エルニーニャ東部の都、ハイキャッシ。
六年前、ここで奇妙な事件が起こった。
争うような声と激しい音、そしてその後の突然の静寂。
近所からの通報で乗り込んだ軍人達は、その異常な事態に焦りを隠せない。
「いたか?!」
「いや、どこにも…」
その家には軍関係者の男と、その家族が暮らしていたはずだった。
しかし荒らされた室内には誰一人として存在せず、ただ数滴の血痕が床に残されたのみ。
「何が…」
一人の女性隊員が、飾られた写真立てに問うように呟く。
「ここで一体、何が起こったの…?」
それに答えるものはない。
写真の中で笑みを浮かべる、家長の男とその妻、そして双子の娘達は、とうとう見つからなかった。
それから時は流れて、世界暦五二四年の初め。
ハイキャッシに設置されているエルニーニャ軍東方司令部に、賊が侵入したとの情報が入った。
冬の夜の、大胆な犯行。とはいえ、その目的は明確ではない。
だがその連絡を受けたエルニーニャ軍大総統ハル・スティーナには、その謎の答えが見えていた。
だからこそ、彼を大総統室へと呼んだのだ。
「閣下、今度は何でしょうか」
彼に直接命が下ることはそう珍しいことではない。
それには特別な事情があることも、今では多くの人間が知っている。
「うん、昨夜の東方司令部侵入の件を頼もうかなって」
こともなげに言ってのけるハル。その言葉に溜息をついたのは、彼と大総統補佐アーレイド・ハイルの二者。
「ハル、もうちょっと威厳をだな…」
「その話は後でね、アーレイド。…多分この事件が、君がエルニーニャ軍として関わる最後の大事件になるよ、ダイ君」
ハルが書類を手渡しながらにっこりと微笑むと、ダイ・ホワイトナイト大尉は苦笑してそれを受け取った。
冬だというのに晴れ渡った空。その下を東へ向かう列車が走る。
車内では三人掛けの席を向かい合わせにして、六人の少年少女が終点までの時間を過ごしていた。
「…でね、変わってるけどシンプルな装飾が、すっごく綺麗なの!」
アーシェが金色の長い髪をふわふわと揺らしながら、家族旅行の思い出を披露する。
彼女はメンバー中で唯一、この列車に終着まで乗った経験があった。
エルニーニャ東部の都、ハイキャッシ。それが列車の向かう先。
「外国の影響が強くて、独特の街並ができてるんだよね。描いてみたいなあ」
写真で見た風景の記憶とアーシェの話から、期待が高まるニア。
スケッチブックを持ってくればよかった、と呟いたところで、ルーファに小突かれた。
「遊びに行くんじゃないんだぞ。まぁ、絵は見たいけど…またの機会にしろよ」
「お、じゃあ今度はルーファが連れてきてくれるんだね!」
叱る言葉を茶化したレヴィアンスは、ルーファの溜息もお構いなしに笑う。
そんな周囲に迷惑をかけない程度の賑やかさの中、グレイヴは窓の外を物憂げに見つめていた。
彼女は必要な荷物とは別に、布に丁寧に包まれた箱のようなものを大事そうに抱えている。
「気になっていたんだけれど、それは何だ?」
「教えない」
ダイの問いにもそっけなく答え、視線はまったく動かない。
いつも通りだな、と思いながら、ハルから受け取った書類を見返す。
東方司令部で発生した事件の捜査の手伝い。
可能ならば、逃亡した賊を確保すること。
それがホワイトナイト班に任された仕事の一つ目。
今回の仕事はもう一つある。
ちょうど同じ頃、首都レジーナにある中央司令部の資料室で、一人の少年が呻いていた。
「あぁぁ!資料は全部図書室に移したんじゃねーのかよっ!」
とても整理されているとは思えないこの部屋には、中央部から離れた場所や国外の事件に関する資料が収められている。
もちろんゲティスもそれが目当てでここにいる。だが室内が余りにも雑然としていて、探し物がなかなか見つからないのだ。
飽きも手伝い、彼の手はますます動かなくなる。だがその隣では、彼の相方パロットが黙々と作業を続けていた。
先ほどからゲティスが奇声をあげる度、同じ台詞を繰り返す。
「大尉、早く調べろ、言ってた。見つけないと怒る」
「わかってるけどよー…ほんの六年しか経ってないのに埋もれるなんて、どれだけ重要度低い事件だよ」
彼らが探しているのは、六年前にハイキャッシで発生したとある事件の資料。
ダイは遠征に行く前、事件の詳細がわかったらすぐに連絡しろと言いおいていた。
「飽きすぎて事件名忘れた。なんだっけ?」
「ゲティス、不真面目。仕方ないから、パロ、教える」
「ごめんな、頼むわ」
ゲティスは忘れ、パロットはすっかり暗記してしまった、その事件につけられた名前。
それは忽然と姿を消した一家からとられたもの。
「サクライ一家失踪事件」
六年前、ハイキャッシの住宅街で、一家四人が失踪する事件が起きた。
軍に通報が来る直前まで、一家の住む邸宅が騒がしかったという。
何かあったのは間違いない。だが、それが何なのかは解明されていない。
当時まだ一大将だったハルとアーレイドも、この件にかりだされたという。
「大総統に直接聞ければ良いんだけど、忙しいだろうしな」
「…あ、パロ、思いついた」
「どうした」
現大総統から聞けないのなら、当時の大総統から聞けば良い。
そのことにパロットは思い当たったのだ。
「ゲティス、パロと資料探す。他の人、聞いてくれる」
「う…オレ資料探し飽きたんだけど…。仕方ない、こういう時の部下だしな」
見出した活路に少しだけ希望を取り戻しながら、ゲティスは大きく伸びをした。
「パロット、ドミノたちに頼んできてくれ。インフェリア前大総統から情報をもらって来いって」
ホワイトナイト班に任されたもう一つの仕事――六年前に起こった事件の詳細を調べること。
それが今回の事件とどう関係するのかを知っているのは、今のところ大総統と補佐官のみであるのだが。
東方諸国の文化を取り入れ、異国情緒をかもし出す街並。
エルニーニャで稼ごうと他国から移ってきた人々の生活風景も手伝い、まるで外国に来たかのようだ。
だがそれをのんびりと楽しんでいる時間は、到着したばかりのニアたちにはなかった。
何しろ急いで東方司令部に赴き、今回の事件に関する情報を入手しなければならないのだ。
「ほらな、スケッチブックなんかいらないだろ」
「うん、描いてる暇なんかないね」
「荷物にもなるしね…」
ルーファ、ニア、レヴィアンスの三人は、列車から降りるや否や荷物持ちを任されていた。
前方を行く身軽なダイと女子二人を恨めしそうに眺めても、荷物の重さは変わらない。
「アーシェとグレイヴはいいよ。でもなんで大尉まで…」
「レヴィ、何か言ったか?」
レヴィアンスは誰にも聞こえないように呟いたつもりだったが、ダイの耳はごまかせない。
「何か言ったの?レヴィ」
「え、ニアには聞こえてないのに何で…」
「お前な、俺のことなめてんのか?荷物持ちも訓練のうちだからな。いつもの砂袋よりは軽いだろ」
急げよ、と追い討ちをかけるダイは、手ぶらでにこやかだ。
一方こちらも手が空いているアーシェとグレイヴは、男子よりはある程度周囲の景色を楽しんでいた。
「可愛い店が並んでるわね。仕事じゃなければ、アーシェに髪飾りの一つでも買ってあげたいんだけど」
「ありがと。気持ちだけで充分嬉しいよ。…ところでグレイヴちゃん、その包みずっと持ってるよね」
