サーリシェリア鉱石「サーリシェレッド」。その真紅の輝きに魅せられる者は数知れず。大陸の南でしか採掘されないそれを扱うことができるのは、南国サーリシェリアの職人たちと、彼らに認められた国外のわずかな専門職人たちのみ。

エルニーニャ王国に鍛冶屋兼武器工房を持っていた、名匠スティーナ翁が去り、たった一人の弟子が店を継いだ。彼女もまたサーリシェレッド加工の資格を持ち、スティーナ鍛冶の営業は変わらず続くこととなった。

だが、サーリシェレッドを扱える職人は、エルニーニャでは彼女を含む数人しかいない。サーリシェリアから鉱石や原石を持ち込むことも規制されており、加工物の持ち出しや輸入には相応の額をサーリシェリア税関に支払わなくてはならない決まりがある。

それを潜り抜けようとする者、不正にサーリシェリア鉱石を扱おうとする者、偽物を流通させようとする者は後を絶たない。その取り締まりも、各国の軍が中心となって行っている。

大陸中、あるいは海外と呼ばれるよその大陸の人々をも魅了するその輝きを、こう呼ぶ者もいるそうだ。――「魔眼」と。

 

 

大総統執務室に、七人の男女が揃った。そのうち二人は、大総統レヴィアンス・ゼウスァートと、その補佐官であるレオナルド・ガードナー大将である。

あとの五人は、新しく中央司令部に配属となった軍人たち。それまでは地方にいたが、最も事件が多く仕事が厳しいといわれる中央に引き抜かれた精鋭だ。

「ようこそ、中央司令部へ。君たちの活躍に期待しているよ。なあに、周りは良いやつばっかりだから、すぐに慣れるさ。気楽に行こう」

ニッと笑ったレヴィアンスを見て、五人の肩から少しだけ力が抜けた。ガードナーはそれを確認したように、「それでは」と中央司令部規律を読み上げ始める。地方とは異なる部分があるので、覚えてもらわなくてはならない。

今回配属されたメンバーは次の通り。

元北方司令部大佐、ネイジュ・ディセンヴルスタ。元東方司令部中尉、ジンミ・チャン。同じく准尉、シリュウ・イドマル。元南方司令部少佐、ミルコレス・ロスタ。元西方司令部准尉、カリン・ブロッケン。

もちろんのこと、レヴィアンスは彼ら全員のデータを頭に入れ、どのように仕事を任せるかを決めている。ガードナーが「以上です」と言葉を切り、目配せをした。

「わからないことがあったら訊いてよ。今でもいいし、あとでもいい。……うん、ないようなら、早速仕事の話をしようか」

鳶色の瞳を光らせ、レヴィアンスはもう一つ、考えを巡らせていた。五人の挙動を見逃すまいと、目を離さずに、それぞれの持ち場を告げる。

この五人の中の誰かが、軍の脅威となり得る、要注意人物なのだ。

 

 

エルニーニャには花の咲き誇る春が訪れている。空気も柔らかく、風が運ぶ葉擦れの音は耳に心地よい。窓を開け放った事務室は清々しい。――が、仕事中の軍人たちには、それを甘受するほどの余裕はなかった。

「リーゼッタ中佐、書類のチェックをお願いします。それからこちらの資料ですが……」

「ただいま戻りました。リーゼッタ中佐、今回の任務の報告をしてもよろしいでしょうか」

「市中巡回の結果、異状はありませんでした。リーゼッタ中佐が懸念していた事項についても、引き続き調査中です」

飛び交う慣れない呼ばれ方に、ルイゼンの処理能力はぎりぎりで追いついている。事務室長というのは、かくも忙しいものだったのか。溜息を吐く暇もない。この激務をこなしてきたマインラート・トーリスを思い出しては尊敬する日々だ。つい先日まで大佐だった彼は、准将への昇格に伴って、将官部屋に移ってしまった。

トーリスが事務室長の任を解かれた今、事務室を取り仕切るのは他の大佐階級の人間になるはずだった。しかし大総統たるレヴィアンスは、どういうわけか中佐に昇格したばかりのルイゼンをその立場に任命した。そうして文句の一つも言えないまま今に至る。

「巡回ありがとうな。資料と報告書には目を通しておく。ええと、遠征任務の報告だっけ、お疲れさん。とりあえず口頭で簡単に報告頼む」

素早く優先順位を決め、仕事をこなしていく。その様子を、イリスとメイベルは自分たちの任務の報告書を作成しながら見守っていた。

「ゼン、やっぱりリーダー向いてるんじゃないの。レヴィ兄よりてきぱきしてるよ」

「少なくとも、前任のトーリス大佐……おっと、今は准将だったか。奴より親しみやすそうだな。だから誰も彼も、余計なことまで報告したがる。急ぎじゃなければ報告書にまとめれば良いものを」

イリスは相変わらず中尉のままだが、メイベルは大尉に昇格した。仕事が増えて面倒だ、とぼやくメイベルのサポートをしたり、リーゼッタ班の下っ端として雑用を積極的にかって出るのが、イリスの仕事だ。

だが、ルイゼンの忙しさも、イリスの下っ端生活も、予定では今日までだ。ルイゼンに事務室長を任されたのは後任の者が異動してくるまでの繋ぎ。そしてイリスたちには、後輩ができることになっていた。リーゼッタ班の人員が、増えるのだ。

