散りかけの桜だが、遅咲きのものならばまだ見ることができる。
今の時期ならば花見客で混んでいるという事はまず無く、丁度良い機会なので出かけることにした。
持ち物は弁当とお茶と、酒。
「まだ結構いけるな」
カスケードが木の幹を軽く叩き、呟く。
花弁の絨毯と樹木を彩る桜色が丁度良いバランス。せっかくなのでマットを使わず、木の根に座る。
「いけるっつっても今日が最後だな、こりゃ」
少しの風にもはらはらと落ちてくるものを拾い上げ、ディアが言う。拾った花弁はアクトの頭上へ。
「やめろって。すぐ人に花とか乗せたがる…」
「別に良いじゃねぇか、似合うんだから」
三人だけの花見だが、このメンバーなら十分楽しめそうだ。カスケードが黙っていても、他二人が盛り上げてくれるだろう。
「…お、いい感じ」
お茶の入ったコップに、花弁がふわりと浮いた。
昨日のことだった。ディアとアクトはカスケードから急に翌日の休暇を言い渡された。
「何でいきなり休みなんだよ」
不審そうなディアに、カスケードは笑いながら答える。
「いや、明日二人に付き合って欲しいところがあるんだよ。二人とも花見好きか?」
「花見?」
アクトが訊き返すと、カスケードはポケットから折りたたんだ紙を取り出した。広げると曲がった線が見える。
「これ…地図?」
「あぁ。この丸ついてるところ、とっておきの場所なんだよ」
紙の左上の方に赤いペンで丸印があった。道のとおりに行けば、確か公園があるはずだ。
「でも、公園の桜はもう散ってるんじゃ…」
「それがだな…遅咲きのやつがあるんだよ。あまり知られていないから荒らされていない筈だし」
地図を受け取ってしばらく眺め、アクトは頷いた。
「行く。今年は花見できないなって諦めてたから、誘ってもらえてすごく嬉しい」
アクトから地図を受け取り、カスケードはディアに声をかける。
「不良は?」
「不良って言うんじゃねぇ!…アクトが行くんなら行ってやってもいい」
「じゃ、決まりだな。明日お前らの部屋まで迎えに行くから、準備しておけよ」
カスケードはそう言って去っていったが、ディアとアクトは少し違和感を感じた。
カスケードはいつもと同じカスケードだ。でも、何かが違う。
「ディア、カスケードさん…少し寂しそうじゃなかった?」
「さぁな。でもなんか違うような気はする」
よくわからない感じを受けつつ、そのまま今日になった。
カスケードの様子は昨日と同じようで、二人には理由がわからないまま寮を出てきた。
カスケードが導くままに公園の奥の方に来て、今は桜の木の下にいる。
朝食を食べていなかったために、空腹感に襲われる。
「ディアが寝坊するから…」
「それはもう言わねぇっつっただろ!」
「相変わらずだな、お前ら」
会話をしながら弁当を広げる。なかなか豪華で、明るい色合いはまさに春だ。
「…すごいな」
カスケードは感心して弁当を眺める。
「女でもここまでできる奴はあまりいないかもな」
「だろ?」
「何でディアが威張るんだよ」
アクトが食器を並べながらツッコむ。
この弁当を作ったのはアクトだ。料理は得意中の得意なのでこの程度なら朝飯前といったところだろう。
「遠慮しないで取って食えよ。ディアは必ずグリンピースを食べること」
「何だよそれ…」
ディアには好き嫌い克服ルールが設けられ、強制的にグリンピースが皿の上へ。
「不良、ちゃんと食えよー」
「うるせぇ!」
「カスケードさんも、はい」
ディアをからかっていたカスケードの皿に、アクトがおかずを取る。ディアのとは違うが、こちらも緑色。
「…アクト、これはちょっと…」
「カスケードさんも好き嫌い克服してもらわないと。夕飯食べに来るたびにピーマンだけ残されるの嫌だし」