グレイヴの手荷物を、アーシェも気にしていたらしい。彼女はその問いに、ダイに対するものとはまるで違う返事をした。
「大事に綺麗なまま持ってこないと、渡す相手に失礼でしょう」
「誰にあげるの?」
「そのうち解るわ」
にこりと微笑み、グレイヴは包みをきゅっと抱きしめる。
前方と後方の対照的なこの集団を、周囲は一体どう思っているのだろうか。
ルーファは一人そんなことを考えながら、道の先に見える大きな建物を見ていた。
レジーナにあるものよりは小さいが、この町での存在感は圧倒的。
装飾によって景観を保っているとはいえ、東方司令部の施設はやはり異様な雰囲気を持っている。
「ニア、もしお前がここの絵を描くとしたら、司令部も描くか?」
「え?…うーん、あんまり画面に入れたくないかな。大きすぎてバランスが良くないかも」
「だよな…」
東方司令部の建物は、最近改築によって大きくなったのだという。現在の東方軍大将がそれを推し進めていたはずだ。
大将の人となりが少し気になったルーファの耳に、ダイの声が届く。
「早く来い。遅くなればなるほど後が面倒だからな」
よく言うよ、と思ったが、レヴィアンスの先例を考えて口には出さずにおいた。
東方司令部の外観と内観には大きな差があった。
施設内部は中央とそう変わらない造りで、足を踏み入れた途端に現実に戻ってきたような気がした。
中に通され、ダイを先頭にして大将の執務室へと向かう。
荷物を事務に預け、漸くその重さから解放されたニアたちも、ここではそれを心から喜べない。
国内とはいえ、知らない土地の知らない建物。かかる重圧の質が違う。
「こちらが大将執務室でございます」
他の部屋よりも立派な扉の前で、案内役が立ち止まる。
ダイが礼を言い、後ろを振り返った。
「お前らは黙ってろよ。何も喋るな。何があってもだ」
いいな、と念を押して、扉を叩く。返答の後、その向こう側が徐々に目に入ってきた。
大総統室よりも広くはないが、質の良さそうな内装。
きょろきょろと見回したくなるのを堪えながら、ダイに続きルーファ、ニア、レヴィアンス、アーシェ、グレイヴの順に入室する。
「失礼します。中央司令部より参りました、大尉のダイ・ホワイトナイトとその部下五名です」
「遠路遥々よく来てくれた。心より感謝する」
落ち着いたダイの言葉に、応えたのは威厳のある姿と声。
立派な顎鬚を蓄えた中年の男は、エルニーニャ軍としては珍しいくらいの年長者に見える。
「私が東方司令部の長を務めさせてもらっている、トキマサ・イズミだ。今回は宜しく頼む」
「お世話になります」
イズミ大将が右手を差し出すと、ダイはそれをしっかりと握り返した。
その手が再び離れた時、すぐに任務の話が切り出される。
「きちんと歓迎してやりたいところだが、こちらも急いでいる。さっそく件について話そう」
「はい、お願いします」
事件が起こったのは一昨日の夜。司令部には夜勤が数名いるだけだった。
彼らの目撃証言によると、司令部三階に軍の者ではない人物がいて、こちらを見るなり建物内を逃走し始めたという。
それを発見した者と連絡を受けた者たちが、侵入者が階段を使って二階へ降りたのを追い、二階廊下で取り囲んだのだが。
「残念ながら逃げられてしまった。窓から飛び降りたらしい。その後行方が分からなくなってな」
「飛び降りたなら、窓の外にいるのでは?」
「確認した。近くの木も無論だ。だがそれは姿を消した。だから困っているのだ」
侵入者はそこから、霧が晴れるように突然消えてしまった。
奇術か、それとも幽霊か。そんな冗談を言いながらも、イズミの表情は真剣だった。
これは東方司令部の失態だ。何としてでも名誉を回復したい。
そう語る彼の言葉の裏にあるものに、黙って話を聞いていたニアは気付いてしまう。
ニアだけではない。ルーファやレヴィアンス、そしてアーシェにグレイヴも。
名誉挽回を掲げるなら、この件は東方司令部だけで解決したかったはずだ。しかし、おそらくは大総統がそれを許さなかった。
それが何故なのかは解らないが、少なくとも自分達は、東方司令部の人間にとっては歓迎したいものではなかったのだろう。
そう考えると、ダイが自分達に黙っていろと念押しし、さらには部下を一人ひとり紹介するようなことをしなかった訳も理解できる。
レヴィアンスは姓こそ違えども大総統の子、そしてニアは前大総統の実子。名乗ることで相手の持つ中央の印象を悪くする恐れがある。
今回の任務は監視などではなく、あくまで捜査協力であり、こちらが主導権を握ってはいけない。
だが、そうすると大総統の人選そのものに矛盾が生じてくる。
湧き続ける疑問。しかしそれを壊すように、ドアが乱暴に開け放たれる音が響いた。
「オッサン!どういうことだよ!?」
音と共に、声。振り向けば、そこには若い軍人の姿があった。
逆立った赤い髪、左目の下には切り傷の痕。着崩した軍服には、彼が大尉であることを示す階級バッジ。
見た目も行動も、彼が真面目な軍人であるとは語ってくれない。
彼は客人を一瞥し、それから真っ直ぐにイズミのもとへ来、怒鳴った。
「オッサン、これは俺の仕事だ!中央の奴なんかいらねぇ!」
「レックス、失礼だろう。下がれ」
「下がってられるか!大体こんな…」
レックスと呼ばれた彼はダイを見、一瞬言葉を切る。
だがすぐにイズミに向き直り、声を張り続けた。
「こんな優男、役に立つかよ!あとはガキばっかりで、使えるわけがねぇだろうが!」
「な、」
横柄な物言いに、レヴィアンスが思わず口を開きかける。だがダイに睨まれ、一歩下がって唇を噛んだ。
その間も協力拒否の声が止むことはない。苛立ちながらも、レヴィアンスたちには何をすることも許されていない。
「そういうわけだから、さっさとコイツら中央に帰せ。この仕事は俺のなんだからな」
「申し訳ありませんが、そうはいかないんですよ」
漸く言葉が途切れたその瞬間、狙っていたかのようにダイが攻めに入った。
「こっちは大総統からの命でこちらに赴いてるんです。俺たちの仕事を片付けなければ、帰るわけにいきません」
「じゃあこれで終いだ。お疲れさん」
「こっちの仕事の詳細も知らないくせに、勝手なことを仰らないで下さい。
それと役に立つかどうかはこちらの働きを見てから判断していただきたい。
あなたが今ガキと言った彼らも、実力があるからこそ連れてきている」
「実力ったって伍長ならたかが知れてる。邪魔なだけだ」
「どうでしょうね。俺の仕事などと言うからには本件を担当しているんでしょうが、一日経っても解決できないような無能が言える台詞ですか?」
「無能だと?!」
徐々にダイの口調から慇懃さが消えていく。
本来ならば管轄外の土地で問題を起こしてはならないことは、ダイもわかっているはずだ。
イズミですら止めに入ることができず、二人の言い合いは続くかと思われた時だった。
「失礼します!今はそんなこと言ってる場合じゃないんじゃないですか?!」
彼をよく知っている人間ほど、予想できなかっただろう。
この騒ぎを鎮めたのは、ニアだった。
「僕達がここにいることをよく思わないのはわかります。でも、そんなことより事件を解決する方が大事でしょう?