「午後から後輩が二人かー。楽しみだね、ベル」

「楽しみなものか。面倒が増えるだけだ。カリンめ、まんまと中央異動を果たしおって……」

後輩のうち、一人はすでにわかっている。メイベルの妹、カリンが実績を認められてこちらへ正式に配属となったのだ。フィネーロが少佐に昇格し、ますます情報処理室の要として求められるようになってしまったために、事務仕事をする人間が手薄になってしまったこの班の助けとなることが期待されている。

もう一人はどんな人間なのか、イリスもまだ知らない。レヴィアンスは「当日になればわかるんだから待ってなよ」と教えてくれなかった。

ただ、中央に人員を集める理由は聞かされた。これはイリスに直接関わる問題なのだ。

三か月前に、裏の人身売買組織を検挙したとき。現在裏社会の関心が、イリスに集まっていることが判明した。正確には、イリスの眼だ。

イリスの眼には原因不明の特殊能力がある。意識して見つめた対象の心身に影響を及ぼす力。ときには巨大な生物や、大勢の人間の意識を奪うことすらも可能なそれを、裏は狙っている。

イリス本人を捕らえて裏に引き入れ、力を良いように使わせる(これが一番難しい)。あるいはイリスの眼を抉って奪い、クローン技術を応用して殖やす(だが実用できるかどうかは不明だ)。もしくは脅威をなくすために、イリスの眼を潰してしまう(これがもっとも実行可能性が高い)。裏の思惑通りにならないために、レヴィアンスは味方を増やすことを選んだ。

もちろん、たった一人でも高い戦闘能力を持つイリスを、信用していないわけはない。だが、その絆されやすい心につけこまれるといけないので、彼女を囲むものは多い方が良いのだった。

人員を増やすのは、イリスを守るため。そして、イリスに「軍を」守らせるためなのだと、レヴィアンスは言う。それほどまでに、イリスの眼は敵にまわると厄介な代物なのだった。

イリスも自覚している。この眼で何人もの敵を倒してしまったときに、使い方を間違えてはいけないと深く心に刻んだ。普段は封じることのできている力だが、何かのはずみで制御しきれなくなることもある。そのときのために、「眼が効かない仲間」が必要だ。

「そろそろ昼だ。食堂で新入りが待っているそうだ……が、まだ手が離せそうにないな」

事務室のドアを開け、フィネーロが迎えに来た。だが、ルイゼンは苦笑いしながら書類を手にし、イリスとメイベルは報告書をキリのいいところまであげてしまいたかった。

「悪い、もう少しかかりそうだ」

「仕方ないな、僕も手伝おう。どれから目を通せばいい?」

「こんなに忙しないのも、もうちょっとの辛抱だよね。早く新しい大佐来るといいね、ゼン」

「その新しい大佐とやらも、マシなやつが来るといいんだがな」

「イリス、メイベル、お前たちは手を動かせ!」

結局、食堂に向かうことができたのは、昼を告げる時報から十分ほど経った頃だった。

 

「イリスさん、お姉ちゃん、お久しぶりです!」

食堂に到着したイリスたちを出迎えたのは、メイベルと同じ琥珀色の髪の少女。しかし、幼い顔立ちはあまり姉には似ていない。

「カリンちゃん、久しぶり。元気そうで良かったよ」

「イリスに抱きつくんじゃない。全く、先が思いやられるな」

妹をイリスから引き剥がし、メイベルは溜息を吐く。襟首を掴まれたカリンは、姉にいたずらっぽく笑ってみせた。

「ちゃんとお仕事はするもん。去年の研修と違って、今日からは正式にリーゼッタ班の一員だもの。それに、わたし前より強くなったんだよ」

「ほう、ならば私に勝ってみるんだな」

膨れる妹と大人げない姉はひとまず置いといて、イリスとルイゼンとフィネーロはもう一人の後輩に視線を移す。背筋を伸ばして立っている少年は、背中まで伸びた黒髪を束ね、榛色の瞳でこちらを見ていた。

「そして君が、もう一人の新入りだな」

「東方司令部より異動してまいりました、シリュウ・イドマルです。異動に伴って准尉になったばかりです。よろしくお願いします」

真面目そうな態度はフィネーロと同等かそれ以上。やっとまともな人材をまわしてくれた、とルイゼンはこっそり安堵していた。カリンも真面目なのだが、やはりそこはメイベルの妹で、イリスが絡むと少々暴走するきらいがある。

「こちらこそよろしくね、シリュウ。わたしはイリス・インフェリア。階級は中尉」

「ルイゼン・リーゼッタ中佐だ。一応、班のリーダーってことになってる。いつもはイリスのほうが目立つけどな」

「僕はフィネーロ・リッツェ。少佐だ。普段は事務室にいないことが多いが、班員だ。よろしく頼む。それから、あそこでカリン准尉とじゃれているのが、メイベル・ブロッケン大尉だ」

こちらの自己紹介を、シリュウは頷きながら聞いていた。そして話の切れ目を見計らい、改めて「よろしくお願いします」と頭を下げた。

メイベルとカリンはイリスが宥め、シリュウはルイゼンに促され、六人で食堂のテーブルを囲む。食事をしながら、イリスたちはカリンとシリュウそれぞれのいきさつを聞くこととなった。

