春風がそよそよとカーテンを揺らす、白い部屋。全部で六台のベッドがあり、それぞれに時折、見舞い客が来ている。軍設病院の病室は、怪我の種類や程度に関係なく、人が詰め込まれていた。共通するのは、いずれも昨日に中央司令部で発生した事件で負傷した者だということだ。

エルニーニャ王国軍中央司令部で起きた事件は、四つということになっている。一つは軍施設敷地内で多数の負傷者を出した傷害及び器物損壊事件。実行犯の少年は逃走中だ。これが最も被害が甚大である。一つは司令部門前における傷害事件で、加害者である大佐はすでに拘束されている。一つは司令部施設内で起きた傷害及び殺人事件だが、こちらは状況がややこしい。そして一つは大総統執務室での傷害事件。この加害者は敷地内の傷害及び器物損壊事件と同一人物で、発生したのはこちらが先だ。

本当はもう一つ事件があったのだが、大総統が非公開を決めた。司令部屋上での大総統補佐と将官室長の戦いは、本人たちと大総統だけが知るものとなった。

多数の負傷者が出たが、死者はたった一人……と思われる。というのも、事件が複雑に関連しており、また関係者のうち二人も行方不明なので、明確にはできないのだ。

報告を聞いたルイゼンは、しかしどうすることもできず、ただ呆然と窓の外を眺めていた。どんなに目を凝らしても、探す姿は見つからないので、忙しなく目を動かすのは一時間もしないうちに諦めた。

隣のベッドではフィネーロが横になっている。数か所の骨折は軽度だったが、痛み止めが切れるとやはりつらいのだそうで、おとなしく目を閉じていた。

この部屋には他にも四人の軍人がいて、いずれも深い切り傷や打撲を負っている。やったのは、仲間だと信じていた少年、シリュウ・イドマルだ。それだけでも十分信じがたいというのに。

「失礼しまーす。みなさん、具合はいかがですか」

病室の引き戸が開き、穏やかな声がした。途端に動けず退屈していた軍人たちは目を瞠り、フィネーロも瞼を動かした。ルイゼンは振り返って思わず立ち上がろうとして、腹の痛みに蹲る。

「いたたたた」

「ゼン、無理しちゃだめだよ。君の傷、結構深いって聞いたよ。おとなしくしなさい」

「無理とかじゃなくて、条件反射です。まさかニアお兄さんが来てくれるなんてびっくりですよ」

病室を訪れたのは、ニア・インフェリア。軍はすでに退役しているが、数々の功績をうちたてた伝説の人である。軍人たちが沸くのも当然のことだった。

ニアは部屋の一人一人に見舞い品の小さな焼き菓子を配り、フィネーロを気遣いながらリクライニングベッドをそっと起こして、それからルイゼンのベッドの傍らに腰を下ろした。

「みんな忙しくてね。ルーやグレイヴちゃんは仕事があるし、アーシェちゃんは三派会の準備。レヴィは言わなくてもわかるよね。ちょうど手が空いてたのが僕一人だったから、代表で来たんだ」

ずらずらと並べられる先輩たちの名前に、軍人たちは焼き菓子を食べながら感心する。レヴィアンスが大総統ではなかった頃、つまりニアたちが現役の頃は、軍の活躍がめざましかった時期でもある。現在の佐官以上の人間は、かつてニアたちについて仕事をしたことがある者も多い。当然元部下たちの心配をしているよ、と伝えるために、わざわざその名を告げたのだ。しかし。

「……本当に、代表ってだけですか」

ルイゼンとフィネーロには、ニアが来た本当の理由がわかっている。ルイゼンの一言でそれに気づいた軍人たちは、一礼してからベッド周りのカーテンを閉めた。

「そうだね、ちゃんと言わなきゃね。謝りに来たんだ、あの子の代わりに」

「お兄さんが謝る必要はないですよ。だって、イリスの独断でしょう」

「事件そのものが、あの子を中心にしていたようなものだ」

「俺が刺されたのは関係ないです」

これは本当のことだ。現在はまだ聴取の段階だが、ネイジュがルイゼンを刺した一件は、「魔眼」とは一切関係ないことがほぼわかっている。だが、ニアが謝りたいのはそのことではないらしい。

「フィンにはもちろん事件に巻き込んだことを詫びたいんだけど。ゼンには、これからのことを先に謝らせてほしいんだ」

「これから?」

「そう。なにしろ、僕や父さんがイリスを叱ったところで、説得力に欠けるからね」

苦笑して、溜息を一つ。それから、海色の瞳がルイゼンを真っ直ぐに見た。

「イリスは必ず帰ってくる。父さんも僕もそうだったから。だからそのときは、ゼンがあの子を叱ってやって」

ニアの後ろで、フィネーロまでもが頷く。ルイゼンは困って頭を掻いたが、返事は一つしかなかった。だって、イリスがこちらに生きて帰ってくると、信じていることが前提の話なのだ。

「わかりました。俺が兄貴分として、あいつのことをがっつり叱ってやります。だからお兄さんは、もう謝らないでください」

「でも、ごめんって言わずにはいられないんだ。父さんは昔、敵と戦いに単身で出て行ったし。僕も自分から敵方に行って、挙句の果てに司令部を破壊したし。こんなふがいない一家の一員のことを、よその人に任せるのは情けないから」

「いくらでも任せてくださいよ。俺はお兄さんの後輩で、イリスのライバルで、インフェリア家に憧れる一人です。頼ってもらえるのは、すげえ嬉しいことです」

ルイゼンが笑ってみせると、ニアもやっとホッとしたような笑みを見せた。フィネーロもよく見なければわからないが微笑んでいる。

けれども、心から笑えるのはもう少し先だ。リーゼッタ班が全員揃って、やっとこの事件は終わるのだと、ルイゼンは思っている。

イリスは昨夜から失踪中だ。深手を負ったはずの彼女は、簡単な手当しか受けていないのに、夜の闇に消えた。軍ではイリスの行方も捜索中だが、手掛かりはたった一つしかない。

『シリュウのところに行ってくる』――走り書きしたメモだけが、彼女のいた病室に残されていた。

 

一晩を聴取に使い、メイベルは目の下にくまをつくっていた。取り調べられる側というのはあまり気持ちの良いものではない。特に普段の素行から信用があまりないメイベルに対する聴取は、厳しいものだった。「本当のことを言っているんだよな」と何度も確認され、キレて椅子を持ち上げ、聴取担当の軍人を殴るところまで想像した。すんでのところで実行には至っていない。

わかったこと――ミルコレスのクローンが喋った内容は、全て話したつもりだ。ジンミがそれと知らずに彼に利用されていたことも。ジンミの聴取から整合性はとれるだろうと思ったが、混乱しているであろう彼女から正確な証言が取れるかどうかはあまり期待できないと思い直した。

メイベルの証言を支えたのは、ユロウが提出した焼死体とミルコレスの遺体それぞれの検分結果と、レヴィアンスが調べたミルコレスの動向だった。これにフィネーロの証言が加われば、いくら疑い深い者でも信じるだろう。

「お姉ちゃん、聴取お疲れ様」

寝不足からくる頭痛に顔を顰めていると、カリンが駆け寄ってきた。こちらも一晩中聴取を受けていたので、目の下が黒くなっている。

「お前もよく耐えたな。色々訊かれただろう」

「うん。ロスタ少佐のことと、イリスさんたちを発見するまでのこともね。イリスさん、酷い怪我だったのに、どうしていなくなっちゃったんだろう……」

イリスの失踪は、聴取の途中で入ってきた情報だった。これのおかげで目が覚めたのだ。一刻も早く聴取を終わらせて捜索隊に加わりたかったが、日ごろの行いが邪魔をした。かといってこれからおとなしく生きようなんて気にはならないのだが。

「私はイリスに会っていないから知らないが、そんなに酷かったのか」

「だって、シリュウ君の刀が胸にぶっすり刺さってたんだよ。左側だったかな、でも心臓は避けてたと思う。あのあと動けてるってことは、たぶん肺までは達してない……と思いたいけど、相当血を吐いてもいたからなあ……」

「シリュウか。まったく、今まで巧く騙してきたものだな。私まで柄にもなく信じてしまった」

疑い出せば結論まで早かったが、彼は適度に軍人らしく、適度に道から外れていた。ちょっと問題はあるが想定の範囲内、というところをずっと保ってきたのだろう。そもそも軍人が完璧な人間であるというのがおかしな話だという現実を、彼は利用していたのだ。

メイベル自身、軍の「理想」からは外れた軍人だ。だから簡単にシリュウを信用した。お人好しのイリスはともかくとして、もしかすると自分こそがシリュウを妄信していたのかもしれない。

「でも、お姉ちゃん、シリュウ君が怪しいってちゃんと気づいたよね」

「確認しただけだ。ジンミの証言と矛盾があった場合、どちらがより通りやすいか。カリンこそ、シリュウを怪しんでいたんじゃないのか」

「そこまでじゃないよ。ちょっと違和感があっただけ。お姉ちゃんのおかげで確信した」

本当は信じていたかった。シリュウはブロッケン家の人間と同じく、苦境を乗り越え打破するために軍人になったのだと。仲間たちはみんな裕福な家に生まれ育った、メイベルやカリンとは別の世界の人間だったから。けれども、シリュウもまた違ったのだ。彼は苦境を生き方にした。そもそも苦しいとすら思っていなかったかもしれない。

「イリスはシリュウのところに行くと言って消えたんだったな」

「そうみたい。シリュウ君がどこに行ったのか、知ってるならみんなに教えてくれれば良かったのに」

「どうだろうな。シリュウの居場所を知ったところで、軍にできるのはあいつを捕まえて牢屋に放り込むことくらいだ。だが、人生に裏の生き方を刷り込まれた人間が、そう簡単に心を入れ替えられるとは思えない。私がイリスの立場なら放っておくところだが……」

それを放っておかないのがイリス・インフェリアなのだと、メイベルだって厭になるくらい知っている。生き方がまるで逆の彼女が、シリュウに対してどうするのかは全くわからない。これ以上関わるのは余計なお世話で、ただ自分の命を縮めるだけの無謀なことだと思う。

それでもなんとかなるかもしれないという一縷の望みに縋るのは、イリスのことをすっかり信じてしまったからだ。メイベルの正義は――いや、正義などではない。正しさなど役には立たないし、それを振りかざすのは愚行だ。ただ、自分の人生に光を与えた少女のことを信じたい、それだけのことなのだ。

「ねえ、お姉ちゃん。これからどうする? イリスさん捜索に無理やり加わるか、体力温存のためにとりあえず眠っておくか、ルイゼンさんとフィネーロさんのお見舞いに行くか」

「そうだな、見舞いに行ってから寝るか。どうせ捜索ったって、手掛かりなんかないんだろう。捜してほしくない奴を捜すほど、今は気持ちに余裕がない」

「じゃあ、先にシャワー浴びてこようよ。髪もぐちゃぐちゃになっちゃったから整えたいし」

「お前はまだ余裕がありそうだな」

いくら信じたところで救われないことのほうが圧倒的に多いと、メイベルは知っている。イリスだって、きっと無事では帰ってこない。でも無事ではないだろうというだけで、彼女は必ずここに帰ると、それだけは信じている。

 

大総統執務室の片付けは、主にガードナーの働きによって滞りなく終了した。しかしさすがにソファの破れや机の傷まではどうにもできない。歴史ある机はともかく、客用のソファは買い替えるしかなさそうだ。はみ出したクッション材を軽く叩きながら、レヴィアンスは苦笑いした。

「派手にやってくれたなあ。こんな狭いところでも動けるんだから、イリスもシリュウも大したもんだ」

「閣下もここで戦われたでしょう。先々代もこの部屋で襲撃犯を迎え討ったことがあると聞きます」

「そういえばそうだ。でも、思っちゃうよね。もうちょっと動きやすかったら、二人ともあそこまでの怪我はしなかったんじゃないかって」

そして、怪我を負ったまま逃げるという無茶もしなかったのでは。……いや、もともと無茶をする性格だから、そこまでは考えすぎだ。

それにしても、大怪我をしてなお大技を使って逃亡したり、それを追いかけて失踪したりするとは、命知らずというしかない。

「イリスさんはイドマル准尉を追ったのですよね。彼がどこに向かったかさえわかれば、イリスさんも保護できるはずですが」

「そうだね。たぶん、シリュウはイリスにだけ行き先を教えてたんじゃないかな。単純に考えれば、イリスを自分のホームにおびき寄せるため。アウェイ、つまり軍では、シリュウは本領を発揮できないし、イリスに来てもらったほうが眼の確保もしやすい」

捜索隊が動けているのは、レヴィアンスが大体のあたりをつけているからだ。まずは東方。シリュウは東方司令部にいたのだから、東方にある裏の組織と繋がっていたことが考えられる。問題はそこまでの交通手段や、怪我の程度が大きいことによる体力切れが想定されること。可能性はあまり高くないだろうと思ったが、東方司令部に協力を仰ぎつつ捜索を進めている。東方司令部准将で義妹のクレリアはショックを受けていたが、責任をとるとして、東方捜索の指揮を引き受けてくれた。

中央にも可能性はある。犯罪者の巣窟といわれる場所がエルニーニャ国内には点在しており、首都レジーナにも例外なく「裏の常識がまかり通るところ」はある。多くは小犯罪で生計を立てるチンピラや、国の保障から漏れてしまっている貧困層の住むところだ。先々代大総統ハル・スティーナの治世のもとで随分減ったのだが、無くすことまではできなかった。その生活はただただ苦しいというだけではなく、彼らにとっては国の定めた法から自由になれるという側面も持っていたからだ。「裏」というものがある理由の一つでもある。

法律は国という組織の秩序を整えるが、同時に人々を縛りもする。思想や信条の異なる人々がともに暮らしていくために必要なものだが、時代によっては法の解釈が変わったり、適さなくなったりする。そもそもそこに当てはめることが難しい人々も、幾度の統合政策を経てきたエルニーニャには存在する。「裏」を無くすというのは、国家の一側面を消してしまうことであり、絶対に不可能なことなのだ。

