発見したのは、鉄道関係者だった。線路から五十メートルほど離れた場所に不審物があるとの連絡を受け、軍を待つ間にそれに近づいた。
黒い大きな袋に見える。懐中電灯で照らしても、一目見た限りではそれだけの情報しか得られなかった。袋の口は縛っただけで、簡単に開けられそうだ。
好奇心に負けた手は袋に伸び、その結び目を解く。少し持ち上げようとしたが、重かった。中身を覗き、照らし出して、彼の頭は真っ白になった。
悲鳴をあげてから、ようやく思考が追いつく。果たしてこれは作り物か、それともまさかの本物か。なにしろ真っ黒に焦げているので、判別がつかない。
遅れて到着した軍の人員も顔を顰め、けれどもじっくりとそれを眺めた。そうして下されたのは、「おそらく本物だろう」という判断だった。
男とも女ともつかない、ただ成人だろうということだけがわかる、焼死体。これは厄介な案件になるぞと、軍人は深い溜息を吐いた。
熱い紅茶をテーブルに並べてから、口火を切ったのはフィネーロだった。
「閣下、僕は個人に関するデータを私物の端末に持ち出しました。規則を破ったことを謝罪します」
イリスが口をあんぐり開ける向こうで、自分の椅子に座ったレヴィアンスは苦笑する。
「きっとそうするだろうなと思った。手間が省けていいや。だから今回だけ不問にしてあげるよ」
今回だけね、と繰り返してから、目を細めた。これは本当に次はないなと、フィネーロは肩を竦め、イリスは頭を抱えた。
「フィンがそういうことしたのは、わたしのせい?」
「いや、イリスや閣下からは、待っていればいずれ何らかの指示があるだろうと思っていた。だがそれに先んじて、僕に情報を押し付けてきたやつがいる」
「ミルコレス・ロスタだね。フィネーロと話す機会がある人物なんて、あいつくらいだ」
「やはり閣下は意図的に彼らを異動させたんですか」
レヴィアンスは首肯し、き、と表情を引き締めた。
「意図的じゃない異動なんかあるもんか。今回地方司令部から集めた五人は、オレが有能な人材を求めて各地方司令部長に打診したんだ。……というのが表向きの事情で、実際は最近立て続けに起こっていた『指定品目の違法輸出入』案件に関係し、かつ逃亡した実行犯たちと接触した人間を呼び出した。対象品目はいずれの事件もサーリシェレッド。裏では『魔眼』と呼ばれて取引されている」
これくらいわかってるよね、と言いたげなレヴィアンスに、ルイゼンとフィネーロとメイベルは当然のように同時に頷いた。ここまでは掴まれていると、イリスもわかっている。が、問題はその先だ。
「宝石だけならまだ良かったけど、ここ最近は『魔眼』にもう一つの意味がある。裏の人身売買をやってるやつらや、生体技術の悪用を目論んでるやつらが狙っている、そのものずばりの『魔眼』。イリスみたいな異能の眼だね。裏で動いてる複数の組織が同じ符丁に別の意味を込めて使っていて、実際わざと混乱させてるみたいなんだ」
これはイリスにも言ってなかったけど、と明かされたのは、大佐階級以上の一部の人員が調査を続けていた人身売買案件の話だった。確保された裏組織の人間が、符丁の扱いについて白状した。人身売買及び生体技術を扱う組織は指定品目の違法輸出入を主にしているふりをし、中央の目を欺こうとしている。指定品目に関わる案件は地方司令部で扱われることが多く、それも数が少なかったため、中央はこれまであまり関わってこなかった。ノウハウが十分とはいえなかったのだ。
「サーリシェレッドを隠れ蓑にイリスを狙ってるってのはそういうこと。だからこそ『指定品目の違法輸出入』も今まで以上に厳しく取り締まらなくちゃならなかったんだけど、失敗が続いたよね。発生件数が多くなったのはともかく、検挙率がそれ以上に下がったのが気になって、地方に相談して関係者を寄越してもらうことになったら、取引がぴたりと止まった」
そういえば、と呟いたのはルイゼンだ。異動からはまだ三日目ではあるが、中央に人が来ると決まった頃から、たしかに地方からの報告はあがってきていない。
「軍の担当者が裏と通じている疑いは濃厚になった。本当の目的はサーリシェレッドではなく、イリスの眼なんじゃないかっていうのも。全地方で一斉に取引が止まったから、全員がグルって可能性も考えた」
「それはないでしょ、レヴィ兄。カリンちゃんとシリュウは」
「例外とは言えない。たしかに裏と通じている可能性は低かったけれど、本人も知らないうちに利用されているということもありえた。隠れ蓑のほうに関わるか、中身のほうに関わるかの違いだよ。……お前たちの行動はそういうことじゃないの。カリン・ブロッケン、シリュウ・イドマル」
イリスがおそるおそる見たカリンの顔は蒼白だった。シリュウは表情こそ変えないが、実際にイリスに「賭け」を挑んでいる。彼らを擁護するものは何もない。
「……関係あるなんて、知らなかったんです」
先に細い声で言ったのは、カリンだった。メイベルが足を組み直し、妹を見つめる。
「イリスさんが狙われてるなんて今日初めて聞いたんです。だから、危ないなら味方にならなきゃって思ったのは本当で……。でも、サーリシェレッドの横流しをしようとしたのも、本当です」
あの日、と語りだしたのは、昨日の朝に聞いたカリンの失敗についてだった。あの任務の話には、隠したことがあった。
宝石の売人にいきなり腕を掴まれ、連れ去られそうになったのは事実だ。だが、そのときカリンは抵抗できたのだ。売人を押さえ込もうとしたときに告げられた一言に、ほんの一瞬、気をとられた。
――俺に命令したのはお前もよく知っている人間だぞ。
それをきっかけに形勢は逆転し、カリンは上司に助けられたが、売人は逃亡した。質の悪い冗談だろうと思い直して上司に謝り、例の言葉は黙っていた。
その翌日、西方司令部軍人寮のカリン宛てに、封書が届いた。中の便箋には家族の名前が書き連ねられ、サーリシェレッドを一粒でもいいから横流ししろという指示が添えてあった。乱暴な筆跡は、忘れたくても忘れられないものだった。
唐突に中央への異動が決まったのは、その後だ。レジーナにはサーリシェレッドを扱うスティーナ鍛冶があることは知っていた。そのセキュリティをいかに突破するかを考えるより先に目に入ったのが、イリスの剣だった。
「どうして手紙のこと、誰にも言わなかったの? 大体、カリンちゃんが従わなきゃいけないほどの何が……」
「イリス、話を聞いていてわからなかったのか。手紙を書いたのはあの男だな。それをどうしても私の耳に入れたくなくて、馬鹿なことをしようとしたんだろう」
イリスの疑問は、メイベルがバッサリと斬り捨てた。カリンは弱々しく頷き、軍服の内ポケットから封書を取り出す。差し出されたそれを奪ったメイベルは、中身を出して目を走らせ、机に叩き付けた。
「カリンに接触した売人がイリスを狙うやつらと繋がっていたことはたしかなようだ。身辺調査もどうやら万全のようだぞ、閣下」
「やられたな。カリンが絶対に抗えない相手を、向こうはもう確保してたのか」
額を押さえたレヴィアンスには、すぐに状況がわかったようだ。戸惑うイリスに、フィネーロが一言告げた。
「父親だ」
「……あ、ああ!」
ブロッケン姉妹の父親は、あまり良い人物ではなかった。以前カリンから聞いた話では、家族の虐待やその他の犯罪に手を染め、軍に入ったばかりだったメイベルによって捕まえられたのだった。だが、拘束されていた期間はそう長くはなかっただろう。現在の彼の行方を、メイベルもカリンも知らなかった。
「お父さんから手紙が来たって言ったら、お姉ちゃん、またお父さんを追うでしょう」
「ああ、今度こそ殺す自信がある」
いつもの物騒な冗談ではなく、メイベルは本気でその言葉を口にしていた。カリンが手紙のことを隠していたのは、そんな姉の執念と性分を誰よりも知っていたからだ。いくら酷い父親だったからといって、姉に手を下させるのは、カリンには我慢できなかったのだろう。それなら、自分一人が罪を被ったほうがいい――という考えは、やはり姉に似ていた。