大尉も、僕達に黙ってて欲しいならちゃんとしてくれないと困りますよ!」
静まりかえる大将執務室。肩で大きく息をし、ニアはダイと赤毛の大尉を交互に見る。
それから一言、
「…失礼しました」
そう言って、レヴィアンスのしたように一歩下がった。
すると不意に拍手の音が部屋に響く。イズミが半ば呆けたまま、手を叩いていた。
「いやいや…威勢が良いな、中央の伍長殿。大事なことを思い出させてくれて、感謝する。
君、名は何というのだ?」
ニアはダイを見る。都合上、名乗っても良いものか分からない。
判断を託されたダイは、息をついて答えた。
「彼はニア・インフェリアといいます。
この髪と眼でお分かりかもしれませんが、前大総統カスケード・インフェリア氏の子です」
それを聞いたイズミの表情が硬くなるのを、ニアは見逃さなかった。
謝罪とともに退室した彼らの耳に届くのは、この騒ぎを聞いていたと思われる東の軍人達の噂話の声。
中央に比べ、やはり地方は蔑ろにされがちだ。その鬱憤もあってか、周囲の目はますます冷たくなる。
加えて、この男の存在がある。
「お前らの仕事はないからな。早く帰ったほうが身のためだぜ」
イズミによると、赤毛の彼の名はレックス・ナイト。東方司令部の大尉で、喧嘩っ早く問題を起こしやすい人物だという。
だが頼れる兄貴分として司令部内では人望があり、今回の件を担当することへの反対意見はなかったらしい。
それでも第一印象が最悪であることには変わりない。
「こんなすぐに帰ってたまるか。お前を黙らせないと気が済まない」
執務室を出たので、ダイは敬語をやめていた。それが感情の発露を助長し、二人の間は一層険悪なものになっていた。
「あ、あの…大尉、そろそろ行かないと」
アーシェが恐る恐る発言すると、ダイは表面上だけ笑顔を作る。
「そうだな。馬鹿に付き合っている暇は無い」
「言ってろ、邪魔者が」
互いを睨み、別れる。
これからの捜査に不安を抱きながら、ニアたちは東方司令部をあとにした。
一方その頃中央では、パロットから指示を受けたドミナリオたちが行動を開始していた。
「お久しぶりです、インフェリアさん」
「よ、センちゃんとこの」
「その呼び方は止めてください」
前大総統であるカスケードから話を聞くようにとのことだったが、彼はちょうど司令部に訪れていた。
そこでドミナリオたちが事情を話すと、すぐに会議室へ足を運んでくれた。
「サクライ一家失踪事件だろ?六年前ハイキャッシで、一家四人が姿を消した件。
うちからハルとアーレイドが捜査の手伝いに行ったけど、結局進展なし…ということになっている」
話を始めてすぐに、カスケードの語り方に引っ掛かりがあった。
オリビアが即座に反応する。
「ということになっている、って…本当は違うんですか?」
「あの時アーレイドがずっと機嫌悪くてさ。どうしたのか訊いたら、中央の人間には関係ないからって捜査を拒否されたらしい。
結局、協力的な一人から話を全部聞いて、それだけで帰されたみたいだな」
「それ、捜査になってないじゃないっすか!」
自分の事のように悔しがるホリィをオリビアが宥め、その間にドミナリオが先を促した。
「それで、聞いた話っていうのは?」
「失踪したのが軍の人間で、当時仕事を一つ抱えてたってこと」
その仕事こそ、今回の任務がホワイトナイト班に任された理由の一つ。
「でもそれが今回の侵入事件に関係してるんですか?」
「さあな。ただ捜査拒否した奴が、その後東方司令部のトップになったんだよ。
失踪したサクライ氏とは仲が良かったらしい」
そこまで話したところで、会議室のドアが開かれた。
駆け込んできたゲティスは、カスケードに一礼してから、ドミナリオの肩を掴む。
「ドミノ、あった。当時の資料、やっと見つけたぞ!」
「遅いですよ。あの人の機嫌が悪くなったら、ゲティスさんの所為ですからね」
情報は今夜中にダイに伝えられそうだ。
後輩達が胸をなでおろすその光景を、カスケードは微笑ましく思い眺めていた。
中央と同じように、東方司令部にも寮がある。
ハイキャッシ滞在中はその空き部屋を借りられることになっている。
外観内装ともに落ち着いた雰囲気で、さっきまでのギスギスした空気も忘れさせてくれそうだった。
「良いところだね、グレイヴちゃん」
「…そうね」
「ん?」
アーシェはグレイヴの顔を覗き込み、何故か彼女が緊張していることを覚る。
どうしたの、と訊ねようとして、グレイヴがまたあの包みを大事そうに抱えていることに気付いた。
「なんか緊張してるみたいだけど、それと関係ある?」
「ちょっとね」
寮と荷物に何の関係があるかはまだわからないが、普段あまり見られない従姉の姿に、自然とアーシェの頬が緩む。
「がんばれ」
「…うん」
二人が話している間に、ダイが管理人室の呼び鈴を押す。
それに応えて出てきたのは、薄桃色の髪の女性。彼女は客人を見て穏やかに微笑む。
「レジーナの皆さん、ようこそハイキャッシへ。寮の管理をしているサーヤ・リータスです」
ここに来て初めて、心から歓迎されたような気がした。
「初めまして、リータスさん。中央司令部のホワイトナイトです」
ダイが握手をしようと右手を伸ばしかけたその時だった。
前に進み出たのは、彼女。
「リータスさん、トウゲンさんはご在宅ですか?アタシ、ダスクタイトの娘です!」
いつもならこんな行動は絶対にとらないであろうグレイヴが、焦ったように言う。
驚きで声の出ないダイたちとは対照的に、リータスは瞳を輝かせた。
「まぁ、あなたがブラック兄さんの?そっくりなのね!」
「あ、あの…彼女の父を知ってるんですか?兄さんって一体…」
漸く一言搾り出したダイに、サーヤはにこにこしながら言った。
「うちにあがってくださいな。この子ともゆっくりお話したいわ」
一同は戸惑いながらも言葉に甘え、管理人室もといリータス家に足を踏み入れる。
室内には小さな女の子と、厳格そうな老人がいた。
「紹介しますわ。この子は私の次女、クレリア。そしてこの人は私の父であり剣の師匠である、トウゲン・ミナトです」
幼い少女は祖父に隠れながら小さく頭を下げ、老人はただ真っ直ぐにグレイヴを見る。
視線を向けられたグレイヴは緊張しながらも、丁寧に礼をした。
「初めまして、トウゲンさん。ブラックの娘、グレイヴと申します。あなたが父の剣の師であると伺いました」
ダイがこっそりアーシェに目配せするが、彼女は首を横に振る。
どうやらこの事はアーシェも知らなかったらしい。
ニアたちなどは全然話についていけず、ぽかんとしていた。
「…ブラックは、腕は立つができの悪い弟子だった」
トウゲンが唐突に話し出すと、グレイヴは頷いて返す。
「父から聞いています。あなたの流儀に沿わなかったために、破門になったと」
「奴は憎しみだけで刀を扱っておった。儂がせっかくやった刀を血に染め、錆びさせた。だから破門にした」
「アタシは父に代わり、その時のお詫びをしに参りました」
グレイヴは抱えていた包みをトウゲンに差し出し、再び頭を下げた。
「これは今の父の気持ちです。…受け取ってはくれませんか」
大事に抱えていたのは、それが父の師への想いだったから。
緊張していたのは、父と師の間の溝が埋まるものかどうか分かりかねていたから。
アーシェが、そしてダイたちが理解すると同時に、トウゲンは包みを受け取った。
「娘、儂は中央に行ってからの奴の噂も聞いておる。すると随分変わったそうではないか。
向こうで自分の道を定めなおしたらしいな」
トウゲンが厳つい顔を綻ばせると、グレイヴにも漸く笑顔が浮かぶ。
彼女のここでの仕事が、一つ終わったようだった。
サーヤが是非にと誘ってくれたこともあり、夕食はリータス家でとることになった。
「私は寮の子達の食事も用意しなきゃならないから、同席はできないのだけれど…ごめんね」
「いえ、こちらこそ忙しいのにすみません」
実際、これはありがたかった。司令部で騒ぎを起こした後に、寮の食堂に平気で顔を出すなどできそうにない。
万が一レックスと再会してしまったら、ダイがどうなるかもわからない。
サーヤが寮内の食堂へ行ってから、グレイヴとアーシェがトウゲンを手伝って食事の準備をする。
そしてニアたちはクレリアの遊び相手。拙いお喋りを聞いていると、東方司令部の人々の冷たい噂話などまるでなかったようだ。
「そういえば、サーヤさんはクレリアを次女って言ってたよね。お姉ちゃんがいるの?」
レヴィアンスが訊ねると、クレリアは元気良く頷いた。
「うん、いるよ!お名前はね、」
舌足らずな少女の言葉をちょうど遮って、玄関のドアが開く音がした。