法律を破っていいということではない。だからこそ取り締まる役割としての軍がこの国にはある。しかしそれに異を唱える者を全て捕まえていたら、それはすでに「人々のもの」としての国の崩壊だ。

国を治める者たちには、そのバランスをとるという役目がある。レヴィアンスは両親を見てそう学んでいた。だがそれを実行するのは、想像以上に難しい。

「人が行っていないところが、まだたくさんありますね。各地の駐在も動いていますが、カバーしきれていません。中央司令部の人材も今は足りておりませんし……」

「そんなに遠くには行けないと思うんだよね。レジーナ周辺を重点的に見てまわるようにすれば、見つかるはずなんだけど」

軍が守り法の下にある「表」の世間と、守るものも縛るものもない「裏」の世界。シリュウは軍に潜入することで「表」を見て、それでも「裏」の人間として生きることを選んだ。逆ではどうだろう。「表」を体現しているようなイリスが、「裏」を見てこちらへ戻ってこられるのか。

「では、周辺の捜索に人を割くようにしましょう。……一応確認しますが、閣下、見つけるのはイリスさんだけでもよろしいのですね」

「うん。シリュウは最悪仕方ないよ」

ガードナーの問いに、レヴィアンスは躊躇うことなく答える。長きにわたる情報漏洩も、剣技が奪われてしまったことも、今更どうにもならないことだ。今後対処していくしかない。それにシリュウの傷は浅くはない。放置すれば命を落とす。裏には発達した技術や豊富な知識があるが、それが「もう使えなくなってしまった」人間に適用されるかどうかはわからない。

だからといって、「表」の人間がシリュウを救えるとも思えない。こちらがどんなに手を伸ばしたところで、シリュウがそれを掴まなければ何もできない。だから、シリュウに関しては「仕方ない」。

ガードナーがレヴィアンスの指示を方々に伝えるあいだ、大総統としては別のことも考えなくてはならなかった。タスク、ネイジュ、ジンミの処分についてだ。しかしこちらはさほど悩んでいない。

タスクには引き続き将官室長を務めてもらう。ただ、やり方は変える。よりタスクが動きやすいようにし、そのうえでレヴィアンスも細心の注意をはらって彼の動向を見張る。とにかくタスクが自棄になって裏に行ってしまうことを避けたかった。もちろん、彼のこれまでの三年間を評価しての待遇でもある。これはガードナーの希望でもあった。

ネイジュは傷害事件の加害者だ。相応の罰を受けることになるが、それが終わった後は軍に戻すつもりだった。もちろん、彼が市井で生きるというのであれば止めない。けれども精神的な弱さが露呈してしまっては、裏では生きられないだろう。

ジンミはもともと中央での仕事が一段落すれば東方に帰すことになっていた。彼女も人を手にかけているが、相手は犯罪者で、クローンだ。軍人の犯罪者に対する処分は、長く使われている現行法では罪に問われないことになっている。クローンに関する規定も、軍規や国法にはない。本物のミルコレスがすでに死者であり、中央にいたのがクローンであったと判明した今、彼女を裁く要素はなかった。

レヴィアンスが目指すもののためには、大きな法整備や、場合によっては改正が必要だった。これから動いていかなければならない。長い時間をかけて――それが成せるかどうかは、わからないけれど。

「忙しくてみんなのお見舞いにも行けやしない」

「この件に決着をつけることが、何よりのお見舞いです。ともに頑張りましょう、閣下」

「……ん、そうだね。よっしゃ、やるかあ!」

 

 

息苦しい要因はいくつかある。ここが地下水路で、湿気が多く空気の通りが良くないのももちろんだ。それから胸の傷。左胸の刺し傷は、幸いにして肺には達していなかった。自分で動けることがわかった段階で、大丈夫だと勝手に判断した。しかし重傷には違いない。

あとは、時折感じる視線や、この場所に満ちた不穏な雰囲気、そしてこれからしなければならないことへの緊張だろう。ここはたしかに、「裏」の領域なのだ。

――もしあなたがどうしてもおれを裏から抜けさせたいというのなら、レジーナ南区画住宅街の地下水路へ来てください。水の流れに逆らうように歩いて行けば、いずれ裏組織が使用している施設に出ます。

シリュウに囁かれた言葉通りに、イリスはこの場所を訪れた。急がなければ間に合わないかもしれない、と思うと誰にも報告できなかった。怪我をしている自分は、きっと止められてしまうだろう。残してきた書置きに何の意味もないことはわかっているし、むしろすぐに居場所を突き止めてもらっては困る。せめてシリュウを見つけるまでは、行く手を阻まれるわけにはいかなかった。たとえ、軍であろうとも。

「あはは……、これじゃ、まるでわたし、悪人じゃん」

軍から逃げる者は悪。大仰なことでなくても何か疚しいことがあるのだろう。そう考えるように教わってきた。それがイリスの、軍の常識だった。だが、それはここでは通用しない。

地下水路は管理局の整備士などがよく入り、怪しいものが見つかれば軍に報告がいくことになっている。だがそのタイミングさえ知っていれば、地上から物資を確保しやすく、隠れて暮らすには悪くない場所だった。この先に裏組織の施設があっても、それを密告するような者はいないだろう。それをしたところで、得はない。あるのは住処を失うというリスクばかりだ。

この国には、まだ特定の住居や、戸籍すらもない人々が存在する。ごく少数ではあるが、それゆえに国の制度から零れ落ちてしまった人々だ。イリスの父らの代で随分減ったというが、完全にいなくなったわけではない。彼らは生きているにもかかわらず、存在しないことになっているのだった。

裏は、そんな人々の拠り所としての機能を持っていた。ただし生活のために必要なものは、正規の方法では手に入らない。だからこそ盗みや、違法な金のやり取りや、危険薬物の取引が発生する。イリスたちの暮らす世間とは違う形の「秩序」がある。

元は裏の人間ではなかった、という人々もいる。自らの能力を認められなかった人々が、それまでの世を捨てて裏にやってくるのだ。そういう人々が高度な技術と知識を持った組織をつくり、倫理と引き換えに自由を手にする。裏の研究者の多くがそうだったと、かつて裏で天才科学者と呼ばれた本人から聞いた。

彼らは自らの成果を試そうとする。自分たちをあぶれさせた、裏ではない世間の人々を使って。彼らにとっては最大悪である、この国の実質的な支配者――軍に復讐をしようとする。単純な考え方ではあるが、それが軍と裏との一番わかりやすい対立構造だ。実際はもっと複雑に物事が絡み合い、きれいに二面に分かれるということはない。

だが、選ばされてしまうのだ。軍か、裏か。明確な所属を持たない子供にとっては、選んだ先が人生になる。よほどのことがない限り、その運命は変わらない。

「シリュウ……どこにいるの」

粗い呼吸と掠れた声で呼んでも、返事はない。彼はずっと先へ行ってしまった。追いつかなければ、間に合わない。二度と話ができなくなる。そんな気がしていた。

関わったものから手を離せない、それはたぶん良くない癖なのだろうという自覚はある。仕方のないものとして切り捨てられ、忘れることができたほうが、前に進むにはいいのかもしれない。けれどもイリスにはそれができなくて、何度騙され裏切られても放っておけなくて、そういうものを大切だと思い込んでしまう。きっとこれは相手にも良くないのだと、わかっていても再び手を伸ばしてしまう。片方の手が傷つけられて失われれば、もう片方を差し出そうとしてしまう。

善人ではない。ただの愚か者だ。それでもいいと思ってしまう。

ぜえ、と息が漏れた。その瞬間に、それまでこちらを窺っているだけだったたくさんの視線が、一斉に向かってきた。明らかに敵意を持っている。あっというまにイリスを取り囲んだ彼らは、どうやって手に入れたのか、剣や棍を持っている。離れたところには銃も見える。暗い水路を歩くために力を解放している眼には、どれもはっきりと判別ができた。

「なんだあの眼。気持ちが悪い」

「あれが『魔眼』じゃないのか。組織が求めていた、例の……」

「じゃあ、あれを手に入れれば組織から優遇されるのか」

思った以上にこの眼は有名らしい。ここを切り抜けなければ、進めない。

「そこ、退いて。……わたしは、あんたたちに、かまってられないの」

「怪我してるみたいだぞ。今なら生け捕りにできるんじゃないか」

「組織は眼以外の検体も欲しがってたから、ちょうどいい」

傷は痛む。出血が多いせいで、頭はくらくらする。眼を酷使すれば、確実に倒れるだろう。でも。

「退いてって言ってんだ!」

剣を抜き、注目が集まったところで、眼の出力を上げる。ほんの一瞬目が合えば、相手は膝を崩す。ぐるりと見渡すだけで、ばたばたと人が倒れた。その隙に水路を一気に駆け抜ける。シリュウに会って話せるまで、体力が、精神が、もってくれるといいのだけれど。

しかし障害は続々と現れる。目的地が近い証拠かもしれないが、喜んではいられない。眼の効力が薄い者は、躊躇いつつも斬った。さほど傷は深くない、せいぜいが足止め程度だ。

駆ける足が重くなっていく。一歩が全身を震わせる。剣の柄を握る手の、感覚がなくなっていく。胸は赤く染まり、汗と一緒に血が流れた。

走ることを、跳ねることを、眼を使うことを、斬ることを、どんなに身が削られてもやめなかった。この先には、彼がいる。諦めたくない人がいる。

世界の誰が、本人さえも、「仕方がない」と手を伸ばさなくなっても。

「シリュウ……っ!」

イリスが伸ばしたこの手だけは、絶対に引かないと決めたのだ。

「……本当に来たんですね」

異能の弱者。吼えるくらいしかできない、世界一の愚か者。そんなことは誰よりも、自分自身が知っている。

 

シリュウという名前は、いつのまにか与えられていた。イドマルという家名は、書類を作るための仮のもので、本名ではない。

実の親の顔は知らない。他の多くの子供たちとともに育てられ、裏での暮らし方を学んだ。育った場所は施設というかたちをとってはいたが、国に認められていたわけではない。この国には私設の児童養護施設も多いから、どんな教育をしていても、よそに知られなければ怪しまれることはなかった。

人を信じないこと。考えを読ませないこと。ほしいものはどんな手段を使ってでも手に入れること。上の人間に逆らうと酷い目に遭うこと。それから必要であれば人を殺すことを、幼い頃から叩き込まれた。体は小さかったが、教わった暗殺術は他の誰よりも覚えが早かった。

「シリュウ、お前、軍に行く気はないか」

ある程度成長してから――誕生日も仮のもので、実年齢を知らなかった――大人からそんな話を持ち掛けられた。シリュウたちの生活で、けっして逆らってはならない部類の、要はこの世界での偉い大人の一人だった。普段は軍を潰すための話をしている人だったから、この提案には幼心に驚いた。

「軍は倒さなければならないのでは」

「そのために内部を知ることのできる人材が欲しい。入隊して、情報を流してくれると、こちらとしては大変助かる。お前の実力ならできそうだ」

子供のうちから軍に入隊していれば、怪しまれる可能性は低い。ただし、暗殺術を容易に使ったり、裏の人間としての振る舞いをすればわかってしまうから、軍の人間に相応しい行動と思考が自然にできるようにならなくてはならない。これまでとは違うことをしなければならないことに、シリュウは戸惑った。戸惑いはしたが、拒否はしなかった。

元来器用だったシリュウが、「裏出身ではない子供」の仮面を作り上げるのは、大人が想像していた以上に早かったらしい。それも裏との使い分けができるので、ひどく感心された。

「お前は優秀だな。これなら軍にも入れるだろう。入隊できたら、こちらからの指示に従ってくれればいい」

シリュウは期待通りに、エルニーニャ軍に入隊し、東方司令部に配属された。怪しまれない程度の実力しか出さなかったので、三等兵からのスタートだった。それでいい、と組織の大人たちは言った。まさか三等兵の子供が裏のスパイだなんて、誰も思わないだろうと。実際そうだった。

軍に入ってまずやったことは、利用しやすい人間を探すことだった。身寄りのない子供と聞けば、軍の人間はこぞって「何でも相談してね」「家族だと思っていいからね」と声をかけてくる。なんて軽い言葉だろう、という軽蔑も表には出さなかった。無表情を貫いても、「かわいそうな子供だから仕方ない」と相手が勝手に解釈する。楽ではあるが、屈辱だった。彼らは善意のつもりで、こちらを見下している。それがありありとわかるこの軍社会が、シリュウには不快だった。

ただ、万事がそうというわけでもなかった。軍の戦闘技術についての情報を求められ、様々な武器やその扱いを会得する中で、ミナト流剣術に出会った。国内では東方が最も優れているという刀を使った技だ。人を斬るための道具で故意の人斬りを禁ずるという妙な規則は気に入らなかったが、動作は美しく、威力は凄まじい。当時のミナト流師範であったトウゲン・ミナトは、老人ながらもその型を自在に使いこなす、生ける芸術だった。この剣術を目にし、シリュウは初めて自分から興味を持った。

実際に剣術を伝授してくれたのは、トウゲンの孫であるクレリア・リータスだった。まだ年若い女性軍人だったが、その腕は祖父に引けを取らない。そしてなにより、シリュウを特別扱いしなかった。

「ミナト流の使い手になりたいなら、精神から鍛えますからね。それまでの育ちがどうであろうと、関係ありません」

そう言ったクレリアに、一度だけ訊いてみたことがある。

「育ちが関係ないのなら、それがたとえ裏で育った人間だとしても、技を教えるんですか」

ともすれば組織を裏切りかねない、すれすれの問いだった。だが、その意図を問い返されることはなく、クレリアは答えだけを言った。

「人を殺すことを目的としないのであれば、誰にだって教えるわ。人斬りが禁止って言ったって、これは戦うための剣術だし、私たちは軍人ですもの。いつか必ず、人を斬らなければならないときはくる。戦わなくてはならないという点は、この国に生きる者ならば、軍であろうと裏であろうと同じです」

自分が生き残るための、そして大切なものを守るための、手段としての剣術。そのための道具としての刀。クレリアはそのことにこだわっていた。だから人を斬ることそのものを目的として刀を振るった者は容赦なく破門にしていたし、どんなに捻くれた者でも精神的な強さを求めるのであれば受け入れた。

