僕がこの世に生まれた時、目の前で目玉焼きとにらめっこしてるその人は、すでに存在していた。

四年分の経験値がこの人に一体何を与えたのかはわからない。

確かなのは、その間にお母さんの焼く目玉焼きはすでにかたくなっていたということだ。

僕はというと、かたい目玉焼きはもそもそしてあまり好きじゃない。

それを言ったときから、この人と僕の食事を始めるタイミングは一緒じゃなくなった。

今も、そう。

お母さんと呼ぶ対象は以前とは異なる。

でも、僕とこの人の時間がずれるのは変わらなかった。

 

「お兄ちゃん、食べないの?」

今日のずれは特にひどい。

僕が食事を終える頃になっても、この人はまだ目玉焼きとにらめっこしているのだから。

「いや…やっぱり半熟は食べる気にならないな、と」

近所から貰ってきた産みたて新鮮卵。

僕はこの人の好みを知っていながら、わざと半熟の目玉焼きしか作らなかった。

お母さんがいれば、ちゃんとかた焼きにしたのかもしれない。

昨日から南の方に住んでいるお姉さん(本当は従姉だそうだ)のところに行っていて、帰ってくるのは明日になるらしい。

お父さんはさっき会社に行った。寝坊したから、今頃怒られてるんじゃないかな。

そしてこの人――お兄ちゃんは、珍しくお休み。今日はずっと家にいる。

だからって、目玉焼きを見つめ続けて過ごすのはどうかと思う。

「自分で加熱すればいいのに」

「火加減は?」

「そんなの様子を見て調節すればいいじゃない」

そういえば、お兄ちゃんって台所立ったことあんまりないんだ。

僕はいつもお母さんのお手伝いをしてるから、ほとんど感覚でできてしまう。

でも。

「お兄ちゃんもたまには自分でご飯作りなよー。じゃないと僕が大変だよ」

お母さんが出かけてから、お父さんを台所に入れてはいけないということが良くわかった。

でもお兄ちゃんなら、まだ改善の余地がある。

…そういえば、この焦げてしまった壁はどう言い訳しよう。

「ユロウ、俺が作るのとお前が作るのと、どっちが確実に美味いと思う?」

「わかんないよ。だって、お兄ちゃんやったことないじゃない」

「だったらわかってるユロウの方がいいに決まってるだろ」

「だーかーらー、お兄ちゃんが何にもやらないから…」

これじゃいつまで経っても解決しない。

僕がやってしまえば早いんだろうけど、それじゃお兄ちゃんのためにならない。

目玉焼きもできないようじゃ、僕もお母さんもいないときどうするんだろう。

あれ?前にこの質問をしたら、「食べ物買ってくる」って言われたんじゃなかったっけ。

じゃあ、こうしよう。

「お兄ちゃん一人で、お金も無かったらどうするの?」

「そのときはそのとき」

真面目に考えてくれない。

そうこうしているうちに、せっかくの目玉焼きが駄目になってしまいそうだ。

仕方なく、僕は半熟の目玉焼きをフライパンに移す。

まったく、お兄ちゃんは好き嫌いが多いんだから。

しかも細かい。これじゃお嫁さんが泣いちゃうよ。

…あ、そうか。これだ。

「いーってやろーいってやろー」

「…何」

「お兄ちゃんが僕任せで何にもしない上に好みがうるさいって、グレイヴちゃんに言う」

お兄ちゃんの顔色が変わっていく。

これ、けっこう面白いかもしれない。

「い…言うったって、接点なんか」

「言ってなかった?日曜日のお買い物は、グレイヴちゃんとよく会うんだよ」

よく、と言ってもそうなったのはつい最近のこと。

偶然会った時に、いつどの時間帯で買い物に来るかをお互いに話した。

好きな女の子にかっこわるいところをばらされるのは、さすがのお兄ちゃんも耐えられないはず。

「それともホリィ君に言って、広めてもらっちゃおうかな」

「なんでその名前が出てくるんだ」

「元同級生だもん。今でも連絡取ってるよ」

僕は学校を辞めて、ホリィ君は軍人学校にいっちゃったけれど、まだ仲は良い。

今や立派な軍人さんである彼は、一応お兄ちゃんの部下という事になっている。

「ね、どっちがいい?」

「どっちもやめてくれないか」

「じゃあ自分でやってよね」

場所を明け渡す。火は調整してあるし、できないなんてことは無いはず。

流し台の前にお兄ちゃんが立っているという珍しい光景を見ながら、僕はちょっと昔のことを思い出していた。

 

僕たちの本当のお父さんが病気になったとき。

本当のお母さんは僕たちを今の家に連れてきた。

両親と離れて暮らさなければならないことが、僕はとても不安だった。

そんなとき励ましてくれたのは、この家のお父さんとお母さん、

そして、お兄ちゃんだった。

小さい頃から僕をずっと守ってくれたお兄ちゃん。

遊んでくれたり、本を読んでくれたり、ずっと一緒にいてくれたお兄ちゃん。

学校で虐められた時、慰めてくれたお兄ちゃん。

僕にとって、とても大きな存在。

そのお兄ちゃんが今、僕に言われて台所に立っている。

逆転してしまった立場を面白いと思いながら、

お兄ちゃんはもしかすると寂しいんじゃないかな、なんて…。

 

「できた…と思う」

「なんだ、お兄ちゃんもできるじゃない」

「弟に言われるなんて情けないな、俺…」

目玉焼きは焦げ付くことなく、ちゃんとかた焼きになっていた。

やっぱりお父さんよりはずっとちゃんとできる。

「ユロウ」

「なーに」

「お前もしっかり者になったな」

うん、昔に比べたらね。

でも、それって誰のおかげだと思う?

お兄ちゃんが一緒にいてくれなきゃ、僕は寂しくて動けなかったよ。

「半分食べていい?」

「俺の朝食なんだけど」

「お兄ちゃんが焼いたの食べたい!」

「…仕方ないな」

 

お兄ちゃんのおかげで、僕は頑張れるようになった。

怖いと思っていたものも、段々平気になっていった。

お兄ちゃんがいたから、強くなれた。

だからね、もう平気だよ。

平気だから…お願い。

このまま、優しいお兄ちゃんのままでいて。

僕と一緒にいてくれる、笑顔のお兄ちゃんのままでいて。

誰かを傷つけてしまうような、怖いお兄ちゃんにはならないで。

 

この穏やかな朝が、ずっと続いていれば。

僕はそれだけで幸せだから。

 

 

Fin