それに反応して、クレリアがぱっと立ち上がって走り出す。
「おねえちゃんだ!おかえり!」
「ただいま、クレリア」
居間に入ってきたのは、母や妹と同じ薄い桃色の髪の少女。身長はレヴィアンスと同じくらいだ。
彼女は客の姿を見止め、あ、と小さく声をあげた。
「もしかして、レジーナから来た人?」
「そうだけど…」
「やっぱりね」
少女はニッと笑い、自己紹介を始めた。
「あたしはエトナリア・リータス。この家の長女で、未来の有能新聞記者だよ」
「有能?」
「なによ、文句あるの?もさもさ赤毛」
「もさもさって何だよ!」
レヴィアンスとエトナリア。見た目が同じくらいの二人が言い合う姿は、子どもらしくてホッとする。
先ほどまるで可愛くない対立を繰り広げていた張本人でさえ和んでいるように見えた。
雰囲気がほんわかしたところで、ニアが言う。
「エトナリアちゃんっていうんだ。エトナちゃんって呼んで良い?」
「良いよー。レックス兄ちゃんもそう呼ぶし」
その名前が出た瞬間、和んでいたはずのダイの表情が固まる。
「エトナは、その…レックス・ナイトさんと知り合いなのか?」
おそるおそる、ルーファが問う。
エトナリアはそれに当たり前のように答える。
「レックス兄ちゃんとは仲良しだよ。いつも遊んでくれるし」
さらに、彼女はニヤリとして続けた。
「あなたたちがレックス兄ちゃんと喧嘩したことも知ってるよ」
「喧嘩じゃないよ。仕事上の意見の食い違いって奴だ」
すぐにダイが返すも、その目は笑っていない。
ルーファやレヴィアンスならそれ以上何も言えなくなるところを、エトナリアは怯まず言う。
「レックス兄ちゃん、すっごくイライラしてたよ。あんな兄ちゃん見たの、久しぶりかも」
しかも、何故か彼女は楽しそうなのだ。レックスがイライラしていることも、客の機嫌があまり良くないことも、全て面白がっているようだ。
食事中もレックスの話題を提供し続け、にやにやしていた。そこまでくると、もうダイも笑って話を聞くしかなかった。
ニアたちの腹が満たされ、レックスについての情報も聞き出し、そろそろ借りる部屋へ向かわなければならない時間になった頃。
サーヤが仕事を終えて戻ってきて、客人らに提供する部屋を示してくれた。
「男の子に二部屋、女の子に一部屋用意してあるわ」
「ありがとうございます。…じゃあ、ニアは俺と来い。ルーファとレヴィで一部屋使え」
話し合うまでもなくダイが部屋割りを決め、移動を始める。
女子はサーヤに、男子はエトナリアに案内され、それぞれの宿泊場所へと向かった。
「ここがダイさんとニアさん、その隣をルーファさんと赤もさが使うと良いよ」
「だから、赤もさってのやめろよ…」
口を尖らせるレヴィを宥めながら、ルーファは指定された部屋のドアを開ける。
前もって掃除された部屋で、ゆっくりと体を休められそうだ。
「ではダイさん、おやすみなさい。ニア、夜更かしするなよ」
「わかってるよ。おやすみ、ルー、レヴィ」
「おやすみー」
「明日に備えておけよ」
二つのドアが同時に閉まり、仕事を終えたエトナリアは踵を返そうとする。
だが、それを再び開いたドアからダイが呼び止めた。
「エトナ、一つ聞きたい」
「なに?」
「レックスがこれまで、危険薬物関連事件に関わったことはあるか?」
エトナリアに訊ねても仕方ないことだ。彼女は寮管理者の子とはいえ、軍の人間ではない。
だがあれだけレックスのことを知っているのならば、もしかすると答えがもらえるかもしれない。
彼女はその問いに、はっきりと答えた。
「ないよ。間接的に関わったことはあるかもしれないけど、直接担当したことは一度もない」
「そうか、ありがとう」
明確な否定だった。充分すぎるほどの答えだ。
ダイがおやすみ、と言うと、エトナリアは手を振りながら同じ言葉を返した。
そのやりとりの間に、ニアはダイの頼みどおり、中央司令部へと電話を繋いでいた。
「大尉、ゲティスさんが出ましたよ」
「どうも。…さて、上手く見つけられたかな」
受話器を受け取り、ダイは中央に残してきた者たちからの報告を聞く。
その間、ニアは昼間のことを考えていた。大将執務室での出来事や、東方軍人達の冷たい視線のことを。
浴室から出てきたグレイヴに、アーシェは開口一番その問いを投げかけた。
「ね、あの包みって何が入ってたの?」
どういう目的で持ってきたのかは分かったが、中身は不明のままだ。
グレイヴも今度はもったいぶらずに回答した。
「牡丹餅。トウゲンさんの好物らしいわよ」
「叔父さんってハイキャッシにいたことあったのね」
「入隊はこっちだったの。中央に異動になるまでは東方軍に在籍してたんだけど、当時の父さんは荒れてたから。
もし大将室でアタシが名乗ってたら、邪魔が入るまでもなく、すぐに出て行けって言われたかもしれない」
ダイが黙っているように指示したのは、ニアやレヴィアンスのためだけではない。
そもそもホワイトナイト班のほぼ全員が、時に有利に使え、時に大きなハンディキャップとなる事情を抱えている。
それにも拘らずこのような任務を与えられるのは、この班の実績のためか、それともこれが特別な事件であるためか。
「アーシェ、侵入してきた賊の目的は何だったと思う?」
今度はグレイヴの問い。アーシェは即座に用意していた答えを口にする。
「何か仕掛けをするためか…もしくは軍の機密か、保管している押収物だと思う。
すぐに逃げたみたいだから、まだ機会はあるのかも」
「もし押収物の回収なら、回収したかったものって何かしら」
ホワイトナイト班に回される、特別な事件。
危険薬物関連事件に執着するダイに、少しでも関係のある件を大総統は任せている。
本来遠征任務には、それが国内であったとしても、伍長の部下を連れて行くことなどありえない。
それが実現しているということは、今回の人選にはダイの抱える事情を知っている人間であるということが優先されている可能性が高い。
「でも、東方司令部側は賊の目的が分からないんでしょう?それなのに危険薬物が関わっているって、大総統さんはどうしてわかるの?」
「押収物は必ず中央にリストを作って届け出なければならない。分からなくても、疑うことくらいはできるんじゃない?」
「それを疑うことなら、東方司令部の人たちにもできるよね。何も話してくれないってことは…やっぱり私たち、信用されてないのかな」
もしもホワイトナイト班が何の事情も抱えていないメンバーだったとしたら、東方司令部の人々は捜査を快く手伝わせてくれただろうか。
中央と地方に乖離が存在する限りは、誰が来ても同じだったかもしれない。
それを無くすことは難しい。国ができたときに生まれた問題が、今でも完全に解決できていないのだから。
「信用も信頼もないなら、アタシたちがそれを作り上げるのに貢献するしかないでしょう。
国レベルは大きすぎるけど、個人レベルならどうにかできるはずよ」
「…そうだね。叔父さんとトウゲンさんも、グレイヴちゃんを通じて仲直りできるんだもん。
私たちを通じて、レジーナとハイキャッシの関係が少しでも良くなればいいね」
まずは、とにかく動くこと。そうでなければ始まらない。
頑張ろう、と二人は手を叩きあった。
レヴィアンスはベッドの上でごろごろと転がりながら、今日一日を振り返る。
ハイキャッシに到着してから、今こうしてくつろぐまでに、色々なことがありすぎた。
「疲れない?ルーファ」
「え?…あぁ、そうだな」
ルーファはといえば、先ほどから紙に何か書き込んでは考え込んでいる。
覗き込むと、それが東方司令部の施設見取り図であることがわかる。二枚の紙のうち、片方が増築前、もう片方が現在のものだ。
「何してるのさ」
「東方司令部は最近増築されたばかりだ。工事は結構前からしてて、少しずつ建てていったみたいなんだ」
工事が始まったのはイズミが東方司令部の長に就いてからだ。司令部施設の利便性を考慮して、ということだったらしい。
「レヴィ、これは俺の素朴な疑問なんだけど、軍施設の見取り図って描いてない場所もあったりするのか?」
「あるんじゃないかな。乗っ取りとかを防ぐために、一般には公開してない部屋とか…もしかしたらそこで仕事をしている人たちも知らない場所があるかもね」
現在の見取り図には、そこにあるはずの部屋がないというような不自然な点がいくつかあった。
レヴィアンスの言うとおりなら、それについての情報は東方司令部の人間に直接聞かなければわからないだろう。
「見取り図がどうかしたの?」
「言ったろ、素朴な疑問だよ。賊の侵入経路とか、どこに行こうとしていたのかとか、そういうのが分かればと思って見取り図を見てたらな」
「やる気あるね」