シリュウはもちろん、自分が裏の人間であること、技に関する情報を裏に流していることは隠していた。それを後ろめたいとも思わなかった。けれどもクレリアの信条は相対的に好ましいと感じていた。技を盗むためだけではなく、自分自身がミナト流を極めるために、人を斬ることは極力避けた。

多少の問題は起こしてしまってもかわせるように、わざと「賭け事の悪癖」をつくったのも、裏の仕事を遂行するためと同時にミナト流を破門にされないためという目的があった。クレリアはシリュウの問題程度ならば、少々のお仕置きをするだけで許していた。それだけは、彼女が甘かったと思う。おかげでとうとう、ミナト流の奥義まで会得することができてしまった。

もう一人、入隊当初から利用していた人間がいる。一年早く入隊していたジンミ・チャンだ。彼女は宝石商の末娘で、家業は兄が継ぐとされていたために、軍に預けられた子供だった。家から余されたのだという自覚を持っており、軍も自分の本当の居場所だとは思っていない。その思考は軍よりも裏に近かった。だから簡単に操ることができたのだ。

人を取り込む話術も、シリュウは裏で学んでいた。相手の置かれている状況を引き出し、それに合わせた態度をとり、いかにも自分が相手にとって手放しがたい味方であるように錯覚させる。家から追い出された末娘であるジンミに、「姉さん」と呼びかけることは非常に効果的だった。

「おれには家族がいないので、そう呼ばせてもらいたいと思ったのですが。いけませんか」

「……構わないわよ。あなたが家族ごっこをしたいなら、お好きにどうぞ」

本当は、家族ごっこをしたいのはジンミのほうだった。跡継ぎではない子供として放任されてきた彼女は、物語のような「家族の絆」に憧れている節があった。さほど大切にはされず、末っ子だから頼られることもない。その彼女を姉と慕う存在となることで、シリュウは自らの軍における立場を確立させ、情報源を得た。

もちろん、操りやすいからというだけでジンミに近づいたわけではない。彼女は物の真贋を、特に宝石を見分ける才能を持っていた。宝石の扱いも裏では重要だ。指定品目に入っているものは、危険薬物とともに大きな資金源になっている。宝石に関わることが能力的に許されたジンミは、非常に都合のいい存在だったのだ。

「姉さんは、いつも宝石のピアスをつけていますね」

シリュウが入隊したときには、ジンミはすでに指定品目関連案件に関与できるように教育されていた。宝石に関係する事件には、末端で関わっていた。能力と出身のおかげだった。

「広告みたいなものよ。軍で専門職に関わっているという証でもあるし、家で良質な宝石を取り扱っているという宣伝でもあるの。軍も親も、私をいいように利用しているのよ」

「納得しているんですか」

「こっちがどう思おうと、大人には関係ないもの。反抗したところでメリットはないしね。私の居場所はないけれど、身元が保証されているだけましだわ」

「その身元を、逆に利用してやろうとは思わないんですか」

「そうねえ……。もう少し階級が上がれば、それもできるかもしれないわ。宝石関連の案件が増えれば、自然に私の仕事も増える。そうやって功績をつくっていけば、いつかは家も軍も利用する立場になれるかもしれないわね」

野心がないわけではない。それがわかれば十分だった。シリュウは裏から手をまわし、ジンミの仕事をほんの少しだけ増やした。そしてその傍らに、いつもついてまわった。

宝石に関連する事件ばかりが起きては怪しまれるので、別の仕事もちゃんと用意していた。ジンミは年齢の割に顔や体つきが大人びていたし、実際数人の上官から誘われたこともあった。最初はそれを嫌がっていたジンミに、シリュウは「でも姉さん」と囁いた。

「それって、姉さんのアドバンテージでしょう。大人を惹きつけられるということは、姉さんは姉さんの持つ魅力で、そういう人たちを利用する立場にまわれるってことじゃないですか。おれなら、武器は上手に使おうとします」

面白いほどに、ジンミは堕ちた。シリュウを信じ切っていた彼女は、その言葉を聞いてから、上官からの誘いを受けるようになった。彼女が他人に体を開いたのは十二歳のときだ。少女に手を出したことを隠蔽したい上官たちは、ジンミの頼みを――それはつまりシリュウの目論見だったのだが――よく聞いてくれた。そのうち美貌を利用した囮捜査に関わるようになり、彼女の階級は順調に上がった。常に彼女と行動を共にしていたシリュウも、特に自分で功績をつくらずとも地位を上げることができた。裏での仕事こそが本来の自分の仕事であると考えるシリュウにとって、「功績をつくらない」ことは重要だった。

ジンミが「指定品目の違法輸出入」案件を本格的に任されるようになった頃、ミルコレス・ロスタが現れた。南方司令部で指定品目を専門に扱う、その道のプロ。一方で変わった性癖を持つ変人でもあった。宝石への強い執着と、隠そうともしない性欲。当然のように、彼はジンミに近づき、あっという間に彼女を篭絡してしまった。

シリュウにとっては、ジンミに「優先すべき人間」が他にできてしまうことが不都合だった。ミルコレスと恋仲になることで、「仕事」を減らされても困る。だが、それらは杞憂だった。ミルコレスという男はこちらが思っていた以上の人物だったのだ。

「え、ジンちゃん? 確かに体はすごく良かったよ。若いのに使い込まれてたのがまた良いよね。おまけに宝石が似合う。宝石にしてあげたい子は今までにも何人かいたけど、宝石が似合っちゃう子はめったにいないから、貴重だよね」

こっそり近づいてジンミのことを尋ねると、ミルコレスはあっさりとそう言ってのけた。そしてそのまま、人間の死体から宝石を作ってみたいという願望を語ったのだった。彼の興味は、あくまで宝石にあった。肉欲はそのついでの娯楽らしい。

「あなたは、軍の人間らしくないんですね」

「そうかな。仕事をちゃんとしていれば、軍人なんじゃない? あくまで職業であって、人間性じゃないんだから。それをいうなら、君のほうこそ軍人じゃないでしょ」

表情を動かさないでいることには慣れていたが、さすがにこの発言にはぎくりとした。わずかに肩が震えたのを見逃さなかったミルコレスは、シリュウを壁際に追い詰めると「やっぱりね」と囁いた。

「こういう趣味だから、裏の人ともちょっとは親交があってね。裏から軍に入隊した優秀なスパイがいるって話を、一度だけ聞いたことがある。ああ、安心してよ、口を滑らせたやつはとっくに処分されてるはずだから。詳しく話を聴きたいなら、俺の部屋においで」

この男がどこまで知っているのか知る必要がある。そう判断して誘いに乗ると、ジンミと同じ目に遭った。こちらにその気はなかったので殺してやろうかと思ったが、そうしてしまうとシリュウの立場も危ない。そもそも見た目よりずっと力が強かったミルコレスに、抵抗することができなかった。散々体を弄ばれた後で、告げられた。

「イドマル君、裏に口利きしてくれないかな。俺ね、どうしても人間の死体がほしいんだよ。できれば新鮮なやつ。今の軍での立場じゃ、自力でやるのはちょっと難しいんだよね。死体がすぐには無理なら、偉い人とコネクションを作ってくれるだけでもいい」

「……あなたは、それで不利にならないんですか。裏との繋がりがばれれば、軍を辞めることになって、捕まってしまうかも」

「大丈夫。だって君も誰にも言えないでしょ。俺も誰にも言うつもりはない。それに軍の専門部署の人間との繋がりは、裏にとっても悪い話じゃないと思うよ」

今までそうだったし、とミルコレスは軽い口調で言い放った。この男は、軍も裏も、自分が好きなように利用できるものだと思っているらしい。シリュウも自分の欲望を満たすための道具に過ぎない。軍よりも、裏よりも、この男一人のほうがよほど悪人らしかった。

いや、この世には正義も悪も存在しない。あるのは、利用するかされるかという立場だけだ。

「……いいですよ、話はしてみます。少しだけ時間をください」

「さっすがー。やっぱり君に接触して正解だったよ。体もなかなか良かったし。本気で嫌がられるのも、なかなかそそるねえ」

ミルコレスはシリュウを利用できるつもりでいる。だが、そういうわけにはいかない。シリュウは常に利用する側でいなくてはならないのだ。この男も例外ではない。

ちょうど裏組織はクローン検体を欲しがっていた。ミルコレスの話をすると、「噂はかねがね」という言葉のあと、すぐに返事があった。「彼を使おう」――健康体で、仕事という名目で大陸中に移動しても怪しまれない彼は、組織の求める「理想」に限りなく近かった。

ミルコレスが東方での仕事を終えて南方に戻るその間際に、シリュウは彼を呼び出して言った。

「人間の死体から宝石を作りたいと仰っていましたね。それが自分自身から作り出せるとしたら、どうでしょうか」

思った通り、ミルコレスは大いに興味を持ち、クローン検体の話に乗った。クローンを本人にほぼ完璧に似せるための教育にまで協力してくれるという。

ジンミがミルコレスとシリュウの関係を勘違いして嫉妬する、ということ以外は、上手く事が運んでいた。そうして昨年の初め、ついに計画が動き出した。

「『魔眼』を手に入れるためのプロジェクトを、本格的に始動したい」

「サーリシェレッドのことですか。それならジンミ・チャンから融通しますが」

「そんな簡単な話のわけがない。我々が欲しいのは本物の『魔眼』だよ。中央司令部のイリス・インフェリアを知っているか」

その名前ならシリュウも知っていた。軍家インフェリアの血を引く「エルニーニャの獅子姫」。他を圧倒する身体能力と剣技で、尉官ながらも佐官以上の人間との手合わせで勝つことができる。「でも大総統閣下には勝てないらしいですよ」とクレリアが笑いながら話していた。

しかし彼女の強さの秘密は、異能の眼にこそあった。見るだけで相手の心身に異常をきたすことのできる、魔性の赤眼。その力は年々順調に育っており、組織の幹部曰く、これから数年のうちが「収穫のとき」なのだという。

「あの眼をこちらで利用したいものだ。人間兵器もそうだったが、軍ばかりが異能の者をかこっていてはいけない。だいたい、軍のやり方では有効に使えない」

裏ではいくつかの異なる組織が、魔眼を手に入れるべく動き始めていた。大総統暗殺の計画にも、その一端が含まれていたという話がある。シリュウがイリスの名を覚えてから一年、直接魔眼を狙おうとしていた別の組織が軍に検挙された。以来軍は魔眼を守ることを意識し始めたようだが、ずっと軍にいるシリュウならば、その守りを突破できる。

裏はシリュウが動くための準備を進めてくれ、ついに大総統を動かすことに成功した。クレリアからの信頼を得て、ジンミの片腕として働いてきたシリュウは、中央司令部への異動を言い渡された。

ほぼ同時に、ミルコレスの役割が終わっていた。自身のクローンに記憶と思考と性癖をほぼコピーさせ、実働にも成功させている。原本を残しておく必要はなくなり、シリュウも知らぬ間に彼は裏によって処分された。だが、シリュウが少しでも関わっていれば、もっと上手に死体を処理できただろう。

今目の前にいる満身創痍の少女――イリス・インフェリアを、ここまで苦しめることもなかったはずだ。事故のふりでもして、眼さえ奪ってしまえば良かったのだ。

 

シリュウの体には包帯が雑に巻かれていた。傷の縫合などはされていないのか、血が濃く滲んでいる。出血のためか顔色は悪く、倒れてしまっていてもおかしくはないのに、彼は立って待っていた。

「あんた、傷は大丈夫なの」

イリスが問うと、薄い笑みが返ってきた。

「あなたがつけた傷なのに、それを訊きますか」

「そうか、ごめん」

「なぜ謝るんです。だって、これが軍人の仕事なのでしょう。……おれのことを放っておけば、あなたは裏の人間の一人を葬ることができ、自分の持つ魔眼を守れた。なのに馬鹿正直に追いかけて来るなんて」

こんなときばかり、イリスの頭は理解が早い。シリュウは裏にとって、もう用済みになったのだ。ここにいるのは最後の仕事――イリスをおびき寄せる囮になるためにすぎない。丁寧に傷の手当てをする必要もないし、放っておいて死んでしまっても問題はない。むしろ死んでくれたほうが、裏はこれまでしてきたことを隠蔽できて都合がいい。

「酷い恰好ですね。血塗れで、泥だらけで。そこまでしておれを追う、その必要がどこに?」

どこにもない、と判断する者もいるだろう。それが正しいと言い切る人だっているかもしれない。レヴィアンスは、仲間たちは、きっと「仕方ない」と言う。

でも、必要性はここにあるのだ。イリスは確かに聞いた。自分だけが、ここに来るだけの理由を持っている。

「シリュウ。あんた、生き続けるって言ったよね。わたしの眼を、狙い続けるって。それが何よ、その恰好は。自由に生きられるんじゃなかったの」

彼の言葉を聞いた。頭に焼き付けた。意識が途切れそうになっても、ずっと繋ぎ留めていた。

胸の痛みを我慢したのも、息が切れても駆け続けたのも、全てはこのためだ。

「どうしても裏から抜けさせたいというのなら、ここに来いって、あんたは言った。わたしは、あんたを捨てようとしてる裏から、あんたを抜けさせたい。引っ張って、連れて帰りたい」

シリュウから笑みが消える。眉と口元を歪ませて、イリスを睨む。

「無理でしょうけど、一応言ってあげます。あなたが連れ帰ったところで、おれはそこでは生きられません。あなたたちが理想とするかたちの『真っ当』には、おれはなれません。そんなのは意味がないです」

「ここで死ぬより、生きてたほうが断然良い! これからどうなるかなんてわからないじゃん! 別に真っ当なんかじゃなくたっていい。わたしが、あんたに、生きててほしいの」

声を張り上げたイリスに、シリュウは僅かに怯んだ。でも、まだだ。まだ届かない。

「そんなの、あなたの勝手じゃないですか」

「そうだよ、わたしは勝手なの。勝手ばっかりして、いつもレヴィ兄に叱られてる。さらにお兄ちゃんにばれたりなんかしたら、それはもう恐ろしいお説教が待ってる。でもね、わたしは懲りないんだ。利用されようが、裏切られようが、懲りずに勝手に信じる。それでみんなに、迷惑かけることもあるけど……」

