ニア・インフェリアは基本的には画家であるが、その活動は多岐にわたる。そしてそのなかには、一般には知られていないものもあった。宝石を使ってアクセサリーを作るというのも、その一つだ。その技はかつて旅行で訪れた南の大国、サーリシェリアで身につけたのだという。
「一週間くらい休みとって、スキューバダイビングしたり、宝石の加工の勉強したりしてきたんだ。向こうではサーリシェレッドの入手も加工もこっちよりはずっと手軽にできるから。ただ、エルニーニャに持ち込むときに、すごく高いお金をとられるんだけど。それは仕方ないよね、法律で決まっているから」
夕食の準備をしながら簡単に語る兄を、イリスは感心しながら見ていた。手元はちゃんと兄の危なっかしい手つきを支えている。食器をテーブルに出して戻ってきたニールがわくわくきらきらした目でニアを見上げた。
「やっぱりニアさんってなんでもできるんですね。宝石の加工って、カッティングとかも?」
「さすがに専門職の人しかできない部分はやってもらったよ。それでも宝石の扱いは難しくて、本職の人にも売り物にはできないなって言われたけど。そんなでもよければって、イリスのお土産にしたんだ」
「改めて考えると、超高価なお土産だったんだね。お母さんに贈った珊瑚石のブレスレットも、結構したと思ったけど。あれ、珊瑚石って指定品目だっけ」
「サーリシェリア以外でも、海外輸入品があるから、指定には入っていなかったはず。海外もいつか行ってみたいな。長い船旅、ちょっと憧れない?」
憧れるかもしれないけれど、その時はちゃんと家族も、せめてルーファとニールは連れて行ってあげてほしいとイリスは思う。以前に急にサーリシェリア旅行にでかけたとき、ニアはまだ軍人で、イリスは入隊していなかった。しかし当時の状況を知っている人々から聞いたところによると、出発が急だったために、突然一人で残されたルーファが落ち込んでしまって、常にどんよりとした空気に包まれていたとか。
苦笑いするイリスの服の裾を、ニールがくいっと引っ張った。
「イリスさん、サーリシェレッドのアクセサリー持ってるんですね」
「うん。お兄ちゃんが作ったやつ、売り物にならないなんて信じられないくらいきれいなんだよ。お気に入りのブローチなんだ。今度ニールにも見せてあげるよ」
「わあ、見たいです。それって、エイマルちゃんも見たことあるんですか?」
「何度か見せたと思うけど……あの子、宝石の硬度がどうのとかそういう話になっちゃうんだよね。図鑑と名のつくものは何でも読み込むからなあ」
お喋りをしながら夕食の準備を終えた頃、ルーファがレヴィアンスを伴って帰ってきた。途中で会ったそうだ。レヴィアンスの手には酒とジュースの瓶がある。
恒例となった、雑談報告会が幕を開けた。
「ああ、スキューバダイビング事件な……。あれはショックだった。当時もう入隊してたルイゼンにものすごく心配された記憶がある」
ルーファはグラスを傾けながら遠い眼をした。ごめんって、と謝るニアの表情は笑っている。
唐突に南国の海の絵が描きたくなって、実物を見にいくという名目で一週間ほど単独で国外に出ていた思い出は、ニアにとっては楽しいものだが、ルーファには寂しいものだ。あまりの落ち込みように、入隊したてだった(けれどもルーファとはすでに親しかった)ルイゼンや、部下たちが戸惑っていたのを、レヴィアンスも記憶している。「あれは笑ったな」と言うレヴィアンスをルーファがじろりと睨んだ。
「当時の直属の部下は今やほとんどが将官や上級佐官だもんね。今でもルーファを尊敬してるやつらは多いし、スキューバダイビング事件のことも憶えてるよ。直属じゃないはずのレオも憶えてた」
「忘れてほしいな。でも俺も、遠慮がちに声をかけてくるルイゼンとか、大将が落ち込んでるって大騒ぎするタスクのことは忘れられないんだけど」
「タスク?」
ルーファのグラスに薬草水を注ぎながら、イリスは首を傾げた。ルーファは部下が多かったが、個人の名前を出すことは退役して以降はめったになかった。それでも出てくるこの名前は、たしか。
「将官室長のタスク・グラン大将。オレがオリビアさんに指名されたせいで大総統になれなかった悲運の人物で、俺が選ばなかったために補佐にもなれなかった。でも実力は認めてたし、できると思ったから将官室長を任せた。本人がそれに納得してるかどうかはわからないけど、文句がないからまあいいんだろ」
ああ、それで聞き覚えがあったのか。在籍している大将級とは、ガードナー以外は馴染みがないために、あまり名前を覚えていられないイリスだった。それでもいくらか印象が残っているのは、彼が任務でうちたてた数々の功績のためだ。
「俺が最後に関わった人身売買組織の検挙のときも、タスクは連れて行ったよ。正義に燃える熱血漢、派手な行動が目を引く。だから誘導には最適だった。あいつが動いてくれているあいだに、俺たちは監禁されていた人々を保護することができたしな」
「でもサンプルになりそうだったものをいくらか台無しにしてくれたのもタスク君だよね。何度思い返しても、僕はあの件に関してはルーの作戦ミスだと思ってる」
ルーファはタスクを評価しているようだが、ニアはあまり彼を好ましく思っていないのだろうか。「僕たちの領分にまで口出ししてくるし」と呟いて、自分のグラスに追加の酒をどぼどぼと注いでいる。
「そうは言うけど、お前の部下なんか癖が強すぎて連れていくことすらできなかっただろ」
「癖が強い人を僕に軒並み任せたのはルーでしょう」
「まあまあ、過ぎた話はもう良いだろ。ニアもルーファも、今は一般人なんだしさ」
「優秀な人材を真っ先に引き抜いていったやつがよく言うよ。レオナルドのことだって、自分が大総統になるタイミング見計らって近づくなんて」
最初に目をつけたのは俺だったのに、と恨めし気に呟くルーファに、イリスはクラッカーの皿を差し出しながら「そうなんだ」と相槌を打った。
「ルー兄ちゃん、先にガードナーさんを見つけたのに自分の班員にしなかったの?」
「特定の班に所属させるよりは、フリーの人員として事務関係を徹底的にやっていたほうが、あいつの性に合ってるんじゃないかと思ってな。レヴィもずっとそう思ってたと、俺は認識してたんだけど」
「だってさあ、ルーファならわかるだろ。オレの性格なら、絶対レオみたいなタイプが補佐にいないと困る。もし周りの期待通りにタスクを登用してたら今みたいな仕事はできなかったよ」
「それはそうだね。タスク君、暑苦しいもの」
さっきからニアのタスクに対する評価が厳しい。クラッカーでチーズを挟み、ニールに渡している表情は、穏やかな笑顔なのに。
しかし、イリスのかろうじて知るタスク・グラン大将は、確かに活躍は多かったものの、人と衝突していたようなイメージはない。今だってプライドの高い人間をまとめなければならない将官室長という立場をしっかりと務めているように思う。悪い噂がないということは、そういうことではないのか。兄と印象が一致しないことで、イリスは大いに首を傾げた。
「ねえ、なんでお兄ちゃん、そんなにグラン大将のこと気に入らないの?」
「気に入らないわけじゃないよ。ただ、僕とは合わないんだ。ああいう自分より下だとみなした人間に対して常に上から目線の子、苦手なんだよね」
上から目線なのは、どの将官も大抵そうではないだろうか。ガードナーのような腰の低いタイプのほうが珍しいくらいだ。階級が上がれば上がるほど、軍人たちは自らを偉く見せようとすることに躍起になってしまうきらいがある。指示をする立場になるから、というのもあるのだろう。威厳がない上司のいうことは、部下もなかなかきかない。
けれどもイリスがそう言えば、「そもそもそれがおかしいんだよ」とニアが返し、ルーファとレヴィアンスも頷く。クラッカーをよく噛んで飲み込んだニールが、金色の目をきらりと光らせた。
「上司に威厳があるかとかじゃなく、やっていることが本当に適切なのかを見極めて、命令の意図や是非をみんなが自分で考えて行動しなきゃいけないってことですよね。エイマルちゃんが言ってました」
「おおう……エイマルちゃんってばそんなことまで言ってたの。さすがあの両親の娘だわ……」