「当たり前だろ。俺だってあのレックスとかいう人には腹が立ってるんだ」
いきなり役立たずよばわりされて、捜査には参加させないという意思を突きつけられた。
そんな理不尽なことに対して何も言えなかった自分にも腹が立つ。
「それに、イズミ大将…あの人、部下たちが言い合いしてるのに何もしなかった。
あのまま問題起こして帰ってくれれば良いって思ってたんだ、きっと」
「…なんか、ルーファがそういうこと言うのって珍しいね」
レヴィアンスが笑いながら言った。
「ニアが大尉の言いつけ破っちゃったからだろうけど。どうせなら自分が逆らっておけば良かったなんて思ってるんじゃない?」
図星だというように俯くルーファに、さらに重ねる。
「ルーファには悪いけど、あの場はニアじゃなきゃだめだったよ。本当はニアも黙ってて、イズミ大将が治めてくれるのが一番良かったんだけどさ」
「どうしてニアじゃなきゃだめなんだよ」
「インフェリアだから。大総統の姓を名乗るってことは、相手の行動を抑制することに繋がるからね。
あ、ボクはだめだよ。今の大総統はスティーナであって、ハイルじゃない」
ルーファは納得したように頷く。追い出されずにここにいられるのは、間違いなくニアのおかげだった。
「俺にできることってないのか?」
「あるよ。ニアだけがあの場を治められたように、ルーファだけができることもある」
「それって、何なんだ?」
「自分で見つけなよ。ニアだってそこまで自覚してやったわけじゃないでしょ」
レヴィアンスはそれに気付いている。でもルーファ自身は分からない。
もどかしい思いをしながらも、ルーファは再び見取り図に向き直った。
何が役に立つのかわからない今、こんなことでも足しになるかもしれない。
「何にしろ、俺たちは俺たちの仕事をするしかないんだな。ダイさんが言ったように」
「そうだね。…まぁ、ボクも今回はお母さんの考えてることが分からないから、どう動いたらいいのか見当もつかないんだけどさ」
レヴィアンスは苦笑し、天井を見た。
自分自身に何ができるのか、彼もまた自分で考えなければならなかった。
「…じゃ、また頼んだ。こっちは動きにくいからな、まだまだ頑張ってもらう」
その言葉を最後に、ダイは受話器を置いた。
それまでの一部始終を、ニアはベッドに座って聞いていた。
「なんだ、シャワー浴びなかったのか」
「すみません…何かそんな気分じゃなくて」
俯くニアの隣に、ダイが座る。
そしてその手で青い髪を撫でた。
「え、なんで…」
いつ怒られるのかと思っていたニアにとっては、意外な行動。
しかしダイには全くそんな様子はなかった。
「怒られると思ってただろ」
「…はい」
「安心しろ。最初からイズミ大将がこっちに不都合な行動をしたら、お前かレヴィの立場を使ってコントロールするつもりだったんだ。
まさにその時動いてくれて、本当に助かったよ」
言っていることは不穏だが、それでもあの行動が間違ってはいなかったのだと言ってくれていることは確かだ。
「でも、やっぱり言いつけを破りましたから。ごめんなさい」
「あぁ、赦す」
「…ありがとうございます」
ニアの頭を軽く叩いた後、ダイは立ち上がり、荷物の中から書類を取り出した。
大総統から受け取った、あの書類。それと、先ほどの報告をメモした手帳を見比べ始める。
「ニア、俺が情報を整理している間に汗を流してこい。戻ったらまとめたものに目を通してもらう」
「はい!」
誰よりも早く情報のまとめを知ることができる。そのことに少し興奮しながら、ニアは浴室へと駆け込む。
それを確認してから、ダイは眉間にしわを寄せた。
ゲティスたちに調べものを頼んだはいいが、こちら側での情報も必要だ。
だが自らのイズミの前での失態や、レックスの存在が、情報収集の障害となってしまった。
もとより他の人間には期待していない。あの様子では、誰もまともに取り合ってはくれない。
だから今重要なのは、少数でも確実な情報を提供してくれる人間。
かつてハイキャッシで一家失踪事件が起こった時、捜査協力を拒否された中央の人間に情報をくれた人がいた。
当時東方軍に在籍しており、高い地位にいた人物。立場のおかげで、退役した現在も有力な情報に手が届きやすい。
現時点で頼れるのは、彼女だけだ。
「大尉」
「あぁ、出たか。俺が風呂にいる間に目を通しておけ」
ニアにメモ書きを手渡し、ダイは入れ替わりに浴室へと向かう。
受け取ったものを読みながら、ニアは壁の向こうに話しかけた。
「大尉、もう一つお礼を言いたいんです」
「何だ」
「僕達を、実力があるから連れてきているって言ってくれたこと。嬉しかったです」
返事はなかった。そんなつもりはなかったのか、それとも柄にもなく照れているのか。
ニアはちょっと笑って、すぐに真剣な表情で紙面を見た。
月明かりがカーテンの隙間から射し込んでいた。
そこから逃れるように、少女は部屋の隅でうずくまる。
「少し動けるようになったんだな」
優しげな少年の声に頷き、彼女は立ち上がろうとする。
しかし膝が思い通りに動かず、すぐに座り込んでしまった。
「無理するなよ。大丈夫だ、俺が何とかしてやるから」
温かな手が頭を撫でる。忘れかけていた感触を思い出させてくれた手だ。
自由にならない体を恨みながらも、この時が続けばどんなに幸せかと思う。
けれどもそれは許されないのだ。大切な人たちを残して、こんなところにいつまでもいられない。
その焦りも見抜いて、彼は言う。
「お前は俺が守る。お前の家族も俺が守る。…俺が絶対に、助けてやるから」
こうしている間にも、残してきた人たちは辛い目にあっている。
最悪、殺されているかもしれない。
それでも彼を信じたかった。
六年ぶりに、彼女は他人を信じたいと思っていた。
「中央の奴らには絶対に渡さねぇ。全部俺に任せろよ、カヅキ」
「…はい」
動けない彼女には、それしか術はなかった。
ニアを目覚めさせたのは鳴り響く電話だった。
受話器を取ると、元気な声が耳に飛び込んでくる。
「おはよう!ニアさんかな?ダイさんかな?」
「ニアだよ。おはよう、エトナちゃん」
エトナリアは朝食を管理人室でとってはどうかと誘ってくれたのだ。
レックスのことを知っていた彼女なら、昨日の顛末を全て聞いているだろう。
その上で、食堂で食事を取ることを避けられるように配慮してくれたのかもしれない。
「大尉、起きてください。エトナちゃんが朝ごはん食べにおいでって」
「ん…、そうか、遠征だからユロウじゃないのか。おはよう、ニア」
「おはようございます」
この人はいつも弟に起こしてもらっているんだな、と思い、ニアはクスリと笑う。
寝起きは頭が回っていないため、ダイがそれを察することはなかった。
簡単に身支度を整えて部屋を出ると、タイミングよくルーファとレヴィアンスに会う。
挨拶をかわし、リータス一家の住む部屋へ向かおうとすると、アーシェとグレイヴを連れたエトナリアが出迎えた。
「おはよう、皆。それと赤もさ」
「おはよう。朝から随分だよね、ピンクのもふもふ」
他に人はいなかった。エトナリアによると、大半はまだ部屋から出てこないという。
移動の時間も彼女が調整してくれたようだ。
「エトナは軍のことをよく知ってるんだな」
「まぁね。お母さんも軍人だったし、軍の人とは仲良いよ」
ダイの言葉に明るく答えるエトナリアだったが、その発言に驚いたのはレヴィアンスだ。
「え、サーヤさんって軍人だったの?」
レヴィアンスだけではない。ルーファ、アーシェ、グレイヴも目を丸くしている。
「あ、お母さん言ってなかったの?クレリアが生まれるまでは東方司令部少将だったんだ」
だから余計に軍人たちからの信頼は篤い。
中央からの客人を招いても、誰も文句は言えないほどの立場もある。
そのことをダイとニアは昨夜のうちに知っていた。
現時点で情報を得るには、彼女の力が不可欠だ。今日中に聞けることは全て引き出さなければならない。
「大尉、エトナちゃんにも協力してもらうんですか?」
「当然だ」
「…あまり無理させないでくださいよ」
ニアが心配だったのは、ダイがエトナを利用しすぎないかということだった。
情報源となるサーヤの娘であるだけでなく、東方軍の様子を知る手がかりにもなる。
目的達成の為に手段を選ばないところがあるダイが、この幼い少女を使わない理由がない。
だが彼女は一般人だ。危険なことに巻き込んではいけない。流石にそれをわかっていないということはないだろうが。
朝食後、ダイはその場で今日の予定を発表した。
リータス家の人々には協力してもらわなければならないため、聞いてもらった方が都合良い。