呼吸がしにくい。声を出すのがつらくなってくる。口の中は、血の味しかしない。

それでもせいいっぱい、手を伸ばして。

「あんたを諦めて後悔するのは、絶対に嫌なんだ」

咳き込んで、足がふらついた。吐いた血が地面にぼたぼたと落ちる。視界が霞んで、頭は霧がかかったようだ。

けれどもわかった。シリュウが刀を握り、こちらへ向かってくるのが。イリスを殺して眼を奪うなら、今が絶好のチャンスだった。

周りに裏の人間が控えているのも、ここに到着した時から察知していた。たとえシリュウを諦めて逃げようとしたところで、そんな体力は残っていない。

理想は、シリュウを連れ出して、もと来た道を走ること。けれどもそんなの、夢みたいな話だ。

――わたしの力、お兄ちゃんみたいだったらなあ。

どんなに傷ついていても、超人的な身体能力を発揮できる兄の特性。自我は失うが、シリュウを攫うことさえできれば、今はそんなものはいらなかった。強力な眼よりも役に立っただろう。

刃物が空を斬る音が、微かに聞こえた。

 

 

大総統執務室の扉が勢いよく開かれた。駆け込んできた軍人は盛大に転び、ガードナーに起こされる。

「ちょっと、大丈夫?! 何か見つかった?」

駆け寄ったレヴィアンスに、彼は顔を上げて「みなみ」と言った。

「南? 南方から何か連絡があった?」

「ち……違います。南区画です。インフェリア中尉の痕跡が見つかりました!」

レヴィアンスはガードナーと顔を見合わせる。絶対の信頼を置いている補佐は、一度だけ頷いた。それで十分だ。

「ありがとう!」

礼だけを言って駆ける。告げられた内容だけで、それがどこなのかレヴィアンスにはすぐにわかった。レジーナ南区画の住宅街、その地下は、過去に軍が捜査に入ったことがある場所だ。まだレヴィアンスの両親がイリスくらいの階級だった頃、つまりはかなり昔のことだが、裏組織の研究所として使われていたのだ。もちろん、当時は閉鎖し、しばらく軍の管理下にあった。だが、それも先代大総統が解除している。

そのあとは地下水路の管理局の管轄となり、定期的に報告が入ってくるのみとなっていた。その間隔も徐々に空き、現在では年に四回程度となっている。つまりそのときだけを乗り切りさえすれば、あそこには人が入って使うことができるのだ。

あたりをつけていた場所の一つだった。水路が広く長いことで、手掛かりを掴むまで時間がかかったのだろう。司令部で無線の受信ができないので、報せるのも遅れた。

「生きてろよ、イリス……シリュウも」

シリュウのことを諦めるというのは、最悪の場合の話だ。そうでなければ身柄を確保し、「表」のやり方で裁くつもりだった。罰を受けたシリュウがどうするかは自由だ。裏に戻って生き残れるのなら、レヴィアンスはそれを止めない。こちら側の人間として生きることを選ぶのなら歓迎する。一番都合がいいのは、軍に取り込んでしまうことだ。ミナト流剣術の使い手がいるのは頼もしい。けれどもそれはあくまで軍にとって都合がいいということで、シリュウにとって最善でないのなら選ぶべきではない。軍を自由を奪う檻にはしたくない。

子供の頃に選んだ道が、そのまま一生のものになってしまうことも、たしかにあるだろう。それしか選べなかった事情だって、当然誰にでもありうる。けれども選択の機会は一度ではない。生きていれば何度だって、道を選ばなくてはならない。そして道は増えるし、増やせるのだ。シリュウにも、それを知ってほしい。イリスが道を知って、拓いて増やし、選ぼうとしているように。

生きていればこそ進めるはずなのだ。

「閣下、こちらです!」

南区画住宅街には、数名の軍人が待っていた。地下にも人がいるという。

「どうしてここにイリスがいるって?」

「水路に血痕がありました。調べるまでに時間がかかってしまい、申し訳ございません」

「いや、よくやった」

確認しながら地下へ下りる。湿った水路は居心地が悪く、怪我をしていないレヴィアンスでも具合が悪くなりそうだった。最初に見つかったという血痕まで導かれ、その小ささに眉を顰める。

「よく気づいたね、これ。お手柄じゃんか」

「そもそもは閣下の指示です。これより奥に、すでに他の人員が入っています」

注意して見ていくと、ところどころに血痕らしきものがある。それを追うように奥へ進み、ある場所で足が止まった。軍人たちが人々を拘束している。近くには武器がかためて置いてあった。

「これはどうしたの」

「閣下! 彼らは裏の者です。ここに倒れていました。証言によると、インフェリア中尉に会ったそうです」

正しくは「妙な眼の女が怪我をしてここにやってきた」「裏組織が欲しがっていたやつだと思って襲いかかろうとしたが、眼を見た途端に具合が悪くなった」ということらしい。しかし、十分すぎる説明だ。

「まあ、間違いなくイリスだね」

「ここから奥まで、倒れている者はだんだん増えています」

「あっちには裏が研究所として使っていた場所があるんだ。イリスはたぶんそこにいる」

より最悪なパターンが頭をよぎる。それを打ち消すように走る途中、一際大きい血の跡があった。壁にも血のついた手で擦ったような跡がある。このあたりで、イリスは限界を迎えていたはずだ。それを超えて、さらに前へ進んだのだろう。

その先には倒れる人々と、剣や棍、銃などの武器と、見覚えのある姿が転がっていた。

名前を叫んでも、ぴくりとも動かなかった。

 

 

刀が斬ったのは、見知らぬ誰かだった。イリスに襲いかかろうとしていたその人物を、シリュウは乱暴に斬りつけていた。型が定まっていないから、ミナト流ではない。

「シリュウ・イドマル、裏切る気か!」

誰かが叫んだ。だが、シリュウは冷静に答える。

「最初から信じてもいないのに、裏切るも何もないでしょう」

「お前はインフェリアの娘をおびき出せば良かったんだ!」

怒号を響かせた者も、シリュウは斬った。ぼんやりする頭で、イリスは思い至る。あれはミナト流ではなく、裏の者がよく使う暗殺術だ。一息に相手を仕留める、そういうやり方だ。

「まさか、娘に情が湧いたか。それとも軍に染まったか」

「いや。おれは裏でしか生きられません。このまま死んでいくよりは、自分の力でもう少し動いてみようと思っただけです」

二人、三人と次々にシリュウに斬り捨てられる。イリスがその光景を呆然と見ていると、すぐ横に気配を感じた。ぎこちなくはあるが、反射的に体が動いて、剣で相手の動きを止める。

「まだ動けるのか」

「……そう、みたい。思ってたよりも、わたしは丈夫なのかも、ね!」

一度相手を弾き飛ばすだけの力が出せると、急に楽になった。呼吸も自然と整う。シリュウに負けるものかと、イリスも襲い来る者たちを斬った。

「なんだ、まだそんなに体力があるんですか。せっかくあなたを研究員に差し出して、傷薬くらいは貰おうと思ったのに」

呆れるシリュウに、イリスは笑う。傷だらけ、血塗れの顔で。

「いいね、生きる気力が湧いてきたなら、何でもいいよ」

「こんなときに笑えるなんて、バケモノですか、あなたは」

「どうかなあ」

背中合わせに立ち、それぞれに得物を構える。相手はまだまだ湧いてくるようだ。しかし、ちっとも恐怖や焦りを感じない。背後にいるのは敵同士のはずなのに、妙に安心した。

「一緒に生きてみれば、わたしがバケモノかどうかもわかるかもよ」

「興味はありますが、生憎あなたと同じ場所で生きられる気はしません。おれにはやっぱり、裏が合う」

同時に駆けて、一閃。同時に斬り伏せ、また一太刀。眼に頼れない分、技で勝負するしかない。それがなぜか、こんなときなのに、無性に気持ちが良い。本気に本気を重ねなければならない、手強い相手もいた。どれだけ打ち込んでも動かないような相手には、全身を使って挑む。疲れ切っているはずの足は、相手を蹴るとなると頑強さを取り戻した。シリュウもあらゆる攻撃で相手を翻弄し、倒している。けれども絶対にミナト流の技は使わない。

イリスがやっとのことで最後の一人を倒すと、途端に静かになった。二人分の粗い呼吸ばかりが、地下空間に響く。止まってしまうと、もう動けなかった。シリュウに眼を奪われないよう、抵抗する力も残っていない。

しかしそれはシリュウも同じだったようで、血と汗でどろどろになった体は、どっと地面に倒れ込んだ。

「シリュウ、大丈夫?」

「あなたのほうこそ、声を出すのがやっとのようですよ」

「うん、まあ、そんな感じ」

急に足から力が抜けて、イリスもへたりこむ。頭が重くて、そのまま横になった。

「……このままじゃ、死にますね。おれも、あなたも」

「それは……困るなあ」

「組織の人間が、ここに来れば、あなたの眼を抉っていくでしょう」

「やだな、それ……」

もう指の一本も動かせない。これでは負けてしまう。何か、奇跡でも起きないだろうか。イリスもシリュウも生き残れるような、素晴らしい奇跡が。

地面につけた耳に、足音が響く。誰かが来たのだ。でも、もう。

何かを考える力さえ、使い果たしてしまった。

 

 

軍設病院の病室は、少しだけ賑やかになっていた。仲間を見舞いに来たブロッケン姉妹と、ルイゼンが怪我をしたということを聞いて慌ててやってきたリチェスタが鉢合わせたのだ。

「ゼン君のお母さんから、いろいろ預かってきたの。お花でしょう、果物でしょう、タオルでしょう、それと……」

「わかったわかった、ありがとな。俺まだ食えないから、果物はみんなで分けてくれ」

あれこれと取り出すリチェスタを、ルイゼンはやんわりと止める。その光景に、カリンは目をぱちくりさせていた。

「お姉ちゃん、こちらの可愛い人はルイゼンさんの彼女?」

「未来の嫁だ」

「そ、そんな、お嫁さんだなんて。夢は見てますけど、ゼン君にまだその気がないので……」

「変なこと言うなよ、メイベル。幼馴染のリチェだ。実家が近所でな」

顔を真っ赤にしたリチェスタと、あまり動じていないルイゼンを見比べて、カリンはにっこり笑う。二人はお似合いですよ、という台詞は心の中だけに留めた。

少し落ち着いたリチェスタは、果物ナイフとリンゴを取り出し、器用に皮むきを始める。そして作業をしながら尋ねた。

「イリスちゃんは、忙しいの? なんだか大きな事件があったみたいだから、きっと大総統補佐は大変なんだろうけれど」

ルイゼンは言葉に詰まる。メイベルとカリンも、どう説明したものか、そもそも言っていいのかと顔を見合わせる。フィネーロが「まあ、忙しいよ」と答えたので、どうにかその場は切り抜けられた。

「でもイリスちゃんのことだから、きっとゼン君たちのお見舞いは来たいよね。とっても強いけど、本当は誰よりも心配性で、友達思いだもの」

だからこそここにはいないのだが、リチェスタには本当のことを言えない。言えば彼女も心配する。軍のことに、できる限り一般人は巻き込みたくない。ましてリチェスタは、イリスの大親友だ。

「そ、そういえばお姉ちゃん、ずっと訊きたかったんだけど」

いたたまれなくなったのか、カリンが話題を変えた。

「フィネーロさんを助けに行くとき、全然居場所を迷わなかったよね。候補はいくつかあるって言ってたのに。どうして?」

「……ああ、私は別に話してもいいんだが、フィネーロはどうだ」

「僕も構わない。昔のことだし」

今はそれしか話題がないんだし、とは思っても言わなかった。一応許可は得たとして、メイベルが話し始める。

「あの場所はな、フィネーロが入隊したばかりの頃に虐められていた場所だ。中央の陰険な奴らは、あの中庭にひょろい奴を連れ込んでいたぶるんだ」

「ええ、なにそれ。軍でもそんな酷いことをする人がいるの?」

リンゴの皮を繋いだまま、リチェスタが真っ先に憤慨した。集団にはありがちな側面だ、とルイゼンが宥める。

「私は当時、まだイリスとも出会っていなかった。寮に入る前だったからな。だから気軽に話せるような人間がフィネーロしかいなくて退屈していたんだ。なのに、その唯一のオモチャに手を出す奴らがいる。腹が立ったんで、連れ込まれる後を追って、陰険野郎ども全員の急所を蹴り潰した」

「わあ、メイベルちゃん、かっこいい……」

「さすがお姉ちゃん」

女性陣は絶賛しているが、ルイゼンはほんの少しだけ陰険野郎どもに同情してしまった。それを視線だけでフィネーロに謝ろうとしたら、同じ視線が返ってきた。被害者でも同情したらしい。

「フィネーロが知っていて、密会に使えそうな場所といったら、あの場所が真っ先に思い浮かんだまでだ。あのときはカフェオレで手を打ったが、今度は何で借りを返してもらうかな」

「僕の怪我が治るまで待ってくれ。それからなら、できる限りのことはするから」

楽しそうに目を細めるメイベルと、苦笑するフィネーロ。二人を見て、リチェスタは頷きながらにやけている。また何か誤解をしているな、とルイゼンは思ったが、否定はしない。

ここにイリスがいたら、もっと楽しかっただろう。わたしが知ってたら応戦したのに、なんて言って悔しがったかもしれない。そんな光景が見たかった。

「おい、リーゼッタとリッツェは起きているか」

少し寂しくも平和なひとときを途切れさせたのは、病室に入ってきたトーリスだった。メイベルとカリンの姿を見止めると、慌てた様子ながらも「ちょうど良かった」と息を吐いた。

「閣下から連絡があった。インフェリアが見つかったぞ。イドマルも確保した」

「イリスが?!」

「シリュウも一緒だったのか」

反応してしまってから、ルイゼンはハッとした。ここにいるのはリーゼッタ班の人間だけではないのだ。きれいに皮をむいたリンゴを切りかけていたリチェスタが、困惑を浮かべている。

