仕事の後は真っ直ぐ寮に戻り、いつものように晩御飯の支度を始める。

食堂へ行く者が多い男子寮では珍しいが、彼等にとってはこれが普通。

「今日もカスケードさん来るかな」

「来なくていい。あいつが来ると取り分減るんだよ」

「だから多めに作ってるだろ。なのに取り合いして…子供かお前は。」

呆れるアクトの声に、ディアは舌打ちする。

いつものことだが、やはり上司の名が出ると苛立ちを覚える。

嫌いという訳ではないのだが、アクトが彼ばかり擁護するのは面白くない。

「あいつが悪ぃんだよ。俺の分とるから…」

「はいはい」

水の音が聞こえる。野菜を洗っているのだと気付くのに、そう時間はかからない。

間もなくして包丁とまな板のぶつかるトントンという音が小気味よく響いてくる。

いつもならここでテレビの音も混じってくるが、今日はリモコンに手を伸ばす前にやめた。

歌が聞こえる。

小さな声だが、遠くからではない。

あまり高くなく、低くもない。聞きなれた声が部屋に染み渡る。

「アクト、何歌ってるんだよ」

ディアが台所に呼びかけると、歌声は止まった。

「何って…」

「今歌ってただろ」

アクトは暫く何も答えずに手を動かしていた。

再び水音が響き、すぐに止まる。

湯を沸かし始めたのだろう、コンロのつまみを回すカチッという音の後、足音が台所から出てきた。

「歌ってただろ」

もう一度問うと、肯定が返ってきた。

「なんていう歌か知らないけどな」

「知らないのに歌ってるのかよ」

湯が沸くまで暫くかかるらしい。

アクトはディアの隣に座り、クッションを抱きかかえた。

「なんていう歌か知らないし、何で知ってるのかもわからない。多分子守唄か何かだと思うけど…」

アクトには両親の記憶があまり無い。アクトが幼い頃に死んでしまった所為だ。

歌はその時に聴いたものかも知れない。

「全然記憶が無いんだ。なのに歌だけはこんなにはっきり覚えてる。自然とメロディが出てくるんだ」

「自然と、ねぇ…」

子守唄、と聞いて、ディアは故郷を思い出した。

生まれ故郷である隣国ノーザリアには育ての親が住んでいる。

家族を亡くしたディアを五年間家に置いてくれた人だ。

「オヤジもたまに歌ってた。…すっげぇ下手くそな子守唄」

「へぇ…どんなの?」

「下手すぎて元がわからねぇ」

寝苦しい夏の夜などに、当時七つか八つだったディアに歌って聞かせてくれたもの。ディアがもういいと言っても最後まで歌っていた。

「おかげで余計寝苦しくなった」

「そんなこと言うなよ、せっかく歌ってくれたんだから」

火にかけた鍋がカタカタと音を立てた。予想よりもずっと早く湯が沸いたようだ。

アクトは立ち上がって台所に戻り、調理を再開した。

 

