エルニーニャ王国軍科学部の車両が、地方に建つ病院に到着する。これから、崩れやすくなってしまった真っ黒焦げの遺体を運び、中央司令部にある科学部の施設で検分の準備をするのだ。それにはユロウも立ち会うことになっている。顔色は一向に良くならないのに、彼はまだ働くつもりのようだ。
ルイゼンは先ほどからレヴィアンスに連絡しようとしているのだが、電話が繋がらない。一刻も早く重大な情報を伝えたいのに、相手はずっと話し中だ。軍用無線での通信も試みたが、こちらは何故か混線しているようで、うまく繋がらなかった。
「くそっ、どうなってるんだ。今回に限っては電話番を通すと不味いしな……」
「レヴィ兄も情報を集めてるんだと思うよ。ユロウさん、カルテの件はもうレヴィ兄に話してるみたいだし。南方からロスタ少佐の情報を引き出してるのかも」
「それにしてもタイミングが悪いな。無線が繋がらないのもおかしい。車同士はちゃんと通信できたのに、受信設備が整っているはずの司令部にはどうして……」
メイベルがイライラしているのをカリンが宥める。しかし彼女も不安そうな表情をしていた。こんなときに役に立てたらいいのだが、残念ながらイリスには通信のスキルがない。
「一応、閣下の使っている端末にメールを送っておいた。暗号化しているから、僕と閣下しか内容がわからないようになっている」
「フィン、ありがとう! でも、いつ見るかわかんないよね、それ。ていうか、レヴィ兄も端末持ってたの?」
「兄に融通してもらったんだ。そんなことより、これ以上の通信がだめなら、戻ったほうがいいかもしれないな。どうせ遺体も移動させることだし」
それが最善の策だ。一旦中央司令部に戻り、レヴィアンスには直接報告しよう。来たときと同じように分かれて車に乗り込み、イリスたちは出発した。
司令部で何が起こっているのかは知らない。知ることができない。このためにリーゼッタ班は任務にかこつけて司令部から遠ざけられ、無線には障害を生じさせられたのだから。
大総統暗殺未遂事件以来、中央司令部は少々の改装がなされている。大総統執務室を上からの侵入から守るため、庇をつくったのもその一環だ。人間の大人がなんとか一人分寝そべることができるほどのそこに、ガードナーはうまく体をひっかけることができた。体勢によっては体を強かに打って動けなくなっていたかもしれないが、それを回避できるだけの訓練は日々積んでいた。
「レオ、大丈夫?」
庇の下の開いていた窓から、レヴィアンスの声がした。ガードナーたちが出て行ってから、執務室の大窓をずっと開けていたのだろう。
「無事です。それよりタスクが」
「うん、何はともあれ、レオが助かって良かったよ。こっちに下りてこられる?」
ガードナーは庇からぶら下がり、大総統執務室の窓へ器用に飛び移ってきた。上出来上出来、とレヴィアンスが軽く拍手をしたが、目は笑っていなかった。
「てっきり、タスクは私の代わりに補佐を務めるつもりなのだと思っていましたが……」
「レオが大怪我してたら、順当にいけばそうせざるをえないよね。向こうは『事故』って言い張って、悔やんでみせるつもりだったんでしょ」
「聞いてらしたんですか」
「あんまり良くないことなんだけど、屋上にはマイクを付けさせてもらってる。オレしか聞けないようにしてるけどね」
話してなくてごめん、と言ったあと、レヴィアンスは腕組みをして、またか、と呻いた。
「ちょっと地位脅かされすぎじゃない、オレ?」
「インフェリア氏……二十八代目ほどではないと思いますが。あちらは八年の任期で十数回に渡る襲撃を経験していらっしゃる」
「そうだね。だったらこれくらい、乗り切ってみせなきゃだよね」
伸びをしてから、レヴィアンスは執務室備え付けの無線機に向かう。ガードナーがタスクと対峙しているあいだに、南方からいくつかの情報を受け取っていた。それをリーゼッタ班に伝え、できるだけ早く戻ってきてもらおうとしたのだが、無線機はスイッチを入れた途端に雑音を響かせた。
「混線かな」
「いいえ、ここまでひどくはならないはずです。設備の故障とみていいでしょう。ここではなく、管理室のほうかと」
「まいったなあ。担当者はどうしたんだろう、すぐに直してもらわなきゃ」
「閣下」
ガードナーが眉を顰めて手帳を見る。予定ではなく、その日ごとの司令部内の主要施設の管理担当者が書かれているものだ。チェックしなければならない事項が多いので、用途ごとに使い分けているのだった。その全てを把握するのも、ガードナーの重要な役目だ。だからすぐに気がついた。
「本日の無線管理室担当はタスクです」
「……ルイゼンたちに仕事を任せたのは、ネイジュだったよね。ああ、もう、後手後手じゃんか!」
そもそも、死体遺棄事件はリーゼッタ班に任せるつもりではなかった。あれはレヴィアンスの判断ではない。ユロウが遺体の状態に違和感を覚えて報告に来たのだって、たまたまタイミングが良かっただけのことだ。担当する者が誰であろうと、ユロウは遺体を確かめに行こうとしただろう。
条件を揃えたのは、ネイジュ・ディセンヴルスタ。彼がリーゼッタ班を司令部から追いだしている間に、タスクの訪問があり、無線機も故障した。
「たしかに偶然にしてはできすぎています。タスクとディセンヴルスタ大佐が手を組んだのは間違いないでしょう。しかしイリスさんの件には関わっているかどうか……。ルイゼン君の話通りなら、大佐は面倒を避けている傾向がありますから、単にチャンスが訪れたとしか考えていないかもしれません」
関係性はわからない。だがたしかなのは、イリスを狙う者と、レヴィアンスとガードナーを狙う者が存在しているということ。
「あいつらが早く戻って来てくれればな。タスクの処分も考えないと」
「タスクについては、もう少し待っていてくださいませんか。彼はあれで、三年間将官室長を務めあげています。そのあいだに私のことをよく思っていなかったとしても、行動は起こさなかった。まだ、引き戻せます」
「レオ……」
親友ではなかったと、ずっと疎まれていたのだと知っても、それでも同期を引き戻せるとガードナーは信じていた。たとえこの手が二度と届かなくたって、声が聞き入れられなくたって、彼の持っている軍人としての資質は本物なのだからと。これがガードナーの選んだ、「タスクを認める」ということだった。
やっぱり強いや、とレヴィアンスは口角を持ち上げた。あの日、彼を補佐に選んだ判断は間違っていなかった。そういう強さが欲しかった。かつての仲間たちが持っていたものと同質の、心の強さが。
「わかった、タスクについては後回しだ。レオは無事だったんだし、タスクがあれは単なる喧嘩だと言い張れば、数日の謹慎程度で済む。二人とも剣を抜いたなら、両成敗の適用でレオまで謹慎させなきゃいけなくなっちゃうから、それは避けたいし」
「閣下もなかなか勝手なことを仰る」
「何を今更。押し付けられた立場の分、やり方は好きにさせてもらう。女王に出した条件通りに動いてるだけだよ」
にい、と笑うレヴィアンスに、ガードナーは小さな溜息とともに微笑んだ。
司令部に戻ってきたリーゼッタ班を待ち受けていたのは、ネイジュだった。それもわざわざ、門前でのお出迎えだ。怪訝な表情をすぐに隠し、ルイゼンは敬礼した。
「リーゼッタ班、ただいま戻りました」
「早かったね、本当に調べたのかい? 状況はどうだった、遺体の損傷具合は?」
本当なら、それらはレヴィアンスに報告したいところだ。ネイジュには遺体がミルコレスのものだったなどと言うわけにはいかない。ここを通してもらうための方便が必要だった。
「遺体は損傷が激しく、身元は歯型の照合をもって判断することになりそうです。これより閣下に検分許可をいただきに参ります」
「ならば私が行こう。君たちに仕事を任せたのは私だ。じき就業時間も終わるし、君たちはこのまま帰って休んでくれてかまわない」
にこりと優しそうに微笑むネイジュを、メイベルが睨む。イリスがまずいと思ったときには、もう言葉が出ていた。
「随分と態度が違いますね。午前まで、あんなに面倒そうにお仕事をなさってたのに」
しかしその声がメイベルではなく妹のカリンのものだったので、思いがけず瞠目した。ネイジュの頬が引き攣るが、予想もしなかった反撃に返答ができないようだった。
「リーゼッタ班に実務を任せて、楽そうな部分だけ自分が引き取ろうなんて。そんなことをして、あなたは卑怯だと思わないんですか」
「卑怯? 乱暴な言葉を使うね、ブロッケン准尉。部下からの報告を受け取って上にまとめたものを渡すのは、そもそも私の仕事だよ」
「それすらしなかったくせに。報告を受け取る? それだってルイゼンさんに任せっぱなしだったじゃないですか」
「カリン、やめておけ。ここで無駄な時間を使うな」
メイベルがカリンを止めるという珍しい光景に、イリスはつい見入ってしまった。ぼうっとしていると、フィネーロに腕を引っ張られる。戸惑っていると、そのままネイジュの横をすり抜けて司令部内に入っていった。あとにシリュウも続く。