「……見つかったって、どういうこと? イリスちゃん、今までどうしてたの? ねえ、ゼン君」

リチェスタに経緯を説明するのは難しい。これは軍の問題であり、イリスの問題だ。何も関係がないはずのリチェスタまで巻き込めば、それこそイリスが怒るだろう。

トーリスはやっとリチェスタの存在に気づいたようで、ばつが悪そうな顔をしていた。話にはまだ続きがあるが、どうする。そんな問いを無言でこちらに投げかけている。

迷った末に、ルイゼンは顔を上げ、口を開いた。

「イリスとシリュウは、どうしていますか。二人の状態を教えてください」

巻き込みたくはない、が、リチェスタもいずれは知ってしまう。それなら今ここではっきりさせておいたほうがいい。

フィネーロとメイベルが息を呑む。カリンは祈るように手を組んだ。

「これは、閣下から補佐大将へ連絡があったものだ。お前たちも知っての通り、インフェリアとイドマルはそれぞれ負傷している。そのうえで激しく動いたようで、二人とも失血が酷い。ここに運ばれてきたら、すぐに治療と輸血を行なうが、どうなるかはわからない」

語られたのは、現状と、これからの話。これからがあるということは、二人はまだ生きている。予断を許さない状況ではあるが、ちゃんと命を持って帰ってくる。持ち続けるはずだ。

「……トーリス准将、ありがとうございます。少し安心できました」

「そうか。そちらのお嬢さんは、リーゼッタとインフェリアの友人だったな。驚かせてしまって申し訳ない」

リチェスタは黙って俯いたまま、小さく首を横に振った。衝撃も混乱も大きいだろう。親友が知らぬ間に大怪我をしているのだから。ただでさえ、ルイゼンの怪我を心配してきてくれたのに。そっと髪に触れ、撫でると、震えているのが伝わってくる。

「リーゼッタたちと、お嬢さんも、続報を待っていてくれ。じきにインフェリアたちは、閣下とともにここに到着して、治療を受ける。あれが逞しいのは、私よりもお前たちのほうが知っているだろう」

「そうですね。イリスはそう簡単にやられるようなやつじゃない」

「シリュウもしぶとそうだ。二人とも何日かすれば、元気になるだろう」

頷きあうリーゼッタ班の面々に、トーリスは微笑み、リチェスタも胸を押さえて顔を上げる。きっと続報は、明るいものになるはずだ。

部屋を出て行こうとするトーリスを、メイベルが呼び止めた。これだけは確認しておかねばなるまい。

「イリスが負傷しているとしか聞いていないのか。例えば目に損傷があるとか、そういう話は」

ガードナーから伝えられた話であれば、イリスの眼には触れているはずだ。だが、トーリスは「いや」と返した。

「私は聞いていない。だが、あの眼は重要なのだったな。何かあれば言うはずだから、何もないということは手を出されてはいないのではないか」

「ならいい」

眼が奪われていないのなら、希望はさらに大きくなる。イリスは守り切ったのだ。自分の仕事をやりきって、おまけまでつけようとしている。それでこそイリス・インフェリアだ。あとは誰もを魅了する笑顔を見せてくれればいい。

 

怪我人が次々に搬送されてくる。昨日は軍の人間が、今日は裏の者たちが大量に。軍設病院の医師であるクリスがイライラと頭を抱えているところに、レヴィアンスが頭を下げた。

「本当にご迷惑おかけしてます」

「全くです。ボクが全てを診るわけではありませんから、労力については構いませんよ。けれどもベッドが無限に置いてあるわけではありませんからね、傷や症状の軽い人から、さっさと出て行ってもらいます。それからはあなたがたがどうにかしてください」

「もちろんです。……それで、あの」

おそるおそる顔を上げると、クリスはさらに眉間のしわを深くした。この人も年をとったが、眉間にもっとも年齢を感じる。

「イリスさんと、イドマルという少年のことが聞きたいのでしょう。失っている血が多すぎて、何ともいえませんね。カスケードさんに連絡は?」

「もうしています。そろそろ来るかと」

「着いたら、覚悟しておいてくださいとお伝えください。ボクは処置に戻ります」

行ってしまうクリスを見送り、レヴィアンスは深く息を吐く。イリスたちを発見してからここまで連れてくるのに、急ぎながらも気をつけていた。微かで浅い呼吸が止まっていないことを何度も確認し、手の冷たさにぞっとしたのでずっと握って離さなかった。昨日の戦いの後に見たよりも顔が青白くて、イリスでもこんなことになるのかと思った。

どのタイミングで何をすればこの事態を防げたのか、いくら考えたところで怪我が治るわけでもない。回復力を信じると言っても、あれほどの状態になったのは初めてだ。不安は止まなかった。

「レヴィ」

声をかけられて、我に返る。振り向くと、ニアとカスケードがいた。ニアは今日、すでに一度病院を訪れている。それをまた急に呼んだのだった。

「イリスは、処置の最中かな」

「うん。切り傷とか打撲とか……なにより昨夜の刺し傷が開いちゃって酷くて」

血と泥で汚れた部屋の中に倒れ込んでいたイリスを思い出して、くらっとした。別に血が苦手なわけでもないのに。

「なんだか、お前も顔色悪いぞ。少し休んだらどうだ。仕事のほうはレオがやってくれてるんだろう」

カスケードが心配そうに顔を覗き込むので、首を横に振って、口元を歪める。笑おうとしたのだが、できていないのはレヴィアンス自身わかっていた。

「レオだって、疲れてるのに。オレだけ休むわけにはいかないです。ていうかさ、イリスがちゃんと目を覚まさないと、安心して休めないよ」

「あの子が意識失うのなんて、そう珍しいことじゃないよ。前は眼を使うたびにそうなってたじゃない。きっとまたへらへら笑って起きるに決まってる」

こんな言い方をしていても、ニアは妹が心配でたまらないのだ。その証拠に、手の震えをごまかそうとして、シャツをきつく握りしめている。

「……そうだ、シィさんは? 置いてきちゃっていいの?」

「母さんも来るよ。おばあちゃんと一緒に、イリスの入院に必要なものを揃えてからね」

「俺は先に行くように言われたんだ。女の子の荷物だしな。それに、お前のことが心配だった」

大きな手がレヴィアンスの頭をくしゃりと撫でた。大総統の後輩として、息子の友達として、娘の兄役の一人として、カスケードはいつもレヴィアンスのことを気にかけてくれている。娘が大変なときでも、それを引き起こしたのがレヴィアンスのミスでも、けっして責めたりしない。

「……ごめんなさい」

「レヴィが謝ることじゃない。とりあえず、イリスの様子を見に行こうか。家族だったら、会えるよな」

レヴィアンスがイリスを医者に任せなければならなかったのは、上司で兄役ではあるが、本当の家族ではないからだ。処置が終わるまでは会えない。けれども家族ならば、処置中でも様子を見に行くことができる。行こう、とニアがカスケードの腕を引いた。

「早くイリスの顔を見て、レヴィに大丈夫だって教えてあげなきゃ。もしかしたら、もう目を覚ましてるかもしれないし」

そうであればいいのに、誰かがそれを知らせに来るような気配はなかった。

 

 

見渡す限り真っ白だった。何かがあるということもなく、本当に何もない空間だ。花畑や川なんかどこにもないじゃん、と思って、気付いた。妙なことだが、死の際だという自覚がある。

このまま死ぬのかな、とぼんやり考えてみる。両眼で真っ白な空間を見ているつもりだが、実際のところ、眼は守りきれたのだろうか。いや、それよりシリュウだ。彼は生きているのだろうか。気になることがありすぎて、死んでしまうのが惜しい。

どうしたらここから抜け出せるのだろう。現実に戻って、確かめたいことがいろいろある。こんな夢を見るということは、まだぎりぎり生きているのだ。ほんのわずかでも目を開けさえすれば、最期に一言くらいは残せないだろうか。気になることを聞いて安心すれば、何の心残りもなく……。

「何言ってるの、十八歳ぽっちで。そんなことですっきり死ねるわけないよ」

ふいにすぐ隣から声がした。自分の姿が、手すらも見えないので、隣だと感じただけだ。けれども声のほうを見ると、そこにはこの空間で唯一の色が――人がいた。

長い髪は濃い緑色。瞳も緑。着衣は黒いローブだ。その顔は、いつか見たことがあったが、それは直接ではなかった気がする。誰、と問う前に、彼はまくしたてた。

「あのね、未練なく死ねる人間なんてそうそういないよ。僕なんか、未練ありまくりだったからクローンになって大暴れしたんだし」

「クローン、なんですか」

返事をして、自分も声が出ることがわかった。彼と会話ができる。

「まあ、今君が見ている姿はクローン体だね。でも、本物と同じだよ。僕は僕だ。で、話は戻すけど、人生に完全に満足できる人間なんていない。何の心残りもなく逝けるなんて、簡単に思っちゃだめだ。それは甘いよ、甘すぎる。君がいなくても世界は続いて、君を憶えている人がいる限り君の存在は遺り続けるんだから。だから死んでもなかなか死ねない。気になって、こうやって話しかけに来てしまう」

自分の知っている誰よりお喋りだが、口調はなんだか兄に似ていた。呆けていると、彼はふわりと笑みを浮かべた。それで、思い出す。この人は――。

「若くして死ぬことの全てが不幸だとは、僕は思わないけれど。でも、君はまだまだ生きたほうがいいと思うな。僕が力を貸してあげてもいい。君のためっていうよりは、君を大切に思っている、僕の大切な人のためにね」

「あの、あなたは、」

その人の名前を口にする前に、どっと押し寄せてくるものがあった。それは激しい水の流れのようにこの体を包み、その一瞬一瞬に「景色」を見せてくる。抱きしめてくれる母の柔らかな表情、肩にのせてくれる父の楽しそうな顔、手を繋いでくれる兄の優しい瞳と口元。生まれてから今まで、出会ってきた人たちとの場面が波となり渦となり、この見えない体をどこかへ押し流していく。

仲間たちが手を差し伸べているのが見えた。仕方ないな、という顔をして。――みんなが、待ってる。

 

 

個室に人がなだれ込んできた。ルイゼンとフィネーロは車椅子に乗っていて、それをメイベルとカリンが押している。その後ろにはリチェスタの姿まであった。一瞬呆けたが、すぐに我に返って、イリスはベッドから起き上がろうとした。だが、痛くて動けない。

「ゼン、フィン、怪我したとは聞いてたけど、自分で動けないほどなの? 大丈夫?」

言葉だけでもと案じると、仲間たちの焦り顔は一気に呆れ顔になった。

「お前がそれを言うか! なんだよ、その頭と顔の包帯は。まさか眼を」

少し抑えてはいるが、ルイゼンが怒鳴るように尋ねた。呆れていたかと思ったら、もう表情は真剣だ。イリスの顔の右半分には包帯が巻かれていて、目も隠れている。だから驚かせてしまったのだろう。

「違う違う。これはあんまり顔に細かい傷が多いから、大袈裟に包帯巻かれちゃっただけ。眼はちゃんと守り切って無事だよ。検査はこれからだけど、視力にも問題ないと思う」

笑ってみせると、安堵の息が揃った。カリンとリチェスタは涙目だ。二人の頭を撫でて、大丈夫だよ、と言ってあげたい。けれども今は、腕を上げるのも難しい。

イリスが目を覚ましたのは、ちょうど傷の処置が全て終わったときだった。最初に見たのは心配そうに顔を覗き込む両親と兄で、まだ感覚がおぼろげな手を、三人で握ってくれていたようだ。何を言っていいのか迷ったが、怒られるのを覚悟で口にした言葉は、母を泣かせ、父を困ったような笑顔にし、兄に溜息を吐かせた。

それを、仲間たちにも言う。

「ただいま」

反応はそれぞれだったが、異口同音に返事をしてくれた。

「おかえり」

涙をぼろぼろとこぼしながら、カリンとリチェスタが駆け寄ってくる。ルイゼンとフィネーロは自力で車椅子を動かすのが難しいのか、ドアの前から動かない。メイベルは無事のようだが二人に合わせている。やっとリーゼッタ班のメンバーが揃いつつあった。

あと一人だけ、足りない。

「ねえ、シリュウは? 別の部屋で手当てを受けてるんだよね?」

途端に、カリンとメイベルの表情がこわばる。ルイゼンとフィネーロはもごもごと口を動かし、返事を探していた。シリュウの容態は良くないのだろうか、不安がこみあげてくる。

「シリュウなら、先に目を覚まして、拘置所の医療施設に移送されたよ」

遅れて部屋に入ってきた声に、イリスは左目を見開いた。

「レヴィ兄。……それ、本当?」

「見送ってきたから確かだよ。あいつのほうが、イリスよりは怪我が軽かった。お前より戦うの上手いんじゃないの」

車椅子組をそれぞれベッドの近くに押して、レヴィアンスは自分もスツールを引っ張り出してくる。それと入れ替わりに、両親はそっと部屋を出て行った。兄はリチェスタに何か耳打ちして、一緒にその場から離れる。これで部屋には、現役の軍の人間だけが残った。

「……さて、イリス。またまた勝手なことをしてくれちゃったわけだけど」

腕組みをするレヴィアンスが、真面目な顔で言う。完全にではないが、ほぼ大総統モードだ。しかしイリスは怯まず、焦らず、小さく頷いた。

「今度こそ軍を辞めさせられるつもりで、シリュウのところに行った。どうしても放っておけなくて」

裏で生きてまた眼を狙う、とシリュウは言った。けれどもイリスには、それができるとは思えなかった。だからこそ彼の後を追い、そして案の定捨てられかけていたのを見た。裏はシリュウの言う通り、国の決まりからは自由であるかもしれないが、失敗の代償も全て自分に降りかかってくる。それが組織に影響するとなれば、存在は抹消されてしまう。そんなケースは何度も見てきた。

「シリュウを助ける、なんて偉そうなことは言えない。でも、なんとかしたいと思ったんだ。裏があの子の生きるところなら、それは仕方のないことかもしれない。でも、わたしは、できることなら……」

一緒に生きたい。そう強く願ったから、シリュウに手を伸ばし続けた。結局、それはまだとられてはいない。だが、どうやら逃げられてもいないようだった。あの傷では、さすがに逃げられないだろうが。