「指揮系統はもちろん必要だし、団結しなきゃいけない場面だって当然あるけどね。でも立場が上の人間だからってその暴走を止めずに放置したら、それこそとんでもないことになる。それに威厳なんてしっかり仕事をしてようやくついてくるものなのに、肩書やちょっとした印象だけでそれを当てにして尻尾を振ったりそっぽを向いたりするのもおかしいだろ」
豆のさやを振り回しながら語るレヴィアンスに、イリスはふむふむと頷く。明らかな「威厳」がなくとも、人がついてくることはある。逆に威光ばかり気にしてろくな仕事をしない者もいる。
「上に立つってのは大変だね、レヴィ兄」
「オレは肩書と仕事用の家名があるから、文句を言いながらも従うやつは多いよ。だからレオよりはずっと楽。あいつには……本当、最初から苦労かけっぱなしだ」
溜息を吐きながら空のグラスを持ち上げたレヴィアンスに、イリスは瓶の口を差し出した。けれども次の瞬間、危うく取り落とすところだった。
「レオとタスクの仲をぶち壊しちゃったのは、いくら反省してもしきれないよ」
「は?! ……ガードナーさんとグラン大将が、何?」
知らなかったか、とレヴィアンスは目を半分伏せたまま言った。
「レオとタスクは同期だよ。オレたちの二年下。で、二人は三年前までは友達で、寮でも同室だった。その関係が変わるきっかけになったのが、オレの大総統就任だったんだ」
ルーファが黙って薬草水を飲み、ニアは「レヴィのせいじゃないよ」と追加の酒を取りに立った。
ルイゼンと、独りは退屈だからと男子寮に来ていたメイベルは、フィネーロの話に唖然とした。彼が語るあまり事務室に顔を見せない新入り――ミルコレス・ロスタの人物像は、問題があると判断するに十分だった。
「いやあ……世の中にはいろんな性癖の人がいるけど、宝石フェチか……」
「気持ち悪いな。しかもサーリシェレッドがお好みとは。絶対にイリスに近づけたくない」
メイベルの言葉には二重の意味がある。サーリシェレッドの裏での別名は「魔眼」であると聞いてから、彼女はずっと嫌そうに表情を歪めていた。
サーリシェレッドがあしらわれた武器を持ち、瞳にもその色を持つ少女。彼女の持つ能力も「別名」と同じ表現をされる。イリスがミルコレスに目をつけられるまでに、そう時間はかからないだろう。
「全く、新入りはどいつもこいつも信用ならない」
「カリンとシリュウ以外な。大佐は苦手だし、チャン中尉はよくわかんないし、今回の人事は本当にどうなってるんだか」
「君たちがそう言うと思って、僕もちょっと調べてみた」
憤慨するメイベルと疲れた顔のルイゼンに、フィネーロは端末の画面を見せた。兄から譲り受けたものを、そのままずっと使っているのだ。スパイ道具を持ち歩いて大丈夫なのかとルイゼンが問うたことがあるが、一応は大総統閣下の許可を得ているらしい。寛容なのではなく、利用価値があると判断されたのだろう。
「個人データの持ち出しは、俺は感心しないけど」
「しかし役に立つかもしれん。室長大佐様の弱点は載っていないのか」
「弱点になるかどうかは、データを見て判断してほしい。ただ僕はやはり今回の異動に目的があるように思えてならない」
ネイジュ、ミルコレス、ジンミ。三人分の簡単なデータが端末に表示されている。この国の軍人であれば容易にアクセスが可能なものだが、それは軍の情報端末での話であって、個人的に持ち出すことは非常に危険だ。それでもフィネーロがそれをしたのは、三人に共通点を見つけたからだった。
「ロスタ少佐はさっき話した通り、宝石マニアで指定品目輸出入の取り締まりに携わっていた。チャン中尉は宝石商家の出身で、宝石関連の事件では真贋を見分けられる特技を発揮している。そしてディセンヴルスタ大佐は、指定品目輸出入の取り締まりを指揮していた。……そして最近になって、地方司令部の管轄で指定品目の違法輸出入や宝石を違法に売買する事件が立て続けに起こっている。地方に必要なはずのエキスパートたちが、何故今中央に集められているのか。僕はまた閣下が何か掴んでいるのだと思う」
これくらいなら、仕事の片手間に簡単に調べられる。フィネーロが提示した資料と疑問に、ルイゼンは感心し、メイベルは呆れた。
「イリスがやたらと外に出されているのも、指定品目、たぶん宝石についての情報を集めさせられているせいじゃないか。今日の午後に向かったのは、ウルフ・ヤンソネンのところと国立博物館だろう。あの男は貴族の持ち物には詳しそうだし、博物館には指定品目についての資料がある」
「閣下も余計なことをしてくれる」
「宝石かー……。たしかに危険薬物と並ぶ、裏の取引材料なんだよな。てことは、閣下は大佐たちを疑ってるのかな。本人たちを動かさずにイリスに調べさせてるってことは、中央司令部にチェックが入ってるわけじゃなさそうだし」
地方で起こっていた事件については、ルイゼンも一時期の室長仕事のおかげで、多少の心得があった。危険薬物、人身売買、違法輸出入と、事件が盛り沢山で頭が痛くなった日々が思い出される。けれどももしかすると、その一時期ですらもレヴィアンスの計算のうちだったのかもしれない。
ふと、メイベルが眉を顰めた。そして大きな舌打ちをして、部屋を出て行こうとした。
「どうした、突然に」
「カリンを問い質す。あいつもサーリシェレッドの売人と接触している。ルイゼンもシリュウから話を聞いておいた方が良い」
「こんな時間にか? それに、なんでシリュウまで?」
「三人が宝石に関係している、という認識は間違ってはいないが正確じゃない。正しくは、異動してきた五人中四人が関わっている、だ。イリスだって五人分のカルテを確認したがっていた。だったら残る一人も疑ってかかるべきだろう」
「お前、いくらなんでも身内まで……」
ルイゼンが止めようとするのを振り払って、メイベルは行ってしまった。これからカリンが責め立てられるのは間違いない。身内だろうが他人だろうが、彼女は容赦しないのだ。
「……やっぱり、見てきたほうがいいよな。それともこの場合はフィンが行ったほうがいいのか?」
「僕が行こう。もっとも、明日にしろとしか言えないが。ルイゼンはここに用意したサーリシェレッドについての資料でも読んでおくといい。何はともあれ、イリスに関係していそうなことだ」
イリスに関わっていそうなことを、彼女自身に調べさせる。レヴィアンスが何を考えているのか、ルイゼンは目を閉じて想像する。あの人を理解できるとはいわないが、思考の一端くらいはわかるつもりだ。
一つ思いついたのが、汚名返上だった。イリスがいつまでも「大失態を犯した軍人」とみなされているのは、レヴィアンスにとっても都合が悪いだろう。強引な手段を使ってでも、彼女に挽回の機会を与えたいと思ったのかもしれない。
けれども、本当にそれだけか。ここで叩いておかなければならない何かがあるのではないか。
「サーリシェリア産鉱石サーリシェレッド、裏での通称は『魔眼』か……」
ルイゼンだって忘れてはいない。イリスは狙われているのだ。今この瞬間も、裏の者たちは彼女の眼の力を欲している。
翌日、リーゼッタ班は午後から外での任務にあたるようにとネイジュから言い渡された。ルイゼン、イリス、シリュウの三人で、近郊の村に向かう。だがこの指示がネイジュの本意ではないことを、ルイゼンはよく知っていた。
「前に危険薬物の取引があったから、しばらくは定期的に様子を見に行かなくちゃならないって、トーリス准将が言ってたよね。それをディセンヴルスタ大佐が引き継いだんだ」
「一応。でもすっごく嫌そうだった。あの人は極力無駄だと判断したことを省きたいんだろうし」
「レヴィ兄が許さないでしょ。危険薬物関連は情報を専門家に渡す約束になってるもん」
この仕事はシリュウと話をするきっかけになるかもしれない。イリスは期待して彼を見たが、やはり今日も無表情で黙々と机に向かっていた。
留守番組になるメイベルの機嫌はすこぶる悪く、カリンも困ったような表情をしている。あとで事務室の様子を見に戻ってくると約束してくれたフィネーロも、仕事量によってはあまり頼れない。
昨日の今日だ、何事もないことを祈るしかない。
「それはそうとして、閣下のところには行かないのか」
「昨日のことは昨日のうちに報告したからね。今日はこっちに専念するよ」
「そうか。調査中の案件は、俺たちにもまわしてくれそうなものなのか?」