「イリスの味方になりたいのも本当、メイベルの手を汚さないようにしたかったのも本当だったのか」
ルイゼンが言うと、カリンの目から涙があふれた。結局、どちらの気持ちも台無しにしてしまった。
「……処分を。閣下が妥当だと思う処分をしてください。わたし、馬鹿なことをしました」
「うん、じゃあここで決めちゃおうか。カリンはリーゼッタ班で身柄預かり。今後は上司の監視下に置かれる。もちろんオレも見張ってる。以上」
あまりにもあっさりとレヴィアンスが言ったので、カリンは顔を上げて目を瞠った。
「どうして……」
「だって全部未遂じゃん。売人を逃がしたのは完全にミスだったんだしさ。それにたぶん、もうメイベルが手を下す必要もないよ」
カリンがサーリシェレッドの横流しに失敗し、全てを明らかにしたこの時点で、敵方にいるであろう彼女らの父親はもう用済みになった。いや、もしかしたら手紙を書かせたらもう終わりだったかもしれない。メイベルの言った「今度」は、おそらく永遠に訪れない。
「西は調査結果を待つだけになったな。タイミング的に引っかかるところがあるから、他に内通者がいないかどうか気をつけてもらおう。で、次はシリュウ。お前の悪癖について話をしようか」
すぐに矛先を変えたレヴィアンスに、イリスはカッとなりかけた。だが、視線でガードナーに制される。今はただ、進めるだけ前に進むしかないのだ。メイベルが背筋を伸ばし、カリンが涙を拭いたのなら、イリスが口を挟むことは何もない。
シリュウ・イドマルには「賭け事」の悪癖がある。その情報は彼が中央へ来る前に、レヴィアンスに届いていた。
「至極真面目って話はどうなったのさ。賭け事って遊びじゃないの」
「いいえ、彼は本気なんですよ、義兄さん。相手がまともに取り合ってくれるのなら、命だって賭けかねない。これまで任務中でも相手に賭けを持ちかけたことが何度もあるんです。大抵は、シリュウに勝てたら見逃してやる、負けたらおとなしく連行されて何をされても文句を言うな、という内容なんですけど」
異動人員を決めるとき、東方司令部准将クレリア・リータスは電話口でそう語った。
一口に賭け事といっても様々あることは、レヴィアンスだってわかっていないわけではない。それで生計を立てている者もいるのだし、特に悪質でなければ取り締まることもない。だが、仕事の現場で大真面目に賭けをするというのは危なっかしいにもほどがある。
「問題の案件だってそうです。シリュウが相手といつもの賭けをして、でも途中で逃げられたので約束が果たされなかったんです。いつかはそういうこともあるかもしれないと思って、周りの子にも気をつけるように言っていたんですけれどね。あの子は妙な自信があって、勝つことは考えていても、相手が逃げるかもしれないということまで思い至ってないんです」
エルニーニャ軍は十歳から入隊者を受け入れている。そのためレヴィアンスも様々な子供を見てきたが、シリュウのようなタイプはなかなかいない。それもミナト流の教えなのか、と意地悪く言うと、義妹は「まさか」と少し怒ったようだった。
「だからね、義兄さん。シリュウには気をつけてあげて。あの子はあたしの弟子ですけれど、何をしでかすのか読めないのよ。もしも心が通じてしまうような裏の人間がいたら、つけこまれてしまうかもしれないわ」
そういう前置きのあとに実際にシリュウに会って、納得した。たしかに真面目そう、というよりは、無感情に見える。何を考えているのか底が知れない。しかし扱いようによっては化けるだろうなという期待がほんの少しあった。
その期待は、きっと裏の人間の誰かと同じだったに違いない。
「シリュウからイリスに勝負を申し込んだってことでいいんだよね」
「相違ありません」
「正統派の剣術を身につけてる子と手合わせできるって思って、わたしもノリノリで引き受けちゃったんだよ。だから練兵場を勝手に使ってた件は、全部わたしの責任ってことで……」
「もちろんイリスの責任だよ。あとでニアにも報告するから覚悟しとけ。そんなことより、悪癖……賭けの対象だ。どうしてイリスのサーリシェレッドだったんだ? フィネーロだって持ってるのに」
「そうなんですか、知りませんでした。リッツェ少佐は事務室にはほとんどいらっしゃらないので。その点、インフェリア中尉はわかりやすかったんです。いつも傍らに剣を置いていましたし、剣技を含む強さは東方にも知られていました。勝負をしてみたいと思うのは自然なことだったと思います」
答えは実に滑らかだ。だが、はぐらかしたことに気づかないレヴィアンスではない。そしてイリスも、シリュウの言葉への疑問を素直に表情に出していた。
それを気にしているのかいないのか、シリュウは無表情のまま言葉を継いだ。
「サーリシェレッドってきれいですよね。東方にいた時から思っていました。縁あって色々な宝石を見ることができましたけれど、何よりも美しかった。欲しかったんです、ずっと」
気にしていたのか、とレヴィアンスが思うと同時に、イリスがホッとする。違和感の正体がだんだん見えてきた。シリュウのことはわからないが、妹分のことならわかりやすい。
「イリス、シリュウの言葉に間違いはない?」
「本人がそう言うなら、間違いないんじゃないかな」
「本当に? 一言一句?」
追及すると言葉に詰まる。やはりそうか、とレヴィアンスが溜息を吐いたところで、イリスも降参したらしい。言いにくそうにその言葉を口にした。
「……『魔眼』って言った。わたしに手合わせを申し込んできたとき、シリュウはサーリシェレッドが欲しいなんて言ってない」
そうだろう。でなければ、立ち会いなしに練兵場を使うなど、今のイリスはしないはずだ。仲間の疑いを晴らしたかったのに、もしやと思うような言葉を突きつけられ、誰にも話せなくなったのだろう。
「でも、わたしの『魔眼』をくれって言ったのがサーリシェレッドって意味なら、いくらか安心だと思ったんだ。だから今、ちょっとホッとしてた。ねえ、本当にあれは、わたしの眼のことじゃないんだよね」
イリスの縋るような問いに、シリュウは何も答えなかった。一言肯定してくれればいいのに、それをしない。嘘がつけないのか、あるいは彼もまた混乱しているのか。見た目だけでは判断できない。
「イリスさんの『魔眼』を奪うよう、指示をした人物がいるのですか」
沈黙を破ったのは、ガードナーだった。これにはレヴィアンスも驚いた。彼はただ傍らにいて、話の内容をまとめているものだと思っていたのだが、この様子ではずっと考えていたのだろう。単なる思い付きで発言するような彼ではない。
「あなたに指示ができるような人物は限られています。その意味が解っていたかどうかは別として、『魔眼』という言葉を使ってイリスさんに勝負を申し込むよう、指示をしたのは……同じ東方司令部に在籍していた、ジンミ・チャン中尉ではありませんか」
シリュウはガードナーを見上げ、僅かに目を見開いた。それが返事だ。状況からの推理は、ほぼ当たっていたのだろう。レヴィアンスがなるほどと思ったのと同時に、フィネーロが「それなら」と口を開いた。
「ロスタ少佐が異様に絡んできたことにも頷ける。チャン中尉とロスタ少佐は指定品目関連の捜査で以前から面識があり、密接な関係を持つようになっていた。彼らは共犯であると、僕は考えます」
「共犯? だって片や東方、片や南方から来た人でしょ。どうして面識があるの」
「南方には指定品目に関わる特殊捜査班がある。その班員はエルニーニャ全土をまわって捜査に当たるため、各地方の担当者とは一度ならずとも会ったことがあるはずなんだ。中でもロスタ少佐とチャン中尉は仕事上だけでなく、プライベートでも深い関係にあるのだと思う。さっき情報処理室で性行為に及んでいるのを見た」