レヴィアンスは、ゆっくり語るイリスと、ずっと目を合わせていた。彼は、どんなにイリスの眼を見ていてもその影響が出ることはない。この世界で異質なイリスを受け入れてくれる一人だ。そして班の仲間たちは、イリスが眼の力を抑えているから普段は平気だが、彼らは多少は影響を受けてしまう。それでもイリスの存在を認めて、一緒にいてくれる。

イリスは、シリュウにとっての彼らのようになりたかった。それは我儘で傲慢な考えかもしれないけれど、せめてひとときの拠り所に、できることなら帰る場所になりたかった。

「……勝手なことしたよ。みんなにも迷惑かけたし、シリュウにだってきっと余計なお世話だった。わたしのせいでシリュウは怪我をして、わたしのせいで軍のみんなは普段通りの仕事ができなかった。ごめんなさい。もう、わたし、軍には」

「イリスには軍にいてもらう。いてもらわなきゃ困るんだ」

言いかけた言葉を、先回りされて遮られる。俯きかけたイリスが見上げたレヴィアンスの表情は、怒っても呆れてもいなかった。大総統のそれでもなく、そこにいるのは昔からの兄役、レヴィアンス・ハイルだった。

「あのさ、今回の件に関しては、オレが何言っても説得力ないんだよね。オレも昔、単身で敵方に乗り込んだことがある。操られたふりをして、ルーファとガチで戦ったりもした」

「え、マジですか」

つい反応したルイゼンに、レヴィアンスは「マジだよ」と笑った。

「勝手な行動はもちろんダメだよ。せめてちゃんと報告が欲しかった。そしたらさ、みんなここまで心配せずに済んだんだ。でもシリュウがどうなったかはわからない。オレが今動ける人員にシリュウの捜索を任せたとして、正直なところ、生かして連れ帰ることができるって保証はなかった」

そのまま逃がしてしまっていたかもしれないし、連れてくることはできても生きているとは限らない。レヴィアンスだって、それを「仕方ない」と思っていた。そうなってしまっても、それがシリュウ・イドマルの選んでしまった運命で、軍にできることには限界があったのだと。

だが、イリスはその限界を超えた。傷だらけで壁をよじ登り、その向こうにいるシリュウに手を伸ばし続けた。この手をとれ、と叫び続けた。たとえシリュウが手をとらなくても、そこに留めることはできたのだ。

「シリュウの確保に尽力し、生きて帰ってきた。ついでに裏の、主に武器の無登録所持者たちの確保も手伝ってくれた。だから今回の件はプラマイゼロってことでどうかな」

「……プラスにはならないんだね」

「当たり前じゃん、あれだけ迷惑かけといて」

イリスが苦笑し、レヴィアンスがいつものようににいっと笑う。日常が戻りかけている――と誰もが思いかけたが。

「いや、マイナスだ。自分の怪我の程度も考えずに勝手に出ていって、お兄さんに心配かけて、俺たちだってどれだけ気をもんだか」

全員がルイゼンの発した台詞に目を丸くした。いや、フィネーロだけは「そういえば」と息を吐いた。ルイゼンには、託されたことがある。――ゼンがあの子を叱ってやって。

「ふらっと出ていって、ぼろぼろになって帰ってきて。お兄さんや閣下は自分も昔やったからって、甘いこと言うかもしれないけど、俺はお前を甘やかしたりしないからな。何も言わないでいなくなるなんて、軍人の仕事じゃない。冬の事件で随分反省したと思ってたのに、お前本当に懲りてないのな」

「ゼン……。うん、そうだね。それが、普通の反応だよ」

叱られているのに、イリスは安心していた。これも受け入れてくれているからこそのことだ。イリスを軍人として、部下として、正当に扱っている。

「だから、ゼロに戻すためにも、ちゃんと休んで怪我を治せ。そんで、今度こそ軍人として働け。報告、連絡、相談を徹底しろ。俺たちが動けなくても、軍にはたくさん信頼できる人がいる。イリス、もっと人に頼れよ。味方をつくれ。そうやってお前がもっと楽に動けるようになって、はじめてプラスだ。もちろん俺たちだって協力する。だいたい、お前の眼を狙うやつがいなくなったわけじゃないし」

腹の傷が痛むはずなのに、ルイゼンはイリスに渾身の思いで言い聞かせる。その気持ちを、教えを、イリスは胸に刻み付けた。でも、やはりルイゼンだって甘いと思う。だって、プラスにしようとしてくれているのだから。思わずこみあげる笑いをこらえていると、レヴィアンスがしみじみと言った。

「ルイゼン、やっぱりお前、リーダー向いてるよ。叱る役を引き受けちゃうとことか、オレたちのリーダーにそっくりだもん」

「……そうですか。そんなつもりはなかったんですけど」

ルイゼンが照れて口をとがらせると、イリスはとうとう我慢できなくなった。吹き出しながら、胸の痛みに悶絶する。

「いたた。ゼン、ルー兄ちゃんみたい。あたた……。ちょっと、お兄ちゃんにも似てる」

「痛いなら笑ってないでおとなしくしてろ」

「この分なら、イリスもルイゼンもすぐ回復するな」

「フィンもちゃんと治すんだよ」

一人が拘束され、怪我人が三人。無傷の二人もしばらくは聴取や事件のまとめを他の班に入ってやらなければならない。リーゼッタ班は、一時休業だ。

 

シリュウからの聴取は、彼の回復を待ちながらということになった。中央で起きた事件なので、そこまでは中央司令部の仕事だ。そのことを、レヴィアンスは東方司令部のクレリアと確認し合った。

「聴取が終わったら、シリュウはこちらに帰してくださいね」

クレリアが電話の向こうで、真剣な表情をしているのがわかる。できればこちらに戻せだとか、そんな曖昧なことではなく、彼女は本気でシリュウを取り戻す気でいるのだ。

「中央で傷害事件を起こしてるし、裏に流した情報は膨大だよ。なにしろ六年間だからね。本来なら、中央で裁かれるべきだ。罪を償ったあと、裏に戻っていくかもしれないし」

「中央で決めた処分をこちらで行ないます。そうすれば、裏に戻るかどうかの判断も、東方に戻ってからになるでしょう」

「それはシリュウが決めることだからなあ。……ていうかクレリアは、シリュウが裏に戻ってもいいと思ってるの?」

軍としては、一度罪を犯して捕まった裏の人間は、また裏に戻ることのないようにするべきだ。レヴィアンス個人としては、刑罰を受けたならあとは自分の道は自分で決めてほしいと思っているので、その選択が「裏で再び生きる」ということでもかまわない。一部の者には冷たいと思われるかもしれないが、他人が誰かの人生を決めてしまうというのはおこがましいという考えに基づいている。

では、クレリアは。彼女は、シリュウを自分の手もとに置きたいと思っているのだろうか。

「義兄さん。あたしは自分の弟子が、軍人であろうとそうでなかろうと、そこには拘らないのよ」

きっぱりとした声が、耳に届く。へえ、とレヴィアンスは相槌を打った。

「ミナト流が裏にとられてもいいの」

「もちろん悪用されては困りますけれど。もともと不殺の流派ですからね。けれどもあたしは、この技があり、実戦に使われるかぎり、相手を斬らないということはないと思っています。あたしたちの周囲も、裏も、同じ世界のうちだわ。技を磨きたい人がいれば、あたしは教えます。おじいちゃんの理想とは違うかもしれないけれど、あたしは現ミナト流師範として、シリュウを破門にはしないつもり」

彼女の祖父トウゲンならば、シリュウが事件を起こした時点で破門にするだろう。けれどもクレリアは別の道を行くという。いや、新しい道をつくるのか。彼女もまた「切り拓く者」なのだ。

「破門にはしませんけど、徹底的に叩き直すつもりではあります。ミナト流の根本にある精神は、変える気はありませんから」

「そっちのほうが怖いと思うの、オレだけ? まあいいや、クレリアがそう言うなら、東方に帰す手配も進めるよ。懲役刑ならそっちでも可能だし」

レヴィアンスが告げると、クレリアは満足そうだった。嬉しそうに笑う声が聞こえ、それから。

「で、イリスちゃんの具合はいかが?」

「心配してくれてたの。順調に回復してるよ。もう話もできるから、病院でちょっとずつ聴取を進めてる。あ、そうそう、これはクレリアに伝えなきゃと思ってたことがあるんだ」

イリスには、怪我をするに至った経緯と、単独行動中のことを聞いていた。その中で、彼女が強調していたことがある。裏での戦いのとき、シリュウが特殊な技を使っていたということだ。

「イリスによると、シリュウはミナト流を、裏では絶対に使わなかったって。たぶん裏でよく使われてる暗殺術で戦ってたんじゃないかなって思ってる。イリスを裏の研究者たちに引き渡す手柄を独り占めするためって名目で、あいつは自分が属してるはずの裏の人間と戦った。クレリアから引き出したはずの技を明かさずにね」

「……そう。それならなおさら、あたしが鍛え直してあげなくちゃ。だってあの子は、あたしの大切な弟子ですもの」

自慢の弟子は、クレリアの大切にしているミナト流を守った。イリスも、師も、そう解釈している。シリュウが実際はどう考えているのか、それはこれから聞くことだが、おそらく本当のことはあまり話してくれないだろうとレヴィアンスは思っている。

ただ確かなのは、裏で生きてきた少年には、裏の人間ではない味方がいて、彼を信じてくれているということだ。どんなに傷ついても、裏切られても、まだ手を伸ばし続けるお人好しが一人ではない。

それを迷惑と思うか、ちょっとは甘んじてみようと思うか、それはシリュウ次第だ。

「了解。それじゃ、こっちでの手続きが済んだら、シリュウを移送するということで」

「あ、中央がわざわざ動いてくださる必要はありませんからね。あたしが迎えに行きます。ジンミも」

「マジ? 大丈夫なんだろうな、また逃げられたり」

「しませんよ。させませんから。義兄さん、あたしを誰だと思って?」

ミナト流師範にして東方司令部准将、有能記者を姉に持つ、大総統の義妹。彼女の声は自信に満ちていた。まったく、レヴィアンスの周囲の女性は揃いも揃って強者ばかりだ。

 

強者の一人は、病室で退屈を持て余している。ルイゼンとフィネーロは同じ部屋にいるが、イリスは個室だ。しかも常に監視がついている。怪我が良くなるまでは自由になれない。

「あー……暇……」

ベッドを操作して体を起こすことができるようになり、手が動くようになったので本が読めるようになった。けれども顔の半分はいまだに包帯が巻かれていて、片目だけでは読書もすぐに疲れてしまう。ニアが持ってきてくれた、彼が装画を担当した新刊小説は、せっかく面白いのにまだ四分の一も読めていなかった。表紙の色は、イリスの眼と同じ赤を基調としている。

狙われている赤。裏が求めている赤。悪魔の色と呼ばれた赤。だが兄の絵は、そんな赤に幸福を滲ませている。純粋に美しいと思える赤を、イリスはそっと撫でた。

この眼も、ただの赤なら。何の能力もなく、裏の標的にならなければ、不幸なことは何も起きなかった。イリス自身も、苦しむことはなかっただろう。

――でもさ、なくなっちゃえばいいのに、とは思わないんだよね。

包帯の上から、右目を押さえる。この眼のおかげで救えたものもあるのだ。この眼を活用して人を救おうと、イリスはいつだってそうしてきた。この眼には、とても大きなことができる。

貴族の違法オークションを潰した。大型キメラを足止めした。暴漢を気絶させた。殺人事件の生き残りを見つけた。女王を狙う者を倒した。軍人としてやってこられたのは、たしかにこの眼のおかげだった。

この眼と身体能力がなければ、イリスは騙されやすい弱者だ。シリュウが指摘したことに、間違いはない。でも一つだけ言い返せることがある。この力は、自分が逃げるためのものではない。もとより逃げるつもりなどイリスにはない。

――それを、伝えたいなあ。また会えないかな、シリュウに。

こうしているあいだにも、シリュウの聴取が少しずつ進められている。彼は何を話すだろう。もしかしたら、何も話さないかもしれない。また嘘を吐くかもしれない。けれども、聴取にあたる者はきっと、イリスほどは絆されたり騙されたりしないだろう。

聴取が終われば、裁かれる。刑罰が決まって、そうしたらもう会えないかもしれない。刑務所に入ってしまえば、原則として会えるのは家族とそれに準ずる者、そして佐官以上の軍人だ。尉官であるイリスは、会うことを許されていない。

――チャンスが欲しいな。でも、この状態じゃなあ……。

うう、と呻いていると、急に病室のドアが開いた。無遠慮なその行動は、寮で同室の彼女のものだ。

「イリス、お前宛てに見舞いの品が届きすぎて事務室が軽くパニックだ」

「お、ベルお疲れー。ごめんね、いろいろ任せちゃって」

メイベルは箱や紙袋などを大量に抱えている。紙袋の一つは、中身がカードでいっぱいだった。何枚か見て見ると、女の子らしい字で「早く良くなってください」「待ってます」「イリス中尉がいないと寂しいです」などと書かれている。

「さすがわたし。無茶したのにモテモテだね」

「まったくだ。お前の人気ぶりに室長も呆れている」

「あれ、今室長って誰がやってるの? ディセンヴルスタ大佐は捕まっちゃったし、ゼンは入院してるから、他の大佐とか?」

「いや、業務の引継ぎがまともにできていないから、一時的にトーリス准将が仕切っている。将官室から追い出されたというのに、暑苦しいまでの働きぶりは健在だ」

暑苦しいと評してはいるが、メイベルは機嫌が良さそうだ。上司としては、おそらくルイゼンやフィネーロとそう変わらないくらいには、トーリスを信頼しているのではないか。少なくともネイジュよりは馬が合うだろう。

トーリスが仕切る事務室で、各班は真面目に仕事をしているという。カリンの働きぶりなどは評判がとても良く、他班で仕事をしていても可愛がられているらしい。姉とは大違いだ、なんて言われて。

