秋も深まり、風が時折ひやりと頬を撫でる。
それでも北国よりは随分ましだなと思いながら、ダイは生まれ故郷の地面を踏む。
確か迎えがくるはずだと、辺りを見回すと。
「ダイさん、お久しぶりです」
ダークブルーの髪を揺らし、少年が微笑んでいた。
「久しぶりだな、ニア」
「早速ですが、移動しましょうか」
ニアの指差す方には、車が一台停まっている。エルニーニャ王国軍の所有する車両だ。
帰ってきたんだなと、ダイは改めて実感した。
時間を遡り、ダイが乗った飛行機が空港に到着する十分ほど前。
エルニーニャ王国軍中央司令部に所属する、通称レガート班と呼ばれる面々は紙に名前を書いていた。
名前の下には縦に直線が引かれ、それぞれが横の直線で結ばれている。
つまり、それはあみだくじであった。
「全員名前書いた?」
レヴィアンスが確認する。もちろん自分でも確認しながら。
全員が頷くが、人によってその表情は様々だ。
「何でこんなこと……」
最も不満そうなのはドミナリオ。それをホリィがいつものごとく宥めている。
「仕方ないだろ、ユロウが行けなくなったっていうんだから」
「たとえ行けても運転手は必要って言ってたじゃないか、あの人。こんなことに僕らを使わないでほしいよ」
このくじで決められるのは、今日一時帰国するダイを迎えに行く人物。
当初はユロウがホリィに車を運転してもらって行くつもりだった。しかし、彼は学校の用事が入ったのだという。
事情を聞いたオリビアが、どうせなら運転手と付き添いをくじで決めようと提案したのが始まりだ。
「この方が絶対面白いわよ。それに、皆ダイさんに会いたいでしょう?」
僕は会いたくない、というドミナリオの呟きは完全に無視され、あみだくじは決行された。
ちなみに「どうせならグレイヴが行けば良いのに」とルーファが提案してみたのだが、グレイヴ本人によって却下された。
アーシェによると「女の子には女の子の都合があるのよ」ということらしい。そういうわりにはあみだくじに参加させていたが。
「んで、くじの結果は?」
「まず、付き添い、決める」
ゲティスとパロットがくじの書かれた紙を覗き込む。色とりどりの線が道をなぞり、最終的に「あたり」へ到着したものが一本。
ニアの名前からスタートした、濃い青色の線だった。
「ニアが付き添いだよ」
「あ、僕? いいよ、行ってくる」
適任といえば適任だ。彼はダイによく懐いている。ルーファが複雑な表情を浮かべているのは、誰もが見なかったことにした。
「じゃあ、次は運転手だけど」
これは付き添いとは別にくじを作ってある。運転免許を持っていることが大前提だからだ。
エルニーニャ王国軍では、十五歳になると自動車運転教習の受講が可能になる。任務時の移動に車を使用することが多いため、免許を取得するなら早いほうがいい。
レガート班ではパロット、ニア、レヴィアンス以外の全員が免許を取得済みだ。取得しても自分で運転しようとしない者も中にはいるが。
そんな事情を考慮しつつ、運転手も同様の方法で選出する。「あたり」に到達したのは、桃色の線だった。
「あ、私だね!」
ぱっと笑顔を咲かせたのは、アーシェだった。
対照的にニアの顔が青くなる。レヴィアンスの服を引っ張って「代わらない?」と呟くが、首を横に振られた。
「ニア、ファイト!」
「ルーまでそういうこと言う……」
はっきりいって、アーシェの運転は荒い。覚えたてだからとか下手だとか、そういうのではなく単に乱暴なのだ。
彼女自身は車の運転を楽しんでいる。ことあるごとに自分が運転しようかと提案してくる。周囲はその度に必死で止めるのだが。
「さ、行こう! ニア君!」
「アーシェちゃん、くれぐれも丁寧にね」
「わかってるよー」
全く信用できない「わかってるよー」を聞きながら、ニアは居残り組をちらりと見た。良い笑顔で手を振ってくれていた。
そんなやりとりがあったとは全く知らないダイは、司令部に到着する頃には完全に酔っていた。
養母の凶悪な運転も久しく味わっていないというのに、さらに強烈と謳われるアーシェのドライビングテクニックに耐えられるはずもなく。