「たぶんそうじゃないかと思うけど……」
それがいつ、どんなかたちでルイゼンたちの耳に入るのか、イリスにはまだわからない。けれども確信めいた表情から、イリスが何も言わずとも探っていそうな気はしていた。こちらの準備が整う頃には、すでに仕事にかかる手筈が整っているという未来が、ありありと想像できる。なにしろイリスは迂闊で、仲間たちは優秀なのだ。
「じゃあ、午前の仕事だ。俺とイリスは午後に行く現場の下調べ。シリュウにもこれまでの調査結果を覚えてもらわなくちゃな。メイベルは今日も訓練指導があるから、ちゃんと教えてくるように。カリンは今から俺が教える資料を持ってきてくれ。軍設図書館との往復になると思うけど」
「大丈夫です。午後のお仕事に関わってるんですか?」
「ああ。別件もあるけど、優先度が高い順に言う」
ルイゼンが羅列した資料は、一人で扱うには少々多すぎるように思えた。けれどもカリンはそれをきちんと書き止め、それでは行ってまいります、と事務室を出ていく。イリスは心配だったが、ルイゼンは逆にホッとしたようだった。
「なんでそんなホッとしてるの」
「ひとまず姉妹喧嘩を回避できたから。な、メイベル」
「そうだな、あいつを問い質すのは午後に延期だ」
問い質すって何を、と尋ねる前に、ルイゼンが詰め寄ってきた。仕事の件だけど、と言いながら、イリスの机にメモを置く。少々乱暴な字に息を呑んだ。
――異動してきた人間全員と宝石には何か関係があるのか。
思ったよりも、事態は知られている。迷った末に、イリスは小さく頷いた。やっぱり、と呟きが返ってくる。答えを予想していたように、ルイゼンは二枚目のメモを置いた。
――サーリシェレッドが裏で「魔眼」と呼ばれているそうだが、お前の眼と関係があるのか。
メモを置くあいだにも、あくまで午後の仕事の話を続けるルイゼンに、不覚にも慄いた。彼の向こうには、ネイジュとジンミが会話をしている光景がある。そしてイリスの背後には机で作業を続けるシリュウがいる。誰もルイゼンの動きに不審感は持っていないようだ。
レヴィアンスがルイゼンを高く評価している理由が、また少しわかった。このやり方は兄たちのものなのだ。ルーファとニアが現役時代にしていた、そしてレヴィアンスが現在も用いている方法を、彼は上手く自分のものにしている。
イリスは頃合いを見て、「そうだね」と相槌を打った。その言葉を聞くと同時に、ルイゼンは二枚のメモを回収する。手品師のごとき鮮やかな手つきに、溜息が出そうになるのを我慢した。
「……じゃあ、シリュウも交えて打ち合わせをしよう」
自分の名前が出たことで、シリュウがこちらに意識を向ける。ルイゼンが手招きをしてこちらに呼び寄せ、本当の午後の打ち合わせを始めた。シリュウにとって、初めての中央での任務だ。身になるものにしてやりたい。
「中央は、危険薬物取引の取り締まりには特に力を入れていると聞きます」
一通りの話を聞いて、シリュウが言った。そのとおり、とルイゼンが頷く。
「地方司令部で担当していた危険薬物関連事件も、最後には中央で処理して、情報を他国と共有する。最も多い犯罪の一つだし、こうすることで未然に防いだり、取引のルートを潰したりしていきたいっていうのが閣下の考えなんだ」
「なるほど。たしかに危険薬物関連事件は大陸全体での問題ですね。他を差し置いても優先されるのはわかります」
いくら取り締まっても尽きない事件は、常に最重要事項に置かれる。他の事件にあまり人や時間を割いていないように見えるのはたしかだった。イリスがちょっと苦い顔をすると、シリュウは気づいて頭を下げる。
「すみません、閣下のやり方を非難しているわけではありません。インフェリア中尉は補佐ですから、気にしますよね」
「ううん、わたしもそこまでは思ってないよ。……シリュウは、他にもっとちゃんと調べてほしいこととかがあるの?」
優先されるべきことに埋もれてしまって、見逃されていること。これがのちに大きな問題になってしまうことを、イリスも知っている。たとえば、本来滅多に起きないはずの指定品目の違法輸出入だとか。シリュウも何らかの形で、これには関わりがあるはずだった。
「いいえ、そういうわけではありません。今は目の前の仕事に集中します」
シリュウがどうやってサーリシェレッドに関わったのか、彼の口から聞きたい。だが、まだ聞けるタイミングではなさそうだった。ルイゼンは午後の仕事についての説明を改めてし始め、イリスはシリュウの表情を窺った。変化は、やはり見られなかった。
ミルコレスは結局、フィネーロの隣の席に腰を落ち着けてしまった。仕事もそこで進めている。たしかに手際は良く、自分に任された分は順調に片付けていた。事務仕事には自信があったフィネーロよりもスピードが速い。ちらりとディスプレイや作成した書類などを見たが、雑であったりいいかげんであったりすることもなかった。
「リッツェ君、中央への異動は栄転だと思うかい?」
しかも喋る。手を動かしながら、何気なく。フィネーロも自分の仕事をしながら、それに答えた。
「閣下に召集されたなら、栄転なのでは?」
「閣下の召集というか、地方司令部長の推薦というか。まあ、一見して仕事ぶりを認められているような感じがするけれど、実のところ俺は栄転だとは思ってないんだよね。だって、俺にとって仕事の最前線は南方だから」
彼の所属していた指定品目輸出入の取り締まりを担当する特別任務の班は、南方でできたものだ。南方司令部が最もノウハウを持っているし、仕事量も多い。中央に来れば他の仕事にまわされ、指定品目関連よりも危険薬物関連のほうが重要な課題になる。今までミルコレスが専門としてきた仕事には、あまり関われなくなるかもしれない。
「では、ロスタ少佐は今回の異動をどう思ってるんですか」
「左遷だね」
ずばりと正反対のことを言うので、フィネーロは一瞬手を止めかけた。だが、気にしないふりをして相槌を打ち、自分の仕事を続けた。耳だけを隣に傾ける。
「ここに来る前の仕事で、サーリシェレッドの違法取引を押さえるのに失敗してるんだよ。南方司令部がマードックにあるのは君も知っての通りだけど、まさにそこで起こった事件を、俺たちは解決できなかった。違法に輸入されたサーリシェレッドも未回収だし、関係者の確保にも至っていない。大失態を犯したのに、どうして中央に来たのが栄転だと思えるのかな。それとも、他の人たちは栄転なんだろうか。ディセンヴルスタ大佐はもしかしたら栄転だと思ってるかもしれないね」
そういえば、集めた情報ではそうなっていた。直近で発生した指定品目の違法輸出入や違法売買は、未解決が続いている。専門の班であるはずのミルコレスたちですら、任務に失敗しているのだ。
「ディセンヴルスタ大佐について何か知っているんですか」
「んー? 大佐はね、北方司令部で指定品目の違法取引に関わっていたんだよ。でも、ついこのあいだ、犯人を取り逃がして、取引対象の回収もできなかった。指揮を執っていた者として責任を負うってかたちで、北方の違法取引の仕事からは手を引いたはずだけど、まさかそれで中央に来られるなんてねえ。あの人、中央に配属されることを強く望んでいたから、今回の人事は願ったり叶ったりだったんじゃないのかな」
歌うように楽し気に言うミルコレスだが、その内容は重大だ。彼がこのことを知っているのは、南方で特別任務に就いていたからこそだろう。各指令部をまわっての任務もあったはずの彼なら、事件関係者を知っていてもおかしくはない。だが、その情報をフィネーロにもたらす意味は何だろう。
「もしかして、チャン中尉のことも知っているのでは?」
考えながら、さらに情報を引き出そうと試みる。ミルコレスはしばし鼻歌を歌っていたが、ごまかすことはしなかった。
「知ってるよ。ジンちゃんは俺の大切な仕事仲間だもの。きれいな宝石を見せてくれるいい子だよ。仲良くしておいて損はない」
「彼女も仕事でミスを?」
「大佐と同じだよ。犯人を逃がして、取引対象の完全回収ができなかった。同じ任務にイドマル准尉も関わっていたから、一緒に来たんじゃないの」
シリュウとジンミはともに仕事をしていたのか。同じ東方司令部から来たのだから、それは十分にあり得ることではあった。だが、やはり「中央に左遷」というのはおかしい。シリュウなどは、異動に伴って昇進もしている。