フィネーロがさらりと言い放つと、ルイゼンは紅茶を吹き出し、メイベルは眉間のしわを深くし、イリスは手をばたばたさせながら「後輩がいるのにそんなこと」などと言って顔を赤くしたり青くしたりしている。「平気ですよ」と苦笑いしたのはカリンで、シリュウは平然としている。
そんな若者たちの様子を、レヴィアンスは頬を引き攣らせながら見ていた。まさかそこまでとは。
「なんというか……災難だったね、フィネーロ」
「おそらく偶然ではありません。ロスタ少佐はチャン中尉と親密であるということを、わざと僕に見せつけたかったのでしょう」
「フィン、お前なんで平気な顔してんの……」
冷静さを保ったままフィネーロに、ルイゼンが呆れながら尋ねる。ガードナーが濡れたテーブルと服を拭いてくれるのには、きちんと礼を言った。
「平気なわけがあるか。あの男は僕の隣の席に陣取っているんだ。それはそうとして、シリュウ。君はチャン中尉のことをよくわからないと言っていたが、あれは嘘だろう。君は彼女と同じ仕事を任され、彼女についてもよく知っていたはずだ。だから宝石に縁があったと言った、違うか」
フィネーロの追及に、反論する気はないようだった。シリュウはすうっと目を細め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ロスタ少佐は何のつもりで情報を喋ったんでしょうね。あの人の考えることこそよくわからない。ジンミ姉さんはあの男と付き合うようになってから様子がおかしくなったんです」
親しみを込めた呼び方に、イリスたち全員がハッとする。注目を浴びたシリュウは笑うのをやめ、「そうですよ」と続けた。
「軍に入隊して以来、ジンミ姉さんには良くしてもらっていました。同じ仕事、つまり指定品目関連ということですが、姉さんがおれを片腕として使ってくれたおかげで随分と関わっています。特にサーリシェレッドは違法取引が多いものですから、よく目にしていました」
その捜査の中で、ジンミとミルコレスは出会った。シリュウは彼らが親しくなる一部始終を、近くで見ていた。先ほどフィネーロが言ったようなことをしていたのも、当然のように知っていた。ジンミはそれを、「あの人と仲良くしておけば得だから」と言って、シリュウに聞かせていたのだった。
「姉さんとロスタ少佐は、実際いいコンビだと思います。二人が組んで、解決できなかった事件はなかった。ついこのあいだまでは」
「東方での取引の、検挙失敗の件だな」
「はい。あのとき、姉さんがおれに言ったんです。売人と対峙したら、賭けを持ち掛けろと。そうして時間を稼いでくれれば、あとは自分がなんとかする、と。しかし実際は……」
実行犯は取り逃がした。シリュウの賭けから逃げたのだ。レヴィアンスはそう聞いていたが。
「……実際は、姉さんは見ていただけでした。だからおれは、姉さんが売人が逃走するための手引きをしたのではないかと、ずっと疑っていました」
「見ていたのか、ジンミが」
彼女もまた取り逃がしたのだと聞いていた。だが、その認識は誤っていたらしい。
「姉さんは宝石を不正に取り扱う者を嫌っているはずでした。宝石を扱うのは自分の家業なのですから、当然です。しかし売人を見逃したのは……おれはロスタ少佐の指示ではないかと思うのです。あの人は、サーリシェレッドに異様な執着を持っている。軍人として危険なくらいに」
疑いは、中央に来ることが決まってから一層濃くなった。ミルコレスも中央に行くことを知ったシリュウがジンミに何気なく「今度は一緒に働くんですね」と言うと、彼女は笑みを浮かべて返したのだ。
――中央に行ったら、私とは他人のふりをしてね。私はあの人といるから。
どうして、と問い詰めた。それまでずっと姉のように慕い、弟のように扱われてきたのに。ミルコレスがいると、シリュウが邪魔になるのか。直接そう問うと、ジンミは答えず、代わりに頼みごとをしてきた。
――中央でのあなたのお仕事はね、「魔眼」を手に入れることよ。あの人が欲しがってたの。私に手を貸してくれるというなら、イリス・インフェリアの持つ魔眼を私たちに頂戴。
インフェリアの名も、その評判も知っていた。高い身体能力と、異例ともいえる大総統補佐への抜擢。そして、その眼がもつ魔性の力。実際に本人に会って、噂の意味を理解した。見ただけでぞくりと震える、サーリシェレッドと同じ色の眼は、たしかに「魔眼」だった。
「ということは、閣下」
「うん、確定だね。狙われたのはサーリシェレッドじゃなく、イリスの眼だ。手に入れたがっているのはミルコレス・ロスタ。裏と通じているかどうかはこれからもっと調べなくちゃならないけど、最低限イリスへの接触は防ごう」
現時点ではまだ彼を確保することはできない。決定的なことは何一つとしてしていないからだ。シリュウの証言だけでは足りない。任務の失敗がわざとであったという証拠もない。
あの変態め、というメイベルの悪態に、今回ばかりは全員が同意した。
ミルコレスとジンミは組んでいて、シリュウは彼らの言う通りにしていた。これまでの話が本当ならば、今のうちにシリュウの話を聞けたのは良かった。対象人物をマークし、決定的な証拠を掴めば、司令部内の問題はひとまず片付く。――そう思われた。
「閣下、ディセンヴルスタ大佐にも注意しておいたほうがよろしいかと」
ガードナーが言葉を発すると、全員が顔を上げた。いつもと変わらず冷静に、彼は続ける。
「先ほど、執務室を訪ねてきました。閣下の人事に異論があるようです」
「あ、それ、事務室でも言ってました。でも、わざわざここに来てまで言ったんですか?」
訝しむルイゼンに、レヴィアンスは苦笑する。わかってたよ、とでも言うように。
「ネイジュ・ディセンヴルスタには『大総統はかくあるべき』という理想がある。それと違っていれば、せっかく中央に来たんだ、文句くらい言いたいだろ。でもオレは今の状態がベストだと思ってるから、あいつには頑張って納得してもらうしかないな。納得できなくても、中央に来た以上は中央の人間として適切に振る舞ってもらわないと」
さらりと流すあたり、ネイジュは問題にしないということなのだろうか。しかし、それならわざわざガードナーがこの場で進言するだろうか。イリスの胸に、一点の染みのように疑問が残った。
「さてと、やるべきことはわかった。しばらくはフィネーロがミルコレス・ロスタを、ルイゼンがジンミ・チャンを見ていてほしい。二人とも苦手なタイプなのは重々承知しているけど、確実に尻尾を掴むまではなんとか頑張って。で、イリスはとにかく無茶しないこと。次やったら昇進までの道がまた遠のくよ」
「はーい」
これで解散、とレヴィアンスが手を叩き、イリスたちは立ち上がる。しかし大総統執務室を出る直前に、レヴィアンスはシリュウを呼び止めた。
「ミルコレスとジンミに何か言われたら、速やかに報告してほしい。身の危険を感じたら、こちらで出来る限りの対処はするつもりだ」
「……わかりました」
シリュウは深く頭を下げ、部屋を出る。一気に静かになった執務室で、レヴィアンスはガードナーに向き直った。
「レオ、ディセンヴルスタ大佐は何だって?」
「私が閣下の補佐であることに納得していないようです」
「なんだ、そんなこと」
鼻で笑ったレヴィアンスに、ガードナーは微笑みを返した。
翌日から、通常の仕事がまた始まる。ただしレヴィアンスの命令通り、ルイゼンはジンミに、フィネーロはミルコレスに注意を払っている。特にフィネーロは最も容疑の濃い人物の側にいるとあって、片時も気を抜けない。もちろん、昨日見てしまった不適切な光景のこともある。
イリスはフィネーロを心配していたが、情報処理室まで見に行くことは許されていない。ミルコレスとの接触は避けるように言われているし、なにより一度暴れてしまったら、おとなしくしているよりほかにないのだった。