「大丈夫ですか?」
「ニア、お前よく平気だな……」
「平気じゃないですけど、いくらか慣れましたから」
ニアがダイの背をさするのを心配そうに見ながら、アーシェは「飛行機から降りた後だと酔いやすいのかな」などと言っている。
これでも精一杯丁寧な運転を心がけていたつもりのようだ。
ニアに支えられながら、ダイはよろよろと中央司令部のゲートを通り、応接室へ向かった。
学校から直接司令部へ来たのか、ユロウは珍しく制服姿だった。
レジーナにある上級の高等学校の制服は、歴史的な事情で軍服とデザインがほぼ同じである。新鮮な弟の姿を、ダイはしげしげと眺めた。
「結構似合うもんだな」
「あんまり見ないでよ……。あれ、兄さん、ちょっと顔青くない?」
「色々あってな。それじゃ、そろそろ行くか」
ふらつきを隠しながら立ち上がり、ダイはこれからの予定をユロウと確認しながら応接室を出る。
今回エルニーニャを訪れた目的の一つは、実父の墓参りだった。
ダイがノーザリアにいる間に、実父は長く患っていた病によって逝去した。葬式にも出られなかったが、やっと墓前に行くことができる。
ユロウが医務室によってから行くというので、ダイは第三休憩室を覗いてみることにした。レガート班の面々がよく集まっている場所である。
案の定、仕事を一段落させたメンバーが茶を飲んでいた。尉官以下の男性陣、つまりはニア、ルーファ、レヴィアンスだ。
「あ、ダイさん久しぶりー」
「ユロウさんは? 医務室ですか?」
挨拶を返し、質問に答え、ダイもその輪に加わる。
前回訪れた時はノーザリア軍人という立場であった為、こんなに和やかな雰囲気にはならなかった。
しかし今回は客だ。元部下に気軽に接することができる。もっとも、現役時代に威圧しすぎた為に一部は萎縮しているが。
「ルーファ、客に茶も出せないのか?」
「今ニアが淹れてるじゃないですか……」
いや、現役時代に限らなかった。現在もダイはルーファ弄りを楽しんでいる。
ニアが淹れた茶を飲みながら、たわいもない話をした。アーシェの運転が酷いとか、レヴィアンスの送る手紙が愉快だとか。
「レヴィ、どんな手紙送ってたの? 見せてくれたことないよね」
「近況報告を、写真を添えてって感じかな」
「あれはなかなか良かったぞ。お前らがプールではしゃいでたっていう暢気な報告に、グレイヴの水着姿が添えてあった」
「ばれたら大惨事になるんじゃないか、それ……」
その手紙も、一時期は読まずに溜めていたのだが。あとで一気に読んで、一日和んでいたこともある。
今日エルニーニャでの平和な時間を、手紙や電話を通してではなく直接見ることができることが、ダイはとても嬉しかった。
嬉しいついでに恋人の顔も見て行きたかったのだが、どうやらそれは後になりそうだ。
「兄さん、行こう」
「あぁ。それじゃ、またな」
ユロウが迎えに来て、一旦その場を離れることを余儀なくされる。
まぁいい。時間はまだあるのだから。
実父が眠る墓地までは、列車に乗って行く。墓地のある地はかつて自分たち兄弟が生まれた土地であり、現在は実母が一人で暮らす場所であった。
現地で実母と合流し、実父の墓前でこれまでの報告と、ずっと来られなかったことへの謝罪をした。
「お父さんなら、きっと許してくれるわ。ダイが自分で決めた道を歩んでいるんだから」
母の言葉はありがたかった。もっと責められても仕方ないのにとも思っていたのだが。
「ユロウは、母さんと一緒に暮らさないのか?」
「僕はそうしたいんだけど」
「下宿の方が学校に近いでしょう。それに、レジーナに友達がたくさんいるのなら、一緒にいた方が良いわ」
父と離れたくないらしく、母はこの先もこの地に留まるという。
バラバラになっても、自分たちが家族であることには変わりない。ユロウがそう言うと、母は頷いた。
「ダイが戸籍上はディア君の子になっても、私がお腹を痛めて産んだことは事実だし」
「そうだな。……うん、そうだ」
ホワイトナイト籍からはずれ、ノーザリアへ生活の場を移し、家族については何度も考えた。
だから、母の言葉はダイの心に沁み込む。