「わたしは去年の研修の成果と、あれから一年の働きを認めてもらえたみたいです。閣下が直々に褒めてくださいました」

えへへ、と照れて笑うカリンの頭をメイベルが「調子に乗るな」と軽く叩く。

「あの閣下に褒められたからといって何だ。あてにならんぞ」

「いや、去年の研修がドタバタした原因のほとんどはお前にあるからな、メイベル。それから巻き返した妹を褒めてやれよ」

呆れたルイゼンに、メイベルは反論しなかった。むすっと黙ってサラダを咀嚼する。

「シリュウはどうして中央へ?」

イリスの問いに、シリュウはよく噛んでいたパンを飲み込んでから短く答えた。

「推薦です」

「推薦?」

「上司……クレリア・リータス准将がおれの名前を挙げてくださったんです」

その名前にイリスはハッとした。東方司令部准将クレリア・リータスは、大総統付記者エトナリアの妹だ。イリスは直接会ったことはないが、現在の東方司令部において大きな力を持つ存在であることは、情報として知っている。

その彼女が推挙した人物が、リーゼッタ班に配属された。相当な実力者であることは間違いない。それも、強力な後ろ盾付き。東方准将と、レヴィアンスの二枚立てだ。

「もしかしてレヴィ兄、最初からクレリアさんに相談してたな……。今や義妹だもんね」

呟きはルイゼンに捉えられ、なるほど、という言葉が漏れた。

「東方出身、リータス准将の推薦ってことは、得意なのは剣技か?」

「はい。准将はおれの師でもあります。得物は刀、ミナト流剣術を使います」

ルイゼンが問うと、シリュウははっきりと答えた。それに誇りを持っているというように、胸を張って。

ミナト流剣術は、東方司令部のあるハイキャッシで伝えられる、刀の技だ。会得すれば、細い刀身で岩をも砕くことができるという。ただしその刃は、人を殺すにあらず。その技をもって故意に人間を斬り殺したとき、その人物はミナト流を破門になる。

中央司令部のあるレジーナにも、ミナト流を使う者はいる。ただし、直弟子だった者は遠い昔に破門されており、その娘は技の一部だけを伝えられているという、中途半端なものだ。

「ちゃんと学べば、ミナト流ってすごく強いんだよね。イヴ姉は破壊の奥義を一つだけ習ったらしいけど、シリュウはもっと色々できるんだ?」

「破壊の奥義は、最近になってようやく会得したところですが。基礎からずっとミナト流なので、名に恥じない働きはできるつもりです」

イリスの知るミナト流は、グレイヴとその父ブラックが使えるそれだけだ。剣を使う者として、正式な動作にはちょっと、いや、かなり興味がある。

「カリン、どうやらシリュウはできるやつらしいぞ。お前はどうなんだ」

「わたしは銃の腕を、ちょっとでもお姉ちゃんに近づけるように磨いてきました。でもやっぱり、事務仕事のほうが得意かな」

妹をつつくメイベルは、少し楽しそうで、少し悔しそうだ。無表情ながらも妹贔屓なのである。カリンは自分の領分をきちんと考えているようで、煽りには乗らなかった。

「ブロッケン准尉も、事務仕事の手際はかなりのものだと閣下が仰っていましたが」

「ありがとう、シリュウ君。でも、ブロッケンはこの班に二人いるから、わたしのことはカリンって呼んで。お姉ちゃんはメイベルね」

「そうですね。……では、今後はカリンさんと」

名前を呼ぶときに顔が少し赤くなるのが初々しい。イリスはシリュウとカリンをにまにまと笑みを浮かべながら見ていた。可愛く頼もしい後輩たちのおかげで、これから楽しくなりそうだ。

しかしルイゼンは、笑ってはいるが姿勢が硬い。それに気づいたフィネーロは、しばらく黙って考え込んでいた。

 

午後の始業時、事務室は新しい室長を迎えた。正式にその肩書がつくのは、ルイゼンからの引継ぎを終えた明日からだが、その佇まいはすでに何年もそこで仕事をしていたかのようだった。

ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐。遠目には白髪にも見える薄い青紫色の髪と、そこから覗く濃い紫色の瞳が印象的だ。北方司令部から来たが、元を辿ればサーリシェリア人の血が流れていると、彼は自己紹介をした。

「それにしても、中央は仕事が多いね。明日からは私が引き受けるから、リーゼッタ中佐は安心するといい」

「しばらくは俺が補佐につきます。ただでさえ、この事務室は他に比べて扱う仕事が多く重いので、一人でまとめるのはとても難しいです」

室長机に積まれたバインダーや書類を見て溜息を吐いたネイジュに、ルイゼンは笑みを浮かべながら言った。しかし、ネイジュの表情は明るくならなかった。

「……どうしてそんな事務室の室長を、繋ぎとはいえ君がしていたんだ、リーゼッタ中佐」

それはルイゼンが訊きたいことだったが、口にはしなかった。ごまかす言葉を探しているあいだに、ネイジュは続ける。

「この事務室には、他にも大佐階級の人間がいる。それなのに閣下は君を室長にし、重い仕事を押し付けた。私は閣下のやり方に賛成できない。補佐にあの無功績の人を選んだ頃から、ずっと」