「俺はイズミ大将と…レックス・ナイトにあたってみる。駄目で元々、だけどな。ルーファは俺について来い。
ニアとアーシェ、それからグレイヴはサーヤさんから話を聞いてくれ。
レヴィはエトナと仲良くすること。以上!」
「ちょっと待ってよ!何でボクだけ仕事無いのさ?!」
最後だけが明らかにおかしい指示に、レヴィアンスが猛反発する。
ところがダイは真面目な表情で返した。
「何を言ってる、これも立派な仕事だ。エトナから情報を引き出しておけ」
「…わかったよ」
一応は重要なことであると理解し、レヴィアンスは渋々引き受けた。
そこへ傍で話を聞いていたトウゲンが口を挟む。
「ダスクタイトの娘には、ちと用事がある。儂に預けてはくれんか」
「えぇ、構いませんよ」
これに目を丸くしたのは当のグレイヴだ。トウゲンの用というのも気になるが、申し出を即許可したダイにも驚きを隠せない。
「いいの?」
「いいさ。トウゲンさんが何か知っているなら、それを聞くのも仕事のうちだ」
これで全員のポジションが決まった。
ダイとルーファは東方司令部へ、グレイヴはトウゲンに連れられて寮の庭へ、ニアとアーシェ、そしてレヴィアンスはここに留まる。
どれほどの情報を入手できるかは分からない。昨日のうちにいくつかの道を塞いでしまった。
それでも真実に近付きたい。それが自分たちの仕事だから。
寮の庭はトウゲンが整えているという。彼が作り上げた見事な庭園の隅には、剣の修行に使われていると思しき藁束が積まれていた。
「刀を見せてくれまいか」
「どうぞ」
トウゲンはグレイヴから刀を受け取り、隅々まで眺めた。
グレイヴの使用している刀は、名匠スティーナ翁の作だ。トウゲンはそれが分かると、ゆっくりと頷いた。
「これなら、奥義を伝授しても差し支えないな」
「奥義…ですか?そんなこと父からも聞いていませんが」
「昔の奴には教えておらん。だが今なら教えても良い。…いや、是非とも受けてくれ」
父の思いはトウゲンに伝わったのだ。グレイヴはその言葉をそう受け止め、しかし、首を横に振る。
「いいえ、父が教わっていないものをアタシが教わるわけには…」
「父に教えるも娘に教えるも同じだ」
志を継いでいるのなら、受ける権利は充分にある。
寧ろこれを、父への答えとして返したい。
トウゲンのその思いに、グレイヴは背筋を伸ばす。
選択肢などない。道はこれ一つだ。
「…では、よろしくお願いします。必ずものにしてみせます」
「奴の娘ならば可能だ。では、参ろうか」
二人を取り巻く空気が変わる。
まるで糸が何重にも張り巡らされ、その全てが緊張を保っているかのようだった。
一仕事終えたサーヤは、ふぅ、と息をつく。
彼女にはこれから、もう一つやらなければならないことがある。
幼くもしっかりとした、軍人の目を持った少年と少女が、彼女に問う。
「それでは、お尋ねします。…サーヤ・リータスさん、あなたが四年前まで東方司令部少将であったというのは、事実ですね?」
ニアの言葉に、サーヤは頷いた。
「えぇ。軍に在籍していた頃は旧姓を名乗っていましたから、正確にはサーヤ・ミナト元東方司令部少将です」
彼女は諜報を担当する、実力のある女性将官だった。
結婚し、エトナリアが生まれてからも、その力を発揮して軍の活動に大きく貢献した。
そして現在でも、寮の管理人という立場にありながら軍内部の情報を耳に入れることができる特別な人間だ。
さらに彼女は、あの事件にも深い関わりのある人物だった。
「あなたは六年前、サクライ一家失踪事件の捜査に参加していましたよね」
サーヤの肩がびくりと震える。
それにただならないものを感じたアーシェは、こっそりとニアに訊ねた。
「サクライ一家失踪事件って?」
「六年前にハイキャッシで起きた、家族全員が消えてしまった事件。
昨日ゲティスさんたちに調べてもらってたんだって」
サーヤはその関係者であり、そこで重要な役割を果たしていた。
「そうね。捜査に参加し…情報を中央の方々に流しました」
当時レジーナから送られた捜査員、すなわちハルとアーレイドは、東方側から捜査への参加を拒否された。
だがサーヤだけは彼らに捜査情報を与え、間接的な立場でもいいからと協力を求めた。
それは彼女にとって、この事件が何としてでも解決しなければならないものであった為に他ならない。
「失踪したサクライさん…えぇと、家長のソライチさんは、私たちの同僚だったの。とても親切で、温かな人だった」
失踪した彼は、いや、彼らはサーヤにとって大切な人だった。
苦楽を共にし、分かち合った、大事な友だった。
「私は多くの人に協力してもらうことで、サクライ家の人々を早く見つけたかった。
けれども、トキマサさんは私と逆の考えを持っていたの。自分の力で彼らを見つけたいって…」
彼女の言うトキマサという人物は間違いなく、現東方司令部長トキマサ・イズミ大将のことだ。
彼ら三人は仲が良く、特にサクライとイズミは互いを切磋琢磨しあう良きライバルであった。
だからこそ、イズミはよそ者に事件を譲りたくなかったのではないかとサーヤは言う。
「トキマサさんは頑固なところがあるから。どうしても自分でソライチさんを助けたかったのね。
だけどとうとう一家は見つからないまま、こうして六年も経ってしまった…」
今でもサクライ一家はどこかで生きていて、ある日突然帰ってくるのではと思うことがある。
しかし心の中では諦めの気持ちもあり、それが浮かんでは必死で打ち消す毎日だった。
「事件の少し前、トキマサさんはソライチさんと喧嘩したみたいだったの。
だから早く謝りたいんじゃないかしら。ずっと後悔していると思うわ」
「喧嘩してたんですか?」
アーシェが首を傾げると、サーヤは困ったように笑った。
「その少し前に、二人が担当していた事件があったの。それについて意見が食い違っていたみたいね」
ニアが、いや、ダイが本当に知りたかったのはその先だった。
イズミとサクライの二人が担当していたその事件こそ、ホワイトナイト班がここへ来た理由。
「その事件、危険薬物関連事件ですよね」
ニアの発言に、サーヤは息を呑み、アーシェはハッとした。
「…そうよ。ある危険薬物の取引を、二人が突き止めたの」
だがサーヤはこの件に関わっていないため、それ以上のことはわからない。
従って、二人の意見の食い違いについても詳しいことは知らなかった。
「ただ、その食い違いとソライチさんの失踪の所為で、この件はまだ決着していないのよ。
取引はその時に中止させたけれど、問題の危険薬物が押収されたのは最近になってから。
首謀者も取引相手もいまだに不明のまま、捜査は保留になっているんです」
「最近押収されたんですね…」
アーシェは昨夜のグレイヴとの会話を思い起こす。
あの推測はきっと間違っていない。自分達がここに来た理由は、危険薬物が関連している可能性がある為だ。
ニアはそれを昨夜のうちに知っていて、ダイの、さらには大総統たちの考えをここで言うことが許されていた。
「その押収された薬物を狙って、賊が侵入した可能性は?」
「あり得るでしょうけど、それなら一つ問題があるの」
「問題?」
それは致命的な問題。そして、その解答は最も真実に近い。
この薬物押収については一般公表されておらず、本来ならば軍関係者のみが知りうる事実である。
また押収された薬物の在り処は軍でも一握りの人間しか知らず、相手が軍の人間であっても洩らすことは許されない。
この問題を乗り越えて危険薬物を狙うためには、その一部の軍人の中に、情報を漏洩した裏切り者がいる可能性を認めなくてはならない。
一夜明けた東方司令部は、昨日と変わらずよそよそしい雰囲気だ。
その門を堂々とくぐるダイの後ろを、ほんの少し萎縮しながらルーファがついていく。
「ダイさん、どうして俺なんですか?」
ダイの指示に疑問を持ったのはレヴィアンスだけではない。
ルーファもまた、自分がダイと一緒に行動するのは何故かと気になっていた。
「イズミ大将から話を引き出すなら、ニアの方が良いんじゃないですか?」
「誰が行ってもあの人は話さないだろう。それにニアは昨日のことがあるから駄目だ。
相手の行動を抑制するってことは、ボロも出にくくなったってことなんだからな」
「あ、そうか…」
この言葉通り、再びイズミに会っても追加情報はなかった。
大将執務室からは早めに切り上げ、次の目的であるあの男を捜す。
イズミもこの件はレックスに任せてあると言って、今まで以上のことは何も喋らない。
ダイは舌打ちし、廊下を見渡した。あの特徴的な赤い頭は見えない。
「ルーファ、お前を連れてきた理由の続きだけどな」
「続き?」
「お前だけが凡人だからだ」