「何かあったら、フィンがすぐに来てくれるから。落ち着けよ、イリス」
「何かって、ロスタ少佐に動きがあったらってことでしょ。フィンに何かあったらどうするの」
「白昼堂々と手出しはしないだろう」
「施設で堂々と汚らわしい行為に及ぶような変態だ、わからないぞ」
ひそひそと話し合うルイゼン、イリス、メイベルは、これでも一応同じ事務室にいるジンミを気にしている。彼女は今日はずっと内勤のようで、同じ班の者から仕事を教わったり、調査継続中の事件について聞いたりしていた。至って真面目な仕事ぶりだ、とイリスは思う。
しかし、彼女の傍にいる男性軍人はずっとそわそわしている。ジンミが髪を耳にかける仕草や、そうすることできらりと光る宝石のピアスの艶っぽさ、そして意識してそうしているのかわからない流し目に翻弄されているのだった。あれが色目を使うってやつか、とつい感心してしまう。もちろん、イリスにはとてもできない芸当だ。メイベルにはできるかもしれないが、彼女のことだ、すぐに人見知りの本性が出てしまうだろう。それも威嚇するタイプの。
別段変わったところがないので、ネイジュにも目を向けてみる。彼はとうとう事務室長机に「優先」「無駄」と見出しを付けた箱を設けて、渡される書類を一瞥してはそこに放り込んでいた。折を見て、ルイゼンが「無駄」の箱の中身を確かめる。
「失礼します。……大佐、この報告は二か月前から継続して調査している事件のものです。必要なものですよ」
「しかし事件そのものは解決済みなのだろう。もう人を割く必要も、紙を無駄にすることもない。中央の仕事は大仰で古い。もっと先進的なやり方でなければならない」
そうして振り分けられた「優先」の箱には、新規の仕事ばかりが入っている。たしかに新規の仕事は重要だが、事件の経過も大切だとルイゼンは教わってきた。だが、ネイジュにとってはそれも「古い」らしいのだ。
「リーゼッタ中佐のやり方は非効率で前時代的だ。大総統閣下やその昔の仲間に教わったものが、今、この瞬間、本当に役に立つのか考えてみてはどうかな」
心底馬鹿にしたような笑みを浮かべたネイジュを見て、イリスは立ち上がろうとした。だが、カリンに止められる。叱られたばかりなのにまた騒ぎを起こすのは得策ではない。それにレヴィアンスのやり方を否定するネイジュに、大総統補佐であるイリスが食って掛かるというのは、間接的に大総統の品位に関わってしまう。
「イリスさん、ここは我慢です。わたしが言うのもなんですけど」
「いや、ごめん。ちょっと熱くなった。だってあんな、レヴィ兄だけじゃなくてお兄ちゃんたちまでバカにするような態度はわたしだって腹立つよ」
「気持ちはわかります。でも……」
堪えなければならない。文句があるなら、ルイゼンを通すしかない。リーゼッタ班男性陣ばかりが頑張らなくてはならないのがもどかしく、イリスは溜息を吐いた。
と、同時に息の音が聞こえた。ふうっと吹くような微かな音だが、注意しているために気づいてしまった。ジンミを盗み見ると、彼女は仕事を教えてくれていた男性軍人の耳に息を吹きかけたところだった。されたほうは真っ赤になっている。
「いやらしさ満点のご挨拶だな」
苦々しい表情をしたメイベルに、向こうも気づいたようだった。イリスが「やばい」と思ったときには、もうジンミがこちらに来ていて、妖艶な微笑みを浮かべていた。
「何か? 先ほどから視線を感じるのですけれど、私、生憎女性は守備範囲外なの」
「それは安心だ。イリスにまで色目を使われたらたまったもんじゃない」
即座にメイベルが返答する。室長机からこちらを見るネイジュの視線が冷たい。また先日のような騒ぎになる前に、なんとかしなくては。
「ベル、ちょっと。教えてほしいことがあるんだけどな」
「……わかった、色目女は放っておくよ」
「まあ、随分な言い草ですこと。リッツェ少佐はうぶだったのに、ブロッケン大尉は遠慮がありませんのね」
気を逸らせようとしたイリスの作戦は、失敗どころか余計な方向に持っていかれてしまった。メイベルの眉間のしわはいよいよ深くなり、ジンミを睨み付ける。口を開き、あわや暴言が飛び出るかというその寸前。
「チャン中尉、あまりうちの班の人間を刺激しないでいただきたい。もうわかっているだろうが、うちは少々カルシウム不足でね」
ルイゼンがあいだに割って入り、メイベルの悪態を封じた。彼女だけではなく、フィネーロのことについても牽制している。それが面白いのか、ジンミはクスクスと笑いながら、ルイゼンの顎に細い指を伸ばした。
「だったら骨まで食べられるお魚がおすすめですわ。脳の働きも良くなるそうですし」
つうっと輪郭をなぞり、首から胸へと降りてきた白い人差し指に、しかしルイゼンは全く動じない。指が腹部に到達しようかというところで、バサバサっと大きな音がした。
「ご、ごめんなさい、バインダーの山を崩してしまって。ルイゼンさん、すみませんけど拾うの手伝ってください。これちょっと重くて……」
先ほどカリン自身がしっかり安定させて積んだバインダーだった。急に落ちるはずがない。裏に協力しようとしてしまったことを悔やんでか、今日のカリンは大活躍だった。
今行く、と踵を返したルイゼンの背中に、ジンミが、あら残念、と呟いた。そして自分の机に帰っていく。ひとまず風紀の乱れは抑えられたらしい。
イリスは再び溜息を吐き、バインダー拾いを手伝った。カリンに小声で「ありがとう」と言うと、困ったような笑みが見えた。
「わたしにはこれくらいしか、お詫びすることができませんから」
ここにいる限り、カリンは昨日したことをずっと詫び続けるつもりだ。レヴィアンスも彼女を退役以外で解放するつもりはないだろう。罪の意識が、彼女のしてしまったことへの罰だ。あんまりだ、とイリスは思ってしまうが、当事者である自分が何を言っても、カリンの救いにはならない。ただただ同情と憐れみを受け取って、より萎縮してしまうだろう。
言葉を返せずにいると、ルイゼンがバインダーを机の上に置き、真剣な表情で告げた。
「詫びでも名誉の回復でも何でもいい。仕事をきっちりやってくれれば、俺はかまわない」
やんわりとした口調だが、つまりは、感情で仕事をおろそかにするなということだ。カリンは真意をきちんと汲み取ったようで、さっきよりも力強い目で「はい」と頷いた。
「さっきから何をこそこそしているんだい、リーゼッタ班諸君は。無駄話は仕事にとって最もたる害悪だよ」
そこに水を差したネイジュにイリスはムッとするが、それが見えないようにルイゼンが進み出て、「申し訳ありません」と頭を軽く下げる。そして再び「無駄箱」に向かい、本来であればやらなければならない仕事を拾いにかかった。
「あのルイゼンの態度は、閣下やルーファさんやイリスの兄君から教わったものだな。古いも新しいもないから安心しろ、イリス」
わざと声を潜めずにメイベルが言うと、少しだけ胸がすく思いがした。けれどもネイジュがまた嫌な顔をしたので、慌てて唇に人差し指を当てた。
ちょっとした、けれども事務室内ではそれなりの騒動だったはずだ。他の班の人間もこちらに注目していたし、そうでなくてもちらちらと窺っていた。だがその中で、たった一人、何のアクションも起こさなかった者がいる。
――シリュウ……。あんたって、肝が据わってんのか、それとも……。
イリスが気にしているのは、ジンミやネイジュばかりではない。昨日全てを話してしまったのだから、もっと動揺していてもおかしくはないはずなのに、シリュウはこれまでと同じで微動だにしていなかった。単にジンミの行動に慣れているのか、仕事のみに集中できる精神力を鍛えられているのか。その感情は、ここにきてもまだ読めなかった。
昼休みには、リーゼッタ班の全員で第三休憩室に集まった。昼食は食堂から軽食を入手し、ここまで持って来た。加えてここにはレヴィアンスが隠し持っていた良質な茶葉があるので、美味しい紅茶も淹れられる。イリスが人数分のカップを用意しているあいだに、フィネーロはもう話し始めていた。