「無功績?」

その言い方に違和感を覚えたルイゼンに、ネイジュは薄く嗤って、室長の椅子に座った。

「補佐にするなら、もっと適切な人物がいた。大きな功績を幾つもあげているのに、どうして……」

ルイゼンは笑顔を保っていたが、内心は穏やかではなかった。何故この人物が中央にやってきたのか、レヴィアンスが彼を選んだ理由は何か、読み取ることができない。それに、大きな功績をあげたという、ガードナーよりも大総統補佐に相応しいといわれた人物。それはいったい、誰なのだろう。

ともあれ、ネイジュという人物は、ルイゼンとはあまり馬が合うとはいえないようだった。仕事の引継ぎは順調にできたが、今日受け取った報告書や関連資料を見るたびに眉を顰める彼の思うところは「どうして中佐になって間もない人間がこんな仕事を任されるのだ」といったところだろう。

現在抱えている仕事は残業になってでも今日中に終わらせてしまおう。でなければややこしいことになりそうだ。ルイゼンはこっそりと溜息を吐いた。

一方、イリスとメイベルは、カリンとシリュウに司令部内を案内していた。カリンは昨年の研修ですでに知っているが、シリュウが来るのは初めてだ。どうせなら、二人ともに現在の司令部の様子を知っておいてもらいたい。

「ここが第三休憩室。休憩のほかにも、小班で会議したいときに会議室が空いてないときとか、あんまり表立って話せないようなことを話すときにも使うよ」

イリスたちも頻繁に使う第三休憩室の前で、カリンが目をくりくりさせて首を傾げる。

「表立って話せないことって?」

「ルイゼンがイリスを叱り飛ばすときとかだな」

メイベルがにやりと笑って言うと、シリュウが目を丸くした。

「リーゼッタ中佐は穏やかそうに見えるのに」

「うーん……怒らせたのはわたしが馬鹿なことをやらかしたせいだから。普段は優しいし頼もしいお兄さんだよ。そういえば、シリュウには兄弟はいるの?」

「いいえ、家族はいません。東方の施設で育ち、十歳になってから軍の試験を受けて、以降はずっとお世話になっています」

もう慣れた回答なのか、シリュウは淡々と言う。イリスが「ごめん」と謝ると、彼は首を横に振った。

「この国では、そう珍しいことではないでしょう。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会です。幼すぎれば軍という選択肢はなくなり、施設と縁がなければ裏社会で裏のルールのもとで育てられる。そうした子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい」

そうでしょう、と確認したシリュウに、メイベルが頷いた。目を細めたところを見ると、彼女はこの少年を気に入ったらしい。イリスだけではなくカリンもそうとったようで、にっこり笑った。

「シリュウ君はそういう選択肢の中から軍を選んだんだね。わたしとお姉ちゃんもね、もしかしたら路頭に迷ってたかもしれないんだよ」

「カリン、余計なことを言うな」

こつん、と姉に頭を叩かれ、カリンは舌を出して口を噤んだ。シリュウもそれ以上聞こうとはしなかった。――そうか、彼らは似ているのだ。自らの置かれた境遇が、ほんの少しではあるけれど。

メイベルとカリンの場合、親はいるが、頼れる状態ではなかった。その状況を、メイベルが軍に入ることで打開したのだ。カリンが後に続くことで、ブロッケン家の生活はかなり安定した。しかしもしメイベルの選択が軍ではなく裏だったなら、彼女らはそれを正しいと信じて今も生きていたのかもしれない。

シリュウとブロッケン姉妹の間にあるのは、一種の共感だった。それも、イリスには到底わからないものだ。それが少しだけ寂しく、しかし安心のもとでもあった。シリュウの味方になれる人間がここにいる。

いつのまにか案内は、カリンがシリュウにあれこれと話しかけ、メイベルがときどき口を挟むようなかたちになっていた。イリスはその光景をほのぼのと眺めながら歩いて行く。そうして、中央司令部内の設備で最も広い場所に辿り着いた。

「ここが中央司令部が誇る、国内最大級の施設。練兵場だよ!」

他司令部からもわざわざ使用しに来るほどの巨大施設。武器庫に揃っている道具も豊富で、軍外の人間も見学に来ることができる。イリスにとってもわくわくする場所だ。ここでなら堂々と、存分に力を振るえるのだから。やりすぎれば叱られてしまうが。

今日もそこかしこで訓練が行われている練兵場に、イリスが現れると空気が変わる。誰もが手を止めてこちらに注目し、それから近くの者と顔を見合わせる。今度は誰が勝負を仕掛けたんだ、と。

「さすがは悪名高いイリス・インフェリアだな」

「悪名とは失礼な。ベルだって銃の訓練してる人たちに見られてるじゃん」

「注目浴びちゃうイリスさんかっこいい……」

互いをつつきあうイリスとメイベル。憧れの先輩にうっとりするカリン。シリュウは周囲を見回し、それから一点を見つめた。

「剣技の訓練も、当然できるんですよね」

視線の先では二人の軍人が向かい合っていた。それぞれの手には軍支給の剣がある。イリスたちが来るまで打ち合っていたようだ。

「もちろん。備品を使ってもいいし、自分の得物でもいい。組手もわたしは好きだけど、剣の訓練は格別だよね。ゼンとの訓練が一番楽しい」

「ええ、東方司令部でも評判でした。インフェリア中尉は佐官をも倒せる実力の持ち主だと。それなのに、何故階級は中尉のままなんですか。閣下の暗殺未遂事件の解決など、功績もあげているでしょう」