やはりこの人事には裏がある。確信したフィネーロがすぐに考えたのは、このことをいつルイゼンに伝えるか、そしてどのタイミングでイリスを問い詰めるかということだった。
すぐ隣の人物がここまで喋る理由は、後回しにして。
訓練指導を終えて戻ってきたメイベルと、何度目かの資料室との往復から戻ってきたカリンが鉢合わせたのは、事務室までまだいくらか距離のある廊下のど真ん中でのことだった。バインダーを抱えながら、カリンは姉に笑いかける。
「お姉ちゃん、お疲れ様」
「……お前」
何事もなかったような妹の表情に、メイベルの頬が引き攣った。昨日ネイジュに叩かれたのが、やっと腫れがひいたところだった。
「ちょうど良かった、カリン。お前に聞きたいことがあったんだ」
「どうしたの?」
「昨日の朝、イリスに話していたことだ。宝石の違法売買をしていた奴を取り逃がしたという話、あれは全部が本当の話か?」
廊下には他にも多くの軍人がいる。メイベルを見て逃げる者、カリンに珍しそうな視線を向ける者と様々だったが、ここにいることが目立っているのには変わりない。
「お姉ちゃん、こんなところでその話は……」
「いいから答えろ。一言で良い」
周りを気にしながらも、カリンはメイベルの眼力に負け、頷いた。
「本当だよ。わたしのミスで売人を捕まえられなかった」
「あの話が全てなんだな。話していないことはないか」
「……お姉ちゃん、何が言いたいの?」
カリンは怪訝な表情で、バインダーを抱え直した。手に少し力が込められたのを、メイベルは見逃さない。見逃すものか、生まれたときから見てきた妹のことだ。
「お前はここに来たとき、強くなったと言った。私は、それは本当のことだと思った。だからわざわざ失敗談を、それも重大なミスをしたことを自分から白状するなんて、おかしいと思っている」
姉妹の様子がおかしいことに、周囲も気づき始めた。二人のことを知っている誰かが、リーゼッタ中佐を呼んだほうが良いんじゃないか、と言った。だが、来たところで、メイベルに止めるつもりは毛頭ない。納得のいく答えが得られるまで、カリンを問い詰める。
「何もできなかったわけじゃないだろう。いや、言い方を変えようか。売人は、本当はお前に何をした。お前が何もできなくなるようなことをしたはずだ」
「だから、急に腕を掴まれて……」
「それしきで無抵抗になるようなら、中央になんか来られるはずがない。お前もそれは疑問だと言っていただろう。全部話したふりをして、イリスを欺くような真似をしてはいないだろうな」
首を横に振るカリンの肩を、メイベルが強く掴んだ。痛い、と呻く声にも怯まない。もしも何か隠しているのなら、たとえ妹だとしても、いや、妹だからこそ許さない。
「メイベル!」
背後から駆けつけてきたのは、ルイゼンだ。だが焦った声を無視して、メイベルはカリンの目をじっと見ていた。カリンもまた、しっかりと見返していた。――何も話すことはない、というように。
「おい、何やってるんだ。訓練指導が終わったらすぐに報告に来い。だいたいこんな廊下の真ん中で」
「煩い、黙れ。私はカリンと話をしている」
肩に置かれた手を、メイベルは見もせずに振り払う。それでもルイゼンは退かない。
「ここですることじゃないって言ってるんだ。今日の昼は第三休憩室に集まろう。どうせ俺とイリスとシリュウは、仕事の話をしなくちゃならないし」
「私がカリンを追及するのを、イリスは止めようとするだろう。それじゃだめだ。私はイリスのために真実を知ろうとしているのに」
「だったらもうわたしは話したよ、お姉ちゃん。わたしは失敗をした。けれどもそれまでの貯金があったから中央に来られた。あるいは失敗したわたしをより厳しいところに置いて鍛え直そうとしているのかもしれない。この答えでも納得できない?」
眉間にしわを寄せるメイベルに、カリンは毅然とした態度で応える。それ以上のことはないと言う。だが、メイベルには姉としての勘があった。まだ何かある、妹は何かを言っていない。それは遠い昔、彼女が父からの暴力を隠そうとしていたときに似ていた。
「……発言に矛盾があるぞ、カリン」
吐き捨てて、メイベルは踵を返した。姉からの追及から逃れられたカリンは、ほう、と息を吐いてバインダーを抱きしめる。そして唇を噛んだその表情に、ルイゼンも違和感を覚えた。だが、ここではその正体を確かめられない。
「カリン、まずは事務室に行こう。資料はそれで最後だから、次の仕事の指示をする」
「わかりました」
カリンは頷き、ルイゼンの後についてきた。周りから見れば、彼女は真面目な軍人に見えるだろう。実際そうなのだが、やはり、メイベルの妹でもあるのだ。
呼ばれて出て行ったルイゼンを見送った事務室には、イリスとシリュウが残されていた。あの慌てようはメイベルあたりが何かしたのだろう、とイリスは予想をつけて、一緒に行きたいのを我慢して待っている。シリュウを一人で残していってはいけない。
「慕われているんですね、リーゼッタ中佐は」
ぽつりとシリュウが言う。イリスは笑って頷いた。
「わたしたちのリーダーだからね。何かと責任をとらされることも多いから申し訳なくも思うけど、本人は仕事としてきちんとやってくれるから。きっとそういうところ、レヴィ兄やうちのお兄ちゃんたちから教わったんだと思う」
もともとお兄ちゃん気質ではあるけど、と付け加えると、シリュウは小さく相槌を打った。
「インフェリア中尉のお兄さんは、ニア・インフェリアさんですよね。元中央司令部大将の」
「うん。シリュウもやっぱり知ってるんだね」
「有名人ですから。それに師匠……リータス准将からも話は聞いています。東方司令部で事件を解決に導いたこともあると。なのに、どうして画家になったんですか。軍にいれば、大総統にだってなれたかもしれないのに」
昔東方司令部で起きたという事件のことは聞いて知っているし、兄がどうして軍を離れたのかという質問も何度も受けた。それだけ兄の退役は惜しまれたものだったのだと、そのたびに実感し、いつもと同じように答える。
「昔から絵はお兄ちゃんの大好きなことで、上手かったからね。大陸全土規模のコンクールで評価されて、絵が売れるようになってから、軍を辞めることは考えてたみたいなんだ。最初は名家の子の道楽だ、なんて言われてたこともあったみたいだけど、素性を隠して発表した作品が話題になってからはそんなふうに言う人もほとんどいなくなった」
本当はそれだけじゃない。ニアが大人になって、自分の持つ「兵器」とも称される力を抑え込めるようになり、軍の監視下に置かなくても大丈夫だろうと、やっと認められたということもある。一緒に生きていこうと言ってくれた人がいたということも、もちろんだ。
大総統やそれに準ずる地位なんて、全く望んではいなかった。本当はレヴィアンスだって、ゼウスァートではなくハイルの名でそこに立つのが一番だと思っていた。けれども、全てが思い通りにはいかない。彼らには彼らの背負ってしまったものがある。
「インフェリア中尉は、いつか大総統になりたいと思いますか」
「え、わたし? レヴィ兄の忙しさを見てると、積極的になりたいとは今は思えないかな。でもその立場にある人を手伝うことができたらいいとは思ってるよ。それがきっと、軍家インフェリアの務めだから」
そしておそらくは、自分の背負ってしまったものの最も有効な使い道だから。イリスの言葉を、シリュウはじっとして聞いていた。やがて、イリスの目を真っ直ぐに見て、口を開く。
「おれと手合わせをお願いします、中尉」
「手合わせ? いつでも歓迎だよ」
「では、今夜でいかがでしょう。練兵場は終業後もしばらく使えますよね」
「そうだね、ちょっとなら。でも尉官同士だから、佐官以上の立ち会いが必要だなあ」
誰に頼もうか、と考えているあいだに、その言葉は告げられた。聞き逃しそうだったが、たしかに耳に入ってきた。
「そしてもし、おれがあなたに勝てたら。あなたの持っている『魔眼』を、おれにください」
裏で使われるその符丁。サーリシェレッドを表すそれを、彼は知っていた。異動でここに来た者なら、サーリシェレッドに関わったことのある人物だということはイリスもわかっている。符丁を知っていてもおかしくはないのだが、シリュウの言葉は妙に鋭い。それにわざわざ「魔眼」という言葉を、イリスに向かって使うとは。