――俺も、家族を作れるだろうか。
自分の生まれた家と、育った家。そして、これから作る家。
全てを守ることが、自分にできるだろうか。
その日の最終でレジーナに戻り、「育った家」に帰った。
養母は温かく迎えてくれ、養父はテーブルに酒瓶を並べていた。
「エルニーニャに来たからには、エルニーニャの酒を飲まねぇとな」
「一応ノーザリアから土産も持ってきたけど、父さんはいらないんだ?」
「土産なら遠慮なく受け取ってやるよ」
早速瓶を開ける父子を横目に、ユロウは母を手伝ってつまみを作る。
どうせ今夜は寝ないつもりだろうから、少し多めに、且つ内臓に負担のかからないものを。
「ユロウも飲む?」
「僕はまだ飲めないからやめとくよ」
母も当然のように飲むつもりらしいので、ユロウは部屋で本を読みながら待機することにした。
前回兄が帰ってきたときのことで、酒が進むと酷いことになるのはよく知っている。
母一人でも父と兄を止めることはできるだろうが、念のためだ。
「酔っても素面でも殴りあうって、どんな親子だよ……」
呆れたように呟きながらも、かつてのような賑やかさが戻ったことが嬉しい。
家族を感じられるのが、とても嬉しい。
夏にダイが戻ってきた時もそうだったが、ニアはダイの話ばかりする。
こうなるとルーファはモヤモヤしっぱなしだ。だが、夏と違って正直に言うことにした。
「ニアは俺よりダイさんの方が好きなのか?」
「またルーは妬いてるの?」
「こっちが訊いてるんだよ、質問に答えろ」
ルーファとしては色々と不安なのだ。なにしろこの二人、ほとんど進展がない。付き合い始めてから数年経つというのに。
進もうとすれば見計らったように邪魔が入る、ということもあるのだが。
それでやきもきしているのは、ニアもわかっている。わかっていて言う。
「ダイさんの話したら、ルーが妬いてくれるのわかってるからね」
「……お前な」
「あと昼間助けてくれなかったから、仕返し」
「アーシェの運転のことなら、誰も助けてやれないぞ」
ルーファはニアの少し意地悪い面を知っていて、それを含めてニアが好きだと言える。
ニアはそういうルーファが好きだ。
これほどまでに両思いで、今もニアが笑いながらルーファに抱きついたりしているのに、それ以上進まないのである。いつもならば。
「……ニアは、俺が好きなんだよな?」
「皆好きだよ」
「そういうのじゃなくて」
「わかってる」
ふわりと穏やかで、けれども成長するにしたがって少しずつ色気を帯びてきた――ようにルーファには見える――ニアの笑み。
今なら、その綺麗に形作られた唇に触れられるんじゃないか。
「ニア」
「……ん」
距離を縮めていく。あと少し。もう少し。
「お二人ぃ、遊びに来たよー!」
「またかよぉー!!」
今日もやはりいつものパターンだった。毎度いいところで邪魔しに来るのだ、レヴィアンスは。
ノックもなしに、元気に部屋に押し入ってくる。鍵を閉めてみても無駄なことは経験上わかっている。
ニアは何事もなかったようにレヴィアンスを迎え入れるし、レヴィアンスは全てお見通しだというようににやりと笑って見せるし。
そうしてルーファはまた悔しい思いをするのだ。
「何しに来たんだよ、レヴィ」
「だから遊びに来たんだってば。あと明日の食事会のこととか相談したくて」
「そうだね、確認しておこうか」
ダイが来ることがわかっていたので、ニアたちはみんな揃っての食事会を計画していた。
場所はここ、ニアとルーファの部屋。親たちが昔部屋に集まって宴会をしていたというのを聞いてから、自分たちもやってみたいと思っていた。
食事は買うなり作るなりして、各自持ち寄り。料理のできる人たちが腕を存分に振るってくれれば、卓が寂しくなることはないだろう。
「ダイさん、喜んでくれるかな」
「グレイヴの手料理さえあれば喜ぶんじゃないの?」
「それなら俺たちいらないんじゃ……」
「ううん、一緒に過ごすことに意味があるんだよ」
明日は休み。昼間からしっかり準備をしよう。楽しい会になるように。
一通りの流れを確認した後、レヴィアンスは席をたった。
