ちょっとした仕事を難なく終えて、さあ戻ろうか、というときになって気付いた。

本当に世話の焼ける。

「何やってんだよ馬鹿」

広いホールの片隅に佇む影に声をかける。

影はこちらを向いて、困ったような笑顔を見せた。

「馬鹿って言わないでよ…」

「馬鹿に馬鹿って言って何が悪い」

情けない兄にいつもの調子で返し、ブラックは目の前にある巨大な楽器を見た。

兄の指が鍵盤においてあるのも目に入る。

「そういや昔…」

「うん。かなり昔だけどね」

兄――アルベルトは懐かしそうに言う。

いつだったか、幼い頃に教養の一部として習っていた、という話を聞いたことがあった。

腹違いの兄弟で、生まれたときから住んでいる家も違った二人は、互いのことをまだよく知らない。

会ったばかりの頃はブラックがアルベルトと関わりたがらなかったため、なおさらだ。

「久しぶりに触ったら弾きたくなっちゃって。…今でも弾けるかどうかはわからないけど」

グランドピアノは高く小さな声でドを歌った。

 

アルベルトが生まれ育った家は、何年か前まではこの国で有名な財閥の一つだった。

父親が原因で崩れてしまったが、アルベルトが暮らしていた時はまだ裕福で、家庭教師を雇う余裕は十分にあった。

後継ぎの嗜みとしてピアノやバイオリンをやっていたのも、財閥として回復する見込みがあったからだ。

「ぼっちゃまはピアノお好きですか?」

家庭教師はいつも尋ねた。アルベルトは決まって

「はい」

と笑顔で答えていた。

練習は大変だったが、上手になれば褒めてもらえるので苦痛ではなかった。

父が犯罪者であるという事実を知るまではずっとやっていた。

鍵盤に触れると気持ちが落ち着いた。

 