そうか、他司令部でも噂になっていたのか。イリスは苦笑し、メイベルは呆れて息を吐く。怪訝な表情のシリュウに、イリスは頭を掻きながら答えた。

「それねえ、全部ふいにしちゃったんだ。わたしのせいで女の子が誘拐される事件が起きちゃって、そのペナルティで階級がしばらく上がらないの。だから班でも下っ端なんだよ」

自分のせいでこうなった。だから仕切り直すことにした。今では清々しいはずなのに、やはりまだうまく笑えないのは、何度思い出しても情けない自分の行動が頭をよぎってしまうからだ。イリスのぎこちない笑みを、けれどもシリュウは気にしていないようだった。

「班での立ち位置がどうであろうと、インフェリア中尉が強いことには変わりありません。身体能力の高さ、剣技のセンスはおれの師であるリータス准将も認めていました。……だからおれは、あなたを超えたい」

誉め言葉を喜ぶ間もなく、真剣な眼差しに射貫かれた。身動きが取れなくなったイリスの代わりに、メイベルがずいっと前に進み出る。

「随分生意気な口をきくな。その心意気は嫌いではないが、あまりイリスをジロジロ見るんじゃない」

「それは失礼しました」

「いやいや、失礼ではないけど……。そんなにはっきり言われると、なんか照れちゃうな」

超えたい、とはっきり言われたのは初めてだ。いつも一緒に訓練をしていて、未だにイリスに勝てたことのないルイゼンだって、「次こそ勝ってやる」くらいしか言わない。どちらの気持ちもまっすぐであることには変わりないのに、シリュウのそれはあまりにも鋭かった。本当に刀の切っ先を突きつけられたような感覚に、ひやりとした。実際のところ、照れる、なんてとんでもなかった。

「なんか危なっかしいなあ、シリュウ君」

カリンの密かな呟きは、イリスにも聞こえなかった。

 

終業時間も間近になって、イリスは大総統執務室に呼ばれた。いつも通りに入室すると、ふわりと花が香る。レヴィアンスの机に、あまり似つかわしくない花束があったのだった。

「うわ、どうしたのこれ。もう結婚発表してるんだから、ファンからってことはないよね」

「結婚していようがいまいが、そのへんは関係ないよ。まあ、ファンからじゃないんだけどさ」

うんざりしたように息を吐いたレヴィアンスに、ガードナーがお茶を出した。イリスにもカップをくれる。今日はミルクティーだった。

「各地方指令部からいただいたんです。紅茶は南方司令部、ミルクは北方司令部、花は西方司令部、それから東方司令部からはこちらの焼き菓子を。異動のご挨拶ですね」

ガードナーが出した焼き菓子は、表面がこんがりとした、一見してパイのようなものだった。勧められるままにイリスが齧ると、中に癖のある甘さの餡が入っている。ガードナーが、ドライフルーツを潰してよく練り合わせたものだと説明してくれた。

「いかがです? 私は食べても何も感じませんでしたが、イリスさんは舌が痺れたりということはありませんか?」

「ないですけど……って、もしかしてレヴィ兄に食べさせる前の毒見ですか」

「申し訳ありません。閣下に何かあっては一大事なので」

「イリスに何かあっても一大事なんだけどね。なにしろオレたち、各方面から狙われてるから」

レヴィアンスも菓子を摘み、無造作に口に放り込む。癖のある味があまり好みではなかったのか、少しだけ顔を顰めた。

しかし、挨拶の品を毒見するとはどういうことだろう。イリスは菓子の残りを食べながら、視線でガードナーに尋ねる。彼はすぐにこちらの意を察して説明してくれた。

「今回異動してきた方々の中に、裏と通じている人物がいる可能性があるのです。というより、その可能性が高い人物を各指令部で調査してもらい、こちらに差し出していただいたというのが正しいです」

ごくん、と大きな塊を呑み込む。のどに詰まったものを通すようにミルクティーを一気飲みして、口の中をやけどした。だが、そんなことを気にしている場合ではない。

「それって、カリンちゃんやシリュウも? 功績が認められたんじゃないの?!」

やっとのことで叫ぶと、レヴィアンスが自分の唇に人差し指を当てた。静かに、ということは、これは極秘事項なのだ。カリンたちの様子を思い出してみたが、おそらくはそんな意図で選ばれたとは思っていないだろう。

「裏が利用するなら、ある程度力をつけている人材じゃないとね。入隊したての子供とかは洗脳しやすいけど、動かしにくい。あまり長いこと軍にいる人間だと、勝手な判断をしがち。イリスたちと同年代くらいがちょうどいいんだよ」

「でも、だからって……少なくとも、カリンちゃんとシリュウは違うよ」

一緒に行動していて、怪しいとは思わなかった。カリンはメイベルの妹だし、シリュウは軍人という立場に真摯に向き合っているように見えた。あの子たちが裏と通じているとは考えられない。眉を顰めるイリスに、レヴィアンスは落ち着いて静かに言う。