「それじゃ、ボクはそろそろお暇するかな。お二人、あとはごゆっくり!」
単に邪魔したかっただけじゃないのかという疑いを残して、レヴィアンスは来た時と同じように元気よく帰っていった。
明日頑張ろうという流れになれば、当然この後は。
「ルー、そろそろ寝ようか。明日も忙しいしね」
「……そうだよな。そうなるよな」
こうして今日も何も進展しないまま、一日が終わるのであった。
翌日は朝から大忙しだった。
アーシェとオリビアは仕度を素早く済ませると、早速台所に立つ。
「さぁ、デザートを作るわよ!」
「はい!」
早めに作って冷やしておこうということで、まずは食後のデザートの用意をすることにしていた。
アーシェもオリビアも、菓子を作るのは得意なので問題はない。滞りなく作業が進み、そう時間をかけずに作り終えた。
そして一息ついたところで、タイミングよく電話が鳴る。事前に連絡が来ることはわかっていたので、アーシェはとんでいって受話器をとる。
「グレイヴちゃん、おはよう!」
「おはよう。そっちはどう?」
「バッチリ! グレイヴちゃんは?」
「一通りは準備できたわ。運びたいから、ゲティスさんとホリィさんに取り次いでくれない?」
「私が迎えに行くよ?」
「アーシェの迎えだけは勘弁して。アンタ昨日も相当酷い運転したでしょう」
仲の良いやりとりに、オリビアは使った道具を片付けながらくすくすと笑う。
片付いたら、次は冷めても問題ないおかずをいくつか用意する手筈になっている。
メインの大半はグレイヴとユロウが作ってくることになっているが、こちらも少しは作った方がいいだろう。
「アーシェちゃん、ここは私がやっておくから、運び屋さんの手配をお願いね」
「はい、いってきます!」
台所をオリビアに任せ、アーシェは部屋を出、男子寮に向かう。
部屋の位置関係から考えて、まずはゲティス、それからホリィの順に訪ねることにした。
ゲティスとパロットの部屋の前に立ち、扉を軽く叩く。
「ゲティスさーん、アーシェです」
呼びかけると、あまり間を置かずにゲティスが出てくる。すぐ後ろにはパロットもついてきていた。
「おはよう、アーシェちゃん」
「おはよ」
「おはようございます。早速ですけど、グレイヴちゃんが荷物を運んでほしいそうです」
「あぁ、今日のな。今行く」
ゲティスが上着を取りに部屋へ引っ込む前に、アーシェはホリィを呼びに行くことを伝えてその場を離れる。
少し急ぎ足でやってきたホリィとドミナリオの部屋は、なにやらどたばたと騒がしい。
「ホリィさーん」
さっきと同じように戸を叩くと、暫くの間があってドミナリオが出てきた。
「おはよう」
「おはようございます。えぇと、ホリィさんは……」
「寝坊したみたいだから僕が行く」
ホリィから聞いて、事情は把握しているらしい。
しかし普段運転はホリィに任せっぱなしのドミナリオが、どうして行く気になったのか。
アーシェの予想では、大方ドミナリオがわざとホリィを寝坊させ、自分がグレイヴのもとへ向かえるよう仕向けたのではないかといったところだ。
奥でホリィが申し訳なさそうに手を合わせているのが見えたので、多分間違ってはいない。そうでなかったら何が何でも仕度を済ませて、自分で動くはずだ。
「わかりました。じゃあお願いしますね」
先にゲティスが行っていることを告げると、ドミナリオは頷いて行ってしまった。
全ての準備が整った夕方、レガート班員にイリスと、グレイヴが連れてきたリヒトが加わった賑やかな部屋に、主賓はやってきた。
「や、今日はどうも」
「ごめんね、こんな状態で」
若干青い顔をして、弟に支えられながら。
「どうしたんですか?」
「昨夜父さんと飲みすぎて、今日は二日酔いで一日寝てたんだよ」
「馬鹿ね」
呆れるユロウとグレイヴに、ダイは少し弱々しい苦笑で応える。
「久しぶりに無茶した。でも大丈夫だから」
「無理しないで下さいね」
ニアが水を持ってきて、座ったダイの前に置く。
こうなるとは思っていなかったので、料理はたくさん用意してある。
運ぶのに車二台を要したグレイヴ手作りのメニューに、アーシェとオリビアがいくらか加え、テーブルは埋まっている。
