二年以上を経て、ついに出された異動命令。
いや、帰還許可といった方が正しいか。
それが下された日に、見慣れた封筒が郵便受けに入っていた。
「…お、アクトからだ」
こっちからはしばらく電話も手紙もごぶさただった。
けれども向こうからの手紙はペースを乱すことなく届いた。
故郷の様子を知る唯一の手段に、カスケードは機嫌を良くする。
「帰還のこと報せないとな…明日投函すれば来週までには着くはずだし」
しかし、それはつかの間のこと。
封を切り、便箋に目を通した瞬間に全ては砕かれた。
いつもの丁寧な字が語るのは、到底信じられない最悪の報せ。
「ナナツちゃん、ウィリク、」
傍らで談笑していた部下に、重いトーンの声で告げた。
「俺…明日の朝に発つ」
暖かいはずの東の十二月に、冷たい空気が走っていった。
飛行機が離陸した。
すぐにエルニーニャに着くだろう。おそらく、昼までには。
そうしたら、まずどうしたらいいだろう。
荷物はあとでイストラにいる部下が送ってくれる。届くのは多分明後日だ。
いや、考えたいのはそんなことじゃなくて…
そうだ、ニアの墓参りに行かなければ。リアが墓守をしてくれてたはずだ。
…そうじゃない、ごまかすな。
体が浮き上がる感覚。おかしくなってきた頭。
どうしてこんなことになったのか、考えられない。
違う。考えられないんじゃなくて、考えたくないだけ。
受け入れたくないだけ。
「どうして…」
昨日、手紙を見てからずっと繰り返している。
答えのない問いを、何度も何度も。
あの日、カスケードは大佐になって間もなかった。
親友ニアを失ってから、その意志を継ごうと走り続けてきた。
その結果が、この立場。
昇進するということは面倒が増えるということ。それを書類を見るまですっかり忘れていた。
「…うわ」
明らかに異常な量の、書類・書類・書類。
これを今日中に全て片付けろと上司に言われた。
「ニアがいればなぁ…」
冗談の独り言ほど哀しいものはない。
わかってはいるのだが、現時点で軍内部(特に上官)に敵が多いカスケードにとってはそれすらも心の支えだった。
「インフェリア、そっちのは片付けたら電話番に持っていけ」
「電話番…外部情報受付係ですね。了解しました」
外部情報受付係、通称「電話番」。
本来は第三小事務室という名称だが、軍の中ではそう呼ばれていた。
その名の通り外部から寄せられる情報を受け取り、取りまとめるのがそこでの主な仕事だ。
カスケードは今まで行ったことがなく、そのため場所すらあやふやだった。
どこだったっけか、と思い出そうとしても簡単には出てこないので、仕方なく書類に手をつける。
デスクワークは苦手だ。途中で眠くなる。
十五分も持たない集中力で、この量を片付けられるはずがない。
周囲から聞こえてくる声が、更に邪魔をする。
誰かが物を破壊したとか、誰かがまた仕事を成功させたとか、ひつじが柵を飛び越えて十二匹目だとか…
「…はっ!何だ今の!?ヤバい、寝てたのか俺?!」
幸い書類を汚してはいないようだが、集中力は三分も持たなかった。
今日中に終わる気がしない。
「あー…ニアがいればなぁ…」
いたら、きっと怒られる。
結局定時に帰ることはできず、暗くなった空をちらちらと見ながら作業を進める。
あと数枚。これさえ終われば帰れる。
「…じゃなかった、電話番いかなきゃな…」
まだ人がいるのかどうか疑わしいが、書類を置いてくればなんとかなるはずだ。
最後の一枚を終え、カスケードは深いため息をついた。
「漸く終わった…長い戦いだったな…」
共に修羅場を潜り抜けた戦友である万年筆を胸ポケットに入れ、書類を揃える。
珍しく他の残業者はいない(他の事務室がどうかは知らないが)。
「さて…電話番電話番っと」
書類の一部を片手に抱え、事務室を出る。
電話番はどこだっけか、と廊下でキョロキョロする姿は、はっきり言って非常に怪しい。
だから、この言葉が聞こえるのも当然といえば当然だったのだ。
「何やってるんですか?」
呆れの混じった敬語。
カスケードが聞いたことのない声だった。
目の前の男は、軍服を着ているからには軍人で、バッジを見る限り曹長。
しかし、どう見ても年齢は自分と同じくらいだ。
エルニーニャの軍人は十代から二十代の若者で構成されているため、同じくらいの年齢ならもう少し上の階級でもおかしくない。
カスケードが戸惑っていると、彼はすたすたと近付いてきて、
書類を取り上げた。
身長もそんなに変わらないんだな、などと思ったが、
「…って何するんだ?!」
言葉はしっかり出てきていた。
が、それは完璧にスルーされ、
「間違ってる。これとこれやり直してください」
厳しい言葉と共に、二枚の書類が返ってきた。
「あ、わかりました…ってそうじゃなくて!