「ちょ、ちょっとフィン、ゼンたちは」
「ルイゼンには頭と胃の痛い思いをさせてしまうが、場を収める役としてあそこに残ってもらったほうがいい。カリンとメイベルではいつ囮が本気になるかわからない」
あれは囮だったのか。メイベルが怒っていたのは本気に見えたが。そう言うと、フィネーロはしれっと「いつもと同じじゃ目を引かないだろう」と答えた。フィネーロの運転する車に乗っていたメンバーは、移動中に打ち合わせができていたのだ。
「大佐が待ってるだろうって予想してたの?」
「いや、そこまでは。ただ無線の不具合はあまりにも不自然だったから、何かは仕掛けられる可能性があると思っていた」
それだけでも思いつけば十分だ。実際、ネイジュは動いていた。カリンの芝居だって、とっさのものだったとしてはあまりに上出来だった。
「それにしても勇気あるなあ、カリンちゃん……。なんか、昨日と雰囲気が全然違う」
「もう気にするものが何もないからな。これからは自分の思う通りに動ける。いつまでも君の知っている可愛い妹分だと思うなよ、あれはメイベルの身内で、リーゼッタ班の新しい頭脳だ」
たしかに、今日のカリンはメイベルの妹といわれればすぐに納得ができる。父親という枷がなくなり、能力を存分に発揮できるようになった彼女の、あれが本領なのだ。
カリンが、メイベルが、ルイゼンが頑張っている。そして、フィネーロも。
「僕はこれから、ロスタ少佐に会う。ユロウさんが言っていたことが気になっているからな、一刻も早く確かめたい。イリスは閣下のところに行って報告を。検分許可は閣下が直々に科学部に出してくれるはずだ」
「わかった、レヴィ兄に報告するのはわたしに任せて。シリュウはどうする?」
「おれは正直、あの人と顔を合わせるのは気まずいです。インフェリア中尉に同行したいのですが」
「だろうな。安心しろ、もともとロスタ少佐には僕が独りで会うつもりだった」
あっさりと頷くフィネーロに、イリスは眉を寄せる。先に行こうとするその手を引き留めると、怪訝な顔をされた。どうしてそんな、当たり前のように言うのだ。
「最重要容疑者に、独りで会うの? それでクローンかどうか確かめるの? 危ないよ」
「最重要容疑者にその標的を会わせるわけにはいかないし、今ではシリュウの立場も危険だ。それに僕は一番あの男に近い。妥当な判断だ」
「でも」
「君は君の仕事をしろ。シリュウを守り、閣下に報告を。急げ」
なんだって、みんなどんどん強くなって、前に進んでいくのだ。ルイゼンも、メイベルも、フィネーロも、カリンも。シリュウまで、早く行きましょうと歩き出す。
もっと強くなろうと決めて、だからこそ自分自身が関わっているこの件に立ち向かおうとしたのに、どうして置いていかれるのだろう。覚悟は、約束は、どうした。
フィネーロから手を離すと、心配するな、と優しい声がした。僕だって闘える、と言われてしまったら、信じないわけにはいかないだろう。だって、それはもう、十分に知っているのだから。
「絶対後で合流だからね」
「当然だ。リーゼッタ班の仕事は全員でまとめなければ、ルイゼンに叱られる」
笑みを浮かべて拳をぶつけ合う。それが、スタートダッシュの合図だった。フィネーロは情報処理室へ、イリスは大総統執務室へ向かって走る。終業間際の軍人たちが驚いて振り返るのも気にしない。追い越したシリュウのほうを振り返ると、一定の距離を保ってついてきていた。
終業を知らせるチャイムが鳴り響く。けれども、今日の仕事はまだ終わらない。
「ほら、もう仕事は終わりの時間だ。君たちは寮生だろう、寮に帰りなさい」
呆れたようにネイジュは言うが、カリンは引かない。それどころか、チャイムが鳴り終わると今度はメイベルまで口を開き出した。
「なあ、大佐様。どうしてイリスたちは通した? 閣下に報告に行くのは、私たちのうち誰でもいい。ということは、手柄を横取りするつもりなら、貴様は私たち全員を留める必要があったはずだ」
あんなに堂々と、三人もの人間が横を通って行ったのだ。いくらカリンが囮になったとはいえ、気付かないなんてことはない。つまり、あの三人には用がなかったと考えられる。
「……あなたのターゲットは俺ですか、大佐」
ルイゼンは真っ直ぐにネイジュの目を見る。眇められたその奥は、暗い紫色をしていた。本人はサーリシェリア人の血を引いていると言っていたが、正しくサーリシェリア人の血統を持つ先々代大総統とはまるで印象が違う。
「君とは考え方が違いすぎる。だから一度、きちんと話をしたかった。私のほうが君より立場が上で、君は私に従うべきだと、はっきりさせておきたかったんだ」
思えば、最初から気に食わなかったのだろう。中佐でありながら一時期の事務室長を務め、同じ部屋にいる他班の者たちからも信頼が厚い、ルイゼンのことが。ネイジュが北にいてできなかったことを、階級も年齢も下の人間に任されているということが我慢ならなかった。
もっとも、ルイゼンがネイジュに従順であれば、溜飲が下がったのかもしれない。これからはネイジュが中央司令部第一大班事務室の長として君臨し、かつ尊敬するタスクを押し上げ、目をかけてもらい、中央での成功を収めるという道筋を立てられたのかもしれなかった。それは北にいた時から夢見ていた、理想のありかただったのだ。
頂点に名ばかり大総統のレヴィアンスが、その傍らに無功績のガードナーが、彼らの信頼する部下としてルイゼンがいる現在の状態は、ネイジュが理想とするエルニーニャ軍からは程遠い。あまりにお気楽でぬるくて、とてもこの国の力を示す存在たりえない。
北で危険薬物関連案件ではなく指定品目の違法輸出入案件を任されたときから、自分の立場に納得していなかった。何故この国で最も大きな事案を担当できないのか。何故発生件数も大したことがないような、つまらない仕事に携わらねばならなかったのか。苛立ちながらの杜撰な指揮は、どうせ大したことになりはしないと油断していた心は、いざ事件が起きたときにミスとなって現れた。
北方司令部長からは叱責され、不貞腐れていたところへ、どういうわけか中央への異動の話が舞い込んだ。大総統が人手を欲しがっている、できればサーリシェレッドに関わったことがある人間がいい。そう聞いて、ネイジュは真っ先に手を挙げた。今回は失敗しましたが、次こそは。そう司令部長に猛アピールして、異動が認められた。
レヴィアンスの本当の思惑なんて知りはしない。中央に行けさえすれば、出世の道が開ければ、そうしていつかあの頂点の椅子を自分のものにできたなら。そのためには上の人間からの信頼が必要で、どうせなら尊敬する人間に認めてほしかった。この国の力として、相応しい人間に。
「ルイゼン・リーゼッタ。君は私の道を邪魔する石ころだ。砂利だ。足に纏わりつく砂粒だ。家名だけの大総統や無功績補佐に認められているからといい気になるな、庶民が」
「ああ、庶民だよ。どうしてその庶民にムキになるんだ」
「庶民のくせに、私のやり方に指図をするからだ。無駄を排除し、純粋な力によって、頂点たるエルニーニャ軍を取り戻す。この私の崇高な理念を、何故君は解さない?」
司令部門前には誰も現れない。ルイゼンたちが到着したときから、ここにはネイジュしかいなかった。その立場を使って人払いをしていたのだろう。しかし彼も所詮は佐官だから、おそらくはもっと上の人間が関わっている。レヴィアンスやガードナーでなければ、可能なのは一人だけ。
「あんまり崇高すぎるからかな。大佐のやり方は現実的じゃないんですよ。エルニーニャ軍が純粋な力だったことなんて、ただの一度もない。タスク・グラン大将にだって不可能だ」
「なんだと! 君にあの人の何がわかる!」
「わかんねえよ! 将官以外の部下に姿も見せない、引きこもりの将官室長のことなんか、わかるもんか! それで仕事ができたとしても、あんたみたいな考えのやつがくっついてるようじゃ、申し訳ないけど信じられないね」
「愚か者めが。やはり君の軍人生命は絶っておいたほうがいいな」
ネイジュが剣を抜く。ゆるく弧を描く刃は、軍支給武器の目録にはないものだ。ルイゼン自身、これまで一度も相手にしたことがない。しかしどんな得物であろうと、抜かれたならば対することを避けられない。門前の人払いも、初めからこのためだったのだろう。
軍人生命を絶つ――殺しはしないが、軍という組織からは消す。ルイゼンはいつか見た軍籍簿の備考欄を思い出していた。「退役」と書かれた横に「職務不可能」と足されている、あの中に加わるというのは考えたくなかった。そんなことを、レヴィアンスに書かせたくなかった。
ルイゼンも使い込んだ剣を抜く。軍支給のシンプルなものだが、厳しい任務とイリスとの激しい訓練を乗り越えてきた、今となっては唯一無二の相棒だ。
「庶民に似合いの汚らしい剣だな」
そんなふうにネイジュに嗤われるいわれなどない。そんな言葉で、磨き上げたこの剣を無駄に振るったりはしない。
「メイベル、カリン。お前たちはフィンたちを追ってくれ。行き先はわかるな」
