。それと同じくらいの声で、エトナリアは続けた。

「あのね、イリスちゃん。あたしたち、たぶん周りが思ってるより、お互いが好きよ。少なくともあたしは、レヴィのことが昔から大好きだった」

初めて会った九歳の頃からね、という言葉で、彼女はレヴィアンスの実年齢を知っているのだと気付いた。二人の出会いは、たしかレヴィアンスが仕事でエトナリアのいるハイキャッシに行ったときだ。

「だから実は、結婚の提案は嬉しかったりもするの。恋愛とか、家族になるとか、そういうのとは違うけど。……なんていうのかな、パートナーにあたしを選んでくれたのが、嬉しいんだよね」

ふと、兄の言葉を思い出した。ルーファへの感情は恋じゃない。これは単なる照れ隠しだと思っていたけれど、もしかするとそれだけではないのかもしれない。兄はルーファのことを、「パートナー」と表現する。

「どういうかたちであるにせよ、人生を一緒に歩く相手。あたし、レヴィのパートナーはてっきりレオナルド君かイリスちゃんだと思ってたから、言われたときは信じられなかったけど。でもね、信じてみると、これはなかなか素敵な提案で、レオナルド君とイリスちゃんはそれぞれの立場や将来を守れるし、あたしたちは自分の好きなことができる。障害はまだまだあるけど、一緒に乗り越えるなら最強のパートナーよ。あたしもレヴィにとって、そう思われる人間になりたい」

「なってますよ。だからレヴィ兄、エトナさんを選んだんだと思う」

自然に口を突いて出た。そうだと思えたのだ。二人がそれで良いのなら、そうと決めたのなら、きっと不利なんかではない。なにより、全くの打算ではないことに安心した。エトナリアはレヴィアンスを、レヴィアンスはエトナリアを、信じたのだ。

「良かった。イリスちゃんに受け入れてもらえるかどうか、実は不安だったんだ。だってイリスちゃんは、お兄ちゃんたちが大好きだもんね」

「大好きだから、信じるしかないじゃないですか。これで幸せになれるって」

「なれるんじゃない、なるのよ」

きっぱりと言い切ってウィンクをしたエトナリアを見て、イリスは気づいてしまった。きっとレヴィアンスも、周りの誰かやエトナリアが思っているより、彼女のことが好きだ。だってイリスは、たった一言に、かつてレヴィアンスが好きだった人の面影を見てしまった。その人は、イリスも大好きな人だ。だからこの感覚は、信じていい。

「そうですね。絶対幸せになってください」

「イリスちゃんもね。好きな人いるんでしょ? 両想いなのにくっついてないとの情報が入ってるけど、このままでいいの?」

「なんで知ってるの……。わたしはまだいいんです、未熟者なので」

「うかうかしてると障害が増えるわよ。お兄ちゃんたちのジャッジは厳しそうだし」

人の気持ちはわからない。心が読めるわけでもないし、イリスはそもそもそういうことに不得手だという自覚がわいてきた。

けれども、信じることはできる。人の強い思いや、何かを乗り越えようとする力、誰かや何かを大切にすることを。それはイリスも心に持っているもので、たくさん教わったものでもある。

それが未来を拓くのだと、イリスは信じ続ける。これからも、ずっと。