「……それって、どういう意味?」
「あなたがおれに負ければわかりますし、おれがあなたに負ければわからないままでいいんです」
息を呑んで、頭をよぎったのは、立ち会いはいないほうがいいのではないかということだった。
昼の第三休憩室には、緊張した空気があった。仕事の話をしながらも、ルイゼンの意識はメイベルとカリンに向いているし、イリスはシリュウを気にしている。メイベルは苛立っていて、フィネーロは仕事中に聞いた話を頭の中で何度も繰り返していた。
「午後イチの任務が終わったら、俺たちは司令部に戻ってきて報告書を作る。が、何もなければたぶん大佐は目を通すこともしないだろうな。この仕事自体、あの人にとっては無駄だし」
溜息を吐くルイゼンに、フィネーロが眉を顰めた。
「無駄な任務をわざわざあの大佐がさせるだろうか。君を司令部から離れさせるための、厄介払いなんじゃないか」
「その可能性はあるな。現状、大佐様に意見できるのはルイゼンだけだ。いないあいだに何かしようと企んでいるのかもしれん。カリン、お前は何か知らないか?」
「知らないよ。わたしだって、ディセンヴルスタ大佐が何を考えてるのかわからないんだもん。なんでわたしにそんなこと訊くの?」
姉妹の関係に飛び火してしまったので、ネイジュについてはひとまず置いておくことにする。ルイゼンは話を元に戻そうとして、イリスの様子に気がついた。思えば、自分たちが事務室に戻ってから、ずっと何か考えているようだった。
「イリス、気になることでもあるのか」
「え? ううん、何も」
笑みを浮かべて否定するイリスの嘘が、ルイゼンには手に取るようにわかる。彼女の兄の嘘はなかなか見抜けなかったが、妹は父似で実にわかりやすい。
今のうちに追究しておいたほうがいいだろうか。それとも話してくれるのを待つべきなのだろうか。迷うルイゼンを一瞥して、先に口を開いたのはフィネーロだった。
「なあ、イリス。君は閣下の命令で、先頃頻発しているサーリシェレッドの違法取引検挙の失敗と、その関係者である今回の異動人員について調べているんだろう」
瞠目したルイゼンの向かいで、イリスが驚嘆した。どうして知っているのか、ではなく、ここでずばりと言われたことに対する反応だろう。カリンも微かに表情を変え、シリュウは肩がピクリと動いた。
「フィン、情報速いねえ……。しかもそれ、言っちゃうんだ」
ルイゼンが思ったことを、イリスはそのまま口にする。それから小さく息を吐いて、両手をあげた。降伏のサインだった。
「その通りだよ。異動してきた五人全員のカルテも、そのために確認しに行った。サーリシェレッドについて詳しく知りたかったから、ウルフやアーシェお姉ちゃんに話を聞きに行った。わたしもサーリシェレッドについては知らないことが多いんだよ。でも、はっきりしてるのは、あの宝石とわたしの眼が裏では同じ呼ばれ方をしているってこと」
「『魔眼』だな。イリスも狙われているし、サーリシェレッドも各地で違法に取引されている。このままじゃ裏の狙いがどっちなのかわからないし、どちらかでごまかされる可能性がある」
ようやく口を挟んだルイゼンに、イリスは正直に頷いた。
「イリスの眼をサーリシェレッドでごまかすほうが圧倒的に可能性が高い」
「そう、ベルの言うことを、レヴィ兄も考えてる。それで関係があった人員を各地方司令部から集めたの。もちろん実力を評価して、中央司令部にいるわたしの味方を増やすっていうのが最大の理由だよ」
困惑するカリンとわずかに眉を顰めるシリュウを見て、慌てて付け加える。カリンとシリュウは確実に味方であるはずだった。――さっきまでは。
メイベルが舌打ちをして、しかし、と言った。
「よそから人員を集めるほうがよほど怪しいし危険じゃないのか。それも任務に失敗した人間ばかり。もしかして失敗したのではなくて、わざと取引を見逃したのかもしれんぞ」
どいつもこいつも、と呟くメイベルの中では、妹すらも容疑者から外れてはいない。姉に睨まれたカリンは黙っていたが、俯いてはいなかった。
「ロスタ少佐は今回の人事を『左遷』と表現していた。あの人は中央に来たことを、サーリシェレッドを含む指定品目の違法輸出入案件から遠ざけられたと感じているらしい。イリスの味方にはなりそうにないと僕は思うが」
「大佐とチャン中尉も、あんまり味方っぽくはない……てのは俺の偏見かもしれないけど」
「わたしもレヴィ兄も、よくわからないことが多いんだ。何もなければそれでいいし、もしわざと任務に失敗していたとしたら、裏についての情報を引き出す。不確かなことばかりだから、まだゼンたちには話してなかったんだよ」
できれば疑いは晴らしたい、というのがイリスの考えだ。けれども彼女の中で容疑が濃くなってしまった人物がいる。それをここで言うわけにはいかず、とにかく、と言葉を継いだ。
「当面は何も知らないことにしてほしい。カリンちゃんとシリュウも」
正式にレヴィアンスから命が下るまでは、普段通りに、おとなしく。難しいとわかっていても、今はそうするよりほかはない。イリスだけではなく、ルイゼンもそう考えていた。だが。
「大佐様と色目女とシリュウにルイゼン、軟派男にフィネーロ、カリンに私。閣下もうまく監視体制を整えたものだな」
メイベルはそうはとっていなかった。彼女だけではなく、フィネーロも静かに頷く。カリンとシリュウが再び緊張した。
イリスは慌てて否定する。
「そんなんじゃないよ。ていうか、それじゃゼンの負担が大きすぎない?」
「一応室長補佐だ、妥当なところだと私は思うぞ。なあ、ルイゼン」
頭を掻きながら、ルイゼンはこれまでのことを思い返す。一時的にでも室長になったこと、あまり補佐はさせてもらえないがネイジュのしない仕事は自分が引き受けていることを考えると、たしかに事務室全体を見られる立場ではある。監視だと考えれば、異動してきた全員があの事務室かフィネーロのいる情報処理室に配属されたのも筋が通る気がしてしまう。
頷きかけたそのとき、カリンが勢いよく立ち上がった。
「わたし……、わたしはっ! イリスさんが狙われているというのが本当なら、絶対に味方です!」
叫んだ声に嘘はないようだ。イリスは嬉しそうに笑みを浮かべ、メイベルは目を細めた。疑い深い姉もこの言葉は信じたらしい。
「では、僕たちは知らないふりを……と言いたいところだが。イリス、僕の情報源はロスタ少佐本人なんだ。僕はそのまま彼から話を聞いていていいだろうか」
フィネーロはまだ渋い顔をしていたが、イリスは一瞬瞠目してから頷いた。情報が向こうから来るのなら、どうしようもない。
「ロスタ少佐が何を考えてるのかは、もしかしたらフィンが掴めるかもしれないね。わたしもそろそろ、大佐やチャン中尉に直接あたってみようかと思う。ちょっと難しそうだけど」
「根気が必要になりそうだな。なにしろあの大佐と、何考えてるのかわからない中尉だ。そういえばシリュウはチャン中尉と同じ東方司令部にいたんだろ、何か知らないか?」
苦笑いしながらルイゼンが尋ねると、シリュウは無表情のまま「いいえ」と答えた。
「一緒に仕事をする機会はありましたが、おれもあの人のことはよくわかりません。宝石商の娘で、やたらと宝石に詳しいこと、それが好きであることは誰の目にも明らかでしたが」
ここでもすでにわかっていることだ。「だよなあ」と口にしながら、ルイゼンは全員の顔を見渡した。
イリスの表情がこわばり、フィネーロが怪訝そうに眉を顰めていた。
午後の視察任務は、何事もなく終了した。普段通りに振る舞えたはずだ。ルイゼンはこちらの様子に何も言わなかったし、シリュウは指示通りに仕事をしていた。
しかし、よく冷静でいられるものだ。シリュウという人間が、いよいよ恐ろしい。終業後の練兵場で、イリスは深く溜息を吐いた。
距離をとった正面には、刀を構えたシリュウがいる。本来の得物ではなく、武器庫から借りた模造刀だ。イリスが手にしている剣も、本物ではない。
これはあくまで手合わせなのだ。ちょっと、賭けているものが特殊なだけの。本当にイリスを狙っている人間が仕掛けてくるはずの、殺し合いではない。だからシリュウは裏と繋がっていない……と思いたい。
「始めましょう、インフェリア中尉」