「当然だ。行くぞ、カリン」
「はい。ルイゼンさん、またあとで、必ず」
返事はできなかった。その前にネイジュは斬りかかってきた。振り下ろされた刃はよくしなり、ルイゼンの剣とぶつかって不思議な金属音を奏でる。
「見たことがないだろう、海外製だ。はたして君の頭で対策が練られるかな」
「……うるせえ」
対策は頭で考えるものではない。少なくともルイゼンにとっては、その場で見つけるものだ。剣技も、実戦での判断力も、先輩たちに鍛え上げられた。
「俺はこれでも、大総統の代理をやったんだ。てめえなんかに負けるかよ」
無理やりに笑ってみせると、ネイジュの表情が歪んだ。
情報処理室はまだ人がまばらに残っていた。飛び込んできたフィネーロに、驚きながらも「お疲れ」などと挨拶をしてくれる。その中に、暢気に笑うあの男もいた。
「リッツェ君、おかえり。たまに外に出るのは楽しいだろう。俺もちょっとでいいから外で仕事がしたいな。また大陸中を回れるような任務があればいいんだけど」
ミルコレスに不審な点は見当たらない。お喋りで、にやけていて、周囲とももう打ち解けていて。部屋を出ていく仕事終わりの仲間たちに「また明日」と手を振っている彼を、怪しむ人間はいないだろう。むしろ突然いなくなれば、どうして彼が、と惜しまれる。
南方でもそうだったのだろうか。問題点は多々あれど、それを差し引いてもあまりある愛嬌で親しまれる人物。それが死んだ者なのか、生きている者なのか、確かめてみなければわからない。
「ええ、外の任務はいいですね。良かったら、土産話でも聞いてくれませんか」
「珍しいね、君から誘ってくれるなんて。嬉しいよ」
「興味を持たれていたようなので、僕の武器も改めてお見せします。外に出ましょう」
「なになに、随分サービスがいいんだねえ」
にこにこと笑いながら、ミルコレスはフィネーロの肩を抱いた。情報処理室には、あと二、三人が残っているが、いずれも自分の作業に没頭している。こちらを見てもいないし、話を聴いてもいないだろう。
「もしかして、俺の相手をしてくれる気になってくれたりして?」
耳元で囁かれるその意味を、フィネーロは正しく解釈していた。誘えば食いついてくるだろうと思って、独りで彼に接触することを選んだのだ。
「望むならお相手しますよ」
返事をすると、ミルコレスの雰囲気が変わる。同じ笑みでも、今は舌なめずりでもしそうだ。こっちへ、と導くふりをして、彼から少し離れる。そうでもしないと冷や汗が流れそうだった。
先日イリスに言われた通り、得物はロッカーに保管している。取り出してしっかりと握りしめると、手汗が滲んだ。――わかっている。この男には、一人では勝てない。相手は同じ階級とはいえ、フィネーロよりも経験を積み、専門部署にも所属していた者だ。本物ではないとしても、同等以上に鍛えられているだろう。でなければ軍に平気で潜入することなどできない。ジンミやシリュウには、雰囲気で別人だと悟られるはずだ。
「どこでするの?」
「外に良い場所があります。ときどき憂さ晴らしをしたい連中が人を呼び出していたぶっていますが、この時間なら誰もいないでしょう。周囲は壁で囲まれ奥まっているので、気づかれにくいんです」
「まるで悪いことでもするみたいだね。もっと楽しんでいいのに」
新人だった頃、その場所にフィネーロ自身が呼び出されたことがあった。そこに柄の悪い連中が集まるのは、どうやら暗黙の了解だったらしい。上層部も特に対策をすることがなく、大総統自らが出向いて閉鎖しても破られた。現行犯なら罰せられるが、証言だけなら数の暴力に覆される。軍の中の「悪」を象徴するような、狭い中庭だ。
着いた途端、ミルコレスはそこが気に入ったようだった。「陰気だねえ」とは言っていたが、鼻歌が漏れている。
「中央にもあるんだね、こういうところが。みんな大総統のお膝元で、明るくぬくぬくしているものだと思っていたよ」
「裏表あってこその人間ですから。全員同じなんて気持ちが悪いでしょう」
「うん、もっともだ」
頷きながら、ミルコレスは片手でフィネーロを抱き寄せる。もう片方の手は、こちらの武器を乱暴に奪った。全く別のことをそれぞれの手でできる器用さに、ほんの一瞬だけ感心する。
「せっかく鎖があるんだったら、活用しなきゃ損だよね。美しいもので美しいものを縛れるなんて最高だなあ」
「そんなことを考えてたんですか。自分の欲望に忠実すぎて、詰めが甘いんですね、あなたは」
だが、一瞬だ。それ以上はこの男に興味を持つ必要はない。フィネーロは片腕を――初めから鎖を巻き付けておいた側を思い切り引いて、ミルコレスから武器を奪い返した。これの扱いなら、自分より強い者にだって負けない。
「銀歯をどうしたんですか、ロスタ少佐。あなたには銀歯があると聞いていましたが、確認したところ一本も見当たらない。まあ、上手く似せたところで調べればぼろが出たでしょうね。本物のミルコレス・ロスタの銀歯は成分が特殊なようですから」
ユロウが示した「特徴」は、銀歯の有無や加工の痕だけではなかった。銀歯そのものも、国内ではめったに見られない珍しいものだったのだ。治療歴に関わるので、カルテにもそのことは記載されていた。
「クローンをつくるには、人選を誤ったのでは?」
「……まいったな、そんなこと聞かされてないよ。記憶までうまくコピーできたと思ったのに。所詮俺は、記憶継承型ではないからなあ」
笑顔を浮かべたまま、偽物のミルコレスはフィネーロの腹に膝蹴りを入れた。倒れ込んだところで、さらに胸を踏む。しかし何をされても、フィネーロは自分の武器だけは手放さなかった。
「やっぱり半端な焼死は美しくなかったね。ミルコレス・ロスタ本人の美学からいっても、骨までちゃんと砕くべきだった。ついでに宝石に加工してくれたら浮かばれただろうに」
「やはり……あれは……!」
焼死体はミルコレス本人に間違いなかったのだ。いつ入れ替わったのか、彼の記憶をどうやって手に入れたのか、問い質したいのに声が出ない。フィネーロの胸にはさらに重みが加わる。
「聞きたいことは色々あると思うけど。でもほら、俺が今まで喋ってあげた分の対価を、まだ貰っていないよね。それがないと続きは教えてあげられないな。希望としては体で払ってほしいね。本物のミルコレスが死んでも手に入れられなかった、人間から作った完全人工の宝石がほしいんだ。それができなきゃ魔眼だな。イリス・インフェリアの眼を抉ってほしい」
「……っ、誰が、するか……、そんな」
「だよねえ。でもさ、ほしいものは全部手に入れたいミルコレスとしては、君がインフェリアの眼を抉ってくれたあとで、君を殺してよく焼いて宝石をつくるのが一番良いんだよ。ね、今死ぬか、もうちょっと生きるか、それだけの違いしかないんだから決めようよ」
優しく甘い声だが、していることと噛み合っていない。ジンミはこんな男のどこがいいのだろう。
鎖鎌を持っている手を動かそうとすると、足が胸から離れた。代わりに腕を折れそうなくらい強く踏まれ、思わず呻きが漏れる。
「諦めなよ。俺の体ってね、結構筋肉あるんだよ。君が思ってるより重いんじゃない? リッツェ君さ、頭は良いし技術もあるかもしれないけど、体格はその辺の一般人と変わらないよね。だから情報処理にまわされたんじゃない?」
「だから、どうした」
「君は軍人としては底辺だ。失格だ。塵だ。でも宝石になれば輝ける。魅力的な提案だと思うんだけど、残念ながら生前のミルコレスはこのナンパを成功できた試しがない。人を殺すっていう、そのたった一押しができなかったのが敗因だ」
先ほど偽ミルコレスは、自分は記憶継承型クローンではないと言った。だからこそ歯を加工した記憶もなかったのだ。しかし会話の内容、持っている情報量は、本人とあまり違わないようだ。おそらくは本人くらいしか知らないであろうことまで、詳細に知っている。
生前に成功できた試しがないというのは、生前の本物も同じことを誰かに、それも複数回にわたり言っていたということではないか。もともとミルコレス・ロスタには特殊な嗜好があり、それを叶えるために裏と通じていて、結果的にクローンを生成されることになったのでは。ぼんやりする頭でフィネーロは考えたが、それを言葉にすることができない。
――イリスに、嘘を吐いてしまったな。
闘えると言ったのにこのざまだ。情報を持ち帰ることすらできないかもしれない。
「……リッツェ君、意外と強情だね。それとももう返事できないくらい弱っちゃったかな。それじゃ、魔眼のほうは無理かもね。そっちは仕方ないか、俺じゃなくてもいいし。でも人工宝石のほうは俺がやらなきゃ誰もやってくれないから、もう殺すね。はい、決まり」
一人では、不可能だ。
情報処理室にはフィネーロもミルコレスもいない。カリンがまだ残っていた者に尋ねると、二人で出て行ったという。
「最近、仲良さそうだったからね。ロスタ少佐は女も男も好みならいけるって噂だし、リッツェ少佐も狙われてたかも」
