澄んだ歌声は空に響き、どこまでもどこまでも流れていく。

 

「あれ?ギターなんて弾けるんだ?」

クローゼットの隅に立てかけておいたギターケースに気付いて、ツキが言った。

久々に見る黒い箱は、うっすらと埃をかぶっていた。

「うわ、懐かしいな…。ずっと弾いてないんだ、これ」

カスケードは適当な布でケースの埃を払い、電灯の下に持ってきた。

だいぶ古く見えるそれに、ツキは軽く触れる。ざらついた感じがした。

「いつの?」

「物自体は二十年位前のだな。弾かなくなったのは五年前」

 

たまには話でも、と昼間カスケードが誘い、ツキは軍人寮を訪れた。

元々職場には自宅通いなのであまりここには来ないが、知人の多くがここで生活していることは知っている。

食事も食堂に行けばとれるし、何かあれば寮母にすぐ連絡できるし、便利な場所ではある。

男が一人暮らし(部屋が二人用なのでそうなっている者は滅多にいないが)するにはうってつけではある。

しかしツキには料理上手な弟がいて、家で待っていてくれる。寮に入る必要はないが、来る度に面白い所だな、とは思う。

今日はたまたまカスケードの部屋に来て、たまたまギターケースを見つけたのだった。

「弾けるのか?」

「どうだろうな。弦は合わせれば何とかなるだろうけど…」

「そうじゃなく、あんたが」

カスケードは暫く考え、ケースを見つめる。

いつもならここですぐ任せとけ!と言って蓋を開けるのだろうが、このギターに限ってはそうもいかないようだ。

「五年前、って言っただろ」

「あぁ」

途切れ途切れの言葉に不思議に思いながらも、ツキは頷く。

「ニアが死んでからなんだよな、弾いてないの」

「…そっか、五年前って…」

ツキは言われて漸く思い出した。

カスケードの親友であるニアは、五年前に殉職したのだ。

カスケードは今でもそれを悔やんでいて、何かあるごとに「あとで後悔しても遅いんだ」と言っている。

その言葉は一度聞いたら忘れられない、重くて大切な言葉だ。大切な者を失った者だからこそ、説得力がある。

その大切な言葉のもとになった親友がいなくなってから一度も弾いていないギターということは、それにまつわる大切な思い出でもあるのだろう。

「上手かったのか?」

「いや、そんなに。

…でもニアは褒めてくれたな。俺が弾いてニアが歌ってくれるんだ。綺麗だったな、ニアの声は…」

親友の話をしているときのカスケードは楽しそうで、幸せそうで。

けれどやはりどこか哀しそうな表情を含んでいる。

「…弾いてくれないか?」

思い出させると余計表情を作らせてしまうだろうかと思いながらも、そう言ってしまう。

「…下手だぞ」

「弾いてくれるのか?」

「弾けって言われたらとりあえずは弾いてみる」

ケースの蓋に手をかけ、留め金を外していく。

ツキはそれを見ているふりをしながら、カスケードの表情を見ていた。

いつもと同じ、普通の状態。作ってはいないようだ。

少しだけ安心して、合わせられていく音を聴いた。

何故か懐かしい感じがした。

 

カスケードは当時十二歳で、漸く伍長昇進話が出たところだった。

それはニアも同時で、寧ろニアのおかげだった。

カスケードの技能とニアの頭脳で一つだった。

上司が大きな箱を抱えてきたあの日も、二人は一緒にいた。

「インフェリア、ジューンリー、どっちかこれ使わないか?」

インフェリアはカスケード、ジューンリーはニアだ。

二人が振り向くと、上司が黒い大きなギターケースを持っていた。

「これっすか?」

「あぁ、新しいギター手に入ったんだ。どうだ、やってみないか?」

そうは言われても、彼等は楽器を扱えない。ギターの弾き方など全く知らない。

上司はそれを察してか、教えてやるから、とギターケースを押し付けた。

「ニア、お前手先器用だし、出来るんじゃないか?」

カスケードがギターケースを抱えなおしながら言う。ニアは慌てて首を横に振り、

「僕はギター向いてないよ。カスケードが弾いたら?きっと格好良いよ」

と笑った。

「…本当にそう思うか?」

「思う、思う」

ニアの笑顔には勝てない。

それに加え、いくらかの好奇心。

「…よし、やってみるか!」

単純だが、これがきっかけだった。

その日から上司にギターを習い、少しずつ弾けるようになっていった。

その度毎にニアが褒めるので、カスケードのやる気はますます向上した。

 

弦を合わせて一通り弾く。

年月に負けない、澄んだ音がした。これが二十年前のモデルだとは信じがたい。

「弦も張り替えてないんだ。どれだけ使ってなかったかわかるだろ?」

「あぁ…普通は伸びきったり切れたりするみたいだけどな」

ツキは感心しつつ半分は呆れている。

弦を弾かせてもらうと、指に軽い圧力がかかる。

「何弾ける?」

「昔の曲。…知ってるか?これ」

カスケードはギターを抱えなおし、弦の上に指を滑らせて音を響かせた後、今度は丁寧に指をかけた。

 