「もちろん、ここに来たから即容疑者ってわけじゃない。本当に優秀な人材が集まった。地方で活躍していたんだから、そのまま残していても良いはずだった。それなのに各指令部長やそれに準ずる者が、彼らを中央に送り込んだ。経緯は様々だけどね」

執務机に、顔写真付きの書類が並べられる。今回中央に移動してきた人物の個人データだ。全部で五つ、イリスは今日中に全員の顔を見ていた。

西方司令部で主に事務での仕事ぶりが認められ、司令部長から推薦を受けたカリン・ブロッケン。東方司令部での事件解決の功績と剣技の能力の高さが評価され、上司から推薦を受けたシリュウ・イドマル。この二人以外には、事務室で会った。

南方司令部から来たミルコレス・ロスタとシリュウとともに東方司令部から来たジンミ・チャンは、同じ事務室の別の班に配属されている。それぞれ各指令部長からの推薦を受けていた。そしてネイジュ・ディセンヴルスタは新しい事務室長だ。ルイゼンが「付き合いにくい人だ」とこっそりぼやいていた。彼だけは自ら志願して中央に来ている。

一見して、彼らには優秀であるということ以外の共通点はないように見える。けれども個人データの備考欄には、すでに印がつけられていた。

「サーリシェレッド」――五人全ての但し書きに、その単語が入っている。事務仕事が主であるはずのカリンすらも。

「軍では『指定品目の違法輸出入案件』としてまとめている。すでに大きなジャンルとなっている危険薬物を除く、勝手に国内に持ち込んだり、国外に運び出したりしちゃいけない貴重品に関わるものだ。その国独自の特産品や工芸品なんかが、正式な手続きを踏まずに国境を越えるとこれに抵触する」

実は危険薬物に並ぶ、裏の資金調達の手口の一つなのだと、レヴィアンスは説いた。危険薬物はあらゆる方法を用いて運びやすくすることができるが、こちらはそれよりも扱いにくく、それゆえに事件としてあがってくることは少ない。だが、成功すれば莫大な金が動くことになる。

「サーリシェリアの特産である鉱石、サーリシェレッドは特に狙われやすい。取り扱いの資格を得れば動かせるし。現にうちのじいちゃんやシルビアさんが取り扱いと加工の資格を持ってて、だからこそスティーナの武器である証拠としてサーリシェレッドの装飾を施せた」

「サーリシェリアの国家資格で、非常に難易度が高く、また少しでも規定違反をすれば剥奪される資格です。ですから大陸中で資格を持っている人間はごくわずかで、それもサーリシェレッドを貴重なものにしている要素となっています」

そんな貴重品の扱いに、この五人が関わった。違法取引の取り締まりで活躍していたり、偽物の売買を見抜いて中止させたり。全員が一度はサーリシェレッドに触れている。

「でも、それがどうして裏と通じることになるの」

「サーリシェレッドの違法取引に関わったってことは、裏と直接接触したってこと。若者を唆して仲間に引き入れるのは、奴らの得意技、常套手段だ。それこそ一瞬でも時間があれば十分。裏がイリスを狙っていることが明らかである以上、接触した人物は調べあげて監視下におかないと」

「暴論だよ。接触しなきゃ捕まえられないでしょ」

「接触して捕まえきれなかったんだ。優秀な彼らの、珍しいミス。それを怪しんだ各指令部長が、中央に対象人物を送ってくれたんだよ」

それでも説明不足だ、とイリスは思う。たとえばカリンなどは、そもそも外での任務が苦手なのだから、失敗くらいするだろう。不満を込めてレヴィアンスを睨んでいると、ガードナーに宥められた。

「イリスさん、閣下が言っている可能性は五十パーセントに満たないものです。人員を集めた理由のほとんどは、先に説明した通り、あなたを守るために相違ありません」

「それはありがたいけど……」

「それより、少し状況を整理してみましょう。『指定品目の違法輸出入案件』は、あがってくることがとても少ないものです。いつもなら年に数えるほどしかないものが、ここ最近地方で立て続けに起き、実行犯の完全確保に至らなかった。少しばかり急な話ではありませんか」

穏やかな声が、イリスの頭に上っていた血をよく巡らせ、視点を変えさせた。裏ですら難しいとしている案件が、こうも続いて起きるものだろうか。しかも中央以外の各地方全てで。サーリシェリアに最も近い南方司令部だけではなく、遠いはずの北方でまで事件は起きている。

「ディセンヴルスタ大佐は、自分から中央に来たんですよね」

「ええ、彼はもともと中央で働くことを望んでいました。今回の異動は、先だってのサーリシェレッドの違法取引を取り締まったリーダーとしての責任をとりたいとのことです」

「取引が中央に来る絶好の機会になった、とも考えられるよね。人を募ったのはオレなんだけどさ」

イリスは考え込み、客用のソファにどっかりと腰を下ろした。とりあえず、サーリシェレッドと裏社会に関係がありそうなこと、そしてそこに触れた誰かが裏に取り込まれている可能性があるということは把握した。

だがレヴィアンスの性格からいって、彼らを集めた目的は、「誰か」をあぶり出すことではないだろう。それとわからないように軍側に引き戻し、何事もなかったことにする。それが一番良い手だ。もちろん、裏の情報があれば引き出すのだろうけれど。