ディアはその姿を見ながら、死んだ姉を思い出す。

両親が仕事で滅多に帰ってこなかったので、兄と姉が自分の世話をしてくれていた。

姉は家事をこなし、寝る前はやはり子守唄を聞かせてくれた。

それはオヤジとは違い、綺麗な優しい声だったことを覚えている。

――ディア、眠れないの?また歌ってあげようね。

五つくらいの時はそれですぐ寝付いていた。

そのうち歌は必要無くなり、そのまま兄も姉も死んでしまった。

両親はその前に亡くなっていて、一人になったディアは育て親に会うまで路上で暮らした。ほんの数日の間だったのに、妙に寂しかった。

「アクト」

「何」

今は呼べば答えてくれる人もいるし、故郷にはオヤジもいる。

大切な仲間もたくさんできた。辛い時は支えてもらい、相手が辛い時は支えようとしてきた。

「俺、生きてて良かった」

「何だよ急に」

「ちょっと思ったんだよ。兄貴と姉貴が死んだとき、俺も一緒に死んでたら…俺はオヤジともお前とも会えなかったんだよな」

「グレン達にも、カスケードさんやツキさん達にも、な」

アクトは鍋をかき混ぜるのを止め、蓋をして火を止めた。

料理は完成したらしく、いい匂いが漂ってきた。

「それはおれも同じだ。父さんと母さんが死んで、その時おれも死んでたら…もしくは叔母さんの家でそうなるか、軍に入らずにいたら…」

食器棚を開ける音に続き、皿やコップのぶつかり合う音がした。

「色々なことが重なって、色々な人に会えた。

中にはろくでもない奴もいたけど、良い同僚に会えたことにはすごく感謝してる。

あの時こうして良かったんだって思える」

テーブルの上に食器が並べられ、準備が整うと、アクトはさっきと同じ体勢になる。

ディアとの距離は、さっきよりもずっと近い。

「お前に会えて良かったよ、ディア。

人がこんなに温かいものだって教えてくれて、ありがとう」

寄り添った身体に、ディアはほんの少し驚いて、それから笑った。

「随分素直なんだな、今日は」

「素直じゃ悪い?」

「いや、全然」

そっと肩に手をかけて引き寄せる。

温もりが全身に伝わる。今までの事全てを肯定してくれるような、優しい温もりが。

「あとどのくらい一緒にいられるんだろうな」

「さぁ…。でも軍退役するまでは嫌でも一緒にいるだろ」

「それまで一緒にいられなかったらどうするんだよ」

「そんなことは考えたくない」

いつかは覚悟しなければならないことも、まだ先だからと考えないようにする。

いや、まだ先であって欲しいという願望だ。

どちらにしても平均退役年齢が二十代後半であるこの国の軍では、すぐに別れは来てしまう。

危険が伴う仕事であることを考えれば、最悪の事態も常に考慮に入れておかなければならない。

実際に大切な人を失ったものを知っているからこそ、考えなくてはならなくて、考えたくない。

別れるならもっと先で、両者とも幸せな状態で。

それは我侭かもしれないが、一番の願いだ。

「…アクト、さっきの歌…歌ってくれよ」

「さっきのって…さっきの?」

「あぁ、さっきの」

願いは叶うかどうかわからない。こればかりはどうしようもできない未来だから。

だからせめて今、繋ぎとめておきたい。心に今を残しておきたい。

失ったはずのものが今でも心に残っているのだから、それが永久の記憶となることは確信している。

「歌えよ。…聴かせろ」

「命令?」

「命令だ」

たとえ何かに引き裂かれても、想いと記憶は何者にも壊せない。それは絶対の自信をもって言える。

「…わかった。でも今はだめだ。先に夕食にしよう」

 

上司は相変わらず夕食のために訪れて、

「よ、また来たぞ」

「いらっしゃい、カスケードさん」

「来なくて良いっつってるだろうが」

夕食は相変わらず美味しくて、

「貰い」

「この野郎!それは俺のだっつってるだろ!」

「不良が取るの遅いんだろ」

「不良って言うんじゃねぇ!」

「まだあるから落ち着け。何で静かに食えないんだよ」

会話は相変わらず楽しくて、

「そうだ、不良の分の書類ちゃんと取っといてやったからな」

「何でそんなもんばっか取っとくんだよ。この全体青上司」

「お前のためを思ってやってるんだぞ、不良」

「いらねぇよ!」

「ディア、大人しく仕事しろ。カスケードさんもあまりこいつにやらせないで下さい。こいつがやると書類の字汚くて読めないから」

「…アクト、後で泣かすからな」

「やれるもんならやってみれば?」

そんな相変わらずの毎日がいとおしい。

「じゃ、ごちそうさん」

「またおいでよ、カスケードさん」

「もう来るなよ、カスケード」

大切な人と過ごす毎日がいとおしい。

 

毎日の記憶の中に刻み付ける一つ一つは、これからも絶対に忘れられないもの。

仕草も、表情も、温もりも、

歌声も。

忘れたくない。何があっても。

 

歌声は遠い日に響いていく。懐かしい昔にも、まだ見ぬ未来にも。