なんてね、とごまかされたが、冗談に聞こえない。ミルコレスが本物だろうと偽物だろうと、フィネーロが危ないのは確かだった。
「お姉ちゃん、どうしよう」
カリンが焦って振り向くと、メイベルは舌打ちした。今更どうしようも何もない。
「車で打ち合わせをしたときからこうするつもりだったんだろう。イリスを変態に近づけないためにも、まあベターな選択だ」
「良くないよ、こんなの!」
「最善手だとは言っていないだろう。とにかくここには用がない。他を当たるぞ」
先に部屋を出てしまう姉の分も、カリンは部屋にいた人たちに礼を言った。再び廊下に出ると、もうメイベルは歩き出している。
「どこ行くの、お姉ちゃん。心当たりあるの?」
「来たばかりのお前は、本当は知らなくてもいい場所だ。この条件だけなら、お前と変態は同じだな」
「一緒にしないで……って言えない立場だったね、わたし。イリスさんのもの勝手に持ちだそうとしたんだから」
自分で言っておいて落ち込むカリンの頭を、メイベルがぺしんと叩く。痛みに頭を押さえた妹に、姉は平常と変わらぬ口調で言った。
「変態は中央司令部の構造を完璧に知っているわけではない。中央でも、知らない奴は知らないまま過ごしていられる。フィネーロならそういう場所に変態を誘い込むことができるんだ。利用するとしたらそこだな」
「そんな場所があるの?」
「いくつかある。だからあいつが使いそうな場所を片っ端から調べる。はぐれるなよ、カリン」
「! はい、大尉!」
「気持ち悪い呼び方はやめろ」
嬉しくて敬意を表したのに、メイベルはそれが嫌だという。だからお前と同じ班は嫌なんだ、とぐちぐち言いながらも、ちゃんとカリンがついてきているかどうかを確認してくれる。かといってそれはカリンを甘やかしているわけではない。
「変態を見つけたら即撃て。躊躇は許さん」
命令は真剣で、かつカリンの能力を信じていた。これまで何度も失敗してきて、姉を怒らせたことも幾度となくある。しかしメイベルは、上司として部下を使うことを優先した。切り捨てるのでも甘やかすのでもなく、ただ任務の遂行に必要だと、それだけを思ってくれている。
だからカリンの動き方も自然に決まる。期待に応えるためでも、罪を償うためでもない。軍人としてすべきことを、逃さず躊躇わずに全うする。もう迷いの元は何一つとしてないし、何より今日のためにこれまでを積み重ねてきたのだ。
覚悟を決めると、感覚が研ぎ澄まされる。ただメイベルについていくだけでなく、途中で何が動いたか、誰とすれ違ったか、よく見ることができた。だから彼女にも気づくことができたのだ。
「お姉ちゃん、待って。あそこにいるの、チャン中尉じゃない?」
メイベルが通り過ぎた部屋のドアが開いていた。部屋の窓辺に佇む彼女は、間違いなくジンミ・チャンだった。
戻ってきたメイベルはそのまま部屋に入ってしまう。そこは男性用のロッカールームだったが、そんなことは気にしない。カリンがおそるおそる後に続いて部屋を見渡しても、ジンミ以外の人物はいなかった。
「何をしている、色目女」
「あら、随分なご挨拶。お仕事はもう済んだのかしら、ブロッケン大尉?」
「生憎なかなか終わらなくてな。ちょうど人手がほしかったところだ」
相手が誰であろうと色っぽい笑みを浮かべるジンミに、カリンは少しどきどきする。一方メイベルはジンミを見下ろし、冷たい声で尋ねた。
「ミルコレス・ロスタがどこにいるか知らないか」
「ミル? あなたもミルに口説かれたの?」
「誰があんな変態軟派野郎に口説かれるか。質問に質問で返すな」
も、ということはジンミも口説かれたのだろうか。そうしてミルコレスと深い関係になって、手を組んだのだろうか。シリュウの話だとそういうことになっている。だが、その話にもカリンは違和感を覚えていた。あのときに限らず、シリュウが話をするときはいつでもそうだった。無表情だからか、まるで台詞を棒読みしているかのように聞こえるのだ。
「ミルが今どこにいるかについては、私は知らないわ。今日は別に会う約束はしていないし」
「今日以外なら約束をしていたのか。……ああ、あの変態と情報処理室で淫らな行為に耽っていたのだったな。奴とはどんな関係なんだ」
「東方にいた頃、ミルが任務で来たのよ。指定品目の違法輸出入にお互い関わっていたから、仕事を一緒にして、それから親しくなったの。気がついたら二人ともベッドで裸になってたわ。……あら、お嬢ちゃんには刺激が強すぎたかしらね」
くす、と笑うジンミに、カリンは少し腹が立った。たった一つしか年齢が違わないのに、お嬢ちゃんとは失礼だ。
「平気です! お二人は、それから恋人同士に?!」
カリンがムキになって尋ねると、ジンミはすうっと目を細め、笑顔を消した。
「いいえ、恋人なんかじゃない。あの人は大陸中を仕事でまわって、ついでに宝石を手に入れて好みの子を抱くの。東方司令部で私を選んだのは、私が宝石商の娘で、顔と体もまあ悪くなかったからでしょう。その程度よ」
ミルコレスにとってはそうだったかもしれない。でも、ジンミは本当は、彼の特別になりたかったのかもしれない。カリンには色恋沙汰はまだよくわからないが、ふとそう思った。
「というわけで、あの人がどこにいるかは知らない。嘘じゃないわよ」
再び薄く微笑んだジンミだったが、カリンにはもう笑っているように見えなかった。彼女が嘘を吐いているとも思えない。同時に疑問が湧きあがってくる。しかしそれを口にする前に、メイベルがジンミの腕を掴んで引っ張った。
「何? まだ何か用が?」
「お姉ちゃん、何してるの」
「ここで油を売っていると最悪フィネーロが死ぬ。話は歩きながらにしようと思ってな」
「フィネーロ、ってリッツェ少佐よね。どうして彼が死ぬの」
ジンミは本気でわからないようだった。それが普通だ。突然話の中に登場人物が増えて、説明もされないまま結び付けろというほうが無茶なのだ。
だが、ミルコレスが何者であるかを知っていれば、そんな疑問は湧かないか、もっとごまかすような反応があっていい。カリンはある可能性と、それによって生じる矛盾に気づきかけていた。
「率直に訊こう。ジンミ・チャン、お前は中央司令部にいるミルコレス・ロスタに違和感を持ったことはないか。以前にも性交をしているのなら、そのときと違うと感じたことは」
率直すぎる問いだが、ジンミは素直に首を横に振った。
「意味がわからないわ。ミルに違和感……久しぶりだったから考えてもみなかった」
「では次だ。東方にいた頃、ミルコレス・ロスタと複数回一緒に仕事をしている。このことに間違いはないか」
「ええ、それは何度か。私と組むと仕事がスムーズだからって、ミルが指名してくれるの。実際うまくいったわ。私の功績にもなるから、お礼としてつけていたピアスをあげたりもした」
それは随分と高額で、しかもミルコレスにはたまらない報酬だっただろう。今日もジンミがつけているピアスは、本物の宝石だ。
「もう一つ。シリュウ・イドマルとはよく任務を共にしていたか」
カリンが目を見開くのに気付かないまま、ジンミは答える。
「シリュウは私の後輩よ。私のことを姉さんって呼んで、あの子が入隊してからずっと慕ってくれてた」
「今は? 話しているところすら見ないが」
「それは……班が分かれたのに一緒にいるのは変でしょう」
「そうでもない。現にお前は他班の人間であるルイゼンに絡んでいる。答えにくいなら質問を変えてやろう」
いつのまにか、カリンは知らない場所にいた。メイベルだけはここがどこで、今どこに向かっているのかを知っている。すでに明かりが落ちたそこは薄暗く、閉塞感があった。
「お前とシリュウ、中央では離れて行動するよう言いだしたのはどっちだ」
知らない場所で不安なのに、たしかなものを掴んだと思えたのは、メイベルの問いの意図がカリンにはとうにわかっていたからだ。カリンも、同じことを問おうとしていた。
ジンミは美しい柳眉を歪め、どうして、と呟く。どうしてそのことを知ってるの。
「……拒絶されたの、あの子に。中央では姉さんとは組まないって。姉さんは好きなだけミルといなよって。あの子、自分がミルの本命だってわかってて言うのよ!」
最後は絶叫に近かった。暗い廊下にわんと響いた声に、メイベルが目を細めて頷いた。
「そうか。こちらの聞きたかったことはそれだけだ。それさえわかれば、決められる」
ジンミの手を解放し、メイベルは銃を抜く。両手に一丁ずつ構え、カリンにも促す。
「十秒以内に終わらせるぞ、カリン。ミルコレスを撃ったらすぐに来た道を戻ってイリスを捜せ」
姉の無茶もこなさなければと思うくらいに危機が差し迫っている。カリンは頷き、銃を手にした。情報処理室を訪れたのがフィネーロ一人だったことはわかっている。本当の最重要容疑者は、最も近づけてはいけない人間の傍にいる。
狭い中庭に飛び込んで、姉妹は同時に弾丸を放った。
大総統執務室には誰もいなかった。部屋に鍵をかけないで離れるなんて、レヴィアンスはともかくガードナーまでもがそんなことをするだろうか。
「おかしいな……。二人ともどこ行っちゃったんだろ……」