「……うん、わかった。今はそれで納得しておく。わたしたちは、それとなく異動してきた人たちの様子を見ていればいいんだね」

「イリスは自分の身の安全も確保すること。あんまり単独行動をとらない、対象人物と二人きりにならないことを心掛けてよ。サーリシェレッドにはちょっと気がかりな別名があるんだ」

レヴィアンスが口にしたその言葉に、イリスは息を呑んだ。たぶんこれが本題だったのだろうと、でなければわざわざ自分が呼び出されて話を聞かされる理由にならないと、判断した。これは大総統補佐のイリスではなく、イリス・インフェリアという人間に対する警告だった。

サーリシェレッド。主に裏で使われるその別名は、「魔眼」。

 

軍の男子寮の一室で、フィネーロはその名を口にした。

「目立った多功績者といえば、閣下を除けばタスク・グラン大将だろうな。三年前、大総統候補にも挙がっていた。ゼウスァート閣下がその立場に決まってからは、大総統補佐になるのではないかとしばらく噂になっていた」

すぐに覆されたがな、という結末は、ルイゼンも知っての通りだ。大総統補佐にはガードナーが選ばれ、タスク・グラン大将は三年前から現在に至るまで将官室長を務めている。

名前を聞けばすぐに顔が浮かんだ。たしかに功績は多く、よく目立つものばかりだ。キメラ討伐に、大規模な裏組織の検挙。危険薬物事件にもよく関わっている。将官室長になる前は実地での大立ち回りが注目されていたなと思い出した。とにかく、彼の行動は目立っていたのだ。圧倒的な存在感は、イリスにも似ている。

「グラン大将って、ルーファさんが引退するまで直属の部下だったんだよな。それもあって結構有名だったのに、なんで忘れてたんだろう」

「おそらく、ルイゼンが閣下に近くなったからだろう。将官たちとの関わりは、僕らはあまりない。だが閣下とガードナー補佐大将とはかなり親密になっている。普段は将官室から出られないグラン大将に気がまわらないのも無理はない」

なるほど、と頷きながら、ルイゼンはネイジュの言葉を思い返していた。――無功績の人を選んだ。これは間違いなくガードナーのことで、より多くの功績を上げた「補佐に適切な人物」はきっとグランのことだろう。

「ディセンヴルスタ大佐は、グラン大将贔屓なんだろうな。俺はガードナー大将が無功績だとは思わないけど、あの人はそう言った」

「ガードナー大将が補佐に就任した当初は、そういった反発があったそうだからな。しかし見事に補佐の役割を果たし、周囲を黙らせたのだから、やはり適任だったのだろう」

「だよなあ……」

まさか今になって、文句を言う者が現れるとは思わなかった。立派に務めを果たしているガードナーを見て、無功績なんて言葉が出るはずはない。彼がいなければ、暗殺未遂事件だって未遂に止められなかったかもしれない。

「……フィン、俺、あの大佐苦手だ。うまくやれなかったらごめん」

「うまくやろうと思わなくていい。閣下がわざわざあの人を事務室長にしたのも、何か理由があるんだろう。これまでと全く違うタイプの人間を置いて、ルイゼンの力を伸ばそうとしているとか」

「それこそ贔屓だろ。俺、そこまで贔屓される人間じゃないよ」

贔屓ではない、とフィネーロは言おうとして、やめた。そのうちルイゼンもわかるだろう。

話題を変えようとして、ふと思い出した。情報処理室にも新入りが来たのだ。リーゼッタ班と同じ事務室を使っている別班に、情報処理担当として配属されたということだった。

「ロスタ少佐と少し話した。彼は僕の武器に興味を示していたな」

「鎖鎌なんて珍しいもの持ってるからだよ。誰でも気になるだろ」

「いや、本体ではなく装飾に。スティーナ鍛冶であつらえてもらったから、サーリシェリア鉱石が使われているだろう。それを羨ましがられた」

「そういえば珍しいんだっけ、それ」

返事をしてから、ルイゼンも思い当たった。ロスタ少佐と同じ班にチャン中尉も配属されていたが、彼女の右耳には赤い石のピアスが光っていた。あれは本物のサーリシェリア鉱石――サーリシェレッドではないだろうか。だとすればかなり値の張るものだ。

「いや、まさかな。とてもアクセサリーとして持てるものじゃない」

フィネーロの訝し気な表情をよそに、首を横に振る。そんなものをアクセサリーとして気軽に持っていられるのは、よほどの人物だ。

たとえば、名家のお嬢様とか。あまり言葉は似合わないが、イリスはサーリシェリア鉱石のブローチを持っている。彼女にとって大事なものなので、めったに使うことはない。

「……あれ? あいつ、そういえば剣にも紅玉ついてんじゃん。贅沢だな」

「なんだ、イリスのことを考えていたのか。君も大概諦めないな」

「そっくりそのまま返す。あと、今のはそういう意味で考えてたんじゃないから」

スティーナ鍛冶が店を構えているレジーナでは、サーリシェレッドはさほど珍しいものではない。だからこそ価値を忘れがちだ。それは、国を動かすことのできるものなのだと。ゆえに「魔眼」と呼ばれているということも、知られていない。

 

 