「何事もなかったように振る舞っていたよ、ロスタ少佐は。真面目に仕事をしている。お喋りが多めなのは……まあ、あの人の性格なんだろう。しかし適切な内容の雑談だった」
「雑談に適切も何もないって、ディセンヴルスタ大佐なら言いそうだけど」
苦笑いをしたルイゼンの前にサンドイッチを差し出して、だが、とメイベルが言う。
「雑談から進展が見えることもある。フィネーロ、今日は変態はどんな話を?」
「レジーナ近郊の村に点在する、金鉱脈の話がメインだ。今回の件に関わりはなさそうだった」
「中央は金の産出が多いんだよな。他国に比べてもよく採れる」
「鉱物なら何でもいいのか、あの変態」
こちらも雑談をしながらサンドイッチを食み、イリスが紅茶を振る舞う。そしてやっと会話に参加した。
「ジンミも特に目立った行動はないよ。ゼンを誘惑しようとして失敗してたくらいかな」
「ほう。さすがだな、我らがリーダーは」
「いや、カリンに助けてもらわなきゃまずかった。あの子、たしかに妙な色気がある。俺はああいうタイプって苦手だけど、好きなやつはコロコロ転がされるんだろうな。東方ではどうだったんだ、シリュウ」
それまで無言だった彼に話が振られ、何故かイリスのほうがドキドキしてしまった。シリュウが何を答えるのか、それは十六歳の少年に答えさせていいものなのか、様々な思いが湧いてくる。
「姉さんはいつもああです。男の人に粉をかけてはあしらうのが趣味なんですよ」
さらりと、姉さん、と口にした。親密であることを知られた以上、わざわざ他人行儀に表現することもないと判断したらしい。けれどもそれ以上は言わなかった。おまけにサンドイッチには手を付けていないし、紅茶のカップにも触れさえしない。
「シリュウ君、何か食べたほうがいいよ。午後から合同訓練があるでしょう、お腹空いちゃうよ」
カリンが勧めるが、頷くだけで手は出さない。こうなったら無理やりにでも口に突っ込んでやろうかとイリスが考え始めたとき、フィネーロが言った。
「シリュウ、君が何を考えてるのかは知らないし、僕はどうでもいいとすら思っている。だがルイゼンやイリスは聞きたがりだから、話したいことがあれば大抵は聞いてくれる。うちにはすでに自分の事情を意地でも話すまいとしている人間がいるから、言わないのももちろん自由だ」
必要であればこちらから暴きにいくが、と付け加えて、自分もサンドイッチに齧りついた。いつもは食べないような、揚げた鶏肉とタルタルソースがたっぷりのものだ。驚くイリスの横で、今度はメイベルが肉厚のハムで作ったハムサンドを手に取る。いつもは食が細い二人の態度による説得で、シリュウはようやくサンドイッチに手を伸ばした。
「おお、食べた……!」
「イリス、動物じゃないんだから。まあでも、食っとくに越したことはないし、育ち盛りなんだから、食事はちゃんとしろよ」
ルイゼンがきれいにまとめれば、この場は和やかさを取り戻す。もくもくと口を動かすシリュウに、イリスも安心した。
やがて皿の上に何もなくなった頃、ルイゼンは改めて切り出した。
「さて、雑談のおかげでロスタ少佐がチャン中尉にとってどれだけ特別かはわかったな」
「え、さっきので何がわかるの」
「粉かけてあしらうのが、チャン中尉の趣味なんだろ。だったらまともに相手をしているロスタ少佐は、趣味の範疇を超えているってことだ。少佐は喋りすぎるからともかくとして、チャン中尉に動きがあったら、二人ともに何かがあると思っていいかもな」
なるほど、とイリスが頷くと、いい加減それくらいわかれよ、と小突かれた。
「しかし再確認に過ぎないぞ。やはり決定的な証拠が欲しいな」
「だよなあ……。ロスタ少佐も話題を変えたなら、今は引き出すのが難しいかもしれない」
「あるいはもう喋りきったから、あの中からヒントを洗い出すしかないのか。フィネーロ、今までのやり取りは憶えているんだな?」
初めはイリスに関わることだったのに、今では班の全員がこの件を自分のものとして捉えている。それだけではなく、考えるのも理解するのも速い。とんでもなく頼もしい仲間たちだ。だからシリュウにも、遠慮なく先輩たちを頼ってほしいのだが、まだ時間がかかるだろうか。無表情の横顔と減っていないカップの中身を、イリスはもどかしい思いで見つめた。
「午後の確認だけしておくか。イリスは閣下から呼び出されてないし、俺は室長机の例の箱を見ておきたいから事務室にいる。メイベルもだな。フィンは引き続き情報処理室で、通常業務とロスタ少佐の見張り。カリンとシリュウは練兵場で合同訓練。それぞれ終わったら、また事務室で合流しよう」
ルイゼンがその場を締めてから、イリスはすぐにカップと皿を片付けにかかる。一つだけ残った紅茶を捨てるのは、気が重かった。
事件の情報が入ってきたのは、午後の仕事が始まってからまもなくのことだった。内線をとったネイジュがしばらく相槌を打っていたかと思うと、ルイゼンを呼んだ。
「リーゼッタ中佐、死体遺棄事件に関わった経験は?」
「状態にもよりますけど、一応あります」
「黒焦げで身元不明だそうだ。中央管轄の路線の側で発見されたという。君に任せる」
突然放られた案件だが、ルイゼンはすぐに受けた。ネイジュからもう少し情報を引き出したところによると、現地駐在の軍人が発見して担当していたが、結局は中央司令部にまわさざるをえなくなったのだという。身元がわからないほど黒焦げなら仕方がない。
ミルコレスとジンミの監視は一時中断して、リーゼッタ班全員でこの死体遺棄事件にあたることになった。イリスはカリンとシリュウにそのような状態の死体を見せても大丈夫なのか心配したが、二人とも落ち着いていた。
「西でも、けっこうご遺体は見ちゃうんです。さすがに黒焦げは初めてですけど」
「同じく。この仕事をしている以上は、人の死は避けて通れないでしょう」
「悪いな、来て早々に変な事件に付き合わせて。でも、シリュウの言う通り仕事だからな。せめて身元がわかるよう、最善を尽くそう」
「最善と言ったって、私たちは行方不明者リストを調べたり、現地での聞き込みをするくらいしかできないが」
合流の予定は早まり、リーゼッタ班は外へ出る。人員が増えたので四人乗りの車では動けず、運転手はルイゼンとフィネーロがそれぞれ務めることになった。ルイゼン、イリス、シリュウで一台、フィネーロ、メイベル、カリンで一台を使う。運転手二人が、それぞれで引き取る人員をさっさと決めてしまった。万が一の際のパワーバランスにも問題はないだろう。ただ、イリスと離れるブロッケン姉妹が不満げなだけだ。
車に乗り込もうとして、「待ってください」と呼び止められた。声はガードナーだったが、走ってきたのはもう一人。立ち止まった途端にぜえぜえと息をする人物に、一同はギョッとした。パーカーのフードを被り、顔の大半を覆うマスクをしたその人が、誰だかわからない。
「あなたは急がなくてもよろしかったのに」
「いいえ、急ぎですから。どっちか、僕も乗せていってくれる?」
ガードナーが慌てて気遣うのに答えた声は、医務室の主だった。マスクをしていても顔が蒼いとわかる。そもそも彼にとって、陽の光と激しい運動は控えるべきもののはずだ。
「ユロウさん、なんで? すごく具合悪そうだけど……」
「遺体の身元特定に協力してくださるそうですが、閣下も無理にとは言っていません。しかし」
「イリスちゃん、カルテ見たよね。その中で気になることがあるんだ」
カルテを見たのは、直近では一度。異動してきた五人のものをユロウに見せてもらった、あのとき以外に思いつかない。しかし、それが今回の仕事と何の関係があるというのだ。――関係なければ、レヴィアンスは絶対に止める。それをしなかったということは。
「ゼン、行ける?」
「任せろ。ユロウさん、こちらの車に。具合悪ければ袋か何か用意しましょうか」