無線の調子が悪かったことといい、ネイジュが待ち受けていたことといい、中央司令部の様子はずっとおかしかった。全てをネイジュが一人でやったとは考えにくい。まさか、ミルコレスと手を組んでいたのだろうか。
「シリュウ、レヴィ兄を捜しに行こう。ガードナーさんでもいい。とにかく現状を把握しないと」
幸いこちらも二人だ。手分けして捜しに行ける。イリスは単独行動を避けるように言われているが、すでにシリュウと二人きりなのだから、そんなことにこだわってはいられない。
「無線がおかしかったから、片方は無線管理室かな。シリュウ、場所はわかる?」
「いいえ。行く必要もありません」
聞き違いかと思って、首を傾げる。あるいは、もう戻ってきそうな気配がしたのか。――そこまで考える暇もなかった。思考は後でやっと追いついて、遅れた混乱が頭を満たす。
鍛えた体だけが反射的に飛び退いて、刃をかわした。それでも軍服が切れてしまった。真一文字に裂けた丈夫な布地の、切り口はそれは見事なものだった。
「シリュウ、あんた」
刀を構える少年は、それまでの無表情ではなかった。いや、一度だけこの視線を感じた。こちらを獲物と認識し、仕留めようとするその眼。けれども、今の彼は「あなたを超えたい」どころではない。ここにはたしかな殺気がある。イリスに向けられた、目の前の存在を消してしまおうという明確な意思が。
「インフェリア中尉、これはおれの想像ですが」
ゆっくりと構えを変えながら、シリュウが近づいてくる。イリスは後退るが、すぐに逃げ場はなくなった。大総統のための立派な机が、こんなに邪魔なものだとは。
「あなたには弱点が多すぎる。すぐに人を信じ、学習能力も欠如している。そのままだとあなたは一般の中でも弱者の部類になってしまう。だからこその身体能力と、その眼なのでは。性懲りもなく騙されても、ある程度は逃げられるように備わった機能なのではと思うんです」
「何言ってるの」
「しかしそれは宝の持ち腐れというものです。せっかくの『魔眼』なんですから、より有効に活用すべきでしょう。たとえばおれには、それが可能です。あなたの眼をサンプルとしていただき、技術によって殖やし、移植すれば……うまくいけば、この国に巣食う屑どもは一掃できるでしょうね」
「なんでそんな、裏みたいなこと言うのよっ!?」
叫んだイリスの目の前に、刀の切っ先が突きつけられる。その向こうで、シリュウは当然のような、ほんの少しこちらを嘲るような、薄い笑みを浮かべた。
「裏の人間なんですから。おれは至極真っ当なことを述べているだけです」
軍服を着た少年が、まるで違うことを言う。ここに来て初めての笑顔で。
「やめてよ、そんな冗談」
「その台詞を言うタイミングが間違っています。せめて、おれがここでみなさんに作り話をしているときに言うべきでしたね」
全部嘘だったというのか。シリュウはジンミとミルコレスに指示され、やむをえず関わることとなってしまったのではなかったのか。
「もっとも、あの作り話だって、急いで考えたんですよ。ガードナー補佐大将が勝手に、ジンミ姉さんがおれに指示を出していたことにしたでしょう。話を合わせるのが大変でした。あなたの弱点は人に伝染するんですか? 中央のみなさんは思い込みが激しすぎる」
「賭け事の悪癖っていうのは」
「ああ、それはちょっと長い期間をかけて作り上げたイメージです。そういうことにしておけば、多少の無茶もちょっと叱られるだけで済みます。そうして軍の人間は、おれのことなんかろくに調べもしないまま、情報も技術もどんどん与えてくれた」
「だって施設出身って」
「信じるに値する根拠にはなりません。出身は自己申告です。たとえその施設があったとしても、運営をあなたがたが裏と呼ぶ人々が行なっていて、その常識のもとに育てられれば、あなたがた軍の常識からは外れた子供が出来上がります」
そのとき、シリュウのカルテのことを思い出した。入隊当初は、発育不良気味だった。まともな施設で育てられればそうはならないはずだと思っていたが、シリュウのいた環境に問題があったとすれば、おかしいことではない。
「おれは初めのうちに、あなたに真実をお話しているはずです。身寄りのなくなった子供の行きつく先は、施設か軍か、あるいは裏社会。裏の子供は、自分のやっていることが善だと信じているために、いわゆる一般的な意味での更生は難しい。……軍を一般にした話で、裏が普通なら逆になります」
「逆だろうと何だろうと、シリュウは今まで軍人だったじゃない」
「必要なものを手に入れるための仮の姿です。力も、情報も、金銭も、軍でなら十分に手に入る。軍人の仮面をかぶるのに、良心なんか必要ありません。地を隠せるだけの演技力があればいい」
呆れたような表情で、シリュウが首を横に振る。こんなに表情が豊かな子だとは思わなかった。
「インフェリア中尉は軍家の人間ですからね、軍が正義で裏が悪であると勘違いしていても、仕方のないことです。それも育った環境の問題ですから、おれは責めませんよ。別に他人を責めるために裏にいるわけじゃない。単に、おれにはおれの生活があったという、それだけのことです。そしてあなたは、あなたがたの属するコミュニティの人間の中でも特に運が悪かった」
こんなに喋るような子だとも。けれども、普通の――いや、こちら側の人間だと思っていた。同じ思いを持っていると、自分で軍を選択したのだと、勝手に思い込んでいたのだ。
シリュウ・イドマルは、十六年の人生を、ただの一度も「軍」の人間として生きたことはない。
「おれはあなたの眼を抉り、研究組織に提供します。あなたはどうしますか。このままおとなしく、片目くらいなら差し出そうと思いますか」
それで全てが終わり、それ以上の被害が出ないならそれでいい。けれども、そうではないとわかっているからイリスは守られてきた。この眼を悪用される危険があり、それでイリスたちの社会が破壊されることになるかもしれないから、軍のトップまで動いていた。
「できない」
大切なものを守ると約束した。絶対に破ることのできない約束だ。それを果たすためには、イリスが戦うよりほかにない。ここにいるのは自分と、シリュウだけだ。
「わたしの眼はわたしのもの。誰にだって渡せない」
イリスは剣を抜き、目の前にあった刃を払った。額が少し切れて、つう、と一筋血が滴る。力を少しだけ解放した眼に映るシリュウは、三日月のように割れた口で笑っていた。
レヴィアンスは無線管理室にいた。叩き壊された機械はどうしようもなく、復旧は少し先になりそうだ。今度は管理を分散させよう、と溜息を吐きながら、耳では屋上の音声を拾っている。
ガードナーは再びタスクに会いに行っていた。レヴィアンスも行こうとしたのだが、もう少しだけ自分が粘りたいのだと、ガードナーにここに留められてしまった。
「これは私……いや、僕とタスクの決着なんです。喧嘩別れになってしまった三年前のけじめです。だから閣下は、待っていてください」
そうなってしまう原因をつくったのはレヴィアンスなのに、そう言わない。レオナルド・ガードナーは自分の誇りとレヴィアンスの正しさの証明のために戦いに行った。
屋上から落としたはずの男がほぼ無傷で戻ってきたことに、タスクは驚いただろう。しかしすぐに思い直したはずだ。大総統補佐とはそういう人間がなるものなのだと。そしてこうも思ったはずだ。誰がそこまで育ててやったと思ってる、と。
タスクはガードナーを認めたのだろうと、レヴィアンスは本気で思っていた。それまで本当に、将官室長を真面目に務めていたのだ。だが考えてみれば、あれも彼にとっては閑職だったのかもしれない。本来、実地での任務に向いていた男だ。暴れることが取り柄で仕事の、一時期のイリスのような人間だったのだ。それを椅子から離れられない立場に置いたのだから、レヴィアンスの采配ミスだ。不満が徐々に溜まり、限界まで膨らんだところを針で突かれただけのこと。それをずっと勘違いしていた。
「指揮者失格だね」
与えられた名前の通りにできたら良かったのに、とこんなにも思ったことがあっただろうか。ゼウスァートの名はいつだってレヴィアンスが捨てたいものの上位にあったのに、今ではその力を欲している。それで全て解決したら、もう一つも文句を言わずに職務を全うする。だが、それは無理な話だった。
万能の指揮者は一度死んだ名前だ。名前で嘘を吐いている。もはや「名ばかり大総統」という蔑称すらふさわしくない。
「三年も、よくもったよ。レオも、タスクも、頑張った。もう十分……」
振り回し続けたものは、もう解放してやるべきなのかもしれない。けれども、そのあとは。それが全く、思いつかないのだ。今まで、自分の周りだけを理想的に固めた状態がベストだと信じてやってきた。それ以上のことが、考えられなかった。
耳に剣が交わる音が響く。タスクの猛攻に、ガードナーが耐えているのがわかる。そうして耐え続けたために、それができてしまったために、タスクに練習台として使われるようになってしまったのだ。結果、タスクはガードナーを下に見るようになった。――けれどもそれは、昔の話だ。