痺れを切らしたのか、シリュウが低く言った。覚悟を決めなければ。勝てなければ「魔眼」は彼の手に渡る。――それははたして、宝石なのか、眼なのか。判断はとうとうつかず、必要なはずの立ち会いは誰にも頼むことができなかった。
ルイゼンやレヴィアンスに知れたら、叱られるだろう。けれども、シリュウが疑われることに比べたら、そんなことは大したことじゃない。
「勝負は三本。刃が体に触れれば有効ね」
「承知しています」
この若者を、せっかく来てくれた後輩を、この期に及んでもイリスは疑いたくないのだった。
地面を蹴るのは同時。互いの刃は一瞬で接近し、ぶつかった。中段から振り上げるようなシリュウの斬軌を、イリスが剣を振り下ろして止めた。ミナト流剣術を熟知しているわけではないが、似たような斬撃は過去にグレイヴと手合わせをしたときに経験済みだ。
一撃目はそれでよかった。だが、すぐに一歩引いたシリュウから、次の技が繰り出される。イリスの胴を真っ直ぐに狙った、鋭い突き。当たればたとえ模造刀でも激しい痛みは免れない。すんでのところでそれをかわし、イリスはそのまま剣を真横に薙いだ。得物が大剣ならば、兄の得意な技の一つの模倣になる。
シリュウの反応がわずかに遅れ、剣が彼のわき腹に当たった。
「……やはりお強い。沢山の方と、様々な訓練を積まれたんでしょう」
刃の当たった箇所を撫でながら、シリュウは言う。口調はまだまだ落ち着いている。とても追い詰められたようには思えない態度だ。
「シリュウこそ、容赦ないね。模造刀でも突きは怪我する可能性高いんだよ」
「本気でやらなければ、あなたには勝てません。それに、失礼でしょう」
なんて真面目で、真っ直ぐな子だろう。これがただの手合わせであれば、イリスは喜んで、心置きなく相手をすることができた。実際、手応えのある相手にわくわくしていた。だからこそ、彼から「魔眼」の名が出たことが惜しい。
続く二本目は、イリスから斬りかかっていった。上段に剣を振りかぶって跳び、勢いをつけて袈裟懸けに斬りつける得意戦法だったが、シリュウは完全にこちらの動きを見切ってそれを止めた。そしてイリスが着地をする直前の、バランスが危ういところを的確に狙って、空いていた足を屈みこんで斬り払った。刃を受けた足は上手く地面につかず、イリスはそのまま倒れ伏す。兄や、同じく剣を使うルーファに、よく同じ負け方をしていた。
「これで一勝一敗です。次で決めます」
「こっちの台詞よ」
にい、と笑ったイリスに、シリュウはただただ無表情で向かう。イリスが立ち上がって、すぐに三本目が始まった。
もう足を駆使した戦法はとれない。シリュウの攻撃は速い上に強く、先ほどの一撃はイリスの足から無茶ができるだけの力を奪っていた。もとより足の強さが取り柄だったイリスだ、これでは本領発揮は難しい。でも、だからといって諦めるわけにはいかない。
いくら正統流派の剣術であっても、その使い手がどれほど優秀であっても、年季はこちらのほうが勝っている。「魔眼」のやりとり以前に、イリスはシリュウよりも先輩なのだ。ここで負けては。
「ここで負けちゃあ、イリス・インフェリアの名が廃る!」
中段の薙ぎを防ぎ、弾く。隙ができた体面に上段から打ち込もうとしたが、止められた。が、そのまま力を込めてシリュウの手を下させる。離れれば反動が来ることはよくわかっているし、シリュウもきっとそれを狙っている。だから無理にでも足のばねを働かせた。
斬られる前に、飛び退く。そしてすぐにまた前へ。急接近にも少しもたじろぐことのないシリュウは、やはり見事だ。精神力ならルイゼン並か、それ以上かもしれない。
上段に構えた刀を弧を描くように下段へと振り下ろし、掬いあげるようなシリュウの技を、イリスは斬られるより先に彼の手を剣で打ち、止めた。
「……はい、わたしの勝ち」
「……やられました」
寸分の差しかなかった。シリュウの刃は、ほんのわずか、イリスに届いていなかっただけだった。
「危なかったあー……。尉官でこれだけ手応えのある相手って珍しいよ」
「おれも、ミナト流が通用しない相手は、今まであまりいませんでした。やはりインフェリア中尉は強いです。こんなことなら、『魔眼』を引き合いに出す必要もありませんでした」
そもそもどうしてそんな条件を、と問おうとした。しかし、できなかった。
「こらあ!! 何やってんだ、バカイリス!!」
勝手に勝負をしただけで、こんなに怒鳴られたことはない。命令を無視して対象人物と二人きりになったのがいけなかったのだ。
いつのまにかやってきて、怒号を飛ばしたレヴィアンスに、イリスはぎこちなく笑った。もちろん通用しなかった。
「ごめんって、レヴィ兄。だって剣術使いって聞いたら勝負してみたくなるじゃん」
「少しはいうこときけっての。オレの命令破るだけならまだしも、基本的なことすら守れてないなんて、全然反省してないな!」
頬を抓まれるイリスに反論は不可能だ。そのまま大総統執務室まで引っ張られるかと思ったら、シリュウがそれを止めた。
「閣下、おれがインフェリア中尉に手合わせをお願いしたんです」
「後輩に頼まれようと何だろうと、時間外の練兵場の使用は上司の許可と立ち会いが必要なんだよ。シリュウも覚えとけ」
「上司に言えないような理由を、おれがわざとつけたんです」
ぱ、とレヴィアンスの手がイリスの頬を放した。イリスが制するより早く、シリュウは「理由」を口にする。
「手合わせをしておれがインフェリア中尉に勝てたら、中尉の剣の柄にあるサーリシェレッドをくれるように頼みました。おれの馬鹿な頼みを、中尉は断れず、おれのために人に言うこともできず、こっそり相手をしてくれたんです」
レヴィアンスも黙ったが、イリスも閉口した。これは、そういう勝負だったか。「魔眼」とはそちらの意味だったのか。――それにしては、とってつけたような。
「……なんでサーリシェレッドが欲しかったのさ?」
怪訝な表情で問うレヴィアンスに、シリュウは少しも表情を変えることなく答えた。
「おれの悪い癖です」
午後の任務の報告書は、「異常なし」という結果を口頭で伝えた時点で、ネイジュには不要のものとなった。しかしルイゼンはこれまで通りにきちんと報告書を仕上げ、考えた末に将官室へと持参した。トーリスなら事情を話せば、代わりに見てくれないかと思ったのだ。
将官執務室を訪ねたときには終業時間になっていたが、トーリスら将官はまだそこにいた。将官は一人でいくつかの班や大班の面倒を見なければならず、常に報告書や資料と向き合わなければならない。仕事を選び部下に任せたり、重要任務について会議を行なったりと、外に出ずともやることは多い。訓練の時間がとれず、実戦では役に立たなくなると言われるのは、仕方がない部分もあった。将官になっても現場の第一線で活躍していたレヴィアンスやかつてのニアやルーファは、稀有な例なのだ。
「失礼します。トーリス准将、お願いがあって参りました」
「おお、リーゼッタか。なんだか久しぶりだな。何やら大変だったそうだが」
書類から顔を上げて、トーリスは嬉しそうに笑った。まだ傍らには未処理分が積まれているので、あなたこそ、と返す。
「お忙しいところ、申し訳ないのですが……今日行ってきた定期視察任務の報告書の確認をしていただけますか」
「私がか? 新室長はどうした。ディセンヴルスタとかいう……」
「大佐は、何もなかったのなら報告書は時間と紙の無駄だと。まずは事務室内の無駄を徹底的になくすことから始めようという方針らしいです」
ルイゼンは声を潜めたが、近くの他の将官には聞こえていた。眉を顰める者もいれば、言い分はわからなくもない、というように頷く者もいる。トーリスは前者だった。
「北方出身だったな。無駄を省くのは結構だが、あまりやりすぎると以前の不祥事の二の舞になりそうで、私は不安だ」
「俺もそう思います。とにかくそういうわけで、報告書は見てもらえませんでした。他の報告書も、大体は俺が処理している状態です」
「道理で私に上がってくる報告書のサインが、お前のものばかりなわけだ。随分仕事を任されているんだなと思っていたが、面倒を押し付けられているだけか」
ルイゼンたちの事務室から上がってくるものは、引き続きトーリスがまとめているようだ。渋い顔をしながら報告書を受け取ってくれ、ざっと目を通し、サインをくれた。このまま引き受けてくれるというので、ルイゼンは礼を言った。