「全然覚えてないな、あの頃どうやって弾いてたかなんて。あの頃が不思議なくらいだよ」

右手の人差し指で鍵盤を叩く。左へいくに連れて音は低くなり、大きくなった。

真ん中のあたりで動きを止め、両手を鍵盤に乗せた。

「勝手に弾いたら怒られちゃうかな」

「もう弾いてるだろ。誰も来ねーし何にも言わねーから別に気にしなくても良いんじゃね?」

ブラックは傍にあった椅子に座り、足を組んだ。

口にはしないが、聴いてやるから、ということなのだろう。

アルベルトはくすっと笑い、指を軽く上げた。

ピアノは歌う。喜びも悲しみも、過去も未来も。

弾く者次第でどんな世界も奏でる。

今耳に届くのは過去で、どこか悲しみを含んでいる。

ブラックはアルベルトの過去のことをよくは知らない。

それでも感情がなんとなく伝わるのは、多分父のことがある所為だろう。

自分達は父親だけが共通で、父親と同じ髪と眼をもっている。以前は嫌悪していたが、今はそうでもない。

曲が中盤にさしかかった時、ホールの扉が開いた。

「おや、軍人さん方…まだいらっしゃったんですか?」

今回の仕事の依頼主である、ホールの管理者だった。

アルベルトは頭を下げ、ブラックはそっぽを向いた。

「すみません、勝手に弾いて…」

「いや、たいしたものだ。素晴らしい演奏でしたよ。最後まで弾いて下さらんか?」

管理者は穏やかな笑顔で言う。しかしアルベルトは首を横に振って言った。

「ありがとうございます。でも、この曲はあまり覚えていないので…」

ブラックには大嘘に聞こえた。さっきまでの調子だと、邪魔が入らなければ間違い無く最後まで弾いていただろう。

アルベルトの言葉は謙遜というよりも、人に聞かれたくないというニュアンスが含まれているようだ。

その場にいたのがブラックだけだったから弾いたのだ。他人に聞かれるのは嫌なのだろう。

「そうですか、それは残念です。

…あなたならと思ったのですが、無理ならば仕方ありませんね」

管理者は残念そうに笑った。アルベルトもすまなそうに俯く。

その時、管理者の手に紙の束があるのに気付いた。

透けて見えた印刷から、それが五線譜であることがわかる。

「これは…」

「あぁ、これは楽譜ですよ。

自分ではもう弾けないもので、誰かに弾いてもらいたかったんですが…」

その誰かがアルベルトだったらしい。

しかし断られてしまっては仕方がない。管理者は楽譜を両手で横に持ち、片手を前へ出し、片手を手前に引こうとした。

「だ、だめですよ破っちゃ!」

「良いんです、もう弾く者などいないのですから。こんなモノは処分してしまった方が良いんですよ」

アルベルトが止めるのも聞かず、彼は譜面を引き裂いた。綺麗な音符の列が見えた。

「私は事故で指を無くしましてね。…このとおり、ピアノなど弾けなくなってしまった」

両手とも指が二、三本かけた手を緩めると、譜面はバラバラと床に落ちた。

床の冷気に触れ、凍りついたようにも見えた。

「…弾いてやれば?」

低い声が呟く。アルベルトと管理者は驚いて声の方を見た。

「弾いてやれば良いじゃねーか。どうせこの後まだ暇なんだろ?」

ブラックはまだ温かさの残る譜面を拾い、アルベルトに押し付ける。

それをそっと受け取りながら、アルベルトは小さく笑った。

「珍しいね、君がそんなこと言うなんて」

「いいからさっさと弾いてやれ。…おっさん、こいつが弾きゃ良いんだろ?」

「あ、あぁ…。でも、本当に良いんですか?」

管理者は不安げにアルベルトの方を見た。

アルベルトは破れた譜面に目を通し、ゆっくり顔を上げた。

「弾けそうですし、大丈夫です。…弟に言われては弾くしかありませんし」

穏やかな笑みに、管理者は目が熱くなるのを覚えた。

 

破れた譜面を繋ぎ合わせて、立て易いように厚紙で補強する。

その作業の間、管理者は懐かしそうに語った。

「私は昔作曲をやっていまして、毎日のようにピアノを弾いていました。

その合間に喫茶店や病院などを回って、演奏で少しずつ稼いでいたんです」

喫茶店ではジャズを、病院では老人を癒すようなクラシックや子供を退屈させないような曲を選んで弾いていた。

子供は伴奏に合わせて歌ってくれたこともあり、彼はそれが楽しみだった。

「まぁ、変わった子もたまにいましてね。

病院付属の施設で一人だけ離れて背を向けていた子がいまして、その子だけはこの楽譜の曲が好きだったようで…」

楽譜を見たところ、決してテンポのいい曲ではない。

幼い子供は退屈してしまいそうな曲なのに、その子はこれだけを真剣に聴いてくれたのだと言う。

「これ、あなたの曲ですよね?良かったですね、聴いてくれて」

アルベルトが楽譜の修理を終えて言う。

「えぇ、全く笑いませんでしたけど。

楽しそうなそぶりも全く見せなかったけれど、聴いてくれていることだけは伝わったんです」

ブラックがアルベルトに修理済みの楽譜を渡し、管理者の指示で順番に重ねる。

もとに戻った楽譜を、アルベルトはそっとピアノに載せた。

「じゃあ僕が上手く弾けていたら、その子の事思い出していてください。

…上手く弾けなかったら、すみません」

「いや、あなたならきっと弾いてくれるでしょう。彼もどこかで聴いているかもしれない」

管理者は目を閉じた。

アルベルトは鍵盤にそっと指を触れ、最初の一音に続き両手の指を躍らせた。

無名の作曲家の想いのこもった曲は、ホール中に響き渡る。

管理者の脳裏には、懐かしい情景が浮かぶ。

そこから大分離れた所に、ブラックは座っていた。

 

流れていくものが空気になり風になり、心に眠っていたものを少しずつ起こしてゆく。

失った指は甦って鍵盤を叩いているようにすべる。

存在する指は温かな陽射しを奏で、ピアノは美しい声で歌う。

 

ホールに余韻が残っている。管理者は笑みを浮かべてアルベルトに礼を言った。

「本当にありがとうございます。あなたのおかげでこの曲も甦ることができました」

「いえ、僕こそすみません。途中何度か突っかかってしまって…」

「突っかかったのでさえ気付きませんでしたよ。

…そうだ、この楽譜、貰っていただけませんか?

破れているし、元々無名のものが書いた駄作ですが…」

管理者が差し出した楽譜を、アルベルトはしっかりと受け取る。

笑顔で頷いて、ブラックにも笑いかける。

「さ、行こう。早く帰らないとデスクワーク頑張ってる人たちに申し訳ないから」

アルベルトが管理者に会釈して出て行く後からブラックがついていく。

ホールは静寂を取り戻し、窓から差す光で、漸く夕方であることに気付いた。

「あの子も元気そうで良かった…」

管理者は手のひらで鍵盤に触れ、微笑して呟いた。

 

「ブラック、この曲好きなの?」

帰りの車の中でアルベルトが訊くと、ブラックは慌ててそっぽを向いた。

「何でそう思うんだよ」

「僕が弾いてた時、少し笑ってたから。嬉しいのかなって」

「笑ってねーよ」

背けた顔が少し赤く染まっているのは、夕陽の所為だけではないだろう。

アルベルトはくすっと笑って、アクセルを踏んだ。

ブラックの頭の中にはまだあの曲が流れていて、それが幼い頃の記憶と重なりながら繰り返していく。

最後まで辿り着いても、初めから繰り返す。

 

譜面に並ぶのは、懐かしい調べ。