「実はそうでもないのにね。カリンちゃん、やっぱりベルに似てるよ。ディセンヴルスタ大佐に立ち向かったとき、かっこよかったもん」

「似てるか? あいつのほうがよほど人に取り入るのが上手い。意外と強かなのは認めるが」

「それだよ、その強かさ。姉妹だよね」

メイベルはまだ納得がいかないという顔をしている。イリスはそれが面白くて笑う。ここが病院じゃなくて、怪我さえ治っていれば、日常の光景だ。

事務室の様子以外にも、司令部全体の動きや、町での軍の評判なども確認しておく。どうやら司令部での騒ぎはニュースにはなっていないようで、しかしながら人々のあいだでは噂程度に「また襲撃があったらしい」と囁かれている。報道がなかったのは、女王や大文卿が規制をかけ、大総統付記者であるエトナリアが巧くごまかしたからだろう。

司令部では欠けた人員の分を埋めるように仕事が分配され、誰もが忙しい。メイベルが抜けてこられたのは、今が昼休みだからだ。もともと小食の彼女は、一食くらいなら抜いても生活に支障はない。たとえ業務時間内だとしても、イリスの様子を見に行くと言えば、短時間であれば許可は出るはずだ。

「だいたいこんな感じだな。ああ、それとミルコレス・ロスタのことで追加情報があるが聞きたいか」

「それ大事なことじゃん、聞くよ。裏との繋がり、何かわかったの?」

「奴は自分の立場を利用して、大陸中の裏の人間と少なからず関わりを持っていたらしい。だが大きな組織や幹部級の人間との繋がりは、おそらくクローン製造を専門としていたところだけだったんだろう、だとさ。そしてその組織は、私たちがサーリシェレッドだの焼死体だのと騒いでいる間に解散していた可能性が高い。カリンを使おうとしてたのはまた別の組織で、ミルコレスとは関係がなく、それももう追跡が困難なんだと」

ミルコレス・ロスタについての調査は、佐官以上のチームが引き継いだ。裏の深いところまで調べられる者たちのはずだが、それでも真相はほとんどわかっていないのだった。これ以上は、シリュウが喋らなければ、詳細を知ることができないとみられている。

「……で、こんな事態になったものだから、ミルコレスの親族は遺体の引き取りを拒否。確認すら嫌がってしていない。軍で葬ってやってくれと、奴との縁を切った。死んだ人間と改めて縁を切るというのも、おかしな話だが」

「そっかあ……。死んじゃったからってやったことが帳消しになるわけじゃないのはわかるけど、そうやって切られちゃうのも、なんだかやるせないね」

「他人の家のことだ、気にするな」

他人の家。イリスが関わることのできない部分。それを意識するたびに、自分は何も知らないのだと、知らないままぬくぬくと育ち、それが許されてきてしまったのだと思い知る。ミルコレスの親族の決断は、メイベルのほうが理解できているだろう。深く溜息を吐いたところで、病室のドアがコツコツと音をたてた。

「ん、誰だろう。どうぞー」

声をかけると、引き戸がすうっと開いた。そこに立っていたのは、片手に花を抱えたジンミだった。失礼します、と会釈をした彼女は、以前と変わらず色気のある美人だ。

「何の用だ」

メイベルが声色に険を含ませる。しかしジンミは至って落ち着いた様子で、こちらへ歩いてきた。

「お見舞いです。先の件では私の部下がお世話になりましたので」

「ああ、とんだ世話だったな」

「待って、ベル。ジンミ、そこの椅子に座りなよ。花は後で活けてもらうから」

にこ、とイリスが笑いかけると、ジンミは今度は深く頭を下げ、それからスツールに腰かけた。改めて話をするのは、そういえば初めてだ。

「インフェリア中尉、部下が……シリュウがしたことは許されることではありません。申し訳ありませんでした」

初めてがこんなに真剣なものになるなんて、思ってもみなかった。

「ジンミが謝ることじゃないよ。そっちだって傷ついてるよね。ずっと一緒にいた子が、あんなことになっちゃったんだから」

シリュウが大総統執務室で話したことの大方は嘘だった。だが、東方にいた頃からジンミといつも一緒に行動していたというのは本当らしい。そこはレヴィアンスが裏をとってくれている。二人は本当に姉弟のようだったと、東方司令部の人々は証言していたという。

「それに、ロスタ少佐のこともあるし。好きだったのに、裏切られちゃったんだよね」

「いいえ、彼は裏切ってなんかいません。初めから私は、利用できる遊び相手だったんですもの。私の片思いなんですから、裏切られるはずもありませんわ」

ジンミは妖艶に、けれども切なげに微笑んだ。彼女がしたことは、イリスも知っている。レヴィアンスとメイベル、それぞれから話を聞いた。彼女が咎められることなく東方に帰る予定だということも、すでに耳に入っている。

「男の遊び相手に甘んじて、甘えてくれていたと思っていた子も本当はそうではなくて。何も知ろうとしなかった私へも、ちゃんと罰は与えられてます」

「罰?」

「東方に帰されること。あそこには、いいえ、もうこの世界のどこにも、私の居場所はない」

イリスは首を傾げた。そんなことはないはずだ。ジンミは東方では優秀な人材で、必要とされていたから帰さねばならないと、レヴィアンスは言っていた。それなのに、居場所がないとは。疑問は何も言わずとも汲み取られた。

「私が軍にいるのは、たまたま実家が宝石商で、ちょっと目が良かったから。宝石の真贋なんて、ちょっと調べればわかること。私の目なんか必要ない。実家だって継ぐのは兄だから、私はいらない。だからこそ軍に追いやられたんですもの。誰にも必要とされない、自分に価値がない、それならどこに行ったって同じ。生かされているのが、私の罰」

胸に手をあて、ジンミは薄い笑みを浮かべていた。細められた目に光はない。裏切られるはずもないと彼女は言ったが、多くのものを失ったのはたしかだった。だからこんなに絶望している。

けれども、イリスは首を横に振った。ジンミの言うことには誤りがある。それは正さなくてはならない。

「いらないなんてことないよ。本当にジンミが必要ないなら、レヴィ兄やクレリアさんが苦労することなかったはずだもん」

「苦労? 閣下と、准将が?」

どうして、と今度はジンミが首を傾げる。彼女は知らないらしい。知らないから、こんなにも落ち込んでいるのだ。

「ジンミを中央に引き抜くとき、東方司令部長とチャン家が猛反対したんだって。東方にいてもらわなきゃ困るって。ジンミが有能で、認められてるから、司令部長は引き留めた。そして家族は、きっとジンミを遠くにやりたくなかったんじゃないのかな。家族が遠くに行ってしまうと、気にかかるものだよ」

「でも、家族は私を軍に厄介払いしたわ」

「本当のところは、わたしはわからない。でもさ、ジンミのこと大切じゃなかったら、中央行きを反対するかな。仕事が多くてきつくて重くて、大変なところだって評判の職場に、家族をやるのは反対だって人、結構いるみたいだよ」

イリスは他人だ。人の家の事情なんかわからない。誰よりもわかっていないかもしれない。でも、事実だけは知っている。ジンミは東方に必要で、本来なら中央にはとられたくなかった人材なのだ。

「ジンミの引き抜きは、中央での仕事が終わったら東方に帰せって条件付きだったんだよ。レヴィ兄から聞いたんだもん、間違いない。ねえ、こんなに必要とされてるし、価値があるんだから、もうちょっと胸張って生きていいんじゃないの」

にい、と笑うと、ジンミは呆けたようにイリスを見ていた。何も返事をしない彼女の背中を、メイベルが叩く。

「しっかりしろ、ジンミ・チャン。お前は今度こそ自分の考えで行動し、自分の力で生きなければならないんだぞ。別に死にたくても私は止めないが、まあ、イリスはしつこいくらい止めるだろうな。お前が東方にいてもだ」

なにしろコネクションが多くて強い、とメイベルも目を細めた。ジンミは丸めていた背中を伸ばされ、イリスとメイベルを交互に見る。そして、ふ、と笑った。

「そうね、あなたたちがそこまで言うなら、胸を張ってみるわ。わざわざ張らなくても、あなたたちよりボリュームはあるつもりだけれど」

妖艶な笑みの彼女の胸は、相変わらず大きく膨らんでいて、たしかに張りがある。イリスは「だよねえ」と声をあげて笑い、メイベルは「将来垂れろ」と悪態をついた。

空気が幾分清々しくなったところで、イリスはジンミの耳に気づく。ピアスがない。いつもそこには、高価な宝石が光っていたのに。

「今日はピアスしてないんだね」

「見せる相手がいないので。でも、またすぐに新しいのをつけますわ。今、加工待ちなの」

「加工? 中央だし、金とか?」

「もっともっと、貴重なもの」

そのとき、イリスはぞっとした。シリュウと戦ったときのことを思い出したのだ。彼があのとき見せた笑み、三日月のように割れた口元は、今のジンミにそっくりだった。二人は本物の姉弟以上に姉弟なのかもしれない。

「ミルの最期の願いだけは叶えてあげても良いって、閣下の了承も得ているわ。どうせ誰も引き取らないなら、せめて一部だけでも私が持っていてもいいでしょう」

裏の人間ではなくとも、一筋縄ではいかない者は存在する。軍人というのはただの職業で、肩書だ。人格を表す言葉ではない。

メイベルまでも絶句しているそのうちに、ジンミは立ち上がり、「失礼しました」と部屋を出て行った。

 

シリュウの聴取の、最後の日が決まったと聞いたのは、さらに日が経ってからのことだった。回復を考慮しながら進めようとしていたのだが、シリュウが一向に裏のことを話そうとしないために、結果的には時間切れということだそうだ。

「何も聞けなければそれまでで、シリュウは傷害で裁かれて、東方管轄の刑務所に行くことになる。機密漏洩は厳密には疑いの段階だけど、イリスの証言から長いことやってたんじゃないかって思われてるから、これも刑の対象になるだろうね。大人になるまで出てこられないと思うよ」

レヴィアンスが見舞い品のリンゴを手で弄びながら、そう語った。つまり、それがラストチャンス。シリュウに会いたいなら、それ以降はない。

イリスはレヴィアンスに掴みかかる。もう体は随分自由になり、頭と顔の包帯もとれていた。胸にはまだ違和感があるが、始終痛むということはない。もっとも、それは痛み止めの点滴のおかげなのだが。

「レヴィ兄、聴取にわたしも立ち会わせて」

真っ直ぐに見上げた瞳は、そうくることを予想していたかのように静かだった。

「怪我人を立ち会わせる馬鹿がどこにいるのさ」

「馬鹿になってよ、レヴィ兄。シリュウと話さなくちゃいけないの」

「何を話すっての。何を訊いても答えない相手に、イリスが一方的に考えをぶつける? それは聴取じゃないよね」

いくら推理を披露したところで、相手が認めないのであれば事実にはならない。こちらの勝手を押し付けることは、シリュウという人間を無視することにもなる。それはイリスもわかっている。そして会って彼を懐柔できるという自信も、まったくといっていいほどない。

けれどもイリスは知りたかった。シリュウがどうやって生きてきたのか、何を思っているのか、そしてこれからどうやって生きていきたいのか。シリュウは裏でしか生きられないと言っていたが、本当にそうなのか。イリスから自分のことを話すことで、シリュウのことも聞けないかと、できるとすればこれが最後だと思っている。

「シリュウと個人的に話す場は設けられないんだよね」

「無理。それができるとしたら、佐官以上の人間だ」

実際、シリュウの聴取をしているのも佐官以上の者だった。あるいは、ガードナーやレヴィアンスがその場に赴いている。その誰にも、シリュウは黙秘を貫いていた。

イリス・インフェリア中尉は、シリュウ・イドマルに会えない。これは仕方がない。だが。

「ねえ、レヴィ兄。やっぱり馬鹿になって」

「しつこいなあ。オレが馬鹿になったところで、尉官はこの事件を担当できないの」

「だったら、大総統補佐イリス・インフェリアとしてはどう? 階級に関係なくこの肩書をくれたのは、レヴィ兄だよね」

攻めるなら正々堂々と、正面から。それがイリスのスタイルだ。これはレヴィアンスに教わったことでもある。真っ向から、真剣に。そうすれば拓ける道がある。イリスならばそれができると、最初に認めたのは。

そもそも、何も手の打ちようがないなら、こうして話すことだってしないだろう。ヒントをくれるなんてもってのほかだ。

「……レオには、任せてみたんだよね。でも何も引き出せなかった。むしろレオのほうが、勝手に決めつけた推理をして悪かったって謝ってきたくらい」

「決めつけた言い方はしない。できるだけ引き出せるように努力はする。シリュウが黙ったままなら、潔く諦める」

だから、お願い。イリスは必死の思いで、レヴィアンスの眼を覗き込んだ。――いつか見た、冷たい眼ではなかった。

「聴取は二時間。それ以上はお互い疲れるからできない。一時間半はオレがやる」

ぴ、と三本、指が立つ。三十分。それが与えられた時間の限界。

「頭の時間をイリスにやる。時間になったら強制的に退去させて、オレが続きを引き取る。譲れてこれだけだ」

「……上等」

これがイリスの、シリュウとの最後の戦いだ。

 

痛み止めを打ち、久しぶりに軍服に着替える。ぼろぼろになってしまったものはとうに処分したので、今日のはおろしたてだ。傷一つない生地の、肩に肩章を、左胸に国章と階級章をつける。

左耳には銀のカフス。軍に入隊が決まったとき、記念にと兄が作ってくれたお守りだ。触れると、何かを思い出しかけた。夢で誰かに会った。けれどももう、その姿は見えなかった。だからそれは、もういい。

長い黒髪に魔性の赤眼。与えられた名は「エルニーニャの獅子姫」。大総統補佐イリス・インフェリアは、この瞬間復活を遂げた。

「完全復活じゃないからな、三十分もたなければそこで立ち会いは終了。話が途中でも三十分が限度。これは絶対譲らない」

迎えに来たレヴィアンスに、イリスは力強く頷いた。そして、自分の足で歩き出す。ふらつきでもしたら、聴取に立ち会うまでもなくベッドに逆戻りだ。

それくらいの気持ちでいたのだが、目の前に手が差し出される。

「手助けするわけじゃないぞ。女性をエスコートするのは当たり前のことだからな」

「それエトナさんにやりなよ、レヴィ兄」

笑って手を取り、すぐに表情を切り替える。き、と前を向いたイリスは、現役時代の父に似ている。

病院から出て、車に乗り、中央拘置所へ。その医療施設に、シリュウはいる。イリスと同じく、傷が完治したわけではないのだ。こちらの病室はすべて個室で、脱走ができないよう厳重な警備が敷かれている。窓にも鉄格子がはめられ、なんだか寒々しい。