お前…じゃなかった、あなたはどなたですか?」
カスケードの動揺した様子に少しも動じず、目の前の彼は質問に答えた。
「外部情報取り扱い係のキルアウェートです」
色の濃いブラウンの髪と黒い瞳が、海色に強い印象を残して映っていた。
「…はい、全部修正されてますね。お疲れ様でした」
ミスのあった二枚が受理されると、カスケードは一気に気が抜けた。
何しろ修正中、キルアウェート曹長はずっと後ろで待っていたのだ。
少しでもごまかそうとすれば、怒られることは確実だった。
「はぁ…本当に疲れた。
ええと、キルアウェート曹長でしたっけ。お待たせして申し訳ありませんでした」
「いいえ、仕事ですから」
書類を揃える曹長の表情は、とても真面目でしっかりしていて。
階級バッジが余計に不自然に見えた。
「失礼ですが、曹長はおいくつですか?」
聞いていいものかどうか考える前に、質問は外に出ていた。
しかし、答えもまたカスケードが考えるより先に返ってきた。
「二十五ですが」
「にじゅうご?!」
カスケードは現在二十三歳で大佐。
相手は二十五歳で曹長。
どんな事情があって、彼は曹長という立場にいるのだろう。
「二十五歳で曹長は低すぎると思ってますか?」
「いや…その…ただ珍しいなと…」
「種明かしをしましょうか。俺が軍に入ったのは結構最近のことです」
かすかに笑みを浮かべて、彼はあっさりと言った。
「会いたかった人がいたんです。だから俺は軍に入りました。」
「…あ、そ、そうか…」
言葉遣いなどすっかり忘れ、カスケードはぎこちなく言葉を発する。
目の前の彼は、自分よりも下の階級だけれど。
自分よりも、二年多く人生を経験している。
つまり、どう接したらいいんだろう。
「キルアウェート曹長」
「何ですか?」
「…えーっと…敬語、やめないか?」
もともと堅苦しいのは性に合わないカスケードだ。
ならばいっそ、こうしたらどうか。
「俺もお前も敬語やめて、普通にタメ口。その方が俺は楽だ」
この突然の提案に、キルアウェート曹長は目を丸くし、
怪訝な表情をして、
「…いいけど」
それから、笑った。
「よっしゃ、決まりだな!俺のことはカスケードって気楽に呼んでくれ。
えーっと、お前は…」
そういえばファーストネームを聞いていない。
それに相手も気づいたのか、何も言わずとも名乗ってくれた。
「ツキ・キルアウェートだ。…ツキって呼んでくれ」
それが始まりだった。
それから、彼の弟フォークに会ったり、
彼の「会いたい人」がリア・マクラミーであったことを知ったり、
食事を共にしたり、語り合ったり、時には飲みに行ったり。
仲間として信頼し、
親友として信頼した。
辛い時には助けてくれる、恩人だった。
彼のおかげでイストラに行き、
そして帰還も彼がきっかけで早まった。
「嘘だよな…」
ツキが人を殺したなんて。
「嘘に決まってる…」
それがニュースで流れ、世間一般に広まっているなんて。
「あいつがそんなことするはずない…」
当の本人は行方をくらまし、真実はわからない。
全ては闇なのに、人々は暗がりの中にあるものがなんなのかを決め付けている。
手紙の字から、少なくともアクトは信じていないとわかる。
僅かに震える筆跡が、はっきりとそう告げている。
仲間は誰も、こんな馬鹿げた話を信じていない。
信じるはずがない。共に戦ってきたんだから。
共に笑っていたんだから。
「待ってろよ…」
必ず真実に辿り着く。
そして、また笑いあうんだ。
「ツキは俺を救ってくれた大切な親友だ…
何が何でも守り抜いてやる」
懐かしい土地に飛行機が着陸する。
Fin