「……あ」
一瞬で、音が変わる。ガードナーが打ち返したのだと、すぐにわかった。それをきっかけに形勢が逆転し始めた。ガードナーは、タスクの粗い攻撃の隙を見切ったのだ。そう、本来はこちらが彼の本領。物事の好機を見定め、自分の動きを決める。反撃の機会を強かに窺える人物なのだ。
「どうしてオレが、それを信じないのさ」
必要としていたのは、耐える補佐ではない。適切な機を逃さない補佐だ。それこそがレヴィアンスを補える人物だと思ったから、ガードナーを選んだ。
けれどもタスクの力も必要だった。彼の持つ圧倒的な存在感と求心力が、おとなしくなってしまいがちな将官たちを動かせると思ったのも本当だ。
ガードナーの強さを、タスクの力を、危うく「十分」などという言葉で否定するところだった。彼らを選んだ自分が、それをしてはいけない。すべきことは、伝えそこなっていた言葉を伝えること。それで解決するかどうかはともかく、レヴィアンスにしか言えないのだから。
それが、大総統レヴィアンス・ゼウスァートの選択なのだと。
勝利こそまだないが、ルイゼンの訓練相手はイリスが最多だ。尉官でありながら、佐官をも凌ぐ戦いのセンスと技術。戦略が甘い分粗削りではあるが、それでも強い。どんなにこちらが腕を磨いても、彼女はさらにその先を行ってしまう。
その向こうには、先輩たちがいた。技術を、戦術を、丁寧に叩きこんでくれた人たちだ。イリスに勝てないということは彼らにももちろん勝てないのだけれど、頼めば相手をしてくれた。
経験はルイゼンの血や肉や骨となり、この体を動かしている。見たことのない武器も、何度か打ち合えば、どんな使われ方をしているのか、何が得意で何が弱点なのかがわかってくる。イリスや先輩たちに比べれば、ネイジュは実に理解しやすく、かつ制することが十分に可能だ。
よくしなる奇妙な剣は、しかしその材質ゆえか軽い。その特徴をネイジュは持て余していた。かつては彼も軍支給の剣を使っていたのだろう、力の入り方がルイゼンとよく似ている。しかし、彼の剣にそれほどまでの力は必要ない。叩き付けるのではなく、斬り落とすのでもなく、刻むのがちょうど良さそうだ。こういう剣が手に入っていれば、いつぞやのフィネーロの戦闘力不足問題ももっと早くに解決できたかもしれない、と冷静に考えるだけの余裕がある。
「なぜだ、なぜ届かない!? 中佐ごときが、若造が、どうして私の剣を弾くんだ!」
焦れば焦るほど、ネイジュの手は滑る。そうなんだよな、とルイゼンはいつかの自分を重ねた。焦るとそこから全部崩れていってしまう。
「勿体ないですね、大佐。その剣、入手してからまだ日が浅いのでは? 訓練不足なら、うちの血気盛んなやつ貸しましょうか」
「うるさい!」
柔らかな刀身をルイゼンの剣に叩き付けては、いくらしなるとはいえ向こうが先に折れてしまいそうだ。それは本当に勿体ない。
「グラン大将に言われたんだ。ルイゼン・リーゼッタに軍を辞めさせてしまえばいいと。だからそうすれば、私の道は開けるはずなんだ」
「ああ、大将に。根に持たれたかな」
ネイジュの精神状態は、おそらく限界に近い。重要なことを思わず吐いてしまうほどに、彼はルイゼンに対して焦りと、本人がまだ気づいていない恐怖を持っている。相手が敵ならば今こそ倒すところだが、お互い軍の人間である以上はむやみに傷つけられない。
そう、ネイジュは本当に軍人だ。軍で上を目指し、軍で生きようとする人間だ。イリスを狙っている者たちの仲間ではない。彼は邪魔者を排除したいだけで、取り締まり対象という意味での「悪人」ではないのだ。
「そんなことしなくても、閣下がもう大佐を認めてたのに。そうでなきゃ、事務室長にしたりしません。俺もきっと、あなたから学ぶことがあったんだ。でも、こうなったら仕方ないですよね」
素早く剣を引き、ネイジュがバランスを崩したその瞬間を狙い、大きく一振り。ルイゼンの一撃はネイジュの剣を手から弾き飛ばし、遠くへと放った。地べたに倒れ込んだネイジュは、すぐに起き上がる気配を見せない。彼はもう、戦えないだろう。
「……どうして、お前なんかが」
絞り出すような声に、ルイゼンは真剣に答える。
「俺にもわかりません。でも、何かを見出してくれているのなら、それに応えようと思います。そもそも俺がここにいるのは、立場ではなく、大切な人を守りたいからなので」
だから、どんなに恨まれても、妬まれても、負けるわけにはいかなかった。
「俺は絶対に辞めません。グラン大将にも、そうお伝えください」
寮のほうから人が来る。門前でこれだけ暴れれば、何事かと駆けつけることもあるだろう。ネイジュのことは他の者に任せ、ルイゼンは早くイリスたちに追いつきたかった。こちらに気づいて走ってくる軍人たちに手を振り、ネイジュには背を向けた。
「……お前だけ、ここに居続けられると思うなよ」
ゆらりとネイジュが立ち上がり、よろける。ルイゼンは振り返って、思わず彼を支えようとした。いつも仲間にそうしているのだから、反射的に体が動くのだ。しかし。
「どうせ地獄に落ちるなら、お前も道連れだ」
こちらの目を覗き込む、歪んだ笑みが、だんだん霞んでいく。痛みというより、熱かった。今まで受けたどんな傷よりも深いということは、かろうじて察することができる。
腹に深々と刺さったナイフに思うのは、まいったな、ということ。これじゃ、約束通り合流できないや。――ああ、そういえば、約束はしそこなっていたんだっけ。
両肩と左脇腹に銃弾を受けたミルコレスが地べたに座り込む。それを一瞬のうちに確認すると、カリンはもと来た道を引き返した。姉の言いつけ通り、イリスを助けに向かうため。
メイベルは中庭に足を踏み入れ、フィネーロを一瞥した。
「腕は折れてないか」
「わからない。でも動かないから、あとは頼んでいいか」
「独りで戦おうなんて無茶をするからそうなるんだ。……さて、変態」
脇腹を押さえるミルコレスを見下ろすと、痛みに歪んだ表情が見えた。変態とは呼んでいたが、彼も案外普通の人間だった。人間と、そう変わりはなかった。
「お前はクローンなんだな」
「……そうだよ。ミルコレス・ロスタのクローンだ。でも、本人とそんなに違いはないよ。俺の記憶や仕草は本人から仕込まれたものだ。ミルコレスはもともと、裏に加担している軍人だった」
やはりそうか、とフィネーロが呟く。いや、まともに喋ろうとしたのだが、掠れた声しか出なかったのだ。メイベルは一言「喋るな」と告げてから、ミルコレスに再び問う。
「いつから入れ替わっていた」
「南方にいた時から、実験的にときどき入れ替わってたよ。誰も気づかないのが面白くて、ミルコレスとはよく笑いあったものだ。だからあいつを殺すのは、ほんのちょっと惜しかった」
「殺したのはいつのことだ」
「あいつが中央に向かった日だよ。組織の人間とともに、切り刻んで意識を失わせてから、焼き殺したんだ」
これくらいはもうわかっているんだろう。そんな口調で、ミルコレスのクローンは語る。時系列などに不明な点はあるが、調べればすぐにわかるのだろう。それはメイベルたちの仕事だった。
「もう一つ問おう。お前に指示を出していた人間は、シリュウ・イドマルか」
フィネーロが驚愕するのが見えた。それまでの容疑はジンミにかかっていたのだから、無理はない。だが、ジンミはシロだ。この計画そのものを知らずにいたかもしれない。あるいは、彼女も無意識のうちに操られていたことも考えられる。
シリュウにはおそらく、それができるのだ。中央の人間に、それもトップにいる者たちにまで間違った推理をさせ、信じ込ませる。
ミルコレスは首肯し、笑った。
「そうだよ。地方で指定品目の違法輸出入取り締まりを失敗させるように仕向けたところから、本物のミルコレスを殺すよう指示したこと。もちろん俺をつくる過程に、ミルコレスを参加させたのもシリュウだ。あの子はミルコレス曰く、宝石と同じくらい魅力的で恐ろしいって。あっというまに虜になったってさ。実際に会って、なるほどと思った」
弾丸が三発も命中している割にはよく喋る。しかし、おかげで事件が見えてきた。黒幕はシリュウ。ミルコレスのクローンはその手下。全ては彼らによって仕組まれていたのだ。カリンに送られた手紙も、シリュウの関係者が用意させたものだろう。ネイジュの行動まではわからないが、エルニーニャ中を仕事という名目でまわっていたミルコレスを使えば、そうとわからないように手を回すことは可能なのかもしれない。
「あいつは本当に十六歳か。実は記憶継承型クローンで、何十年も生きているのではあるまいな」
「んー、たぶん普通の人間だと思うよ。組織で英才教育受けて、何年も軍人のフリしてれば、それなりの人材に育つんじゃない? 軍人だって、十歳から決められた生き方を叩きこまれるんだから、できないことじゃないだろう」
たしかに、とメイベルは頷き、再び銃を構えた。ミルコレスには同じことを、今度は聴取で喋ってもらわねばならない。来てもらおうか、と言おうとしたとき、横から銃を奪われた。