余った時の処分を少し考え始めていると、パロットが何かの瓶をテーブルに置いた。
「これ、飲む。二日酔い、効く。薬草漬けた」
ゲティスがあまり酒に強くないので、パロットはいつもこれを用意している。
ついでにいうと彼は果実酒の類も持ってきている。年齢的に考えて、呑める人は三人ほどしかいないはずなのだが。
「相変わらず不思議なもの作ってるな……ありがたくもらうとするよ」
ダイが薬草水を注いでもらって、他の者も各々飲み物を用意する。
場が落ち着いたところで、レヴィアンスが乾杯の音頭をとった。
「それじゃ、ダイさんを歓迎してー!」
「かんぱーい!」
食事会は賑やかに始まった。
薬草水が早い段階で効いてくれたおかげで、ダイも食事にほとんど支障がなかった。
「ユロウ、これパロットに作り方聞いておけ。常備しておいた方が良い」
「そうだね……これだけ効くなら、父さんにも必要だよね」
パロットはゲティスと共に果実酒を飲んでいた。ダイが落ち着いたころ、これも味見するよう薦めてくれる。
未成年にはジュースもあるようで、大半はそちらを味わっていた。
「今日の、自信作」
「ホントだ、美味しいね!」
「部屋にまだあるから、好きなだけ飲んで良いぞ。オレたちだけじゃ処分しきれないし」
もちろん料理も絶品だ。グレイヴとユロウはあらかじめ申し合わせていたようで、品目が被ることはなかった。
似たようなものも味付けが違うので、それぞれで楽しめる。
「お兄ちゃん、これうちのと味違うね! 辛くないよ!」
「うん、それは普通辛くないものなんだよ。お母さんは辛くしちゃうけど……」
「ニアの家の食事って、味付けが基本的に辛いよな」
「ドミノ、豆以外も食べろよ」
「食べてるよ。子どもじゃないんだから」
「豆だけ食べるなんて器用ですね」
初めは目の前の食べ物や飲み物に話題が集中するが、段々と個人のことへシフトしていく。
「ダイさん、向こうで浮気とかしてません?」
「何でそういうことを訊くかな、オリビアは……」
「即答しないのが怪しいな。グレイヴちゃん、どうする?」
「アタシに訊かれても……」
「浮気してたら、たとえグレイヴちゃんが許しても私がシメます」
「アーシェ、実は俺のこと嫌いだろ」
「嫌いじゃないですよ、信頼してます。信用はしてませんけど」
「……」
女子にタジタジのダイを尻目に、宴会は続く。
どうして食事会を開こうということになったのか、その目的などとうに忘れ去られたようだ。
楽しければそれでいい。少なくとも、今は。
昨夜の余韻が残る、翌日の午後。
ダイはグレイヴに連れられて、病院にいた。
「具合、大丈夫?」
「平気。薬草水よく効くな」
ダイの具合が悪いから来たわけではない。グレイヴの用事だ。
入院中の彼女の母を見舞いに来たのだ。
「母さん、調子はどう?」
静かに病室の戸を開けると、ひらひらと手を振る女性がいた。
ダイが最後に会ったときよりも随分と痩せた、グレイヴの母スノーウィーだった。
「今日は随分すっきりしてるの。ダイ君が来るって聞いたらわくわくしちゃって」
「お久しぶりです。俺も会えるのを楽しみにしてました」
すっきりしているとは言ったが、スノーウィーは見るからに弱っていた。
グレイヴからは、ただ「母さんが会いたがっている」としか聞いていない。
「グレイヴ、ちょっと飲み物でも買ってきてよ。ゆっくりでいいから」
「あ、それなら俺が」
「ダメよ。ダイ君と話がしたいんだから」
「そういうこと。行って来るわ」
グレイヴが病室を後にし、ここにはダイとスノーウィーの二人だけになる。
少しの間、元気だったかとか、最近は何をしているのかとか、他愛もない話をする。
スノーウィーの口調はゆっくりで、ダイも自然とそれに合わせるようになっていた。
そんな穏やかな会話だったから、その言葉を危うく聞き逃しそうになる。
「私ね、長くないの」
ぽつりと、しかしはっきりと、彼女はそう言った。
「……それは、どういう……」
「多分、今回がダイ君と話せる最後になると思う。グレイヴも、旦那も、それは知ってる」