「大丈夫、持参した。でも君の運転は信頼してるよ。兄さんがおとなしく運ばれるんだからね」
ユロウを先に車に乗せ、続いてシリュウとルイゼンが乗り込む。イリスはそれを確認しながら、ガードナーに問う。
「レヴィ兄は何て言ってるんですか」
「可能性があるなら確かめねばならないと仰っています。ですがホワイトナイト先生はあの状態ですし、イリスさんたちが様子を見て差し上げてください」
「わかりました。では、いってきます。レヴィ兄によろしく!」
多くを語らないのは、これが急ぎだからだ。任務としてももちろんだが、イリスたちに関わることかもしれない。一つでも可能性があれば、足がかりがあればと、考えていた矢先なのだ。
車内では、ユロウは説明もままならなかったので、寝かせておいた。シリュウが「本当にこの人は役に立つのか」という表情をしていたので、イリスは助手席から、苦笑しながらフォローを入れる。
「身体は弱いけど名医なんだよ。きっと見つかった遺体の身元に心当たりがあるんだと思う」
とはいえ、その内容は想像もつかない。焼死体では、心当たりがあったとしても、確かめるすべがあるのだろうか。それにカルテがどう関わっているのかもわからない。
「イリスが見たカルテは、異動してきた五人のもので間違いないんだよな」
「うん、それしか見てない。前に別の事件で確認させてもらったことはあったけど、今関係ありそうなのはそれしかないはず。……でも、カルテだけで何がわかるんだろう。それも生きてる人のだよ」
「フィンの車に乗せて、ちょっとずつでも聞き出した方が良かったかもしれないな。あいつならすぐに見当がつきそうだ。メイベルとカリンもいるし」
パワーバランスに問題がない、というのは訂正しなければならないだろう。今この瞬間、大いに偏っている。シリュウにも尋ねてみたが、無表情のまま首を横に振られた。
遺体発見の現場は、首都から南側に伸びた線路の近くだ。中央司令部所属の軍人が交代で勤務している現地駐在所からは少々距離がある。発見されたのは本日未明で、第一発見者は鉄道関係者だという。線路の確認の時間は決まっているから、遺棄できる時間も限られている。駐在所にいた軍人も、昨夜十一時以降とあたりをつけていた。
「目撃者は見つかっていません。首都中心部と違って監視機能もほとんどありませんし、犯人を特定するのは難しいかと」
「なるほど。ディセンヴルスタ大佐、これがすぐに功績にならないと思って俺に任せたんじゃないだろうな……」
わからない尽くしではすぐに結果が出ない。だからといって調べなければ、わからないままで葬られてしまう。そんなことが許されていいはずがない。犯人はともかくとして、死んでしまった人をそうとは知らずに待っている人がいるかもしれないのだから。
歯噛みするルイゼンの後ろで、イリスはユロウの背中をさすっていた。もう大丈夫だよ、と本人は言うが、とてもそうは見えないのだ。フードにマスクといういでたちは駐在員たちに怪しまれてしまい、しかしながら本人は車から降りるのがやっとで言い訳もできず、先んじてルイゼンとイリスで必死の説明をしたところだった。
「あの、そろそろ遺体を見たいな。メイベルちゃんたち、もう行ってるんだよね」
「もう動くんですか? でも顔色……」
「こんなのいつものことだよ」
「こっちは話聞いておくから、イリス、連れて行ってあげてくれ。シリュウは俺の手伝いをしてほしい」
いつまでもここにいるよりは、という声なき言葉を察して、イリスは頷く。ユロウを支えながら駐在所を出て、ここからさらに離れた病院に向かうために車に乗り込んだ。フィネーロたちとは車内無線で連絡を取り合い、先にそちらへ向かってもらっている。
二人きりになった車内で、イリスはユロウの様子を見つつ尋ねた。
「カルテと今回見つかった遺体、何か関係があるんですか」
「……うーん、僕は本当は専門じゃないんだけど。でもずっと気になってはいたんだよ」
シートを倒して横になったユロウの手には、いつのまにかあのカルテがあった。車の中で読むと余計に具合悪くなりますよ、と言おうとしたところで、内容が読み上げられる。五人のうちの一人の名前と、その人物が持つある特徴。それを聞くうち、イリスは自分まで具合が悪くなってきた。
そんなことはありえないだろう。そう言いきれないのは、イリス自身が可能性と実例を知っていたからだ。むしろだからこそ、ユロウは二人きりになった今を狙ってカルテを取り出したのかもしれなかった。
「閣下……レヴィ君から、僕も話は聞いてるからね。だからこそ遺体の特徴について情報をもらったとき、ピンときた。いかにも裏がやりそうなことでしょう」
「考えたくないけど、そうかも」
今でこそレヴィアンスが何とか有効活用できないかと目論んでいるが、そもそもは裏で発展していた技術というのが、この大陸にはいくつか存在する。ことエルニーニャ王国においては、発展させられるだけの土壌とそれを利用できるだけの能力を持つ人材が揃っていた。今回もそれを悪用されたのだとしたら、イリスはなおのこと放っておけない。
「こんなことなら、二手に分かれればよかった。そうしたらすぐに追い詰められたかもしれないのに」
「ちゃんと分かれてるじゃない。司令部にはレヴィ君とレオナルド君がいる。一番心強いでしょう」
口をとがらせるイリスにもっともなことを言って、ユロウは不敵に笑った。まだ少し弱々しくはあったが、確実に彼の兄と同じ血が流れていると思わせる笑みだった。
真っ黒な、かろうじて人間だとわかる丸まったものを、カリンはじっくりと観察する。メイベルが感心して覗き込むと、くるりと振り向いて「きっと男性」と言った。
「性別の判断がつきにくかったのは、この体勢のせいだと思う。見た目にもよく焼けてるし。でも体型からして、男の人なんじゃないかな。一番判別しやすいところは切り取られてるから、事故や自殺じゃなくて殺人かも」
「西では随分物騒な方向に鍛えられたんだな。事務メインのくせに」
「お姉ちゃんに物騒って言われたくない。わたし、頑張って勉強したんだよ。全部無駄にするようなことしちゃったけど……」
「閣下が無駄にしなかったし、実際君の能力は高い。遺体の検分はプロが来てから、と思っていたが、カリンだけでも問題ない日が来るかもしれないな」
持ち込んだ端末に情報を入力しながら、フィネーロも褒める。少しだけ照れたカリンを、メイベルが優しく小突いた。
遺体を安置するために用意されたのは、病院の地下だった。首都中心部には軍が持っている専用の施設があるのだが、ここでは代わりに病院の霊安室の一部を利用している。もっときれいな状態の遺体ならば中心部に輸送することもできたのだろうが、すでにカサカサになって崩れかけている焼死体では難しい。
そして地方の病院には、死体にかまっている暇がない。結果、このように中央から人員が来るまで転がされることとなってしまった。
「酷なことを訊くが、それが君たちの父親である可能性は?」
「ないと思います。体格が違いますし、そこまで裏が手をかけるとも思えません」
「そうだな。カリンへの見せしめにしては手回しが早いし、それなら身元がわかるようにしているだろう。あの男だったところで、どうとも思わないが」
フィネーロの中にあった可能性の一つは潰れた。あとはユロウが気にしているという事項だ。わざわざカルテを持ちだしてきた、それもイリスが見たものを、とすれば異動してきた五人のうちの誰かに関係する人物であると考えられる。まさか本人ということはあるまい、全員生きて中央司令部にいるのだから。
「フィン、ベル、カリンちゃん。お待たせ」
部屋の戸が軋みながら開き、イリスが顔を覗かせる。その後ろには、いまだ病人のような顔をしたユロウがいた。フードもマスクもないのは、ここが陽の入らない地下だからだろう。
「ルイゼンは」