「しかし、ディセンヴルスタ大佐の判断は問題だ。ちょっと意見を仰ごう。お前も来い」
誰に、と問う前に、ルイゼンはトーリスに腕を掴まれ引っ張られていった。向かう先を見てギョッとする。そこには、机に向かって書類に判を捺す将官室長、タスク・グラン大将の姿があった。大総統補佐を除く将官のトップに「ちょっと」意見を聞けるのだから、トーリスはやはり偉くなったのだ。
「グラン大将、第一大班事務室長に就任したディセンヴルスタ大佐について、ご報告申し上げます」
「ディセンヴルスタ大佐?」
肩眉を上げてこちらを見る男には、かつて大暴れをしてまで功績をあげてきたような勝気さは感じられない。ただ他の将官らしい、静かな威厳が存在する。近寄るだけで鳥肌が立った。
「リーゼッタ中佐の報告によりますと、ディセンヴルスタ大佐は無駄を省くとして報告書の確認を怠っているようです。事務室長としての職務を放棄しているのでは?」
トーリスの進言にも、低い声で淡々と答える。
「放棄ではないだろう。問題があると判断したものは確認している。ただでさえ仕事量の多い第一大班の見直しを行うことは、悪いことではない。なんでもかんでも受け入れて仕事が滞る方が問題だと、私は思うがね」
その言葉は、とても噂通りのタスク・グランのものとは思えなかった。三年前までなら、こんなにおとなしくはしていないだろう。それとも将官室長として考えを改めたのだろうか。疑問に感じたのはルイゼンだけではないらしく、トーリスも怪訝そうにしていた。
「トーリス准将、君もあまり第一大班に仕事を任せすぎないよう気を付けなさい。ここにいるリーゼッタ中佐含め、たしかに彼らは優秀だ、閣下も特別に目をかけるほどな。しかし物事には限度というものがある」
「彼らの技量に合わせ、適切に割り振りをしているつもりでしたが」
「だったら些細なことは他の班にまわしてやったらどうだ。リーゼッタ中佐も、負担は軽いほうがいいだろう」
そんなことはない、とは言えなかった。忙しいときにはレヴィアンスを多少なりとも恨めしく思ったこともあったし、仕事は全体に行き渡らなければ不公平だ。仕事の質と量のバランスは士気にも影響する。
「ディセンヴルスタ大佐は他でもない閣下が室長に任命しているんだ。少し任せて様子を見てみればいい。リーゼッタ中佐も、もっと柔軟に考えたらどうだ。閣下にいつまでも子供扱いされ、いいように使われるのは、君も本意じゃないだろう」
ここにきて、ようやく目の前にいる人物は間違いなくタスク・グランなのだと実感が湧いた。かつての大総統候補で、あのネイジュが贔屓する者。レヴィアンスの人事を良く思っていないことは今の言葉ではっきりした。
「いいように使われているとは思っていません」
言い返したルイゼンに、トーリスはじめ将官たちが一斉に注目する。タスクは目を眇めはしたが、無言だった。
「大将の仰ることは尤もですが、自分は閣下の言いなりになっているつもりはありません。ディセンヴルスタ大佐ではなくトーリス准将を頼ったことも、閣下が聞けばきちんと段階を踏めと仰るでしょう。これは自分が考え、自分がとった行動です。それに子供扱いなんて、閣下は部下に対して一度たりともしたことはありません。自分は昔からあの方を見てきましたが、そういうことができない人なんです」
失礼しました、と頭を下げる。もう用事は済んだ。この後の処分がどうなろうと、知ったことか。将官執務室を辞する前に、もう一度トーリスに会釈をした。巻き込んでしまった詫びを込めて。
胸ポケットに見慣れないペンが入っていた。こんなものを入れられるのは、一時的に軍服の上着を脱いで席を離れた時。やるのは隣の席の彼くらいだ。フィネーロは寮へ向かっていた足を、渋々と司令部の情報処理室へ戻した。他人の物を持ち続けているのは、気分のいいものではない。
情報処理室にはまだ人の気配がした。合図も遠慮もなく扉を開けると、せめてノックくらいすればよかったと後悔するような光景があった。
フィネーロの隣の席には、一つの椅子に二人が座っていた。一人はミルコレスだが、彼と向かい合うように密着しているのは、ジンミ・チャンだ。軍服はスカートまでもが床に脱ぎ散らかされ、彼女はブラウス一枚だったが、その前もはだけて豊満な肌色が見えている。
「あ、リッツェ君。おかえり」
ミルコレスはにっこりと笑い、ジンミも紅潮した顔で妖艶な笑みを浮かべてこちらへ振り返る。状況が把握できるまでその場から動けなかったフィネーロだが、しかし、やっとのことで顔を顰めて二人に歩み寄った。
「情報処理室にも監視カメラはついているんですが」
ペンを差し出すと、ミルコレスは片手でジンミを抱きしめたまま、もう片方の手で受け取った。
「わざわざありがとう」
「わざわざ? わざとでしょう。こんなものを見せつけるために呼び出したんですか」
「呼んでないよ。ペンの一本くらい、明日でもよかったのに、君はここに来た。それだけのことじゃないか。すぐにここを立ち去ることもできたのにそうしなかったってことは、君も仲間に入りたい? 俺は全然かまわないけど、ジンちゃんは?」
行為と口調がめちゃくちゃだ。激しい嫌悪感を覚えて踵を返そうとしたフィネーロの袖を、白く細い指がつまんで引っ張った。
「私はいいのよ、二人でも三人でもお相手できるわ。私を無視してもかまわない。ミルから今まで散々情報をもらったのだったら、彼に体で返してあげたらどう?」
「馬鹿なことを」
指を振り払うときに、赤で塗られた長い爪が見えた。耳には宝石、唇には艶。これはさぞや、とフィネーロは思わず笑ってしまった。色目を使われたというルイゼンには、さぞや苦手なタイプだろう。
「そういうことは自室でやっていただきたい。その隣は僕の席だ。少しでも汚したら、たとえあなたが年上だろうと承知しません」
「ジンちゃんは君より年下だよ」
「もちろんチャン中尉もです。……情報をべらべら喋ってくれたことに対して対価が欲しいなら、あとで正当な形でお返しさせていただきます」
「俺は君の体かサーリシェレッドがいいな。両方でももちろん歓迎だ。もしくは……」
最後まで聞かずに、早足で情報処理室を出た。こみ上げる吐き気と粟立つ肌は不快の極みだ。明日からも隣にあの男がいるのかと思うとげんなりする。
「いい仕事仲間、ね」
彼らが思った以上に深い関係であることだけははっきりした。
終業後に姿を消したイリスを探して、メイベルは司令部内をうろついていた。大総統執務室かと思ったが、ガードナーが来ていないと答え、レヴィアンスが「じゃあオレも捜す」と部屋から出てきた。
「閣下と二人で歩きたくはない」
「じゃあ二手に分かれよう。どうせ異性の更衣室とか入れないし」
なぜ更衣室、と思ったが、気がつけば練兵場近くの更衣室に来てしまっていた。従ったわけではない、と心の中でぐちぐち言いながら、メイベルは女子更衣室を覗き込む。明かりはついていないが、誰かがいるのか、がたごとと音がする。ロッカーを探る音だ。
電気をつけると、音がぴたりと止んだ。中を進んで一通り見回っても、人の姿はない。その代わり、ロッカーの一つから呼吸音が聞こえた。驚いて、急に息を吸ったような。かすかに漏れた声が、メイベルの知っているものだった。
眉を顰め、逡巡する。あの言葉は嘘ではないと感じた。だが、結局隠れなければならないようなことはしている。言っていないことがあるという勘は正しかった、ということが残念でならない。激情型であるというのは自覚しているが、不思議と怒りは湧かなかった。
「カリン」
ロッカーの中にいるはずの、妹の名を呼ぶ。返事のように、かたん、と音がした。
「そこで何をしている。お前は何をしにここに来た。更衣室に、という意味ではない。中央司令部に、という意味で尋ねている」
そっとロッカーが開いた。出てきたカリンは俯いていて、その手には剣が一振り握られていた。柄には紅玉――スティーナ鍛冶製である証のサーリシェレッドがあしらわれている。見間違えるはずがない、イリスの剣だった。
「イリスの味方なのではなかったか」
「……」
返事を待つ間に、練兵場のほうから怒号が響いた。レヴィアンスがイリスを見つけたらしい。ここに剣などの荷物があるということからも、つまり練兵場にいたのだ。