「え」
一瞬、いつものように貶されたのかと思った。しかしダイの表情を見る限り、そうではないらしい。
今、彼の言う「凡人」とは、東方司令部に大きな影響を与えない人間という意味だった。
「俺は中央で特別扱いを受けている。ニアとレヴィは大総統の子。
アーシェは祖父さんの事がばれると一大事。グレイヴは親父さんが元東方軍在籍者、しかも評判は悪かった。
でもお前はただの薬屋の息子だ。たとえ大会社の御曹司だとわかっても、そっちも単なる家具メーカーだから問題ない」
わざわざその人選をしたのはダイさんじゃないか、と言いかけたのを飲み込みながら、その意図を読み取る。
誰もここで自由に動けない。誰が動いても相手にプレッシャーを与えるか、弱みを握られるか。
だが自分にはその弱点が無い。実は暗殺者の子でした、などという突飛な話も、ここでは誰も知る由もない。
それを理解し、ルーファは指示を仰ぐ。
「俺はここで何をしたら良いんですか?」
「侵入者を目撃した人間に話を聞いてこい。詳しい特徴が知りたい。
ついでにイズミ大将の評判とか、レックスの噂とか、危険薬物関連で何かなかったかとか…そこまで聞ければ上出来だ」
最後の項目がダイにとって一番重要なことなのだが、中央の人間に対してそこまで語ってくれる人はなかなかいないだろう。
余り期待はしていない、と言われたが、ルーファはそれでも少し嬉しかった。
自分じゃないとできないことが、早速見つかったのだから。
「俺、行ってきます」
「上手くやれよ。何も収穫がなかったら、砂袋をいつもの倍担がせてハイキャッシ中を走らせる」
「…そうならないように頑張ります」
ダイなら本当にやりかねない。ルーファは急いで聞き込みに向かった。
そしてそこに残されたダイは、ちょうど向こうからやってきた赤毛の男を見つけ、再び舌打ちした。
ルーファが最初に向かったのは事務室だった。当日夜勤だった人物に焦点を絞り、その中で情報を引き出しやすそうな者を呼び出してもらう。
階級はできるだけ自分に近い方がいい。軍曹が一人夜勤メンバーにいたのは好都合だった。
やってきた少年がそれほど厳しそうな雰囲気ではなかったのも救いだ。
「あんたか、中央の人って」
「はい。ルーファ・シーケンス伍長です」
「伍長で遠征ってすごいな」
「…上司命令なので」
「…大変そうだな」
日頃の苦労が顔に出たのか、相手はルーファに同情的だった。
自分も毎日下っ端として苦労しているんだ、というような話もしてくれた。
「いっつもオレに当たるんだよなー、うちの上司」
「うちもです。機嫌が悪いとすぐに俺を威圧してくるんです」
「苦労してんな、お互い。早く仕事済ませたいだろうから、オレが協力できることは何でもしてやるよ」
どうやら苦労性同士気が合ったようで、彼はルーファが中央の人間だということを余り気にせず、当日のことを語ってくれた。
話を聞いていくうちに、彼こそが侵入者を発見した人物であったことが判明し、ルーファは自分の運の良さに感謝した。
「侵入者ってどういう人だったんですか?」
「えーっと…細かった。痩せてるけどスタイルは良かったから、つい見惚れた」
「女性だったんですか?」
間違いなく女だよ、と頷く彼。イズミは一言も教えてくれなかった情報が手に入った。
そのことをルーファがつい口にしてしまうと、相手は苦笑する。
「だろうな…これ内緒だけど、大将って今の大総統のことあんまり好きじゃないらしい。
詳しくは知らないけど、昔ちょっとあったみたいなんだ」
あまり好きではない人間の指示を受けて来た者たちには、情報を与えない。
子どもの喧嘩のような行動が、レジーナとハイキャッシの間に溝を作っている。
溝を埋めるためにも、早いうちに仕事を片付けたいとルーファは改めて感じた。
「もう一つ、レックス・ナイト大尉についてお伺いしたいのですが」
「ナイト大尉はオレたち下っ端の憧れだ。上司連中と喧嘩ばっかりしてるけどな。
部下や町のちびっこにはすっごい優しい人なんだぜ」
ルーファたちの第一印象とはまるで違うレックス像を、彼は持っていた。
横暴で融通の利かない人物だと思っていたが、どうやら普段の彼はそうではないらしい。
そういえば、エトナリアもレックスのことを自慢げに話していた気がする。
どれが本当のレックスなのか、何があって自分達にはあのような態度をとったのか。
考え込む前に、最後の問いを投げかけなければならない。
「これで最後なんですけど、最近危険薬物関連で何か動きはありましたか?」
「さぁな。そんな重要案件、下っ端に教えてくれるわけないし。
たださ、噂では大将がでっかい薬物保管庫をこの施設内に作ったらしい。どこにあるかは知らないけどな」
軍施設には見取り図に描かれない部屋がある可能性を、レヴィアンスは肯定してくれた。
そしてそれが薬物保管庫である可能性を、目の前の彼が提示してくれた。
この情報で、ダイは満足してくれるだろうか。少なくともルーファ自身には、充分すぎる収穫だった。
「ありがとうございました。助かります」
「苦労人同士、困った時はお互い様だって。寮のリータスさんも、中央の人にできるだけ協力するよう呼びかけてたし」
感謝すべき人は多い。恩を返せるよう、全力を尽くさなければ。
ルーファはもう一度彼に礼を言い、ダイのところへ戻ろうとした。
レックスはダイを見つけると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「また来たのかよ。何度来てもお前らにやる仕事はねぇ」
「だからこっちはこっちの仕事があるんだっての」
ダイもレックスとはできるだけ関わりを持ちたくないのだが、事件を担当している人物なのだから仕方がない。
それに加え、ダイはレックスを疑っていた。露骨に協力を断るその態度の裏には、きっと何かがあるはずだと考えている。
隠していても仕方が無いので、それを率直に伝えることにした。
「レックス・ナイト、俺はお前が気に食わない。何故なら今回の事件について隠しごとをしているからだ」
「んなもんしてねぇよ。言いがかりつけるんじゃねぇ、おぼっちゃんが」
「言いがかりかどうか調べさせてもらいたいね、なぁ鶏冠頭」
その言葉はレックスにとって禁句だったらしい。彼はダイの胸倉を掴み、睨みつける。
「今、何つった?」
「その頭、鶏冠みたいだよな。三つ歩いたら忘れるような、バカそうなお前によく似合ってるよ」
ダイが笑顔でその台詞を言い切ると、レックスは握った拳を振りかぶった。
素早く胸倉を掴む手を引き剥がし、その拳をかわす。
通り行く人々が、その光景を目に留めていく。
「ここで殴り合いは止さないか。どこかちょうど良い場所があるだろ?」
「いい度胸じゃねぇか。中庭まで連れて行ってやる」
すでに捜査は関係なかった。二人とも、とにかく相手を殴りたかった。
会った時から気に食わない。優劣をはっきりさせなければならない。
そのための一番簡単な方法が喧嘩だと、両方が思っていた。
東方司令部の中庭は、冬ということもあり殺風景だった。
薄く積もった雪を踏み、両者は向かい合う。
睨み合い、視線がかち合い、地を蹴ったのは同時。
先に殴りかかったのはレックスだったが、ダイはそれを受け流し、膝でレックスの腹を狙った。
しかしレックスの方も喧嘩慣れしていて、膝を容易にかわすとダイのバランスを崩しにかかる。
互いに一度も触れることはないが、体力は確実に消耗していく。
だが見物客が次第に増えていくことで、両者は動くことを止められなくなっていく。
どちらかが倒れるまで、拳を振り上げては空気だけを裂き、蹴りを繰り出せば雪だけが散るのを繰り返す。
永遠に続くかと思われたループは、ダイがレックスの拳を眼前で受け止めたところで、漸く停止した。
「気にいらねぇんだよ、お前」
レックスが言う。
「俺もお前が気に入らない。うちの親父に似てて腹立つ」
ダイが理由をつけて返す。
「お前が俺の尊敬してる人に見た目が似てるってだけで、胸糞悪ぃ」
レックスも相手への第一印象を告げる。
「中央の奴なら知ってんだろ?ノーザリア危機や南方のことくらい」
尊敬している人が、誰かということも。
ダイは一瞬目を見開き、しかしすぐに嘲笑を浮かべた。
「知ってる。その人間が尊敬されるなんて笑い話にもならないってこともな。
その人と似てるって言われるの、俺すごく嫌なんだけど」
レックスの拳とダイの手が離れる。
拳はそのまま、開かれていた手はきつく握り締められ、振りかぶったそれは相手の左頬へ一直線に叩き込まれる。
同時の衝撃には、優劣などつけられない。どちらも感じる痛みは、これまで経験した中でも確実に上位に入るもの。