「駐在員からもうちょっと話聞いてくるって。シリュウはゼンのサポート。……で、それが例の?」
「はい、こちらが被害者の方です」
イリスが見やった黒い塊を、カリンが手で示す。生きている人間を紹介するかのように。イリスとユロウは並んで近づき、短い祈りをささげた。
「……カリンが言うには、被害者は男性。殺人の可能性が高いのではないかと」
「カリンちゃんが見たの? すごいねえ……」
「万が一ということもありましたから。でも、おそらく父ではありません」
驚くイリスの横で、ユロウがさっそく動いた。遺体の顔を覗き込みながら、フィネーロに問う。
「フィネーロ君って、ミルコレス・ロスタ少佐と一緒にいる時間が長いんだってね。彼の口の中を見たことがある?」
「さすがにそこまでじっくり見たことはありません。しかしなぜ口の中……」
言いかけて、はっとした。身元特定の材料になりうるもので、全身が焼けても残っているかもしれないものがある。
「そうか、歯だ。焼死体の身元特定に有用とされていますね」
「うん。僕は法歯学は専門じゃないけど、歯の所見ならカルテである程度わかる」
「でも個人識別の話ですよね。詳しく調べれば身内だとわかるかもしれませんが、ユロウさんが持っている判断材料はカルテだけでは」
「だから、個人の特定の話なんだ。この遺体はミルコレス・ロスタ本人のものである可能性が高い」
ユロウはまだ遺体の口の中を覗いている。けれども絶句しているフィネーロのことが見えているように、信じられないよね、と呟いた。
「……では、中央司令部にいるのは偽物だと? しかし顔見知りであるはずのジンミやシリュウは何も言っていない」
「わからないんじゃないかな。体を構成する組織とその形状が全て本人と同一なら、整形だって必要ないし」
メイベルがイリスをつつく。説明しろ、というのだ。カリンも戸惑っている。ユロウではなくイリスに確認するということは、メイベルはいくらか察しがついているのだろう。この件に一番詳しいのはイリスだった。
「つまり、司令部にいるのは、ロスタ少佐のクローンなんじゃないかって。過去にも事例はあるから、ありえない話じゃない。それならジンミやシリュウだって、気付かないかもしれないよね」
裏組織によるクローン生成研究は、表向きの研究よりもはるかに歴史が長い。そもそも表立っては、クローンの存在は「ない」ということになっている。軍がひた隠しにしているあいだに、裏ではさらに研究が進んでいた。
イリスの両親が軍に在籍していた頃には、すでに自立して行動ができる人間のクローンが、裏に利用されている。そしてその祖であり、究極ともいわれる記憶継承クローンが、イリスと親しいラヴェンダだ。
「ラヴェンダみたいな人は、生命維持のための特別な装置が必要なんだけど。でももっと研究が進んでるなら、そんなものはなしに、記憶を持ったまま自由に動けるタイプがつくられているかもしれない。それに記憶を短期間分植え付けただけなら、ラヴェンダほどの処置はいらないみたいなんだ。そういうのなら、お父さんが十代のときにはもうできてたんだって」
ブロッケン姉妹の表情は、顔はあまり似ていないのに全く同じだった。死体遺棄事件や、指定品目の不正取引や、イリスの眼といったものよりももっと根が深くて底が暗い、そんなものに自分たちが関わっていいものなのかという疑問と恐怖。カリンはともかく、メイベルまでがそんなふうだ。
あまりに手が届かないようならば、レヴィアンスは佐官以上のベテランを集めて、改めてこの件を仕切るだろう。ユロウがついてきたのは、そのラインを見極めるためだ。
「……銀歯をしてたんだよね」
ぽつりとユロウが言う。
「銀歯ですか? ロスタ少佐が?」
「うん、カルテ上はそうなっていた。そしてこの遺体は、特徴が酷似しているんだよね。レヴィ君から別の許可を貰って、きちんと調べてもらった方が確実だけど、僕の見立てではミルコレス・ロスタ本人」
治療か趣味かはさておき、歯に全く同じ加工の痕ができるはずはない。クローンでも傷の完全再現までは不可能だ。
「念のためカルテも本物かどうか調べないと。南方から中央に来るまでの彼の動きを調べるのは、君たちの仕事だね。頑張って」
生きているほうと死んでいるほう、どちらが本物のミルコレスでも、彼は裏に関わっていることになる。今ここにあるのが本当の彼ならば、被害者として。
「もし巻き込まれただけだったら、わたしのせいだ」
「イリスのせいなものか。余計な責任を感じるより、でかい証拠を掴めたのだと思え」
「シリュウの証言通りなら、ただ巻き込まれただけということはない。もともと怪しかったんだ」
メイベルとフィネーロに肩を叩かれるが、イリスは俯いたままだった。死人が出てしまったことを、仕方ないとは思えない。けれども防ぎようがなかったのもたしかだ。唇を噛んでいると、部屋の扉が開いた。
「悪い、遅れた。何か手掛かりはあったか」
「ルイゼン、ややこしい話になったぞ」
リーゼッタ班の全員が揃ったところで、フィネーロとユロウが説明をした。イリスはそれを聞きながら、各々の表情を見ていた。驚きつつも納得した様子のルイゼン。機嫌の悪そうなメイベル。少し疲れが見えるフィネーロ。顔色は悪いが落ち着いているユロウ。真剣な目をしたカリン。動じることのないシリュウ。彼らと一緒にいて、情けない顔をしている暇はない。
「遺体の情報公開の件もあるし、閣下に相談だな。すぐに連絡をとろう」
「早く動いたほうがいいよね。ロスタ少佐がクローンなら、あの人は黒幕じゃない。裏にボスがいるなら、きっと尉官のわたしは動けないだろうし……」
引き続き事件にあたれるのは、リーゼッタ班ではルイゼンとフィネーロの佐官組だろう。イリスは自分ができることを捜し、かつ余計なことはしないように慎重に行動しなければならない。何ができるか、考えなければ。
中央司令部では、レヴィアンスが南方司令部と連絡をとっていた。
ユロウが「発見された遺体の特徴とミルコレス・ロスタのカルテの内容が似ている」というので、その行動や南方での様子をより詳細に聞き出そうとしたのだ。南方司令部長はミルコレスを信頼していて、それだけに彼が中央に引き抜かれたことを惜しく思っていた。それだけ優秀な人物だったのだ。
ただ、性格には少々難があった。宝石への異様なこだわり。そして女性との派手な付き合い。南方にいた頃から、これは変わっていないようだ。
「東方に彼女がいたという話は聞いたことがある?」
「さあ……。ロスタはエルニーニャ各地に足を伸ばして、そのたびに現地の女性を口説いていたようですから。関係を持ったのも、一人だけではないでしょう」
ミルコレスの相手はジンミだけではない。彼は知り合いをいくらでも作れた。それが軍や一般の人間だけではないかもしれないということは、容易に想像がつく。
「そういうところはちょっと問題かもしれませんが、仕事には真面目ですよ。中央への異動も、前日には現地入りしたいと言って、随分と早く出発しましたし」
「前日に?」
妙だ、と思うと同時に、横でガードナーが手帳を捲った。そして、頷きながらページを見せてくれる。五人の軍人がエルニーニャに来たのは、いずれも着任当日の朝ということになっていた。ならば、ミルコレスには南方から中央に来るまでに空白の時間がある。南方司令部のあるマードックから首都レジーナまで、列車一本。たしかに数時間はかかるが、列車のダイヤから考えて、ミルコレスの動きは不自然だった。
「……ロスタ少佐が南方司令部にいるあいだ、来客はあった?」
「各地に知り合いがいますから、訪ねて来る人も多かったですね。司令部を通さずに会っている人もいますから、こちらで全てを把握することはできていません」
「わかるだけでいい、データを寄越してくれない?」
ミルコレスがマードックを出発する日を知っている人物の中に、彼と手を組んでいる、あるいは彼を利用した人間がいるかもしれないのだ。南方司令部長が電話の向こうで指示を出しているのを聞いていると、執務室の扉がノックされた。