ギターを始めて一年もすれば、ある程度の曲くらいは弾けるようになった。

休みの日などは部屋にニアを呼び、簡単な曲を演奏してみせた。

ニアは黙って聴いていて、終わると必ず拍手を送った。

「だいぶ上手くなったね!さすがカスケード」

「そんな褒めると調子乗るぞ?」

「いいよ、調子に乗って。ね、もう一回弾いてよ」

ニアのリクエストに応え、カスケードは再びギターを奏で始めた。

曲には元々詞がついていたが、カスケードはそれを知らなかった。だからその時は本当に驚いたのだ。

ギターと重なる綺麗なメロディーが部屋に満たされる。

声変わりを迎えていない高い声は、どこまでも届きそうだ。

感情を込めて歌うニアの横顔も、窓から差し込む夕陽に照らされて普段以上に綺麗だ。

聴き惚れ見惚れつつも、カスケードは最後まで曲を弾き終えた。

「…すげー」

「え、何が?」

「ニアの歌。上手い」

それ以上言いようが無いほどだった。

無理に表現しようとすれば壊れてしまいそうなくらい儚い感じがした。

ニアは恥ずかしそうに笑って言う。

「ありがとう。カスケードのギターのおかげだよ」

それからカスケードの伴奏にはいつもニアが歌をつけていた。

寮の壁は薄いため、男子寮中にハーモニーが響いた。

「二人とも上手ね。今度食堂で皆の前でやってみない?」

寮母のセレスティアも大絶賛するほどだった。

互いに褒めあい、互いのおかげとして、二人は奏でていた。

 

曲は甦る。演奏すれば何度でも。

けれどもあの歌声が戻ってくることは無い。

今はギターの音色だけが虚空に響く。

何かが足りないギターの歌を、ツキは黙って聴いていた。

無表情で奏でる指は、せわしなく動くだけ。

 

カスケードとニアは十七歳の時に寮の部屋が同じになった。

ニアがカスケードの所へわざわざ行かなくとも、ギターの音色は流れた。

ニアはそれに合わせて歌う。

声変わりが終わって以前よりもほんの少し低くはなったが、安定した綺麗な声。

曲は一番初めにニアが歌ったもの。

「これ、旅の歌だよな」

歌詞を聴く限りでは、列車か何かで異国の駅に着いた時を歌っているようだ。多分、一人旅。

「夕方みたいだね。夕陽の街に降り立って、ふと過去を振り返ってみたり…。ちょっと切ないね」

「…そうだな」

旅人はどこへ行き、どんな運命を辿るのだろう。

哀しい思い出を背負い、どのように出会いどのように別れるのだろう。

「…僕達も、いつか別れなきゃいけないのかな」

ニアがふと口にする。寂しそうな横顔。

「なわけないだろ!俺達はずっと一緒だ。親友だろ?」

カスケードは思い切り否定し、ニアに手を伸ばす。

ニアは一瞬目を丸くし、しかしすぐにいつもの笑顔に戻った。

「そうだね。…ずっと一緒だよね、僕達」

親友の手を、そっと握り返して。

「ねぇ、もう一回弾いて。もう一回歌いたい」

「よし、わかった」

夕陽に溶けるハーモニーは、それが最後だった。

それ以来ギターはクローゼットに眠り、五年経って漸く再び箱の外を見たのだ。

 

「良い曲だな」

音が止んで、ツキは呟く。昔どこかで聴いたような覚えもあるが、はっきりとは思い出せない。

寧ろこの曲は思い出さないほうが美しいかもしれなかった。

「…やっぱニアの声がないと物足りないな」

哀しそうな笑顔で言うカスケード。

求めるものは五年も前に得られなくなってしまった。

代わりなんて誰もいない。ニアは一人しかいないのだから。

「もう一回弾いてくれないか?」

「え?」

思わず訊き返した。

ツキからアンコールがあるとは、思ってもみなかった。

カスケードは困惑しながらも、承諾した。

「わかった。…でも、もう一回だけな」

「一回で良いんだよ」

指は再び弦に触れ、振動は空気になり空気は音となる。

音は人に届き、耳を伝わり安らぎを与える。

八小節目で、響きは重なった。

空気と吐息は溶け合い、新たな風を流した。

 

夕陽の街の駅は、きっと美しい街並みが見える場所だったのだろう。

その美しさは昔を思い起こさせる。悲しみを伴い、涙を落とし、別れの時を甦らせる。

そこにいない者へ想いを馳せれば、笑顔が見える。

見えるのに届かない。

だから届く場所へ旅をするのだろうか。それとも…

 

「…言っとくけど、俺はニア君の代わりに歌った訳じゃない。俺は俺が歌いたくなったから歌ったんだ」

ツキの言葉に、カスケードは静かに頷く。

「あぁ、ツキはツキだ。ニアじゃない。

…わかってるよ、そんなことは」

ギターは箱の中に横たわる。再び陽のない所へ収まる。

「歌ってくれて嬉しかった」

ケースは蓋を閉じられ、クローゼットの隅へと運ばれた。次はいつまで眠るのだろう。

「そういやよく知ってたな、この曲」

クローゼットの扉を閉める音が部屋に響いた。

「知ってたっていうか…曲はどこかで聴いたことあったんだ。

でも歌詞はさっきまで思い出せなかった」

「じゃあ何で歌えたんだよ」

「…さぁ?」

首を傾げるツキと、怪訝そうな表情のカスケード。

心の中にはもしかすると、という考えもあったが、二人とも口にはしなかった。 

曲が甦れば、それで良い。

思い出を振り返ることが出来れば、それで良い。

新しいハーモニーが生まれたから、これで良い。

今楽しいなら、それでいい。

 

さぁ、そろそろ旅立とうか。

前を向いて、歩き出そうか。