「閣下の前で白状してもらおう。私はもう、お前を怒鳴るのは疲れた」
「お姉ちゃん、ごめんなさい。閣下にはちゃんと話すから、お姉ちゃんは寮に戻って」
「お前の不祥事は私の責任でもある。周囲がそう言うのだから、そうなんだろう。ロッカーの鍵をこじ開けるくらいの技術は、そもそも私が昔お前に教えたものだ」
疑いは全員にあると言いつつも、メイベルだってどこかで「カリンは関係ないはずだ」と思っていた。それが覆されてしまうことは、存外にショックだった。――自分のような者でも、ショックは受けるらしい。きっと周囲は「意外だ」と言うのだろう。
カリンを引っ張ってきてレヴィアンスと合流すると、イリスと、なぜかシリュウも一緒だった。これから大総統執務室に向かうというので、メイベルもついていくことにした。
「ベル、どうしてカリンちゃんを?」
「どうもこうも、こいつがイリスの荷物を漁ってたんだ。標的は剣、いや、剣についているサーリシェレッドといったところか」
イリスとカリンが同時に息を呑んだ。こんな展開、少しも望んでなんかいなかったのに。
レヴィアンスを先頭に、メイベルがしんがりを務めて進む。その途中で、疲れた表情のルイゼンと、蒼い顔をしたフィネーロと、それぞれ別の方向からやってきて出くわした。
「どうした、みんな揃っちゃったな」
「閣下……。すみません、ちょっと面倒なことをやってしまいました」
「僕は嫌なものを見てしまって。ですが、一つ可能性を提示することができます」
全員の顔を見回し、レヴィアンスが苦笑した。
「みんなまとめて聞くよ。おいで」
レヴィアンスが出て行った大総統執務室で、ガードナーは一人で書類を整理していた。これが終われば、今日の仕事はきれいに片付いて、自分もレヴィアンスも寮に戻ってゆっくり休める。さっきまでは、そういうことになっていたはずなのだが。
「……ノックもなしにこの部屋に入ってくるのは、マナー違反ですよ」
予定は狂うものだ。それも込みで計画は立てなければならない。そもそもレヴィアンスがイリスを捜しに行ってしまった時点で、すぐには帰れないことがわかっていた。今更用事が増えたところでどうということはない。
「マナーが必要なんですか、無茶しかしない大総統のための部屋に」
「ええ、もちろん。もう二十歳を過ぎた大人なら、身につけているべきことですよ。ディセンヴルスタ大佐」
窘められても、ネイジュは不敵な笑みを浮かべていた。というよりも、これはこちらを侮っている表情だなと、ガードナーにはわかった。
「あなたはマナーで伸し上がったんですか。そうやって閣下に取り入って、補佐の座を手に入れたんですか。ご友人を蹴落としてまで」
「取り入った覚えはありません」
「大切なご友人を蹴落としたのは事実でしょう。本当はご友人のほうが補佐に相応しいと、ご自分でもわかっていらしたくせに」
鼻で嗤うネイジュに、ガードナーは静かに瞳を向けた。この不遜な態度の部下の言うことは、間違ってはいない。彼は知っているのだなと、ただそれだけを思った。
「どうして閣下は、何の功績もないあなたを補佐に起用したんでしょうね。雑用には向いていると思ったんでしょうか。もう一人の補佐は名前と義理ですかね。もしかして下心もあったのでは」
「私はともかく、閣下たちへの無礼な発言は許しませんよ」
「許さない、ですか。だからって何ができます? 今すぐ私に何かできるというのならしてみてくださいよ。さあ!」
初めて見たときは、落ち着いた青年だと思っていたのに。見た目というのは当てにならないものだ。挑発的な語調には、かすかに友人だった男を感じた。
「そうですね、ここでは私は何もできません。あなたは敵ではありませんし、その様子では閣下の脅威とも思えません」
ネイジュが整った顔を怒りに歪める。このくらいで感情をあらわにするとは、やはりまだ若い。若いからこそつけこまれやすい。もしも裏の人間が彼に巧みに接触していたとしたら、簡単に引っかかりそうだ。
「ディセンヴルスタ大佐、出ていきなさい。閣下が戻ってこないうちに去ったほうがいい」
「ご忠告ですか? 閣下が戻れば、私は軍を辞めさせられるのでしょうか」
「いいえ、あなたのような人を簡単に外に出しては、どうなってしまうかわかりません。閣下の『教育』は、きっとあなたが考えるよりもずっと厳しいですよ」
たとえ彼が裏と通じていたとしても、レヴィアンスは彼を手放さない。情報を搾り取れるだけ搾り取り、軍人としての心得を叩き込み直し、一生逆らえないように手をかけて育てるだろう。他でもないガードナー自身が、あの人に惚れ込んでしまったのだ。
「私としてはそれもお薦めの道ではありますが、あなたが耐えられるかどうかはわかりかねますので」
「……っ、思ったより口も達者ですね、大総統の狗が。だが到底グラン大将には及ばない」
捨て台詞を吐いてしまった時点で、相手の負けだ。これで大佐になれるとは、北ではさぞ行儀よくしていたのだろう。つい笑みがこぼれた。
「閣下の忠犬であり番犬であることは、私の誇りです」
激昂して言葉が出てこなくなったのか、ネイジュは歯ぎしりしながら執務室を出て行った。つい手を振って見送ってしまってから、彼の出した名前を思い返す。
タスク・グラン――同時に軍に入隊し、生活をも共にした、かつての友人。ガードナーがこの地位を得ることで昔のような関係は断たれてしまったが、彼の功績は今でも認めている。彼こそが補佐に相応しいと思っていたことも、たしかにその通りだった。
ネイジュのように、彼を慕う者もいる。中央にも、口にしないだけでそう思っている人間が多い。それでもタスクが我こそという主張を収めた理由を、ガードナーは正しくは知らないが、少しばかりの希望は持っている。ガードナーを直接罵倒して気が済んだだけではなく、三年経っていくらかは今の立場を認めてくれたのではないかと。
もしもそうなら、彼の気持ちに恥じないような働きをするのが、自分の役割だ。
気を引き締めて片付けの続きをしていると、部屋の外から複数人の足音が聞こえてきた。一つはレヴィアンス、一つはイリス、そしてメイベルと……ルイゼン、フィネーロまで? それにあとの二つは。
「これは大変なことになりましたね……」
呟きながらすぐに取り掛かったのは、お茶の準備だった。落ち着いて話ができるように、香りのよい紅茶を。
「思っていたより愚かだな、お前は」
自室に戻ってすぐに訪れた客人を、タスクは溜息交じりに迎えた。悔しそうに口を引き結んだネイジュは、俯いたまま返事をしなかった。
「レオナルドを舐めていたんだろう。あんなやつでも、大総統補佐を務めて三年だ。部下をあしらうくらいには立場に慣れているだろうに、どうして直接当たったんだ」
「補佐とは言いますが、あの人は結局、閣下の言うことに従うばかりの犬にすぎない。そう思っていたのですが……」
「昨年の暗殺未遂事件では、怪我をしたレオナルドがわざわざ病院から駆けつけて、公会堂での戦いを征した。あの閣下がそうしろと命令するとは思えんから、やつの独断だろう。三年前までの腑抜けと同じままではないということだ」
そう言って笑みを浮かべたタスクは、見惚れるほど清々しかった。台詞を聞かなければ、誰も彼が大総統とその補佐に対して下剋上を企てているとは思わないだろう。
「ネイジュ。その階級に見合うよう、もっと上手にやつらを引っ掻き回すことだな。レオナルドはこっちに任せろ。お前は大総統のお気に入りたちをよく見て、潰せ」
「リーゼッタたちをですか」
「そうだな、お前ならリーゼッタを狙うほうがいいかもな。ブロッケンは扱いにくいし、リッツェとはあまり顔を合わせない。インフェリアは……あれは手を出すまでもない。むしろ権力を得るには不利な状況を作りかねないから、放っておけ」
タスクはグラスを二つ並べ、酒を注いだ。にっこり笑って、片方をネイジュに差し出す。
「甘いくせに生意気なリーゼッタを、徹底的に潰せ。何なら、軍を辞めさせてしまえ。どうせ甘いやつは、俺たちが理想とするエルニーニャ軍には不必要な存在だ」
強さこそ至高の正義。逆らう人間は排除する。タスク・グランの「理想」は入隊した子供時代から変わっておらず、それこそネイジュの求める国軍の頂点の姿だった。