「何をする、ジンミ」
駆け寄ってきたジンミが、メイベルから取り上げた銃を構えた。標準を合わせ、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「私が殺してやりたかったのに。でも、それも結局できなかったのね。私は、最後まで騙されたままだった」
破裂音が響き、ミルコレスがゆっくりとくずおれる。その額の真ん中には穴があき、クローンといえど、もう二度と喋ることはできなくなってしまった。
身体を起こしたフィネーロが、眉を寄せてジンミを見た。
「君は、なんてことを。……証言者を、殺すなんて」
「クローンでしょう。死んだってかまわないんじゃないの」
「しかし」
「あなたたちが聞いたのだから、もういいでしょう。……彼を、死なせて。無理やり生かして、喋らせないで」
ああ、とメイベルは嘆息する。きっと自分がジンミの立場なら、同じことをしただろう。愛した人間の、それも殺されてしまった者の複製など、見ていられない。殺してしまったほうがましだと思う。だが、それでは何の解決にもならないのだ。真実は明らかにならないし、やるせなさや悲しみはけっして消えることがない。
ジンミがミルコレスに近づき、その亡骸の頬を撫でる。こんなに似ているのに、と呟く声には、慈しみと憎しみの両方が混じっている。
「やっぱりあなたは、私を愛してはくれなかったのね。生きていても、死んでからも」
剣戟は疾く、高い音を響かせる。型の決まっているミナト流剣術に裏の暗殺術が加わったシリュウの動きは、知っているようで知らない動きだ。一度手合わせしたとき、あのときはやはり手加減をしていたのだ。イリスの剣技がどれほどのものなのか、見定めるために。
ぴ、と刀の刃先がイリスの頬を掠める。頬を拭うと、手が赤く染まった。呼吸を整える間もなく、次の攻撃が来る。飛び退いて大総統の執務机の上に乗ると、口元に笑みを浮かべるシリュウが見えた。ここに来て一番楽しそうな表情に、イリスはつい苦笑する。
――どうやって笑わせようか、考えてたのにな。
まさか、殺し合いが一番効果があるとは。模造刀での手合わせなんかではなく、本気の命の奪い合いが、シリュウと心をかわす最短の方法だったのだ。
「インフェリア中尉、この期に及んでまだ躊躇っているんですか。裏の人間が相手なんですから、本気にならないと死にますよ」
「そうだね。どうやらあんたには、わたしの眼も効かないようだし」
先ほどから少しずつ出力をあげている眼は、しかしシリュウには効果が見られない。むしろ彼の動きは、イリスと打ち合いをするごとに洗練されているようだった。刃の描く軌跡は美しく、それが自らに降りかかる災いとなるとわかっていても見惚れそうになる。
下から上へ、掬いあげるように刀を振るうミナト流の技をなんとか止めると、全身に痺れが走るようだった。だがイリスは間髪入れずに刀を弾き、机の上から飛び上がってシリュウに斬りかかる。狙いは肩から胸にかけての袈裟懸け斬り。動けなくするだけで、致命傷は与えないつもりだった。シリュウには真実を証言してもらわなければならないし、イリス自身、若い彼を殺してしまいたくはない。できれば裏から抜けて、「真っ当な」生活ができるようになってほしい。
――でも、シリュウとわたしでは「真っ当」が全然違うんだ。
シリュウ自身が言っていた。裏で育ってきた彼にとっては、裏での暮らしこそが常識なのだ。幼い頃からそう育てられてきたものを、今更変えることは難しい。イリスがいまだにメイベルたちの暮らしがわからないのと同じだ。
一瞬考え事をしたせいで、シリュウにはこちらの攻撃を完全に読まれ、避けられた。すぐに次の刃が来る。横一直線、真一文字に薙ぎ斬る技。イリスはとっさに屈んでかわし、今度はシリュウの足を斬りつける。剣は軍服の生地を裂き、たしかに狙い通りに届いた。けれどもシリュウは、傷を気にすることもしない。一歩後退り、今度は真上に振り上げた刀をイリスの頭に向かって一気に叩き落としてくる。刀を見ずに、気配だけで刃を察知し、剣で受け止めると、シリュウがくつくつと笑った。
「惜しいな。インフェリア中尉、こちらで働きませんか。眼も剣技も生かせる、最高の環境だと思いますよ」
「お断り。わたしは軍人、イリス・インフェリアなの」
「そうですか。あくまで軍の人間だと、そう言い張るわけですね」
刀を引き、シリュウがぱっくりと開いた三日月の口で言う。
「『赤眼の悪魔』のくせに、それをいつまでも軍の『正義』のために使えると。もっと楽に、自由に、その力を使ってもいいんですよ。あなたがたはどうしてか裏を敵視し滅しようとするけれど、おれには意味が解りません。裏はあなたがたが思うより、ずっと解放されたところです」
赤眼の悪魔。そう呼ばれた者は、最後には退治されてしまった。物語の中でのことだけれど、彼は存在を許されなかった。その眼で人を操った代償は、柔らかな表現で包まれてはいるけれど、きっと命だった。そして現実も、物語と同じくらい、いや、それ以上に厳しい。
この眼が疎まれたことは忘れていない。同じ眼を持つ母はかつて苦しみ、イリスもまた人々から気味悪がられ、自らもその力の大きさを恐れた。上手く扱えるかどうか、あるいは隠せるかどうか、不安の日々を過ごしてきたのは確かだ。
だが、この眼を認めてくれる人がいる。母は父らに丸ごと受け入れられ、イリスと兄を産んだ。イリスもたくさんの人に、ここにいろと言ってもらえる。強大な力のことなど気にせずに、イリスという人間を認めてくれる人たちがいる限り、ここを離れず、守ると決めた。
それがイリスの、力の使い方だ。それを捻じ曲げる気はさらさらない。
「たとえ軍がわたしを縛っていようと、それはそれでいいんだよ。シリュウが裏で生きてきたっていうなら、わたしは軍の中で生きてきたんだ。今あるこの世界が、わたしを自由にしてる。わたしは裏にはいかない。そこがどんなに自由だとしても、わたしの居場所じゃないから」
再びシリュウが斬りつけるのを、イリスは手にした剣で迎え討つ。鍔迫り合いをする両者の距離は、限界まで近くなる。
「シリュウは、どうしても裏にいるつもりなの? あんたの世界は、本当にそこでいいの? 利用されるのが、あんたの自由なわけ?」
「それはあなただって同じだ。軍に利用され、その身を縛りつけられている。軍はあなたを脅威だと思っているから手放さないと、わかっていてどうしてそこにいるんですか」
その答えは、実にシンプルだ。イリスは父を、母を、兄たちをこの眼で見てきたのだ。彼らの背負った苦しみや悲しみ、痛みやつらさ、使命の重さをよく知っている。インフェリアの名のもとに生まれたからには、知らないでいられるはずもない。
だからこそ、この道を選んだ。背負うなら、真っ直ぐに立って、前へ進もうと思った。ときには転んだり、迷ったり、道を間違ったりすることもあるけれど。そんなときは仲間が手を差し伸べ、導いてくれる。イリスの世界は、そんな場所だ。
「わたしは恐れられても、縛られても、わたしの周りだけは守るって約束したの。大切なものを何が何でも守り抜くために、わたしはここで生きる!」
シリュウの刀を押し返し、剣を高く振り上げる。距離をとったシリュウは突きの構えをとる。おそらくはシリュウのほうが速いだろうと、一度手合わせをしたイリスにはわかっている。しかし、この少年を立ち止まらせることができるのならなんでもいい。イリスの大切なものたちを守れるのなら、それでいい。
振り下ろした剣は、シリュウの肩を叩き斬る。細身の剣だから斬り落とすことはないけれど、傷は浅くないはずだ。
そしてシリュウの刀は、イリスの胸を的確に突いていた。切っ先は深く突き刺さり、けれども背中に通りはしなかった。
部屋の外からたくさんの足音が走ってくるのが聞こえる。騒ぎに気づいた軍人たちのものだろう。聞き慣れた靴音だった。
「シリュウ、裏で動くのはこれでおしまいだよ。わたしの眼を持ち帰れなければ、あんたは裏に戻ったって、生きられるかどうかわからないんでしょ?」
血を吐きながらも、はっきりと喋るイリスに、シリュウはほんの僅か瞠目して、それから目を眇める。
「言ったでしょう。裏のほうが自由なんです。あの世界はあなたが思うより広い。いくらでも生き方はあります」
シリュウもまた、呼吸が粗かった。大きく斬られた傷は、その場から立ち去ることができないほどのダメージになったはずだ。
「おれは生き続けます。あなたの眼を狙い続けます。もしあなたがどうしてもおれを裏から抜けさせたいというのなら――」
告げられた言葉に、イリスは眉を顰める。その瞬間、軍人たちが部屋に入ってきた。ここが大総統執務室であろうとお構いなしだ。戦闘の現場ならば関係ない。
「イドマル准尉を確保しろ! そして速やかにインフェリア中尉の手当てを!」