私が、とガードナーが出る。細く開けた扉から、覚えのある顔が見えた。
「失礼。閣下は仕事中か」
「……珍しいですね、グラン大将」
そこにいたのは、タスク・グラン。将官室長となって三年経ったが、あまり大総統執務室に来たことはない。そしてガードナーと直接話すのも、実に三年ぶりのことだった。
「閣下は別に仕事中でもかまわない。俺が用があるのはお前だ、ガードナー大総統補佐大将」
瞠目したガードナーに、タスクは笑みを見せた。昔と変わらない、自信に満ち溢れた勝気な笑顔。だがそれは見る人から見れば、気持ちの良いものではないようだった。
「外で話せないか? レオナルド」
昔のように呼ぶ声色は、こちらを下に見るそれだった。
「閣下」
「いいよ、こっちはまだかかるから。行って来なよ、レオ」
レヴィアンスが笑みを浮かべる。ここは大丈夫。そして――。言わんとしていることは、もうすっかりわかってしまうようになっていた。
「では、失礼します。すぐに戻りますから」
一礼して部屋を出たガードナーの目の前には、すでに笑顔の消えたタスクがいる。彼が歩き出した方向には、話し合えるような部屋などはない。あるのは階段だ。最上階まで登れば、屋上に辿り着く。案の定、行き先は春の強い風が吹き付ける、中央司令部の広い屋上だった。
「こうして話すのも久しぶりだな、レオナルド」
伸びをしながら、タスクが言う。こちらに背を向けているので、表情は見えない。ただ、声は昔のまま、大きくてよく響いた。
「大総統補佐、よく務めているそうじゃないか。あの閣下の手綱を握るのは、大変じゃないか? なにしろやることがめちゃくちゃだ。自ら現場に出向くことも多い。貴重な血が流れているせいで命まで狙われる。その相手をするのは面倒だろう」
「面倒はない、といえば嘘にはなるかな」
ガードナーも言葉を崩す。かつてはこんなふうに、彼と話していたのだ。その日はとうに懐かしいものになってしまったと思っていた。
「でも、僕は閣下が好きだから、苦ではないよ。あの人は黙って椅子に座っていることができない性分なんだ。たまにすごい集中力を発揮して、誰の声も聞こえないことがあるけれど。一緒にいれば、魅力がわかるよ」
「さすが、一緒にいられるやつは言うことが違う」
タスクが振り向き、こちらを見る。軽く眉を寄せ、目を眇めて。口元だけがまだ笑みを作っていた。
「補佐様ならではの自慢だな。お前がそんなことを言えるようになるなんて、俺は感激だよ」
補佐を務めることに不安のあったガードナーに、誰も何も言わないなら認めてくれているんだろう、とレヴィアンスは言っていた。だが、そうではない。ガードナーもタスクも、それなりに大人になって、本心をそのまま態度に出すことをしなくなっただけだ。タスクには将官室長という立場が与えられている。補佐までとはいかないが、十分に大きな力を持つ地位だ。そこに就けたレヴィアンスに文句は言えない。レヴィアンスの選んだガードナーとも、衝突を避けていたのだ。
「暗殺事件のときは驚いた。レオナルドのことだから、てっきり閣下のお茶汲みばかりやっているかと思ったが、案外まともに戦えるんだな。病院を抜け出したのも、閣下のためか。楯にされたのに、どうしてそこまでできる? それほどまでにあの男が大事か」
「楯にされたんじゃないよ。僕が自分でそうなると決めた。閣下はそんなことはしてほしくないと、ずっと言ってくれている」
「そんなだから利用されるんだよ、お前は」
ガードナーを憐れむように、タスクが嗤う。もう避けるのはやめにしたらしい。その場所を狙うのならば、そこにいる者を叩きのめし、引き摺り下ろさなければならない。黙っているだけでは、何も動かせない。かつてそうだったように、自ら掴みに行かなければ。
「お前が良い人なのは、友人だった俺がよく知っている。それがどんなに利用されてきたか、お前自身がそれにどれほど甘んじてきたかも。閣下だって同じだ。レオナルドを利用するために補佐にした。それ以外に、お前が補佐になれる要素なんて見当たらない。何年経っても、俺には理解できない」
肩を竦める元友人を、ガードナーは無言で見つめた。――認めてくれている。そのレヴィアンスの見立ては、そして自分がそうかもしれないと期待したものは、ただの妄想だった。結局、タスクは今でもガードナーを見下し、大総統補佐にはふさわしくないとみなしていたのだ。
「そのうち限界を感じるようになるよ、お前も。あの閣下と、お前みたいな補佐と、ついでに家柄だけのお嬢ちゃんじゃ、この国の頂点として立っていられなくなる。王宮と文派にうまく丸め込まれておしまいだ」
「……じゃあ、タスクは誰が相応しいというんだ」
「力のある人間でなければだめだ。名前に頼ることなんかしないで、実力で勝負できる人間が頂点にいて、この国をまとめるべきだ。俺の考えは、昔から変わっていない。それに賛同してくれるやつもいる」
同期として軍に入隊したときから、タスクはガードナーに常々言っていた。いつか自分が大総統になりたいと。当時その地位にいたハル・スティーナは、タスクには儚く見えたらしい。実直な姿勢は、つまらなかったという。その前、カスケード・インフェリアの治世から軍は崩壊しつつあり、ハル・スティーナが三派政を始めたことで、軍のあるべき姿は失われてしまったと嘆いていた。
俺ならこんなことにはさせなかったのに。寮の、ガードナーと同じだった部屋で、タスクはそうぼやいていた。昔の話だと思っていた。
「賛同者とは、ネイジュ・ディセンヴルスタ大佐かな。まさかタスク、彼に唆されたわけじゃないよね」
「唆された? あんなガキに、この俺が? 違うな、俺があいつを使うんだ。あの単純さは便利だ」
「単純だから危険なんだよ。……タスク、何か物騒なことを考えているなら、やめたほうがいい。それは君の破滅に繋がる」
「忠告のつもりか、レオナルド。随分な身分になったな!」
予備動作はほとんどなく、タスクが腰の剣を抜いた。溜めずにそのまま薙いだ刃を、ガードナーはとっさに飛び退いて避ける。それと同時に、自身も剣を抜く。そして正道の構えでぴたりと止まった。
「タスク、無駄な戦いはやめよう。僕らは今、こんなことをしている場合ではないんだ」
「無駄かどうかは勝者が決める。俺たちは、昔からそうだったじゃないか、レオナルド!」
ガードナーの手から剣を弾き飛ばすような勢いで、タスクが斬りかかる。激しい音が響くが、ガードナーは柄をしっかりと握りしめたままだ。動きはあくまでしなやかに、タスクの技を受け流し、次の一撃をも止める。苦々しい表情の元親友に、ガードナーは冷静に言う。
「僕が強くなったのは君のおかげだ。君が僕を相手に訓練をしてくれていたから、僕もここまで自分の技を磨くことができた。……けれども、その力の使い方は、君を手本にすることはできない」
「偉そうに……っ! たかが雑用の分際で!」
「その雑用を認めてくれたんだよ、閣下は。だから僕は、閣下に恥じるような負け方だけはできない」
カッとなったタスクがめちゃくちゃに斬りつけてくるのを、ガードナーは全て止めた。だが、威力だけなら圧倒的にタスクのほうが強い。ガードナーは少しずつ後退っていた。そして。
「なあ、レオナルド。俺たちがしているのは喧嘩だ。ただの喧嘩なんだ。そして俺たちは、遺恨はあれど親友だった」
突然何を言いだすのだ、と返すことはできなかった。次の一振りを受けた瞬間、ガードナーの体は宙に浮いた。
「これは事故だ。俺はこのことを後悔する。周りが憐れんでくれるくらいに悔いてやる。だから安心して消えるといい」
昏い笑顔がどんどん小さくなっていく。自分が下へと落ちているのだ。
――残念だよ、タスク。
後戻りのできなくなってしまった元親友に、ガードナーは哀しみと憐憫を向けた。