「ちゃんと食えよー」
「…お互い様だな」
苦手なものと格闘する二人をよそに、アクトは樹木を見上げる。
桜や葉の間から太陽の光がのぞき、きらきらと光る。
光を透かした花弁が、ひらりと足元に着地する。
来年もまたここに来よう、と思っていると、横から声がする。
「これお前にやるよ」
「あぁ、じゃあ交換ってことで」
雰囲気台無しの台詞に、思わず溜息が出る。
「二人ともいいかげんにしろ!」
弁当のおかずは減っていく。グリンピースとピーマンだけが残される。
格闘はしばらく続き、結局はアクトに説教されながら無理矢理口に押し込む。
どこに行っても同じ光景。
花弁は地面に横たわり、幾重にも重なる。
薄いピンクは色を変え、天然のグラデーションができる。
遠くから子供の声が聴こえ、それに風の音が重なり、心地良い音楽を形成する。
花弁の一片が紙コップの中の液体に浮かぶ。
「風流ってやつ?」
「お前に風流がわかってたまるか」
「んだとコラ」
ディアとアクトが酒を飲んで話しているのを聞きながら、カスケードは空を見上げる。
あの日もこんな天気だった。
明るく晴れていて、悪いことなど一つも起こりそうになかった。
いつもと同じ朝を迎え、いつもと同じように任務地に向かった。
あんなことになるなど、全く思っていなかった。
「カスケードさん、飲まないの?」
アクトが紙コップと酒瓶を持ってすぐ後ろにいた。
「うわ、先に飲むなよ!」
慌てて紙コップを受け取るカスケードに、アクトはクスリと笑う。
「そんなに慌てなくても良いのに」
「いや、放っておいたらお前らで全部飲むだろ」
「ちゃんと残しとくよ」
「ホントか?」
注がれた無色透明は、あれから時が経ったことを感じさせる。
あの出来事がなければ、この席にはもう一人いたかもしれない。いや、二人しかいなかったかもしれない。
どうであれ、これはもう現実には起こり得ないことだ。
「…美味いな」
「ちょっと奮発したからね」
過去のことを悔やんでも、起こり得ない事を想像しても、どうしようもない事はわかっている。
けれども、もしこうして酒を酌み交わすことができたなら。
「アクト、カスケードばっかり構うんじゃねぇよ」
「はいはい。ディア、少し酔ってないか?」
「酔ってねぇよ」
こうして話すことができたなら。
もっと一緒にいられたなら。
「…風、強くなってきたな」
満開の桜が風に流れる光景を、一緒に見ることができたなら。
「カスケードさん、おかわりいる?」
「あぁ、頼む」
後になって悔やんでも遅いということは、ずっと前からわかっている。
それでも「もし」を考えてしまうのは、それほど大切なものだから。
そっと触れた左耳から、銀色の冷たさが流れた。
荷物をまとめて丘を下る。影よりも空の面積の大きくなった桜の木が、風に揺られて手を振った。
公園に出ると子供が遊んでいる。無邪気な笑顔で駆け回っている。
「あんな時代、おれはなかったなぁ…」
アクトは呟く。
幼い頃に虐待から逃げて軍に入った彼には、外で元気よく駆け回った思い出はない。
あったとしてもそれは三歳以前のことになり、覚えてはいない。
「つくりゃ良いじゃねぇか」
ディアがそう言って、アクトの頭を軽く叩く。
「つくるって…」
「楽しい思い出なら俺がつくってやる。お前は好きなように走っていれば良い」
ディアが笑いかけると、アクトは少し笑って
「もう十分楽しい」
と答える。
「それに、お前がいるだけで毎日ドタバタだしな」
「どういう意味だよ、オイ」
軍に入ったおかげで出逢えて、こうして笑いあえる。
軍人になってからも辛いことはたくさんあったけれど、傍にいてくれる人がいたからここまで来れた。
「ディア、寮まで競走しない?」