シリュウはベッドに起き上がり、レヴィアンスとイリスを迎えた。

「最後の聴取に来たよ。真実だろうと嘘だろうと、何か言うならこれっきりだ」

「言い訳はありません。以上です」

事前にイリスが来ることは聞いていたらしい。シリュウは眉一つ動かさずにこちらを一瞥し、レヴィアンスの言葉に短い返事をした。このままでは三十分も無駄に終わるが、そうしないためにイリスがいる。

「シリュウ、怪我の具合はどう? 点滴、栄養剤と痛み止めだよね。わたしと同じだ」

ベッドの脇のスツールに腰かけ、イリスはつとめて明るく言った。レヴィアンスはドア付近に立ち、離れて二人の様子を見ている。三十分の間は何もしないつもりらしい。

シリュウはイリスから視線を逸らし、黙り込んでいた。

「でもほら、わたし、随分良くなったでしょ。シリュウの怪我も良くなるよ。なんかね、昔に比べたら、医療格差ってのが中央と地方であんまりなくなってきてるんだって。だから東方に行ってもちゃんとした治療が受けられるはずだよ」

こんなに近くにいるのに、声が届いている気がしない。これまで聴取を行ってきた者もそう感じてきたのだろう。裏で生まれ育ち、徹底的に裏の人間としての生き方を仕込まれてきたシリュウには、懐柔も恫喝も通用しない。それが彼の当たり前だったのだ。

「……あのね、本当は一方的に話すのは、聴取じゃないんだけど。つまり軍人としてちゃんと仕事ができてないってことになるんだけど、わたし、勝手に話すね。レヴィ兄に頼み込んで連れてきてもらったのは、わたしがシリュウに伝えたいことがあるからなんだ」

レヴィアンスは何も言わない。後で叱られても構わない。時間が限られているのなら、まずはこちらが伝えたいことを言ってしまおう。届かなくても、いい。

「地下の施設でさ、一緒に戦ったじゃない。あのとき、助けてくれてありがとう」

シリュウの眉が微かに歪んだ。

「……助けてなんかいません。おれは自分により得がある選択をしようとしたまでです」

相変わらずこちらを向いてはくれないが、初めて声が返ってきた。嬉しくなってしまうが、ここで気を抜いてはいけない。

「結果的には助かったよ」

「結果的におれは損をしています。だから今は、せめてあなたを確実に殺しておけば良かったと後悔しています」

最初の戦いでは胸を突いたが、心臓は狙っていなかった、シリュウなら狙えたはずなのだ。あの一撃が肺にまで届いていてもおかしくはなかった。けれども、そうはならなかった。そうしなかった。

地下施設でも、イリスを殺すチャンスはいくらでもあった。いくらシリュウも大怪我を負っていたからといって、あれだけ動けたのだから、混乱に乗じてイリスを斬ることは可能だった。

シリュウには、これまでイリスを殺害しようという意思がなかった。これにはイリス自身、確信を持っている。こちらから言うことはできないが。

「ねえ、シリュウ。手合わせ、楽しかったね」

手合わせのときだって、イリスを騙して真剣を使えばよかった。さっさと事故でも何でも起こして、目を抉ってしまえば済むことだった。でもあのときは、本当に楽しかったのだと、イリスは思っている。シリュウほどの実力があれば、東方には相手ができる者は少なかっただろう。イリスが中央でそうであるように。ましてシリュウは、ジンミやクレリア以外の人間とはあまり接点がなかったと聞く。

だからこそ互角の戦いができたあの手合わせは、少なからず心が躍ったのではないか。剣を交えること、それ自体が愉しくて――「賭け」なんか持ち出していたけれど、そんなことは忘れていた。

「わたし、またあれ、やりたいな。きっとゼンだってそうだと思う。あいつも剣にはこだわってるもん。……命を懸けた真剣勝負も、それはそれで、わたしはわくわくしちゃうんだけどさ。シリュウは、どうだった?」

背後にレヴィアンスがいることも忘れて、イリスは尋ねる。答えは別になくてもいい、と思っていた。シリュウが沈黙を貫くなら、それは仕方がないと。しかし。

「……悪くなかったです、あなたとの戦い」

シリュウは静かに返してきた。

「あなたがもう少し本気で、おれを殺すくらいの勢いで来てくれたら、きっと、もっと。あなたは、騙されやすくて、絆されやすくて、甘すぎる。それなのに、あんなにも強い。弱い人間のくせに、どうして」

この傷だって浅い、とシリュウは左肩に触れた。イリスはもっとやれたはずだと、彼は思っている。

でも、それはイリスの戦い方ではないのだ。絆されて騙されても懲りず、それでも強くあろうとするのは、自分が招いてしまった災難から逃げるためではなくて。

「わたしは弱いよ。まだまだ子供で、お兄ちゃんたちからも呆れられっぱなし。だけど必死で戦って、強くなりたいって思うのは、わたしには大切なものがあるから。守りたいものがあるからなんだ。この世界にはわたしの宝物がたくさんあって、それを誰にも奪われたり、壊されたりしたくない。だからわたしは戦う。大切なものを何が何でも守り抜いて、後悔しないための戦いなの」

それはいつか父が親友から受け継いだ魂。兄が父から受け継いだ精神。そして、イリスが自分を取り巻く全てから受け取り、育てようとしている心。

もう一度手を伸ばす。今度は、とても近くで。

「わたしの宝物にはね、シリュウ、あんたも含まれてるんだよ。出会った時から、勝手に決めてた」

目の前にあるイリスの手をシリュウはじっと見つめていた。そのまま穴が開くのではないかというほど、真っ直ぐに視線を落としている。イリスは手を差し伸べたまま話し続けた。

「それってわたしだけじゃないと思うんだ。クレリアさんだって、シリュウを迎えに来るって言ってるみたいだし。優秀な弟子だから手放したくないみたいだよ」

「それは、軍にいろということですか。おれには合わないって言ったでしょう」

「ちょっと違う。軍にいてくれたら嬉しいし頼もしいけど、シリュウが嫌なら辞めていい。自由でいていいんだよ。わたしたちは、シリュウがどこで何をしてたって、ずっと大切に思ってる。何かあったことを察知できたら駆けつける」

もちろんその前に刑罰があるんだけどさ、とイリスがちょっと口をとがらせると、シリュウはやっとこちらを見た。そしてイリスと目を合わせる。

「あなたは、自由になりたいと思わないんですか。その眼のせいで、軍に縛られているのでは」

「わたしは十分自由で、勝手に動き回ってるよ。軍にはいたいからいるの。そしてそこには、なんとわたしみたいな自分勝手なやつでも全力で守ろうとしてくれる人がいる。だからわたしは、安心して軍にいられるんだ」

イリスには居場所がある。シリュウにもきっと、一番心地よい居場所があるはずだ。そこがどこだって関係ない。シリュウはイリスにとって、守りたい大切なものだ。そして所属がどこであろうと、生きるルールが違おうと、同じ世界の同じ空の下にいることには変わりない。

「わたしたちは、『違う世界の人間』なんかじゃない。『違って当然』の、『ここに生きている』人間なんだよ」

にんまりとイリスが笑う。シリュウは目を見開いたまま動かない。――ほんの少ししか言葉を交わしていないのに、時計の針は休むことなく動き続けていた。

「時間だ」

壁に寄り掛かっていたレヴィアンスが、こちらへ歩いてくる。三十分ちょうどで、イリスの出番は終わりだ。頷いて、立ち上がっても、手はなかなか引けなかった。

「じゃあね、シリュウ。またいつか、会いに行くから」

有益なことは何も引き出せなかったから、聴取としては失敗だ。でも、伝えたいことは全部伝えた。

レヴィアンスと交代するように、イリスはそこを離れようとした。

でも、背を向けることはできなかった。伸ばしていた手にはたしかな感触があって、それは少し冷えてはいたけれど、ちゃんと人間の体温だった。

「……シリュウ」

「いつかまた、手合わせを」

榛色の瞳が、中央に来てから最も大きくはっきりと見える。彼はこんなにも――いや、もともと表情は豊かだったのだ、きっと。

「あなたは、おれがどこで何をしていようと、相手をしてくれるんでしょう」

ああ、もう少し時間があったなら。あと五分、いや一分、三十秒でもいい。そうしたらシリュウを抱きしめて、そのいつかくる未来について話すことができたのに。

「もちろんだよ。それまでに、もっと腕を磨いておくから」

未来のことは、未来の楽しみに。離れた手は、また繋がる。イリスの笑顔に、シリュウも穏やかな微笑みで応えた。

無理して無表情でいる必要などない。もう、思い切り笑っていいのだ。彼の表情で生きていいのだ。

 

数秒オーバーは、その後の一時間半の聴取がスムーズだったことで不問となった。

「不問ったって誤差の範囲内じゃん、あんなの」

「三十分は三十分だ。最初に言ったじゃんか」

病院に戻り再び入院患者となったイリスは、聴取を終えて帰ってきたレヴィアンスに脹れてみせた。そうしながらも、報告は全てちゃんと聞いた。

シリュウは、軍に入るまでの生活のこと、そして軍に入ってからの六年間のことを打ち明けた。裏からどんな指令を受けたか、それに対してどう動いたか、誰を利用し何をさせたか。裏に流した情報の内容も、聴取票が細かい字で真っ黒になるくらい話した。

だが、レヴィアンスによると、今ではそのほとんどが取り締まれなくなっているらしい。情報を利用して動いたと思われる組織の多くは解散しているか、内部分裂によって壊滅している。軍がすでに把握して取り締まっていたものはともかくとして、どうにもできない取りこぼしが多いのは痛手だった。

軍内部での問題も浮き彫りになった。たとえばジンミが受けていた性的虐待は、彼女が望めば今からでも当事者を処分することができる。すでに軍を辞めたものに関しては取り締まることが可能だ。この件はクレリアが引き取るという。

そして南方司令部設置の特別任務担当班にも、見直しがかかる。ミルコレスはすでに死亡しているので、余罪を追及することができない。書類を作っておしまいになる。けれども軍全体の特殊任務に対する動き方は、考えなくてはならないだろう。死んだ男の割を食う形になってしまうのが情けないが、いずれは改革が必要だった部分だ。

イリスの眼を狙う裏組織の数は、シリュウも把握しきれていないほど存在しているという。組織ではなく個人で動いている者もいるようだ。まだまだ気は抜けない。

「ということで、やっぱりイリスには軍にいてもらわないと困るんだよね。じゃなきゃ守りきれない」

「うん、わたしも自分の身は自分で守りたいからね。軍にいさせてくれるならありがたいよ」

「不自由だと思わない?」

「わたしが不自由に見える?」

大総統と補佐、いや、兄役と妹分は、いたずらを仕掛けたときのように笑いあった。

明日にはクレリアが中央にやってきて、シリュウと、謹慎処分というかたちで保留されていたジンミの身柄を引き渡すことになっている。シリュウが正式に抜けることで、リーゼッタ班は五人体制になる。

「ちょっとのあいだだったけど、後輩が二人もいるのは嬉しかったな。これからはカリンちゃんをめいっぱい可愛がろう」

「そんな悠長なこと言ってられないぞ。カリンはお前たちが入院しているあいだに事務といくらかの任務で功績を作りまくってるから、このままいくと今年中には昇進できるかもな」

「おおう、さすがカリンちゃんだ……。うかうかしてると、後輩なんて言えなくなっちゃうね」

「なんなら、ネイジュをつけてやろうか。刑期満了後は中央で引き取って再教育の予定になってるから。もちろん降格するしさ」

「あの人は正直、ちょっと……」

一つの事件が終わる。いや、これはイリスを狙う者たちとの戦いの、一端に過ぎない。忙しい日々はまだまだ続く。むしろ退院して再開してから、地獄のような忙しさが待ち受けている。

イリスは中尉として、そして大総統補佐として、自分の仕事をこなすことに集中しなければならない。勝手をした分、今度こそ、だ。

フィネーロは再び情報処理室の要として働くという。そしてルイゼンは、おそらく彼がもっとも苦労する。トーリスから不在のあいだの仕事を引き継ぎ、ネイジュの仕事に不備がなかったかを再度チェックし、新しい室長にさらに引継ぎを行なう。新室長には同じ事務室の他班の大佐が就任するが、だったらトーリスがそのまま仕事を教えてくれればいいのに、わざわざルイゼンを介するのだ。彼は副室長を引き続き務めることになるが、ゆくゆくは確実に室長になるだろう。レヴィアンスがそう育ててしまっている。

メイベルとカリンは、入院組に早く戻ってこいと催促している。とくにメイベルは、他班に混じっているのは落ち着かないのだ。それでもなんとか問題を起こさずにやっているあたり、彼女もまた軍人なのだった。

「ゼンとフィンは明日退院するんだよね。いいなあ、わたしも早く復帰したい」

「あいつらもすぐには復帰させられないけどね。少し実家に帰すよ。フィネーロは実家に居づらいからルイゼンの家に世話になるってさ」

「わあ、いいなあ。ねえレヴィ兄、わたしも退院して実家で休めない?」

「お前は変に無茶するからダメ。それともインフェリア家の家族会議で丸一日説教聞く?」

「……それは遠慮しようかな」

けれども、早く日常へ。そうしてイリスは、前に進んでいかなければならない。勝手をしたからまたもや大人にはなりそこねたけれど、日々成長しなくては、未来の約束が果たせない。

この道は困難かもしれないけれど、その向こうには守りたいものがある。この手で、この眼で、自らの強さで。そうして「いつか」に辿り着いたあかつきには、握手をして、互いの力を披露しよう。

軍の者。インフェリア家の娘。エルニーニャの獅子姫。――いろいろ認められるものはあるけれど、それ以前にイリスは、イリスたちは、この世界に生きていく人間だ。

「何があっても生き抜くよ。わたしの大切な世界のために」

誓いを胸に、少女は再び歩き出す。道を探して、選んで、切り拓いて。