軍人たちの後方には、カリンがいた。彼女が味方をここまで導いてくれたのだ。イリスはホッとして、その途端に胸が激しく痛むのを感じた。これはどれくらいの傷なのだろう。上手に肋骨の間をぬっていた。呼吸をするたびに血が口から溢れて、なんとなく、肺かな、と思った。もう少しちゃんと勉強しておけばよかった。
レヴィアンスが大総統執務室に――シリュウが取り押さえられ、負傷したイリスが応急処置を受けている現場に戻ってきたのは、軍人たちがそこに乗り込んでから数分後のことだった。屋上でのガードナーとタスクの戦いに割って入り、止めさせ、それから来たのだ。
それまで、執務室が戦いの舞台となっていることも、門前や隠れ中庭での状況も、何も把握できていなかった。
「司令部門前ではルイゼン・リーゼッタ中佐がネイジュ・ディセンヴルスタ大佐にナイフで刺され、重傷を負いました。司令部施設内でも、フィネーロ・リッツェ少佐が肋骨、鎖骨、および右尺骨を折る重傷。ミルコレス・ロスタ少佐が額、両肩、左脇腹を撃たれて死亡。ロスタ少佐に関してはリッツェ少佐への暴行があったとの証言があり、致命傷となった額の銃創はジンミ・チャン中尉によるものだということで、本人も認めています」
急遽集まった軍人たちからの報告と、目の前の光景に呆然となる。だが、すぐに気を取り直して、レヴィアンスは報告をした将官に礼を言った。
「ありがとう。そんなにたくさんあったら、まとめるの大変だったでしょ。苦労人だね、マー坊も」
「仕事ですので。……申し訳ありません、閣下。つい最近まで私が彼らの直属の上司だったというのに、こんなことを引き起こしてしまうなんて」
トーリスが深く頭を下げるので、レヴィアンスはそれを労うように軽く叩いた。この状況は、全く彼のせいなんかではない。レヴィアンスの無茶が招いたことだ。もっと慎重になるべきだった。イリスを狙う者の尻尾は掴めたが、その代償があまりに大きい。
先ほどまで戦っていたガードナーとタスクが協力して場を鎮めようとする、その姿が唯一の救いだった。
「リーゼッタはもう病院に運んだのか。怪我の具合はどうなんだ」
「ただでさえ深い刺し傷をさらに抉られたようで、治るまでには時間がかかりそうだとのことです。幸いにも意識はあるようですが」
「リッツェ少佐とロスタ少佐については、ブロッケン大尉が詳細を知っているそうです。これから聴取を始めます」
「お願いします。しかし、くれぐれも彼女を煽るようなことはしないでください」
客用のテーブルやソファは元あった位置から大きくずれ、重厚で丈夫なはずの執務机にも傷が刻まれている。柔らかかったソファは無残にも中身がはみ出していて、この場所での戦いの激しさを物語っている。レヴィアンスはそれらを横目に、イリスのほうへと歩みを進めた。
壁に寄り掛かっている彼女は、晒した肌に包帯を何重にも巻き、口から零れる血を拭っている。粗い呼吸を整えながら、掠れた声で「レヴィ兄」と言った。
「みんなのこと、聞こえた。……ゼンやフィンは、治るんだよね。ベルとカリンちゃんは、無事なの? シリュウの傷は、大丈夫?」
この期に及んでも、自分のことは後回しだ。やはりイリスは、あの父の娘で、あの兄の妹だった。レヴィアンスは大きく溜息を吐いて、喋るな、と告げた。
「みんな大丈夫だよ。だから、お前も休んでろ。軍に入ってから、一番でっかい傷じゃんか」
「……へへーん。傷は、軍人の、勲章だよ」
「だから黙ってろって。ちゃんと治さなきゃ、勲章にしたって意味ないだろ」
救急隊が部屋にぞろぞろと入ってくる。同時に、ルイゼンとフィネーロが無事に病院へ送り届けられたという報告があった。ミルコレスも一応運ばれたそうだが、もう息がないことは確実だという。
「あ、レヴィ兄。ユロウさんが、検分の、許可を……」
担架に載せられる間際、イリスが再び口を開く。レヴィアンスは急いで頷いた。
「それはもう了解して、頼んである。焼死体が本物のミルコレスだって、すぐにわかるんじゃないかな。あいつの足取りもオレのほうで調べた。だからもう休めよ。お前にあんまり無理されると、オレがニアとカスケードさんに叱られる」
「だい、じょうぶ、だよ……。お兄ちゃんと、お父さんには、わたしから、頼んでおく。……あんまり、レヴィ兄を、叱らないでって、さ」
にい、と笑う顔は真っ青で、イリスらしさに欠ける。もうおとなしくして、傷を悪化させないようにしてほしい。けれどもそうしないのは、レヴィアンスが怪我人と同じくらいに酷い顔をしているからだというのも、自分でよくわかっていた。
シリュウも担架で運ばれていく。軍服を左肩から真っ直ぐ縦にばっさりと裂いた、その切り口が真っ黒だった。軍服が紺色なので、血に染まると真っ黒になってしまうのだ。イリスは覚悟して剣を握ったのだろう。普段から活発でよく暴れる彼女だが、人を傷つけることはめったにない。こうしなければならないと、それこそ血を吐くような思いで斬ったに違いなかった。
「シリュウ、傷を治したら全部喋ってもらうからな」
声をかけたが、答えなかった。目は開けているが、こちらの言うことを聞いていないらしい。裏の人間が、軍の頂点の人間の言うことを、聞くはずもない。
「私が迂闊でした、閣下。シリュウ・イドマルを信じ切って油断し、そのうえ自分のことに囚われてしまったせいで……」
いつのまに傍に来ていたのか、ガードナーが俯いていた。もう「申し訳ございません」は聞き飽きたので、言われる前に首を横に振った。
「仕方ないよ。シリュウは、何年もかけて軍に入り込んでいたんだ。オレやクレリアだって見抜けなかったんだから、油断したのはみんな同じ」
それより、と大総統執務室を見回す。これからこの部屋を現場として検証し、それが終われば片づけをして、同時に今回の事件をまとめなくてはならない。各司令部への報告をし、タスクやネイジュ、ジンミの処分についても考えなくては。やるべきことはたくさんある。レヴィアンスは大総統として、ガードナーは補佐として、俯いて立ち止まっている暇はない。
「まずは現場の写真かな。レオ、カメラ持ってきてくれる?」
「また閣下が撮られるんですか」
半分呆れたガードナーが資料室に向かったのを待っている、そのときだった。突然、外から轟音が響き、悲鳴が続く。何事かと窓際に集まった軍人たちを掻き分けて、レヴィアンスも外を見た。――先ほどよりももっと信じがたい光景が、日の暮れた闇の中に広がっている。
壊れた車や割れた石畳と、折れた木々。そして倒れている軍人たち。中心には空の担架が、折れ曲がって落ちていた。そこにいたはずの人物の姿は、どこを見回しても見当たらない。
レヴィアンスは弾かれたように走り出し、廊下を駆け抜け、外へ出た。ちょうど大総統執務室の下に、惨状が広がっている。血塗れになった軍人の一人が、閣下、と苦しげに呻いた。
「何があった?! シリュウは?!」
「……逃亡、しました。武器を、……剣を奪われて……」
一瞬の出来事だったという。大怪我を負っていたはずのシリュウが体を起こし、担架から飛び降りてすぐ傍にいた軍人から剣を奪った。彼が得物を一振りしただけで、周囲の全てが割れたのだ。
「しまった……ミナト流か!」
このとてつもない威力の技を、レヴィアンスは知っている。かつて間近で見たことがある。堅固な牢の鉄格子をも飴細工のように砕くことのできるこの技は、ミナト流の破壊の奥義だ。本来ならば対物のみに使われるものだが、脆い人間が巻き込まれればもちろんのこと甚大な被害を受けることになる。
「レヴィ兄っ!」
あらん限りの声をあげて、イリスが駆け寄ってくる。とはいえ、こちらも大怪我のために今にも倒れそうなくらいふらついている。動けるのが不思議なくらいだ。
「バカ、何動いてるんだ! 巻き込まれなかったみたいで良かったけどさ」
「シリュウは、逃げたの?」
とっさに支えたイリスの表情は、泣きそうなのを我慢しているようだった。痛みのせいではないことは、レヴィアンスにもわかっている。きっと、同じ気持ちだから。
「……逃げた。止められなかった。姿も見えない」
「あんな、怪我させたのに……。まだ、これだけの、力が、残ってたなんて……」
「とにかく、手分けして怪我人を運ぶ。シリュウも捜す。あとは全部オレが大総統として責任もってやるから、お前は病院に行け。今のでまた出血しただろ、バカだな」
真っ赤になった包帯と、まだ口から流れている血。しかしイリスの眼が、そんなものはどうでもいいと言っていた。その時点で、嫌な予感はしていたのだ。
無理やりイリスを無事だった車に乗せて、レヴィアンスは軍人たちに指示をとばす。怪我人の処置をし、運ぶ者。拡大した事件現場の検証にあたる者。そして、シリュウ・イドマルの捜索にあたる者。夜の中央司令部は騒がしかったが、軍人たちは指揮者の命令通りに手際よく動いていた。
メイベルとカリンはそれぞれ聴取を受ける。タスクは自ら、ネイジュとジンミは軍の者によって拘束された。ルイゼンとフィネーロは病院で治療を受けている。ミルコレスのクローンの遺体は、本物と同様に速やかに検分にまわされた。
そして、イリスは。
その日の晩のうちに、姿を消した。