「お前に勝てるわけねぇだろ。百メートル十一秒と競走はしたくねぇよ」
「好きなように走れって言っただろ」
いつもと同じ口調でそう言うアクトを見て、ディアはホッとする。
子供達を見て一瞬表情が陰ったので心配になったが、その必要はなさそうだ。
ディアも昔のことは覚えていない。六歳のときに自分を残して家族が全滅する以前のことはあまり思い出せない。
自分には父がいて、母がいて、兄と姉がいた。
それだけはわかるのだが、家族とどんなことをしていたか、どんな家だったのかは僅かしか記憶にない。
脳裏に焼き付いているのは、飛行機事故で両親がなくなったという知らせを伝える近所の人の声。
そしてそれをきっかけに首を吊った兄の最期と、家を自分もろとも焼き払った姉の笑い声。
辛い記憶に楽しい思い出を上書きしてくれたのは、軍の要人だった養父だ。
結局迷惑をかけ続けた挙句にディア自身は国外追放になり、それでも養父は自分のためにこのエルニーニャ軍への入隊手続きをしてくれた。
隣国の養父は、まだ花をつける前の桜を見ているだろう。
「アクト」
「何」
声をかけると振り向いてくれる人がいる。
「今度北のほうの桜見にいかねぇか?まだ満開じゃないみたいだし」
「寒いところ嫌い」
「ワガママだな」
「うるさい」
自分の中にある隙間を、埋めてくれる人がいる。
「カスケードさん、どうしたの?」
ふと気付くと、カスケードは歩みを止めていた。立ち止まって、足元を見ている。
「いや…」
「酔ったのか?」
「酔ってはいない。…悪いけど、先に帰っててくれないか?」
昨日から続くおかしな様子。アクトは頷いてディアを引っ張る。
「行こう。カスケードさん、夕飯作って待ってるから」
「俺は別に待ってねぇけど来るんなら来いよ」
二人が見えなくなってから、カスケードは歩み始める。
寮の方向と反対に歩き、遠回りする。
軍の主要施設から少し離れた、軍人墓地へと向かう。
墓地にも桜の木があるが、花はすでに散っていた。
全体的にモノクロームな風景の中を歩き、小さな墓石の前で足を止める。
「…よぉ、ニア」
片手を軽く挙げ、しゃがみ込む。
墓石には殉職者の名前が彫られている。
これに記されているのは、十八歳で逝ってしまった元大尉の名。
「あれから随分経つよな。これで何回目の命日だっけ」
カスケードと共に任務に出て、そのまま死んでしまった親友。
痛くて辛いはずなのに、最期まで笑っていた。
「心配すんなって。ちゃんとあの剣は大切にしてる」
カスケードは左耳から銀色のカフスを外し、掌に乗せる。
「勿論これも。お前の親父さんが作って、お袋さんがイニシャル彫ったんだっけ。器用だよなぁ」
開いていた手をそっと握りしめ、空いている手を墓石に伸ばす。
「今日さ、花見行って来たよ。よく遊んだあの公園のあの桜。何であれだけ咲くの遅いんだろうな」
墓石の冷たい感触。あの温かい手は、もう二度と繋げない。
「ニア…一緒に見たかったな。酒でも飲みながらさ。
…それともお前は屋外で酒飲むの許してくれなかったか?」
あの世話を焼く声はもう記憶の中にしかない。
「俺はまた一年頑張るよ。お前に胸張れるように、立派な軍人になる。…人を助ける軍人に」
ゆっくり立ち上がり、カフスを左耳に装着する。
「だから見守っててくれよ、親友」
墓石に背を向け、歩き出す。永遠の親友に誓い、前へと進む。
風が吹いて、どこからか桜の花弁が流れてきた。近くの花はもう全て散ったというのに、薄いピンクが頬を掠めていった。
土には濃い緑の草の、新たな命が育っていた。
春の風が運ぶのは、太陽の光。
全てが輝いて、新しいものを見守る。
花の香りに癒されて、明日もまた歩き出す。
また、新しい始まりが。