特に心臓が、その機能を少しずつ失ってきているらしい。
医者からは冬までもたないと言われているという。
科学技術は進んでいるが、そのほとんどは表に出ていないために、それらを利用することもできない。
軍関係者である彼女の夫と娘が最も悔しがったのは、その点だった。
医療に転用すれば多くの人を救えるかもしれないものが、軍事的な理由で使えないのだ。
「理不尽ですよね」
「そう思う? 私は仕方ないと思うけれど。あ、でも諦めてるわけじゃないの」
ただ、これまでが幸せだったから。それでいいと思うだけ。
彼女はそう言って微笑む。
「……生きたくないわけじゃない。もっと旦那と一緒にいたかったし、グレイヴの花嫁姿だって見たかった」
けれどもそれは叶わない。だから、彼女は託す。
「私の家族を、よろしくね」
家族を愛してほしい。それを伝えたくて、ダイを呼んだ。
「当たり前ですよ」
ダイはそれに応える。
「ちょっと障害もありますけど……必ず乗り越えて、グレイヴの花嫁姿を見せます」
「うん、楽しみにしてる」
病室での約束を、必ず果たそうと誓う。
夏にダイがエルニーニャを発つとき、グレイヴはユロウと共に見送りに行った。
しかし実際はユロウが車に残って、グレイヴだけが最後までついていった。
「ユロウと約束したんだ。秋にまた戻るって」
それまでにノーザリアでの問題を解決してくると、ダイはそう言った。
だがそう簡単に解決するものではない。一つのことに決着がついても、その後処理がある。
これから何ヶ月、何年という時間がかかる。
「正直、いつになるかはわからない。でも、先に言っておく」
「……何を?」
遠い未来のことになるかもしれない。果たせなくなることだって考えられる。
それでも彼は告げた。
「俺は、君と結婚するつもりだ」
「……うん」
その日が来るまで待っている。来なくても、ずっと想っている。
それがグレイヴの誓い。
今、こうして病室の外で、母とダイの会話を聞きながら、その気持ちをさらに確かなものにする。
母の、そして自分の望みが叶うよう、彼女自身も日々を精一杯生きようと思った。
ダイがエルニーニャにいる数日の間、レヴィアンスは仕事中を除いてカメラを手放さなかった。
手紙に写真を添付しているうちに、彼は写真自体が好きになっていた。
最終日である今日も、もちろん撮影を続けている。
「レヴィの写真、じいちゃんや大将にも評判良いんだ」
「ホント? 照れるなぁ」
ほんの思い付きから始まったことが、いつの間にか趣味に。
ダイがノーザリアに行くことがなければ、こうはならなかった。
「今日の夜には渡せると思うからさ、期待しててよ」
「あぁ。俺の嫁の写真多めで頼む」
「それはどうかなぁ……グレイヴ、写真苦手みたいだから」
笑いながら歩いて、エルニーニャの景色を撮る。
この数日の思い出が、形となって残るように。
シャッター音が途切れた頃、ダイはレヴィアンスに問う。
「写真家になるつもりなのか?」
「それはないかな」
レヴィアンスは即答する。
「ボクには、もうずっと心に決めてる夢があるから」
「大総統になること、か?」
「うん。親の七光でとかそういうのじゃなく、ボクの力で」
現状では難しい。現大総統は、次代に我が子を選ぶつもりはない。
だからこそ、彼は自分の力でその地位に就こうとしている。自分こそが応しいと認めさせようとしている。
「ダイさん、そのうち大将になるでしょ?」
「このままいけばそうなるかもな」
「すぐに追いついて、対等になってみせるから」
「……楽しみにしてるよ」
いつか、同じ高さで国について語り合えたら。それはレヴィアンスの目標であり、ダイの望む未来。
帰りの車は平和なものだった。来たときよりもずっと快適に空港へ到着する。
荷物は随分増えた。土産の他、レヴィアンスの撮った写真や、ニアの描いた絵など。
手には新しい手袋。グレイヴが編んでくれたものだ。以前に贈ったものは古くなっただろうと。
次に来る頃には、どんな変化があるだろう。それを楽しみにしながら、ダイは発つ。
冬の近付いた、冷えた空気が肌に痛い、秋の日のこと。
暖かな場所での数日間の話。