よろめき、地面に座り込んだのはどちらが先だったのか。その光景を見ていた誰もが、その判断をつけられなかった。
雪に触れている部分に冷たさを感じても、それに構わず空を見上げ息を吐く。
見物客もぞろぞろと捌けていき、後に残った二人はもう一度最初の会話を繰り返す。
「何か隠してるだろ」
「隠してねぇよ」
「隠してることも忘れたのか、鶏冠頭」
「黙れ、性格最悪男」
左頬が熱を持っている。歯が折れるまではいかなかったが、それでも痛いものは痛い。
先にダイが立ち上がり、衣服に付着した雪を払う。
「俺はお前らを疑っている。東方司令部の内部に、侵入事件を仕組んだ奴がいると思っている。
お前らが真実を話さない限り、その考えを絶対に曲げないからな」
その言葉にレックスが勢いよく立ち上がる。その顔には怒りがあった。
「内部犯ならなおさらだ、こっちで決着つける!よその奴が勝手に疑うんじゃねぇ!」
再び睨み合い、もう一試合始まるかと思われたその時だった。
ルーファが中庭のダイを見つけ出し、駆け寄ってくる。
レックスはそれを見て舌打ちし、二人に背を向けた。
「何かあったんですか?…って、凄い顔になってますけど?!」
「うるさい。それより収穫はあったんだろうな」
背後に雪を踏む音を聞きながら、ダイは部下の力強い頷きを確かめた。
ニアとアーシェがサーヤから話を聞いている間に、エトナリアは部屋の箪笥を漁っていた。
何かを引っ張り出しては、大きな紙袋に突っ込んでいる。
「何してんの?」
「ふぇ?!な、なにが?!」
レヴィアンスが背後から声をかけると、彼女は過剰な反応をした。
首を傾げつつ、もう一度問う。
「だから、何してんのさ」
「な、何しようと赤もさには関係ないでしょ!」
すっかりこの呼ばれ方にも慣れてしまった。やめさせようという気は、レヴィアンスにはすでにない。
だから彼が少し不機嫌になったのは、「関係ない」という言葉の所為だ。
「関係なくないよ。ボク、エトナから話聞くように言われてるんだから」
「お生憎様。あたしはこれから用事があるから、協力できないの。ごめんね」
紙袋を抱え、エトナリアは部屋を出て行く。
放っておく振りをしたが、ここで諦めるレヴィアンスではない。
こっそりエトナリアの後について、リータス家から出た。
エトナリアは何度も周りを確認するように見回し、進んでいく。
その視線からなんとか逃れながら、レヴィアンスはそれを追う。
エトナリアが辿り着いたのは、寮の一室。ポケットから鍵を取り出して、勝手に入っていく。
彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、レヴィアンスはその部屋のネームプレートを見た。
「あ、ここ…」
表示された名は、レックス・ナイト。あのレックスの部屋に、エトナリアは自由に出入りできるらしい。
ここは一階だったので、一度寮から出て、窓から部屋の様子を見ることができそうだった。
「…流石にそれはまずいかな」
そう思いつつも、気にならないはずがない。少しだけ、とレヴィアンスは外に回った。
レックスの部屋の窓にはカーテンが引いてあったが、その隙間から中の様子が少し見える。
紙袋から先ほど詰め込んでいたものを取り出すエトナリアが、視界に入った。
取り出されたものは女性物の衣類。サイズからして、サーヤのものだろう。
彼女はそれを広げて、誰かに見せていた。相手はレックスではない。
それは黒髪を短くした少女。グレイヴよりも年上だろうか。
男子寮に女性がいて、しかもエトナリアがこっそり会いに来ている。
もしやレックスが密かに恋人を連れ込んでいるのか。
エトナリアはそれを知っていて、しかも彼女と仲が良いらしい。
このことが管理人であるサーヤに知られたら、どうなってしまうのだろう。
「何か…見ちゃいけないもの見た気がするなぁ」
レヴィアンスはそっとその場を離れ、リータス家へ戻る。
その後もエトナリアは、部屋の少女と暫し時間を共にしていた。
中央司令部では、ゲティスとパロット、そしてドミナリオが科学部の施設を訪れていた。
ゲティスは昨夜、ダイからさらなる指示を受けている。ある危険薬物について調べることがその内容だ。
だが彼はその薬物の名称をなかなか覚えられず、仕方なくパロットとドミナリオが同伴していた。
「パロット、D…なんだっけ?」
「DD-PHY-01。ゲティス、覚えて」
「こんなに短いのに覚えられないんですか?」
パロットは困り、ドミナリオは完全に呆れている。上司としての面目が丸つぶれだが、ゲティスはめげずに資料を開く。
ついでに彼は資料を読むことも苦手だ。結局すぐに飽きて、パロットが代わりに目を通す。
「ドミノ、これ見て」
「はい。…この薬物が開発されたのは数年前、それからすぐに問題が見つかり危険指定されたみたいですね」
その薬物は身体機能を増強する効果を持ち、開発当初は画期的な薬として賞賛された。
しかしその副作用に大きく注目が集まった結果、危険薬物の指定を受けたのだという。
「効果が切れた後に、身体が酷く疲弊するそうです。それこそ身体が全くいうことをきかないほど。
それ故に依存性が高く、最後には身体機能が麻痺して死に至る…」
文章を読み進めるドミナリオの表情は、次第に険しくなっていく。
この薬が悪用されれば、多額の金が動き、多数の人々が犠牲になることは明らかだ。
「もう少し調べてみましょう。ホリィとオリビアには、医務室に行って話を聞いてもらいます」
「さすがドミノ。頼りになるな!」
「ゲティスさんはもう少し活字慣れしてくれないと困ります」
溜息をつくドミナリオとパロットに、ゲティスは苦笑して頭を掻いた。
ドミナリオから連絡を受けたホリィとオリビアは、すぐに医務室へと向かった。
すでに誰かが来ているのか、室内から談笑の声が漏れている。
「失礼しまーすっと」
それにも構わずにホリィがドアを開けると、そこには二人の人物がいた。
一人は医務室の主、軍医のクリス・エイゼル。
もう一人は医務室に薬品を届けにきたらしい、薬屋のカイ・シーケンス。
「や、ホリィとオリビア。ルーファは遠征行ってるんだってね」
カイはルーファの父親であり、息子と同じ班のメンバーには気軽に声をかけてくれる。
そしてクリスの方は通常運転のようだ。
「怪我もしていないのに来られると、仕事の邪魔なんですけれど」
「すみません、少し訊ねたいことがあるんです」
辛辣な言葉を受け止めつつ、オリビアはクリスに事情を話した。
彼は少し考えた後、カイに目配せする。貴方の方が分かるでしょう、という無言のメッセージを受け取り、カイは頷いた。
「DD-PHY-01は開発中の実験がいい加減だったとか、色々言われてたんだよな。
今でも副作用の治療を続けてる人がいるくらいだから、きついものだったのは確かだ」
「そんな…」
苦しんでいる人々がいるという事実に、オリビアは胸を痛める。
ホリィはクリスに向かい、真剣な表情で問う。
「どうにかならないんスか?!」
「治療ができるということは、治療法があるということです。
人によってかかる時間は異なりますが、治すことは可能です」
「そうそう、うちでも投薬治療に協力してるし。でも認知されていない患者は、まだいるんじゃないかな」
クリスの言葉を、カイが眉を寄せて続けた。
ゲティスたちが見つけた資料によると、この薬品が六年前にハイキャッシで取引されようとしていた。
その時に出回ってしまっていれば、その犠牲者は増えてしまっているはずだ。
「もし…ですけど。その薬の副作用に苦しんでいる人がいたら、その人はどこで治療を受ければ良いんですか?」
「首都総合病院か、危険薬物関連なら軍の管轄の病院でも治療はできます。
ですが設備や治療に使用する薬品のことを考えると、やはりレジーナの病院が望ましいですね」
あまり大勢いると受け入れられないこともありますが、とクリスは付け足す。
オリビアが頷いて、ホリィの腕を掴んだ。
「ドミノ君に報せて、すぐに大尉に連絡しましょう。万が一のことがあったら、早い方がいいわ」
DD-PHY-01について調べたら、その副作用が出た人間はどのように対処すれば良いか。
ダイがこのことを調べるように指示したのには、それなりの理由があるはずだ。
「そうだな。クリスさん、ルーファの父ちゃん、ありがとうございました!」
返事を待たずに部屋を飛び出していくホリィとオリビアの背を、クリスとカイが見つめる。
「助けられるといいですね」
「助けられなくても、助けろって言うんでしょう」
昔の自分達がそうだったように、彼らもきっとそう言うのだろう。