翌日から、いよいよ本格的に新体制が動き出した。ネイジュの事務室長としての仕事ぶりに問題はなさそうだ。引き継がなければいけないものは昨日のうちにルイゼンが全て片付けた。もちろん、ルイゼンでなければわからないものも処理済みである。

同じ部屋の別の島では、ジンミ・チャン中尉が巡回の準備をしている。元から中央にいる者と行動を共にするようだ。ミルコレス・ロスタ少佐は早々に情報処理室へ向かっていた。

そしてリーゼッタ班。カリンが朝早く来て机を拭いてくれたのを褒めながら、シリュウの様子を確かめる。落ち着き払った態度は、イリスが見る限り、怪しいところなどない。

――やっぱりレヴィ兄の考えすぎじゃないのかな。

とはいえ、サーリシェレッドに関係する事件については気になっていた。メイベルはカリンの仕事について知らないということだったので、本人たちに直接尋ねようと思っている。どう切り出したものか、と考えながら今日の予定を確認していると、カリンのほうから話しかけてきた。

「イリスさん、武器変えたんですよね。私物の剣を登録したんだとか」

「そうそう、前に使ってた軍支給のは壊しちゃったから。良い機会だと思って奮発したんだよ」

机の側に立てかけておいた剣を指さすと、カリンは柄をじっと見つめた。スティーナ鍛冶で作られたものなので、サインの代わりのように紅玉があしらわれている。正真正銘のサーリシェレッドだ。

「剣、気になる?」

「剣が、というより、柄の装飾がちょっと。中央に来ることが決まる少し前に、わたし、あれで失敗をしていて」

やはり該当する事件があったのだ。イリスは少し身を乗りだし、何があったの、と何気ない風を装って訊いた。カリンは困ったように眉を寄せ、ぽつぽつと話し出す。

「ひと月くらい前でした。視察のための遠征任務に連れて行ってもらったんですけれど、そこで会っちゃったんです。違法輸入した宝石の売人に」

「あれと同じ、サーリシェレッドの?」

「はい。他にも国外でしか採掘されないものや、特別な許可がないと扱えないような宝石を幾つも持っていました。許可を得ている人なら問題がないのですが、念のためわたしたちの上司が調べて。相手が許可証を持っていなかったので、本来ならそのまま連行するべきだったんです」

本来なら。ということは、そうならなかったのだ。カリンが悔しそうに小さく息を吐くさまは、姉にどこか似ていた。

「上司がその場を離れなくてはならなくなり、わたしはその人を見張っているようにと言われました。一人での見張りでした。相手はわたしの態度を見て判断したんでしょうね、ポケットから突然許可証を取り出したんです」

勉強不足でした、と歯噛みした妹を、メイベルが睨んでいた。話を全て聞いていたのだ。口を出される前にカリンが視線に気づき、もうわかってるよ、と言った。

「宝石の種類が複数あったなら、その分だけ許可証が必要。そして指定鉱石の許可証は、とてもポケットから取り出せるようなものじゃない。その時のわたしはそれを知りませんでした。ただ、思い出したように提示された許可証が本物かどうかは疑いましたよ。その隙をついて、相手は逃亡を図りました。……わたしの腕を掴んだまま」

視察のための遠征任務の際は、たいてい私服での行動になる。装備の薄い状態でも、軍人なら多くの者は対応できるはずだ。だがイリスは、そしてメイベルも、カリンの弱点をよく知っていた。

「売人は男だな。お前はまた男が怖くて、対応できなかったのか」

メイベルの冷たい声に、カリンは目を伏せて頷いた。幼少期の経験がもとで、彼女には少々男性恐怖症のきらいがある。乗り越えようとはしているものの、とっさに反応できないことがまだあるようだった。

「上司がすぐに気づいて助けてくれたんですけれど、売人は逃がしてしまいました。まだ捕まっていません。完全にわたしのミスです」

「痛恨のミスだな。私が上司なら罵倒しているところだが、どういうわけかお前はその後中央へ栄転が決まった」

「お姉ちゃんならそうするよね。わたしも中央への異動が決まったのはおかしいなと思ってる」

裏の人間と思われる者に接触していたのは事実のようだ。連れ去られそうになったのは、裏に引き入れるためだったかもしれない。だが、唆されるなどといったことはないようなので、カリンはシロだろう。

「それ以上にカリンちゃんが今まで頑張ってきたことが認められたんだよ、きっと。ベルはあんなこと言ってるけど、わたしたちはカリンちゃんの味方だからね」

「ありがとうございます」

にこ、と笑ったカリンにホッとしてから、イリスはシリュウの様子を窺う。こちらの話を聞いていたのかいないのか、彼は黙って机に向かっていた。中央に移ってきて、提出しなければならない書類がいくつもあるらしく、それを片付けているようだった。

他の四人にも、サーリシェレッドが絡む事件との関わりがある。カリンのようにほんのわずかな接触かもしれないし、もっと深い関係があるのかもしれない。ネイジュは担当事件の責任をとろうとしたというから、裏との関わり方はより深いだろう。それはいったい、どんな事件だったのか。

「メイベル、そろそろ新兵訓練に行け。イリスは閣下の手伝いが入ってるんだろ。カリンとシリュウは俺と一緒にここでの仕事をしようか」

ルイゼンから指示が飛んだ。返事をしながら、イリスはこれからのことを考えていた。